5月12日の礼拝説教

ヨハネ福音書5:1~9

「よくなりたいか」

主イエスがガリラヤのカナに行かれた時、ある役人が自分の息子を癒してほしいと訴えて来ました。彼は、王の役人でありながら、ナザレのイエスに向かって「主よ」と呼びかけ、救いを求めました。ヨハネ福音書は、この癒しを「二回目のしるしである」と記録しています。

続けて、主イエスはユダヤ人の祭りに加わるためにエルサレムに上られました。これが何の祭りであったのかということは書かれていませんが、この時期、エルサレムには多くの巡礼者たちがいて、たくさんの人であふれていたことでしょう。

その祭りの中で、主イエスはエルサレムのベトザタの池のほとりで38年間病気で苦しんでいた人を癒されました。しかしそれは安息日でした。仕事の手を休めるべき安息日に、誰かを癒した、ということでこの後主イエスとユダヤ人たちの間で議論になります。

私達は今日読んだキリストによる癒しの出来事を通して、安息日とは何か、また安息日にしるしを行われたこのイエスという方は何者なのか、ということを見せられていくことになります。ただ、「キリストによって誰かが癒されてよかった」、というだけでは終わりません。

この癒しの出来事には、いろんな象徴的な意味が含まれています。ヨハネ福音書は、

「5つの回廊があった」ベトザタの池で、「38年間」病に苦しんでいた人がキリストによって救われた、ということを通して何か象徴的なものを見せようとしています。

ベトザタの池の近くにあった5つの回廊は、モーセ五書、律法の象徴と考えられます。

池のほとりに横たわっていた人の病気の年数は38年間でした。荒野をさまよったイスラエルの年数と重なります。モーセは出エジプトしたイスラエルに語りかけている。

「我々はゼレド川を渡ったが、カデシュ・バルネアを出発してからゼレド川を渡るまで38年かかった」(申命記2:13)

この病に苦しんでいた人は、神の言葉である律法が与えられていながら荒野の苦しみを感じていたイスラエルの象徴のような人なのです。

出エジプトをしたイスラエルは荒野を歩き続けました。神の律法をいただいて神に導かれ、神に養われていたにも関わらず、荒野の苦しみを感じ続けました。なぜでしょうか。私達は、キリストが出会われたこの病の人に、救いを求め荒野をさまよう人の痛みを見ることができるのだ。

それは過去のイスラエルだけではなく、今の私たちの痛みでもあります。

キリストは寝たきりになっている人をごらんになって「あなたは健やかになりたいのか、良くなりたいのか」とお尋ねになりました。ベトザタの池に通っている、ということは、「良くなりたい」ということです。いちいちそんなことを聞かなくてもわかることだし、その人もそう聞かれたら「もちろんです」と答えるのが普通でしょう。

しかし、この人の答えは「はい、良くなりたいです」ではありませんでした。

「誰も私を助けてくれないのです。みんな私を置いて行ってしまうのです。私には助けがないのです」

病気で横たわっていたこの人が抱き続けて来た本当の苦しみは、自分が立てないということ以上に、「誰も自分を助けてくれない」という孤独でした。自分を素通りして、皆、先に池の方に降りて行ってしまうのです。この人は自分を置き去りにして進んでいく人たちの背中を見送ることが、自分が病であるということ以上の痛みに感じていたのです。

キリストがこの人に何を見出されたのかは何も書かれていません。しかし、この人の言葉を聞いてすぐにおっしゃいました。

「起きなさい、あなたの寝床を担ぎなさい。そして歩きなさい」

イエス・キリストは人間の心の中に何があるのかをご存じである、と福音書は記しています。キリストは この人の心の内を確かにご覧になって、何かを見出し、癒しの言葉、救いの言葉をお与えになりました。

病の人はキリストの一言によって寝床を担いで起き上がりました。なぜキリストはこの人を癒されたのでしょうか。周りには他にも、この人のように何かしらの不自由を抱えている人たち、病の人たちがいたでしょう。なぜ、この人だったのでしょうか。この人だけ、だったのでしょうか。

キリストはこの人が一番可哀そうと思われた、ということなのでしょうか。この後を読めばわかりますが、癒された人自身が、この後キリストに癒された証し人となり、証の器として用いられていくことになります。キリストはこの人を、御自分の証の器として召し出されたのです。

聖書に描かれているキリストとの出会いはそういうものです。キリストに癒されて終わり、ではなく、その人がキリストを証しするために自分の生き方が変わる様が描かれているのです。

