創世記6:1~8
「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」
今日からアドベントに入ります。創世記の初めに記されている出来事を読みながら、我々人間の根源にあるものを見つめていきたいと思います。そして、このアドベントの時、なぜこの世にイエス・キリストがお生まれになったのか、ということを改めて捉えなおしていきましょう。
今日私たちが読んだのは、「ノアの箱舟」と呼ばれる有名な話の冒頭部分です。神が洪水を起こされ、この世界を押し流されます。その中でノアの一家が選ばれて、箱舟に被造物を入れて生き延びることを命じられます。その先で、神はノアを通じて被造物との間に平和の契約を交わされることになります。ノアの箱舟の物語は洪水で世界が滅ぼされることの印象が強いので、全てはこの契約のためであった、ということはあまり知られていないかもしれません。
聖書は、旧約聖書と新約聖書の二つが一つになって「聖書」となります。旧約・新約というのは、旧い契約、新しい契約、ということです。神がアブラハムと結ばれた契約や、モーセを通してイスラエルと結ばれた契約、ダビデとの契約などが旧約聖書中に記されていますが、このノアとの契約が最も古い、全ての被造物と結ばれた一番根源的な契約なのです。
私たちが一被造物として、神と自分の関係を見つめる際に立ち返るのが、このノアの契約です。そしてここから、私たちに与えられた神との最後の契約、イエス・キリストの十字架の地によって結ばれた新しい契約への歩みが始まっているのです。
私たちは考えたいと思います。なぜ、神は、この歴史の中で、被造物と、人間と平和の契約を結んでこられたのでしょうか。なぜ「契約」の必要があったのでしょうか。
その理由は、神が人を愛していらっしゃるからです。そして、自分を愛してくださる神に対して、人が背を向けるからです。
神は人と歩みを共にしたいと願っておられますが、人は神から離れようとしてしまいます。人は自分の目に映る安易な救いに、一瞬の快楽へと流されて行ってしまうのです。罪の中を歩む人間に、神は何度も預言者を送られ、招きの言葉・許しの言葉を聞かせ、立ち返りをお求めになってきました。
人間が神から離れるたびに、神は人間をご自分の元への招き、連れ戻し、そこで「もう離れてはならない」とおっしゃり、「これから共に生きよう」と契約を結ばれたのです。それでも人間はまた神に背を向けるのです。
人間の歴史は、これの繰り返しです。聖書は私たちにそのことを学ばせ、正しい道を歩ませるために書かれ、今まで残されてきました。
聖書を読むときに一番大切なことは、この中に書かれているのは契約の歴史である、ということです。今日から私たちは最初の契約がどのように結ばれたのかを読んでいくことになります。
今、私たちには最後の契約が与えられています。神の子イエス・キリストの、十字架で流された血による契約です。「神、我らと共にあり、我ら、神と共にあり」。言葉にすればただこれだけのことだが、これが聖書に記されている全ての言葉が示していることです。
私たちが神について考えるとき、ここに立ち返って、そもそも被造物である自分がどこに、またどなたに立ち返るべきなのか、ということを聖書はここで教えてくれているのです。
さて、ノアの箱舟の物語は、「地上に人の悪が増した」というところから始まっています。神が洪水を起こされるのは、その悪を流すためでした。神はこの世界にどのような罪をご覧になったのでしょうか。
人間がどんな悪を行っていたのか、それを知ろうとしてここを読んでも、あまりよくわからないのではないでしょうか。1~4節には不思議なことが書かれている。
「神の子ら」が「人の娘たち」を妻にした、とあります。それをご覧になって神は、人の一生を120年にされました。そして、神の子らと人の娘たちの間にはネフィリムが生まれた、と書かれています。ネフィリムは、巨人とか英雄という意味の言葉です。
私たちはここを読んで、戸惑うのではないでしょうか。神の子らが人の娘たちを妻にして、ネフィリムを生んだ、というのはどういうことなのでしょうか。何が言われているのか、何が罪なのか、というのがよくわかりません。
正確な意味は分かりませんが、聖書は人の罪をこのような神話のような形で描いています。私たちがここを読んでなんとなくわかるのは、神が良く思われない関係性が、この世界に広がっていた、ということです。
