2月25日の礼拝案内

次週 礼拝(2月25日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書3:1~8

 交読文:詩編18:26~31

讃美歌:讃詠546番番、218番、231番、頌栄542番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

2月18日の礼拝説教

ヨハネ福音書3:1~8

「人は上から生まれなければ、神の国を見ることはできない」

マタイ福音書の山上の説教の中で、主イエスはこうおっしゃっています。

「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。」

先週、私たちは、イエス・キリストが、御自分を信じる人たちのことを、信用なさらなかった、ということが書かれているのを読みました。「なにが人間の心の中にあるかをよく知っておられたからである」と書かれています。

福音書に記録されているこのような主イエスの人間に対する見方、また厳しい言葉を通して、私たちは自分たちの信仰の姿勢を改めて見つめなおすことになると思います。

この後も福音書を読んでいくと、主イエスが示されるしるしを通して主イエスに出会う人たちが次々に登場します。その一人一人が、主イエスのことを信じているかどうかということに加え、「どう信じているか」ということまで問われていくことになるのです。

その初めが、ニコデモという人でした。「ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた」とありますが、少し細かく訳すと、「ニコデモという『人間』がいた」となります。「なにが人間の心の中にあるのかよく知っておられた」主イエスのもとに、ニコデモという「人間」が来た、という文脈です。

ニコデモは確かに主イエスのことを求めて来ました。しかし、ここに記録されている主イエスとニコデモの会話を読むと、ニコデモはまだ「闇の中にいる人」であることがわかります。

「ラビ、私どもは、あなたが神の元から来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです」

ニコデモはそう言って、主イエスへの尊敬を伝えますが、主イエスは、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とお答えになりました。つまり、ニコデモは主イエスのことを尊敬もし、信頼もしているが、本当の意味で主イエスのことを理解しておらず「今のあなたは私に従うことはできない」ということを示されたのです。

ニコデモは主イエスのことをどう見ていたのでしょうか。彼は主イエスに「ラビ、先生」と呼びかけています。ニコデモは、主イエスのことを「偉い先生」と見ていたようです。「人としてお生まれになった神ご本人」としては見ていません。「世の全ての人の罪を背負うために十字架にかかり、三日目に復活するメシア」として信じていないのです。

この時点でのニコデモは、当然そんなことは知りませんでした。ただ、人間離れしたしるしを行われるのを見て、この方には何かある、という期待だけもってやって来たのです。

その夜、主イエスはニコデモがそのような「人間」であることを見抜かれていました。だから主イエスはニコデモをまだ信頼していらっしゃらないのです。

ヨハネ福音書は、「キリストのしるしを見てみんなが信じるようになった」という喜びを描いているのではありません。福音書が焦点を当てているのは、「人々がキリストのしるしを見て信じるようになったが、本当の意味で正しく信じることができていなかった」、ということなのです。キリストに対する人間の無理解、また誤った期待が描かれています。

このニコデモという人を通して、私たちの信仰を新たに吟味したいと思う。

ニコデモは夜に主イエスの下にやって来ました。なぜ夜にやって来たのか、その理由は書かれていません。主イエスに教えを乞うことを他の人たちに見られたくなかったのかもしれません。律法学者として、夜、誰にも邪魔されず静かに神の言葉について語り合いたかったのかもしれません。

ニコデモ本人の実際の事情は分かりませんが、福音書はニコデモのことを、「夜の人」として描いています。つまり、まだ無理解の闇の中にいる人、そして闇の中で光を求める人として描いているのです。

ニコデモは、ファリサイ派の議員であり、最高法院の中の議員の1人であり、ユダヤの指導者でした。主イエスはニコデモのことを「イスラエルの教師」と呼ばれているので、律法学者・神学者でもあったのでしょう。聖書の言葉の専門家であり、神の御心をよく知っているはずの人でした。

しかしこの夜、ニコデモは「夜の人・闇の人」人でした。この夜の闇は、神の御心に対する闇を象徴しています。

ニコデモは確かに主イエスのことを「神のもとから来られた教師だ」と信じていました。しかし、主イエスがおっしゃることを聞いても、全く理解できませんでした。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われても、ニコデモは理解できなかったのです。

ユダヤ人たちが、主イエスが神殿を三日で建て直して見せる、とおっしゃったのを字義通りに解釈したように、ニコデモもここで同じように表面的に解釈している。

「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」

キリストがおっしゃる「新たに生まれる」とはどういうことなのでしょうか。これは、「もう一度生まれる」という意味と、「上から生まれる」という二つの意味があります。福音書は両方の意味を込めているのでしょう。「上から新しく生まれる」、そのことがあって、初めてイエス・キリストが導き入れて下さる神の国へと入ることが出来る、ということです。

聖書の専門家でありユダヤの指導者であり、イスラエルの教師であったにも関わらず、ニコデモは主イエスがおっしゃる言葉の意味が分かりませんでした。

キリストの使徒パウロが書いた手紙や使徒言行禄を読むと、キリスト者たちがどれだけキリストを証ししても、なかなか信じてもらえなかったということがわかる。パウロ自身、ある時は同胞のユダヤ人たちから、ある時は異邦人から迫害を受けました。

