【次週 礼拝(11月3日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:ヨハネ福音書9:13~23
交読文:詩編18:47~51
讃美歌:讃詠546番、66番、177番、508番、頌栄541番
【牧師予定】
◇11月12日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道懇談会
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
集会案内
主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
祈祷会: 日曜日 Continue reading
MIYAKEJIMA CHURCH
【次週 礼拝(11月3日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:ヨハネ福音書9:13~23
交読文:詩編18:47~51
讃美歌:讃詠546番、66番、177番、508番、頌栄541番
【牧師予定】
◇11月12日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道懇談会
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
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ヨハネ福音書9:1~12
「私がそうなのです」
旧約聖書の列王記下5章にナアマンという人が出てきます。この人はアラムという国の軍人でした。彼はある時皮膚病になってしまいます。皮膚病に苦しむナアマンに、イスラエル人の少女が「イスラエルの預言者であれば、治すことができるでしょう」と告げました。
ナアマンは、その言葉に希望を託してイスラエルにいる預言者エリシャのもとに向かいました。彼がエリシャのもとに向かう途中で、エリシャの従者がやってきました。従者は「ヨルダン川で七回身を洗って清めるように」、というエリシャの言葉を伝えました。
これに対してナアマンは怒りました。せっかく外国から来たのに、自分に直接会おうともせず「ああしなさい」と言葉だけをよこしてきたイスラエルの預言者に腹を立てたのです。彼は、預言者本人が丁重に自分を迎えて、直接手を触れて自分の皮膚病を癒してくれるものだと思っていました。
腹を立てるナアマンを、周りの人たちが説得しました。「川に入って身を清めるだけではないですか。皮膚病を治すためならもっと大変なことでも従ったはずです。」ナアマンはそれを聞いてしぶしぶ預言者エリシャの言う通りにしました。すると、ナアマンの皮膚病は治りました。
アラムの軍人ナアマンに救いの出来事が起こって、それで終わりではありませんでした。癒されたナアマンは、イスラエルの神を信じるようになります。しかし、自分の国では偶像の神を拝んでいるのです。彼は、これからどのようにイスラエルの神を信じるべきか、ということで悩みました。
ナアマンは改めてエリシャに会い、「自分の国の国王が偶像礼拝の中でひれ伏す時、自分も同じようにひれ伏さなければならないことを赦してほしい」、と願うとエリシャから、「安心していき成し行きなさい」と言われました。
私たちは、アラム人の軍人であったナアマンに起こった救いと、信仰を持ったがゆえの試練に、自分自身に与えられた救いと、信仰生活の中にある試練を重ねることが出来るのではないでしょうか。
ナアマンに起こった救いは、ナアマンが期待していたのとは違う仕方で実現しました。
預言者本人が直接癒しを行ってくれる、と彼は予想していたのです。しかし、預言者は姿も見せず、ただ、川に入れ、とだけ言ってよこしました。
私たちもそうだったのではないでしょうか。人が真の神を知る時、自分には思いもよらない仕方で神が出会ってくださるのです。神が私たちに救いを示してくださる時と場所と方法は、私たちが予想もしていなかったものではなかったでしょうか。
そして、真の神を知った時から、石や木を神と信じる人たちの中で自分がどうふるまっていけばいいか、ということで悩み始めるのです。神を知った後、どのように神に従い続けることができるか、という信仰の試練の道を歩み始めることになるのです。
私たちは自分の手で救いの道を切り拓くのではありません。思いもかけないところから、神はご自身を示されます。そしてその時から、信仰の試練が始まるのです。
旧約聖書に出て来たナアマンがそうであるように、今日私たちが読んだ、キリストに目を癒された人もまた私たちの姿です。
「神の業がこの人に現れる」とおっしゃって、キリストは神殿の境内から出て通りすがりにご覧になった目の見えない人を癒されました。そして癒しを行って終わり、ではなかったのです。
この後、その癒しが行われたのが安息日であったということで、エルサレムにまた議論が生じます。そしてナザレのイエスをキリストを信じる人と信じない人との間に対立が生まれていくことになります。
癒されたこの人自身が、イエスこそメシアであるということの証拠となり、証人となるのです。座って物乞いをするだけだったこの人が、キリストに癒されたことで確かに変えられ、キリストに従う道を選び取り、主イエスを指し示す証し人となっていきました。
これまで主イエスに出会った人たちは皆、生きる道に大きな変化が起こりました。ニコデモやサマリア人女性、池のそばで寝たきりの人・・・皆キリストに出会って、それで終わり、キリストに癒されてそれで終わりではなかったのです。キリストに出会い、キリストに癒されて、そのあと、あの方をキリストであると信じ、証を続ける試練の道を歩み続けることになったのです。そしてキリストの証し人であり続けたのです。
人々は、主イエスに目を癒された人を見て、「この人は誰だろう」と言いました。「あそこで座って物乞いをしていた人ではないか」と言う人もいれば、「似ているだけだ」と言う人もいました。それぐらい、この人自身が変わった、ということでしょう。
私たちは、キリストを知って洗礼を受けて、何が、どれぐらい変わったでしょうか。自分ではよくわからないでしょう。しかし、やはり何かが変わっているのです。
