MIYAKEJIMA CHURCH

3月30日の礼拝案内

次週 礼拝(3月30日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書11:45~57

 交読文:詩編19:2~5

讃美歌:讃詠546番番、330番、329番、頌栄543

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

3月23日の礼拝説教

 ヨハネ福音書11:33~44

ラザロの死をめぐる人々の姿を見ています。ラザロの死に対して、イエス・キリストがどのように向き合われたか、またその中で兄弟を失ったマルタとマリアがキリストに対して何を訴えたか、ということをここまで見てきました。

ご自分の足元にひれ伏して愛する者の死と悲しみと怒りを訴えるマリアの祈りを聞かれて、イエス・キリストは激しく反応されたことが書かれています。マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になって、「心に憤りを覚え、興奮」された、とあります。また「イエスは涙を流された」と書かれています。そして、主イエスは「再び心に憤りを覚えて」ラザロの墓へと向かわれました。

四つの福音書の中でここまでイエス・キリストの心が・感情が激しく動いたことが書かれているのは、ここだけでしょう。福音書の中には、病や悪霊の支配に苦しんでいる人たちや、教えを求める霊的な飢え渇きをもった人たちを主イエスが憐れまれて、癒されたり教えたりされる姿は多く記されています。しかし、ここまで激しいお姿は他にはないでしょう。キリストはマルタ、マリア、そして人々と共に涙を流され、死の力に対して怒りを覚えられました。

マルコ福音書に、安息日の会堂の中で主イエスが手の萎えた人を癒された出来事が記されています。手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」とおっしゃって、そこにいた人たちにこう質問されました。

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」

会堂にいた人たちは黙っていました。その時、主イエスは「怒って人々を見渡し、彼らのかたくなな心を悲し」まれた、と書かれています。怒りと悲しみを抱かれる主イエスのお姿です。その時の主イエスの怒りと悲しみは、人々のかたくなさ、神の御心への無知に対するものでした。

ラザロの死を前にしての主イエスは同じように怒りと悲しみを覚えていらっしゃいます。そして思いは、会堂で感じられたその時よりも激しいものでした。

主イエスは涙を流されました。11:35は「イエスは泣いた」という聖書の中で一番短い一節です。一番短い一節だが、一番我々の心に突き刺さる一節ではないでしょうか。

そしてキリストはラザロの墓に行くことをお望みになりました。そこで死の力に向き合われることになります。

前にも引用しましたが、ヘブライ人への手紙の2章にはこう書かれています。

「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」

キリストは地上を生きる人々・私たちと同じ地平に立ってくださっています。私たちが信じる神は、人と全く同じところで、共に涙を流してくださる神なのです。どこか私たちには届かない、超越したところで、私たちを見下ろしていらっしゃるような方ではありません。

当時のギリシャ世界の世界観では、人間と神の間には無限の隔たりがありました。神は人間には接点がないからこそ、無限の距離があるからこそ、神は神であり、人々は神を信じていました。

しかし、聖書はそうでないことを証ししています。神は、自らが人と同じところに来て、共に泣いてくださる方なのです。聖書は、イエス・キリストがすべての点で人と同じになられた、と記しています。キリストにおいて神は、人間のすべてを体験してくださっています。痛みを、悲しみを、愛を、私たちのすべてを知っていてくださっているのです。

キリストの涙を見た人たちは周りで驚きました。それは、二通りの驚きでした。主イエスがどんなにラザロを愛しておられたか、という愛の深さへの驚き。そして、盲人の目を開けたこの人も、ラザロの死に対しては何もできなかったのか、という驚きです。周りにいたユダヤ人たちは、ナザレのイエスの力がどれほどのものなのか、どこまで及ぶのか、ということを冷静に見極めようとしています。

マルタは、主イエスが墓の石を取りのけるようおっしゃるのを聞いて、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。マルタも冷静です。彼女はついさっき、「あなたが世に来られるはずの神の子・メシアであると私は信じております」と言ったばかりでした。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」と聞いて、「はい、信じます」と言ったばかりでした。

それでもマルタは、主イエスが「墓の石をのけなさい」、とおっしゃってもその意味が分からなかったようです。マルタの信仰告白は、まだ表面的なものでしかなかったようです。キリストはそのマルタに、もう一度ご自分との会話を思い出させていらっしゃいます。

「もし信じるなら、神の栄光がみられると、言っておいたではないか」

「あなたはまだ本当に信じ切れていないのか」というキリストの更なる招きです。私たちはマルタのように、何度もキリストとこのやり取りを繰り返しながら信仰生活を続けているのではないでしょうか。小舟の中でキリストが嵐を鎮められた時、弟子達は「まだ信じないのか、信仰の薄い者たちよ」と叱られました。

マルタも、弟子達も、私たちも、いつも荒波の中でキリストを信じ切ることができず、それでも祈り、最後に、まだ信じないのか」とのお𠮟りを受けます。私たちの信仰生活はこの連続ではないでしょうか。

信仰の先で私たちが見るのは、神の栄光です。それは、信じようとする私たちの思いがなければ、見ることができないものなのです。そんなことがあるわけがないと思えることでも、キリストが「そちらを見なさい」とおっしゃるのであれば、私たちは従います。そしてその従いの先で、この世界が、神の栄光のうちにあるということを、我々は知るのです。

キリストは神に祈られました。11:42「私の願いをいつも聞いてくださることを、私は知っています。しかし、私がこういうのは、周りにいる群衆のためです。あなたが私をお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」

ラザロは、神の御業が現れる器としてお用いになりました。キリストは墓の中に向かって呼びかけられます。

「ラザロ、出てきなさい」

「ラザロ、さあ、外に」という言葉です。その声に応じて、ラザロは墓の中から出てきました。イエス・キリストがラザロを起こされたのは、日ごろから親しくしていたマルタとマリアの悲しみを癒すため、というだけではありませんでした。もっと大きな意味がありました。

ラザロの病の知らせを受けてから主イエスはおっしゃってきました。

「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」

「ラザロは死んだのだ。私がその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。」

主イエスはベタニアの村で、7つ目のしるしを行われました。死者の復活という最も大きなしるしです。ベタニアは「苦しみの家・戦いの家」という意味の名前の村です。象徴的ではないでしょうか。キリストは、「苦しみの家・戦いの家」において勝利されたのです。死の支配に対する勝利です。それは何のためのしるしでしょうか。人々を信仰への導くためのしるしでした。

ラザロは手と足を布で巻かれたまま、顔も覆われたまま墓から出てきました。主イエスはおっしゃいます。

「ほどいてやって、行かせなさい」

このキリストの言葉にも象徴的な意味が含まれています。復活のラザロは、新しい命へと生まれ変わった者の姿としてみることもできるでしょう。洗礼によって新しい命へと召された私たちは、このラザロの復活を通して考えさせられるのです。新しい命へと召されて、キリストにほどいていただくもの、キリストに取っていただく覆いとは何でしょうか。キリストを知って新しく歩み始める私たちが、後ろに投げ捨てるべきものとは何でしょうか。

ここで言われている「行かせなさい」というのは、主の祈りの中で使われている「許す」という言葉です。「われらの罪をも許したまえ」と言いますが、直訳すると「許したまえ」というのは「手放してください」という言葉だ。「私たちの罪を手放してください」という祈りです。

死から解放され新しい命へと起こされたラザロが、再び自由に自分の足で歩み始めることが許された。そしてラザロは後ろに投げ捨てるべきもの、手放すべきものがありました。

私たちは与えられた新しい命を生きるにあたって、何を手放すべきなのでしょうか。キリストによって自由とされた私たちが、まだ縛られているもの、ほどかなければならないものがあるのです。自分の信仰の目を覆っているものがあるのです。

私たちは誰を許すのだろうか。また、だれに自分の罪から解放していただくのでしょうか。自分を許し、隣人を許し、神の許しの中に生きるということが、新しい命を生きる、ということなのです。

使徒パウロは、手紙の中でこう書いています。

「私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます。私たちの一時の軽い艱難は、比べ物にならないほどの重みのある栄光をもたらしてくれます」2コリ4:16 Continue reading