MIYAKEJIMA CHURCH

12月31日の礼拝案内

 次週 礼拝(12月31日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:創世記:3:14~24

 交読文:詩編18:17~25

讃美歌:讃詠546番118番、111番、114番、頌栄544番

【報告等】

◇12月24日(日)19時からイブ礼拝があります。どうぞお越しください。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

12月24にちの礼拝説教

マタイ福音書1:18~24

「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」

およそ2000年前に、ベツレヘムでイエスという名前の男の子が生まれました。このことが、世界を一変させました。紀元前・紀元後、という風に歴史が二つに分けられる程、イエス・キリスの誕生は世界にとって特別な意味を持つものでした。

この方がお生まれになったことの意味、そしてこの方が十字架で死なれたことの意味を、1世紀のキリスト者たちは信仰の証言集として福音書にまとめあげ、後世に伝えました。

このイエスという方は、「永遠なる神の子」であり、「初めから神と共にいらっしゃった方」であり、「この方を通して万物が造られた方」だったと、ヨハネ福音書は冒頭で証言しています。

マタイ福音書とルカ福音書では、この方のことを神でありながら聖霊を通してマリアという女性の胎に宿り、ヨセフの家の下にお生まれになったということを証言しています。

天使はヨセフとマリアそれぞれにキリスト誕生の告知をしました。マタイ福音書には、ヨセフへの告知が、ルカ福音書にはマリアへの告知が書かれています。クリスマスにお話しされるヨセフやマリアの物語は、神秘的であり、胸が温かくなるような出来事として語られることが多いのではないでしょうか。しかし、聖書に証言されている天使のお告げは、ヨセフとマリアにとって非常に厳しい信仰の試練でした。

ヨセフにキリストの誕生が告げられたのは、自分のいいなずけのマリアが身ごもっていることを知った後でした。ヨセフはマリアが自分に対して不誠実なことをした、と結論付けました。当然でしょう。ヨセフに身に覚えがないとすれば、マリアがヨセフ以外の誰かと関係したとして考えられません。ヨセフはどれほど傷つき失望したでしょうか。ユダヤの慣習では、婚約は法的に結婚と同等にみなされていました。二人はもう既に周りの人たちから夫婦として見られていたのです。

ヨセフはマリアも同じように痛い目に合うべきだ、とか仕返しをしてやろうという気にはなりませんでした。早く離縁すれば、マリアは独身に戻った後に、誰かの子を身ごもったように見えます。少なくとも、「婚約者を裏切った」汚名を着ることはありません。ヨセフはマリアと縁を切る決心をしました。少しでもマリアの汚名を少なくするよう、守ろうとしたのです。

天使がヨセフにマリアの子は聖霊によって宿ったことを告げたのは、まさにその決心の後でした。天使がはじめから「これからマリアは聖霊によって男の子を身ごもることになるから、心配しないように」と告げたのであれば、ヨセフがこれほど苦しむことはなかったでしょう。

しかしこれが神がヨセフのためにお選びになった時だった。まるでマリアが身ごもっていることを知ったヨセフがどのような決断を下すのかを神はご覧になっていたようです。天使は、マリアに対するヨセフの思いを見定めた上で、改めてこのことが神の御業によるものであることを告げました。

神がお選びになる「時」は、いつでも人間にとっては唐突です。「神の声が聴きたい、御心が今知りたい」、と願う時にすぐに答えが与えられるわけではありません。じっと耐えるしかない時を過ごさなければならないこともあります。そのような中で私達がどんな姿勢でいるのか、神から見られている時があります。

神は我々人間が自分で予期していない時に思いもよらない道を不思議な仕方で示されます。神の御業が現れる時、いつでも人は戸惑います。「なぜ今なのか、なぜそのような仕方なのか。私はそんなことを予想もしていなかった」・・・そのように、神の御心を求めていながらも、人は神から道を示された時、戸惑うのです。

