3月10日の礼拝説教

ヨハネ福音書3:22~30

「あの方は栄え、私は衰えねばならない」

イエス・キリストが、実際に福音宣教を始められたお姿が描かれています。主イエスは、ニコデモとの出会いの後、ユダヤ地方に行ってそこに滞在し、ご自分の下にやってくる人たちに洗礼を授けていらっしゃいました。

ヨハネ福音書は、洗礼を授けられる主イエスのお姿そのものに焦点を当てて描いてはいません。人々に洗礼を授けられる主イエスを、ヨルダン川の対岸にいた洗礼者ヨハネがどのように見ていたか、という視点で描いています。

私達は洗礼者ヨハネの視点で、このイエスという方をどう見るべきなのか、そしてイエスという方の前で自分はどうあるべきなのか、ということを考えるよう促されているのです。

主イエスはユダヤ地方で、洗礼者ヨハネはヨルダン川をはさんだ対岸のアイノンというところで、それぞれ人々に洗礼を授けていました。ヨハネの弟子達が、ヨハネの下に来て言います。

「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」

ヨハネの弟子たちにとって、自分たちの先生よりも後からやってきたイエスという人の下に人々が流れていくことは面白くないことでした。これに先立って、「ヨハネの弟子達と、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった」、と書かれています。詳しい内容は書かれていませんが、おそらく、ユダヤ人の1人がヨハネの弟子達に「向こうにいるイエスと、あなたがたの先生であるヨハネと、どちらの洗礼の方が優れているのか」と聞いてきたのでしょう。

洗礼者ヨハネの弟子達は、当然自分たちの先生が授ける洗礼の方が上だ、と思っていたでしょう。ナザレのイエスに洗礼を授けたのは、そもそも自分たちの先生なのです。それを、後から来たイエスが、自分たちの先生と同じように洗礼を人々に授け始め、ユダヤ人からは「ヨハネよりもイエスの洗礼の方が優れているのではないか」と言われたり、人々がイエスの方に多く流れて行くようになると危機感を覚えたのでしょう。

イエスの方が栄え、自分たちの先生であるヨハネが衰えるということが、ヨハネの弟子達には辛いことでした。ヨハネの弟子達は、たまらなくなって、自分たちの先生に訴えたのです。

主イエスと洗礼者ヨハネは、この福音書の中でもよく比較されています。(4:1、5:33、10:41)

ナザレのイエスも洗礼者ヨハネも人々に洗礼を授けていたので、どちらの洗礼が優れているのか、ということは議論になっていたのでしょう。

洗礼者ヨハネが殺され、主イエスが十字架で殺された後にも、「自分が受けた洗礼はヨハネのものか、イエスのものか」ということは重要視されました。使徒言行禄の19章を見ると、エフェソの町でパウロが、ヨハネの洗礼を受けていた人たちに改めてイエス・キリストの洗礼を授けなおしたことが書かれています。

パウロは、その際、エフェソの人たちにこう言っている。

「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです」

このパウロの言葉は、洗礼というものの本質を言っています。キリストに向かうものであるということです。

我々キリスト者の間でも、「自分が誰から洗礼を受けたのか」ということを必要以上に重要視することがあります。しかし、自分に洗礼を授けた信仰の指導者がどんなに立派な人か、ということよりも、洗礼を受けた自分が今どれだけキリストに向かっているか、ということにこそ本質があるのです。

ヨハネの弟子達は何とかしなければならないと思い、「みんながあの人の方に行っています」とヨハネに訴えました。しかし当の洗礼者ヨハネはそのことに何の問題も感じていませんでした。ヨハネは、自分の弟子達に言います。

「天から与えられなければ、人は何も受けることが出来ない」

ヨハネは、対岸で洗礼を授けているイエスという方こそ、天から来られた方であり、自分はあの方を待っていた、あの方の前に遣わされた者に過ぎない、と言いました。

弟子達の予想に反して、洗礼者ヨハネは、人々が自分ではなくイエスという方に向かっていくことをむしろ喜んでいるのです。ヨハネはこれまで、自分の弟子たちにも、エルサレムから遣わされてきた使者たちにも「自分はメシア・キリストではない」と伝えてきました。自分はキリストの到来を告げる前触れの声にしか過ぎない、自分の後から来られる方は自分よりも偉大である、その方は神の子羊であり、聖霊によって洗礼を授ける神の子である、と言ってきました。

2人が同じように洗礼を授けるのであれば喧嘩になりそうなものですが、違うのです。洗礼者ヨハネはイエスという方を見て、今こそ自分が小さくならねばならない、ということを知ってむしろ喜んだのです。

ヨハネは、主イエスと自分との関係を花婿とその介添え人に例えています。主イエスが花婿であり、ヨハネが介添え人です。

この当時のユダヤの結婚式は、花婿は1人か2人の友人に付き添われて花嫁の下まで結婚式場まで向かっていました。花婿の付添人は結婚式場に花婿が入り、その会場に喜びの声が上がるのを聞くことを喜びとし、そこで自分の役割が終わった後満足して、身を引くのです。介添え人は決して結婚式の主人公にはなりません。主人公は花婿であり花嫁なのです。

