MIYAKEJIMA CHURCH

11月19日の礼拝案内

次週 礼拝(11月19日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書1:35~42

 交読文:詩編18:8~16

讃美歌:讃詠546番69番、164番、376番、頌栄543番

【報告等】

◇11月26日(日)の礼拝は、西千葉教会と講壇交換になります。(真壁巌牧師)礼拝後に愛餐会があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

◇11月21日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道懇談会

◇11月26日(日) 西千葉教会で説教

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:Continue reading

11月12日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:24~34

「この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水でバプテスマを授けに来た」(1:31)

福音書は、イエス・キリストを証言した言葉です。このヨハネ福音書は、主イエスが公に活動を始められたところからでもなく、この世にお生まれになったところからでもなく、世界の初めにまで遡ってこの方が何者でいらっしゃるのか、というところから書き始めています。

イエス・キリストが、この世界をお創りになった神であり、この世に人間として来てくださった光であり、そしてヨハネという人が、この光を指し示すために神から遣わされた人であるということを冒頭で書いています。

先週私達は、荒野で人々に悔い改めの洗礼を授けていたヨハネの下に、「あなたは一体誰なのですか」と尋ねに来た人たちがやって来たところを読みました。エルサレムのユダヤ人指導者たちから遣わされた祭司やレビ人たちでした。

洗礼者ヨハネは自分に何者かを尋ねて来た人たちに、「私はメシアではない。終わりの日に遣わされると伝えられているエリヤでもない。モーセのような預言者でもない」と言いました。「自分が何者でないか」、ということを告げたのです。

そして自分は「荒れ野で叫ぶ声である。私の自分の後からいらっしゃる方の前触れに過ぎない」、と言いました。ヨハネは、人々の目を自分ではなくこれからいらっしゃる方、これから現れる光に向けさせようとしたのです。「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」と、福音書の冒頭で言われている通りです。

ヨハネに質問した人たちがエルサレムに戻った次の日、ついにイエスという方が公の場に姿を現されました。私たちは、このイエスという方が万物をお創りになった神であり、人となってこの世に生まれヨハネの下にいらっしゃった方である、ということを踏まえなければ、これから描かれていくイエス・キリストの公生涯の意味を知ることはできません。

イエス・キリストが洗礼者ヨハネの下に来て、洗礼をお受けになりました。なぜ、キリストは公の活動の初めにご自身が洗礼をお受けにならなければならなかったのでしょうか。考えて行きましょう。

よく見ると、ヨハネ福音書では他の福音書とは違って、「主イエスがヨハネから洗礼をお受けになった」、という直接の記述はありません。洗礼者ヨハネが、「霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」と言っているだけです。

「主イエスに洗礼を授けたヨハネ」ではなく、あくまでも「主イエスの証人・証言者ヨハネ」としての姿の方に焦点を置いた描き方をしています。

ヨハネは、「私の後から来られる方は、私より優れている。私よりも先におられたからである」と荒れ野で叫び続けて来ました。「その人は私の後から来られる方で、私はその履物のひもを解く資格もない」。主人の履物のひもを解く、というのは、当時の奴隷の仕事でした。自分などキリストの前では奴隷以下の小さなものでしかない、という表現です。

エルサレムから来た祭司やレビ人たちは、荒れ野で人々に洗礼を授けるヨハネを、何か偉大な力を持つ人だと考えていたようです。しかし、ヨハネは自分の偉大さを否定しました。「自分はその方の到来を前もって告げているだけだ。自分には偉大さなどなく、自分の後から来られる方が偉大なのだ」、と。「私ではなく、私の後から来る方を見なさい」、と叫び続けたのです。

その洗礼者ヨハネよりも偉大な方であるはずの主イエスが、洗礼者ヨハネの下に来て、ヨハネから洗礼をお受けになりました。洗礼を授ける者よりも偉大な方が、あえて低くなり、洗礼をお受けになったのです。