キリストを知らず生きるのと、キリストを知ってキリストと共に生きるのでは、歩む道に、また歩み方に大きな差が生じます。イエス・キリストを知らずに生きるという、もう一つの人生を、私たちはどのように想像するでしょうか。いや、そのような「もう一つの人生」を想像できるでしょうか。
自分とキリストの出会いは、聖書に記されているような劇的なものではなかった、と思うかもしれません。しかし、ここに書かれている、この人に起こったことは、そのまま私たち一人ひとりに起こったことなのです。
キリストは唾で土をこねてその人の目に塗り、シロアムの池に行って洗いなさい」とおっしゃいました。目に土を塗られた人はこの言葉に従いました。これこそ、この人の信仰の業です。
この人は黙って主イエスの言葉に従い、シロアムの池に行って、自分の目に塗られた土を洗い落としました。従わない、という選択だってあったはずです。「目を開けてほしい」と願ったわけではありません。「土を塗っただけで私の目が見えるようになるわけがない」と拒絶することだってできたのです。
しかしこの人は、無言で主イエスの言葉に従いました。ただ、従いました。弟子たちと主イエスのやり取りが聞こえていたのかもしれません。「今から自分に神の業が現れる」、と言った人の言葉を素直に信じ、その言葉に従ったのです。
ナアマンがヨルダン川に身を浸したように、目に土を塗られた人は、シロアムの池に向かい、自分の目を洗いました。この小さな信仰の業が、この人の人生を大きく変えたのです。
その日から人々にキリストの御業を伝える器としての働きが始まりました。「どうして目が見えるようになったのか」と問われて、この人は「イエスという方がこのようにして、癒してくださった」と事実と淡々を伝えました。この人は自分の力で何かをしたわけではありません。この人はただ自分に起こったことを伝えるだけでした。
キリストとの出会いを通して、人は変えられます。私たちは変えられるのです。そして自分一人だけの人生ではないことを知ります。自分を導いてくださる方がいることを知るのです。
シロアムの池に向かったこの人は、キリストに救われた私たち自身の姿です。神が世の初めに土からアダムをお創りになったように、キリストは土をこねてこの人を癒され、新しい命へと導かれました。
シロアムの池で目を洗ったこの人の姿に、私たちは自分自身の洗礼を見ることもできる。キリストによって罪を洗っていただき、新しい道を歩む新しい存在へと創造していただく姿です。ある日の小さな救いの出来事ですが、この人はただ主イエスの言葉に従った、というだけで、聖書の中にその姿が記録され、後世までが語り継がれるようになりました。
私たちがイエス・キリストに出会い、キリストを証しするのも、このようなことではないでしょうか。私たちとキリストとの出会いは、世の片隅で起こった、誰にも知られていないような小さな出来事です。しかし、その救いの出来事が、この世界をイエス・キリストへと、神へと向かわせることになるのです。
キリストに救われた私たちは、世に向かってどのようにキリストを証しするのでしょうか。イエス・キリストについて説明・解説するのではありません。「私はあの方に会った」、と言うだけです。そしてキリストに出会った者として生きるだけです。それが何よりの信仰の言葉なのです。
主イエスはこの盲人をシロアムの池におつかわしになりました。仮庵の祭りは水の祭りであったので、祭りの中で水を汲み取っていました。その水はこのシロアムの池から取られていました。
シロアムの池の水は、エルサレムの人たちにとって「命の水」の象徴でした。そして今、「私は命の水である」「私は世の光である」とおっしゃる方が、この水を用いて一人の盲人に光をお与えになりました。主イエスの言葉に従った一人の小さな信仰者が、命の水で洗われ、世の光が見えるようになったのです。
この人を遣わした、イエスという方こそが命の水の源でした。この人を遣わしたイエスという方こそ、世に光をお与えになる方だったのです。
「シロアム」とは「遣わされた者」というという意味だと記されています。盲人は「遣わされた者」という意味の池へと遣わされました。それだけでなく、癒された後、今度はこの世に遣わされる者とされました。この世に神から遣わされた光と癒しが明らかになるために。イエス・キリストが、「この人の上に神の御業があらわれるため」とおっしゃったのはそういうことでした。まさに、地の塩・世の光とされたのです。
キリスト者は、キリストと共に歩みを続けます。それしかないのです。それが「伝道」なのです。私たちはキリストのすべてを理解して、聖書の研究をすべて終えてから洗礼を受けるのではありません。神について知っていることを、体系的に誰かに説明するのが伝道ではありません。キリストに出会い、キリストに救われた者として、自分を晒して生きること、それが伝道なのです。
私たちはキリスト者として生きるということ自体が、一生続く試練であることを知っています。神を信じているというだけで馬鹿にされたり、キリスト者であるというだけで距離を置かれたりすることもあります。
しかし、その試練の中でこそ私たちは用いられているのです。パウロが書いているように、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」のです。楽しいことだけ、嬉しいことだけが私たちの信仰生活ではありません。様々な信仰の試練を祈りながら進むことで、「万事が益とされていく」のを見ます。そして自分を通して神の御業が行われていることを知っていくのです。
もし自分が神を知らないままだったと考えたら、どうでしょうか。全く違う人生を送っていたのではないでしょうか。それほどまでに、聖書の言葉は私たちの歩みを導く力があるのです。
キリストに癒された人は、周りで騒ぐ人たちに一言、こう言いました。
「私がそうなのです」
イエスが本当にキリストであるかどうかを求めている人がいます。キリストに救われた人が本当にいるのかどうか、確かめたい人がいます。その時、私たちは、胸を張って「私がそうなのです。私はキリストに救われたのです」と立ち上がりましょう。
【本日の予定】