聖書は神とイスラエルの契約関係を男女の結婚関係と重ね合わせて私たちに見せています。イスラエルは神と結婚の契りを交わした信仰の契約共同体なのです。

イスラエルの歴史は、神との契約に対する不誠実の歴史でした。イスラエルは神との愛の契約を結んだにも関わらず、歴史の中で偶像礼拝を続けたのです。そのことによってバビロンに国を滅ぼされ、捕囚とされました。数十年続いた捕囚生活から解放され、エルサレムへと戻ることが許される時、預言者イザヤが神の言葉を告げました。

イザヤ書54:6

「捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように、主はあなたを呼ばれる。若い時の妻を見放せようかとあなたの神は言われる。わずかの間、私はあなたを捨てたが、深い憐みをもって私はあなたを引き寄せる」

イザヤ書62:5

「若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」

洗礼者ヨハネはヨルダン川の向こう側に見える主イエスと、主イエスを求める人たちの姿を見て、今こそ自分が小さくなる時であると悟り、そのことを喜びました。花婿の介添え人のように、花婿と花嫁を引き合わせることを喜びとし、自分は静かに身を引くのです。

私たちも、誰かを教会へと招き、キリストと出会ってもらうことを喜びとします。大切なことは、自分がキリストになることではありません。誰かをキリストの下に連れて行くことを喜びとするのです。そこで自分の手柄を誇ったり、自分には人を導く力があるなどと勘違いしてはならないのです。

私たちには、自分自身がキリストに出会った時の喜びがあります。その喜びは、キリストと自分を結んでくれた、誰かがいたから、何かがあったからでしょう。もう自分が忘れてしまっている、たくさんの小さな小さなきっかけがあったはずです。

私たちはキリストを大きくするのであって自分が中心になって目立つことや、自分の姿が知られることを喜ぶのではありません。洗礼者ヨハネのようにイエスキリストと誰かをで合わせてその喜びの声を聞いて喜ぶ。そのようにして神のお名前が大きくされることだけを望むのです。

私達は思い出したいと思います。カナの婚礼の際、婚礼の宴の裏で、キリストが水から変えられた葡萄酒を黙々と運んだ使用人たちがいました。キリスト者の働きはいつでも日の当たらないようなものかもしれません。しかし、人知れず誰かのために執成しの祈りをして、その祈りが聞かれた時、私たちはキリスト者としてこの上ない喜びを感じるのです。

24節には「ヨハネはまだ投獄されていなかったのである」と書かれています。後に洗礼者ヨハネに何が起こるのかが暗示されています。投獄され、首を切られて殺されることになるのです。

洗礼者ヨハネの働きは、大きなものでした。荒れ野で悔い改めを人々に叫び求めながらメシアの到来の前触れを告げていたのです。神がこの世にお与えになった大きな招きの御業、救いの御業のために大きな働きをした人です。それにも関わらず、ヨハネは牢に入れられて、殺されてしまうことになるのです。なんと報われないことか、と思わされるのではないでしょうか。

ヨハネは主イエスの方に人々が行くのを見て、「あの方は栄え、私は衰えねばならない」と言いました。ヨハネは命を落とすほどに衰えることになるのです。洗礼者ヨハネは、キリストの到来の前触れとして荒れ野で叫んだだけでなく、キリストの受難の前触れとして、自分の命を用いました。そうやって、ヨハネはキリストのために道ぞなえをしていったのです。 Continue reading

3月10日の礼拝案内

次週 礼拝(3月10日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書3:22~30

 交読文:詩編18:26~31

讃美歌:讃詠546番番、140番、318番、頌栄543番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

3月3日の礼拝説教

ヨハネ福音書3:16~21

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」

おそらく、ヨハネ福音書の中で、いや聖書の中でも最も有名な言葉ではないでしょうか。「聖書の中の聖書」と呼ばれたりもする言葉です。聖書の全てがこの1節に凝縮されていると言ってもいいでしょう。

ニコデモというファリサイ派の議員が、夜主イエスの下にやって来て、二人だけで会話をしました。ヨハネ福音書は不思議な文体で書かれていて、この16節以下は、ニコデモとの会話の中でキリストが語られた言葉のようにも読めるし、福音書の解説文のようにも読めるし、キリストの独り言のようにも読めます。

3章はキリストとニコデモの出会いと会話として描かれてはいるのですが、よく読むと、10節まではキリストはニコデモに対して「あなたは」と語りかけていらっしゃいます。しかし、その後、3章の後半になると、「あなたがた」という言い方になり、だんだんニコデモの姿が消えてしまいます。

この言葉が、キリストご自身の言葉なのか、福音書の解説の一文なのか、またこれが、ニコデモに向けられた言葉なのか、キリストの独り言なのかは、よくわかりません。

ただ間違いなく言えるのは、この言葉は、ニコデモだけでなく、今この福音書を読んでいる私たちに向かって、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と証ししている、ということです。これは、ニコデモだけにお教えになった言葉ではなく、「神はそれほどにあなたを愛されているのだ、私はあなたのために命を差し出すのだ」という、世の全ての人に対する証しなのです。