神はいつも私たちをご覧になっている、ということでしょう。その上で、私たちに本当に良いものと良い時を選ぼうとなさっているのです。神がどのような道を示してくださるのか、それをいつ示してくださるのか・・・その神の決断をどう受け入れるか、というところに私たちの信仰が現れます。

ヨセフとマリアの夫婦は、それぞれが天使の言葉を聞きました。一緒に聞いたのではありません。別の場所で、全く別の時にそれぞれ聞きました。

ルカ福音書ではマリアは、天使のお告げを聞いた時、「御心がこの身に成りますように」と言ったと書かれています。マタイ福音書では、マリアのことで苦しんだヨセフでしたが、天使の言葉を夢で聞き、眠りから覚めると「妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった」と書かれています。

ヨセフもマリアも、お互いへの信頼を損ねることなく、神への信頼をもって自分たちの結婚に進んだのです。キリストの受胎告知は、この夫婦二人にとって試練でした。これから、世間からどのような目で見られることになるのかを知った上で、二人は神に託された幼子を守り育てる道を選び取りました。

キリストの誕生は、その歴史の中で大きな喜びの出来事として私たちは祝っています。その喜びの出来事の元には、ヨセフとマリアという年若い夫婦の大きな信仰の決断があったことを覚えたいと思います。

2人は結婚する前に身ごもっていることが分かり、それでも結婚しました。その後、家畜小屋の中で出産し、ユダヤの王ヘロデに命を狙われることになります。幼子を守るために過酷な旅を続け、エジプトまで逃げることになりました。危険が迫り、不安の中歩き続けなくてはならなかった、それでもこの夫婦は幼子を守るために神の言葉に従い続けることになります。

天使はヨセフに、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と告げました。「イエス」は、ユダヤ人の間ではごく普通の名前です。「主は救い」、という意味の名前です。

「主は救い」、という意味のイエスという名前が、この方が誰であるか、何をするためにお生まれになったのかが示しています。

ユダヤ人は当時多くの人が、救い主を求めていました。彼らはローマの支配から解放してくれる救い主を待っていました。ダビデやソロモンが打ち立てた強い時代のイスラエル王国を復興してくれる強いリーダーを求めていました。自分たちが生きている間安全と豊かさをもたらしてくれる救い主を求めていたのです。

ヨハネ6章にこういう出来事が記録されています。

キリストが5つのパンと二匹の魚を5000人の人たちに分け与えていき、人々は満腹しました。すると人々は「まさにこの人こそ、世に来られる預言者だ」と言って、主イエスを王にするために連れて行こうとします。主イエスは人々が自分を担ぎ上げようとしていることを知って、一人で山に退かれました。

それでも人々が主イエスを探しにやってきた時、主はこうおっしゃいました。「あなたがたが私を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」

人々がメシアに求めていた救いと、実際にメシアがお与えになろうとしていた救いは、違っていのです。天使がヨセフに告げたのは、「その子は自分の民を罪からの救い出す」メシアでした。

ダビデやソロモンのように、剣をもって軍隊を率いてイスラエルに昔の栄光をもたらす救い主ではありませんでした。自分のおなかをいっぱいにしてくれて、自分たちに豊かさと、ローマ帝国の支配からの解放をもたらしてくれる救い主ではなかったのです。イエス・キリストは罪からの解放をもたらす救い主、つまり神を見失った民を神の元へと連れ戻してくれる羊飼いとしての救い主でした。

「インマヌエル」という言葉を天使は告げています。これは、紀元前8世紀、預言者イザヤが告げた言葉です。。

「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」イザ7:14

BC8世紀、イザヤはユダ王国の王アハズにこの言葉を告げました。その時、アハズ王は恐れおののいていました。北イスラエルと、シリアが同盟を組んで自分の国に攻めて来ることを知って、「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」と書かれています。

そこで、イザヤは神からアハズの下に遣わされ、伝えました。

「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない・・・心を弱くしてはならない」

預言者は王に向かって、「静かに神に頼りなさい」、と、神が敵から守ってくださることを告げたのです。しかし、王は聞きませんでした。アハズは信じなかったのです。「神に頼るだけで国を守れるのか」と考えたのです。

