【次週 礼拝(1月21日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:ヨハネ福音書2:1~12
交読文:詩編18:17~25
讃美歌:讃詠546番、2番、228番、321番、頌栄541番
【牧師予定】
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
集会案内
主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
祈祷会: 日曜日 礼拝後
牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

【次週 礼拝(1月21日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:ヨハネ福音書2:1~12
交読文:詩編18:17~25
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ヨハネ福音書2:1~12
「婦人よ、私と何の関係があるのです」
「カナの婚礼」と呼ばれている場面です。主イエスが、御自分の母マリアと弟子達と一緒に参列していた結婚式の祝いの席で、葡萄酒がなくなってしまいました。マリアからそのことを知らされた主イエスが水を葡萄酒に変えられた、という奇跡の出来事です。
小さな村でキリストが行われた、小さな奇跡・しるしです。決して大きな、華々しい奇跡ではありません。主イエスが水を葡萄酒にされた、ということを知っていたのは、婚礼の舞台裏にいたわずかな人たちでした。しかしこの小さな奇跡が、イエス・キリストの福音宣教を理解する上で重要な意味を持っているのです。
これが、キリストが行われた最初の「しるし」であった、と書かれています。ヨハネ福音書がわざわざ、「これが最初のしるしであった」と書いているということは、キリストが行われたこの小さな奇跡によって、一組の新しい夫婦、またその親族の面目が保たれた、というだけでなく、今ここで生きている私たちにとっても、大きな意味をもつ「しるし」である、ということでしょう。
カナはガリラヤ湖の北、ナザレの町から数キロのところにある小さな町です。キリストが婚礼の祝いの席でしるしを行われたということがヨハネ福音書に記録されているので、この町はキリスト教会の中で、結婚の儀式の始まりの町であるかのように言われることもあります。今でも、結婚の記念日に訪れたりする人が多いそうです。
しかし、ヨハネ福音書がこのカナの婚礼の場面で焦点を当てているのは、結婚式そのものでも、花婿・花嫁でもありません。むしろ、この時の結婚式・新郎新婦については何も触れられていません。焦点はむしろ、この婚礼の舞台裏に当てられています。「結婚とはこうあるべき」とか、「夫婦とはこういうものだ」ということに焦点があるのではないのです。
まず大切なことは、その婚礼の席にイエス・キリストが参列されていた、ということです。「言は肉となり、私たちの間に宿られた」と1章に書かれてます。「私たちの間に住まれた」という意味の言葉です。神が人間と同じ地平に住まれる、ということは信じがたいことですが、それが真実であったことを、このカナの婚礼のイエス・キリストのお姿に見ることが出来るのです。婚礼の宴という私たち人間の日々の営み、人間のささやかな喜びの生活の中に、神は共にいてくださいました。人となられた神が、人間の生活の中で御業を行われたのです。
このことは今の私たちにも言えることです。自分の目の前や真横に神がいて共に生活してくださっている、ということが何も特別なことでなく、それが私たち信仰者の日常であるということを、ここに見たいと思います。
さて、その婚礼の席でマリアは自分の息子のイエスに「葡萄酒がなくなりました」と告げました。マリアがなぜ主イエスに助けを求めたのかは何も書かれていません。新郎新婦とマリアが特に親しい関係にあったのか、マリアの親族だったのか・・・
「イエスも、その弟子達も婚礼に招かれた」と書かれてますので、自分の息子が弟子達を連れて参列したせいで、婚礼の葡萄酒がなくなってしまった、と、責任を感じていたのでしょうか。
当時の婚礼は数日続くものでした。食べ物や飲み物が途中でなくなってしまうことは、招待する側にとっては不名誉なことでした。マリアは婚礼の葡萄酒がなくなってしまったことを深刻にとらえました。彼女は主イエスに状況を伝えます。
しかし、それを聞かれた主イエスの言葉に、私たちは驚くのではないでしょうか。
「婦人よ、私とどんな関りがあるのです」
主イエスはそれほど深刻に捉えてはいらっしゃいません。むしろ母マリアを冷たく突き放すような言い方をなさっています。ここでは「私とどんな関わりがあるのです」と訳されていますが、細かく訳すと「『私とあなた』にとってどうしたというのです」という言葉になります。
主イエスにとっても、マリアにとっても、婚礼で葡萄酒が足りなくなるということは深刻な問題ではない、それは新郎新婦の問題であって、私たちには関係ないじゃないか、というような言い方です。慈愛に満ちた「優しいイエス様」とはかけ離れた反応です。
主イエスがそのようにおっしゃった理由が、その後で言われています。
「私の時はまだ来ていません」
主イエスがおっしゃる「私の時」に目を向けることこそ、婚礼の席で葡萄酒がなくなることよりも重要なことだ、ということでしょう。では主イエスがおっしゃる「私の時」とは何のことなのでしょうか。いつ、何が主イエスに起こる時のことなのでしょうか。
神の子イエス・キリストが「私の時」とおっしゃっているのだから、イエス・キリストが救い主として救いの御業を行われる時、ということでしょう。主イエスはその「時」を見据えて、今この婚礼の時を過ごしていらっしゃるのです。主イエスが見据えていらっしゃるその「時」に比べると、今起こっている婚礼の不手際など、本当は問題ではない、ということなのでしょう。
