MIYAKEJIMA CHURCH

2月18日の礼拝案内

次週 礼拝(2月18日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書3:1~8

 交読文:詩編18:26~31

讃美歌:讃詠546番番、194番、293番、頌栄542番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

2月11日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:21~25

「イエスは、何が人間の心の中にあるのかを知っておられた」

主イエスはユダヤ人の過越祭に加わるためにガリラヤ地方からユダヤ地方へと巡礼されました。エルサレムの都に入り神殿に行かれると、突然怒り出して鞭を造って動物たちを追い払い、そこにいた両替人や商人たちも追い出されました。イエス・キリストの「宮清め」と呼ばれている出来事です。

ユダヤ人たちはそれを見て、主イエスに対して敵意を持つようになりました。当然でしょう。神聖な神殿でここまでのことをするのは非常識です。周りにいたユダヤ人たちは主イエスに言いました。

「こんなことをするからには、どんなしるしを私達に見せるつもりか」

神殿で大暴れする正当な理由を示せ、というわけです。これに対して主イエスの答えは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」という言葉でした。

ユダヤ人たちは全く納得しませんでした。神殿を馬鹿にしているようにもとれる言葉です。「この程度の神殿、俺なら三日あれば十分だ」と言っているようにも聞こえます。「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」とユダヤ人たちは怒りました。ここから、主イエスとユダヤ人たちの間には溝ができ、やがて主イエスは逮捕され、十字架はと上げられていくことになります。

今日私たちが読んだのは、神殿で暴れてユダヤ人たちから敵意をもたれてしまった主イエスのことを信じる人たちもいた、というところです。

過越祭の間主イエスはエルサレムに滞在されていましたが、その間、たくさんのしるし・奇跡を行われたようです。そして、多くの人たちが主イエスのことを信じるようになりました。

不思議なのは、主イエスがそのことをお喜びにならなかった、ということです。たくさんの人たちがご自分のことを信じるようになったのに、主イエスは、その人たちのことを「信用なさらなかった」、というのです。「イエスは、何が人間の心の中にあるのかを知っておられたのである」と書かれています。

このことは私達にとって、大きな衝撃ではないでしょうか。キリストは、「あなたを信じます」と告白する人を、無条件に、愛をもって受け入れてくださるのではないか、と私たちは考えるのではないでしょうか。私達が信じても、主イエスの方が私達を信じてくださらない、というのであれば、私達はどうすればいいのか、と思ってしまいます。

「イエスは、何が人間の心の中にあるのかを知っておられた」という一文を読むと、私たちは不安になるでしょう。自分の心の中まで見透かされていることに恐れを抱きます。

今日私たちは、ここでしっかり腰を据えて、「イエス・キリストを信じるとはどういうことなのか」ということを改めて捉えなおさなければならないと思います。そして、「自分の心の中に何があるのか」ということを、聖書を通して吟味していきたいと思います。

ヨハネ福音書は、この世界をお創りになった神が人間として生まれ世に来てくださったのに、この世はその方を神として見ることができなかった、ということを書いています。

キリストの弟子達でさえそうでした。イエス・キリストがなぜ神殿でここまでお怒りになり、大暴れされたのかを、理解できませんでした。弟子達は主イエスと一緒に3年もの間寝食を共にし、旅を続けました。ずっと一緒にいたのです。それでも、弟子達は主イエスがおっしゃった言葉を聞き、主イエスがなさった業を見ても、その時には理解できなかったのです。

弟子達がキリストの言葉や業を本当の意味で理解したのは、キリストの十字架と復活の後でした。キリストの十字架と復活を通して思い返した時に、「あの方のあの言葉は、こういう意味だったのだ。あの時の奇跡は、このような意味があったのだ」と初めて分かったのです。

このことは、私達にとって、自分たちが生きている今にどう向き合うべきか、ということに大きな示唆を与えてくれます。

私達は、「今」という時の意味を知ることが下手なのです。自分が見たものを、自分が見たままに解釈します。物事が上手くいっているときは、「神に感謝しよう」と言えるでしょう。しかし、物事が自分の思うとおりに行かない時、どこに向かえばいいのか分からなくなった時に、「神に感謝しよう」とはなかなか言えません。

むしろ、「神は私のことをご覧になっていないのではないか。私は何か悪いことをしてしまったのではないか」「自分は神から愛していただけるような者ではないのではないか」などと考えこんでしまいます。

しかし、時が経って後からその苦難の時を思い返すと、「あの時の苦しみ、悲しみ、不安は、神がこのことを私に教えるために見せてくださったものではないか」と思うことがあります。失敗や試練も、その時はただ辛いだけのものだったのが、後になって、「あのことを経験していなければ、今の自分はなかった」と思えるようなことはたくさんあるのではないでしょうか。

後にキリストが十字架の死から3日目に蘇られたのを見た時、弟子達は、「三日で建て直して見せる」と主イエスがおっしゃった神殿とは御自分の体であったということを悟りました。

私たちはこのことから、自分たちの信仰生活の今にどう向き合うべきか、どういう視点をもって今を見るべきなのか、ということを教えられるのです。

今私たちは、聖書を鏡にして、自分自身の今をどう見ているでしょうか。私達が生きている「今」という時は、ただ漠然とある今ではありません。私たち生きている「今」は、イエス・キリストの十字架と復活があっての「今」なのです。そのことを日々どれだけ思っているでしょうか。キリストの十字架によって神の元へと立ち返る道が示され、キリストの復活によって自分の死の向こうに永遠の命が備えられている「今」なのです。

私たちの「今」はいつでも考えなければならないこと、心配しなければならないことに溢れています。肉の目に見えることで心がいっぱいになり、自分が生きている「今」を信仰を通して俯瞰することがなかなかできません。

しかし、自分が生きている今を、キリストの十字架と復活という出来事を通して見つめなおすと、今まで見えなかったものが見えてくるのです。私たちは自分たち生きている今に、どれだけの恵みを見出しているでしょうか。

闇を感じる時にこそ、私たちは静かに祈りの中に身を沈めて、キリストの静かな声を聞こうとしなければならないのではないでしょうか。自分が生きている「今」の意味が見えなくても、キリストの十字架の姿と、キリストが墓から蘇られた朝の光に心を向ける時、少しずつ何かが示されていくのです。

だからキリストは私たちに「祈りなさい」とおっしゃるのです。

キリストの弟子達は、自分たちの期待を主イエスにかけていました。弟子達は主イエスの十字架の姿を見た時、愕然としたでしょう。

「自分は3年間、何のためにあの方に従って来たのだろうか。無駄な期待、無駄な福音に生きて来ただけなのだろうか」

十字架へと連れて行かれるキリストから離れ、キリストを見捨てた罪悪感と、キリストに従って来た結末が十字架の死という失望に弟子達は力を失いました。弟子達はその時まだ知らなかったのです。主イエスが死の力に勝る方であることを。

十字架へと引き渡される夜、キリストは弟子達におっしゃいました。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」

弟子達がこの主イエスの言葉の本当の意味を知ったのは、主イエスの復活の後でした。主イエスの十字架を前にした時、弟子達は「この方は敗北した。この方は世に負けた」と思っただろう。しかし、主イエスは十字架の死では終わりませんでした。復活によって死に勝る栄光の光が世に示されたのです。

私たちはこの世に闇を感じると、もうそこで自分は負けた、この世の中で敗北した、と思ってしまいます。しかし、そうではない。闇は闇で終わらないのです。祈りの先に、キリストの栄光の光を見る時が備えられています。そして、「私はあの闇の中で、あなたと一緒にいたのだ」という御声を聞くのです。

私達には、弟子達がそうであったように「あの時自分が感じた苦しみ・悲しみ・痛みは、キリストが共にあっての試練だった。そしてあのことがあって、自分は今ここへと導かれたのだ」と、後になって祈りの中で示される時が備えられています。

私たちは「神様、あなたは今どこにいらっしゃるのですか」と問いかけながら、祈りながら生きています。祈り続けるその先で、「あの時も、私はあなたと共にいたのだ」というキリストの声を聞くことになるのです。

この福音書の8章で、主イエスは、「あなたは何者か」と尋ねるユダヤ人たちに、こうお答えになっています。

「あなたたちの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」

ユダヤ人たちが「信仰の父」と呼ぶアブラハムがうらやむ時を、私たちは生きています。今、私たちは、キリストが、救い主が来てくださった後の時代を生きているのです。

私たちにはキリストが敷いてくださった神の元に続く道があります。その恵みは、私たちの肉の目には映りません。信仰の目、霊の目を通してしか見えないものです。 Continue reading