神を頼ろうとしない王に向かって、イザヤは告げました。

「見よ、乙女が身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」

インマヌエル、「神我らと共にあり」という名で呼ばれる方の誕生をイザヤは預言しました。

「神が共に居てくださる」ということを信じられないことほど、辛いことはありません。一国の王となって民の頂点に立ったとしてもインマヌエルを信じられなければ不幸なのです。

「神が我々と共にいてくださる」ということを教えてくれる救い主の誕生が預言されました。人にとって、「神が共にいてくださる」ということが救いなのです。強い人や強い国に頼ることではありません。 Continue reading

12月24日の礼拝案内

 次週 礼拝(12月24日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マタイ福音書1:18~24

 交読文:詩編18:17~25

讃美歌:讃詠546番102番、108番、112番、頌栄544番

【報告等】

◇12月24日(日)はクリスマス礼拝です。聖餐式があります。礼拝後に愛餐会があります。ご予定ください。

◇12月24日(日)19時からイブ礼拝があります。どうぞお越しください。

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

12月17日の礼拝説教

創世記3:1~13

「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り・・・」(3:7)

エデンの園で土に仕え土を守る生き方を与えられた夫婦は、蛇の誘惑に負けてしまいました。神から「食べると死んでしまう。食べてはならない」と命じられていた木の実を、二人はあっけなく食べてしまったのです。

夫婦で相談することなく、神の言葉を思い出して互いに戒めあうことなく、二人は順番に実を食べました。本当はこのような時にこそ、神の言葉のうちに留まるよう夫婦で励ましあうことが求められていたはずなのに、です。

この場面を読むと、誰もが「なぜ二人はこんなにも簡単に誘惑に負けてしまったのか」と思うのではないでしょうか。私たちは、ここに人間のもろさを見ます。

イエス・キリストは十字架に上げられる直前、弟子達に「あなたたちは私を見捨てるだろう」とおっしゃいました。弟子達は言い返します。「あなたを見捨てることなど決してありません」。

しかし主イエスがゲツセマネの園で、「心は燃えていても、肉体は弱い」とおっしゃった通り、「死ぬことになってもあなたを知らないなどと言いません」と言った弟子達は、わずか数時間の内にキリストを見捨てて散り散りに逃げて去りました。

人が心の中でどんなに強く「自分は神の言葉から離れない」と思っていたとしても、誘惑の言葉を聞いて崩れるのは一瞬なのです。だからこそ創世記はこの夫婦の罪の姿を通して私たちに警告しているのです。

「自分は大丈夫だ、自分だけは大丈夫だ」と思っている人ほど、実は脆かったりします。自分の弱さを知り、自分の弱さを恐れている人の方が、慎重に神の言葉を吟味するのではないでしょうか。

私たちは今日、木の実を食べた夫婦と同じ弱さ・キリストを見捨てた弟子達と同じ弱さを持つ者として、聖書の言葉に向き合いたいと思います。

2:17で神は人におっしゃいました。

「あなたは園のどの木からも実を取って食べてよいが、善悪を知る木、これから実を取って食べてはならない。これから取って食べる日、あなたはかならずや死ぬであろう」

神がおっしゃった「これから取って食べる日」・・・その日が本当に来てしまいました。

この「善悪を知る木の実」は、「人がわきまえておかねばならない一線・侵してはならない領域」の象徴として描かれているのでしょう。人には神の平和の支配の内側に留まるために、超えてはならない一線があります。それは一体何か、そしてその一線を越えてしまうとその先に何があるのか、ということをこの物語は私たちに考えさせているのです。

聖書の物語は字面だけを追ってもよくわからないので、少し聖書で使われている表現を丁寧に見ていきたいと思います。

聖書は蛇のことを「賢い」ものだった、と書いています。蛇の賢さは破滅をもたらす賢さでした。「賢い」という言葉は、旧約聖書が書かれたヘブライ語では、「裸」という言葉と語呂があいます。更に、「賢い」「裸」という言葉は「呪い」という言葉と語呂があうのです。