「神の子ら」と「人間の娘」たちの結婚と聞くと、神と人間の境がなくなっているような響きがあります。創世記1章で語られた「混沌」の世界へと戻ったような、神がお創りになった世界の秩序が崩壊しているよう響きがあります。
私たちは6章を読みましたが、この前の5章は、「アダムの系図」として最初の人アダムから始まった、人間の系図が記されています。アダムからノアまでの系図だが、人は何百歳までも生きていたことが書かれています。
そこに書かれている人々の系図の中には、カインがアベルを殺したり、カインの子孫であるレメクが、暴力的な力をふるって神の前にもおごり高ぶるようになったりした、罪の歴史も含まれています。
その文脈で読むと、人の一生が120年と定められたことの意味が分かるのではないでしょうか。人が永遠に生きると、永遠に罪を犯してしまうのです。私たちが生まれ、年を重ね、肉体の死を迎えるということの摂理を聖書は教えています。
人の命を120年と定められた後も、神は悩まれました。
「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」
神が天地創造の御業を後悔されるほど、人の罪は深く、そして地上に広まっていたのです。そして7節で神は決断されます。
「私は人を創造したが、これを地上から拭い去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。私はこれらを造ったことを後悔する」
神は人間だけでなく、他の被造物まで拭い去ることを決断なさいました。人間の罪は、自分たちだけでなく、自分たちが住んでいる環境まで滅びを招くことになるのです。
創世記の1章から11章は、「原初史」と呼ばれる不思議な物語が連続して描かれています。天地創造や、エデンの園、兄弟殺し、ノアの洪水や、バベルの塔などです。これらの不思議な物語は一体何なのでしょうか。そして、これらをはじめに読んだ人たちは、どのように読んだのでしょうか。
旧約聖書の初めに置かれている創世記は、紀元6世紀のバビロン捕囚の際に記された、と考えられています。BC587年、エルサレムがバビロニア帝国の軍隊によって滅ぼされました。神殿は破壊され、人々はバビロンへと連行されました。
故郷を破壊され、全てを失った人たちは、なぜ神の民であるイスラエルが滅んでしまったのか、ということを考えざるを得ませんでした。滅びを体験した人たちは、自分たちの偶像礼拝の歩みによって滅びを招いてしまったことに気づきました。そのような信仰の反省の中で聖書の言葉は書かれ、読まれてきたのです。
故郷エルサレムを失い、信仰の拠り所であったエルサレム神殿まで失った当時の人たちは、この「ノアの箱舟」の物語をどう読んだでしょうか。神との正しい関係性が失われ、悪がはびこっていた地上が、神の御手によって洗い流されてしまう、という物語です。
当時の人たちは、自分たちに起こったこととして読んだでしょう。そして、ここで神がおっしゃっている「常に悪いことばかりを心に思い計っている」人たちの中に、自分たちの姿を見出したでしょう。
その当時、「神の子」というのは、王様を指す言葉でした。「神の子らが人の娘たちを妻にし、ネフィリム生まれた」という謎めいた言葉は、イスラエルの王が偶像礼拝を取り入れ、正しくない信仰が生まれていった、ということなのかもしれません。
神に背を向ける歩みの先にある滅びがどんなに恐ろしいのか、ということを伝える、警告の物語であることは間違いないでしょう。
しかしそのような中にも神が希望を見いだされました。ノアという人です。神は、洪水の向こう側で、ノアを通して新たに神の民が生まれてくるのをお求めになります。
ノアは、偶像礼拝の時代における真の信仰者の象徴です。バビロンへと連行された人たちは、イスラエルの信仰の担い手でした。滅びの中から生き残り、捕囚とされながらも生かされた自分たちのことを、このノアの姿に重ね合わせたのではないでしょうか。ノアは、正しい信仰者は、滅びの中の希望とされるのです。
旧約聖書の列王記上19章に、預言者エリヤとバアルの預言者450人の対決が記されています。たった一人でバアルの預言者に勝ったエリヤは、今度はイスラエルの王に恨まれることになります。
王妃イゼベルは、エリヤに使者を送って、「必ずあなたを殺す」と伝えました。エリヤはその場から逃げ出します。彼は偶像礼拝の中で、真の神への信仰を貫く辛さを味わうことになりました。
そのエリヤに神はおっしゃいます。 Continue reading →