MIYAKEJIMA CHURCH

12月4日の礼拝案内

次週礼拝(12月4日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 創世記19:1~11

 交読文:詩編14編

 讃美歌:讃詠546番、69番、96番、102番、頌栄540番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇12月3日(土) 10時より 役員会があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後 Continue reading

11月27日の説教要旨

創世記18:16~33

「主は言われた。『もしソドムの町に正しい者が50人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう』」(19:26)

アドベントに入ったので、しばらく旧約聖書を見ながら、イエス・キリストがお生まれになった意味を考えて行きたいと思います。

今日私達が読んだのは、創世記の、アブラハムと神との間に交わされた、ソドムの町の滅びに関しての駆け引きの場面です。アブラハムが99歳の時のことです。

少しこの出来事の文脈を踏まえておきます。

ある日、アブラハムが天幕の入り口に座っていた時、ふと目を上げてみると、三人の人が立っていました。アブラハムは「私のところに立ち寄ってください」と言って、この旅人たちをもてなしました。

3人の旅人たちの一人がアブラハム向かって言いました。「私は来年の今頃、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」すぐ後ろの天幕でそれを聞いたサラは、ひそかに笑いました。「そんなこと、あるはずがない」、と思ったのです。

旅人は、アブラハムに「なぜサラは笑ったのか。なぜ年を取った自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか」と言いました。どうやら、この旅人の言葉は、主なる神の言葉だったようです。

「なぜサラは笑ったのか」という言葉を聞いて、サラは恐ろしくなり、「私は笑いませんでした」と言いましたが、旅人は、「いや、あなたは確かに笑った」と断言しました。

年を取ったアブラハムとサラに子供が生まれると告げられたのは、これが最初ではありませんでした。

15章では、「私には子供がありません」と言うアブラハムに向かって、神が「あなたから生まれる者が後を継ぐ」とおっしゃって満天の星をお見せになり、「星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこうなる」とおっしゃっています。

17章17節でも「私はサラを祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう」とおっしゃっています。アブラハムはその時ひれ伏してその言葉を聞きましたが、サラと同じようにひそかに笑いました。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。90歳のサラに子供が産めるだろうか。」

神は、アブラハムとサラに繰り返し、「あなたがたに男の子が生まれる」とお告げになって来たのです。しかしそれを聞いてもアブラハムもサラも、ひそかに笑って信じてこなかったのです。

やがて、旅人たちが告げたように、アブラハムとサラの間に男の子が生まれることになりました。創世記21章まで読むと、そのことが書かれています。旅人たちは、「主に不可能なことがあろうか」と言ったとおり、神はご自分にできないことはない、ということをアブラハムを通して示されたのです。

男の子にはイサクという名前がつけられました。イサクとは、「笑い」という意味の名前です。

アブラハムとサラは、神の言葉を笑って来ました。「あざ笑ってきた」と言ってもいいのではないでしょうか。たとえ神がそうおっしゃったとしても、「年を取った自分たちに子供が生まれるはずはない」と、神の言葉を鼻で笑って来たのです。

しかしイサクの誕生は、二人の笑いを変えました。「そんなことはありえない」という不信仰の笑いが、「真に神がおっしゃったことは真実だった、神にできないことはない」という信仰の笑いへと変えられたのです。

神を信じず笑う者が、信仰の喜びに笑う者へと変えられていく様子が、この創世記には記録されています。

この一連のアブラハムとサラの物語を通して考えさせられるのではないでしょうか。私達の信仰の姿勢というのは、神の前に自分がどのような笑いをもっているか、ということなのではないでしょうか。

神を疑い、信仰をあざ笑う「不信仰の笑い」というものがあります。一方で、聖書の言葉が真理であることを知って、本当に聞くべき方の言葉・従うべき方を見出して喜びに満たされた「信仰の笑い」もあります。

私達は今、神の御前に、どのような笑いをもっているでしょうか。

このアブラハムとサラの夫婦の間に与えられた喜びの笑い共感できるのであれば、私達は、イエス・キリストがこの世にお生まれになった喜びに笑うことが出来るでしょう。

どうして我々はクリスマスの喜びを知るために、クリスマスの本当の意味を知るために旧約聖書を読むのでしょうか。実は聖書の初めにある創世記に、すでにキリストの誕生の喜びの原型ともいうべき出来事が描かれているからです。逆に言えば、旧約聖書を見なければ、クリスマスの本当の意味、本当の喜びを知ることはないのです。

キリストがお生まれになる何百年も前から、神は、全ての人を御自分のもとへと連れ戻すために導く大牧者・メシアの到来を預言して来られました。アブラハムに、「来年の今頃、サラは男の子を産むだろう」とおっしゃったように、「やがて、イスラエルの大牧者が生まれ、その者は全ての人の罪を背負うだろう」と告げて来られました。

そして今、キリストの誕生という信じがたいことが起こったのです。「信じられないと言ってあざ笑う人」が、イエス・キリストに出会う時、「神の言葉は真だった」、と信仰の笑いを知るようになります。クリスマスとは、そういう出来事なのです。