蛇は、その賢さを用いて人が裸であることを教え、そのことで、神から呪いを受けることになります。創世記は、「賢い」「裸」「呪い」という三つの言葉をセットにして描き出しているのです。

誤った賢さによって自分が裸であることを知り、呪いの内に破滅する・・・神のような支配者になれる、と錯覚した人間の姿を我々は決して他人事として終わらせることができないでしょう。

それでは、聖書が言っている「善悪を知る」とはどういうことなのでしょうか。「善悪の知識」と聞いて私たちが思い浮かべる「道徳的な生き方をするための善悪の分別」のようなものとは全く違うようです。神は、「その実を食べると死ぬ」とおっしゃいました。その木の実は人が知るべきでない知識、人を死に導く知識をもたらすものでした。

蛇は、人にこう言っている。

「それを食べる日、あなたがたの目が開いて、あなた方が神のように善悪を知るようになる、と神は知っていらっしゃるのだ」

蛇は、ただ「善悪を知るようになる」ではなく、「神のように」という言葉を付けています。「神のように善悪を知るようになる」

「君たちが神のようになることを、神は恐れているのだ」というような言い方です。

「善と悪を知る」、という表現が、サムエル記で使われているところがあります。ある女性がダビデに訴えます。

「主君である王様は、神のみ使いのように善と悪を聞き分けられます。」サム下14:17

旧約聖書では、「善と悪を聞き分ける・善と悪を知る」という表現は、王として民を支配することを意味しました。つまり、「善悪を知る」というのは、「道徳的な人間になる」ということではなく、「王様になる・支配者になる」ということなのです。

蛇の誘惑はそれでした。

「その木の実を食べると神のように善悪を知ることが出来る」と言ったのは、「木の実を食べると神のようにこの世を支配することができるようになるのだ」ということだったのです。「もう神の支配の下に生きることはない、君たちは、自分が世界の支配者になれるのだ、神と同列になれるのだ」、と言って、木の実を示しました。その言葉が決め手になり、二人は実を食べてしまいます。

7節を見ると、2人が実を食べると、「二人の目が開けた」とあります。今まで見えなかったものが見えるようになった、知らなかったことを知った、ということです。2人は木の実を食べて何を知ったのでしょうか。「自分たちが裸であること」でした。

では「自分が裸であることを知る」ということは、どういうことなのでしょうか。それがなぜ「死んでしまう」ことに結びつくのでしょうか。聖書独特の表現が続きます。

ある人は、「ここで言われている『裸であることを知る』というのは、『人が自分に目を向け始めた』ということではないか」と言います。確かに、それまでは神に目を向け、心を向けていたのが、自分を・自分だけを見るようになっています。

「自分が裸である」ことを知って、人はどう変わったのでしょうか。人の中で中心が変わったのです。世界の中心が変わったのです。神を中心に見えていた景色が、自分を中心に据えて世界を見始めました。

そして面白いことに、人は「自分を恥じるようになった」と書かれています。実を食べる前、人はエデンの園で神との交わりを楽しみ、満ち足りた命を生きていました。しかしそれが自分だけを見るようになったとたんに、自分の恥が見え始め、もとは一つの存在であった夫婦でありながら互いに自分を隠し始めたのです。

神から離れた人間が自分だけを見るようになり、自分の恥だけが見え始めた・・・このことには、深い教訓が隠されているのではないでしょうか。

「人が1人でいるのはよくない」と思われた神は人に夫婦という単位をお与えになりました。存在を共有する「夫婦と」いう「二人で一つの肉」として生きるようにされました。神の支配の下、御心に沿って生きるよう励ましあい、その恵みを分かち合うはずの夫婦でした。

しかし木の実を食べた後はどうなったでしょうか。実を食べたその日の夕方、神から声をかけられるまで、この夫婦は二人で会話をしなかったようです。神から離れた男と女は、互いに恥を感じ、互いから隠れ、神から隠れました。