キリストに出会った人は、キリストに救われた者として生きるようになります。

「私に出会ってくださったのはイエス・キリストです。私を癒し、立ち上がらせ、歩ませてくださっているのは、イエス・キリストです」と言って生きるようになるのです。キリスト者は、自分がキリスト者である、ということで既に、キリストの証人なのです。

マルコ福音書に、ゲラサ人の地方でレギオンという悪霊の大群に取りつかれていた人のことが書かれています。その人はキリストによってレギオンから救われた際、「一緒に行きたい」とキリストに従おうとしました。

しかしキリストは、「自分の家に帰りなさい」とおっしゃって、自分の身に起こったことを人々に伝えるようにお命じになりました。この人は、「デカポリス地方に言い広めた」と書かれています。

デカポリスというのは、「10の町々」という意味の言葉です。キリストに出会った一人の人が、10の町々への証しの器とされたのです。私達がキリストに出会う、ということは、ただ、出会った、というだけでは終わりません。自分が思ってもみないような仕方でキリストに用いられていくことが始まる、ということなのです。

さて、キリストに癒された人に焦点を当てて見たいと思います。キリストはこの人の38年間を担われました。この人の38年の苦しみは何だったのでしょうか。この人は、神の救いを求め続けて来た人でした。全てを諦めているなら、ベトザタの池に通ったりはしません。天使が下りてくるときに動く水に、いつか自分も入りたい、と願っていました。その信仰の営みがあったからこそ、キリストが来られた時、この人はそこにいたのです。

イスラエルは出エジプトの荒野の旅の最後で、その旅の意味を知らされた。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。・・・人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」

病の38年というこの人の荒野の旅路は、イエス・キリストに出会うための38年となったのです。キリストに出会ったこの人のその後の人生は、痛みと孤独を知ったキリストの証人としての歩みへと変わりました。

マタイ福音書で、キリストは福音を聴いても悔い改めない人たちのことを嘆いて、こうおっしゃっている。

「疲れた者、重荷を負うものは、誰でも私の下に来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜なものだから、わたしのくびきを負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたはやすらぎを得られる。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである」

洗礼を受けてキリスト者になれば、痛みや病かとは無縁になるのか、というとそうではありません。むしろ、キリスト者だからこそ、担わなければならない、キリストのための痛みというものもあります。

ベトザタの池で長年横たわり、孤独の中で他の人たちが自分の脇をすり抜けて行くのを見送るしかなかったこの人のように、私たちだって、自分よりも先を行く他の人たちの背中を眺めてうらやむ時はあるでしょう。どうやっても自分で自分を救えない時・試練の時があります。

しかし、私たちにあるのは絶望ではありません。絶望の中に差し込む光を待つ、という選択肢が我々信仰者には与えられています。疲れた時、重荷を負った時、我々はイエス・キリストのくびきを負わせていただきます。それは、自分に課せられた重荷を共にキリストが共に担っていただくということです。

自分でなんとかできるのであれば何とかすればいいでしょう。しかし、どうあがいても道が見いだせない時があります。人としての頑張りではどうにもならない時、その場にしゃがみ込むしかない時が、人にはあります。 Continue reading

5月12日の礼拝案内

 次週 礼拝(5月12日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書5:1~9

 交読文:詩編18:32~35

讃美歌:讃詠546番17番、310番、399番、頌栄543番

【牧師予定】

◇5月12日(日)~15日(水) 東京に出張(島しょ部民生委員)

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後 Continue reading

5月5日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:43~54

「主よ、子供が死なないうちにおいでください」

ある一人のサマリア人女性を通じて、主イエスはサマリア人たちにご自身を示されました。シカルというサマリアの街に住んでいた人々は、サマリア人でありながらユダヤ人であられた主イエスの下に来て、「私たちは自分で聞いて、あなたが本当に世の救い主であると分かった」と言いました。ユダヤ人とサマリア人の間に会った壁を越えて、人々はキリストを見出したのです。非常に印象深い、主イエスのサマリア滞在です。

その滞在の後、主イエスはガリラヤへと移動されました。44節にこう書かれています。

「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。」

サマリアで人々からキリストとして受け入れられた主イエスでしたが、これからの故郷のガリラヤ滞在でどんなことが待っているのかを暗示している言葉です。

今日私たちが読んだのは、イエス・キリストが、最初のしるしを行われたカナで再び奇跡を行われた、という場面です。王の役人が、エルサレムでたくさんのしるしを行ったイエスという人に、自分の息子を癒してもらおうとしてやってきました。キリストはその人に「あなたの息子は生きる」という言葉をお与えになり、その言葉通り、役人の息子の病は治りました。