では、それは具体的に何の「時」なのでしょうか。それは、十字架の時でした。この福音書を最後まで読んでいくと、イエス・キリストは、十字架に上げられ、酸い葡萄酒をお受けになると、「成し遂げられた」とおっしゃって、息を引き取られます。キリストがキリストとして「成し遂げる」救いの時、それが、主イエスがここでおっしゃっている「私の時」です。
12章で、主イエスがエルサレムにロバに乗って入場された場面が描かれています。その時、ギリシャ人が主イエスの下に会いに来ました。ユダヤ人だけでなく、ギリシャ人、つまりユダヤの律法を知らない人たちも、イエスという方の業と教えを伝え聞いて、主イエスの救いを求めてやってきたのだ。
主イエスはその人たちをご覧になってこうおっしゃいました。
「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。」
主イエスは、ついに自分が一粒の麦として地に落ちる時が来たことを悟られました。自分は一粒の麦として地に落ちなければならない。実りをもたらすために、自分は落ちなければならない、ということをご存じでした。そしてその時のことを主イエスは御自分が「栄光を受ける時」とおっしゃるのです。
主イエスはご自分が逮捕される夜、弟子達の足を洗い、執り成しの祈りをささげられました。その祈りの初めで「父よ、時が来ました」とおっしゃっています。それは十字架の時であり、主イエスが栄光をお受けになる時であり、神のこの世に対する愛が頂点に達する時でした。
カナの婚礼の席で行われたキリストの奇跡は、「最初のしるし」と書かれています。この最初のしるしから、最後のしるし・十字架の死への歩みが始まるのです。この葡萄酒の奇跡から、キリストが十字架の上で口に含まれるあの葡萄酒へと歩みがつながって行くということです。
主イエスは、一度は「私にもあなたにも関係ないでしょう」と母マリアにおっしゃいましたが、すぐにこの婚礼の席の祝福が壊れないように水を葡萄酒に変えるという奇跡を行われました。
さて私たちは、カナで行われた婚礼の席でキリストが水を葡萄酒に変えられた出来事の中に何を見ればいいのでしょうか。キリストが私たちを祝福で満たしてくださる、ということです。
キリストはあの十字架で、御自分の血をもって私たちを祝福へと導いてくださいました。男女が夫婦としての契約を交わす婚礼の席で、キリストは葡萄酒をお与えになったことはとても象徴的です。この葡萄酒は、神との新しい契約の血であるイエス・キリストの血の象徴・契約の祝福の象徴なのです。
カナで行われたしるしは、ただ、「イエスという人が不思議な力を持っていることを示した」というだけのものではありませんでした。キリストの十字架という栄光の時、神の子としての受難の時への秒読みが開始されたしるしであり、神と新たに結ぶ契約の血のしるしが与えられた、ということなのです。
マリアは一度主イエスから「あなたと私に何の関係があるのですか」と言われても諦めなかった。彼女は給仕の人たちに、主イエスが何か指示を出したら従うよう伝えました。「何かを言いつけたら、その通りにしてください」と言っています。これは「彼があなた方にどんなことを言っても、してやってください」という言葉です。
主イエスは人の理解を超えた仕方で何かを示される、ということをマリアは知っていたようです。だから「どんなことを言っても言う通りにしてください」と給仕係の人たちに前もって念押ししています。
主イエスは大きな清めの石の水瓶に水をいっぱい入れるようにお命じになりました。普通なら、「なんでそんなことをするのか」と言うでしょう。それは手や足を洗うためのものです。「水瓶に水を満たすことと葡萄酒がなくなりそうなこととどう関係があるのですか」と言いたくなるのではないでしょうか。しかし、給仕していた人たちはマリアから言われていたこともあり、何も言わず、黙々とその言葉に従いました。
給仕をしていた人たちが主イエスにそう言われて何を思ったのかは書かれていません。ただ、従った、とだけ書かれています。彼らはただ水を瓶に入れるだけでなく「縁・口」までいっぱい入れました。言い返さず従っただけではなく、徹底した従いの姿勢が見られます。
ここで大切なことは、イエス・キリストの最初の「しるし」は、諦めなかったマリアと給仕係の人たちの徹底した従いを通して起こされていった、ということです。諦めずにキリストを求め、示された道に従うこと・・・その先で私たちは神の栄光を見ることになるのです。
この最初のしるしから、ご自身の十字架という神の救いの御業のしるしへの公の歩みが始まります。イエス・キリストの周りには、いつも信仰者たちの従いの姿があったことを見逃してはならないと思います。
カナの婚礼の席ではマリアが、給仕係が、キリストを求め、キリストの言葉に徹底して従った信仰の業がありました。万策尽きて、もうキリストにすがるしかない中で、信仰者たちに、自分たちの力では見出すことが出来なかった道が示されたのです。
私達は人間としての力の終わりに来た時、そして私達がただ言葉を失った時、何も出来ない時・ただ神に祈るしかない時があります。自分で何とかできればいいのです。祈りなしで何でもできれば楽です。しかし、私たちには祈るしかない時があります。
そのような時にこそ、神が私たちの日常の中に共に生きてくださっているという真理を見出すのです。婚礼のような喜びの中でも、荒野のような飢え渇きの中でも、神は私達に祝福をくださろうとしています。希望がもてない時にも・・・いや、希望が持てない時にこそ、私たちには祈るべき方が近くにいてくださるのです。
【次週 礼拝(1月14日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:ヨハネ福音書2:1~12
交読文:詩編18:17~25
讃美歌:讃詠546番、1番、217番、396番、頌栄541番
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
集会案内
主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
祈祷会: 日曜日 礼拝後
牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください
ヨハネ福音書1:43~51
「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」(1:50)
アンデレとペトロをご自分の弟子として召された翌日、主イエスはエルサレムやベタニアのあるユダヤ地方から、北のガリラヤ地方へと向かわれました。その途中、フィリポという人に会い、「私に従いなさい」と御自分の弟子へと召されました。
前に、「弟子のアンドレは誰かを主イエスの下へと連れて行く人だった」、ということをお話ししましたが、このフィリポも同じです。福音書を読んでいくと、フィリポとアンドレはいつも、一緒に誰かを主イエスのもとに連れて行く役割を果たしていることがわかります。
フィリポも、アンドレも、ギリシャ名の人です。2人とも、「ユダヤ人だから」「ギリシャ人だから」というような人種や民族の分け隔てをすることなく、誰かを着やすく主イエスの下に連れて行く社交的な人だったようです。
キリストに召し出されたフィリポは、自分の友人のナタニエルに会って言いました。
「モーセが律法に記し、預言者たちも書いてある方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」
この言葉からすると、フィリポは、モーセの律法や預言書の言葉、つまり旧約聖書の言葉をよく知っていた人だったのでしょう。フィリポの友人の「ナタニエル」はヘブライの名前です。「神がお与えになった」、という意味の名前です。
ナタニエルは、「神がお与えになった」という名前でしたが、「神がお与えになった」恵みを、フィリポのように素直に見ることが出来ませんでした。
「ナザレから何か良いものが出るだろうか」
ナタニエルには、フィリポやアンドレのように、ユダヤ人・ギリシャ人に関係なく物事を見る感覚はなかったようです。
ガリラヤ地方は神の都エルサレムからはるか北にあり、外国との境に接していました。
イスラエルの中心から地理的に遠く離れた田舎でした。イザヤ書では、「異邦人のガリラヤ」という言葉で呼ばれたりしている。
なぜナタニエルがそんなことを言ったのかというと、自身がガリラヤの出身だったからです。21:2で、彼はナザレよりも北にあるカナの出身であったことが書かれています。
自分自身がガリラヤの人間であったからこそ、到来が預言されて来たメシアがガリラヤから出るはずがない、と思っていたのです。彼はガリラヤがどんな土地かよく知っていました。自分と同じ地平からメシアのような神聖な存在が出てくるはずがない、と思っていたのです。
ナタニエルの見方は、一般的なガリラヤの人が持っていたものだったでしょう。メシアがガリラヤの大工の家に生まれるなどということは考えられませんでした。エルサレムの祭司階級に生まれ、大祭司となって民衆を導くようなメシアなら理解できたかもしれません。もし神が特別なものをお与えになるのであれば、もっと特別な場所に、特別な家に生まれるだろう、と考えていたのでしょう。
この福音書は初めに、「万物をお創りになった神が、人となって世に来られた」、ということを書いています。神が我々と同じ場所に生まれ、生活されるということは確かになかなか想像がつかないでしょう。誰だった、神がその辺を歩いていらっしゃるような光景を想像できません。
当時の人たちにとって、神がガリラヤの大工の家にお生まれになったということは躓きとなりました。「あの人は大工のヨセフの子ではないか」と、そこで人々はキリストに近づくことをためらってしまうことになるのです。6:42
ナタニエルもその1人だった。
ガリラヤのナザレへの偏見をもって話しを聞こうとしないナタナエルを、フィリポは自分の言葉で説得しようとはしませんでした。彼がしたのは、「来なさい、そうすればわかる」と、主イエスご本人の下へと連れて行くことでした。
そのイエスという人がキリストであることを知るには、言葉を尽くした説明ではなく、ご本人のもとに連れて行くしかないのです。
ナタニエルはフィリポに付いて行きました。「キリストに会いたい」と思ったからではないでしょう。「ナザレからメシアが出ることはない」という自分の考えが正しいことを知るためでしょう。
しかし、ナタナエルは驚くことになります。主イエスは、初めて会ったはずのナタニエルに「あなたはイチジクの木の下にいた」とおっしゃいました。「イチジクの木の下にいた」というのは、「律法を学んでいた・聖書を読んでいた」ということです。当時の律法の教師たちは、イチジクの木の下で生徒に聖書の言葉を教えていたのです。
キリストはイチジクの木の下にいたナタナエルの姿に、「真のイスラエル人だ」とおっしゃいました。真剣に神の言葉を求めていたことを見抜かれたのです。ナタニエルは既に自分が見られ、心の内まで知られていたことを知り、疑いを捨てて信仰を告白しました。
私たちは、神が自分のことを自分以上によく知っていらっしゃることを知った時、驚きます。そして私達が神を信じる以上に、神が私達を信頼してくださっていることを知った時、自分の常識が砕かれ、信仰の道を見出すのではないでしょうか。
イエス・キリストは、マタイ福音書の山上の説教の中で、こうおっしゃっています。
「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」
キリストは聖書の言葉を求めて学びを続けているナタナエルに必要なものを既にご存じでした。主イエスは「そのままイチジクの木の下で聖書の学びを続けなさい」とはおっしゃいませんでした。「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と、御自分に従う信仰の道をお与えになったのです。
ナタナエルは、自分がイチジクの木の下にいた、という、自分しか知らないことを知っていたイエスという方に信仰を告白しました。
「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」
しかしキリストはナタニエルの信仰告白に対して「まだあなたは何も見ていない」とおっしゃいました。信仰は、何か驚くべきことを見て終わりではないのです。何かを見るために歩み続けるのが信仰です。信仰の歩みの上で、信仰者は更に大きな奇跡を見ていくことになるのです。
キリストに従うということは、キリストの偉大な知識や能力、奇跡に驚いて完結することではありません。この方の後に付いて行く先で、この方が見せてくださることを見続けるということなのです。
私達はキリストに従う先で何を見せていただくのだろうか。
「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り下りするのを、あなたがたは見ることになる」1:50
「天が開け、神の天使たちが上り下りする」、という言葉で思い起こすのは、創世記28章に記されているヤコブの夢です。兄エサウを騙して怒りをかったヤコブは、家から逃げ出しました。兄から逃げる途中、ヤコブは野宿をしました。
その際、彼は夢を見ました。先端が天まで達する階段が地に向かって延びており、神のみ使いたちがそれを昇ったり下ったりする夢です。ヤコブはその夢の中で神の祝福の声を聞きます。
「見よ、私はあなたと共に居る。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」
兄を騙し、父親も欺いて、家から逃げることになったようなヤコブに、神は守りを約束されました。私達は創世記を読む際、「どうして神はヤコブのような人を追いかけて守ろうとなさるのだろうか」と不思議に思うでしょう。神の選びということは、私達にとっては不思議です。
ヤコブは眠りから覚めてこう言いました。
「まことに主がこの場所におられるのに、私は知らなかった」 Continue reading →
【次週 礼拝(1月7日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:ヨハネ福音書1:43~51
交読文:詩編18:17~25
讃美歌:讃詠546番、79番、220番、280番、頌栄541番
【報告等】
◇次週、聖餐式があります。
【牧師予定】
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
集会案内
主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
祈祷会: 日曜日 礼拝後
牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください
創世記3:14~24
「アダムは女をエバと名付けた。彼女が全て命あるものの母となったからである」(3:20)
神がお創りになったエデンの園は、完全な豊かさと美しさをもっていました。人はそのエデンの園に置いていただき、自分が創り出された土に仕え、土を守り、そこから与えられる恵みを夫婦で楽しむ命が備えられました。心地よい風が吹く夕方には、一日の生活の充実感をもって神と語り合う時間をもっていたのです。
しかし、人は蛇の誘惑によって、一瞬でその平安を失ってしまうことになりました。創世記は、その悲劇を淡々と描いています。そしてその悲劇を通してイスラエルの信仰の失敗の歴史を描き出し、神から離れた偶像礼拝がもたらす悲惨な現実を突きつけるのです。
神の言葉を捨てた人間は何を失ったのでしょうか。神を中心に世界・自分見る、という視点を失ったのです。自分を世界の中心に据え、自分だけを見るようになり、神に対して恥を覚える者となってしまいました。
風が吹く夕方、自分を探しに来てくださった神に向かって「私はあなたから隠れています。裸であることを知って恐ろしくなったのです」と言う者になってしまいました。そして「自分以外のものが悪い」と他に責任を押し付ける者となり、神を中心とした大地との調和、神を中心とした夫婦の調和が崩れました。
神への不従順によって人間が何を失ってしまうのか、聖書は一番初めに楽園で人間が犯した失敗を描き、警告を発しているのです。
まず私達は今日読んだ場面で、神が蛇、女、人にそれぞれなんとおっしゃったのかを見たいと思います。
女が「自分は蛇に騙された」と言ったので、神はまず蛇を裁かれました。蛇に対して、蛇が呪われるものとなり、生涯這いまわり、塵を食らうことになる、とおっしゃいます。そしてこれまで普通に語り合っていた蛇と人は互いを忌み嫌い、殺しあうことになると言われました。
次に神は女に対して言葉をお与えになります。女は蛇のように呪われはしませんでした。しかし、三つの辛い現実が示されます。出産の痛み、夫を求めなければならない生活、男による支配です。
そして最後に神は男に向かって言葉を発せられました。男自身は蛇のように呪いは受けてはいません。しかし、「男のゆえに、土が呪われるものとなった」とおっしゃっています。
神の言葉に背いた人間の罪によって、大地が呪われることになったというのです。
エデンの園ではありあまる豊かさを大地から得ていた人間でした。しかし神から離れたせいで、自分が土に返る時まで汗を流し、苦労しても楽園でそうだったように豊かな実りがもたらされることはない、と宣言されます。
土から造られ、土に仕える存在であったアダムは、神から離れることで土との調和を失いました。それどころか、アダムは、土の上で苦しむことになったのです。園の中で与えられた豊かな木の実はなくなり、大地に仕えて園を守るという調和が崩れ、風を感じながら夕方神と語らう至福の時間はもうなくなってしまいました。これから一生男は呪われた土の上で労苦し、そして死ぬという定めとなったのです。
神が夫婦におっしゃった言葉を見ると、この世に生きる辛さが凝縮されていないでしょうか。
私たちがこの創世記を読む際に気を付けなければならないのは、字面を読んでそのまま自分の生活に持ち込んではならない、ということです。
神がここでそうおっしゃったから、「女は男に支配されるべきものである」とか、「外で働くのは男の役割であり、土の上で苦しむのは男だから仕方ない」とか、いうことではないのです。聖書がここで描いているのは、神に背き楽園を失った「あるべきでない」人間の姿なのです。
私たちが聖書を読む際に一番気をつけなければならないのは、その言葉、その物語が書かれた時代背景を踏まえる、ということです。どのような時代に書かれ、その時代の人たちはこの物語に何を見出したのかを踏まえて読まなければ、「男はこうあるべきだ、女はこうあるべきだ」、というような、安っぽい理解になってしまいます。
創世記の物語は、この創世記が記されたその時代のイスラエルが置かれた現実と、なぜイスラエルがそのような苦しみに陥ったのか、ということを描き出しているのです。
この不思議な物語は、紀元前のイスラエルの人たちにとって単なる娯楽ではありませんでした。神が人をエデンの園の外へと出され、人は出産の痛みを感じつつも生きるために土の上でもがき、しまいに死ぬ者とされた・・・イスラエルはこの物語の中に信仰の教訓を見出していました。
創世記が書かれたのは、イスラエルがバビロン捕囚を体験した時代です。BC6世紀、イスラエルの民は聖なる都エルサレムを失い、異教の国バビロンへと連行され、偶像の信仰に囲まれる苦しみの生活を体験しました。
神の言葉に背いてエデンの園から追放されたアダムとエバに、自分たちの姿を重ねて見たでしょう。神の言葉に背を向け、祝福を失った男と女の悲惨は、当時のイスラエルの人たちの現実そのものだったのです。
何百年も預言者たちが偶像礼拝をやめるよう神の言葉を伝えたにも関わらず、イスラエルはやめませんでした。遂に、バビロンの軍隊によってエルサレムに裁きがもたらされました。エルサレムは破壊され、人々はバビロンへと連行されて行きました。異教の地バビロンで、偶像礼拝の誘惑に囲まれた中での生活を余儀なくされたのです。
バビロンでの捕囚生活の中で、家が途絶えないように女性は子を産むことが求められ、家父長制度の中で男に支配されていました。男は炎天下、土の上で来る日も来る日も働かねばならず、その日一日を生き延びるのに精いっぱいでした。
そういう人たちが、この創世記を読んだのです。その時代のイスラエルの人たちにとって、ただ確かだったのは、苦しみの先で死ぬ、ということだけでした。神から離れ、「死ぬ者となった」という厳しい現実が創世記に記されています。
それこそが、バビロン捕囚の中で生きる意味を見失いかけていたイスラエルの人々の現実だったのです。国を失い、ただその日一日を生き延びることが、生きる全てとなっていた無味乾燥な時代に創世記は記されました。エルサレムを失った人たちは、楽園を失った夫婦に自分たちの姿を重ね、信仰の失敗の教訓としたのです。
そのようにして聖書を読むと、神がくださった祝福の生活を自ら捨ててしまったイスラエルの姿が透けて見えてきます。聖書は、ある意味、イスラエルの嘆きの書です。「なぜ自分たちは滅んでしまったのか。自分たちはどこで道を踏み外してしまったのか。自分たちをそそのかす蛇の声とは一体何だったのか。」
女が男に支配されながらも男を求めなければならないような苦しみ、男が必死で汗を流して働いても報いが少ない苦しみ・・・そのような苦しみが一体どこから来ているのか・・・。
驚くべきことに、創世記は神を責めていません。この世に生きる苦しみを神のせいにしていないのです。神はもともとは祝福の世界をお創りになったのに、人間が自らその楽園を捨ててしまった、その愚かさを描いている。「この愚かさを繰り返してはいけない」、という信仰の教訓として創世記は書かれました。
創世記は私たちにただ生きる絶望を伝えているのでしょうか。最後にこのことを考えたいと思います。
創世記が示しているのは、罪の絶望だけなのでしょうか。「あなたには今もこの先も、希望を持つことはできない」ということなのでしょうか。
22節に神の心の言葉が書かれています。
「人は善悪を知る者となった。」
これは以前にお話ししたように、「支配者になろうとする存在となった」ということです。
そして神は一つのことを憂いていらっしゃいます。
「今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となる恐れがある」
人は支配者になろうとする心を持ってしまった、自分中心の生き方を知ってしまった・・・そのような人間が、それぞれが「自分こそ世界の中心である」と思うようになったらどうなるか・・・。
人間同士で殺し合い、自然をも支配しようとして大地を痛めつけることになります。今この世界にある環境破壊の問題も、一番の大元は創造主を見失っている、という人間の罪に原因があるのです。
そのような人間が「命の木を知ってはいけない」、と神は思われました。だから人はエデンの園から追放されたのです。永遠の命に相応しくないと思われたからです。 Continue reading →
【次週 礼拝(12月31日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:創世記:3:14~24
交読文:詩編18:17~25
讃美歌:讃詠546番、118番、111番、114番、頌栄544番
【報告等】
◇12月24日(日)19時からイブ礼拝があります。どうぞお越しください。
【牧師予定】
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
集会案内
主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
祈祷会: 日曜日 礼拝後
牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください
マタイ福音書1:18~24
「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」
およそ2000年前に、ベツレヘムでイエスという名前の男の子が生まれました。このことが、世界を一変させました。紀元前・紀元後、という風に歴史が二つに分けられる程、イエス・キリスの誕生は世界にとって特別な意味を持つものでした。
この方がお生まれになったことの意味、そしてこの方が十字架で死なれたことの意味を、1世紀のキリスト者たちは信仰の証言集として福音書にまとめあげ、後世に伝えました。
このイエスという方は、「永遠なる神の子」であり、「初めから神と共にいらっしゃった方」であり、「この方を通して万物が造られた方」だったと、ヨハネ福音書は冒頭で証言しています。
マタイ福音書とルカ福音書では、この方のことを神でありながら聖霊を通してマリアという女性の胎に宿り、ヨセフの家の下にお生まれになったということを証言しています。
天使はヨセフとマリアそれぞれにキリスト誕生の告知をしました。マタイ福音書には、ヨセフへの告知が、ルカ福音書にはマリアへの告知が書かれています。クリスマスにお話しされるヨセフやマリアの物語は、神秘的であり、胸が温かくなるような出来事として語られることが多いのではないでしょうか。しかし、聖書に証言されている天使のお告げは、ヨセフとマリアにとって非常に厳しい信仰の試練でした。
ヨセフにキリストの誕生が告げられたのは、自分のいいなずけのマリアが身ごもっていることを知った後でした。ヨセフはマリアが自分に対して不誠実なことをした、と結論付けました。当然でしょう。ヨセフに身に覚えがないとすれば、マリアがヨセフ以外の誰かと関係したとして考えられません。ヨセフはどれほど傷つき失望したでしょうか。ユダヤの慣習では、婚約は法的に結婚と同等にみなされていました。二人はもう既に周りの人たちから夫婦として見られていたのです。
ヨセフはマリアも同じように痛い目に合うべきだ、とか仕返しをしてやろうという気にはなりませんでした。早く離縁すれば、マリアは独身に戻った後に、誰かの子を身ごもったように見えます。少なくとも、「婚約者を裏切った」汚名を着ることはありません。ヨセフはマリアと縁を切る決心をしました。少しでもマリアの汚名を少なくするよう、守ろうとしたのです。
天使がヨセフにマリアの子は聖霊によって宿ったことを告げたのは、まさにその決心の後でした。天使がはじめから「これからマリアは聖霊によって男の子を身ごもることになるから、心配しないように」と告げたのであれば、ヨセフがこれほど苦しむことはなかったでしょう。
しかしこれが神がヨセフのためにお選びになった時だった。まるでマリアが身ごもっていることを知ったヨセフがどのような決断を下すのかを神はご覧になっていたようです。天使は、マリアに対するヨセフの思いを見定めた上で、改めてこのことが神の御業によるものであることを告げました。
神がお選びになる「時」は、いつでも人間にとっては唐突です。「神の声が聴きたい、御心が今知りたい」、と願う時にすぐに答えが与えられるわけではありません。じっと耐えるしかない時を過ごさなければならないこともあります。そのような中で私達がどんな姿勢でいるのか、神から見られている時があります。
神は我々人間が自分で予期していない時に思いもよらない道を不思議な仕方で示されます。神の御業が現れる時、いつでも人は戸惑います。「なぜ今なのか、なぜそのような仕方なのか。私はそんなことを予想もしていなかった」・・・そのように、神の御心を求めていながらも、人は神から道を示された時、戸惑うのです。
神はいつも私たちをご覧になっている、ということでしょう。その上で、私たちに本当に良いものと良い時を選ぼうとなさっているのです。神がどのような道を示してくださるのか、それをいつ示してくださるのか・・・その神の決断をどう受け入れるか、というところに私たちの信仰が現れます。
ヨセフとマリアの夫婦は、それぞれが天使の言葉を聞きました。一緒に聞いたのではありません。別の場所で、全く別の時にそれぞれ聞きました。
ルカ福音書ではマリアは、天使のお告げを聞いた時、「御心がこの身に成りますように」と言ったと書かれています。マタイ福音書では、マリアのことで苦しんだヨセフでしたが、天使の言葉を夢で聞き、眠りから覚めると「妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった」と書かれています。
ヨセフもマリアも、お互いへの信頼を損ねることなく、神への信頼をもって自分たちの結婚に進んだのです。キリストの受胎告知は、この夫婦二人にとって試練でした。これから、世間からどのような目で見られることになるのかを知った上で、二人は神に託された幼子を守り育てる道を選び取りました。
キリストの誕生は、その歴史の中で大きな喜びの出来事として私たちは祝っています。その喜びの出来事の元には、ヨセフとマリアという年若い夫婦の大きな信仰の決断があったことを覚えたいと思います。
2人は結婚する前に身ごもっていることが分かり、それでも結婚しました。その後、家畜小屋の中で出産し、ユダヤの王ヘロデに命を狙われることになります。幼子を守るために過酷な旅を続け、エジプトまで逃げることになりました。危険が迫り、不安の中歩き続けなくてはならなかった、それでもこの夫婦は幼子を守るために神の言葉に従い続けることになります。
天使はヨセフに、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と告げました。「イエス」は、ユダヤ人の間ではごく普通の名前です。「主は救い」、という意味の名前です。
「主は救い」、という意味のイエスという名前が、この方が誰であるか、何をするためにお生まれになったのかが示しています。
ユダヤ人は当時多くの人が、救い主を求めていました。彼らはローマの支配から解放してくれる救い主を待っていました。ダビデやソロモンが打ち立てた強い時代のイスラエル王国を復興してくれる強いリーダーを求めていました。自分たちが生きている間安全と豊かさをもたらしてくれる救い主を求めていたのです。
ヨハネ6章にこういう出来事が記録されています。
キリストが5つのパンと二匹の魚を5000人の人たちに分け与えていき、人々は満腹しました。すると人々は「まさにこの人こそ、世に来られる預言者だ」と言って、主イエスを王にするために連れて行こうとします。主イエスは人々が自分を担ぎ上げようとしていることを知って、一人で山に退かれました。
それでも人々が主イエスを探しにやってきた時、主はこうおっしゃいました。「あなたがたが私を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」
人々がメシアに求めていた救いと、実際にメシアがお与えになろうとしていた救いは、違っていのです。天使がヨセフに告げたのは、「その子は自分の民を罪からの救い出す」メシアでした。
ダビデやソロモンのように、剣をもって軍隊を率いてイスラエルに昔の栄光をもたらす救い主ではありませんでした。自分のおなかをいっぱいにしてくれて、自分たちに豊かさと、ローマ帝国の支配からの解放をもたらしてくれる救い主ではなかったのです。イエス・キリストは罪からの解放をもたらす救い主、つまり神を見失った民を神の元へと連れ戻してくれる羊飼いとしての救い主でした。
「インマヌエル」という言葉を天使は告げています。これは、紀元前8世紀、預言者イザヤが告げた言葉です。。
「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」イザ7:14
BC8世紀、イザヤはユダ王国の王アハズにこの言葉を告げました。その時、アハズ王は恐れおののいていました。北イスラエルと、シリアが同盟を組んで自分の国に攻めて来ることを知って、「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」と書かれています。
そこで、イザヤは神からアハズの下に遣わされ、伝えました。
「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない・・・心を弱くしてはならない」
預言者は王に向かって、「静かに神に頼りなさい」、と、神が敵から守ってくださることを告げたのです。しかし、王は聞きませんでした。アハズは信じなかったのです。「神に頼るだけで国を守れるのか」と考えたのです。
神を頼ろうとしない王に向かって、イザヤは告げました。
「見よ、乙女が身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」
インマヌエル、「神我らと共にあり」という名で呼ばれる方の誕生をイザヤは預言しました。
「神が共に居てくださる」ということを信じられないことほど、辛いことはありません。一国の王となって民の頂点に立ったとしてもインマヌエルを信じられなければ不幸なのです。
「神が我々と共にいてくださる」ということを教えてくれる救い主の誕生が預言されました。人にとって、「神が共にいてくださる」ということが救いなのです。強い人や強い国に頼ることではありません。 Continue reading →
【次週 礼拝(12月24日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:マタイ福音書1:18~24
交読文:詩編18:17~25
讃美歌:讃詠546番、102番、108番、112番、頌栄544番
【報告等】
◇12月24日(日)はクリスマス礼拝です。聖餐式があります。礼拝後に愛餐会があります。ご予定ください。
◇12月24日(日)19時からイブ礼拝があります。どうぞお越しください。
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
集会案内
主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
祈祷会: 日曜日 礼拝後
牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください
創世記3:1~13
「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り・・・」(3:7)
エデンの園で土に仕え土を守る生き方を与えられた夫婦は、蛇の誘惑に負けてしまいました。神から「食べると死んでしまう。食べてはならない」と命じられていた木の実を、二人はあっけなく食べてしまったのです。
夫婦で相談することなく、神の言葉を思い出して互いに戒めあうことなく、二人は順番に実を食べました。本当はこのような時にこそ、神の言葉のうちに留まるよう夫婦で励ましあうことが求められていたはずなのに、です。
この場面を読むと、誰もが「なぜ二人はこんなにも簡単に誘惑に負けてしまったのか」と思うのではないでしょうか。私たちは、ここに人間のもろさを見ます。
イエス・キリストは十字架に上げられる直前、弟子達に「あなたたちは私を見捨てるだろう」とおっしゃいました。弟子達は言い返します。「あなたを見捨てることなど決してありません」。
しかし主イエスがゲツセマネの園で、「心は燃えていても、肉体は弱い」とおっしゃった通り、「死ぬことになってもあなたを知らないなどと言いません」と言った弟子達は、わずか数時間の内にキリストを見捨てて散り散りに逃げて去りました。
人が心の中でどんなに強く「自分は神の言葉から離れない」と思っていたとしても、誘惑の言葉を聞いて崩れるのは一瞬なのです。だからこそ創世記はこの夫婦の罪の姿を通して私たちに警告しているのです。
「自分は大丈夫だ、自分だけは大丈夫だ」と思っている人ほど、実は脆かったりします。自分の弱さを知り、自分の弱さを恐れている人の方が、慎重に神の言葉を吟味するのではないでしょうか。
私たちは今日、木の実を食べた夫婦と同じ弱さ・キリストを見捨てた弟子達と同じ弱さを持つ者として、聖書の言葉に向き合いたいと思います。
2:17で神は人におっしゃいました。
「あなたは園のどの木からも実を取って食べてよいが、善悪を知る木、これから実を取って食べてはならない。これから取って食べる日、あなたはかならずや死ぬであろう」
神がおっしゃった「これから取って食べる日」・・・その日が本当に来てしまいました。
この「善悪を知る木の実」は、「人がわきまえておかねばならない一線・侵してはならない領域」の象徴として描かれているのでしょう。人には神の平和の支配の内側に留まるために、超えてはならない一線があります。それは一体何か、そしてその一線を越えてしまうとその先に何があるのか、ということをこの物語は私たちに考えさせているのです。
聖書の物語は字面だけを追ってもよくわからないので、少し聖書で使われている表現を丁寧に見ていきたいと思います。
聖書は蛇のことを「賢い」ものだった、と書いています。蛇の賢さは破滅をもたらす賢さでした。「賢い」という言葉は、旧約聖書が書かれたヘブライ語では、「裸」という言葉と語呂があいます。更に、「賢い」「裸」という言葉は「呪い」という言葉と語呂があうのです。
蛇は、その賢さを用いて人が裸であることを教え、そのことで、神から呪いを受けることになります。創世記は、「賢い」「裸」「呪い」という三つの言葉をセットにして描き出しているのです。
誤った賢さによって自分が裸であることを知り、呪いの内に破滅する・・・神のような支配者になれる、と錯覚した人間の姿を我々は決して他人事として終わらせることができないでしょう。
それでは、聖書が言っている「善悪を知る」とはどういうことなのでしょうか。「善悪の知識」と聞いて私たちが思い浮かべる「道徳的な生き方をするための善悪の分別」のようなものとは全く違うようです。神は、「その実を食べると死ぬ」とおっしゃいました。その木の実は人が知るべきでない知識、人を死に導く知識をもたらすものでした。
蛇は、人にこう言っている。
「それを食べる日、あなたがたの目が開いて、あなた方が神のように善悪を知るようになる、と神は知っていらっしゃるのだ」
蛇は、ただ「善悪を知るようになる」ではなく、「神のように」という言葉を付けています。「神のように善悪を知るようになる」
「君たちが神のようになることを、神は恐れているのだ」というような言い方です。
「善と悪を知る」、という表現が、サムエル記で使われているところがあります。ある女性がダビデに訴えます。
「主君である王様は、神のみ使いのように善と悪を聞き分けられます。」サム下14:17
旧約聖書では、「善と悪を聞き分ける・善と悪を知る」という表現は、王として民を支配することを意味しました。つまり、「善悪を知る」というのは、「道徳的な人間になる」ということではなく、「王様になる・支配者になる」ということなのです。
蛇の誘惑はそれでした。
「その木の実を食べると神のように善悪を知ることが出来る」と言ったのは、「木の実を食べると神のようにこの世を支配することができるようになるのだ」ということだったのです。「もう神の支配の下に生きることはない、君たちは、自分が世界の支配者になれるのだ、神と同列になれるのだ」、と言って、木の実を示しました。その言葉が決め手になり、二人は実を食べてしまいます。
7節を見ると、2人が実を食べると、「二人の目が開けた」とあります。今まで見えなかったものが見えるようになった、知らなかったことを知った、ということです。2人は木の実を食べて何を知ったのでしょうか。「自分たちが裸であること」でした。
では「自分が裸であることを知る」ということは、どういうことなのでしょうか。それがなぜ「死んでしまう」ことに結びつくのでしょうか。聖書独特の表現が続きます。
ある人は、「ここで言われている『裸であることを知る』というのは、『人が自分に目を向け始めた』ということではないか」と言います。確かに、それまでは神に目を向け、心を向けていたのが、自分を・自分だけを見るようになっています。
「自分が裸である」ことを知って、人はどう変わったのでしょうか。人の中で中心が変わったのです。世界の中心が変わったのです。神を中心に見えていた景色が、自分を中心に据えて世界を見始めました。
そして面白いことに、人は「自分を恥じるようになった」と書かれています。実を食べる前、人はエデンの園で神との交わりを楽しみ、満ち足りた命を生きていました。しかしそれが自分だけを見るようになったとたんに、自分の恥が見え始め、もとは一つの存在であった夫婦でありながら互いに自分を隠し始めたのです。
神から離れた人間が自分だけを見るようになり、自分の恥だけが見え始めた・・・このことには、深い教訓が隠されているのではないでしょうか。
「人が1人でいるのはよくない」と思われた神は人に夫婦という単位をお与えになりました。存在を共有する「夫婦と」いう「二人で一つの肉」として生きるようにされました。神の支配の下、御心に沿って生きるよう励ましあい、その恵みを分かち合うはずの夫婦でした。
しかし木の実を食べた後はどうなったでしょうか。実を食べたその日の夕方、神から声をかけられるまで、この夫婦は二人で会話をしなかったようです。神から離れた男と女は、互いに恥を感じ、互いから隠れ、神から隠れました。
8節を見ると、エデンの園に心地よい風が吹く頃、神が人に会いに来られたことが書かれています。神と人は毎日この夕方の心地よい時間、語り合っていたようです。しかしいつもの時間に、いつもの場所に人はいませんでした。 Continue reading →