使徒言行禄26:1~18
「私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『私は、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て』」
パウロがローマ皇帝に上訴する」と言ったために、総督フェストゥスは、パウロの罪状を皇帝に報告しなければならなくなりました。しかしフェストゥスは、パウロがただ「イエスは生きている」と言っているだけで、何か重大な罪を犯していないことを知っていました。困っていたところに、当時ユダヤ人を支配していたヘロデ・アグリッパ王が表敬訪問のためやって来たのでアグリッパにパウロの話を聞いてもらおうとしました。
アグリッパは、祖父の代からユダヤを治めて来た家系の人です。エルサレム神殿の運営や、大祭司の任命などにも権限を持っていました。エルサレムのユダヤ人だけでなく、地中海岸沿いに離散して住んでいたユダヤ人たちにとっても権限を持っていた人です。当然ユダヤ人の律法にも詳しく、パウロとアグリッパが対面することで、より深く何が問題なのか知ることができると、フェストゥスは考えたのでしょう。
アグリッパ王自身もパウロに興味を示し、会って話すことにしました。パウロはアグリッパの前に立たされ、「お前は自分のことを話してよい」とアグリッパ王から言われます。
今日私たちは、「自分のことを話してよい」と言われたパウロが何を話したのかということをよく見たいと思います。「自分のことを話してよい」と言われてパウロが話したのは、「復活なさったイエス・キリストに出会った自分」でした。自分の無実を証明するための言い訳ではありません。自分がキリストを知らない時にどんなことをしたか、そしてキリストに出会ったからどのように変わったか・・・そして、今アグリッパ王の前に立たされている自分は、世の人々をサタンの支配から神に立ち返らせ、神の恵みへと導き入れる使命をもった使徒である、ということを弁明したのです。
パウロは、自分には使命があり、自分が今していることは、預言者たちを通して神が前もっておっしゃって来たご計画に沿ったものである、ということをはばからずに言い表しました。
今日私たちが読んだこのパウロの言葉が、使徒言行禄におけるパウロの最後の弁明の言葉となります。ここでパウロが「やはりローマ皇帝に上訴するのをやめて、エルサレムで裁判を受けます」と言えば、無罪放免になったでしょう。
しかし、パウロがアグリッパ王に伝えたのは「無実の自分」ではなく「罪びとでありながら復活のキリストによって許され、神のご計画のために働くこと恵みをいただいている自分」でした。
パウロは自分の生い立ちと、教会に対して行った迫害を赤裸々に語っています。本当は隠しておきたい、パウロの恥の歴史です。パウロがいかに熱心に教会を迫害したのか、ということについては、今パウロを訴えている最高法院の祭司長たちが証言してくれるだろう、と言います。それほどパウロは熱心に教会を迫害し、その熱心さは有名だったのでしょう。
そしてパウロは「神のために」教会を迫害していた自分に、復活のキリストが光の中で出会ってくださったことを語ります。パウロはキリストとの出会いの光の中で変えられたのです。
パウロが「自分のことを語ってよい」と言われて語ったのは、これでした。それが、パウロにとっての「自分」でした。
パウロは、アグリッパの前で発言を赦されましたが、自己弁護ではなく、一人のキリスト者として、ただ、自分を通して働かれた神・イエス・キリストを証ししたのです。それが、パウロにとって、「自分を語る」ということでした。
パウロが立ち返るのはいつでも、あの復活のキリストとの出会いの光です。あの光の中で聞いた声、あの光の中で示された道を抜きにして、パウロは自分自身を語ることはできませんでした。パウロとって、自分を語る、とは、キリストに救われた自分を語る、ということだったのです。
これが、キリスト者が証しをする、ということでしょう。我々キリスト者一人一人にとって、「自分を語る」ということは、すなわち、「キリストが出会ってくださった自分を語る」ということなのです。そしてそのことが、キリストを証しする、ということなのです。「キリストを語る」ということは私たちにとって「自分を語る」ということであり、同時に、「自分を語る」ということは「キリストを語る」ということでもあるのです。
教会を迫害していた時の自分を誰かに語ることは、パウロにとっては恥をさらすことだったでしょう。しかし、キリスト者は、自分の罪の恥を語ることなしに、キリストとの出会いの恵みを証しすることはできません。教会の迫害者が、キリストの使徒へと召されている、ということ自体が神の御業であり、パウロは証のため喜んで自分の恥をさらしたのです。
パウロは手紙の中でこう書いています。
「私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのないものです。神の恵みによって今日の私があるのです」
パウロは「こんな私でさえ、神は許し、用いてくださるのだ」とその恵みを証ししています。私たちの証も同じでしょう。神は、こんな私たちの罪にも関わらず愛してくださり、許してくださるのです。「私がその生き証人だ」、と自分をさらすのです。
キリストに出会う前の自分はどうだったでしょうか。私たちは、キリストを証しする際、キリストを知らなかった時の自分を無視することはできません。それは罪びとであった時の自分に向き合うと言うことです。「神なんてなくても生きていける」「神など信じるのは弱い人間だ」、と言っていた時の自分の姿は、キリストに出会った今の自分の目にどう映っているでしょうか。
パウロはキリストの光に包まれる中、「起き上がれ。自分の足で立て」というキリストの声を聞きました。パウロは、「自分の足でしっかり立っている」、と思っていたでしょう。
実際、彼は手紙の中でこう書いています。
「私は・・・イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一因、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころの無い者でした。」
パウロは「自分は完ぺきだった」と胸を張っていました。誰にも負けないほどの強い信仰に立っている、と思っていたのです。しかし、パウロは、「主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失と見ています」と書いています。
私たちがキリストに出会う前と出会った後の自分の歩みを比べると、どうでしょうか。「神など知らなくても自分は生きていける、自分の足元がぐらつくことはない」と思っていた自分の前に、自分の罪びととしての姿を見せられた時、人は、立つことが出来なくなります。崩れるのです。
そのパウロは「起き上がれ、自分の足で立て」という神の言葉を聞きました。自分の罪ゆえに自分が崩れた時、その声で、人は本当の意味で立つことできるのです。そして私たちを本当に立たせてくださるもの、生かすものは、神の言葉であることを知っていくのです。
紀元前6世紀、イスラエルがバビロンによって捕囚とされた時、エゼキエルという人も捕らえられバビロンへと連れて行かれました。捕囚としての生活が5年続いた時、エゼキエルは神の声を聞きました。
「人の子よ、自分の足で立て。私はあなたに命じる」
この声で、エゼキエルは預言者とされました。
旧約の預言者たちは、このように、突然神から呼びかけられて、日常生活の中から預言活動へと召されていきました。神によって「立たされ」、遣わされたのです。
神はなぜ誰かを選び出して、言葉を託し、その人を遣わされるのでしょうか。パウロはこう言われました。
「私があなたに現れたのは、あなたが私を見たこと、そして、これから私が示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである」
預言者イザヤが、こう預言している。
「神は来て、あなたたちを救われる。その時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。その時歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口のきけなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」
神の言葉が与えられる時、そして神の言葉を携えた人が自分の下に来るとき、このようなことが起こるのです。「歩けなかった人が鹿のように躍り上がる」
パウロは、自分のこれまでの歩みが、神が預言者を通して語って来られた大きな救いの御業であることを言います。自分のキリストとの出会いの意味を語ります。それは偶然ではありませんでした。神の御業だ、と言うのです。
私たちはいろんな仕方で神を知りました。偶然誰かに誘われて、とか、偶然看板を見て、とか、何かのきっかけで聖書や教会を知ります。しかし、それは、私達には偶然に思えても、そこには神の招きのご計画が確かにあったのです。神は私たちを招き、霊の目を開き、霊の耳を開こうとしてくださるのです。私達が神からどんなに逃げようとしても、神は私たちを諦める、ということをなさいません。
キリストの弟子のペトロが、後に手紙の中でこう書いている。
「私たちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい」「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです」 Continue reading