創世記 7章
「主はノアの後ろで戸を閉ざされた」
暗闇の中に「光あれ」とおっしゃって、秩序を整えられた世界をご覧になり、神は「極めてよい」と思われました。そしてその「極めてよい」と思われた世界に、ご自分をかたどって人をお創りになります。人間は「産めよ、増えよ」という神の祝福によって押し出され、生きるということを始めました。
しかし、人は誘惑に負け、罪の力に支配されるようになっていきます。そしていつしか、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計るようになっていました。地上に人の悪が広まったのをご覧になって、神は心を痛め、悩み抜いたうえで、地上を洪水で拭い去ることを決断されました。
私たちはノアの洪水物語を読んでいます。神がお創りになった世界を、神ご自身がまた滅ぼされる、という恐ろしい物語です。しかし、これは、絶望の物語ではなく、希望の物語として描かれています。この洪水の後、神はノアを通して被造物と和解の契約を結ばれるのです。
神が悪とご覧になったその世代の中で、ノアという人だけは、神に従う無垢な信仰をもっていました。神は地上から悪を拭い去り、このノアという人から、新たな信仰の民・信仰の世界をお創りになることをお決めになりました。
大胆な言い方をすれば、この洪水の出来事は、新しい天地創造なのです。神と共に生きる人が選ばれ、神と共に生きる世界が新たに作られることになった・・・これはそういう物語なのです。
6章の初めで、神が地上での秩序の乱れをご覧になり、「私の霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉に過ぎないのだから」とおっしゃって、人の一生を120年に定められたことが書かれています。この世界が神と共に歩むための、正しい秩序として、神は人の一生を120年とお定めになったことも、神の創造の御業です。
洪水の後、神はノアと息子たちを祝福されます。
「産めよ、増えよ、地に満ちよ」
これは、神が天地創造の際、アダムにおっしゃった祝福と同じ言葉です。こうしてみていくと、「ノアの洪水・箱舟」の物語は新しい創造の物語、再創造の物語であることがわかります。
さて、その創造の御業は、どのようにして進められていったでしょうか。今日読んだ7章で、繰り返されている言葉があります。「ノアは、全て主が命じられたとおりにした」という言葉です。神が何かをお命じになるたびに、「ノアは、全て主が命じられたとおりにした」と聖書はくどいほど繰り返しているのです。
ノアとその家族が命じられたのは、神が将来に残そうとなさった被造物・生き物を箱舟へと乗せることでした。ノアは神の言葉に従います。それは、ノアと家族が、神の救いの御業のために働いたということなのです。神の新しい創造の御業は、ノアの信仰の従いによって進められていきました。聖書は、このことを力を込めて伝えています。
そのように見ると、今の私たちの信仰も、神がこの世界の秩序を整えていかれる創造の御業の一部とされている、と言っていいのではないでしょうか。今、私たちが生きている時代の中における救いの箱舟は、教会です。ノアが箱舟に被造物を入れたように、私たちは教会へと人々を招くのです。
ノアと同じように、人々を滅びの道から救いの道へと招こうと、この小さな群れが世の人々を救いの箱舟である教会へと招いているのです。洪水の直前、自分たちが箱舟に乗り、同時に他の被造物も救いの箱舟へと入れたあのノアの一家のように、私たちは切迫した神の裁きの時の中、世の人々を教会へと招く使命が与えられているのです。実はノアの物語は、私たち一人一人の物語でもある、と言っていいのです。
この物語を始めて読む人の多くは、「過去にこんな洪水が本当にあったのだろうか」ということを考えるでしょう。しかし、聖書が伝えてようとしているのは、そんなことではないのです。「この物語は、今のあなたを描いているのだ。あなたの姿をこの中に見出し、あるべき信仰を吟味しなさい」ということなのです。
信仰者は、教会という箱舟に人々を招きます。そして、神に造られたものとしての在り方を貫くのです。この世界の秩序は、神のみ言葉と、その言葉に従う信仰者の信仰の業によって整えられていくのです。
さて、これから洪水が起ころうとする緊張感の中で、ノアの一家が全員方舟に入りました。16節を見ると「主はノアの後ろで戸を閉ざされた」とあります。これは、ノアが生き物を箱舟に入れる作業がギリギリ間に合った、と言うことではありません。
神は、箱舟の戸を、外から閉ざされました。ご自身も一緒に箱舟に入って、内側から戸を閉じられたのではありません。箱舟の中でどのようにノアの一家が過ごしたのかということは書かれていません。救いの器である箱舟の外で、神が裁きの洪水を通してどのように世界を新しくなさったか、ということが描かれているのです。
ノアの一家や被造物を救いの器に入れ、神ご自身は外で被造物が滅びるのをご覧になりました。21節から23節は神が創世記1章でお作りになった被造物が一つ一つ死に絶えていく様が書かれています。「その鼻に命の息と霊のあるものはことごとく死んだ」とあります。衝撃的な一文です。
神はどのようにこの滅びをご覧になったのでしょうか。天地創造の際、神はご自分の息をこの世に吹き込まれて一つ一つの生き物に命をお与えになりました。土の器にご自分の息を吹き込まれて、人間は生きる者とされました。
しかし、ここを見ると、その秩序の根源である「神の霊」が地上から消えていく様子が描かれています。恐ろしい光景ではないでしょうか。
この洪水の物語を見ると、どうしても私たちは人間側の視点に立って「地上の全てを拭い去ることまでしなくてもいいのではないか」と思ってしまうのではないでしょうか。神はただ恐ろしい存在で、慈悲の思いがないのではないか、とさえ思えてしまうのではないでしょうか。
しかしこの洪水の後、新しい世界に生きるために救われたノアの一家と被造物との間に、神は契約を結ばれます。
「私は、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。・・・二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」
神は、もう世界の全てを滅ぼすことはやめようとおっしゃいました。そのことを契約なさいました。それで世界は穏やかな結末を迎えたか、というとそうではありませんでした。聖書は、その後の人間の罪の歩みを、たくさんの言葉を費やして私たちに描き出しています。
人の罪がこの洪水で全てなくなったかというとそうではなかったのです。世代が変わり、時代が流れるに従って、また人間は神から離れ、偶像礼拝へと進むことになってしまいます。
神は再び人間の罪を裁かなくてはならなくなります。どのように裁かれたでしょうか。「世界の全てを滅ぼすことはしない」と契約された神は、ご自分の愛する独り子、イエス・キリストに全ての人間の罪を背負わせ、十字架に上げ、人間が生きることを許されたのです。私たちはアドベントの時、このことを覚えたいと思うのです。
神は、箱舟の外でご自分の裁きの様子をご覧になりました。世界が拭い去られる様子を黙ってご覧になっていた神のことを、私たちは「冷たい神だ」と思うかもしれません。しかし、私たちが見るべきは、神の裁きを招いた人間の罪の方でしょう。
十字架の上で世の罪を贖われるキリストの姿を黙ってご覧になっていた神を、私たちは無慈悲な神だと思うでしょうか。独り子が十字架の上で苦しみ、死んでいくのを黙ってご覧になっていた神を、私たちは「冷たい神だ」と思うでしょうか。独り子が担った罪は、私たちの罪だったのです。
自分の罪に目を向けずこのノアの物語を読めば、神はただ恐い神、裁く神、怒る神のような印象だけが残るでしょう。しかし、この物語の中に自分の罪を見ながら読めば、私たちは、本当に恐れるべきは、自分の罪であることに気づくはずです。
創世記の物語をはじめに読んだ古代のイスラエルの人たちは、そのように自分たちが体験した滅びを、この洪水物語の中に見出したでしょう。バビロン帝国にエルサレムを破壊され、バビロンに連行され、捕らわれていた人たちです。
当時のイスラエルの人たちは、滅びを体験していました。故郷を破壊され、故郷を追われ、敵国で捕らわれの民とされていた人たちだったのです。
彼らは、歴代の預言者が伝えて来た言葉を思い出していました。
「神に立ち返れ、あなたたちは自ら滅びに向かっている」
イスラエルの歴史は、偶像礼拝の歴史でした。
バビロンで捕囚として生きていた人たちの中で、預言者エゼキエルは神の言葉を伝えます。
「主なる神がイスラエルの地に向かってこう言われる。終わりの日が来る。地の四隅に終わりが来る。今こそ終わりがお前の上に来る。私は怒りを送り、お前の行いに従って裁き、忌まわしい全てのことをお前に報いる。私は、お前に慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。お前の行いを私は報いる。お前の忌まわしいことはお前の中に留まる。その時、お前たちは、私が主であることを知るようになる」エゼ7:2以下
当時の人たちは、イスラエルの偶像礼拝の歴史を思いつつ、この物語を読んだことでしょう。そして、箱舟に乗って新しい神の民の源となったノアの一家に、バビロン捕囚を生き延びていた自分たちの姿を見出したでしょう。エルサレムの再建を目指しながら信仰の民として新しく歩みたいと願っていた自分たちの姿を見たでしょう。 Continue reading →