今日私たちが読んだのは、ヨハネ福音書が世に向かって一番伝えようとしているテーマが凝縮されている箇所です。この福音書の頂点と言ってもいいような言葉が語られています。

福音書が書かれた当時のギリシャ哲学では、天上にあるものを崇高なものと捉え、地上のもの、私たちの目に見える者、手で触れるモノを劣ったものと考えました。そしてこの地上の物質世界から解放されることを目指していました。そのような時代に書かれた福音書なので、ヨハネ福音書は天の領域のものと地上の領域を対比させている表現が多く出てきます。

しかし、この聖書の福音、天と地を分けてはいるが、地上のものを全否定しているわけではありません。むしろ、天にいらっしゃる神が、この世・この地上に生きる我々人間を価値あるものとして愛してくださっている、ということを力強く描き出しています。天の世界・霊の世界が優れていて、地上の世界、物質の世界が劣っているから価値がない、などということは言いません。

そうではなく、「神はこの世を愛された」、と書かれています。しかも、独り子をお与えになるほどに、です。

天の世界は天の世界、地上の世界は地上の世界で別々に考えて生きればいい、というのではないのです。天地をお創りになった神が、地上に生きる私たちを愛し、この世の罪深い有様を憂い、天から地上に来てくださったように、この世に生きる私達も、天にいらっしゃる神に、また生きて私達を天の国へと導いていらっしゃるキリストに向かわなければ、聖書が伝える福音・喜びの知らせを理解することはできないのです。

ヨハネ福音書では、神が独り子を世に送られた、という表現が50回以上も出てきます。今日私たちが読んだところでは、神が独り子を何のために遣わされたのか、その目的が書かれています。

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」

世を救う、ということは、神から離れてしまった世の全ての人をご自分の下に取り戻す、ということです。御子イエス・キリストの命は、そのために使われる、というのです。

「独り子の命を差し出す」、ということで思い出されるのは、アブラハムが自分の子イサクを生贄として捧げるよう神から命じられた出来事でしょう(創世記22章)。

なかなか子供が授からなかったアブラハムとサラに、ようやく愛する独り子が与えられました。それなのに、神から突然、「イサクを私に捧げなさい」、と言われるのです。アブラハムは黙ってそれに従いました。イサクも黙って生贄台に身を横たえました。そしてアブラハムがイサクを殺そうと手を挙げた時、神は「あなたの信仰はわかった」とおっしゃり、代わりに羊をお与えになるのです。

創世記のその場面を読むと、私たちには神はなんと残酷なことをなさるのだろうか、と思うのではないでしょうか。アブラハムの信仰を試すために、イサクの命をお用いになったのです。

なぜ神は、そこまでしてアブラハムを試されたのでしょうか。アブラハムは、75歳の時に、神の召し出しによって自分の故郷を捨て、外国へと旅立ちました。そして神が示される地に入り、神を礼拝し、その後も神に従い続けました。そこまで神への信頼を抱いていたアブラハムなのに、神は更に信仰を試されたのです。

神は、「モリヤの地に行き、あなたの愛する独り子イサクをささげなさい」、とおっしゃいました。「モリヤの地」とはどこでしょうか。後にソロモンが神殿を建築することになる場所です(歴代誌下3:1)。そしてそこは後に、イエス・キリスト、神の独り子が生贄として十字架に上げられることになる場所なのです。

アブラハムが独り子をささげようとしたモリヤの地、エルサレムの山、まさにその場所で、神の独り子は十字架へと上げられました。

神は独り子をささげるほどのアブラハムの思いをご覧になったのです。だからこそ、神は同じ場所で、世を救うためにご自分の独り子をささげることを決断されたのではないでしょうか。アブラハムに与えられた信仰の試練は、時を経て、イエス・キリストの十字架という救いの実りへとつながっていくのです。

神の子イエス・キリストは、私たちのために神と共に生きる道を示そうと命をかけてくださいました。そうであるなら、私たちもそれに対して命を懸けなければならないのではないでしょうか。アブラハムのように、命を懸けて神と共にいる道を行くか、命を懸けて神から離れるか、決断がうながされているのです。

いつでも、私たちには目の前に二つの道が置かれています。

BC6世紀、預言者エレミヤは、差し迫るバビロンの軍隊を前にして、ユダの王にこう告げました。

「主はこう言われる。見よ、私はお前たちの前に命の道と死の道を置く」エレ21:8

信仰者は、命の道と死の道を常に選択する岐路に立たされているのです。

使徒パウロも手紙の中でこう書いています。

「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」ロマ6:16

洗礼を受けたからと言って、私たちの信仰生活が完結する、完成する、ということはありません。洗礼を受け、そこから信仰の歩みが始まる、というだけのことです。むしろ、洗礼から、信仰の本当の試練が始まるのです。

