創世記6:9~22
「ノアは、その世代の中で、神に従う無垢な人であった」
聖書は神と人間の契約について書かれている書であることを先週お話ししました。神と人間は、何を約束・契約してきたのでしょうか。聖書に記されている神と人間との間に交わされる契約は、「和解の契約」です。
ノアの箱舟の出来事は最後に、神がノアを通して被造物と契約を結ばれることになります。それは、壊れていた神と被造物の関係が修復され「和解の契約」でした。この神とノアの契約が、これから聖書全体で描かれていく全ての契約の前触れであり、ひな形となっているのです。
この洪水の物語は不思議な内容ではないでしょうか。せっかくお創りになったこの世界を、神が大水で全て流してしまうことを決意なさる、というのです。聖書は創世記の初めで、このような洪水の物語を描くことによって私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。「この世界を造っておいて自分で滅ぼす、というのは、神の身勝手ではないか」、と思う人もいるかもしれません。
ここを見ると、神が後悔し苦しまれる様子が記されています。このことも、読む者にとっては驚きではないでしょうか。神は全能であって、悩みや苦しみなどあるはずがないと、普通は思うのではないでしょうか。
しかし、神は、この世界に人間の間の悪が広がるのをご覧になって悩み苦しまれました。人の罪がそれほどに深くなっていて、もう滅ぼすという選択肢しか残っていなかったということでしょう。神は悩み苦しまれて、ご自分の似姿として造られた、愛する人間を、そして人間の悪に染まった世界を滅ぼすことを決断されるのです。
聖書は、私たち人間が地上で行う悪をどんなに神が悲しんでおられるのか、ということを伝えているのだ。
そして我々人間の罪が何を自分たちにもたらすのか、ということの警告としてこの物語が語られているのだ。
そもそも、この洪水物語は、どこに焦点があるのでしょうか。神はこの世に滅びをもたらす恐ろしい存在だ、ということでしょうか。何か悪いことをしたら、因果応報として人間には悪いことが返ってくるということでしょうか。
これは、洪水の中でノアを通して被造物が新しくされた、という物語です。その時代の中で無垢な信仰を抱いて生きた信仰者が、祝福の源とされ、滅びの中に救いが与えられた、ということに焦点が置かれているのです。
「人間の悪が広がっていたからと言っていきなり世界を滅ぼしてしまわれた神のやり方は極端ではないか」、と考える人もいるかもしれません。しかしここには、滅びに至る人間の歩みから、まことに正しい人たちを、また人間の悪によって汚された被造物を救い出そうとなさる神のお姿があります。
この後になりますが、創世記にはアブラハムという人が出てきます。彼の甥のロトはソドムという町に住んでいました。ある日、アブラハムが天幕の入り口で昼寝をしていて、目を覚ますと、そこに神のみ使いが立っていました。
み使いたちは、自分たちがこれからソドムの町を滅ぼしに行くことをアブラハムに告げました。アブラハムは驚きます。甥のロトがそこに住んでいたからです。
アブラハムは、「正しい人が50人いたら、その50人も一緒に街を滅ぼしてしまうのですか」とみ使いたちに詰め寄りました。み使いたちは、「その正しい50人のために、町を滅ぼさない」と約束します。
アブラハムは、さらに食い下がります。「45人なら、40人なら」と言って、最後には、「10人いたらどうしますか」と言います。み使いは、「その10人のために私は滅ぼさない」と答えました。
結局ソドムとゴモラの町には10人も正しい人はいなかったようです。町は滅ぼされてしまいます。神はその滅びの中からご自分の言葉に従ったロトとその家族を町の外へと救い出されました。滅びの中から、正しい信仰者を救いへと選び出されたのです。
イエス・キリストは、マタイ福音書で「毒麦のたとえ」をお話しなさっています。ある人の麦畑に、敵が夜やってきて毒麦の種を蒔いていきました。麦の中に毒麦が生えてきたので、僕は主人に伝えます。「毒麦を抜いてしまいましょうか」
主人は「いや、毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と、実るまで待って、収穫の時に分けるやり方を選びました。。
これは、世の終わりにある神の裁きを語ったたとえ話です。ソドムとゴモラの滅びの出来事も、キリストの毒麦のたとえ話も、単なる滅びの話ではありません。人間の罪がもたらす滅びの中に、神が救いの御手を差し伸べられることを伝えています。。滅びの中で与えられる、救いへの選びがあるのです。滅びに向かう人間の悪の中にも、救いの道が閉ざされることはありません。
では、その選びは、何に根差しているのでしょうか。モーセは、出エジプトしたイスラエルの民に向かって、神が特別にイスラエルをお選びになってエジプトからお救いになったその理由についてこう語っています。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自身の宝の民とされた。主が心を引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただあなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。あなたは知らねばならない。あなたの神主が神であり信頼すべき神であることを。」申命記7章
神が貧弱な民イスラエルをお選びになったのは、ただ、愛されたからです。ただ、先祖と契約を結ばれた、その誓いを守られたからでした。そして「神がイスラエルの先祖と結ばれた」という契約の中に、このノアの契約があるのです。
人はこの洪水の後も、偶像礼拝に向かい、神との関係は繰り返し破綻してしまいます。しかし、神はもうこの地上を洪水で全て押し流すようなことはなさらないと契約されました。そして神はこの契約ゆえに、地上の人々がご自分から離れて悪を行っても、わずかにご自分の前に正しく生きる信仰者たち、残りの者たちを滅ぼすことはなさらないのです。
ノアという人を見たいと思います。ノアの物語は短い一文で始まります。
「ノアは、その世代の中で、神に従う無垢な人であった」
ノアという人について、我々が知ることができるのは、これだけです。人の悪がはびこっていた時代の中で、ノアという人だけはその正しさを失っていませんでした。
では、ノアの「正しさ」とは何でしょうか。「ノアは神と共に歩いた」と書かれています。それが、神がノアに見出された「正しさ」だった。
この前の5章24節で、エノクという人のことが書かれています。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」エノクは、神と共に歩んだので生きたまま天に上げられたというのです。
私たちは、エノクとかノアのように、聖書の中に名前が残るような人たちは特別な正しさをもっていて、誰も真似することが出来ないようなものだったのではないか、と思ってしまいます。しかし、エノクも、ノアも、我々と同じ人間です。
人間は、誰でも神と共に歩むことができるのです。誰でも本当は神を求める心を持っているはずなのです。
使徒パウロがローマの信徒への手紙の中でこう書いています。
「世界が作られた時から、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることが出来ます」
神のお姿をこの目で見ることが出来なくても、思いを神に向けることはできます。人は誰でも、この世界の中で、被造物に現れる神の存在を知ることが出来るのです。そして神との関係のうちにとどまることができるのです。
神のもとに留まり、神と共に歩む人を神はご覧になり、お選びになって、この世界を滅びから救っていかれるのです。ノアがそうであったように、私たちも、自分が生きるこの時代の中で、生きるこの場所で、救いの箱舟として用いられるのです。
神は洪水を決意されました。ただ世界を滅ぼすための洪水ではありません。悪を流し、創造の秩序を守るための洪水です。神はノアにお命じになりました。
「あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい」14節
ここで使われている「箱舟」という言葉は、特殊な言葉です。ここと、旧約聖書の中では出エジプト記の2章でだけ使われています。出エジプト記では、赤ん坊だったモーセを入れた「籠」を指す言葉として使われている。
創世記では「箱舟」と訳され、出エジプト記では「籠」と訳されている面白い言葉です。どちらにも共通するのは、救いの道具として用いられた、ということだ。箱舟は、ノアの一家と被造物を救うために使われました。籠はモーセを救うために使われ、モーセが救われたことで、やがてイスラエルが救われることになります。
そのように、「箱舟」はノアと被造物を守り、そのことが後の新しい世界へとつながっていったのです。 Continue reading →