◇礼拝後、祈祷会があります。
【次週 礼拝(10月27日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:ヨハネ福音書9:1~12
交読文:詩編18:47~51
讃美歌:讃詠546番、63番、269番、396番、頌栄540番
【牧師予定】
◇11月12日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道懇談会
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
集会案内
主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
祈祷会: Continue reading →
ヨハネ福音書9:1~7
「神の御業がこの人の現れるためである」
ここまで7章と8章には、イエス・キリストの仮庵祭でのお姿が描かれてきました。「アブラハムが生まれる前から私はある」とおっしゃった主イエスの言葉を聞いて、ユダヤ人たちは石を投げつけようとしましたが、主イエスは神殿から出て身を隠されました。
今日私たちは神殿を出たところで、主イエスが一人の盲人を癒されたという場面を読みました。有名な場面です。盲人は神殿の入り口のところに座っていたのでしょう。そこは巡礼者に 物乞いをする場所でもありました。
主イエスの弟子たちはその盲人を見て、自分たちの先生に素朴な質問を投げかけた。
「この人が生まれつき目が見えないのは誰のせいですか。この人の罪ですか、その家族の罪ですか」
その弟子たちの質問に答える形で、主イエスは癒しを行われました。その際におっしゃった主イエスのお答えの言葉が、今でも広く知られているのです。
弟子たちが抱いた疑問は、弟子たちだけのものではないでしょう。当時の人たち、また今の私たちにとっても、自然に心に湧いてくる疑問ではないでしょうか。人が苦しむのは、背後に何かそれに値するほどの罪があるからではないか、と考えるのです。
悪いことをした人に何か悪いことがあったら、「あの人は悪いことの報いを受けたのだ」とすぐに思うでしょう。しかし、何の罪もない人が苦しむのを見ると、その理由を人は知りたいと思います。「なぜ何もしていない自分が」とか「なぜあんないい人が」と考えてしまうのです。
弟子たちはこの時、神殿の入り口のところで物乞いをする盲人を見て、この人にはどんな罪があるのだろうか、と主イエスに尋ねました。「こうしたら幸せになる」「こうしたら不幸になる」、という単純な原則があればわかりやすいでしょう。しかし、世の中には嫌と言うほど不条理があるのです。
理由が見いだせない不幸せがあります。そのたびに私たちはこの時の弟子たちと同じ問いを神に向かって心の中で投げかけるのではないでしょうか。
旧約聖書には、正しい人ヨブに神が苦しみをお与えになるという不思議な物語があります。ヨブ記の物語の中でヨブの友人たちは、ヨブが神に罪を犯したから苦しみがふりかかったのだ、とヨブ本人を責めます。初めの内は、ヨブは「神から苦しみをいただくのであれば甘んじて受けよう」、と従順でした。
しかし 自分に罪があると友人たちから糾弾され続けると、「そんなことはない、自分は罪を犯していない、潔白だ」と言い始めます。そしてヨブは「自分の潔白を晴らすために神と裁判で争ってもいい」、とまで言うのです。正しい人が苦しむ、という不条理について考えさせられる、人間にふりかかる苦しみの意味を問う文学作品です。
信仰者がいい人生を送って幸せになり、信仰を持たない人が悪い人生を送って不幸せになる、というのなら簡単です。しかし、そんな単純なことではないのです。自分に何か辛いことがあれば、自分は何か悪いことをしたのだろうか、と自然と考えるのが人間です。
弟子たちは物乞いをしている盲人を見て、この人の罪を見出そうとしました。
「この人が罪を犯したからですか?」と尋ねます。
それに対する主イエスのお答えはこうでした。
弟子たちがこの盲人に見出そうとしたのは、この人の罪でした。しかし主イエスは、その盲人を、神の御業が現れる器としてご覧になっていたのです。
仮庵の祭りの中でキリストはご自分のことを「私は世の光りである」とおっしゃいました。その言葉の通り、主イエスはこの盲人の目を開かれ、光をお与えになります。闇の中を生きていた人がキリストに出会って、光を知り、自分が従い進むべき道を見出していく、という信仰の出来事がこの後起こっていきます。
イエス・キリストがなぜこの自分に出会ってくださったのか、ということを改めて考えさせられる癒しの出来事だと思います。
「キリストはなぜこの私に出会ってくださったのか」
清いキリストにふさわしい、罪とは無縁の人間だったからでしょうか。そうではないでしょう。そこには、確かにイエス・キリストの選びがあったのです。
使徒パウロは、コリント教会への手紙の中でこう書いています。
「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。・・・私たちは、このような宝を土の器に収めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために。・・・私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」
キリスト者は、あの神の創造の光を収める土の器だ、とパウロは言います。土の器というのは、日々の生活の中で普段使いする器です。特別な日にだけ使われる高級品ではありません。普段使いの中で酷使される、日用品です。その日用品の器の中に、神はご自身の栄光を入れて、世に運ばれるのです。
パウロ自身、キリストに召された時に目が見えなくなりました。しかし、洗礼を受けて、目からうろこのようなものが落ちて、再び光を得ました。はっきり言って、私たちは自分がなぜキリスト者とされたのか、理由はわからないのではないでしょうか。誰からも尊敬される、社会的な影響力がある人だけが選ばれるというのであればわかります。
しかし、パウロは手紙の中で神は「世の無力な人を選ばれた」と書き残しています。そして、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」とも書いているのです。
