使徒言行禄9:10~19
「『わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう』」(9:16)
ある人は、「キリスト者の使命は神がなさろうとすることをしっかりと見ることだ」と言っています。私達は自分の信仰生活を省みる時に、自分を見ようとします。「自分に何ができるか、どれだけのことができるか」ということを考えたりするのではないでしょうか。
しかし、使徒言行禄を通して示されているのは、「神が何をなさろうとしているのか」、ということです。そして私たちの信仰は、その神の御業をしっかりと見ようとすることなのだ、と言うのです。
使徒言行禄を読みながら、私たちは予想を裏切られる展開を見せられているのではないでしょうか。
キリストの使徒にとても相応しいとは思えない人たちに聖霊が注がれて教会が作られました。
一度はキリストを見捨てた人たちがエルサレム神殿に言って堂々とキリストを証ししたりするようになりました。
「イエスを十字架に上げろ」と叫んだ人たちが使徒たちの証しを聞いて、何千人も洗礼を受け、キリストの招きに応じました。
迫害を受けたキリスト者たちはエルサレムの外へと追い散らされ、そこで教会が終わるかと思うと、キリスト者たちは、それぞれが逃げていった場所で、キリストを証しして、福音はむしろ広まっていきました。
サマリアの人たちやエチオピア人の高官といった、ユダヤ人以外の人たちにもキリストの福音が告げられ、福音は広まっていきました。
聖書を見ると、信仰者たちは、いつも神の御業に驚いています。イエス・キリストは弟子達にこうおっしゃったことがある。
「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」
神は私たち信仰者が望むよりも前に、本当に必要なものをご存じです。そして私たちが求めるよりも先に、私たちの予想を超えた仕方で備えてくださっています。私たちは使徒言行禄を通してそのことを見せられる。
私たちも、このキリストの言葉が真理であることを、自分たちの信仰生活の中で何度も見せられます。私たちは祈りを通して、自分が欲しいものではなく、神が私に必要である、と思われたものをいただいているのです。
教会の迫害者、サウロの姿を見ましょう。サウロは、キリスト者をもっと迫害しようとしてダマスコへと向かっていました。その道の途中で復活のイエス・キリストに声を掛けられ、目を見えなくされてしまいます。目が見えなくなったサウロは人々に手を取ってもらい、ダマスコの家の中に入り、三日間食べも飲みもしませんでした。
サウロはこの後、キリストの使徒パウロとなり、アジアからヨーロッパへと渡りキリストを証しする旅を続けることになる。
サウロが使徒とされるために、三日間、目が見えなくされ、飲み食いすらできない時間が与えられました。このことには大きな意味があった。
復活の主は、すぐにでもサウロを使徒とすることが出来たはずです。しかし、キリストはサウロにこの三日間をお与えになりました。サウロにとってこの三日間というのは、何もできなかった、何も見えなかった「無駄な」「無意味な」三日間ではありませんでした。
サウロにとってこの三日間は闇の中で救いを待つ時間でした。目を見せなくされたことによって、神の言葉に聞くことを学ぶ時となったのです。サウロは、神を待つ時間を与えられました。
サウロは後に、伝道の同労者であったテモテへの手紙の中で、こう振り返っているます。
「私を強くしてくださった、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、私を忠実な者とみなして務めにつかせてくださったからです。以前、私は神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていない時知らずに行ったことなので、憐みを受けました。」
サウロを通して、自分自身のことを振り返ると、私たちもそれぞれ、このような時間を過ごしたことがあるのではないでしょうか。自分が正しいと思っていた道がいきなり見えなくなり、どこからか救いがもたらされるのを待たなければならない中へと放り込まれる時です。前に進むことが出来なくて、ただ、神に答えを求め続けた時間、神を待つ時間を過ごしたことはないでしょうか。その時は「停滞」のように思えたかもしれません。しかしあとで振り返ると、それは神に聞くことを学ぶ時間であった、ということがわかるのです。
サウロにとってのこの三日間の意味、そしてなぜなぜ神がサウロをキリストの使徒としてお選びになったのか、サウロを迎えに行くアナニアに、神ご自身の言葉で語られています。
「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう」
この時サウロ本人が聞いたら驚くような言葉です。「異邦人にイエス・キリストキリストの福音を伝えるために召された」、と言われています。この時、サウロはイエスをキリストであると信じるキリスト者たちを迫害していました。そして、サウロは自分がユダヤ人であることに誇りをもっていました。「自分は神を知らない異邦人とは違う」、という誇りを持っていました。
神はそのようなサウロを、「異邦人に」「イエスがキリストである」、と伝える使命へと召されたのだ。
そして、もう一つの理由が驚きです。
「私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう」
神のため・キリストのために苦しむためにサウロは召されたのです。
この神の言葉は、私たちに、信仰者としての使命について新しい視点を示すのではないでしょうか。キリスト者の信仰生活は、「苦しみがなくなる生活」ではないのです。洗礼を受けてキリストを知った人は、何の苦しみもなくなる、ということではありません。生きていればしんどいこともあり、うれしいこともあり、山があり谷があります。それはキリスト者もキリスト者でない人も同じです。
それでは、キリスト者としての喜びとは、信仰の喜びとは何なのか、ということです。
神はサウロが、「私の名のためにどれだけ苦しまなければならないかを示す」とおっしゃいました。サウロが神・キリストのために苦しむ道を歩くことになる、とおっしゃるのです。
それでは、信仰をもつということは、ただ苦しい思いをする、損をすることだ、ということなのでしょうか。
サウロは、イエス・キリストを知って、後悔したでしょうか。そんなことはありません。サウロは後に、「キリストを伝えないことは私にとって不幸なのです」と言っています。サウロにとって、「キリストのために苦しむ」ということが「喜び」となったのです。
イエス・キリストは、人々におっしゃった。
「重荷を負うて苦労している者は私の元に来なさい。休ませてあげよう。」
キリストのもとに行けば重荷がなくなる、というのではありません。キリストが共に担ってくださる、ということです。
ここにキリスト者の喜びがあります。どんなにしんどいことがあっても、キリストが共に担ってくださっているということを知っている・・・それが信仰の喜びです。キリストが共に担ってくださっているのであれば、その重荷には意味があるのです。
サウロが後に使徒となって様々な迫害や苦難に会っても、なぜキリストを伝えるために歩きつづけたのでしょうか。キリストが自分と共に歩いてくださり、苦難を共にしてくださっていることを知っていたからでしょう。
私達の信仰生活も同じです。今、キリストが共に歩んでくださり、共に重荷を担ってくださっているからこそ、喜びがあるのです。 Continue reading →