そもそもパウロ自身、キリスト者たちを迫害する側の人でした。キリスト者たちが信じていることを理解できなかったです。しかし、復活のキリストに召され、神のために教会を迫害する者から、神のために教会のために働く者とされました。そして自分がキリスト者になったとき、イエス・キリストを証しするということがどれだけ伝わらないことであるか、ということを知ったのです。

パウロはイエス・キリストを証しする言葉を、「十字架の言葉」と表現している。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です・・・世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした。それは神の知恵に適っています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうとお考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」1コリ1:18以下

神の救いの御業は、躓きに満ちています。簡単に信じられるようなものではありません。神が御自分の愛する独り子を、世の罪びとのためにいけにえとして十字架に上げられた、そして三日目に死人の内から復活させられた、というのです。

「それを信じてください」と言っても、誰も簡単に信じることはできませんでした。神の子が人間に殺される、というのです。死人がよみがえった、というのです。

パウロは「世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした」と書いています。確かにそうでしょう。世の知恵、自分の知恵で神の御心をはかり知ることはできません。

だからパウロは言っています。

「私たちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちは誰一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主イエスを十字架につけはしなかったでしょう」1コリ2:7 

ではどうすれば、我々人間はその闇の中から抜け出すことが出来るのでしょうか。まずは、自分の人間的な常識や、地上の知識を脇に置いて、差し出されたキリストの御手をとることです。そこから始まるのです。

主イエスはニコデモの無理解に対して「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃいました。ここを読んで、私たちはすぐに洗礼を思い浮かべると思います。

しかし、ニコデモは分かりませんでした。霊的に新しく生まれ変わる、ということではなく、文字通りもう一度生まれなおさなければならないと理解しました。「もう一度母の胎内に戻らなければならないのですか」とニコデモは混乱します。

そのニコデモに主イエスは続けておっしゃいます。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」 Continue reading

2月18日の礼拝案内

次週 礼拝(2月18日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書3:1~8

 交読文:詩編18:26~31

讃美歌:讃詠546番番、194番、293番、頌栄542番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

2月11日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:21~25

「イエスは、何が人間の心の中にあるのかを知っておられた」

主イエスはユダヤ人の過越祭に加わるためにガリラヤ地方からユダヤ地方へと巡礼されました。エルサレムの都に入り神殿に行かれると、突然怒り出して鞭を造って動物たちを追い払い、そこにいた両替人や商人たちも追い出されました。イエス・キリストの「宮清め」と呼ばれている出来事です。

ユダヤ人たちはそれを見て、主イエスに対して敵意を持つようになりました。当然でしょう。神聖な神殿でここまでのことをするのは非常識です。周りにいたユダヤ人たちは主イエスに言いました。

「こんなことをするからには、どんなしるしを私達に見せるつもりか」

神殿で大暴れする正当な理由を示せ、というわけです。これに対して主イエスの答えは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」という言葉でした。

ユダヤ人たちは全く納得しませんでした。神殿を馬鹿にしているようにもとれる言葉です。「この程度の神殿、俺なら三日あれば十分だ」と言っているようにも聞こえます。「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」とユダヤ人たちは怒りました。ここから、主イエスとユダヤ人たちの間には溝ができ、やがて主イエスは逮捕され、十字架はと上げられていくことになります。

今日私たちが読んだのは、神殿で暴れてユダヤ人たちから敵意をもたれてしまった主イエスのことを信じる人たちもいた、というところです。

過越祭の間主イエスはエルサレムに滞在されていましたが、その間、たくさんのしるし・奇跡を行われたようです。そして、多くの人たちが主イエスのことを信じるようになりました。

不思議なのは、主イエスがそのことをお喜びにならなかった、ということです。たくさんの人たちがご自分のことを信じるようになったのに、主イエスは、その人たちのことを「信用なさらなかった」、というのです。「イエスは、何が人間の心の中にあるのかを知っておられたのである」と書かれています。

このことは私達にとって、大きな衝撃ではないでしょうか。キリストは、「あなたを信じます」と告白する人を、無条件に、愛をもって受け入れてくださるのではないか、と私たちは考えるのではないでしょうか。私達が信じても、主イエスの方が私達を信じてくださらない、というのであれば、私達はどうすればいいのか、と思ってしまいます。

「イエスは、何が人間の心の中にあるのかを知っておられた」という一文を読むと、私たちは不安になるでしょう。自分の心の中まで見透かされていることに恐れを抱きます。

今日私たちは、ここでしっかり腰を据えて、「イエス・キリストを信じるとはどういうことなのか」ということを改めて捉えなおさなければならないと思います。そして、「自分の心の中に何があるのか」ということを、聖書を通して吟味していきたいと思います。