アドベントに入った今日、そのことを、改めてアブラハムと神とのやりとりの中に見て行きたいと思います。

さて、今日読んだのは、アブラハムとサラの間にまだイサクが生まれていない時、まだアブラハムが神の言葉を心から信じ切れていなかった時のことです。

アブラハムが3人の旅人をもてなし、これからその三人の見送ろうとした時のことでした。

聖書は、この三人の旅人が一体何者なのか、はっきりとは書いていません。22節には、二人の旅人がソドムに向かって行ったが、一人が後に残ってアブラハムと話をした、その一人が、主なる神であった、ということを書いています。

はっきりした書き方ではありませんが、三人のうちの一人が神であった、という書き方です。その旅人は「私は神だ」とは言っていませんが、アブラハムはこの方は主なる神であるとうっすら分かっていたようです。

神はアブラハムの元を去るに当たり、思いを巡らしていらっしゃいます。「私が行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。」アブラハムに何も言わずにソドムに向かうか、それとも、これからどこに行って何をしようとしているのかを伝えるか、神はここまで迷ってこられたようだ。

神は御自分の計画をアブラハムにお話になった。

「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。私は降って行き、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」

神はアブラハムに、御自分がこれからソドムの町がどんな様子なのかを見に行く、とおっしゃいました。ソドムで実際に何をするか、ということははっきりおっしゃっていない。しかし、アブラハムには神がそこで罪に対して滅びの業を行われるだろう、いうことが分かりました。

ソドムの町にはアブラハムの甥のロトとその家族が住んでいるのです。アブラハムは驚いたでしょう。

神は、ご自分の旅の目的をアブラハムに告げると当然心配する、ということがわかっていらっしゃいました。だから、アブラハムにご自分の計画を告げるべきかどうか迷われたのです。しかし、アブラハムはご自分の裁きの計画を知るべきだ、と判断されました。

その理由が、17節で言われています。神がこの世にお与えになろうとする祝福は、アブラハムを通して与えられる、アブラハムは自分の息子、子孫に神の正義を伝え、主の道を守らせることになります。神がおっしゃる「主の道」は、神の裁き・滅びとと無縁の道ではありません。むしろ、神の裁きへの恐れを知って歩むべき道なのです。 Continue reading

11月20日の説教要旨

使徒言行禄15:30~16:5

「パウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた」(15:38)

「異邦人キリスト者も割礼を受けなければ、神に受け入れられないのか」ということが、アンティオキア教会とエルサレム教会との間で議論になり、エルサレムで会議が開かれました。

この会議を通して、異邦人キリスト者は割礼を強要されることはない、一番大切なのは、イエス・キリストを信じる信仰である、ということがはっきりしました。

エルサレム教会の決定を聞いたアンティオキア教会の異邦人キリスト者たちは、皆喜びました。アンティオキア教会にまた平穏が戻ってきました。

その騒動があってから数日して、パウロがバルナバに言いました。

「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えた全ての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか」

パウロは、バルナバと一緒に福音を告げてできた教会の人たちのことが気になっていたのです。バルナバも同じ思いだったので、一緒に旅に出ようとしました。しかし、ここで事件が起こります。

バルナバは「マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたい」とパウロに言いました。しかし、パウロはこれに反対しました。前回の福音宣教の旅で、マルコだけが途中で帰ってしまったからです。

マルコが途中で帰ったのは、やむを得ない事情ではなかったようです。宣教の途中で病気になってしまったとか、後に残してきた家族に何か問題が起こったとか、そういうことではなく、マルコは途中で気持ちが折れてしまったのでしょう。

パウロは、「福音宣教を途中で投げ出したような者をまた連れて行くべきでない」と言って反対しました。しかしそれでも、バルナバはマルコを連れて行くことを主張しました。バルナバは、まだマルコに期待していたのです。マルコがバルナバのいとこだった、ということもあるかもしれません。

とにかく、パウロとバルナバの間で意見が激しく衝突し、ついに二人は別行動をとるようになってしまいました。

使徒言行禄は、エルサレム教会とアンティオキア教会の間に起こった論争や、パウロとバルナバというキリストの使徒同士に起こった衝突をそのまま記録しています。教会は、穏やかに成長していったのではありませんでした。教会の中にはユダヤ人もいれば異邦人もいました。使徒たちの中にも、いろんな考え方がありました。当然衝突が起こります。異なった慣習、異なった意見が、教会の中にはたくさんあったのです。

しかし、そのような数々の衝突を超えて教会は成長していきました。使徒言行禄が描いているのは、そのことなのです。

復活のイエス・キリストを実際に見た人たちに聖霊が注がれ、教会が生まれました。しかし、教会が初めから静かに一致して何の問題もなく歩んで行ったか、というとそうではありませんでした。福音が広まるにしたがっていろんな問題が、衝突が、論争が起きました。しかし、それらを超えて神のご計画は進んで行く様子が記録されているのです。

