MIYAKEJIMA CHURCH

7月3日の礼拝案内

次週礼拝(7月3日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄7:54~8:1

 交読文:詩編10編1節~7節

 讃美歌:讃詠546番、20番、303番、404番、頌栄541番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

6月26日の説教要旨

使徒言行禄6:1~7

「私たちは、祈りとみ言葉の奉仕に専念することにします」(6:4)

キリストの使徒たちは、「ナザレのイエスのことを話してはいけない」と言ってくる最高法院の権力に屈しませんでした。イエス・キリストの十字架と復活を人々に伝え続けます。キリストの使徒たちの証を聞いたたくさんの人は洗礼を受け、教会に入って来ました。

2:47を見ると、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」とあります。その他にも、「その日に三千人ほどが仲間に加わった」とか、「男の数が五千人ほどになった」などと記されています。

教会は120人が祈るところに聖霊が注がれるところから始まりました。それが、短期間のうちに何千人もの信仰者の群れとなったのです。

エルサレム周辺だけでなく、ローマ帝国全域のユダヤ人が、ナザレのイエスの十字架と復活を聖書の預言の実現として信じるようになり、何千人もの人たちが使徒たちのところに来て、自分たちの財産を神への捧げものとして持ってくるようになりました。

このように見て行くと、教会の成長の勢いはものすごいものだったことがわかります。

しかし、教会にとって人が集まって大きな群れになる・豊かな財産を持つ、ということは、手放しで喜べることではありませんでした。

教会が大きくなるにつれ、当然様々な問題が起きてきます。人の数が増えれば増えるほど、今までなかった問題が生じてくるようになります。

今日読んだところを見ると、分配のことで問題が起きた、ということが書かれています。

教会の中には、ヘブライ語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人がいました。

「ヘブライ語を話すユダヤ人」は、エルサレムを中心とした、ユダヤ地方に住んでいたユダヤ人たちのことです。

「ギリシャ語を話すユダヤ人」というのは、地中海全域に離散して住んでいて、当時のローマ帝国で使われていたギリシャ語を話していたユダヤ人、ということです。

エルサレムに形成されたキリスト教会には、今や、ローマ帝国全域・地中海全域に散らばって住むギリシャ語をユダヤ人たちも含む大きな信仰共同体となっていたのです。

ヘブライ語を話すユダヤ人に対して、ギリシャ語を話すユダヤ人たちから分配のことで苦情が出ました。ギリシャ語を話すユダヤ人たちのやもめたちが軽んじられ、その女性たちが受け取る分配が少なくされていた、というのです。

このように、教会の人数が増えると、当然、12人の使徒たちだけでは全体をまとめきれなくなってきます。一人一人に目が届かなくなってきました。そこで教会は新しく7人を選び出し、その人たちが教会の食事の世話などが任されることになりました。

私たちが今日読んだのは、教会の中で新しく世話係が選び出された、というところだ。読んでみると、小さな出来事のように思えます。

しかし、これは、教会が、一つの組織として形を整え始めるきっかけとなった、とても重要な出来事です。教会の成長は新しい段階を迎えたのです。

私たちは、今日読んだ出来事を通して、「教会が成長する」とはどういうことか、様々なことを考えていくことが出来ると思います。そもそも「教会の成長とは何か」、そして「教会を成長させるものは何か」、このことを改めて考えていきましょう。

ペンテコステの後、教会には多くの人がキリストへの信仰を告白し、洗礼を受け、キリストへの捧げものをもって入って来ました。短期間で教会は人数が増え、財産も増えました。

しかし、改めて「人数と財産が増える」、ということだけが教会の成長なのか、ということが問われるのではないでしょうか。確かに、洗礼者が多くいることはキリスト者としてうれしいことですし、教会の財産が潤沢にあれば、安定した運営ができます。

しかし、「教会の成長」というのは、それだけのことではないでしょう。今日の場面で私たちが見たように、人が増え、財産が増えることによる問題が出てくるのです。

「教会の成長の本質とは何か」、「信仰共同体としての成長の本質とは何か」、考えなければなりません。

教会の人数の多さや少なさ、また、教会がもつ財産の大きさや小ささ以上に、神の御心を本当に行えているかどうか、そのことの方が、私たちにとっては大切なことなのです。

イエス・キリストを信じる人たちがその教会の群の中で、正しく神を愛し、正しく隣人を愛することが出来ているかどうか、ということが何より大切なことになってきます。

ギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちにとって、「自分たちに正しく食べ物が分配されなかった」は問題でした。それは、彼女たちだけの問題ではありませんでした。それは、教会全体の問題だった。キリスト教会の中で重んじられる人たちと軽んじられる人たちの線引きができてしまっていた、ということです。

どんなに教会が豊かで、人数が多くても、立場の弱い人が軽んじられている、というのであれば、その教会は成熟していません。「未熟」なのです。そのような教会をご覧になってもキリストはお喜びになりません。

エルサレムの人が、エルサレム以外の人たちを、社会的に弱い人たちを軽んじる、ということが教会の中で起こりました。キリスト教会の中で、神を愛し、隣人を愛する、ということが実践できていないのであれば、教会にどれだけ人が集まり、財産を積み上げても、意味はないのだ。

イエス・キリスト以は前おっしゃいました。最も大切な律法は、「心を尽くして神を愛すること、そしてもう一つは隣人を自分のように愛することである」。全ての律法の掟は、この二つの言葉に集約される、とおっしゃいました。

旧約聖書の律法を見ると、神は「やもめ、寄留者、みなしごを守れ」、と最初に言われています。

聖霊を注がれて出来た教会なのに、早くも神の掟、律法が壊れ始めていました。先に教会の一員となっていた人たちが、後から来た人たちを軽んじる、ということが起こっていたのです。

キリストの使徒たちは、驚いたのではないでしょうか。イエス・キリストの福音を語り、それを聞いて洗礼を受けた人たちの間で、早くもそんな俗っぽい問題が起こったのです。

私たちも、ここを読んで、「キリストの十字架の救いを知った人たちの間で、どうしてこんなことが起こるのか」と不思議に思うのではないでしょうか。

しかし、これが人間なのです。この事件を通して私たちは、自分たちの教会のことを振り返る必要があるでしょう。

旧約聖書を通してイスラエルを見ても、新約聖書を通して教会を見ても、その信仰共同体の中に起こるのは全て、とても人間的で、俗っぽい問題でした。派閥争いや、嫉みあいとか、不平等といったことです。

出エジプトの際、荒れ野の旅の中、モーセだけが神と話をすることを妬んだ人たちがいました。しかも、それはモーセの兄弟たちでした。イスラエルの指導者・預言者・祭司でありながら、兄弟同士で妬みあっていたのです。

パウロの手紙を見ても、パウロの使徒としての権威を妬む人たちが教会の中にいたことがわかります。

教会の人数が増えると、「私たち」と「あの人たち」という風に、小さなきっかけで派閥が生まれ始めます。コリント教会がそうでした。同じ教会の中で、「私はペトロにつく」「私はパウロにつく」などという争いが起こっていたのです。パウロは、「イエス・キリストはいくつにも分かれてしまったのですか」と厳しく戒めています。

私たちは聖書を通して、信仰共同体の中に、どれだけ簡単に人間の思いが入り込んでくるかを見ることが出来ます。信仰共同体は本当にささいなことで、単なる人間の集まりに堕落してしまう危険性をはらんでいるのです。

さて、ここで大切なのは、キリストの使徒たちがどのようにこの問題に取り組み、乗り越えたのか、ということです。 Continue reading