信仰者にこそ、サタンの誘惑はやって来ます。

「キリストから離れてはどうか。あなたが救い主になってみてはどうか」という声が近寄ってくるのです。

私たちは一生涯をかけて、私のために命を捨ててくださったキリストと共に歩みぬく、という信仰の戦いを続けることになります。その際に何度も立ち返るのが、今日私達が読んだ、キリストの言葉ではないでしょうか。

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」

私たちは、この夜、イエス・キリストのことを理解できなかったニコデモと、キリストを裏切ることになるユダを比較することが出来ます。

この夜、ニコデモは無理解でした。しかし、エルサレムでしるしを行い、福音を告げるイエスという方のことを少しずつ理解し、キリストの十字架を見て、キリストの下に立ち返っていくことになります。独り子をお与えになるほどの神の愛を見出したのです。闇の中から、光の下へと立ち返ったのです。

しかしユダは、キリストと一緒にいて共に旅を続けてきましたが、夜、闇の中へと出て行き、キリストを引き渡すことにしました。そしてその後もキリストの元へと立ち返ることなく、自らの命を絶ってしまいました。 Continue reading

3月3日の礼拝案内

次週 礼拝(3月3日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書3:16~21

 交読文:詩編18:26~31

讃美歌:讃詠546番番、138番、396番、頌栄542番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

【牧師予定】

◇3月3日(日)~5日(火) 四国に帰省のため留守にします。

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日  Continue reading

2月25日の礼拝説教

ヨハネ福音書3:1~15

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」

夜、誰にも知られずにイエス・キリストを訪れたニコデモは、「人は上から生まれなければ、神の王国を見ることはできない」と言われ戸惑いました。「あなたは神の元から来られた教師ですね」と尊敬の意を示したのに、主イエスから「あなたはまだ私について何もわかっていない」ということを示されてしまったのです。ファリサイ派でありユダヤの議員であったにも関わらず、「上から生まれ変わらなければならない」と言われたニコデモは「どのようにして生まれ変われるというのか」と無理解でした。

ヨハネ福音書は、主イエスが天から来られ、天の言葉を世に聞かせてくださった方であることを1章で証ししています。全ての初めにあった神が、人となり、この世に人間として生まれ、世に向かって神の言葉を伝えた、それがあのイエスという方であったという、この福音書を読む上での大前提を示しています。

ヨハネ福音書を通して私たちはイエス・キリストの公の生涯を見ていますが、その前提を無しにこの方の業と言葉に向き合うと本当には何も理解できないことになってしまいます。

この夜のニコデモがそうでした。そして、当時にユダヤ人たちがそうでした。主イエスは神殿でお怒りになって商人たちをそこから追い出された時、ユダヤ人たちから詰め寄られました。その際、「この神殿を倒して見なさい。三日で建て直していせる」とおっしゃいました。ユダヤ人たちは、「46年もかけて建築して来たこの神殿を三日で建て直すのか」、と表面的にしか主イエスの言葉を理解できなかったことが記されています。

しかし、主イエスがおっしゃったのは、十字架の死から三日目に復活なさった御自分の体のことでした。弟子達が主イエスの十字架と復活を見た時、初めて、「あの時主イエスが神殿でおっしゃったのは、御自分の体のことだったのだ。キリストご自身が、今、新しい神殿となられたのだ」と悟ることになりました。

世の人々は、主イエスがなさること、おっしゃることをこの世の基準で見ようとしました。だから、皆、理解できなかったのです。主イエスが「神殿を三日で建て直して見せる」とおっしゃったことも、「人は新しく上から生まれなければならない」とおっしゃったことも、字義通りのこととして、そして世のものさしでしかとらえることが出来なかったのです。

ニコデモは、「どうしてそんなことが出来るでしょうか」「どうしてそんなことがありえるでしょうか」と言い続けました。この主イエスとニコデモのやりとりを通して、私たちも今日、主イエスがお伝えになろうとした霊的な意味を探っていきたいと思います。

キリストは不思議なことをおっしゃっています。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」

これは、「風は吹きたいところに吹き、あなたはその音を聞く」という言葉です。原文のギリシャ語で「風」という単語には「霊」という意味もあるので、「霊は吹きたいところに吹き、あなたがたはその声を聞く」と訳してもいい言葉です。

主イエスははっきりと、ニコデモに、「あなたは実は今、霊の声を聞いている」とおっしゃっているのです。霊の声はきこえているはずなのに、あなたは聞こうとしていないのだ、と暗におっしゃっているのです。

ニコデモには霊の声、目の前にいらっしゃる神の子が話される神の言葉を捉えることができませんでした。このニコデモの霊的な無理解は、私たちにとって大きな警告となるのではないか。

神が語りかけてくださっているのに、聖霊の招きが自分に確かに及んでいるのに、自分の心がそちらに向いていないのであれば、この夜のニコデモのように、私たちはキリストの前に「どうしてそんなことが出来るでしょうか、どうしてそんなことがあり得るでしょうか」と、ただ、自分の理解を超えたものに対して心を閉ざすことを続けてしまうことになります。

