MIYAKEJIMA CHURCH

8月28日の礼拝案内

次週礼拝(8月28日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄10:21~33

 交読文:詩編10編8節~18節

 讃美歌:讃詠546番、30番、262番、280番、頌栄542番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

8月21日の説教要旨

使徒言行禄9:43~10:20

「『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』」(10:15)

使徒言行禄は、いろんな人に焦点を当て、それぞれの人がどのようにイエス・キリストの福音を伝えて行ったのか、ということを記録しています。復活のキリストに出会った弟子達、弟子達と一緒に祈った人たち、弟子達が伝えたキリストの十字架と復活を知って教会に加わった人たち・・・ペトロ、ステファノ、パウロ、フィリポなど、いろんな人がいろんな場所でイエス・キリストの復活を証言していきました。

使徒言行禄を読んでわかるのは、一人一人の使徒たちが綿密に福音宣教の計画を立て、その計画が実現していったのではない、ということです。使徒たちや、時には教会の迫害者、また迫害によってエルサレムから追い散らされたキリスト者たちに不思議な出会いが与えられ、イエス・キリストの復活を信じる人が増えていったことが記されている。

私達は、福音の広がりは大きな聖霊の力によって導かれていた、ということを知るのです。

今日私たちが読んだのも、そのことがわかる場面です。

神の導きによって、ガリラヤの漁師であったユダヤ人ペトロと、ローマの百人隊長コルネリウスが出会わされることになるのです。この二人が出会うということは、普通では考えられないことでした。

この後、ペトロ自身が言っていますが、「ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられている」、と考えられていたのです。ユダヤ人が、イスラエルの神を知らない異邦人と接触すると、自分たちの信仰が悪い影響を受けてしまう、と思っていたようです。

しかし、これからペトロは神に導かれてコルネリウスに会うことになります。そして、コルネリウスをはじめとする異邦人の上に聖霊が降るのを見ます。ペトロは、「神は、人を分け隔てなさらない」ということを見せられることになるのです。

ペトロとコルネリウスの出会いは、後のキリスト教会にとってとても重要な意味を持つことになりました。神は、ユダヤ人だけでなく、異邦人も、つまり、この世界の全ての人をご自分の元へと集めようとなさっていることが教会に示されたのです。

二人がどのように出会ったのか、見て行きましょう。

ペトロはエルサレムを出て方々を巡り、リダ、ヤッファと導かれて来ました。彼は、「ヤッファの革なめし職人の家に滞在していた」、とあります。方々を歩き廻って来たペトロでしたが、今はヤッファに留まって、神が自分に次の場所を示してくださるのを待っていました。

革なめし職人の家は、どうしても臭いを出してしまうので、普通は町はずれに建てられます。ヤッファは港町だったので、皮なめし職人の家は海岸にありました。

今、ペトロは、地中海にいます。ガリラヤの漁師だったペトロは、キリストから「あなたを人間をとる漁師にしよう」と言われて弟子になりました。ガリラヤ湖で漁師をしていたペトロが、今、人間をとる漁師へと変えられ、地中海へとやってきました。

小さなガリラヤ湖から、大きな地中海へ・・・ペトロを通して、キリストの福音が新しく広い世界へと広がっていこうとしていることを暗示しています。

ペトロがヤッファに滞在していた時、海沿いのずっと北にあるカイサリアにローマの百人隊長コルネリウスがいました。カイサリアは、ユダヤ地方を治めるローマの総督が普段いる町なので、ローマの軍隊も駐屯していました。カイサリアは貿易港でもあり、いろんな国の人がいた町です。

そのような街にあって、コルネリウスは、「信仰あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」ような人でした。「神を畏れていた人」というのは、イスラエルの神を畏れ、信じていた人、ということです。コルネリウスのは一家そろって、ローマ人でありながら、ユダヤ人たちが信じているイスラエルの神を信じ、信仰者たちを援助していました。

彼は、毎日午後3時に祈っていました。その祈りの中で、コルネリウスは神から幻を見せられます。主の天使が自分の目の前に立って、「ヤッファにいるペトロを招きなさい」と言うのです。コルネリウスこの幻を信仰をもって受け止め、疑うことなく、会ったこともない、顔も知らない、そして本当にそこに居るかどうかわからないペトロという人の元へと自分の部下をヤッファに送りました。

ペトロは、もちろん、遠く離れたカイサリアで、ローマの百人隊長が自分を求めているなどということは知りません。ペトロはただ、ヤッファにいて、次に自分が示される神の導きを待っていただけです。

イエス・キリストは、弟子達にこうおっしゃったことがあります。

「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」

蒔かれた種が、農夫・人間の知らないところで、土の中で、夜も昼も成長していく様子を、神の国の成長、福音の広がりになぞらえていらっしゃいます。

私たちは、「種を蒔けば芽が出て実がなる」、などということは当たり前すぎて普段はあまり考えないのではないでしょうか。しかし、こんなに不思議なことはないのです。なぜあの小さな種から、土と水によって我々人間の命を、生活を支えるほどの実がなるのでしょうか。そこには人間の力を超えた自然の営みが、神の創造の御業があります。

私たち、神の国がどのように実現していくかわかりません。種を土に蒔いたら芽が出て多くの実を結ぶ、ということが神秘であるように、福音がなぜ広がるのか、なぜ人がキリストを信じるようになるのか、私達には説明できないのです。

聖書は教会のことを、「神の畑」と言っています。福音の種がまかれ、それが神の御業によって、人間には見えない仕方で成長していくのです。

この時のペトロを見ればわかります。自分にまさか起こるはずがない、というようなことが、自分の知らないところで進んでいました。ローマの百人隊長が、ガリラヤの漁師である自分を招こうとしていたのです。

次は、ペトロの番でした。昼の12時ごろに屋上で祈っていたペトロは空腹を覚えました。ペトロにも幻が見せられました。聖書で「食べてはいけない」、と言われている生き物が入った入れ物が天から降りてきたのです。

幻の中でペトロは天からの声を聞きました。

「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」

しかしペトロは「主よ、私は汚れたものは食べません」と答えます。

それに対して神は「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない」とおっしゃいました。

ペトロは、幻の中で三度、このやり取りを繰り返しました。

ペトロは思案に暮れた。

「今見た幻は一体何だろうか」

神は、「神が清めた物を、清くないなどと、『あなたは』言ってはならない」とおっしゃっいました。「人間であるあなたが決めることではない、神である私が決めることだ」ということでしょう。

ペトロが、幻の意味を考えているところに、コルネリウスからの使者が到着しました。先ほども言ったように、ペトロにとって、異邦人と会うことは「けがれる」ことでした。それに、自分を迫害しに来た兵士かもしれません。本当は会いたくなかったでしょう。

しかし、そのペトロに聖霊が告げました。「ためらわないで一緒に出発しなさい。私があの者たちをよこしたのだ」

祈りの中で見せられた幻がなかったら、ペトロはコルネリウスからの三人の使者に会わなかったのではないでしょうか。それが神から与えられた出会い・導きだとはわからなかったでしょう。

私たちは今日、神が、二人が出会うように導かれた、という場面を見ました。ローマの百人隊長であったコルネリウスと、ガリラヤの漁師でありキリストの使徒であったペトロ、二人それぞれに神が幻をお見せになり、出会いを準備されました。

コルネリウスとペトロに共通しているのは、祈りの中で神の導きが示された、ということです。神の導きは、信仰者の祈りの中で見せられるのです。 Continue reading