MIYAKEJIMA CHURCH

9月25日の礼拝案内

次週礼拝(9月25日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:コリントの信徒への手紙1 1:1~3

 交読文:詩編11編

 讃美歌:讃詠546番、19番、280番、294番、頌栄543番

【牧師予定】

◇9月19日(月)~25日(日) 夏休み

9月24日(土) 東京神学大学にて 「青年の集い」で証

9月25日(日) 藤盛勇紀牧師による説教(三宅島伝道所)

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

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9月18日

使徒言行禄12章

「主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである」(12:23)

旧約聖書の「コヘレトの言葉」の中に、有名な言葉があります。

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」

人間の知恵を超えた神の摂理・神のご計画を言い表した言葉です。

神が「時」を備え、人間の知らないところで全てを導かれていることがよく描かれているのが、創世記のヨセフ物語でしょう。

ヨセフは、12人の兄弟の中で、父親の愛情を一身に集めていました。そのことで、他の兄弟たちから疎まれ、ヨセフは最後には奴隷として売られてしまいます。売られた先でヨセフはエジプト王ファラオの夢の解き明かしをして、エジプトの宰相となりました。やがて、エジプトに飢饉が起こりますが、ヨセフに神から与えられた知恵によってエジプトは豊作の間に食料を貯蔵し、その飢饉を乗り切ることが出来ました。その飢饉の中で、ヨセフは、エジプトに食料を求めてやってきた兄弟たちと再会し、家族と和解して、共に生きるようになった、という話です。

ヨセフはその人生の中で、数多くの山と谷、喜びと苦しみを体験しましたが、最後にはエジプトの民が飢饉から救われ、自分の兄弟たちとも再会することができました。全ての山と谷・喜びと苦しみは、「神が備えられた時」へと向かう過程だったのです。

ヨセフは、自分を奴隷に売ろうとした兄弟たちにエジプトで再会した際、こう言いました。

「神が私をあなたたちより先におつかわしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」

「あなたがたは私に悪を企みましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」

私たちは聖書を読んでいて、「本当に神は働いていらっしゃるのだろうか」、と思える場面がいくつもあります。特に、神のために働いている預言者たちや、キリストの使徒たちが苦しむ姿を見ると、そう思うのではないでしょうか。

私たち自身も、神を信じているにも関わらず様々な苦難に直面する時、「神を信じているのになぜこんなに辛いことが起こるのだろうか、神を信じる意味とは何か」と考えてしまうでしょう。

しかし預言者やキリストの使徒たちは、直面する苦難にも関わらず、それでも神への信頼を捨てませんでした。そしてその信頼の先で何かを見せられたのです。「神は悪を善に変えて救いをもたらされた」というヨセフの言葉の意味を、私たちも日々の信仰生活の中で考えなければならないと思います。神が備えられた「時」ということについて、考えていきたいと思います。

今日私たちが読んだのは、イエス・キリストの使徒、ヤコブがヘロデによって殺されてしまった、という場面です。ヤコブを殺し、ペトロも殺そうとしてヘロデは、最後には神によって打たれ、死んでしまいます。

ヤコブは、元はガリラヤの漁師で、ヨハネの兄弟でした。ガリラヤで漁師をしていた時、イエス・キリストがそこを通り、「私に従いなさい」と召し出された人です。イエス・キリストの12弟子の中でも、主イエスと一番長く時を過ごした人です。

ここに出てくるヘロデは、イエス・キリストがお生まれになった時に殺そうとしたヘロデ大王の孫にあたる人で、ヘロデ・アグリッパという人でした。洗礼者ヨハネを殺したヘロデ・アンティパスの甥でもあります。暴君の血を引いていた人だ、と言っていいでしょう。

さて、ヘロデ・アグリッパは、なんのためにヤコブを殺したのでしょうか。ヤコブが殺されたのは、大飢饉が起こった時でした。食べ物が少なくなり、政治に対して、権力者に対して人々の不満が高まっていました。そういう時に、ヘロデはヤコブを殺し、そして次にペトロを見せしめにして殺そうとしていました。

ヘロデがキリストの使徒たちを殺そうとしたのは、人々の恨みをキリスト者に向けようとしたからでしょう。

「この飢饉は、キリスト者たちのおかしな信仰のせいだ。民衆に食べ物がいきわたらないのは自分のせいではない」ということを演出しようとしたのです。実際、ユダヤ人たちはヤコブが殺されたことを「喜んだ」、とあります。

先ほど、神は「時」を備えていらっしゃる、ということをお話ししました。それでは、ヤコブが殺された「時」とは何だったのでしょうか。ヤコブの命は、どのように神によって用いられたのでしょうkじゃ。

以前ヤコブは、自分の兄弟のヨハネと一緒に、イエス・キリストに「自分たちを特別扱いしてほしい」「他の10人よりも高い地位につけてください」と抜け駆けしたことがあります。

そのさい、キリストは「あなたがたは、何を望んでいるのか、自分で分かっていない」とおっしゃって、「私の杯を飲めるか」とお尋ねになりました。二人は何も考えずすぐに「飲めます」と答えました。