ヨハネ福音書は、この世界をお創りになった神が人間として生まれ世に来てくださったのに、この世はその方を神として見ることができなかった、ということを書いています。

キリストの弟子達でさえそうでした。イエス・キリストがなぜ神殿でここまでお怒りになり、大暴れされたのかを、理解できませんでした。弟子達は主イエスと一緒に3年もの間寝食を共にし、旅を続けました。ずっと一緒にいたのです。それでも、弟子達は主イエスがおっしゃった言葉を聞き、主イエスがなさった業を見ても、その時には理解できなかったのです。

弟子達がキリストの言葉や業を本当の意味で理解したのは、キリストの十字架と復活の後でした。キリストの十字架と復活を通して思い返した時に、「あの方のあの言葉は、こういう意味だったのだ。あの時の奇跡は、このような意味があったのだ」と初めて分かったのです。

このことは、私達にとって、自分たちが生きている今にどう向き合うべきか、ということに大きな示唆を与えてくれます。

私達は、「今」という時の意味を知ることが下手なのです。自分が見たものを、自分が見たままに解釈します。物事が上手くいっているときは、「神に感謝しよう」と言えるでしょう。しかし、物事が自分の思うとおりに行かない時、どこに向かえばいいのか分からなくなった時に、「神に感謝しよう」とはなかなか言えません。

むしろ、「神は私のことをご覧になっていないのではないか。私は何か悪いことをしてしまったのではないか」「自分は神から愛していただけるような者ではないのではないか」などと考えこんでしまいます。

しかし、時が経って後からその苦難の時を思い返すと、「あの時の苦しみ、悲しみ、不安は、神がこのことを私に教えるために見せてくださったものではないか」と思うことがあります。失敗や試練も、その時はただ辛いだけのものだったのが、後になって、「あのことを経験していなければ、今の自分はなかった」と思えるようなことはたくさんあるのではないでしょうか。

後にキリストが十字架の死から3日目に蘇られたのを見た時、弟子達は、「三日で建て直して見せる」と主イエスがおっしゃった神殿とは御自分の体であったということを悟りました。

私たちはこのことから、自分たちの信仰生活の今にどう向き合うべきか、どういう視点をもって今を見るべきなのか、ということを教えられるのです。

今私たちは、聖書を鏡にして、自分自身の今をどう見ているでしょうか。私達が生きている「今」という時は、ただ漠然とある今ではありません。私たち生きている「今」は、イエス・キリストの十字架と復活があっての「今」なのです。そのことを日々どれだけ思っているでしょうか。キリストの十字架によって神の元へと立ち返る道が示され、キリストの復活によって自分の死の向こうに永遠の命が備えられている「今」なのです。

私たちの「今」はいつでも考えなければならないこと、心配しなければならないことに溢れています。肉の目に見えることで心がいっぱいになり、自分が生きている「今」を信仰を通して俯瞰することがなかなかできません。

しかし、自分が生きている今を、キリストの十字架と復活という出来事を通して見つめなおすと、今まで見えなかったものが見えてくるのです。私たちは自分たち生きている今に、どれだけの恵みを見出しているでしょうか。

闇を感じる時にこそ、私たちは静かに祈りの中に身を沈めて、キリストの静かな声を聞こうとしなければならないのではないでしょうか。自分が生きている「今」の意味が見えなくても、キリストの十字架の姿と、キリストが墓から蘇られた朝の光に心を向ける時、少しずつ何かが示されていくのです。

だからキリストは私たちに「祈りなさい」とおっしゃるのです。

キリストの弟子達は、自分たちの期待を主イエスにかけていました。弟子達は主イエスの十字架の姿を見た時、愕然としたでしょう。

「自分は3年間、何のためにあの方に従って来たのだろうか。無駄な期待、無駄な福音に生きて来ただけなのだろうか」

十字架へと連れて行かれるキリストから離れ、キリストを見捨てた罪悪感と、キリストに従って来た結末が十字架の死という失望に弟子達は力を失いました。弟子達はその時まだ知らなかったのです。主イエスが死の力に勝る方であることを。

十字架へと引き渡される夜、キリストは弟子達におっしゃいました。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」

弟子達がこの主イエスの言葉の本当の意味を知ったのは、主イエスの復活の後でした。主イエスの十字架を前にした時、弟子達は「この方は敗北した。この方は世に負けた」と思っただろう。しかし、主イエスは十字架の死では終わりませんでした。復活によって死に勝る栄光の光が世に示されたのです。

私たちはこの世に闇を感じると、もうそこで自分は負けた、この世の中で敗北した、と思ってしまいます。しかし、そうではない。闇は闇で終わらないのです。祈りの先に、キリストの栄光の光を見る時が備えられています。そして、「私はあの闇の中で、あなたと一緒にいたのだ」という御声を聞くのです。

私達には、弟子達がそうであったように「あの時自分が感じた苦しみ・悲しみ・痛みは、キリストが共にあっての試練だった。そしてあのことがあって、自分は今ここへと導かれたのだ」と、後になって祈りの中で示される時が備えられています。