ヨハネ福音書はこれを、「イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた二回目のしるしである」と記録しています。最初のしるしは、カナの婚礼で水を葡萄酒に変えられた奇跡でしたが、福音書はその1つ目のしるしの後、キリストが行われたエルサレムでのたくさん行われたことを記録しています。しかしエルサレムで行われたそれらのしるしは数として数えられていません。「その他のしるし」のように扱っています。

ヨハネ福音書にはキリストが行われた大きな7つのしるしがあると言われています。

1つ目は カナの婚礼で水をぶどう酒に変えた奇跡

2つ目は 王の役人の息子の癒し

3つ目は 足の萎えた人の癒し

4つ目は 5000人にパンと魚をお与えになった奇跡

5つ目は キリストが水の上を歩かれた奇跡

6つ目は 盲人の癒し

7つ目が ラザロのよみがえり

ヨハネ福音書は最後で、「世界中の書物に収めきれないほど」キリストのしるしは行われた、と記録していますが、聖書が特に私たちに大切なしるしとして見せようとしているのが、これらの七つのしるしである、ということです。

これらの奇跡の出来事を通してヨハネ福音書は私たちに何を証ししようとしているのでしょうか。一言で言えば、「新しい時代が来た」、ということです。

主イエスはエルサレム神殿で、「新しい神殿を建てて見せる」とおっしゃいました。イスラエルの教師ニコデモには、「人は新しく生まれ変われなければ神の国を見ることはできない」とおっしゃいました。サマリアの女性には「私は生きた水である。エルサレムでもサマリアでもないところで礼拝がささげられる時が来る。今がその時である」とおっしゃいました。そして今日読んだところでは、キリストは御自分に癒しの救いを求める者に新しい命をお与えになりました。

キリストがもたらしてくださった、新しい神への招きの時代、新しい礼拝の時代、新しい命の時代は、私たちの生活の中に届いたのです。神殿の奥の、祭司しか入れないようなところで私たちはキリストと出会うのではありません。

生活の中にある痛みの中に、悩みの中に、自分の努力だけではどうしようもない苦しみの中で、祈るしかない中で、「渇く者は私の下に来なさい。値無しに命の水を飲ませよう」という御声を聞くことが出来る時代を迎えたのです。

今日私たちが読んだのは、単に「不思議な奇跡の業が行われた」というだけのことではありません。生活の中で、自分が考えてもいなかった方向から与えられるキリストの言葉・救いがある、ということ、そしてそのような恵みに満ちた新しい時代を生きているということを、福音書に証しされたしるしを通してかみしめたいと思います。

さて、サマリアで女性とお話しをなさった後、主イエスはガリラヤへと戻って行かれました。ガリラヤの人たちはイエスを歓待しました。人々は、エルサレムの祭りで主イエスがなさった奇跡を見ていたからです。自分たちの土地から出た英雄のように迎え入れました。

しかし、主イエスはガリラヤの人たちの喜びを冷めた目でご覧になっています。「預言者は、自分の故郷では敬われないものだ」という思いをもっていらっしゃるのです。

何か不思議な業を見た人たちは、興奮して御自分に近寄ってくるということをご存じでした。エルサレムでたくさんのしるしを行われた際、人々は主イエスの下にやってきました。2章の最後で、福音書にはこう書かれています。

「イエスご自身は彼らを信用されなかった・・・イエスは何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」 Continue reading

5月5日の礼拝案内

 次週 礼拝(5月5日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書4:43~54

 交読文:詩編18:32~35

讃美歌:讃詠546番16番、225番、376番、頌栄543番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

4月28日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:27~42

「さあ、見に来てください。私が行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」

主イエスとサマリア人女性がヤコブの井戸のそばで話している間、弟子達は町に買い物に出かけていました。女性が、「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています」というのを聞いて、主イエスは「それは、あなたと話をしているこの私である」とおっしゃいました。

女性にとっては、時が止まったような瞬間でした。自分が今聞いた言葉をなんとか飲み下そうと、女性は口をつぐみました。今、自分の目の前にいらっしゃるこの方が、自分で自分のことを「私こそがキリストだ」とはっきり言ったのです。確かに、この方は初めて自分に合うのに、自分のことを全て知っておられました。人には隠しているようなことまで全てご存じで、心の底まで見透かしていらっしゃいました。嘘を言っているようには思えません。

