ヨハネ福音書1:19~28
「ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて行った。『わたしは荒野で叫ぶ声である。「」主の道をまっすぐにせよ』と」(1:23)
ヨハネ福音書の冒頭が終わり、ここから、ヨハネ福音書の本編が始まります。
ヨハネ福音書は「神の言が、天からこの世に来た」という、当時の人たちにとっては衝撃的な記述から始まっています。世界を物質世界と霊的世界の二つに分けて考えていた二元論を信じていた人たちは、神と人間の間には接点はない、と考えていました。ところが、聖書は、「万物を造り、万物を生かす神の言葉が、天から人間となってこの地上に生まれた」、と語り始めるのです。
その神の言が私たちと同じ人間となって来てくださったこの世で何が起こったのか、これから本編でここから描かれ始めることになります。
今日読んだ箇所では、この福音書の主人公であるイエス・キリストはまだ出てきていません。キリストの前に、まず、洗礼者ヨハネが登場します。福音書の冒頭では、「ヨハネは光ではなく、光について証しをするために来た」と言われています。
ヨハネはエルサレムから離れた荒れ野で、叫んでいました。
「『私の後から来られる方は、私より優れている。私よりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである」
彼はヨルダン川沿いの荒れ野で、「悔い改めに相応しい実を結べ」と叫び続けました。
たくさんの人々がエルサレムから、またエルサレム以外の地域から荒れ野にいるヨハネの下に来て、悔い改めの洗礼を受けました。そのヨハネの下に、エルサレムのユダヤ人たちから遣わされた祭司やレビ人たちがやって来て、「あなたは、どなたですか」と尋ねました。
この「エルサレムのユダヤ人たち」とは、エルサレムのユダヤ人宗教指導者たちのことです。荒野で悔い改めを人々に求めながら洗礼を授けていたヨハネは、エルサレムにいたユダヤの宗教指導者たちにとっては無視できない存在となっていたのでしょう。
一世紀のユダヤ人歴史家のヨセフスという人は、洗礼者ヨハネが「預言者」として人々に知られていたことを書き残しています。しかしユダヤの指導者たちにとって、ヨハネは預言者以上の存在かもしれないという期待があったでしょう。
「荒れ野で叫ぶヨハネは一体何者なのか。」
その問いはつまり、「ヨハネはメシアではないのか」という期待でもありました。ダヤ人は何百年も自分たちを救い主・メシアを待っていたのです。何百年も外国の支配の下で生きて来たユダヤ人たちは、イスラエル王国を築き上げたあのダビデ王の再来を待っていました。聖書で「いつかイスラエルを救うメシアが来る」という預言が残されていたからです。
そして今、荒れ野で洗礼を授けるヨハネという人が現れ、人を惹きつけているのです。エルサレムのユダヤ人指導者たちは使者を送ってヨハネに尋ねさせます。
「あなたは、どなたですか」
ヨハネの答えははっきりしていました。
「私はメシアではない」
「私はメシアではない」と言われて、使者は「では、エリヤですか」と尋ねます。旧約の預言者マラキが、エリヤの到来を預言していたからです。
「見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」マラキ書3:18
神は世の終わりに預言者エリヤを前触れとしてお送りになる、と言われているのです。
この預言を知っていたエルサレムからの使者たちは、ヨハネに「あなたはあのエリヤですか」と尋ねますがヨハネはこれも否定します。
これを聞いて使者たちは「では、あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねました。「あの預言者」というのは、モーセのような預言者のことです。申命記の中で、モーセがイスラエルにこう言っているところがあります。
「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、私のような預言者を立てられる」18:15
しかしヨハネは「私はあの預言者でもない」と言いました。
洗礼者ヨハネは、「私はメシアではない」「私はエリヤではない」「私はモーセのような預言者ではない」と答えます。面白いのは、ヨハネが「自分が何者か」ではなく、「自分は何者ではないのか」ということから答えていることです。ヨハネは、自分は聖書で到来を預言されているような、何か偉大な者、特別な者ではない、と否定するのです。
エルサレムから遣わされた人たちは困りました。
「それでは一体、誰なのです。私たちを遣わして人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか」
そう聞かれて初めてヨハネは自分のことを言います。
「私は荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
「荒れ野で叫ぶ声」・・・なんだかよくわからない答えですが、ヨハネは自分のことをキリストの到来を告げる前触れの声に過ぎない、と言っているのです。
ヨハネのことを、「メシアかもしれない」「終わりの日の到来を告げる預言者エリヤかもしれない」「いつか来る、と預言されているモーセのような預言者かもしれない」、という期待を抱いていた人たちはこれを聞いてどう思ったでしょうか。
エルサレムからの使者たちがヨハネの答えを聞いてどうしたのか、ということは何も書かれていなません。恐らく、そのまま荒れ野からエルサレムへと戻って行ったのでしょう。おそらく、失望を感じてエルサレムへと戻って行ったのではないでしょうか。「ヨハネはメシアでも預言者でもありませんでした」と報告したのでしょう。
私たちは洗礼者ヨハネの言葉・姿に何を見出すでしょうか。私たちは、このヨハネの言葉の中に、福音の響きを聞くのです。
ヨハネは荒れ野で叫ぶ声でした。「主の道をまっすぐにせよ」という叫び声です。ヨハネは、もうすぐ「主の道」が敷かれる、と世に向かって伝えました。
「主の道をまっすぐにせよ」・・・これは、イザヤ書40章の最初の言葉です。
「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、私たちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」
イザヤ書で言われている「主の道を荒れ野に通す」とは何のことでしょうか。これはBC6Cにバビロンで捕囚とされていたイスラエルの民に解放がもたらされる直前に、預言者イザヤが聞いた天の声です。バビロンで半世紀もの間囚われていた人たちに、エルサレムに帰る時が近い、ということが天から告げられた言葉です。
バビロンからエルサレムまでは荒れ野が広がっています。その荒れ野に神は道を通して、イスラエルの民を約束の地エルサレムへと連れて帰られる、と宣言されたのです。イスラエルの人たちにとって、その荒れ野に通される道は故郷への帰還の道でした。囚われの生活からの解放の喜びの道でした。
出エジプトの際、イスラエルは奴隷とされていたエジプトから荒れ野を通って約束の地に向かいました。神が、約束の地へと続く道を荒れ野に通されたのです。バビロン捕囚からの解放は第二の出エジプトでした。 Continue reading