「思いあがることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思いあがらないように、私を痛めつけるために、サタンから贈られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるよういに、私は三度主に願いました。すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。」
あれだけ大きな宣教の足跡を残したパウロであっても、自分がなぜキリストに選ばれたのか、理由を見いだせませんでした。なぜこんな自分が、という思いがずっとあったのです。ただ、神の恵みがあって、パウロの弱さが神によって用いられる、ということだけを彼は知っていました。そしてそれだけで信仰者には十分なのです。
主イエスは神殿から出たところにいた一人の盲人を癒されました。「神の御業がこの人の上に現れる」という言葉の通り、救いが現実のものとなりました。旧約聖書では、神が世にいらっしゃる時、「目の見えないものの目が開かれる」という預言がいつくも残されています。
詩篇146編 8~9節
「主は見えない人の目を開き、主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し、主は気流の民を守り、みなしごとやもめを励まされる。」
イザヤ書29章18節
「その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び岩井、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る」 Continue reading →
【次週 礼拝(10月20日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:ヨハネ福音書9:1~6
交読文:詩編18:47~51
讃美歌:讃詠546番、62番、339番、402番、頌栄540番
【牧師予定】
◇10月15日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道委員会
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
集会案内
主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
祈祷会: 日曜日 Continue reading →
ヨハネ福音書8:48~59
「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」
エルサレムでの仮庵の祭の最後の場面です。仮庵祭の中で主イエスはご自身のことを「命の水」「世の光」であると宣言されました。それを聞いたユダヤ人たちは「ナザレのイエスは何者か」、ということを議論しました。さらに、「イエスの権威はどこから来ているのか」「イエスの目的は何か」、ということも考えさせられました。
主イエスご自身は「天の父が私を世に遣わされたのだ」とおっしゃいます。つまり、神が主イエスを天からこの世に遣わされたということです。主イエスが行われる様々な奇跡のしるしを見た人たち、語られる聖書の教えを聞いたエルサレムの人たちの一部はそれを信じました。
しかし主イエスのおっしゃることを信じなかった人たちは殺意を抱きました。主イエスは彼らの殺意を見抜き、彼らの父がアブラハムでも神でもなく、悪魔であると痛烈に非難されました。
当然ユダヤ人たちは主イエスが自分たちの父のことを悪魔と言ったことに対して反応します。それが、今日私たちが読んだ場面です。
反対者たちから3つの質問がされました。
「あなたはサマリア人で、悪霊に取りつかれているのではないか」
「私たちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。一体あなたはあなた自身を何者だと思っているのか」
「あなたはまだ50歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」
彼らは主イエスのことを「サマリア人」と呼び「悪霊に取りつかれている」と言いました。「サマリア人」と呼んだのは、律法を正しく理解していない、正しい信仰をもっていない、という悪口です。
主イエスは冷静にお答えになっています。「私は悪霊に取りつかれてはいない。私は父を重んじているのに、あなたたちは私を重んじない」「私の栄光を求め、裁きをなさる方が、他におられる」
他の福音書に、こういう出来事が書かれています。悪霊を追い出される主イエスに向かって、「あの人は悪霊の頭ベルゼブルの力で追い出している」という人がいました。ナザレのイエスは確かに悪霊を追い出す力を持っているが、その力の源は、悪霊の力だ、と言うのです。
しかし、主イエスは「悪霊の力で悪霊を追い出すということがあろうか」とお答えになりました。そして、「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて許される。しかし、聖霊を冒涜するものは永遠に許されず、永遠に罪の責めを負う」とおっしゃいました。
人は、誰かが不思議な業を行うのを見ると、その業を行う力の源を知りたがります。その力の源がいいものなのか、悪いものなのか、ということを知りたがるのです。いろんなしるしを行われる主イエスを見て、人々は主イエスの力の源が神からのものか、悪霊からのものか、知りたがりました。そしてある人たちは、イエスは悪霊の力で奇跡を行っていると考えたのです。
しかし主イエスがおっしゃるように、悪霊の力で悪霊を追い出すということはおかしな話です。主イエスは警告されました。「人間が犯す罪は、許される。しかし、人の罪を許す聖霊を冒涜すれば、許しは一体どこにあるというのか。」