8節を見ると、エデンの園に心地よい風が吹く頃、神が人に会いに来られたことが書かれています。神と人は毎日この夕方の心地よい時間、語り合っていたようです。しかしいつもの時間に、いつもの場所に人はいませんでした。 Continue reading

12月17日の礼拝案内

 次週 礼拝(12月17日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:創世記3:1~13

 交読文:詩編18:17~25

讃美歌:讃詠546番94番、96番、97番、頌栄544番

【報告等】

◇12月24日(日)はクリスマス礼拝です。礼拝後に愛餐会があります。ご予定ください。

◇12月24日(日)19時からイブ礼拝があります。どうぞお越しください。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後 Continue reading

12月10日の礼拝説教

創世記3:1~13

「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ』」

聖書の初めに記されているこの創造物語は、天地が創造され、人が楽園に住むようになって理想郷ができて終わり、という話ではありませんでした。神が言葉をもって天地の秩序を創造され、人が楽園に生きるようになってからすぐに、人が神から与えられた楽園から追放されてしまう、という悲劇が起こるのです。

天地創造も、楽園からの追放も、私たちにとっては昔話でもなくおとぎ話でもありません。聖書は、私たち一人一人が今置かれている現実を生々しく描き出し、警告を発しています。「ここに、あなたの姿がある。あなたはこの楽園の登場人物なのだ」と突きつけるのです。

聖書は、ここに書かれている出来事を他人事として私たちが読むことを許しません。私たちの目を何度も、この世界の根源にあるもの・我々人間の根源にあるものへと向けさせます。そのことを踏まえなければ、私達がイエス・キリストの言葉を聞いても、キリストの御業を見ても、本当にはわからないのです。

なぜキリストは「私は真のブドウの木、私につながっていなさい」とおっしゃったのでしょうか。

なぜキリストは「私は良い羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃったのでしょうか。

キリストは私達をどこへと連れ戻そうとしてくださったのか。

なぜキリストは十字架で殺されるために、この世に生まれてくださったのか。

全ては、人が神の言葉を捨てて罪の誘惑に身を委ねた、ここから始まっているのです。ここから人間をご自分の下に取り戻そうとなさる神の招きの御業が始まるのです。その神の招き・救いの御業の歴史を記したのが、聖書です。

私たちは創世記を読んで「太古の昔に、アダムとエバが罪を犯した」という風に、他人事のような言い方をしてしまいます。しかしそうではないのです。天地創造を読むたびに、楽園からの追放を読むたびに、私たちは今自分が置かれている現実を見せられることになるのです。

今日私たちは創世記3章の初めを読みました。天地と生き物の創造が1章2章と描かれてきて、3章に入って、聖書で初めての会話が記録されています。

聖書に出てくる初めての会話は、神と人間の会話ではありませんでした。神と人間が言葉を交わす前に、誘惑がやって来ました。

神と人間が初めて互いに言葉を交わすのは、蛇の言葉を聞いた男と女が善悪の知識の木の実を食べてしまった後です。神は楽園の中で、人に呼びかけられます。

「どこにいるのか。」

それに対して人の答えは「あなたを恐れて隠れております」というものでした。

「あなたはどこにいるのか」 「私はあなたから隠れている」

これが神と人間との間に交わされた最初の会話の内容です。いなくなった人間を追い求めていらっしゃる神と、神から隠れようとする人間の会話です。楽園で交わされた会話とは思えない内容です。

豊かに実を結ぶ木が茂り、その間を美しい川が流れる園で神と人が語りあう、という光景であれば、まさに楽園・パラダイスと呼べたでしょう。しかし、蛇の誘惑の声を聞き、自分が神のようになろうとした人間は、神との間に何か大切なものを失ってしまいました。蛇と女の間に交わされたのは、誘惑する者と、誘惑される者との会話でした。

人間に忍び寄ってくる誘惑の声がどれほど狡猾なのか、そして誘惑にさらされる人間がどれほど弱いのか・・・創世記が私たちに見せようとしているのは、まさにこのことなのです。