サマリア人女性が驚いて主イエスのことを見つめる時間が流れました。ちょうどその時、主イエスの弟子達がそこに帰って来ました。そして、今度は弟子達が驚きました。自分たちの先生が、サマリア人女性と話しておられるのです。

あまりに驚いて、女性に向かって「何の用ですか」とか、主イエスに向かって「この人と何を話していらっしゃるんですか」と尋ねる者もいなかった、とあります。主イエスと女性が見つめあっているのを見て、何かただならぬ話をしていた、という緊張感を感じたのでしょう。

女性は、戻って来た弟子達に目をくれることもなく、向かって行きました。よほど急いでいたのでしょう。水くみに必要な大切な水瓶を忘れて行ってしまいました。私たちは、女性がどれだけこの水くみの作業を嫌っていたかを、ここまで読んで知っています。これまで5人の夫をもち、今は夫ではない男性と暮らしていた人です。町の人たちから軽蔑の目を向けられ、女性は人目を避けて、一日の一番暑い時間帯、だれも井戸に水を汲みに来ない正午に通っていたのです。はやく水くみを済ませて、井戸から離れ、すぐに家に戻りたいと思っていた人です。

その人が、大切な水瓶をその場に残して町に行ったのです。「飲めばなくなる水・飲んでもすぐに渇く水」ではなく、「永遠に尽きることのない命の水」を見出したことの証拠だろう。

そして、今まで人目を避けて生きて来た彼女が、家々を回り、「さあ、見に来てください。私が行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と言いました。

なんという変わりようでしょうか。キリストに出会った人は、ここまで変わるのです。そして女性の言葉を聞いた町の人々は、「イエスの下にやって来た」とあります。町の人たちは信じるしかなかったのでしょう。

「この人は人目を避けて自分の家に閉じこもっていた人ではないか。その人が町中で自分を人目にさらし、『来てください』と言っている。この人が言っているのは本当のことではないか」と、人々は町を出て、主イエスのもとへと向かうことにしました。

さて、女性が町に向かってその場を去った後の弟子達です。主イエスとサマリア人女性が話していた、ということについては誰も触れませんでした。まるで何事もなかったかのように、ただ自分たちが買ってきたものを差し出して「ラビ、食事をどうぞ」と言いました。

しかし主イエスは、弟子たちがご自分とサマリア人女性が会話をしていた事実から目を背けることをお許しにはなりませんでした。サマリア人女性に「生きた水」をお示しになったように、弟子達には「私にはあなた方の知らない食べ物がある」とおっしゃいました。主イエスはニコデモやサマリア人女性に謎をかけられたように、弟子達にもこのようなことをおっしゃるのです。

弟子たちはニコデモやサマリア人女性がそうだったように、文字通り主イエスの言葉を解釈しました。「誰かが食べ物を持ってきたんだろうか」と不思議に思いました。

主イエスがニコデモに「水と霊によって生まれなければならない」とおっしゃったように、サマリア人女性に「生きた水」を語られたように、ここで弟子たちには「天からのパン・食べ物」のことが語られている。弟子たちは、より深い天の言葉の理解へと招かれることになります。「弟子達が知らないパン」とは我々地上のものたちが知らない糧、霊の糧です。

「目を上げて畑を見るがいい、色づいて刈り入れを待っている」と主イエスは弟子達におっしゃいました。井戸の周りには麦畑があったようです。収穫の時期だったようです。畑には収穫する人が働いていたのでしょう。

ここで言われているように、収穫には4ヶ月ぐらいかかります。1月か2月に種をまいて、5月か6月に収穫となるそうです。主イエスが弟子達に「見なさい」とおっしゃったのは、種を蒔き、それを育て、収穫する人たちの喜びの姿でした。

「君たちは、あのように、天の収穫を喜ぶ者となるのだ」とお示しになったのです。

詩編126:5~6

「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」

弟子達には、キリストを信じる者には、福音の種まきがまかされています。種まきをしんどいと思うこともあります。しかしその種まきが無駄に終わることはありません。必ず、私たちの涙は、喜びの歌へと変えられていくのだ。

主イエスは「あなた方が自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、私はあなた方を遣わした。他の人々が労苦し、あなた方はその労苦の実りにあずかっている」

弟子達は主イエスが何をおっしゃっているのか、理解できなかったのではないでしょうか。自分が蒔いたのではない種があり、その収穫を自分が刈り入れることが許される、というのです。

「先生は何をおっしゃっているのだろう」と考えているところに、サマリアの人たちがやって来ました。あの女性が、町から人々を連れてきて、「この方が、私の行ったことを全て言い当てました」と言います。