キリストがこの時おっしゃった「私の杯」とは「受難の杯」でした。主イエスは、弟子達全員に「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」とおっしゃいます。

キリストに従う、ということは、そういうことでした。この世の栄達に与ることではなく、神の救い御業のためにキリストのように痛みを負っていく、ということです。神の救いのために、身代金として自分の命を捧げたイエス・キリスト、そのキリストに倣う、ということです。

ヤコブは、イエス・キリストがおっしゃった「受難の杯」をここで受けました。ヤコブの命は、神によって天に収穫されたのです。

ヘロデは、ヤコブの死をユダヤ人たちが喜んだのを見て、次にペトロを捕えました。それは、除酵祭の時期でした。除酵祭・過越祭の時期は、裁判や処刑は行われません。祭りの時期が終わったら、ペトロを殺そうとヘロデは考えていました。ユダヤ人たちをもっと喜ばせて、飢饉の不満のはけ口にするつもりだったのでしょう。

ペトロが捕らえられたことで、「教会は彼のために熱心な祈り」を神に捧げました。ここで、聖霊の救いが与えられます。牢で眠っていたペトロを天使が起こして、そこから逃がしたのです。ペトロは、ただ天使の声に従って歩いて行きました。

ペトロにとっては「現実のものとは思えない」、幻を見ているような体験でした。全てが、ペトロの意志に関係なく、「ひとりでに」救いの道が拓かれていった、というのです。第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門もひとりでに開き、気が付いたら、主の天使によって、解放の道が拓かれていたのです。

私たちは使徒言行禄を通して、神の力がいつでも信仰者の祈りを通して働いてきたことを見てきました。実際の私たちの信仰生活でも、祈りを通して働く力、私たちの言葉では説明できない力を感じることがあると思います。そのことは、祈り続けている人であれば、知っているはずです。私達が今日読んだ場面のペトロほど劇的でなくても、「神は、あの時、ああいう仕方で私の祈りを聞いてくださった」ということが、信仰者それぞれにあるはずです。

教会には祈りがあります。祈りは、信仰者に与えられた一番の恵みです。神は、預言者を通して「私を求めよ。そして生きよ」とおっしゃいました。それは、神を信頼して祈って生きる、ということです。その先で、私たちはキリストのように、誰かを神の元へと招くために命を使うことが出来るのです。

ヤコブを殺し、ペトロも殺そうとした暴君ヘロデ・アグリッパはどうなったでしょうか。ヘロデは、ペトロを逃がしてしまった番兵を殺すよう命じました。そしてユダヤからカイサリアへと下って行きました。カイサリアの町の人たちに対して何かの不満があったようです。

カイサリアの人たちはヘロデから食料を受け取っていたので、ヘロデの機嫌を損ねるわけにはいきませんでした。ヘロデにへつらって彼を神のように扱いました。人々がヘロデを神のように崇めたとたん、主の天使はヘロデを打ち、ヘロデは死んでしまったのです。

このヘロデの死に方は、旧約聖書のダニエル書の内容とよく似ています。バビロンの王、ネブカドネツァルは大きな金の像を作り、それを拝むように人々に告げました。ネブカドネツァルは、王宮の屋上を散歩しながら、「なんとバビロンは偉大ではないか。これこそ、この私が都として建て、私の権力の偉大さ、私の威光の尊さを示すものだ」と言います。すると天から声が響いて、「ネブカドネツァル王よ、お前に告げる。王国はお前を離れた」と言われてしまうのです。

自分の権力、栄光に酔いしれ、自分がまるで神であるかのようにふるまったネブカドネツァルは、神からすべてを取り去られてしまうのです。

聖書は、私たちに、人間がいかに誘惑に弱いか、そして誘惑がどれほど恐ろしいものか、時代を超えて教えようとしています。人間が神になろうとすることほど魅力的で、同時に危険なことはありません。神になろうとする者は、破滅するのです。神に打たれるのです。

旧約聖書の箴言に「主を畏れることは知恵の初め。無知なものは知恵をも諭しをも侮る」という言葉があります。

ヘロデの死に方を通して、教えられることではないでしょうか。神を畏れる、ということこそが、初めに私たちが知らなければならないことだ、というのです。それこそ、聖書が創世記で一番初めに伝えていることです。

「これを食べると神のようになれる」と蛇から言われたアダムとエバは、「食べてはいけない」と言われていた実を食べてしまいました。そのことで楽園を失います。神を畏れる、ということを忘れ、自分が神のようになれる、と思い込んだ人間の末路を、創世記は一番初めに教訓として私たちに教えてくれています。

聖書を読みながら、キリストを信じるがゆえに殺されたヤコブやステファノを見ると、恐ろしく思います。しかし、一人一人の殉教者たちは、天の国を仰ぎ見ながら、その命を神によって収穫されました。キリストは、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」とおっしゃいました。

ヨセフ物語でヨセフが言ったように、神は、人が犯す悪を善に変えてくださり、御自分の招きの御業を進めていかれます。神は、この世でキリストのために働く者を、人の知恵を超えて、人の思いを超えて用いてくださるのです。信頼して、信仰の苦難の中にあっても、神の御業を待ち望みましょう。