私たちは「神様、あなたは今どこにいらっしゃるのですか」と問いかけながら、祈りながら生きています。祈り続けるその先で、「あの時も、私はあなたと共にいたのだ」というキリストの声を聞くことになるのです。

この福音書の8章で、主イエスは、「あなたは何者か」と尋ねるユダヤ人たちに、こうお答えになっています。

「あなたたちの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」

ユダヤ人たちが「信仰の父」と呼ぶアブラハムがうらやむ時を、私たちは生きています。今、私たちは、キリストが、救い主が来てくださった後の時代を生きているのです。

私たちにはキリストが敷いてくださった神の元に続く道があります。その恵みは、私たちの肉の目には映りません。信仰の目、霊の目を通してしか見えないものです。 Continue reading

2月11日の礼拝案内

 次週 礼拝(2月11日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書2:23~25

 交読文:詩編18:26~31

讃美歌:讃詠546番番、217番、288番、頌栄542番

【報告等】

◇2月10日(土)に三宅島伝道所で東支区青年部修養会が行われます。翌11日(日)の礼拝に東支区青年部が来てくださり、礼拝後愛餐会をいたします。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

2月4日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:13~22

「『この神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる』」

先週に引き続いて、キリストの「宮清め」と呼ばれる出来事を読みました。イエス・キリストが過越祭でエルサレム神殿に巡礼された際、神殿の境内で商売をしている人たちをご覧になってお怒りになり、商人たちをその場から追い出された地面です。

この出来事は、4つの福音書全てに記録されていますが、ヨハネ福音書だけは、他の三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカと比べると、独特の描き方をしています。他の福音書とは違った強調点があるようです。

他の福音書では、この神殿での出来事は主イエスの福音宣教の最後に起こったこととして書かれているのに対して、ヨハネ福音書では福音宣教の最初に記録しています。更に、ヨハネ福音書では、この宮清めの出来事を、弟子達が後にどのように思い出したのか、という視点で書かれているのです。

主イエスは、「こんなことをするからには、どんなしるしを私達に見せるつもりか」と言ってきたユダヤ人たちに、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」とおっしゃいました。しかし、その時は誰もその言葉の意味が分かりませんでした。主イエスが十字架で殺されて三日後に復活された時、はじめて弟子達は、その時の言葉を思い出してその意味を理解したのです。

ヨハネ福音書は、水を葡萄酒に変え、宮清めをされたイエス・キリストのお姿を通して、霊の神殿が建ちあがり、祝福の葡萄酒があふれる新しい時代の到来を描いているのです。

今日は特に、キリストの謎かけの言葉に焦点を当てて、この宮清めの場面を見たいと思います。

神殿の境内から商人たちを追い出された主イエスに対して、ユダヤの指導者たちは質問してきました。

「こんなことをするからにはどんなしるしを見せてもらえるのか」

神殿でこれほどのことをしたのだから、皆が納得するだけの理由と、あなたの権威を示しなさい、ということです。

主イエスはこうお答えになりました。

「この神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる」

ユダヤ人たちの言葉に対して、正面から答えているような言葉ではありません。随分乱暴な答え方です。ユダヤ人たちが実際に神聖な神殿を壊せるはずがないのだ。乱暴なことを言って言い逃れしているようにもとれます。

ユダヤ人たちはそれを聞いて「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言いました。

ソロモンによって建築されたエルサレム神殿はBC6世紀にバビロンの軍隊によって破壊されました。バビロンでの捕囚生活からエルサレムに戻って来た人たちは、破壊された神殿を再建します。その神殿は、紀元前20年からヘロデ王が修復・建築をはじめ、最終的にその工事は紀元後63年まで続くことになる。ユダヤ人たちはここで「46年」と言っているので、キリストの宮清めの出来事は紀元26年のことだったのでしょう。

それほどの大工事によって建てられている神殿を三日で建て直すなど、無理に決まっています。この時の主イエスの言葉を聞いた人たちは、後に主イエスのことを「神殿を壊そうとする者」であるとか、「神殿を三日で造る大言壮語した者」として思い出すことになります。

この主イエスの言葉を聞いたユダヤ人の指導者たちは、その言葉を字義通りに解釈しました。しかし、キリストの言葉には、霊的な意味を含んだ謎かけとしておっしゃったのです。そしてその意味を知ったのは、キリストの復活を見た弟子達でした。

キリストの弟子達は、この宮清めを、後にどのように思い出したでしょうか。

17節には、「あなたの家に対する熱情が私を食い尽くすだろう」という詩編69編の言葉と共に思い出した、と書かれています。

あの時、神殿でお怒りになり、暴れて商人たちを追い出された主イエスは、「父なる神への熱情に食い尽くされた」「神への愛に身を焦がした」お姿だったことを理解したのです。そして神殿に対するキリストのその愛が、キリストご自身を十字架の死へと追いやってしまったことを弟子達は知りました。