確かにそうでしょう。今、主イエスのことをユダヤ人たちは悪霊呼ばわりしました。自分たちが自分たちの罪のために命を投げ出そうとしてくださっている神の子を悪霊呼ばわりして、罪の許しを自ら遠ざけようとしていることに気づいていません。そしてそれがどんなに愚かなことであるのかも見えていないのです。
主イエスはご自分のことを「命のパン」「命の水」「命の光」として世に示されました。ご自分のもとに罪の許しが、永遠の命があるからです。だから主イエスはおっしゃる。
「私の言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」
どこに罪の許しがあるのかを示されています。それは主イエスご自身のもとにあるのです。だから、この方はキリストと呼ばれるのです。
しかし主イエスのこの言葉を聞いて、ユダヤ人たちは「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした」と言いました。アブラハムや、預言者といった偉大な信仰者たちも、皆、死んだのに、自分の言葉を守る人は死なないなどとイエスは言うからです。
「私たちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。・・・一体あなたは自分を何者だと思っているのか」
彼らはもうついていけなくなってきました。人が死なないなんてことがあるのか、というのが彼らの考えです。当然だろう
しかし主イエスはおっしゃいます。「あなたたちの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」
アブラハムは創世記15章で神から言われた。
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」
夜空を見上げて満天の星を見たアブラハムは、神の祝福の大きさに息をのんだでしょう。
主イエスはご自分がアブラハムよりも偉大な者であるということを否定されませんでした。それどことか、アブラハムはご自分のことを待ち焦がれていた、とおっしゃいます。
これまでも、「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい」とか、「私は世の光である」とおっしゃってきました。ユダヤ人たちは、まるで自分が神であるかのように話をするナザレのイエスを赦せませんでした。
だから彼らは問いただします。
「あなたは、まだ50歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」
すると主イエスは「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」とおっしゃった。自分がアブラハムより前にいた、ということ、そして「わたしはある」という言い方に、ユダヤ人たちは怒りました。「わたしはある」というのは、モーセが神に名前を尋ねた時に神がお答えになった言葉です。
アブラハムは創世記に出てくる、信仰の父と呼ばれている人です。そのアブラハムよりも自分は偉大で、アブラハムよりも前に「わたしはある」などと言うのは、自分のことを神のように考えているとしか思えません。神を自称することは神への冒涜でした。自分自身を神とし、まことの神を冒涜したという罪を彼らは見出しました。ユダヤ人たちはこれを聞いて、主イエスに石を投げつけようとしました。
主イエスはその場を立ち去られました。「イエスは身を隠して、神殿の境内から出ていかれた」と書かれています。仮庵祭の中でご自分を晒し、真理を示して、あとは神殿から身を隠されたのです。
人々に大きな問いを残して、主イエスはその場を去って行かれました。あとに残された人たちは、主イエスが仮庵祭の間、神殿でおっしゃった言葉を心に刻み、主イエスの業や言葉の意味を考えさせられることになりました。
私たちは、この仮庵祭の場面を通して、世の人々がどれだけ世に来られた光・世に与えられた言葉に対して無理解だったか、ということを知ります。
ナザレのイエスがアブラハムよりも年上であるなどということは、当然誰も信じられませんでした。それが普通でしょう。しかしその中にあって、この方には否定しきれない神の権威がありました。
主イエスは、「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ」とおっしゃいました。もし人々がアブラハムの子、信仰の子であるなら、彼らは主イエスが誰であるか分かったはずです。 Continue reading →
【次週 礼拝(10月13日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:ヨハネ福音書8:48~59
交読文:詩編18:47~51
讃美歌:讃詠546番、61番、254番、275番、頌栄540番
【牧師予定】
◇10月15日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道委員会
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
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主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
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ヨハネ福音書8:39~47
「今あなたたちは神から聞いた真理をあなたたちに語っているこの私を殺そうとしている。アブラハムはそんなことをしなかった。」
今日読んだところの前になりますが、38節で主イエスはこうおっしゃっています。
「私は父のもとで見たことを話している。ところがあなたたちは父から聞いたことを行っている」
この言葉はどういう意味なのでしょうか。お話しなさっている主イエスご自身の「父」と、話を聞いているユダヤ人たちの「父」はそれぞれ違うようです。また、「父のもとで見たことを話している」、というのと、「父から聞いたことを行っている」というのはどう違うのでしょうか。
考えさせられる、謎めいたイエス・キリストの言葉です。
