使徒言行禄5:1~11
「アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持ってきて使徒たちの足元に置いた。」(5:1~2)
聖書に関して、よく言われる誤解があります。それは、「旧約聖書は厳しくて、新約聖書には優しいことが書かれている」とか、「ユダヤ教は神の裁きを恐れ、キリスト教は神の愛を喜んで生きていきている」、というようなものです。
キリスト教は愛の宗教で、キリストは何をしても許してくださる愛情の深い方で、それが旧約の時代と新約の時代の違いだ、というようなことが言われたりしますが、それは全くの間違いです。
確かにキリスト教は愛の宗教だと言っていいでしょう。しかしそれは、一つの側面でしかありません。キリストは、「私は律法を完成させるために来た」とおっしゃいました。旧約聖書を通して伝えられてきた、人間の罪に対する神の裁き、神の怒り、神の忍耐、そして神の愛を完成さるために来られたのです。人間の罪に対する厳しさということでは、旧約聖書も、新約聖書も伝えていることも何ら変わりはありません。
私達はキリストの聖さ、神の聖さというものの峻厳さを聖書を通して知らなければならないのです。そして、その聖さを恐れることを学ばなければなりません。
今日私たちは、教会に献金したアナニアとサフィラという夫婦が、神に打たれて死んでしまった、という場面を読みました。教会を迫害した人たちではなく、教会に献金した人が、神によって打たれた、というのです。
ここを読んだ人は、誰もが衝撃を受けると思います。
「神の聖さに相応しくない献金をすることは、命に関わるほどのことなのだろうか」
そう思って、神への恐れが深まる事件だと思います。
我々は、生まれたばかりの教会に起こったこの衝撃的な事件を通して、教会の聖さについて、そしてその聖い教会に相応しい捧げものとはどういうものか、ということを考えさせられることになります。
旧約聖書のヨシュア記に、アカンという人のことが書かれています。アカンは、神にささげるべきものを、隠れて自分のものとしていました。そのことによって、イスラエルは戦いに負けるようになってしまいます。結局、アカンは神にその罪を暴かれ、最後には死んでしまうことになるのです。
人間にとって、自分の目の前にある地上の富・宝は、魅力的なものです。あまりに魅力的で、この宝が自分の身を亡ぼすかもしれない、ということすら見えなくなってしまいかねません。
私たちは、イエス・キリストがおっしゃった、「天に富を積みなさい」という言葉を思い出すことが出来るでしょう。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。・・・富は、天に積みなさい・・・あなたの富のある所に、あなたの心もあるのだ」
教会に集う一人の信仰者として、キリスト者として、そして献金者として、私たちはこの夫婦が神に打たれてしまった、ということと、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とおっしゃったキリストの言葉に対して、向き合わなければならないと思います。
今、私たちの目には何が映っているでしょうか。私たちの心は、地上の富、天の富、どちらに向いているのか、目を背けず、今日の聖書の言葉に向き合いたいと思います。
アナニアとサフィラの夫婦が献金する前に、バルナバと呼ばれていたヨセフという人が、自分の畑を売って、その代金を持ってきて使徒たちの足元に置いた、ということが書かれています。
そのすぐ後で、アナニアと、妻のサフィラが同じように土地を売って教会に献金しました。
私たちは、バルナバの献金と、アナニア・サフィラ夫婦の献金を比べることが出来ます。それぞれ、全く質の違うものでした。
正直なお金を正直に教会に献金したバルナバと、姑息なやりかたで人を騙して作ったお金で教会に献金しつつ自分の懐も肥やしたこの夫婦は対照的です。
バルナバは自分の畑を売ってできたお金をそのまま教会に捧げました。「自分の持っているものを施し、キリストに従う」、という、あのイエス・キリストの教えに忠実な、まさに献身のしるしでした。
しかしアナニアとサフィラの夫婦は、二人で相談して土地の代金をごまかしてお金を作り、しかも、全額ではなくその一部を教会への献金として持ってきた、とあります。夫婦は、事前によく相談したのでしょう。「教会に献金もできて、自分たちの懐にもお金が入ってくるやり方はないだろうか」
「土地の代金をごまかした」、ということは、誰かをだまして土地を高く売りつけた、ということです。つまりその献金は誰かの不幸の上に作られたものでした。
この二人は頭のいい夫婦だったのでしょう。ガリラヤの田舎出身のキリストの使徒たちの馬鹿正直なやり方をもどかしく思ったかもしれません。もっと頭を使って、手っ取り早く儲けて、それを教会に入れて、とにかく教会を豊かにすればいい、そして自分の利益も出そう、と考えたようです。
結局、このことが、二人を破滅へと導きました。
人間に破滅をもたらすもの、教会を破壊するもの、汚すものはなにか、ということを私たちはここで考える必要があります。
使徒ペトロはアナニアとサフィラそれぞれにこう言いました。
「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」
「主の霊を試すとは、何としたことか」
二人は、人を騙して作ったお金でも、結果として教会が豊かになることのであればそれでいいではないか、と考えたのでしょう。しかし、その捧げものを神がお喜びになるかどうか、ということは少し考えればすぐにわかったことではないでしょうか。
ペトロが二人に告げた罪は、人をだまして得たお金を、聖なる神にささげて神の聖さを、キリストの聖さを、教会の聖さを汚そうとしてしまったことでした。夫婦は、二人とも、神に打たれて死んでしまいました。
我々はアナニアとサフィラが神に打たれて死んでしまったことに驚きます。神に打たれた、ということはイエス・キリストに打たれた、ということです。
私たちは「聖くない献金をしてしまったとしても、命をとられるほどのことなのだろうか」、と思ってしまうかもしれません。
しかし、我々はこの事件が持っている深刻さをよく考えなければならないでしょう。アナニアとサフィラがしたことは、実は教会の命に関わることでした。
教会は、単なる人間の集まりではありません。キリスト者の交わりは聖い信仰による交わりです。手段を選ばずとにかく大きくなればいい、とにかく豊かになればいい、というようなものではありません。イエス・キリストがおっしゃたように、教会は「祈りの家」でなければならないのです。
もしも、アナニアとサフィラがもってきたお金を使徒たち・教会が喜んで受け入れていたとしたらどうだったでしょうか。教会にある交わりは汚れ、キリストからは「これは強盗の巣だ」と言われて、旧約聖書に出てくるあのバベルの塔のように上から崩れてしまうでしょう。
何が教会を壊すのでしょうか。教会の中にいる人々の意見の相違が教会の交わりを壊すこともあるでしょう。
しかし、それ以上に怖いことは、教会の中でキリスト者同士が、お互いをごまかすこと、騙すことです。それは神を、キリストをごまかそうとすることだからです。キリスト者がキリストを騙すようになると、教会は壊れます。神ご自身の手によって、その教会は滅ぼされることになります。
アナニアとサフィラの中には、それが悪いことだ、という罪悪感はなかったようだ。 Continue reading →