風が吹くように、神の霊は吹いているのです。風の音が聞こえるように、実は私たちは霊の声が聞こえているのです。私たちは普段、風の音など気にしていません。いつ、どこで風に吹かれたか、など、意識して生きていません。それと同じように、霊の声に心を向けなければ、どれだけキリストの言葉を聞いても、聖書を読んでも私たちは何とも思わないのです。

この夜の主イエスとニコデモの噛み合わないやりとりは、この福音書を通じて、主イエスとユダヤ人との間に続いていくことになります。「あなたは一体何者なのですか」と尋ねてくるユダヤ人たちに主イエスがいくらお答えになっても、ユダヤ人たちは理解できませんでした。

ユダヤ人たちだけでなく、弟子達もそうでした。十字架に上げられるために逮捕される夜、主イエスは弟子達の足を洗われた際、おっしゃいました。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。私の父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行って、あなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私の下に迎える。こうして、私のいる所に、あなた方もいることになる」

しかし、それを聞いた弟子の一人トマスが、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道を知ることが出来るでしょうか」と言いました。

弟子達も、主イエスと一緒に三年以上寝食を共にして旅を続け、教えを聞いていたにも関わらず、主イエスがおっしゃる言葉の本当の意味は理解できていなかったのです。

天にある神の御心を知る、ということに、地上に生きる我々人間がどれだけ心を向けることができていないか、ということを思わされます。私たちは自分自身を天の領域へと上げることができません。いつも自分のことで手一杯です。自分が聞きたい言葉だけを選び、聞きたくないことには心を向けようとしないのです。自分の中にある言葉を空っぽにして、聖書の言葉を迎え入れようとする隙間をなかなか作ることができません。

だからこそ、天にいらっしゃる神が、天の言葉を伝えるために、この世にまで来てくださったのです。

主イエスはニコデモに「はっきり言っておく」とおっしゃっています。主イエスはこの夜だけで、ニコデモに三度、この言葉をおっしゃっています。ヨハネ福音書全体では、25回もおっしゃっています。

これは、直訳すると「アーメン、アーメン、私はあなたに言う」という言葉です。

主イエスは、ナタナエルをご自分の弟子として召される時、おっしゃいました。

「天が開いた状態になり、人の子の上に神のみ使いたちがのぼったりくだったりしているのを、あなたがたは見ることになる」

「人の子」というのは、主イエスご自身のことです。主イエスが、創世記でヤコブが見たというあの天と地を結ぶはしごとなられる、とおっしゃるのです。

そのように、主イエスはナタナエルやニコデモをはじめとして、世の人々に「アーメン、アーメン、私はあなたに言う」と、天の言葉をお伝えになります。そうやって、天と地を結ぼうとされるのです。

「アーメン、私はあなたに告げる」と、キリストは今でも私たちにおっしゃっています。私たちは、風が吹く音が聞こえているように、霊の声が聞こえているのです。その音、その声を聞こうとするかどうかです。

この夜、ニコデモが聞かなければならなかったことは何だったのでしょうか。イスラエルの教師として、思い出さなければならなかったのは何だったのでしょうか。

BC6世紀の預言者エゼキエルが、バビロンで捕囚とされていたイスラエルの人たちに神の言葉を告げました。

「『イスラエルの家よ・・・お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち返って、生きよ』と主なる神は言われる」

エゼキエルの口を通して、神は、イスラエルの背きからの立ち返りをお求めになりました。その際、「新しい心と新しい霊を造り出せ」とおっしゃっています。神から離れた場所から、神の元へと戻ってくる、ということ。神を知るということは、新しい命を生きることなのです。

この夜、ニコデモは、「新しく上から生まれなければ神の王国には入れない」と言われ、理解できませんでした。しかし、もし聖書の言葉に詳しいはずの律法学者のニコデモが、このエゼキエルの預言を思い出していたらどうだったでしょうか。今こそ真の神の元に立ち返り、新しい命に生きる時が来た、と理解できたはずでしょう。

主イエスは14節で、こうおっしゃっています。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

民数記21:4以下で、イスラエルの民が神とモーセに逆らった時のことが記されています。荒野を歩く生活に嫌気がさしたイスラエルの民は怒って不満をぶつけました。

「なぜ私たちをエジプトから導き上ったのか。私たちを荒れ野で殺すためか」 Continue reading

2月25日の礼拝案内

次週 礼拝(2月25日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書3:1~8

 交読文:詩編18:26~31

讃美歌:讃詠546番番、218番、231番、頌栄542番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

2月18日の礼拝説教

ヨハネ福音書3:1~8

「人は上から生まれなければ、神の国を見ることはできない」

マタイ福音書の山上の説教の中で、主イエスはこうおっしゃっています。

「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。」

先週、私たちは、イエス・キリストが、御自分を信じる人たちのことを、信用なさらなかった、ということが書かれているのを読みました。「なにが人間の心の中にあるかをよく知っておられたからである」と書かれています。

福音書に記録されているこのような主イエスの人間に対する見方、また厳しい言葉を通して、私たちは自分たちの信仰の姿勢を改めて見つめなおすことになると思います。

この後も福音書を読んでいくと、主イエスが示されるしるしを通して主イエスに出会う人たちが次々に登場します。その一人一人が、主イエスのことを信じているかどうかということに加え、「どう信じているか」ということまで問われていくことになるのです。