救いとは何でしょうか。神から離れていた者がもう一度神の恵みの支配に戻ることです。神の元へと連れ戻すために迎えに来てくださった方を、私たちは「救い主」と呼んでいます。「救い主・キリスト」という言葉の意味を知るためにも、私達は今日特に、蛇の誘惑の言葉をよく見つめたいと思います。

「主なる神が造られた野の生き物の内で、最も賢いのは蛇であった」とあります。蛇は、人を神から引き離そうとする力、罪の象徴としてここに登場します。その「賢さ」は人を誤った方向に導こうとする賢さであり、神がいらっしゃるのとは反対の方向に行きたくさせる「賢さ」でした。

蛇は女に言いました。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」

蛇が女に直接質問しているような言葉です。しかし、元のヘブライ語では蛇が独り言をつぶやいたような言い方をしています。

「そうか、神はどの木からも食べてはいけないなどとおっしゃったのか・・・」

わざと人に聞こえる所で独り言をぼそっとつぶやいたような言い方です。その言葉が聞こえた女は、蛇の誤解を訂正します。

「食べてはいけないと言われている木は一本だけです。食べると死んでしまうと言われています」

何も知らないかのようにふるまっていた蛇は、今度は何でも知っているかのように振舞います。「その木を食べても死にはません。食べると神のようになれるのです」

蛇がしたことは、それだけだった。誘惑の恐ろしいところは、それが誘惑だと分からないことです。蛇の賢さは、一度も「その実を食べてごらんなさい」と言っていないことです。

「そうですか、神はあの木の実を食べてはいけないなどとおっしゃったのですか。神はあなたが賢くなることを、強くなることを怖がっているのですね」・・・こうつぶやいただけなのです。

蛇の言葉を聞いた後、女がその木を見ると「いかにも美味しそうで、目を引き付け、賢くなれるようにそそのかしていた」と6節に書かれています。蛇の誘惑の言葉を聞くまでは、その木の実を「美味しそう」とは思わなかったはずです。「食べると死んでしまう」と神から言われている「おそろしいもの」だったはずです。しかし、蛇の言葉を聞くと、その木の実が、突然美味しそうに見え始めた、というのです。

蛇ではなく、今度はその木の実そのものが女をそそのかすようになりました。女は、蛇に無理矢理食べさせられたのではありません。蛇の言葉を聞いて、自分の意志で手を伸ばし、実を食べ、それを一緒にいた男に渡したのです。

どうでしょうか。私たちは、この蛇の言葉は自分には無縁だと言えるでしょうか。木の実を食べてしまう女と男は、自分よりも弱い、と言えるでしょうか。

使徒パウロが、手紙の中でこんなことを書いています。

「サタンでさえ光の天使を装うのです」

確かにそうでしょう。サタンがサタンの姿でやってきたら、誰だって警戒します。女にとって、この時の蛇は光の天使に見えていたかもしれません。「知らないのであれば、教えてあげましょう」という思いやりに満ちた親切な姿で近寄ってきています。 Continue reading

12月10日の礼拝案内

次週 礼拝(12月10日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:創世記2:15~25

 交読文:詩編18:17~25

讃美歌:讃詠546番73番、231番、403番、頌栄544番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

12月3日の礼拝説教

創世記2:15~25

「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(2:15)

創世記では、天地が造られた後、大地・土から人が造られる様子が2章で描かれています。5節を見ると、人が土から形作られる前には天地は雨もなく木も草もはえておらず、耕す人もいない「荒野」のような世界であったことがわかります。人が造られてから、その「荒野」に潤いが与えられていきました。神が人間のためにこの世界の秩序を整えていかれたということを聖書は私たちに教えてくれています。

15節「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」

「エデンの園」と聞くと、美しい木が生えており、清らかな川が流れ、人が何もしなくても悩んだり焦ったりすることなく生きていくことができる園を思い浮かべるのではないでしょうか。

しかし、神は何もしなくてもいい場所としてエデンの園を用意されたのではありませんでした。人は「土を耕し、守ること」を神はお定めになったのです。人は楽園で座っていればいい、ということではありませんでした。15節の「耕す」という単語は「仕える」という意味に近い言葉です。土から形作られた人は、土に仕え、土を守ることが使命とされたのです。「仕える」とは、自分を低くして相手に自分を差し出すということです。我々人間が仕える相手は土なのです。私たちが今、足をつけて生きている大地なのです。

神は人を土からお創りになりました。つまり人は「土なる存在」です。そして9節にあるように、人をお創りになったのと同じ土から木を生えいでさせられました。人は土から造られ、そして土からもたらされる実りによって生きるものとされました。

聖書は、この創世記の初めで世界の根源、人間の根源を教えてくれている、ということを以前お話ししました。私達はこの創世記の物語から、私達人間の根源的な使命を、「生きる」ということの大元を学ぶことができます。

聖書が私たちに伝えている内容は決してむつかしいことではありません。難しいことではありませんが、私たちがすぐに忘れてしまうことです。人はすぐに、自分が生きる上での根源を忘れてしまうのです。

人は土から造られました。土は、人間の命の根源です。そして、人は命を終えると土に返ります。私たちはそのことを知っているでしょう。しかし、私たちはそのことをすぐに忘れるのです。

命の根源を忘れ、人間こそが大地の支配者であり世界は自分のために存在していると思い上がった時に、人間は互いに血を流し、自然を簡単に破壊する道に踏み込んでしまいます。私たちは、土・大地を支配しているように思っていますが、逆なのです。土から自分が生きるためのものを勝ち取っているのではありません。大地・自然に仕えることで、神からの恵みをいただき、生かされているのです。人はこの世界・大地に生きるためには自然に対する畏怖の念、そしてこの世界をお創りになった神から生きる糧が来るということを忘れてはならないのです。

創世記は、人が土の上で生きるための姿勢を教えてくれています。鳥のさえずりを聞きながら、何にもしないで木の実を食べるような生活が求められているのではありません。人が土に仕え、土から生きる糧が与えられるという神の秩序を通して、私たちの心は創造主へと向かうのです。そこから、命の源である神への讃美が、祈りが、礼拝が生まれてくるのです。

使徒パウロはこう書いています。る。

ロマ11:36「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」

全ては神から出て、神に帰る・・・創世記の初め、つまり聖書が最初に私たちに教えているのは、この循環なのです。

さて、このエデンの園の物語の中で、神は一つ不思議なことをなさっています。園の中央に命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられ、「善悪の知識の木からは食べてはいけない。食べると必ず死んでしまう」とおっしゃいました。

神は、人間のためにご用意なさった園の中に、一つの制限をお与えになったのです。なぜ神は、食べると死んでしまうような危険な木を園の中央に置かれたのでしょうか。また、どうして、「善悪の知識」が、人間の死に結びついてしまうのでしょうか。

私達には不思議に思えることです。今まで、このことについていろんな議論がされ、理由が考えられてきました。恐らく、神が善悪の知識の木を園の中に置かれたのは、人間の有限性が示された、ということではないか、と言われています。

人は神の似姿として造られたと書かれています。「似ている」ということは、「神ではない」、ということでもあります。人には超えてはならない一線があるのです。そういうことではないでしょうか。

「善悪の知識」と聞くと、普通はいいことだと思うのではないでしょうか。善悪の分別がつくこと、道徳心を持っている、ということであれば、いいことではないか、と思うのです。しかし、聖書が伝えている「善悪の知識」は、人を死に追いやる知識として言われています。人が知るべきでない知識、人を死に誘う知識のようです。

使徒パウロが、こんなことを書いています。

「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。・・・あなたがたは、罪の奴隷であった時・・・どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行きつくところは、死にほかならない」ロマ6章15節以下

パウロは、二本の道の岐路があることを伝えています。神の支配の内に生きて永遠の命に至るか、罪の支配に生きて死に至るか、という岐路です。それを踏まえると「善悪の知識」とは、罪の知識・神から離れる道を教える知識のことである、ということがわかります。