マタイ福音書では、その時のヨハネとキリストのやりとりが記されています。

「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところへ来られたのですか。」恐縮するヨハネに主イエスはおっしゃいました。「今は止めないでほしい。正しいことを全て行うのは、我々に相応しいことです」マタイ3:14

なぜ神の子が、罪びとと同じように洗礼をお受けになったのでしょうか。

ヘブライ人への手紙の中にこのような言葉がある。

「イエスは、神のみ前において憐み深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、全ての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがお出来になるのです」ヘブ2:17

キリストが私達と同じように洗礼をお受けになったということは、神が私たちと全ての点で同じようになってくださった、ということなのです。神が、人と同じ場所に同じ痛みをもって生きてくださった、ということなのです。

「神に人間の痛みがわかるのか。今自分がこんなに苦しんでいるのに神は高みにいて、傍観しているだけではないか」・・・我々は、何かあるとすぐに神の憐みを疑います。しかしキリストはご自身が洗礼を受ける所から、私たちの痛みを共にしてくださっているのです。

洗礼者ヨハネは、自分の方に来られる主イエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と言いました。この「子羊」というのは「生贄」のことです。自分に与えられる裁きを自分の代わりに子羊に受けてもらうために差し出される命、それがキリストでした。

昔、イスラエルが奴隷とされていたエジプトから出て行く時、神はイスラエルを苦しめたエジプトに裁きをくだされました。その裁きの中で巻き添えにならないように、イスラエルは子羊の血を自分の家の鴨居に塗りました。神の裁きはその子羊の血を目印にして、イスラエルの家を過ぎ越していきました。これが、今でも語り継がれている「過ぎ越し」の起源です。 出エジ12章

そして今、ヨハネは主イエスを見て「世の罪を取り除く神の子羊だ」と断言しました。「新しい過ぎ越し・救いが起ころうとしている。あの方はそのための生贄だ」と言っているのです。この世の罪を全て背負って、自らが生贄として捧げられる方をヨハネは人々に示したのです。

預言者イザヤが言葉を残しています。

「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された」イザ53章

屠り場に引かれる子羊ように口を閉ざし、自分を人々の罪を担う生贄として差し出す神の僕の到来をイザヤは預言しています。そして今、ヨハネはイザヤの預言で言われていた方の姿を示しました。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」

ヨハネはこの一言で、イエスという方が何者であるか、ということだけでなく、どのような最期を遂げられるのか、ということまで言い表しています。

「この方は、他の大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日生贄をささげる必要はありません。というのは、この生贄はただ一度、ご自身をささげることによって、成し遂げられたからです。」ヘブ7:27

祭司は、神と人間の間に立って仲介する役割を担っています。祭司は生贄をささげて、神と人を執成すのです。イエス・キリストは大祭司でありながら、同時に、ご自身を生贄として捧げるために世に来られたことを聖書は言います。自分をいけにえとして捧げる大祭司、それがイエス・キリストなのです。

洗礼をお受けになった主イエスに聖霊が降り留まるのをヨハネは見ました。そして「水で洗礼を授ける自分とは違い、この方は聖霊で洗礼を授ける方だ」、と言いました。

私たちは、自分が受けた洗礼を思い返したいと思います。肉の目には見えなくても、私たちには聖霊が与えられました。それは、この時キリストに降り、キリストに留まった聖霊です。

霊というのは、「息・息吹・風」という意味の言葉です。私たちには神の息が吹き入れられた。聖い風が私たちを導いています。私たちの目には、それは見えません。しかし、見ていなくても私たちは聖霊を信頼します。それが、キリストの下から吹いてくる風だからです。

キリストはユダヤ人のファリサイ派の議員ニコデモにこうおっしゃっています。

「『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに驚いてはいけない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである」

風が目に見えないように、霊もまた目には見えません。しかし、その霊が、私たちをキリストにとって、また私たちにとって必要なところへと導くのです。

神は息を吹き込んで土を生きる人間とされました。私たちに吹き込まれている命の息はイエス・キリストの息です。私たちは今、自分の命でありながら、同時にイエス・キリストの命を生きています。

使徒パウロは手紙の中でこう書いています。 Continue reading