後に弟子達が思い出した詩編69編は、信仰者の受難の歌です。ヨハネ福音書は、イエス・キリスト十字架と復活を、詩編69編の言葉の実現として描き出しています。

「恵みと慈しみの主よ、私に答えてください。憐み深い主よ、御顔を私に向けてください。あなたの僕に御顔を隠すことなく、苦しむ私に急いで答えてください。私の魂に近づき、贖い、敵から解放してください。私が受けている嘲りを、恥を、屈辱を、あなたはよくご存じです。私を苦しめる者は、全て御前にいます。嘲りに心を打ち砕かれ、私は無力になりました。望んでいた同情は得られず、慰めてくれる人も見出せません。人は私に苦いものを食べさせようとし、渇く私に酢を飲ませようとします」

まさに、詩編69編十字架で苦しまれるイエス・キリストのお姿そのものではないでしょうか。

キリストの復活の後、宮清めの際のキリストの姿を思い出し、その意味を知った弟子達は、どうしたでしょうか。弟子達は、この詩編の言葉と、イエス・キリストの死をどのように捉えたでしょうか。

神への愛を貫くことでキリストは殺されてしまったのです。弟子達は、「神への熱情を持つこと、信仰を持つことは自分の身を滅ぼしてしまうものなのだ」、と考えたでしょうか。

そうではありませんでした。弟子達は、イエス・キリストと同じ道を歩み始めたのです。

十字架へと連行される主イエスを見て、弟子達はその場から逃げ去りました。神への愛を、神への信頼を捨て、イエス・キリストを見捨てたのです。そして彼らは、苦みました。神を捨てた者、キリストを見捨てた者として生きることこそが、彼らにとって何よりの受難だったのです。そして弟子達は神への愛を貫き、キリストに従う苦しみを選び取りました。

使徒言行禄に、弟子達の活動が記録されている。

一度はキリストを知らないと言って見捨てたあのペトロが、キリストを捕らえた最高法院の人たちを前に言っています。

「神に従わないであなた方に従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」

「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」

そして、鞭で打たれても弟子達は「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜」んだ。

聖書の信仰は、いわゆる御利益宗教とは違います。私たちキリスト者には、キリストに従うがゆえの苦しみがあります。キリストを信じるがゆえの苦しみがあります。

しかし、信仰の苦しみが無駄になることはありません。この世の価値観でははかり知ることのできない実りをもたらすのです。キリストを信じてこの世で金持ちになれるというのではありません。私たちはキリストに従う中で、天に富を積むのです。苦難の中で祈り、キリストを求める私達の姿が、信仰の種まきとなるのです。

一度はキリストを見捨てた弟子達は、復活なさったキリストの元へと立ち返りました。キリストは許してくださったのです。そして、キリストを見捨てた一人一人に、もう一度「私に従いなさい」と招いてくださいました。

私たちにとって、一番大きな財産はキリストの許しではないでしょうか。天の御国への道を外れた私たちを、キリストは何度でも、許し、招き入れてくださいます。

なぜ弟子達は確信をもって、自分たちの一生をキリストの証し人として捧げることが出来たのでしょうか。キリストの復活を見た弟子達の確信は、主イエスが「神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる」とおっしゃったあの言葉でした。

21 Continue reading

2月4日の礼拝案内

次週 礼拝(2月4日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書2:13~21

 交読文:詩編18:26~31

讃美歌:讃詠546番番、187番、394番、頌栄542番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇2月10日(土)に三宅島伝道所で東支区青年部修養会が行われます。翌11日(日)の礼拝に東支区青年部が来てくださり、礼拝後愛餐会をいたします。どうぞお残りください。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月28日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:13~22

「弟子達は、『あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」(2:17)

カナで最初のしるしを行われたイエス・キリストは、ご自分の家族と弟子達と一緒にカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在されました。その後、過越祭が近づいたので、弟子達と一緒にエルサレムへと上って行かれました。

主イエスがエルサレムに上り、神殿でなさったことは、境内にいた生贄の動物を売る人たちや両替商の人たちを追い出す、ということでした。神の家であり、全ての人の祈りの家であるはずのエルサレム神殿の境内で、商人たちの商売が行われていたのです。

キリストがここまで大暴れしてお怒りになることなど他にないので、読む者にとっては印象に残る場面でしょう。この事件は、どの福音書にも記されているので、よほど人々の記憶に残っていたのでしょう。キリストによる「宮清め」と呼ばれています。

どの福音書にも記録されているキリストの宮清めですが、ヨハネ福音書だけは、他の福音書とは随分違った描き方をしています。マタイ、マルコ、ルカの福音書は、この事件を、イエス・キリストの公の生涯の最後に起こったこととして記録しています。しかしヨハネ福音書は、この出来事を、キリストの公の生涯のはじめで、「最初のしるし」を行われたすぐ後に描いているのです。