主イエスは人々に請われるまま、そこに二日間滞在されました。そして「更に多くの人々が、主イエスの言葉を聞いて信じた」、とあります。そして、人々は女性に言いました。「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」

弟子達は、サマリア人女性が人々を主イエスの下に連れてくるのを、そして人々が主イエスを世の救い主として信じるのを見ました。弟子達は主イエスのなぞかけを、字義通りに、「自分たちが買い物をしている間に、誰かが主イエスにパンを持ってきた」、と思っていた。弟子達は主イエスの言葉を地上のレベルで解釈しました。

しかし、主イエスから井戸の周りに会った小麦畑の収穫を見て、弟子たちは気づき始めたのではないでしょうか。主イエスが、単に小麦の収穫の喜びではなく、「この人たち」のことを言っているのではないか。

一人が種をまき、別の人が借り入れるという諺が本当のことになっています。主イエスの言葉は4ヶ月も待たなくても実りが育ちました。「目を上げて畑を見るがよい」というのは、単に弟子達が目線を上げるということではなく 天に心を向けなさい、ということではないか。そしてその言葉は、そのまま私たちにも向けられているでしょう。

主イエスとサマリア人女性との会話は、最後には、サマリアの町の人々の主イエスへの立ち返りという救いの出来事につながりました。そして見過ごしてならないのは、主イエスはその出来事を、弟子達にお見せになった、ということです。

弟子達は自分たちの先生がサマリアの女性と話しているのを見て驚きました。ユダヤ人とサマリア人の間にある溝、男性と女性の違いをこだわりがあったからです。しかし、それらの溝や壁を越えて、神は救い主の下に二つの民族の人々を招かれました。

サマリア人たちだけではなくユダヤ人であった弟子たちもこの収穫の喜びに招かれています。弟子達は、自分たちの人間的な思いを超えて世のすべての人を1つに集めようとなさる神の御業を見たのです。

実際サマリア人女性は主イエスの弟子たちの業を担っています。誰かを主イエスの元へと招くのは、本来は弟子達の使命であったはずです。しかしここでは、一人のサマリア人女性が、キリストを証し人々をキリストのもとに招いています。一番キリストとは縁遠いと思われているような人が、です。

サマリアの人々は、この女性を通してイエス・キリストの業を信じました。そして次には、自分自身でこの方の言葉を聞いたから信じるのだ、と言うようになりました。

ここに至って主イエスが誰であるのかがはっきりしました。単なるユダヤ人の旅人ではありません。律法学者でもありません。預言者でもありません。それ以上の方です。

救い主キリストであるということ。

それは聖書では神ご自身のことを指しています。

旧約時代の預言者イザヤが、神の言葉を伝えている。 Continue reading

4月28日の礼拝案内

 次週 礼拝(4月28日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書4:27~42

 交読文:詩編18:32~35

讃美歌:讃詠546番15番、235番、168番、頌栄543番

【報告等】

◇4月27日(土)10時より三宅島伝道所総会があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

4月21日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:16~26

「それはあなたと話をしているこの私である」

サマリアのシカルという町の井戸で、あるサマリア人女性とユダヤ人男性の旅人が出会った、という出来事を読んでいます。「私に水を飲ませてください」と言う旅人の一言から会話が始まって行きます。

人目を避けて、一日の一番暑い時間帯に井戸の水を汲みに来た女性にとって、見ず知らずのユダヤ人男性から話しかけられたことは迷惑だったでしょう。しかし、この旅人との会話が 進むに従って彼女は「この人には何かある」と思うようになっていきました。

「私にはこの井戸に勝る水がある。あなたが私が誰かを知ったら、あなたの方から私に水をくださいと言ったでしょう」と旅人は言いました。「私にはこの井戸に勝る水がある」という言葉に、サマリア人女性は食い下がります。このユダヤ人の旅人は、サマリア人の祖であるヤコブよりも、まるで自分の方が偉いかのような言い方をしているのです。

「この井戸は私たちサマリア人の先祖であるヤコブが掘ったのです。あなたはヤコブよりも偉大だと言うのですか」

旅人は、静かに答えました。

「この井戸の水は飲んでも渇くが、私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」

女性は「水が湧き出る」、と聞いて、「もう水くみに来なくてもいいのでは」、という期待を抱きました。しかしそこまで会話が進むとなぜか旅人は女性に「あなたの夫をここに呼んできなさい」と言います。

「私に夫はいません」と答える女性に、「あなたはこれまで5人と結婚して、今は夫ではない男性と暮らしている」と答えました。女性は初めて会うこのユダヤ人の旅人が、自分のことを全て知っていることに驚きました。彼女の誰にも知られたくない生活のすべてを見通しているこの方のことを、女性は本当にサマリア人の先祖であるヤコブよりも偉大な方ではないかと思い始めるのです。

「あなた」という呼び方から「主よ」という呼び方になり、「あなたは預言者だとお見受けいたします」と言うようになりました。不審に思いながらも、女性は少しずつこの旅人の言葉に恐れを抱くようになっていき、この方の言葉を神の言葉として聞くようになっていったのです。

使徒パウロはコリント教会にこういう言葉を書いています。

「神は・・・私たちを通じていたるところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」Ⅱコリ2:14

「キリストを知るという知識の香り」とは何でしょうか。

「キリストを知る」とは、どういうことなのでしょうか。

この女性はキリストと会話を続ける中で、少しずつ、「この方は預言者ではないか」、「この方は本当にキリストではないか」と心の目が開かれていきました。本を読んで、聖書学者が書いていることを理解して「キリストを知る」ということももちろん大事なことでしょう。しかし、このサマリア人女性は、難しい内容の宗教の本を読んだり、キリスト教の講演を聞いたのではないのです。

この女性は、自分に声をかけて来られたキリストに対して、「この方は誰なんだろう」と思いながらも、キリストの言葉を聞き続けた、求め続けた、ただそれだけで「この方は本当にメシアかもしれません」と人々に告げるようになります。彼女は諦めなかったのです。救いを、キリストをも求めることを諦めなかったのです。

当時はユダヤ人男性がサマリア人女性に声をかけることなど非常識なことだった。

それでも、彼女はこの方に出会い、言葉を交わしながら「あなたはヤコブに勝る方なのですか、あなたがおっしゃる水とはなんですか。なぜ私のことを全てご存じなのですか」と言って、その場を立ち去ることをしなかったのだ。

これが、「キリストを知ろうとする」ということではないでしょうか。この方に出会い、この方に全てを知られていることを知り、自分の内にあるあらゆる醜さをご存じの上で招いてくださる懐の深さを知って、どんどん求めていくことです。

このサマリア人女性は、目の前に座って自分に話しかけているユダヤ人の旅人の名前すら知ります。恐らく、主イエスとこの女性との会話は数分のやりとりだったでしょう。キリストを求め、真の礼拝を求め、罪の許しを求める女性は、目の前に現れ、全てを知ってくださっている方に、命の水を求め続けました。そのことによって、キリストを知っていったのです。

私達はキリストを知って、求め始めるのではないのでしょう。逆ではないでしょうか。キリストに知られ、キリストを求めるからこそ、キリストのことが少しずつ分かって来るのではないでしょうか。パウロが「キリストを知る」、と表現しているのは、そういうことではないでしょうか。

1世紀のキリスト者たちは、キリスト教の勉強をしてキリストを知ったのではないのです。聖霊の導きとしか言いようのない、「キリストとの出会いだった」としか言いようのないことを経験して、「キリストを知る知識の香り」を身にまとったのです。キリスト者たちは、その「キリストを知る知識の香り」をまとって生きることで、隣人をキリストの元へと導いて行ったのです。

招いてくださるイエス・キリストに向かって、直接「あなたは一体誰なのですか」と問いかける、そこにこそ、「キリストに出会う」、ということの本質があるのでしょう。それは、私たちのキリスト教についての知識量というようなものとは関係なく、もっと、単純なことではないでしょうか。

「このような私まで、神は探し求め、招いて下った」、という事実に打たれ、ひれ伏すことです。それが、本当の意味で「キリストを知る」ということでしょう。

さて、サマリア人女性は旅人に向かって、「あなたを預言者とお見受けします」と告白した。そして一つのことを尋ねた。

「サマリア人はサマリアの山で礼拝しましたが、ユダヤ人はエルサレムに礼拝の場所があると言っています」

女性は何を知りたがっているのでしょうか。彼女の言葉は、「預言者であるあなたに、サマリア人の私が一体どこで礼拝すればいいかを教えてほしい」、という訴えだった。彼女は、礼拝の場所を探し求めていたのです。

自分の私生活を全て知っているということは、この方は預言者なのだろう、そして預言者は神の言葉を託されているのだから、私が神を礼拝するためには、どこに行けばいいのか教えてほしい、と思ったのだ。

それにしてもなぜ突然、女性は正しい礼拝の場所がどこなのかを尋ねたのでしょうか。礼拝の場所を知りたいと願うことは、どこで罪の許しを得られるのか知ろうとした、ということです。