創世記は、私達が今立たされている岐路を、この物語を通して教えているのです。命に至る道と、死に至る道の分かれ目・・・神に向かう道と、神から離れる道の分かれ目です。

聖書が言っている「死」とは何でしょうか。創世記やパウロが伝えている「死」というのは、単なる「肉体の死」ではありません。実際、人が善悪の知識の実を食べても死にませんでした。神がここで「必ず死んでしまう」とおっしゃっているのには、何か別の意味があるのです。

律法や預言書を見ると、「こういうことをした者は死なねばならない」という表現が出てきます。これは、死刑の宣告の言葉ではありません。祭司が、礼拝に相応しくない人に対して言っていた表現です。例えば、偶像礼拝をする人や、隣人の妻を犯したり、弱い者を苦しめている人は、礼拝に相応しくないとされ、命の領域である礼拝に加わることが許されませんでした。

「あなたは命の領域である礼拝に参加することが許されない」ということを、祭司は「あなたは死なねばならばない」という表現で伝えていたのです。

そのことを踏まえると、神が「善悪の木の実を食べると死ぬ」と人におっしゃったのは、「その木の実を食べると礼拝に相応しくない悪を知ってしまう」という意味だったのでしょう。

人は、信仰の道と不信仰の道、神と共に生きる道と神から離れる道、という二本の道の岐路に立たされています。そしてそれが、私たちが今置かれている現実であるということを創世記は警告しているのです。私達を礼拝から遠ざけようとする知識は、今も私達の周りに溢れているのではないでしょうか。

私達は考えたいと思います。楽園とは何でしょうか。神との交わりがあるところが、楽園です。インマヌエル、ということです。創造主を知り、自分たちを生かしている大地に海に、創造主から与えられている恵みとして、信仰をもって仕える生活・・・そこに楽園はあります。

預言者たちは、礼拝こそ命の領域であることを伝えて、真の神への立ち返りと訴え続けました。私たちは今、この礼拝の中へと自らの足で向かって来ました。礼拝こそ命の領域だからです。

神を求める人が集まっているここに、楽園があります。命があります。ただ気が合うから、仲良しだから集まっているのではありません。本当に恐れるべき方を知り、命を与え生かしてくださる方に讃美と祈りを捧げ、自分が行く道を示していただくために、ここにいるのです。そしてそこで信仰の友に出会うのです。

それが、救い主イエス・キリストがおっしゃった、「神の国は近づいた・神の支配が来た」という福音です。私たちは神の恵みの支配へとキリストに導き入れられたのです。

大切なことは、聖書を通して私たちの本当の支配者を知ることです。自分こそが自分の、そして大地の支配者であると信じ込む知識の実ほど恐ろしいものはありません。私たちはそのような知識・思いによって、神から離れ、自ら滅びへと向かっていくことになるのです。

さて神は、園の中に生きる人をご覧になって、「人が独りでいるのはよくない」、と思われました。十分な食べ物、美しい環境があってもそれだけでは人にとって十分であると思われませんでした。人は独りで生きるべき存在ではない、ということが描かれています。

人は土から造られ、1人で生きてやがて土に返るだけの空しい存在ではいのです。言葉を交わし、互いに生きる意味を与えあい、教えあう存在「助け手」を、神は必要と思われました。

神は獣や鳥を人のところへ持ってこられ、人はそれに名前を付け、同じ世界に住むものとしましたが、獣も鳥も本当の「助け手」とはなりませんでした。動物と仲良くなっても、神がお考えになるような、存在を共有するような本当の助け手とはなりませんでした。

神は人の「外」ではなく人の「内」に助け手をお求めになりました。人のあばら骨の一部を抜き取り、女を作り上げられます。人はそれを見て、「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉」と言いました。

これも不思議な物語です。一体何を伝えようとしている物語なのでしょうか。男と女という二つの性別が出来た、ということでは終わっていません。男と女という性の区別がありながら、同時に、男と女が一体となる、という夫婦の形が語られているのです。 Continue reading