これまでユダヤ人たちは、「ナザレのイエスがやっていることはモーセの律法に即して正しいのか正しくないのか」ということを見極めようとしてきました。一見するとナザレのイエスがやっていることはモーセが伝えた掟に反しているように見えたのです。仕事をしてはならないとされている安息日に、癒しの奇跡をおこなってきました。
しかしイエスが人々に律法の教えを説くのを聞くと、驚くほどモーセの律法について詳しく、また律法の言葉をまるで自分の言葉のように人々に教えていたのです。そして安息日であっても、神の力としか思えない力をもって人々を癒していたのです。
人々は「イエスは一体何者か」と何度も考えさせられることになりました。そして今「イエスは何者か」というところから「イエスの父とは何者か」そして「自分たちの父とは誰なのか」ということを考えさせられることになります。議論の焦点はモーセの律法に照らして、イエスは正しい人かどうか、ということから「アブラハムの子」というユダヤ人たちの自己認識に移っていくことになるのです。
主イエスの言葉を聞いてユダヤ人たちは「私たちの父はアブラハムです」と言い返しました。これはユダヤ人であれば誰もが思っていたことです。
創世記に神がアブラハムに幻の中で語られた出来事が記されています。神はアブラハムにおっしゃいました。「あなたから生まれるものが跡を継ぐ」
ある夜、神はアブラハムを天幕の外へと連れ出して夜空を見上げるようにおっしゃいました。「天を仰いで星を数えることができるなら数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」。アブラハムはその言葉を信じました。その後、神は共にアブラハムをお訪ねになり、百歳になったアブラハムに子供が生まれることをお告げになりました。その言葉は本当になり妻サラはイサクを生みました。
ユダヤ人たちは「あの時神がアブラハムに約束された祝福こそが自分たちである。自分たちこそがアブラハムの子孫である」と考えていました。それがイスラエルの信仰であり、自己認識だったのです。
旧約聖書にはそのような表現がいくつもあります。出エジプト記4章22節で神はファラオにおっしゃっています。「イスラエルは私の子、私の長子である」
またイザヤ書63章16節には信仰者たちの祈りが記されています。「あなたは私たちの父です。アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても主よ、あなたは私たちの父です。」
このようにイスラエルの人たちユダヤ人たちは、代々自分たちのことをアブラハムの子であり神の子であると考えてきました。実際そうなのです。主イエスご自身もユダヤ人たちに向かって「あなたたちがアブラハムの子孫だということはわかっている」とおっしゃっています。
しかし主イエスはそれでも「あなたがたは本当にアブラハムの子孫だと言えるだろうか」と問いを投げかけられます。
「アブラハムの子ならアブラハムと同じ技をするはずだ。ところが今あなたたちは神から聞いた真理をあなたたちに語っているこの私を殺そうとしている。アブラハムはそんなことをしなかった。」
ユダヤ人たちが、あの信仰の父と呼ばれるアブラハムの子孫であるならば、父アブラハムと同じことをするのではないか、ということです。
アブラハムは神を受け入れ神の言葉を信じ従った人でした。神の召しに従い、故郷を離れ、神の言葉に従い、独り子イサクを捧げようとしました。信仰の人アブラハムの生涯は、試練の生涯でした。信仰の試練の中で神に従い抜いたアブラハムは、だからこそ祝福の民の源となったのです。
アブラハムの信仰の歩みは、次の世代、またその次の世代へとつながり、世代を超えて信仰の実りを結んでいくこととなりました。私たちはその祝福の連鎖の中に生きています。私たちの信仰が次の世代への種まきとなり、私たちの信仰の足跡が、次の世代の人たちにキリストへの立ち返りの道しるべとなるのです。アブラハムが神に従ったように私たちがキリストに従うことが、のちへと続く種まきとなって、その種は神の御業によって実を結ぶことになります。
しかし、果たして主イエスに対して殺意を持っているこのユダヤ人たちは、神を信じ従ったアブラハムの信仰に倣っていると言えるでしょうか。神から遣わされた方を信じない、それどころか殺そうとするというのであれば、アブラハムは反対のことをしているということになります。
ユダヤ人たちは主イエスにさらに食い下がります。
「私たちにはただ一人の父がいます。それは神です」
主イエスは聞こうとしない彼らに対して、非常に厳しいことをおっしゃいました。「あなたたちは悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない」
痛烈な言葉です。「悪魔は最初から人殺しであった。」これは創世記の初めでカインが弟のアベルを殺したことを思い起こさせる言葉です。
ヨハネの手紙一3章12節以下にこう書かれています。
「カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く兄弟の行いが正しかったからです。だから兄弟たち世があなた方を憎んでも驚くことはありません」
私たちが今読んでいる新約聖書は、信仰の危機の時代に書かれました。信仰の危機だからこそ、このような信仰の書が紡がれました。ヨハネの手紙の中には「偽預言者が大勢世に出てきている」と書かれています。
イエス・キリストの時代数十年が経って、偽預言者たちがキリストの教えを捻じ曲げて世の人たちを惑わしていた時代に、正しいキリストへの信仰を守るために福音書や手紙が書かれたのです。
ヨハネの手紙では「反キリスト」という言葉が使われています。
「終わりの時が来ています。反キリストが来るとあなた方がかねて聞いていた通り今や多くの反キリストが現れています。・・・偽りものとはイエスがメシアであることを否定する者ではなくて誰でありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」
キリストの時代から、聖書の諸文書が書かれた時代から長い時間が経った今、なぜ聖書はまた読まれているのでしょうか。反キリストの時代が続いているからでしょう。そうでなければ、聖書など読まなくても人はキリストへの信仰を持てるのです。
しかしキリストへと正しく導く言葉がなければ、人は神の国へと向かうことはできません。私たち人間にはいつでも、信仰の逆風が吹いているからです。
イエス・キリストは十字架と復活の御業を成し遂げられました。使徒言行録にはキリストが天に帰られた後どのようにキリスト者たちがイエス・キリストを世に証言したのかということ証しています。
聖書に記されている福音の物語は今の私達にまで連綿と続いて来ました。私たちはこの神の大きな救いの御業の物語のただ中を生きておりはい今も聖書に証しされているのです。聖霊の力によって動かされ、自分たちの思いを超えた信仰の道を日々示されているのです。
キリストが世に来られ、神の許しの御業を示してくださいました。そしてその御業を伝えるキリスト教会の群れが起こされました。しかしそれで終わりではなかったのです。
そこから教会の信仰の戦いは始まり、今まで続いて来ました。私たちは、自分にとって神に従い続けること、キリストを求め続けるということがどんなに困難なことかを知っています。四六時中世の誘惑に晒されているのです。
今私たちが生きているこの時代もまた反キリストの時代なのです。いろんな形でキリストの言葉ではなく、世の人々が聞きたがる言葉を語り、自分の正義のために神の名を用いる人は多いのです。
今まで、反キリストの時代ではなかったことはないでしょう。今日読んだ最後のところでイエスキリストはこうおっしゃっています。「神に属するものは神の言葉を聞くあなたたちが効かないのは神に属していないからである。・・・「神に属する人は神の言葉を聞く。しかし神に属さない人は神の言葉を聞こうとしない」 Continue reading →
【次週 礼拝(10月7日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:ヨハネ福音書8:31~38
交読文:詩編18:40~46
讃美歌:讃詠546番、60番、168番、270番、頌栄540番
【牧師予定】
◇10月15日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道委員会
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
集会案内
主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
祈祷会: 日曜日 Continue reading →
ヨハネ福音書8:31~38
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
ユダヤ人の仮庵祭は水と光の祭りでした。その最後の日に主イエスはご自分こそ「命の水」であり「世の光」であると明言されました。主イエスがエルサレムで何かをおっしゃるごとに、人々は「イエスとは何者か」ということを議論しました。
今日読んだところの直前、30節を見ると「多くの人々がイエスを信じた」と書かれています。そして今日読んだはじめの所、31節で「イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに言われた」と続いています。
その主イエスを信じようとする人たちにおっしゃった言葉は、こういうものでした。「私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」主イエスは、誰にでもこうおっしゃったのではありません。ご自分を信じようとする人たちにおっしゃいました。
真理が私たちを自由にする、という言葉には新鮮な驚きを感じるのではないでしょうか。主イエスがおっしゃっている真理とはご自分のことです。信仰とか聖書とかいう言葉に置き換えてもいいでしょう。
普通、
「聖書の教え」とか「律法」とか「信仰」とか聞くと、私たちの生活を縛るもの、制限するもの、という風にとらえられがちです。「宗教的な戒律など、自分の自由を制限するものではないか」、と考えてしまいます。「キリストに従う、またキリストの教えに従うということは、自分らしさを押さえつけなければならないのではないか」と思うのです。
しかし、主イエスは反対のことをおっしゃいます。
「真理はあなたを自由にする」
道を求め、神のもとにある平安を求めている人には大きな希望となる言葉です。
しかし、「自分はすでに自由であり、イエスが言っている自由など必要ない」と考える人にとっては、戸惑いを感じる言葉でした。ユダヤ人たちは主イエスの言葉を聞いて不思議に思いました。「私たちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」
彼らは「自分たちは奴隷ではない、自分たちは自由だ」と考えていました。自分たちが何かから解放される必要があるなどということは考えてもいなかったのです。その理由は「自分たちがアブラハムの子孫だから」です。
「アブラハムの子孫である」という自己認識を彼らは強く持っていました。アブラハムの子孫である」ということはすなわち自由であり、何かから解放される必要はないということを意味していました。
ここでまた主イエスとユダヤ人たちの意識が食い違っています。ユダヤ人たちは自分たちは何にも縛られない自由なアブラハムの子孫であると考え、主イエスは彼らは何かに支配されているとご覧になっていました。
確かにユダヤ人たちは奴隷という身分にはなかったかもしれません。特にここに出てくるユダヤ人というのはユダヤ人の指導者たちのことなので社会的には高い地位にある人たちでした。自分たちが何かの奴隷とされているなんて言うことは考えてもいませんでした。
この時代、ユダヤ人はローマ帝国という巨大な帝国の支配下に置かれていたので「外国の支配のうちに生きている」という意味では奴隷と言えるかもしれません。しかしローマ帝国では法によって支配されその法を犯さない限りは平和に暮らすことができたのです。
だから自分たちが主イエスによって自由にされる、主イエスが自分たちを解放してくださるということがよくわかりませんでした。そもそも「私たちは自由だ」と思っていたのです。
主イエスが彼らにおっしゃったのは「罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」という言葉でした。イエス・キリストはこの世は罪の支配の下にあるとご覧になっていました。この世は罪の奴隷とされている、この世は創造主である神から離れている、とご覧になっていたのです。この世を神の平和の支配の元へと連れ戻すこと、それがメシアの使命であり、主イエスが世に来られた理由でした。
キリストの使徒パウロがローマの信徒の手紙の中でこう書いています。「あなた方は罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るかどちらかなのです」
人は神の奴隷として生きるか罪の奴隷として生きるか・・・言葉を変えると、神と共に生きるか、神から離れて生きるか、どちらかだということです。
多くの人は、神から離れて生きることが自由だと感じます。宗教的な戒律に縛られたら自分の自由がなくなる、と思うでしょう。自分の支配者は自分であるべきであり、自分は誰の支配からも自由でありたい、と考えるでしょう。
しかしよく考えると、神から離れたそこに本当の自由はあるのでしょうか。私たち人間は自分自身を持て余すのです。思うようにならないことばかりです。生活も、人間関係も、気楽に気ままに生きることなどできません。人間は自分の手綱をうまくさばくことすらできない、頼りなく弱いものだと、生きていれば気付いてきます。
人間は自分で自分をどうすることもできないのです。自分ほど思い通りにならないものはありません。自分の欲望や弱さに振り回され簡単に誘惑に負けてしまう、自分の意図しないところで、誰かを気付ける・・・実は自分は罪の奴隷である罪の支配下にあるということに気づいていくのではないでしょうか。
パウロが言っている「神の奴隷」とは何でしょうか。神の恵みの支配のうちに生きるということです。そしてそれがわれわれ人間にとっての本当の自由である、ということです。
「神の奴隷として生きる」と聞くと、なんだか堅苦しくて自分の楽しみを全部脇に置いて苦行を続けないといけないようなイメージを持ってしまいますが、そうではありません。そこに本当の自分らしさがあるのだ。被造物が創造主の愛のもとに生きるというところに私たちの本当の自由と平和があるのです。
では具体的にその自由がどこにあるのでしょうか。イエス・キリストのもとにあるのです。だからキリストははっきりとここで「私の言葉にとどまりなさい。そこに真理がありその真理があなたを自由にする」とおっしゃいます。
主イエスはこの後ご自分のことを葡萄の木に例えて弟子たちにお話しなさいます。「私はぶどうの木、あなたたちはその枝である」「枝が木から離れては実を結ぶことができない」「それと同じようにあなたたちは私と離れては生きて行くことができない」
だから「わたしにつながっていなさい」とおっしゃいます。「聖書をよく勉強しなさい」ではなく、「私につながっていなさい」です。聖書の知識がどれだけたくさんあっても、律法の掟に従う生活を続けても、イエス・キリストにつながっていなければ意味がないのです。
主イエスはここで「私の言葉に留まるならば」とおっしゃっています。この「留まる」という言葉は、「つながっていなさい」というのと同じ言葉です。イエス・キリストにつながっている、というところに私たちの本当の自由があるのです。
なぜ主イエスは繰り返し「私の言葉にとどまりなさい」「私につながっていなさい」とおっしゃっているのでしょうか。イエス・キリストの弟子となるということは一度きりの点で終わる出来事ではないからです。それは一生涯にわたることであり、その一生涯の全ての瞬間において、絶えず主イエスから離れる危機が訪れるからです。
律法を重んじるユダヤ人たちにとって、律法が真理でした。理性と哲学を重んじるギリシャ人たちにとって、理性と哲学が真理でした。そして今、主イエスは、ご自分が真理である、とおっしゃいました。イエス・キリストのもとに、私たちにとって必要なすべての問いと、すべての答えがあるのです。
私たちは今、イエス・キリストのことを知っています。最初に聖書を読んで、「これは自分のための言葉だ」と思った時、喜びがあったでしょう。「キリストは確かに私を愛してくださっている」と思えた時、喜びがあったでしょう。
しかし、その喜びを持ち続ける、ということは簡単なことではないのです。何かあるとすぐに、聖書の言葉を、キリストの愛を疑います。キリストという真理にとどまり続ける、つながりつづけることは簡単ではないのです。
今日読んだところに出て来た、主イエスを信じるようになった人たちも、すぐに主イエスから離れていくことになってしまいます。少し先を読むとこの人たちが主イエスの言葉を聞いて去っていったということが書かれています。
主イエスの言葉を信じ従おうとして結局主イエスの教えをよくよく聞くと立ち去ってしまう・・・これまでと同じなのです。一度は主イエスのことを信じるけれども、結局自分の考えとは異なる主イエスの教えを聞いて、「そんなことなら信じるのをやめよう」、とみんないなくなってしまうのです。
今私たちの周りでも起こっていることです。その中で私たちは問われます。イエス・キリストは、人々がご自身から去っていくのをご覧になりながら、12弟子たちにお尋ねになりました。
「あなたがたも、離れていきたいか」
何かを、また誰かを信じようとするとき、自分に都合よく信じたいと思う私たちにとって、そのキリストからの問いかけは非常に厳しいものです。私たちを真理から引き離そうとする誘惑の力、罪の力は絶え間なく私たちを襲うのです。キリストに出会った喜びも、聖書の真理に感動した嬉しさも、時間が経って新鮮さが薄れていく中で、この世の一瞬の快楽の誘惑が常に私たちにささやいてきます。
だからこそ、私たちには聖書の言葉が必要なのです。パウロは、イスラエルが歴史の中で犯した様々な過ちによって滅んでしまった体験を、「これらの出来事は、私たちを戒める前例として起こったのです」と書いています。罪の働きを、人間の弱さを、聖書は教え、私たちの信仰に警鐘を鳴らすのだ。 Continue reading →