決別したバルナバとパウロは、それぞれが別の人を連れて宣教に出かけることになりました。バルナバはマルコと一緒に宣教することになり、パウロはシラスという人と一緒に宣教することになりました。

使徒言行禄はこれからパウロに焦点を当てて、福音が広がっていく様子を描いていくことになります。もうバルナバもマルコも、この使徒言行禄には出てきません。

我々は少し、このことについて考えたいと思います。使徒言行禄がバルナバとマルコのことをもうこの後描かなくなったのは、二人の宣教がこの後失敗したからなのでしょうか。

そうではありません。

パウロから「宣教者としてふさわしくない」と言われてしまったマルコはその後どうなったのでしょうか。そのことが新約聖書の中に垣間見えるところがあります。後に、ペトロが書いた手紙の中にマルコの名前が出てくるのです。トロの手紙の最後、結びの文で、「マルコがよろしくと言っています」と一言書かれています。どうやらマルコは、後にペトロと一緒にキリストの福音宣教のために働くようになったようです。

マルコはパウロの一回目の福音宣教の旅の途中で心が折れて、途中で帰ってしまいました。そのことでパウロから「マルコは福音宣教に一緒に連れて行くべきではない」と判断されてしまいます。しかし、「マルコは信仰の失格者だった、落ちこぼれの使徒だった」、と言い切ってもいいのでしょうか。

少なくともバルナバはそうは思いませんでした。そしてマルコは、やがてペトロのそばに身を置いて、キリストのために働くことになったのです。

私たちは思い出したいと思います。リストの弟子達は皆、信仰の失格者、落ちこぼれの弟子でした。キリストの弟子は、キリストが逮捕された夜、全員がキリストを見捨てたのです。12人は誰一人「キリストの弟子」と呼ばれるのにふさわしくない人たちでした。その内の一人はキリストを裏切りました。また、他の一人は「私はナザレのイエスなど知らない」と三度繰り返しました。

しかし、キリストは彼らの弱さを全て前もってご存じで、それにも関わらず彼らをご自分の弟子とされたのです。キリストは「今日、あなたがたは私を捨てて逃げてしまう。しかし、復活した後、私はあなたを迎える。ガリラヤで会おう」と弟子達に前もっておっしゃいました。そしてイエス・キリストに従い切れなかった弟子達は、復活の主に、もう一度迎え入れられることになったのです。

マルコのことを「宣教者として相応しくない」と言ったパウロだって、もとは教会を迫害した人でした。パウロは自分の手紙の中で書いています。

「私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さなものであり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日の私があるのです」

マルコは、バルナバとパウロの宣教の旅に最後までついて行けなかったことを、負い目として感じていたのではでしょうか。信仰者として劣等感を感じていたのではないでしょうか。

しかしそれは、皆同じではないでしょうか。

神は、イエス・キリストに相応しいとは思えないような人をお選びになり、弱いまま用いられます。そう考えると、我々は、自分の信仰の姿勢を顧みて、「自分はキリストに相応しい人間かどうか」などと考える必要はない、ということがわかるのではないでしょうか。私達はただ、神はこのような私を愛してくださっている、ということを知り、感謝すればいいだけなのです。

さて、使徒言行禄は、意見が衝突したパウロとバルナバが、それぞれシラスとマルコを連れて二人一組になって宣教に出発したということを書いている。パウロもバルナバも、一人で行ったのではありませんでした。

キリストの使徒たちは、二人一組で福音宣教へと出かけて行ったのです。なぜでしょうか。イエス・キリストが弟子達を派遣なさる時に、そのようにされたからでしょう。

主イエスは弟子達を二人一組にして遣わされました。それぞれが、助け合い、励ましあって宣教を続けることが出来るように、という配慮ではないでしょうか。

イエス・キリストは、弟子達におっしゃっています。「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」

使徒たちがなぜ二人一組で福音宣教に出かけたのか・・・それはイエス・キリストの名の下に集う「共同体」として送りだされた、ということではないでしょうか。「個人」が派遣されたのではなく「共同体」が派遣されたのです。「二人で」キリストのお名前を伝える、そこにはイエス・キリストが共にいらっしゃる、ということでしょう。

私たちはなぜイエス・キリストの名のもとに集まり、教会という共同体の中で「共に」礼拝するのでしょうか。なぜ個々人で好き勝手に聖書を読んで、一人で好きなように神を礼拝する、ということをしないのでしょうか。キリストが私たちをそのようにお集めになり、そのようにこの世に遣わしていらっしゃるからでしょう。キリストはこの共同体と共に働かれた、だから福音は広まったのです。

このことは、私たちのように小さな群れであればこそ感じることではないでしょうか。イエス・キリストはおっしゃいました。

「あなた方の父は、あなた方に必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国を下さる」

主イエスは「小さな群れよ、恐れるな」とおっしゃいました。小さな群れは、確かに恐れてしまいます。不安になります。「これだけの人数で大丈夫なのだろうか。本当にキリストから託された福音を伝えていくことが出来るのだろうか」と考えてしまいます。

だからこそキリストは言ってくださいます。

「小さな群れよ、恐れるな」 Continue reading