女性の訴えは、「私の罪は一体どこに持っていけば許されるのですか」ということでした。

申命記18章15節に「モーセのような預言者が来る」と言われています。それは、神から離れた人を神の元へと招く言葉を伝えてくれる人、正しい神との関係へと導いてくれる人が来る、ということです。このサマリア人女性は、今自分の目の前にいるユダヤ人男性が、その預言者ではないかと希望を持ちました。それは、罪の許しの希望だったのです。

女性は、「私どもの先祖はこの山で礼拝しました」と言っています。サマリアは、信仰の父と呼ばれるアブラハムやイスラエルという名前を神から与えられたヤコブが礼拝を捧げた場所でした。

アブラハムが神に召され、故郷ウルを離れ、旅をしてたどり着いた場所は、サマリアでした。アブラハムはそこで礼拝を捧げています。創12:6

また、一度は逃げ出したヤコブが家族と兄エサウの下に戻った時にも、そこで礼拝を捧げました。創 33:20

しかし、主イエスの時代には、サマリアから礼拝の場所が無くなってしまっていました。イスラエルは歴史の中で、南北に分裂してしまいます。南のユダヤ人と北のサマリア人に別れ、ユダヤ人たちはエルサレムで、サマリア人たちはサマリアでそれぞれ礼拝をささげるようになりました。

サマリアの人たちは Continue reading

4月21日の礼拝案内

次週 礼拝(4月21日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書4:16~26

 交読文:詩編18:32~35

讃美歌:讃詠546番14番、164番、265番、頌栄543番

【報告等】

◇4月27日(土)10時より三宅島伝道所総会があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

4月14日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:7~19

「あなたの夫を連れてきなさい」

イエス・キリストと、サマリア人女性の出会いの場面を読んでいます。女性は井戸のそばに座って来た旅人が、自分に話しかけてきたことに驚きました。当時、「ユダヤ人とサマリア人は交際しなかった」、と書かれています。男性が女性に話しかけることも、はばかられていた時代でした。

それでも主イエスはかまわず女性に話つづけていらっしゃいます。しかし、この場面を読むと、主イエスと女性の会話はなかなかかみ合っていません。

「水を飲ませてください」と女性に頼まれた主イエスでした。しかし本当に問題にされたのは、女性がご自分に水を飲ませてくれるかどうか、ということではありませんでした。「水を飲ませてください」と言った御自分が一体何者であるか、そして主イエスが女性にお与えになろうとしている「水」とは何なのか、をお伝えになろうとしたのです。

3章で主イエスとニコデモの会話が記録されていますが、それとよく似ています。ニコデモは主イエスの言葉の表面的に理解しようとしました。このサマリア人女性も同じです。

ニコデモとの違いは、このサマリア人女性は、自分に話しかけてきたユダヤ人の旅人が言葉で言い表すことのできない何かを伝えようとしているのではないかと感じて、なんとか理解しようと聞き続けたことです。

ニコデモは、イスラエルの教師として「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と、主イエスに食い下がりました。

「もしあなたが神の賜物を知っており、『また水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」

この言葉を聞いて、女性は「この人はユダヤではとても偉い人なのだろう」と思ったようです。「あなた」と呼んでいたのが、「主よ」と呼ぶようになり、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と言うようになっていきます。そして最後には女性は人々のところへ行き、「あの方はメシアかもしれません」と告げて回ることになるのです。

イエス・キリストとの出会いによって、人は自分がまとっている仮面や鎧を脱いでいくことになります。そうやって身軽になっていくにつれて、キリストの存在を間近に感じるようになっていくのです。

サマリア人女性は、主イエスの言葉を不思議に思いました。自分はからかわれているのだろうか、と思ったかもしれません。「水を飲ませてください」と言ったかと思うと、「私に頼んだら生きた水を与えたことでしょう」などと言うのです。水を入れる入れ物を持ってもいないのにそんなことを言ってくるのです。

そしてまるで自分が、旧約聖書の創世記に出てくるヤコブよりも偉いかのような言い方をすることが気になりました。女性は主イエスに質問します。

「あなたは私たちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え彼自身もその子供や家畜もこの井戸から水を飲んだのです」

ヤコブはイスラエルとも呼ばれ、イスラエル12部族の元になった人です。特にサマリア人の祖先とされていました。このユダヤの旅人はヤコブが掘ったこの井戸の水に勝る「生きた水」を与える、などと言っているのです。

サマリア人女性にとって、ヤコブ以上に偉い、という人物は考えられなかったでしょう。女性は、主イエスをヤコブと比較しています。だから主イエスがおっしゃることの意味がなかなか分かりませんでした。

キリストに対する無理解というのは、人が誰しももっている、このような比較に根差していることが多いのです。「イエス・キリストと誰それは、どちらが偉大だろうか」、などと考えるのです。

キリストを世界の偉人の一人に数える人は多いのではないでしょうか。しかし、イエス・キリストのことを、単に「社会にいい影響を及ぼした偉い人の一人」として見るのであれば、このサマリア人の女性やイスラエルの教師ニコデモのように、主イエスがおっしゃる言葉が理解できなくなってしまいます。キリストをキリストとして見る信仰の目を持たなければ、聖書を読んでも本当のところはよくわからない、ということになってしまうのです。

ニコデモは、「人は上から新たに生まれなければならない」と言われて、「どうして母の胎に戻ってもう一度生まれることができるでしょうか」と言いました。この女性も、「私はあなたに生きた水を与えよう」と言われても「あなたはヤコブよりも偉いのですか」と言いました。ちぐはぐなやりとりです。

ニコデモも、サマリア人女性も、主イエスのことをはじめはキリストではなく「ユダヤ人の律法の偉い教師」として見ました。だから人の知識で、人の地平でしかこの方を見ることができなかったのです。

主イエスがおっしゃる「生きた水」とは何なのでしょうか。ヤコブが掘った井戸の水とはどう違うのでしょうか。女性は主イエスがおっしゃった「生きた水」のことを文字通り、わき出す水のことだと理解しています。

ヤコブが掘ろうが、誰が掘ろうが、井戸から水を汲んで飲んでもやがて喉は渇きます。しかしこの旅人は言うのです。

「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかしわたしが与える水を飲むものは決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」

この言葉は女性にとってとても魅力的なものでした。女性は生きるために毎日この井戸に水を汲みにこなければなりませんでした。しかし水汲みは嫌な作業でした。人目を避けて、一日で一番暑い時間に水汲みに来ていました。人目を避けなければならないような生き方をしている人だったのです。

この人が水をくれるというのであれば、自分はもう人目を避けてこの井戸に水くみに来る必要はなくなります。女性は答えました。

「主よ、渇くことがないように、またここにくみに来なくてもいいようにその水をください」

これこそ女性の本当の願いでした。

よく見ると、主イエスは女性に「生きた水、湧き出る水」とおっしゃっています。単なる「水」のことをおっしゃっているのではないのです。文字通りの水ではなく、何か霊的な意味でこの言葉を女性にお伝えになっているのです。

聖書で、水は「命」の象徴です。

詩編42:1~2「枯れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く」

イスラエルの詩人は歌っています。「水を求めるように神を求める」「魂の渇きを満たしてくださるのは神であり、自分の魂は命の神を常に求めている」

預言者イザヤの書にも、神の言葉があります。

イザヤ書55:1「渇きを覚えているものは皆水のところに来るがよい。・・・耳を傾けて聞き私のもとに来るがよい。聞きしたがって魂に命を得よ」

国を失い、バビロンに捕らわれていたイスラエルの人たちに向けて神が預言者を通して語られた言葉です。

外国にとらわれていたイスラエルの人たちは魂が飢え、渇いていました。そこで神の招きの言葉を聞いたのです。

「水の所に来なさい」

「水の所」とは神の御許です。このようにイエスキリストがおっしゃる「生きた水」とは神のことです。そして「私はあなたに生きた水を与えることができる」とおっしゃるのはつまり「私が神である、だからここに来なさい」ということなのです。今サマリア人女性は目の前に「命の源泉」を見ているのです。

ここまで言われても女性はまだキリストがおっしゃっていることが理解できていません。彼女はまだ主イエスが自分の水汲みの仕事を軽減させてくれる、ことを期待しています。

私たちもこの女性が持っていた期待と同じようなことをキリストに対して抱くことはないでしょうか。キリストを信じれば何か自分の仕事が楽になるという期待をいたりはしないでしょうか。自分が抱えている仕事や問題が軽くならないのであればすぐに私たちはすぐにキリストを疑ってしまうのではないでしょうか。 Continue reading

4月14日の礼拝案内

次週 礼拝(4月14日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書4:10~19

 交読文:詩編18:32~35

讃美歌:讃詠546番13番、152番、400番、頌栄543番

【報告等】

◇4月27日(土)10時より三宅島伝道所総会があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。