ヨハネ福音書は、私たちに何を伝えようとして、この宮清めの出来事を描いているのでしょうか。

主イエスはカナの婚礼の席で、水を葡萄酒に変えられました。そのしるしは、旧約の預言者たちが伝えて来たメシアの宴が現実のものとなったというしるしであり、救いの到来、新しい時代の到来のしるしであった、ということを前にお話ししました。

そのすぐ後に書かれているこの宮清めの出来事も、預言の実現なのです。

旧約の預言者、ゼカリヤは、こんな預言の言葉を残している。

「主は地上を全て治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられその御名は唯一の御名となる・・・その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」ゼカ14:21

ゼカリヤは、「主の神殿に商人がいなくなる」日の到来を預言しました。ゼカリヤが言う「その日」とは、「主の日」です。「主の日」とは、神が世に来られる時のことです。

主イエスが追い出されたことで、神殿の境内から商人がいなくなりました。ゼカリヤが到来を預言した「主の日・神が世に来られた日」に、神殿から商人がいなくなる、という預言が実現したのです。

神殿から商人たちを追い出されたイエス・キリストこそ、世に来られた神でした。神がご自分の家に来て、清められたのです。

ゼカリヤだけではない。

他にも、この時のキリストのお姿を預言していた預言者がいます。マラキです。

「あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる・・・彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に捧げものを正しく捧げる者となるためである。その時、ユダとエルサレムの捧げものは遠い昔の日々・・・そうであったように主にとって好ましいものとなる。」(マラキ書3:1~4)

なぜこの出来事が「宮清め」と呼ばれているのでしょうか。金属を精錬する火のように、神ご自身が神殿を清められたのです。捧げものを、正しく捧げる神の家とするためです。

主イエスの宮清めはゼカリヤやマラキの預言の実現でした。私たちは、水を葡萄酒に変え、神殿から商人たちを追い出されたキリストに、神の秩序の回復を見ます。神が世に来られ、祝福の葡萄酒で満たし、信仰を磨き上げてくださる時が来たのです。

キリストは祈りの家を清めてくださいます。では、今の私たちにとっての祈りの家とは、神殿とはどこにあるのでしょうか。

弟子達は、後にイエス・キリストが復活なさったのを見て、「三日で建て直す」とキリストがおっしゃったのは、石でできた建造物としての神殿ではなく、御自分の体のことであったということを理解しました。

イエス・キリストは神殿から商人を追い出して、神の家を清められました。そしてそれは、「目は見えない」新しい神殿の到来をも意味していました。ここから神殿が刷新されていくことになります。その神殿こそ、イエス・キリストご自身だった、というのです。

しかし、キリストが神殿から商人たちを追い出された時には、誰もそのことがわかりませんでした。それが分かったのは、キリストの十字架と復活の後でした。

キリストが復活なさった後、弟子達はなぜキリストが神殿であれだけお怒りになり暴れたのかも理解しました。

17節 「弟子達は、『あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。」

弟子達は神殿でお怒りになったキリストを、「あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす」という言葉と共に思い出しました。これは詩編69:10の言葉です。

詩編69編は、信仰者の受難をうたった詩です。詩編の元の言葉は、このような言葉です。

「あなたの神殿に対する熱情が私を食い尽くしているので、あなたを嘲る者の嘲りが私の上に降りかかっています。私が断食して泣けば、そうするからと言って嘲られ、粗布を衣とすれば、それも私への嘲りの歌になります」

神を愛するが故の信仰の苦しみを謳い上げた詩です。後に弟子達がなぜこの詩編の言葉と共にキリストの宮清めを思い出したか・・・彼らはキリストの十字架を見たからです。

神殿への愛・熱情がキリストの身を焦がすほどでした。その神への愛を貫くために、あの方は十字架に上げられたということを、弟子達は詩編の言葉と共にキリストの宮清めの姿を思い出したのです。

キリストが神殿であれほど乱暴なふるまいをなさったのは、神殿に対する熱意、神の家に対する愛ゆえのことでした。そしてその神への愛によって、キリストは十字架に上げられてしまったのです。

キリストの弟子達をはじめ、代々のキリスト者たちは、信仰ゆえの痛みを担って来ました。神を愛し続けるには、忍耐がいります。神を愛そうとする者を傷つけようとする力があるからです。

後に弟子達が思い出した詩編69編は、確かに信仰ゆえの痛みを歌っています。

「恵みと慈しみの主よ、私に応えてください。憐み深い主よ、御顔を私に向けてください」

「私が受けている嘲りと、恥を、屈辱を、あなたはよくご存じです。私を苦しめる者は、全て御前にいます」

しかし、信仰の痛みの先にある慰めも歌い上げています。

「神の御名を讃美して私は歌い、御名を告白して、神を崇めます。・・・貧しい人よ、これを見て喜び祝え。神を求める人々には健やかな命が与えられますように。主は乏しい人々に耳を傾けてくださいます。主の民の囚われ人らを決しておろそかにはされないでしょう」 Continue reading

1月28日の礼拝案内

【本日の予定】

◇礼拝後、祈祷会があります。

 次週 礼拝(1月28日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書2:13~21

 交読文:詩編18:17~25

讃美歌:讃詠546番番、263番、500番、頌栄541番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月21日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:1~12

「イエスは、この最初のしるしをカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子達はイエスを信じた」(2:11)

ヨハネ福音書は、カナという小さな村で行われた婚礼の宴の舞台裏で行われた奇跡を、キリストが最初に行われた「しるし」として描いています。ヨハネ福音書で、弟子達を召し出されたキリストの公の活動として最初の事件となります。そしてこの出来事は、この後のキリストの公の活動を暗示するものでもあり、旧約の預言の実現でもあります。

キリストが六つの水がめに水をいっぱいにし、それを葡萄酒へと変えられたということの意味は何なのでしょうか。「この方にはこんなにも人間離れした力があった」ということを伝えるだけのものではないはずです。

カナの婚礼で行われた「しるし」を通して、私達は、このイエスという方が世に来られた意味を、そしてこの方がやがて十字架で流す血の意味を見せられることになるのです。先週に引き続いて、カナの婚礼の場面を見ていきたいと思います。

キリストが最初にお見せになった「しるし」は、婚礼の宴の席で、人々が飲み切ることが出来ないほど豊かな葡萄酒をおつくりになるということでした。「婚礼の席」で、「豊かな葡萄酒」が出される、というところに、この「しるし」の意味があります。「婚礼」は契約の象徴だし、「葡萄酒」は血の象徴です。私たちは、この場面に、「契約の血」がやがて与えられることを見るのです。

旧約時代の預言者たちの言葉と、カナの婚礼のしるしを照らし合わせて見ると、私たちは、メシア到来の祝福の実現を見ることが出来ます。

BC8世紀、預言者アモスは当時偶像礼拝に腐敗していた北イスラエル王国で、神の律法の言葉が守られていないことを糾弾ました。当時の北イスラエル王国では、「弱者を守れ」という神の愛の教えが守られず、貧しい人がわずかな値段で売りとばされたりしていたのです。

アモスはそのような腐敗した北イスラエル王国の滅びを預言して人々に告げました。そして滅びを預言すると同時に、その滅びの先にある神の救いの幻も伝えました。

アモスの預言書の最後の言葉はこういうものです。

「見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続き、ブドウを踏む者は、種まく者に続く。山々はブドウの汁を滴らせ、全ての丘は溶けて流れる。私は我が民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒らされた町を建て直して住み、園を造って、実りを食べる。私は彼らをその土地に植え付ける。私が与えた地から再び彼らが引き抜かれることは決してないと、あなたの神なる主は言われる。」

北イスラエル王国は弱く貧しい者たちを顧みないその罪ゆえに滅びることになる、しかしその先で、神は許しの時・再建の時を既に備えていらっしゃる、とアモスは預言したのです。

アモスは、罪の許しの時に何が起こるかを預言しました。

「丘が溶けて流れるほど豊かな葡萄酒」をもって神は祝福をくださる、というのです。。

預言者イザヤも、終わりの日に与えられる神の救いの様子を伝えています。

「万軍の主はこの山で祝宴を開き、全ての民に良い肉と古い酒を供される。・・・主はこの山で・・・死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、全ての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上からぬぐい取ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそ私達の神。私達は待ち望んでいた。この方が私達を救ってくださる。この方こそ私達が待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう」(25:6以下)

「花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」(62:6)

イザヤは、神と人が宴の中で一緒に座ることを預言しました。花婿と花嫁のように神と人が宴の中で一緒に座ることになる、そして神が人の顔から涙をぬぐってくださる時が来る、と言っています。

私達が今日読んだ、カナの婚礼のイエス・キリストこそ、アモスやイザヤの預言の実現なのです。

神の子が、婚礼の席に共に座って下さり、祝福の葡萄酒を豊かに与え、涙をぬぐってくださる時が来たのです。

アモスが預言した許しの時、イザヤが預言した神との契約の回復の時が来た、ということです。預言者たちが伝えて来た「神との新しい契約の時・祝福の時」が、このカナの婚礼で示された「しるし」の意味なのです。

婚礼の世話役は、花婿を呼んで「あなたは良い葡萄酒を今まで取っておかれました」と言いました。キリスト以前にはなかった、良いことが始まっていくことが示されています。イエス・キリストから祝福が新しく始まるのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが私たちの間に来ました。私たちはそのことを喜ぶべきなのです。

そうして見ると、カナの婚礼のしるしは、私たちにとっても大きな意味を持つのではないでしょうか。私たち一人一人にとって、イエス・キリストに出会う前と後では、生きる意味が大きく変わったはずです。自分の中から何かが無くなってしまいそうになった時、自分の知らないところで、自分の人生の舞台裏で、キリストが祝福を用意して満たしてくださったのではないでしょうか。

教会は、主日ごとに礼拝します。私達の礼拝の中心には聖餐卓があります。私たちは神と共に、キリストと共に席に着き、礼拝の中で自分と神との出会いを喜び、神との契約を喜ぶのです。

さて、私たちは今日、一つの言葉に注目したいと思います。「しるし」という言葉です。他の福音書では、「奇跡」とか「偉大な業」とかいう言葉がつかわれていますが、ヨハネ福音書はイエス・キリストが水を葡萄酒に変えられたことを「しるし」と呼んでいます。主イエスが行われたことを「しるし」と呼んでいることには、何か特別な意図があるようです。

2:11「イエスは、この最初のしるしをカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子達はイエスを信じた」

実は、このカナの婚礼と呼ばれている出来事で本当に変えられたのは弟子達でした。花婿と花嫁でもなく、婚礼の世話人たちでもなく、参列者たちでもありません。厳密に言えば、これはその婚礼の場にいた人たちが主イエスの行われた奇跡を見て驚いた、という出来事ではないのです。むしろ婚礼の表舞台では誰もキリストがなさったしるしを見ていません。これは婚礼の舞台袖で小さな奇跡を行われた主イエスに神の栄光を見て、弟子達が「信じる者」となったという出来事なのです。

弟子達は確かに、主イエスを求め、ここまで付いてくるようになりました。しかし改めて、弟子達はこの婚礼で主イエスが行われた「しるし」を見て、「信じた」と書かれています。

この「しるし」を見て、弟子達の中で何かが大きく変わったのでしょう。この「しるし」を通して、本当の意味で、「この方が神のメシアであり、この方を通して神の栄光を現われる」ということを「信じた」のです。弟子達は、「しるし」を通して「主イエスについていく者」から、「主イエスを信じる者」になった。

このことを見ると、「しるし」というのは、私たちをただ驚かせるものではなく、キリストと私たちを結び付けるものであることがわかります。聖書が私たちに示す「しるし」は、「何か信じがたい現象」「何か魔術的なもの」ではありません。神の栄光が表され、私たちをキリストへと結びつけるものということです。

主イエスはガリラヤでこのあといくつもの「しるし」を行われます。それは、人々を驚かせるものではなく、むしろ「私を本当に神の子・キリストと信じるか」と問いかけるものでもありました。

このような「しるし」は、今も私たちにも与えられています。まず、今私たちが教会でキリストを礼拝している、ということが、すでに「しるし」が与えられたということの証拠でしょう。

誰もが、教会へと足を向けるようきっかけとなった「あのこと」があり、「あの人」がいたのです。それこそ、それぞれに与えられた神からの「しるし」、と言っていいのではないでしょうか。他の人たちからすれば、奇跡には見えないかもしれません。「そんなのはあなたの思い込みだ、偶然だ」と言われるかもしれません。しかし、自分にとって必然としか思えない時に、自分とキリストにしかわからない「しるし」が見せられたから、今私たちはこの礼拝にいるのではないでしょうか。

私たちは、何となく興味を持って教会に来て、一度礼拝に加わった、というのではないのです。何よりの奇跡は、自分が礼拝の中に身を置くようになり、そして今も礼拝者として、信仰者としてあり続けている、ということではないでしょうか。楽しいことがあっても、辛いことがあっても、毎週礼拝に来て、神の言葉を聞き、祈りを捧げ、礼拝ごとに新たにされていく自分を感じるということです。

この福音書の最後の方、20:30でこう書かれています。

「このほかにも、イエスは弟子達の前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名による命を受けるためである」

キリストの弟子達は福音書に書ききれないほどのしるしを見たのです。しかしこのヨハネ福音書の中に書かれているのは、書ききれるだけのしるしです。書ききれないほどのしるしが、これまで与えられてきました。何も誇るものをもたないこの私にも、こんなにも小さな者にも、神は福音の種を大切に蒔いてくださってきたのです。

なぜイエス・キリストが十字架で殺された後も、キリストを信じる人たちが起こされたのでしょうか。なぜ直接キリストを見知っている世代の人たちがいなくなっても、キリストを信じる信仰者が次の世代にも起こされてきたのでしょうか。そしてなぜ今も、この聖書という不思議な、信じがたいことばかりが書かれている書物が求められ、読まれているのでしょうか。

ここに真理があるからでしょう。「しるし」があるからでしょう。キリストと私たちを結び付ける何かがあるからでしょう。

私たち自身、肉の目を通して、キリストのしるしを直接見たわけではないのに、なぜ教会に足を運ぶのでしょうか。今私たちがキリスト者として今ここに生きているということこそが、何よりキリストが生きて私たちを導いておられる「しるし」ではないでしょうか。

この島の中で私たちはキリスト者として生かされていることこそ、神がこの島の人たちにお与えになった招きの「しるし」なのです。

私たちにはキリストのように人の目を引き付ける奇跡を行うことは出来ません。しかし、私たちが今ここで礼拝し、祈り、讃美をささげるこの小さな信仰の業は、キリストが起こされた大きな奇跡であり、この島の中で「しるし」として確かに用いられていくのです。