その初めが、ニコデモという人でした。「ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた」とありますが、少し細かく訳すと、「ニコデモという『人間』がいた」となります。「なにが人間の心の中にあるのかよく知っておられた」主イエスのもとに、ニコデモという「人間」が来た、という文脈です。

ニコデモは確かに主イエスのことを求めて来ました。しかし、ここに記録されている主イエスとニコデモの会話を読むと、ニコデモはまだ「闇の中にいる人」であることがわかります。

「ラビ、私どもは、あなたが神の元から来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです」

ニコデモはそう言って、主イエスへの尊敬を伝えますが、主イエスは、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とお答えになりました。つまり、ニコデモは主イエスのことを尊敬もし、信頼もしているが、本当の意味で主イエスのことを理解しておらず「今のあなたは私に従うことはできない」ということを示されたのです。

ニコデモは主イエスのことをどう見ていたのでしょうか。彼は主イエスに「ラビ、先生」と呼びかけています。ニコデモは、主イエスのことを「偉い先生」と見ていたようです。「人としてお生まれになった神ご本人」としては見ていません。「世の全ての人の罪を背負うために十字架にかかり、三日目に復活するメシア」として信じていないのです。

この時点でのニコデモは、当然そんなことは知りませんでした。ただ、人間離れしたしるしを行われるのを見て、この方には何かある、という期待だけもってやって来たのです。

その夜、主イエスはニコデモがそのような「人間」であることを見抜かれていました。だから主イエスはニコデモをまだ信頼していらっしゃらないのです。

ヨハネ福音書は、「キリストのしるしを見てみんなが信じるようになった」という喜びを描いているのではありません。福音書が焦点を当てているのは、「人々がキリストのしるしを見て信じるようになったが、本当の意味で正しく信じることができていなかった」、ということなのです。キリストに対する人間の無理解、また誤った期待が描かれています。

このニコデモという人を通して、私たちの信仰を新たに吟味したいと思う。

ニコデモは夜に主イエスの下にやって来ました。なぜ夜にやって来たのか、その理由は書かれていません。主イエスに教えを乞うことを他の人たちに見られたくなかったのかもしれません。律法学者として、夜、誰にも邪魔されず静かに神の言葉について語り合いたかったのかもしれません。

ニコデモ本人の実際の事情は分かりませんが、福音書はニコデモのことを、「夜の人」として描いています。つまり、まだ無理解の闇の中にいる人、そして闇の中で光を求める人として描いているのです。

ニコデモは、ファリサイ派の議員であり、最高法院の中の議員の1人であり、ユダヤの指導者でした。主イエスはニコデモのことを「イスラエルの教師」と呼ばれているので、律法学者・神学者でもあったのでしょう。聖書の言葉の専門家であり、神の御心をよく知っているはずの人でした。

しかしこの夜、ニコデモは「夜の人・闇の人」人でした。この夜の闇は、神の御心に対する闇を象徴しています。

ニコデモは確かに主イエスのことを「神のもとから来られた教師だ」と信じていました。しかし、主イエスがおっしゃることを聞いても、全く理解できませんでした。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われても、ニコデモは理解できなかったのです。

ユダヤ人たちが、主イエスが神殿を三日で建て直して見せる、とおっしゃったのを字義通りに解釈したように、ニコデモもここで同じように表面的に解釈している。

「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」

キリストがおっしゃる「新たに生まれる」とはどういうことなのでしょうか。これは、「もう一度生まれる」という意味と、「上から生まれる」という二つの意味があります。福音書は両方の意味を込めているのでしょう。「上から新しく生まれる」、そのことがあって、初めてイエス・キリストが導き入れて下さる神の国へと入ることが出来る、ということです。

聖書の専門家でありユダヤの指導者であり、イスラエルの教師であったにも関わらず、ニコデモは主イエスがおっしゃる言葉の意味が分かりませんでした。

キリストの使徒パウロが書いた手紙や使徒言行禄を読むと、キリスト者たちがどれだけキリストを証ししても、なかなか信じてもらえなかったということがわかる。パウロ自身、ある時は同胞のユダヤ人たちから、ある時は異邦人から迫害を受けました。

そもそもパウロ自身、キリスト者たちを迫害する側の人でした。キリスト者たちが信じていることを理解できなかったです。しかし、復活のキリストに召され、神のために教会を迫害する者から、神のために教会のために働く者とされました。そして自分がキリスト者になったとき、イエス・キリストを証しするということがどれだけ伝わらないことであるか、ということを知ったのです。

パウロはイエス・キリストを証しする言葉を、「十字架の言葉」と表現している。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です・・・世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした。それは神の知恵に適っています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうとお考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」1コリ1:18以下

神の救いの御業は、躓きに満ちています。簡単に信じられるようなものではありません。神が御自分の愛する独り子を、世の罪びとのためにいけにえとして十字架に上げられた、そして三日目に死人の内から復活させられた、というのです。

「それを信じてください」と言っても、誰も簡単に信じることはできませんでした。神の子が人間に殺される、というのです。死人がよみがえった、というのです。

パウロは「世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした」と書いています。確かにそうでしょう。世の知恵、自分の知恵で神の御心をはかり知ることはできません。

だからパウロは言っています。

「私たちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちは誰一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主イエスを十字架につけはしなかったでしょう」1コリ2:7 

ではどうすれば、我々人間はその闇の中から抜け出すことが出来るのでしょうか。まずは、自分の人間的な常識や、地上の知識を脇に置いて、差し出されたキリストの御手をとることです。そこから始まるのです。

主イエスはニコデモの無理解に対して「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃいました。ここを読んで、私たちはすぐに洗礼を思い浮かべると思います。

しかし、ニコデモは分かりませんでした。霊的に新しく生まれ変わる、ということではなく、文字通りもう一度生まれなおさなければならないと理解しました。「もう一度母の胎内に戻らなければならないのですか」とニコデモは混乱します。

そのニコデモに主イエスは続けておっしゃいます。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」 Continue reading

2月18日の礼拝案内

次週 礼拝(2月18日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書3:1~8

 交読文:詩編18:26~31

讃美歌:讃詠546番番、194番、293番、頌栄542番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

2月11日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:21~25

「イエスは、何が人間の心の中にあるのかを知っておられた」

主イエスはユダヤ人の過越祭に加わるためにガリラヤ地方からユダヤ地方へと巡礼されました。エルサレムの都に入り神殿に行かれると、突然怒り出して鞭を造って動物たちを追い払い、そこにいた両替人や商人たちも追い出されました。イエス・キリストの「宮清め」と呼ばれている出来事です。

ユダヤ人たちはそれを見て、主イエスに対して敵意を持つようになりました。当然でしょう。神聖な神殿でここまでのことをするのは非常識です。周りにいたユダヤ人たちは主イエスに言いました。

「こんなことをするからには、どんなしるしを私達に見せるつもりか」

神殿で大暴れする正当な理由を示せ、というわけです。これに対して主イエスの答えは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」という言葉でした。

ユダヤ人たちは全く納得しませんでした。神殿を馬鹿にしているようにもとれる言葉です。「この程度の神殿、俺なら三日あれば十分だ」と言っているようにも聞こえます。「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」とユダヤ人たちは怒りました。ここから、主イエスとユダヤ人たちの間には溝ができ、やがて主イエスは逮捕され、十字架はと上げられていくことになります。

今日私たちが読んだのは、神殿で暴れてユダヤ人たちから敵意をもたれてしまった主イエスのことを信じる人たちもいた、というところです。

過越祭の間主イエスはエルサレムに滞在されていましたが、その間、たくさんのしるし・奇跡を行われたようです。そして、多くの人たちが主イエスのことを信じるようになりました。

不思議なのは、主イエスがそのことをお喜びにならなかった、ということです。たくさんの人たちがご自分のことを信じるようになったのに、主イエスは、その人たちのことを「信用なさらなかった」、というのです。「イエスは、何が人間の心の中にあるのかを知っておられたのである」と書かれています。

このことは私達にとって、大きな衝撃ではないでしょうか。キリストは、「あなたを信じます」と告白する人を、無条件に、愛をもって受け入れてくださるのではないか、と私たちは考えるのではないでしょうか。私達が信じても、主イエスの方が私達を信じてくださらない、というのであれば、私達はどうすればいいのか、と思ってしまいます。

「イエスは、何が人間の心の中にあるのかを知っておられた」という一文を読むと、私たちは不安になるでしょう。自分の心の中まで見透かされていることに恐れを抱きます。

今日私たちは、ここでしっかり腰を据えて、「イエス・キリストを信じるとはどういうことなのか」ということを改めて捉えなおさなければならないと思います。そして、「自分の心の中に何があるのか」ということを、聖書を通して吟味していきたいと思います。

ヨハネ福音書は、この世界をお創りになった神が人間として生まれ世に来てくださったのに、この世はその方を神として見ることができなかった、ということを書いています。

キリストの弟子達でさえそうでした。イエス・キリストがなぜ神殿でここまでお怒りになり、大暴れされたのかを、理解できませんでした。弟子達は主イエスと一緒に3年もの間寝食を共にし、旅を続けました。ずっと一緒にいたのです。それでも、弟子達は主イエスがおっしゃった言葉を聞き、主イエスがなさった業を見ても、その時には理解できなかったのです。

弟子達がキリストの言葉や業を本当の意味で理解したのは、キリストの十字架と復活の後でした。キリストの十字架と復活を通して思い返した時に、「あの方のあの言葉は、こういう意味だったのだ。あの時の奇跡は、このような意味があったのだ」と初めて分かったのです。

このことは、私達にとって、自分たちが生きている今にどう向き合うべきか、ということに大きな示唆を与えてくれます。

私達は、「今」という時の意味を知ることが下手なのです。自分が見たものを、自分が見たままに解釈します。物事が上手くいっているときは、「神に感謝しよう」と言えるでしょう。しかし、物事が自分の思うとおりに行かない時、どこに向かえばいいのか分からなくなった時に、「神に感謝しよう」とはなかなか言えません。

むしろ、「神は私のことをご覧になっていないのではないか。私は何か悪いことをしてしまったのではないか」「自分は神から愛していただけるような者ではないのではないか」などと考えこんでしまいます。

しかし、時が経って後からその苦難の時を思い返すと、「あの時の苦しみ、悲しみ、不安は、神がこのことを私に教えるために見せてくださったものではないか」と思うことがあります。失敗や試練も、その時はただ辛いだけのものだったのが、後になって、「あのことを経験していなければ、今の自分はなかった」と思えるようなことはたくさんあるのではないでしょうか。

後にキリストが十字架の死から3日目に蘇られたのを見た時、弟子達は、「三日で建て直して見せる」と主イエスがおっしゃった神殿とは御自分の体であったということを悟りました。

私たちはこのことから、自分たちの信仰生活の今にどう向き合うべきか、どういう視点をもって今を見るべきなのか、ということを教えられるのです。

今私たちは、聖書を鏡にして、自分自身の今をどう見ているでしょうか。私達が生きている「今」という時は、ただ漠然とある今ではありません。私たち生きている「今」は、イエス・キリストの十字架と復活があっての「今」なのです。そのことを日々どれだけ思っているでしょうか。キリストの十字架によって神の元へと立ち返る道が示され、キリストの復活によって自分の死の向こうに永遠の命が備えられている「今」なのです。

私たちの「今」はいつでも考えなければならないこと、心配しなければならないことに溢れています。肉の目に見えることで心がいっぱいになり、自分が生きている「今」を信仰を通して俯瞰することがなかなかできません。

しかし、自分が生きている今を、キリストの十字架と復活という出来事を通して見つめなおすと、今まで見えなかったものが見えてくるのです。私たちは自分たち生きている今に、どれだけの恵みを見出しているでしょうか。

闇を感じる時にこそ、私たちは静かに祈りの中に身を沈めて、キリストの静かな声を聞こうとしなければならないのではないでしょうか。自分が生きている「今」の意味が見えなくても、キリストの十字架の姿と、キリストが墓から蘇られた朝の光に心を向ける時、少しずつ何かが示されていくのです。

だからキリストは私たちに「祈りなさい」とおっしゃるのです。

キリストの弟子達は、自分たちの期待を主イエスにかけていました。弟子達は主イエスの十字架の姿を見た時、愕然としたでしょう。

「自分は3年間、何のためにあの方に従って来たのだろうか。無駄な期待、無駄な福音に生きて来ただけなのだろうか」

十字架へと連れて行かれるキリストから離れ、キリストを見捨てた罪悪感と、キリストに従って来た結末が十字架の死という失望に弟子達は力を失いました。弟子達はその時まだ知らなかったのです。主イエスが死の力に勝る方であることを。

十字架へと引き渡される夜、キリストは弟子達におっしゃいました。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」

弟子達がこの主イエスの言葉の本当の意味を知ったのは、主イエスの復活の後でした。主イエスの十字架を前にした時、弟子達は「この方は敗北した。この方は世に負けた」と思っただろう。しかし、主イエスは十字架の死では終わりませんでした。復活によって死に勝る栄光の光が世に示されたのです。

私たちはこの世に闇を感じると、もうそこで自分は負けた、この世の中で敗北した、と思ってしまいます。しかし、そうではない。闇は闇で終わらないのです。祈りの先に、キリストの栄光の光を見る時が備えられています。そして、「私はあの闇の中で、あなたと一緒にいたのだ」という御声を聞くのです。

私達には、弟子達がそうであったように「あの時自分が感じた苦しみ・悲しみ・痛みは、キリストが共にあっての試練だった。そしてあのことがあって、自分は今ここへと導かれたのだ」と、後になって祈りの中で示される時が備えられています。

私たちは「神様、あなたは今どこにいらっしゃるのですか」と問いかけながら、祈りながら生きています。祈り続けるその先で、「あの時も、私はあなたと共にいたのだ」というキリストの声を聞くことになるのです。

この福音書の8章で、主イエスは、「あなたは何者か」と尋ねるユダヤ人たちに、こうお答えになっています。

「あなたたちの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」

ユダヤ人たちが「信仰の父」と呼ぶアブラハムがうらやむ時を、私たちは生きています。今、私たちは、キリストが、救い主が来てくださった後の時代を生きているのです。

私たちにはキリストが敷いてくださった神の元に続く道があります。その恵みは、私たちの肉の目には映りません。信仰の目、霊の目を通してしか見えないものです。 Continue reading

2月11日の礼拝案内

 次週 礼拝(2月11日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書2:23~25

 交読文:詩編18:26~31

讃美歌:讃詠546番番、217番、288番、頌栄542番

【報告等】

◇2月10日(土)に三宅島伝道所で東支区青年部修養会が行われます。翌11日(日)の礼拝に東支区青年部が来てくださり、礼拝後愛餐会をいたします。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください