9月8日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:53~8:11

「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」

ヨハネ福音書には、姦通した女性が主イエスのもとに連れてこられた出来事が記録されています。主イエスのもとに、ファリサイ派の人たちが姦通の現場を押さえられた女性を連れてきて、たくさんの人たちが見ている前で、「律法に書かれているように、この女性を殺すべきか」と質問しました。

この出来事は、もともとはヨハネ福音書には書かれていなかった出来事だろうと言われています。物語の流れとして、この事件は唐突すぎるのです。文脈のつながりもありません。今日読んだところが、カッコでくくられているのはそういういう理由です。

ヨハネ福音書 20章30節には、主イエスがなさったことは「この世の書物には書ききれない」と書かれています。その言葉通り、この姦通を犯した女性のエピソードのような、本当は福音書の中に入れられなかったイエス・キリストの奇跡やしるしや教えたくさんあったのでしょう。

福音書には入れられなかったけれども、このエピソードはとても有名でたくさんの人が知っていたことなので、福音書の中に入れて後世の信仰者に語り伝えよう、ということで、後の時代にヨハネ福音書のここに挿入されたのだろう、と考えられています。

この場面を通して描かれているのは、裁かれているのは実は逮捕された女性ではない、ということです。女性を利用してナザレのイエスを裁こうとしてファリサイ派の人たち本当に神の子を裁くことができるのか、人間は神を裁くことができるのか、ということが問われているのだ。

実際に裁かれたのは、この女性を連れてきた人たちのほうでした。「罪を犯したことがない者からこの女性に石を投げなさい」と言われ、一人、また一人と年長者からその場を去って行きます。結局、罪が明らかにされたのはこの女性を引っ張ってきた人たちだったのです。

そして、女性は主イエスから「私はあなたを罪に定めない」と言われ、許しを得て、また日常に戻っていくことになりました。私たちはこのエピソードから何を学ぶことができるでしょうか。

事件は、神殿の境内で起こりました。朝早く主イエスはそこに行き、人々に教えていらっしゃいました。

主イエスの時代の神殿は、誰がどこまで入れるか、という区別が細かくされていました。祭司の庭というのがあり、その手前にはイスラエルの庭、つまり男性が入れる庭、その外側には婦人の庭、異邦人の庭、という風に、誰がどこまで入れるか、ということが細かく分けられていたのです。

そこにファリサイ派と律法学者たちが姦通の現場で捕えられた女性を連れて来ました。つまり、主イエスは「婦人の庭」でお教えになっていた、ということになります。異邦人でなければ誰でも入れる場所であり、誰でも主イエスの話を聞ける場所でした。男性も女性も、すべてのユダヤ人が大勢いるところに、あえてファリサイ派の人たちは捕えた女性を連れて、さらし者にしたのです。その女性をみんなに見えるところ、「真ん中」に立たせた、と書かれています。

しかし、本当の標的は、ナザレのイエスでした。イエスを大勢のユダヤ人の前で失墜させることが彼らの目的でした。そのための舞台は整いました。

彼らは主イエスに向かって「先生」と呼び掛けます。律法の専門家として意見を聞かせてほしい、というのです。「こういう女は石で撃ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」

女性を辱めつつ、「彼らは主イエスを試して、訴える口実を得るため」にそう言った、と書かれています。よく考えられた罠です。この女性は現場を取り押さえられた、ということなので、姦通の罪は明らかでした。

主イエスには二つの選択肢しかありません。「律法で言われている通り、殺すべきだ」と答えるか、「律法ではそう言っているが、従う必要はない。殺すのはやめなさい」と答えるか。

一つ不思議に思うのは、姦通の現場を取り押さえられたのに、女性の相手の男性は連れてこられていないということです。申命記の律法を見ると、姦淫の罪に関しては、男性も女性も両方裁かれなければならないと書かれています。しかしここには、この女性の相手は連れてこられていないのです。貫通の現場で捕えられたのであれば、男性も一緒に捕えられていたはずです。

男性だけは許されて解放されたということでしょうか。ファリサイ派の人たちが主イエスを陥れるために、その二人の関係を利用したということなのでしょうか。男性を使って女性を陥れ、それを利用してナザレのイエスを陥れようとしたのでしょうか。

ファリサイ派の人たちの裏での工作があったのかどうかは書かれていません。しかし女性一人だけが連れてこられたということは不自然であり、用意周到にナザレのイエスを陥れようとしていた人たちの意図が見え隠れしています。大体、ファリサイ派や律法学者たちは、こんなことを公衆の面前で尋ねる必要などなかったはずです。

今彼らが知ろうとしているのは、「モーセがどう言っているか・律法でどう定められているか」、ではなく、「イエスがそのモーセの律法に従うかどうか」、ということでした。ファリサイ派の人たちにとって、男女の貫通の罪を裁くよりもこの2人を使ってナザレのイエスを陥れることの方が大きな目的だったのです。

主イエスはどうなさったでしょうか。「地面に何かを書き始めた」、と書かれています。何を書き始められたのかは、聖書にははっきり記されていません。

主イエスが「女性に石を投げてはいけない」と言えばモーセの律法・聖書の掟を否定することになります。「石を投げて殺すべきだ」と言えば、ローマの法律ではそのような殺人の罪に問われるので、主イエスは殺人を主導した罪で裁かれることになります。

主イエスが律法を否定すれば神殿で教えることはできなくなります。女性を殺すことを認めれば、人々を救うために来たというご自分の主張が崩れてしまいます。

とてもよく考えられた罠だ。主イエスは「どう思いますか」と尋ねられているのに地面に何かを書き続けておられました。

主イエスは一体何を地面に書いていらっしゃったのでしょうか。想像するしかありませんが、ある人は 出エジプト記23章1節の法廷におけるあり方の律法を書いていたのではないか、と言っています。

「あなたは根拠のないうわさ話を流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない」

これは推測でしかありませんが、確かに、この場面にふさわしい律法の言葉でしょう。地面に書いた文字を通して、ファリサイ派の人たちに、自分たちが犯している過ちに気づかせようとなさったのでしょうか・・・。

ファリサイ派の人たちは、なかなか答えようとしないナザレのイエスに対して、しつこく問い続けました。ついに主イエスは立ち上がってお答えになります。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

そしてまた、地面に何かを書き続けられました。

「姦通の罪を犯した者に石を投げるべきかどうか」、という問題が、主イエスの一言によって、「誰が罪人に石を投げることができるか・自分は罪のない人間であるかどうか」、という問題になりました。

すると「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って、主イエスと女性だけになった」と書かれています。長く生きてきた人たちから順にその場を立ち去った、ということに、私たちは深く考えさせられるのではないでしょうか。人は生きれば生きるほど、思い出す罪が増えていくでしょう。

一体誰が、手放しで他の人を裁くことができるでしょうか。皆、自分の罪に目を向けないからこそ、他人を裁くのです。

主イエスは女性にお尋ねになりました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」女性は答えます。「主よ、誰も。」

女性は、ナザレのイエスに向かって、「主よ」と呼びかけました。本当に自分を許し、自分を救ってくださったのはこの方であり、この方こそ本当の裁きをなさる方であるということを知ったのです。

主イエスは以前エルサレムでおっしゃったことがあります。

「父は誰をも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。全ての人が、父を敬うように、子を敬うようになるためである」5:22

この方が本当の裁きを行われる方であるということは、この方にこそ本当の許しがあるということです。 Continue reading

9月8日の礼拝案内

 次週 礼拝(9月8日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書7:53~8:11

 交読文:詩編18:40~46

讃美歌:讃詠546番55番、399番、492番、頌栄539番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

9月1日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:40~52

「下役たちは祭司長たちとファリサイ派の人々のところに戻ってきた」

ナザレのイエスとは何者なのか・・・これが、主イエスを見た人たちが問われたことでした。そしてこの謎は、主イエスの十字架の後にも残されることになります。ゴルゴタの丘で十字架にかけられ処刑されたイエスは、一体何者だったのか?主イエスの死後何世紀も議論され、今でも、すべての人が問われていることです。

「2000年前に、十字架で殺されたイエスという青年は、あなたにとってどういう存在なのか。」聖書は、この世のすべの人に問いかけているのです。

主イエスは仮庵の祭りの中で、ご自分のことを命のパン、命の水であると大声で人々に叫ばれました。ご自分のことを安息日やこの祭りを超えた存在であること示されたことで、人々は様々な反応を示します。エルサレムの群衆の中には「この人は本当にあの預言者だ」という人、「この人はメシアだ」という人たちが出てきました。

、主イエスを信じる人もいた一方で、「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」と言って、信じない人たちもいました。特に、ユダヤ人の指導者たち、聖書の言葉に精通している人たちは、主イエスがガリラヤ地方のナザレ出身であることを理由に、メシアであることを否定しました。

「メシアは誰も知らないところから、誰にも知られずに来る」と考えられていました。ナザレのイエスは神からの預言者またメシアのようにも思えても、自分たちが伝え聞いてきたメシアの条件に当て嵌まらない、ということでエルサレムの人々は困惑しました。イエスがガリラヤ出身でヨセフとマリアの子であるということを皆知っていたからです。

確かに、旧約の預言者たちは、メシアがどこから来るのか、ということを様々に預言しています。預言書ミカ書ではメシアはベツレヘムから来ると預言されています。イザヤ書にも、「異邦人のガリラヤに光が差し込む」と預言されています。しかし、それらは地上的な意味においての出身地のことでした。

預言者たちがそもそも伝えてきたのは、「天にいらっしゃる神ご自身がやがてメシアとして地上に来られる」、ということでした。そしてこのヨハネ福音書でもイエスが天の父のもとから送られた方であると証されています。主イエスご自身が何度も「天の父が私をおつかわしになった」とおっしゃるのです。

「イエスは何者なのか」ということで人々は議論し、分裂していきました。ナザレのイエスは律法の破壊者なのか、神の権威を持ったメシアであるのか。ユダヤ人の信仰を惑わせて神の礼拝から人々を引き離そうとしているのか、それとも、律法の言葉、預言の言葉を実現させようとしているのか。ガリラヤのナザレ出身の大工なのか、神から遣わされた、天の力と権能を持った方なのか。

人々の困惑の中、主イエスを逮捕しに行った下役たちは、手ぶらで戻ってきました。遣わしたファリサイ派の人たちは、「どうしてあの男を連れてこなかったのか」と驚きました。

下役たちの答えはこうでした。

「今まで、あの人のように話した人はいません」

下役たちも、主イエスの教えを聞いたのです。そしてイエスがメシアであるということを否定することができなくなったのです。ユダヤの指導者たちでさえ、主イエスの教えを聞いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と驚いたぐらいなので当然彼らも感銘を受けました。

「もしナザレのイエスがキリストだったとしたら・・・自分たちはメシアを捕えようとしているのではないか」、と下役たちは恐ろしくなったのです。報告を聞いたファリサイ派の人たちは怒りました。

彼らは、自分たちの律法理解と違う人たちはすべて間違っているという考えを持っていました。自分たちこそ聖書を、律法を正しく解釈しているという自信があったのです。ファリサイ派の人たちは、律法に詳しくない一般の人たちのことを見下して、「律法を知らない群衆は呪われている」とまで言っています。

このような彼らの姿勢が、天から来られた神の子を十字架へと上げることになっていきます。私たちは考えたいと思います。「自分の理解と違う人たちは、間違っている」、という極端な考えは、実は誰もが陥ってしまう信仰の罠ではないでしょうか。

使徒パウロがそうでした。まだサウロと呼ばれていた頃、キリスト者を迫害しました。自分が学んできた聖書の理解と異なる人たちを牢に送り込む活動をしていたのです。パウロは迫害に熱心でした。それは「自分が正しい」「自分がやっていることは神のみ旨にかなっている」、と信じ切っていたからです。

パウロは手紙の中でこう書いています。

「私は生まれて八日目にイスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした」

ファリサイ派の一員であったパウロは自分が非の打ちどころのない正しさを持っていることを確信して、迫害していたのです。

今、主イエスを全く受け入れようとしないファリサイ派の人たちは、パウロがサウロであった時と同じ熱心さで否定しています。自分の信仰が正しくて他の人たちの信仰は間違っている、という姿勢を貫くことで、皮肉にもファリサイ派の人たちが一番神のメシアの姿が一番見えなくなっているのです。

自分こそ一番神の御心に近いところにいると思っているのにと、実は一番遠いところにいた、ということは、笑い話のようなことですが、実は信仰者が簡単に陥る罠ではないでしょうか。

そのことを本当に教えられるのは、キリストとの出会いです。パウロは復活のイエス・キリストから「なぜ私を迫害するのか」と声をかけられ、自分がやっていることが神の御心に反していることを知りました。

パウロは言います。

「私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵芥と見なしています。」

私たちも、同じことが言えるでしょう。自分の力で得て来たもの、勝ち取ってきたものが、キリストとの出会いのすばらしさには叶わない、と思わされる瞬間があるはずです。それこそが人を新しくするのです。

ファリサイ派の人たちは、「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか」と言いました。その言葉を受けて、ニコデモという人が発言しました。

「私たちの律法によれば、まず本人から事情を聴き、何をしたかを確かめた上でなければ、判決を下してはならないということになっているではないか」

この人は三章に出てきたイスラエルの教師です。ニコデモもファリサイ派の一員だったのです。自分の仲間たちが、主イエスのことを何も聞こうとも知ろうともせずに有罪にしようとしていたことをおかしく思ったのです。

しかしニコデモの仲間たちは聞く耳を持ちませんでした。

「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことがわかる。」

イエスがどんな教えを説いているのか、どんなしるしをおこなっているのか、ではなく、イエスがガリラヤ出身だからメシアではないのだ、と言い切っています。彼らが主イエスを否定するのは、ガリラヤ出身であるという、ただそれだけのことでした。

イザヤ書の預言に「異邦人のガリラヤ」という言葉があります。それほど、ユダヤ地方の人たちから見てガリラヤ地方というのは中央から遠い場所だったのです。エルサレムの人たちからすれば、むしろ外国に近い、国の端っこ、という意識があったのでしょう。

そのような言い方をされたら、ニコデモも黙るしかなかったのでしょう。しかしニコデモの中に一つの大きな疑問が残りました。律法に反しているのは、神の御心に反しているのは、ファリサイ派なのか、ナザレのイエスなのか。

ニコデモが他のファリサイ派の人たちと違うのは、一度主イエスに会い、時間をかけて言葉を交わしたことがあるということです。3章にその時のことが書かれています。

ニコデモは夜、誰にも知られないように、ひそかに主イエスのもとを訪ねた。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われたニコデモは、「どうしてそんなことがありましょうか」と主イエスに向かって繰り返しました。主イエスが何をおっしゃっているのか、わからなかったのです。

あの夜以来、ニコデモは主イエスがおっしゃった言葉を自分の中で繰り返し思い出し、吟味してきたでしょう。「あの方は私に何を伝えようとなさったのか。」 Continue reading

9月1日の礼拝案内

次週 礼拝(9月1日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書7:40~52

 交読文:詩編18:40~46

讃美歌:讃詠546番54番、181番、320番、頌栄539番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

8月25日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:32~39

「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい。」

イエスは仮庵祭りの最中、エルサレム神殿の境内で人々にお教えになりました。人々は主イエスの教えに対して、そして主イエスご自身に対して、様々な反応を示します。

7:30~31を見ると、「人々はイエスを捕えようとしたが、手をかける者はいなかった」「群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、『メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか』と言った」と書かれています。主イエスを逮捕しようとする人たちもいたし、信じようとする人たちもいたのです。

ファリサイ派の人たちはこのような群衆のささやきを聞いて、ナザレのイエスのことをメシアとして認め始めている人たちが多くいることを知り、危機感を覚えました。そして祭司長たちと一緒に、ナザレのイエスを捕えるための下役たちを遣わしました。

私たちはまず、ファリサイ派と祭司長たちが「一緒に」そうした、ということに注目したいと思います。ファリサイ派と祭司長たちは、共にユダヤの最高法院の構成員でしたが、親密な仲間同士ではありませんでした。派閥が違うし、身分が違うのです。

ファリサイ派は、集会所の礼拝で律法を学ぶことに重きを置き、生活の中で律法の掟を実践することを大切にしていました。祭司長たちは神殿で活動し、生贄を捧げる儀式に責任を持っていました。律法や神殿のとらえ方や教えの重点が異なっていたので、普段から親密な関係にあった、ということはなかったでしょう。

祭司長たちは神殿の秩序を乱す者として、ファリサイ派の人たちは律法の教えを冒涜する者として、ナザレのイエスの存在に危機感を抱き、共通の敵と見なして手を組んで捕えようとしたのです。

人は、普段は仲が良くなくても、共通の敵を見つけると仲良くなれてしまいます。キリストを前にしたユダヤ人たちがそうでした。ナザレのイエスを殺すために、派閥を超えて一致していきました。そして最高法院にいるファリサイ派、サドカイ派、祭司長たちは、派閥を超えて一致して、イエスに有罪を宣告することになります。

これは、歴史の中で繰り返されてきたことでもあります。ユダヤ人たちだけのことではなく、嘆かわしいことですが、キリスト教会の歴史の中でもそういうことがありました。また今の私たちの世界においてもそうでしょう。普段は敵対するもの同士が、自分たちの立場を脅かす新しい動きに対して、一緒に対応できるようになるのです。

しかし人間の歴史を振り返ると、そのような人間の愚かさの中にあっても神の御業は行われていったことを思わされるのではないでしょうか。

主イエスの十字架の後、イエスをメシアと認めないユダヤ人と、主イエスこそキリストであったと信じるユダヤ人に分かれることになります。キリスト教会を迫害するユダヤ人と、キリスト者として迫害されるユダヤ人に分かれました。

そのような中で迫害者の中からサウロが主イエスによって召され、使徒パウロとしてキリスト教会のために大きな働きを残すことになりました。キリストの迫害者の中から新たなキリスト者が召されてくるというのは、不思議なことではないでしょうか。不思議な仕方で神はご自分の御心をこの歴史の中に実現されていくのです。

主イエスのもとに祭司長たちの下役が遣わされましたが、主イエスはこうおっしゃいました。

「今しばらく、私はあなたたちと共にいる。それから、自分をおつかわしになった方の元へ帰る。あなたたちは、私を探しても、見つけることがない」

謎めいた言葉です。

これを聞いた人たちは、主イエスがユダヤから出て行って、地中海全域に離散して住んでいるユダヤ人たちのところに行き、ギリシャ世界に活動の場を移して自分の教えを広めようとしているのではないか、と考えました。それだったら、彼らが主イエスについていくことができない、という理由がわかります。

しかし、主イエスはそんなことをおっしゃったのではありませんでした。主イエスの言葉を地上的な意味でしか捉えようとしない人々には、本当の意味は分からなかったのです。

ヨハネ福音書は、主イエスがすべてのことにおいて、ご自分で時と場所をお選びになるということを強調しています。あれほど目立つことを嫌っていらっしゃった主イエスが、仮庵際の真ん中で神殿の境内に立ち、人々にお教えになりました。そして今、 主イエスは自分をお遣わしになった方のもとに戻るまで「今しばらくの時間がある」とおっしいます。

これはご自分の十字架と復活のことです。主イエスがおっしゃる「私の時」であり「栄光の時」のことです。

この秋の収穫祭から、次の春の過ぎ越しの祭りまでの6ヶ月間、主イエスはエルサレムに滞在なさることになります。それが、「今しばらく、私はあなたたちと共にいる」とおっしゃっている意味です。キリストはその過越祭において十字架で死に、ご自分を遣わされた天の父のもとに帰って行かれることになります。

主イエスの地上での時間が少なくなっていく中、残された時間で本当に大切なことは何でしょうか。イエス・キリストを求めることです。ユダヤ人たちに与えられたこの時は、「ナザレのイエスを逮捕する時」ではありませんでした。この方が理解し受け入れる時としなければならなかったのです。

今の私たちにも同じことが言えます。私たちがこの地上で生きている間に、キリストに対してどう向き合うか、ということが聖書を通して問われているのです。私たちの人生の時間は有限です。

キリストに対して無関心に生き、一生知らないまま人生を終える人もいます。キリストに敵意を抱き、積極的にキリストに背を向けて人生を終える人もいます。

人は生まれてから死ぬまでの地上での日々の中で、聖書を通して招かれています。しかし、どれだけの人がその招きに応じているでしょうか。どれだけ招きに応じ続けているでしょうか。

この地上で私たちに与えられている時間は、キリストに出会い、キリストと対話し、学び、キリストと共に生きるために与えられた時間なのです。私たちはそのためにもがくのです。聖書を通して、信仰を通して、私たち自身に与えられている今という時、また人生全体の意味を考えさせられています。

キリストの謎めいた言葉は人々にはなかなか理解されませんでした。人々は主イエスのことをよく知っていたからです。神の子としてではなく、自分たちと同じ人の子として、です。

ナザレ出身でヨセフとマリアの子であるイエスが、何を言っているのだろうか、という感覚から抜け出ることができませんでした。天の地なる神のもとから来られ、間もなくそこに戻られるということをこの時点では誰もわかりませんでした。

イザヤ書55:6「主を尋ね求めよ、見出しうるときに。呼び求めよ、近くにいます内に。・・・主に立ち返るならば、主は憐れんでくださる」

旧約時代の預言者と同じことをイエス・キリストはおっしゃいます。全ての機会を用いて、いついかなる時も、神に立ち返ることを訴えています。私たち人間が、いかに簡単に神が示してくださっている時を逃しているか、ということだ。

皮肉なことにこの仮庵祭から約70年が経った時、ヨハネ福音書福音書が書かれた紀元100年前後には神殿はローマ軍によって破壊され、祭司たちもいなくなっていました。逆に、ユダヤの外のギリシャ世界で、ユダヤ人でない異邦人の中にイエス・キリストを信じる人たちが増えていました。神の御業の不思議を思わされます。

イエス・キリストに反対する力、抵抗する力がありながらも、キリストの招きは絶えることがありません。聖霊の力は消えません。敵意や迫害の中にあってもキリストの招きの言葉は消えないのです。

水の祭りでもある仮庵の祭りの最終日、最大に祝われるその日に、主イエスは「立ち上がって大声で」叫ばれました。人々が自分たちの仮庵をこれから片付けようとしている時に、主イエスは大きな声で宣言なさいます。

「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい。」

イザヤ書55章に、神の言葉が預言されています。

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」

預言者が伝えた神の招きの言葉を、神の子イエス・キリストが神の家である神殿で叫ばれたのです。イザヤの預言では、「水のところに来るがよい」ですが、主イエスは「私のところに来て飲みなさい」とおっしゃっています。「私こそ、預言者たちが伝えてきた命の水の源泉なのだ」とご自身を示されたのです。

仮庵際は、収穫を祈る祭りです。それは雨を求める祭りでもありました。仮庵の祭りは秋の祭りで、ユダヤでは、これから雨が増える時期でもあります。祭りの間、毎日シロアムの池から大きな瓶に水を入れて、それが神殿に運び込まれます。神殿では水が祭壇の周りに注がれます。人々はそれを見ながらイザヤ書や詩編の言葉を歌いながら、迎えます。 Continue reading

8月25日の礼拝案内

次週 礼拝(8月18日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書7:32~39

 交読文:詩編18:40~46

讃美歌:讃詠546番53番、322番、270番、頌栄539番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

8月18日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:19~31

「うわべだけではなくさばくのはやめて、正しいさばきを下しなさい」(7:24)

イザヤ書11:3にこう記されています。

「エッサイの株から芽が萌え出で、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊が留まる。知恵と識別の霊。主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。」

預言者イザヤが残したメシア預言です。その方は、「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない」と言われています。

主イエスはエルサレム神殿で、人々に向かっておっしゃいました。

「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」

メシア到来の預言を受け継ぎ、聞いてきた人たちが、実際に目の前に現れたメシアにどのように向き合ったのか、今日も見ていきたいと思います。

エルサレムでナザレのイエスを待ち受けていたユダヤの指導者たちは、神殿でイエスが人々に教えを説くのを聞いて驚きました。

「この人は学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」

誰かの弟子になったわけでもない、何年も聖書を学んだわけでもないナザレのイエスが、聖書の深いところまでお教えになっていたのです。

主イエスは「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求めるのである」とおっしゃって、ご自分の教えが聖書の自分勝手な解釈ではなく、ご自分をおつかわしになった方のものであることを示されました。

そしてその場にいた人たちに逆に質問されました。

「モーセがあなた方に律法を与えたのに、なぜあなた方は、私を殺そうと狙うのか」

主イエスは以前、エルサレムのベトザタの池のほとりで、38年間病気で立てなかった人を癒されました。その癒しを行ったのが安息日だったため、ユダヤの指導者たちは、「安息日のおこなってはならないことをした」と非難し、殺意を抱くようになりました。

そのことを指摘して、「なぜ私を殺そうと狙うのか。あなたがたこそモーセの律法に反しているではないか」、とおっしゃるのです。

それを聞いた群衆はその言葉の意味が分かりませんでした。「誰もあなたのことを殺そうとしていないではないか」と言います。実際、エルサレムの群衆はそうだったでしょう。

しかし、ユダヤ人指導者たちの心のうちにはまだ主イエスへの殺意が残っていたのです。主イエスは何が人の心のうちにあるのかをご存じでした。

主イエスはユダヤ人たちの律法の理解の矛盾を明らかにされます。ユダヤの人たちは生まれたばかりの赤ん坊に割礼を施していました。子供が生まれて8日目にはそれが安息日であっても割礼を施して良いと考えていました。そうやって割礼の掟を優先させて、律法を守っていたのです。

主イエスはそのことを引き合いなさっています。割礼は体の一部分に関わることです。しかし、主イエスが安息日に行われた癒しは体全体の癒しでした。安息日に割礼を施すこと許されるなら、体全身を癒す業は、なおさら正しいことではないか、ということです。そもそも、主イエスを殺そうと考える人たちは、「あなたは殺してはならない」という十戒の第五戒を破ろうとしているのです。

安息日に誰かを癒すことは、律法に反することなのでしょうか。「安息日は仕事の手を休めて神を礼拝しなさい」とモーセの律法は確かに言っています。しかし、それは、安息日に人を癒してはいけない、ということなのでしょうか。人を癒すということが、誰かを礼拝から引き離すこと、神に背を向けることなのでしょうか。

主イエスは、律法の細部に目を奪われてしまっている人たちに、神の御心の根本を問いかけていらっしゃいます。主イエスの教えは、これまでになかった真新しい教えに聞こえました。しかし、そんなことはありません。主イエスの教えは、誰よりも保守的なものでした。

マタイ福音書5章での山上の説教の中でおっしゃっている。

「私が律法や預言者たちを廃棄するために来た、と思ってはならない。廃棄するためではなく、満たすために来たのだ」

主イエスは律法の新しい解釈をもたらされたのではありません。神がお求めになること、神の御心を実現させるために来られたことを明言していらっしゃいます。人々が失いかけていた、律法のもともとの意味を、神の思いを取り戻すために世に来られたのです。

最後に主イエスはおっしゃいました。

「うわべだけで裁くのはやめて、正しい裁きを下しなさい」

主イエスは神殿の境内で、こんなにも大胆に人々にお話しなさいました。ユダヤ人の指導者たちが聞いたら黙っていないようなことでした。しかし、指導者たちは主イエスのことを捕えようとしていませんでした。このことを群衆は不思議に思ったようです。

「これは、人々が殺そうと狙っている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。」

ここまで大胆なことを神殿で話したら、普通は捕えられてしまうのに、指導者たちがこの人に何もしないということは、この人がキリストだと認めたということなのだろうか・・・人々は新しい議論を始めました。ナザレのイエスについて、「いったい何者なのか」いうことをまた新たに考え始めたのです。

人々は「この人こそ、本当のキリストではないか」、と思い始めました。しかし、同時に戸惑いもありました。群衆はこんな風に言っています。「しかし、私たちは、この人がどこの出身が知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、誰も知らないはずだ」

ユダヤ人の間に伝わっていた伝承では、メシアは預言者エリヤによって示される時まで隠れているだろう、言われていました。メシアがどこから来るのかは誰にも分からないとされていたのです。そしてそのメシア自身も、自分がメシアであるということに最後の瞬間まで気づくとはないと考えられていました。

マラキ書3:1「あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる」

神が神殿に突然来られるというマラキの預言を、人々は「メシアは誰にも知られていない人だろう」と考えられるようになったのでしょう。

主イエスは「ヨセフの子イエス」とか、「ナザレのイエス」として人々に広く知られていました。「ナザレのイエスは、メシアであるように思える。しかし皆によく知られているから、やはりメシアではないのだろうか」、という戸惑いが人々の間にあったようです。

「イエスとはいったい何者なのか」

このことで迷い、人々の間で戸惑うのは、今の私たちも同じではないでしょうか。

よっぽど特別な神秘体験をしないと人はキリストを信じることはできないのではないか、と多くの人は考えます。普通の人には見えないものが見えるような人だけが信仰を持つことができるのではないか。特別な人が、または立派な人が、信仰というものを持つことができるのではないか、と思われています。 Continue reading

8月18日の礼拝案内

 次週 礼拝(8月18日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書7:10~18

 交読文:詩編18:40~46

讃美歌:讃詠546番51番、218番、494番、頌栄539番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

8月11日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:10~18

「自分から語る人は自分の栄誉を求める」(7:18)

主イエスはご自分の兄弟たちから「エルサレムでもたれる仮庵の祭りに行って、自分の奇跡の力を人々に見せてはどうか」と提案されました。そうすれば世間から評価されるようになるじゃないか、ということでしょう。

兄弟たちの思いは全くその通りだが、主イエスは「私の時はまだ来ていない。私はこの祭りには上っていかない」とお伝えになり、ご自分はガリラヤにとどまり、エルサレムに上っていく兄弟たちを見送られました。

しかし、そのあとすぐに人目を避けて隠れるようにしてエルサレムへと向かわれます。ガリラヤからエルサレムに向かう巡礼者たちの群れとは別に、お一人でエルサレムに行かれたということに、主イエスのお考えが隠されています。人々の思いではなくご自分の思いで、人間の計画ではなく神の御計画の中で、ご自分の歩みを進めていかれた、ということでしょう。

ガリラヤの多くの人たちが、主イエスの兄弟たちと同じように考えていたことでしょう。自分たちと同じガリラヤ出身のイエスに、何か偉大なことをエルサレムでしてほしい、ガリラヤから有名な人が出てほしい、という期待があったと思います。

しかし、主イエスは人々の期待を背負ってエルサレムに向かわれるのではありませんでした。そのような人たちと一緒にエルサレムに向かっては、いいように担ぎ上げられてしまいます。主イエスが担っていらっしゃったのは、人間の計画ではなく、神の計画でした。

一方で、エルサレムでもナザレのイエスを待っていた人たちがいました。「祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し『あの男はどこにいるのか』と言っていた」と11節に書かれています。

この「ユダヤ人」というのは、特に主イエスに対して敵意を抱いていたユダヤの宗教指導者たちのことを指しています。指導者たちは、「イエスはこの祭りにきっと来るはずだ」と考えていました。前の祭りの際、ナザレのイエスはベトザタの池で38年間病気で寝たきりだった人を癒しましたが安息日にその癒しを行ったのです。そのことが大きな議論に発展しました。安息日に仕事をしたことを指摘すると、ナザレのイエスは「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」と答えたのです。

それ以来ユダヤ人指導者たちは、安息日の規定を破り、神をまるで自分の父であるかのように呼び、自分を神と等しい者として語るイエスのことを危険視するようになりました。

そして今、「あのイエスはまたこの祭りに来る」、と警戒して待ち構えていたのです。

さらに、エルサレムの群衆もナザレのイエスを待っていたようです。12節の「群衆」の中には、エルサレムからガリラヤまで主イエスを追いかけてパンと魚で満たしていただいた人たちも含まれていたでしょう。あの5000人の人たちは、主イエスが「私が命のパンである・・・私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得る」とおっしゃったのを聞いて、「実にひどい話だ」と皆離れて行きました。

群衆の間では主イエスは「いろいろとささやかれていた」と書かれています。「ささやく」というのは不平を漏らすという意味の言葉です。主イエスのことを「良い人だ」と言う人たちもいたようですが、「群衆を惑わしている」と言う人もいた、と書かれています。恐らく、主イエスのことを悪く捉える人たちの方が多かったのでしょう。

このように見ていくと、エルサレム全体が主イエスのことを敵意をもって待ち構えていたようだ。

ヨハネ福音書の初めを読むと、「暗闇は光を理解しなかった」と書かれています。

「神の言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」

この福音書は、神の愛をこの世がどのように拒絶したか、ということの記録なのです。

聖書を読むと、主イエスに出会った人たちの反応が分かれる様がよく描かれている。主イエスのことを信じる人と信じない人。また、信じたとしても、最後まで信じぬくことができなかった人。主イエスを通して何か自分を超えたものを見たり感じたりしたとしても、そのあと、実際の主イエスの教えを聞くと、「よくわからない」と言って多くの人は離れて行ってしまうのです。

信じるか、信じないか。そして、信じたとしても、信じ続けることができるか、離れてしまうか。今もまさに世界が、また教会がこの瞬間も問われていることではないでしょうか。

「世は言を認めなかった」というヨハネ福音書冒頭の言葉は、過去のことなのでしょうか。福音書に登場する、主イエスに出会い向き合う人たちは、まさに私たちの姿でもあるのです。我々の姿であり、そして我々の周りにある人々の姿です。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証をするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」

これは主イエスがご自分を否定するユダヤの指導者たちにおっしゃった言葉です。今でもこの世全体に向けられているキリストの言葉ではないでしょうか。

エルサレムではナザレのイエスのことを人々はささやきあっていました。多くの人たちは、「ナザレのイエスは群衆を惑わしている」と考えていました。「惑わす」というのは、神の礼拝から人々を迷い出させる、ということです。それは深刻な罪であり、聖書の掟によれば、「死に値するほどの罪」だと言われています(申命記13:1~13)。

それでも、群衆は「ユダヤ人たちを恐れて公然と語ることはしなかった」と書かれています。ユダヤの民衆は、自分たちの指導者たちを恐れていたようです。自分たちが恐れる指導者たちが、群衆を惑わすイエスを待ち構えている・・・緊迫した空気がエルサレムに満ちていました。

主イエスはそのようなエルサレムでどうなさったでしょうか。仮庵の祭りの半ばで主イエスは神殿の境内に上って行って、教え始めらました。あれほど人目を避けていた主イエスが、一番目立つ場所で、突然このようなことをされたのです。

エルサレムの人々の中に緊張がありましたが、イエス・キリストにも緊張がおありでした。神の救いの御計画の実現が迫っている、という、エルサレムの人たちとは別の、メシアとしての緊張感です。主イエスが「私の時」とおっしゃった時、十字架が近づいているのです。

仮庵の祭りは、水と光の祭りでした。出エジプトをしたイスラエルは荒野で神から水が与えられ、神ご自身が光となって導かれたことを記念します。ユダヤ人は、自分たちを生かす「命の水」「世の光」をこの祭りを通して記念するのです。

主イエスはその祭りの中でおっしゃいます。

「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書にかいてあるとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる」

「私は世の光である。私に従うものは暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」

主イエスは仮庵の祭りという時、神殿という場所を選んで、ついにご自分が何者であるかを公にされます。ご自分こそが命の水であり、世の光であることを宣言なさるのです。

神殿の庭は広く、柱廊玄関があります。普段、律法の教師たちはそこで教えを請う人たちを座らせて講義をしていました。たくさんの人々が主イエスの教えを聞くために足を止めていたことでしょう。

ユダヤ人たちは主イエスがお話しなさるのを聞いて驚きました。

「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」

ユダヤ人指導者たちは、ナザレのイエスは聖書のことをよく知らないはずだと思い込んでいました。聖書を知らないから安息日の決まりを破ったり自分のことをまるで神の子であるかのように思い込んだりしているのだと思っていました。

しかし、彼らも認めざるを得ませんでした。イエスは聖書をよく知っている。普通であればユダヤの若い生徒は律法の教師の弟子となって律法や伝統を学びながら数年を過ごします。しかしイエスは誰かの弟子になって律法を学んだのではありません。それにも関わらず、文字が読め、律法の教えを説いたのです。

自分が誰かに律法を教える時、普通は「誰々先生はこう言った。一方で、誰々先生はこう言っている」という教え方をします。しかしナザレのイエスはそういう教え方をしないのです。「誰々先生がこう言った」ではなく、「これはこういうことだ」と自身の言葉で教えておられました。

エルサレムの群衆が驚いたのはこれでした。イエスが律法の言葉をご自分の言葉として教えた、ということ。神の言葉を、まるで神ご自身が語っておられるかのように、イエスは語ったのです。神の権威をもって神の言葉を語っていることに驚きました。

主イエスは以前おっしゃったことがあります。

「私は自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を行おうとする」5:30 Continue reading

8月11日の礼拝案内

次週 礼拝(8月11日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書7:10~18

 交読文:詩編18:40~46

讃美歌:讃詠546番31番、396番、361番、頌栄539番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください