MIYAKEJIMA CHURCH

1月9日の礼拝案内

次週礼拝(1月9日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書14:43~52

 交読文:詩編7編7節~6節

 讃美歌:讃詠546番、66番、262番、385番、頌栄541番

【報告等】

◇2022年1月16日(日) 礼拝の中で三宅島伝道所教師就任式があります。愛餐会があります(昼食代1000円)。

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月2日の説教要旨

イザヤ書11:1~5

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主イエスの霊がとどまる」(11:1)

インマヌエルと呼ばれるメシアの誕生をイザヤは預言しました。イザヤ書の中にはメシア預言と呼ばれる、救い主の誕生を示す言葉がいくつも記録されています。

イザヤがインマヌエルのメシアの誕生を預言したのは、イスラエルが一番神を信頼していない時・イスラエルが一番神から離れた時でした。

これまでも見てきたように、BC8世紀、イザヤの時代のイスラエルはアッシリアという巨大な帝国の脅威の中で生き延びようともがいていました。王をはじめ、王宮にいる政治家たちは、「ただ神に頼れ」という、イザヤが伝える神の言葉を受け入れず、神ではなくアッシリアにひれ伏すことで生き延びようとしていました。

イスラエルが、どんどん神から離れ、神の支配ではなく、外国の支配、人間の支配を求めて、罪の闇へと深く落ちていった時代です。

神ではなくアッシリアを自分たちの救いとしたユダ王国の指導者たち、国民に向かってイザヤは滅びを預言しました。しかも、自分たちが頼ろうとしているアッシリアによってユダ王国は滅ぼされると言ったのです。

しかし、イザヤの預言は、滅びの預言だけでは終わりませんでした。不信仰による滅びの闇の中にメシアの光が与えられ、再びイスラエルは新しくなって立ち上がることを預言したのです。

ここまで、イザヤは、インマヌエルと呼ばれるメシアの誕生を預言してきましたが、今日読んだ11章で、そのメシアがどのようなメシアなのか、ということをかなり具体的に伝えています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」

エッサイというのは、ダビデの父親の名前です。つまり、ダビデの子孫からメシアが生まれる、ということです。

3節にはこうあります。

「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。」

やがて来るメシアは目と耳を頼りにして裁きを行う方ではない、と言うのです。普通は目と耳で人を裁きます。見えるものだけ、聞こえるものだけで判断するのが人間です。

神がダビデを召し出された時、こうおっしゃいました。

「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」

神は、目と耳ではなく、心によってご覧になるとおっしゃっています。やがてこの世に生まれるメシアも、「目に映ること」ではなく「心によって見る」方なのです。人の支配を超えた「神の支配」によって世を治められる方として言われています。

4節を見ると「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」とあります。普通、王というのは一番の特権階級です。王は、自分の強さの下に人々を置いて支配する、と考えられています。

しかし、やがて来られるメシアは、王であることを自分の特権としてとらえず、最も弱い人たちのために働く僕として人々に仕える方であるとイザヤは言います。そのようにして、正義によって支配してくださり、平和を実現させる方なのです。

上から押さえつけて支配するのではなく、御自分が人々の足元から支えるメシア・・・その方の支配は、人間の支配とは決定的に異なっています。

私たちは、2000年前にベツレヘムにお生まれになり、ゴルゴタの丘で十字架刑に処せられたイエスという方こそ、イザヤが預言したメシアだと信じています。イザヤの預言と、新約聖書に記されているキリスト証言を照らし合わせてみると、まさにこの方がインマヌエルの君、メシアであることがわかります。

主イエスはヨセフというダビデの系図に連なる人を父とし、この世にお生まれになりました。文字通り、人々から「ダビデの子」と呼ばれ、神の国の福音を伝え、神への立ち返りをお求めになりました。この方は「私が来たのは、罪びとを招くためである」とおっしゃった。

イエス・キリストがポンテオ・ピラトの前に引き出された時、こうおっしゃっています。

「私の国は、この世には属していない」(ヨハネ18:36)

ピラトは不審に思い、「やはり王なのか」と尋ねます。キリストは、「私は真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聴く」とおっしゃいました。

キリストはこの世の王、地上の王、人間の王となるために来られたのではありません。イザヤが預言したように、この世に神の国をもたらし、神の国の王となるためにお生まれになったのです。神の恵みの支配の中にすべての人を招き入れるために来られました。

主イエスは弟子達にこうおっしゃいました。

「私は羊のために命を捨てる。私には、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聴き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群になる。私は命を、再び受けるために、捨てる」

イエス・キリストは羊のために命を捨てる羊飼い、罪びとのために命を差し出す王でした。イザヤの預言通り、恵みがまず弱い者へと、貧しい者へと向かうのです。そのような支配をもたらすために、キリストは世に来られたのです。

私たちは、この方が、神の恵みの支配をこの世にもたらすために、よい羊飼いとして羊を守るためにどれほど戦われた、ということを覚えたいと思います。

イザヤは2節でこう言っています。

「そのうえに主の霊が留まる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、種を知り、恐れ敬う霊。彼は主を恐れ敬う霊に満たされる」

この言葉通り、イエス・キリストは神を恐れる方でした。イエス・キリストのゲツセマネの祈りにそのことが一番明らかに表れているでしょう。キリストは血のような汗を流しながら「私から苦難の杯を取り除けてください」と祈られました。そして、「しかし私の願いではなく、あなたの御心のままに」とおっしゃいました。

罪人の犠牲となるために自分の命を捧げることができるよう、キリストは祈りの戦いをされたのです。神の救いのご計画・神の御心に対する恐れがあったからこそ、キリストはゲツセマネから逃げ出さずに、祈りをもって留まってくださいました。

イエス・キリストは救い主と呼ばれています。「救い」とは何でしょうか。罪の支配から導き出され、神の支配へと入れられることです。もっと簡単に言えば、「迷い出た羊が、羊飼いの元に連れ戻されること」です。そこに安心があります。

イザヤは、神から離れた闇にいる人たちを連れ戻すために、メシアが言葉を用いられる、ということを預言しています。

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「その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる」 Continue reading