創世記8章20節から22節
「人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」
神は、人の悪を地上から拭い去るために洪水を起こされました。1年にわたって水は地上を覆い、ノアとその家族を入れた箱舟は水の上を漂いました。最初の天地創造が7日でなされたのとは違い、神は1年以上かけてこの世界を新しくされました。
この洪水物語は、今の私たちに何を語り掛けているのでしょうか。人間が正しい生活を続けていないと、こんなに恐ろしい天変地異が襲う、という警告の物語なのでしょうか。神を怒らせると自分たちに災難が降りかかってくる、という戒めの物語なのでしょうか。
洪水が終わってノアが箱舟から出て最初にしたことは、「主のために祭壇を築く」ことでした。つまり、神への礼拝だったのです。箱舟から出て、「さあ食料を探そう」「さあ、新しい家を造ろう」ではなく、ノアと一家がしたことは神への礼拝でした。
6章から9章まで続く洪水の物語は「新しい創造の物語である」ということを話してきました。その「新しい創造」とは、「新しい礼拝の創造」だったのです。神が起こされた洪水は、人を悪の生活から礼拝の生活へと導くものでした。これは単なる破壊の物語ではないのです。
このノアの洪水物語は、この世界を洪水で流された神の御心を疑いたくなるのではないでしょうか。なぜ神はこのような破壊を行われるのか。
同じように私たちは、自分の生活の中で何か理解できない不条理があれば、すぐに神の御心を疑います。しかし、私たちはこの物語から一つ教えられているのは、いかなる苦難も、不条理も、そこには被造物に示される、礼拝への道筋があるということなのです。
私たちは今日読んだところの最初で、ノアが箱舟を出て最初にしたことは礼拝であった、ということを見ました。それは言い方を変えると、箱舟を出て最初に礼拝をしたのは、ノアという人であった、ということでもあります。
ノアは「焼き尽くす捧げ物として清い家畜と清い鳥を祭壇の上にささげ」ました。21節を見ると、「主は宥めの香りをかいだ」とあります。神は、ノアの捧げもの、ノアの礼拝によって慰められたのです。
ノアは「慰め」という意味の名前です。5:29に、ノアの名前の由来が書かれています。ノアの父親のレメクは、ノアが生まれた時、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言ってその名前をつけました。
ノアはその名の通り、人が大地に生きる苦労を慰める人、そしてその大地で悪を行っていた人間に対する神の怒りを慰める人でした。そしてその慰めは、礼拝によってもたらされたのです。
ノアの礼拝を受けて、神は心の内にこうおっしゃいました。
「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。私はこの度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」
神は人や大地を呪うこと、そしてことごとく生き物を打つようなことはもう二度としない、と決断されました。神にその決断をさせたのが、礼拝だった、ということを我々はここで覚えたいと思います。
そしてもう一つ、面白いことが言われています。人間について神はこうおっしゃっています。
「人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」
地上に人間の悪がはびこっていたので、それを流されたというのであれば、人間の心が水できれいに洗われたということではないのでしょうか。そうではないのです。
洪水で滅ぼされても、人間の心は変わらなかったのです。では、洪水で何が変わったのか、何が新しくなったのか、というと、神の心の方でした。
このことは面白いと思います。洪水によって人の悪が流され、人間が清くなった、というのではありません。洪水によって人間が変わった、というのではなく、神がご自分の考えを変えてくださった、というのです。
神は洪水の後でも人間の心の中に悪があることをご覧になりました。しかし、人の悪をご覧になるたびに滅びを繰り返すことは問題解決にならないとお考えになりました。ノアの礼拝を受けて、神はその滅びの繰り返し以外の解決を探ることを決断されたのです。
地上に悪が広がれば滅ぼして新しくする、というのであれば、世界はノアの洪水の後も、何度も何度も滅ぼされることになったでしょう。しかし神は人の悪に対して忍耐して、人に立ち返りを呼びかかけ人の悔い改め・立ち返りを待つ時を過ごしてこられました。
預言者を送り、ご自分への信仰の立ち返りにこそ世界の調和がある、ということをお伝えになり、正しい礼拝への招きを忍耐をもって続けてこられたのです。
神が、人間の罪に対して、立ち返りを待つという決断をしてくださったということが、ここで私たちに与えられた大きな恵みなのです。そして神のその忍耐の決断は、礼拝によるものでした。
私たちは改めて、礼拝というものの大切さを捉えなおす必要があると思います。私たちの一回一回の礼拝が、どんなに深い意味をもっているか、ということです。ノアが捧げた礼拝は、神の心をなだめ、慰めました。そのことで、神は、「世界を二度と呪うことはやめよう」と決断されました。
礼拝は、神との交わりそのものです。そして私たちの礼拝が、この世界の調和の存続に対して役割を果たしていくのです。
ノアは、全ての清い動物と全ての清い鳥を捧げました。神に相応しい清いいけにえを捧げたのです。アベルが羊の群れの中から肥えた初子を神にささげ、神がその子羊に目を留められたように、ノアはもっともよいものをまず神にささげました。自分が一番いいものを確保して、残りを神にささげたのではありません。
キリストの使徒パウロが、ローマの信徒への手紙12章で、こう書いています。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」
礼拝の中で私たちは最も大切なものを神にささげます。それは何でしょうか。それは、私たち自身です。
ヨハネ福音書で、キリストがサマリア人女性にこうおっしゃっています。
「真の礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝するものを求めておられるからだ。神は霊である。神を礼拝するものは、霊と真理をもって礼拝しなければならない」
私たちの礼拝の先に、世界の調和があるのです。私たちが今読んでいる洪水物語は、神の裁きから神への礼拝、そして神との契約へと至るこの物語です。この物語は、単なる娯楽として読まれたり、伝えられたりしてきたものではありません。この物語を通して、聖書は私たち読者に、神の前に生きる被造物としての在り方、信仰のあり方を訴え、私たちを礼拝へと招いているのです。
ノアの礼拝を受けた神は、22節でこうおっしゃっています。
「地の続く限り、種まきも刈り入れ、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜もやむことはない」
人間の罪が消えなくても、神はこの世界の営みを止められることはありません。大地からの実りによって生きる私たちから、神がその恵みを取り去られることはないのです。
キリストは山上の説教の中でおっしゃいました。
「父は悪人にも善人にも太陽を上らせてくださる」
私たちはこの世界の中に、どれだけの神の御業を、そして神の忍耐を見ているでしょうか。聖書は神の裁きの洪水物語を通して、私たち人間の根本的なあり方、生き方を示すのです。 Continue reading →