MIYAKEJIMA CHURCH

10月29日の礼拝案内

次週 礼拝(10月29日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書1:1~18

 交読文:詩編18:8~16

讃美歌:讃詠546番66番、217番、499番、頌栄542番

【報告等】

◇大島から伊豆諸島の教会の交流の一環で二人の方が三宅島伝道所を訪ねてくださいました。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

10月22日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:1~18

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(1:4)

旧約聖書の知恵文学・箴言の中に、こういう言葉があります。

「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め。私によって、あなたの命の日々もその年月も増す。あなたに知恵があるなら、それはあなたのもの。不遜であるなら、その咎は独りで負うのだ」9:10

我々人間にとって、神を知る・神に立ち返るということは、知恵の初めである、と聖書は言います。同時に、その神を知り、神の元へと立ち返る知恵を我々に教えてくれています。

聖書を通してまず私たちが学ぶべきことは、自分が神に背を向け、神を忘れて「知恵」をなくしてしまった闇に生きている、ということです。聖書はその闇のことを「罪」と呼んでいます。私たちはその自分の「罪・闇」を知るところから、光を求め始めるのです。そして聖書は「神から離れた罪の闇」から救い出してくださる存在を指し示します。イエス・キリストです。

創世記を見ると、土なる存在アダム、命なる存在のエバが「あなたも神のようになれるのだ」という蛇の誘惑の言葉で、食べてはならない実を食べ、超えてはならない一線を越えてしまった出来事が記されています。これは、人間を支配する「罪」の力の本質を教える出来事です。

人間にとって真の神に背を向けることほど悲惨なことはありません。自分の手で神を作り出すか、自分が神のようになろうとするしかなくなるのです。自分の手が神を作ったり、自分が神になろうとする・・・それが、真の神を忘れた人間が陥る道です。それは空しく、破綻にいたる道なのです。

しかし、ヨハネ福音書はその冒頭で、そのような私たちに神の方からこの世に迎えに来てくださった救いを高らかに宣言するのです。

今日も私たちは、先週と同じ、ヨハネ福音書の冒頭部分を読みました。この福音書は、他の三つの福音書とは違った角度からキリストを証ししています。言葉が抽象的で分かりにくいところもあります。この冒頭部分も、一度読んだだけではよくわからない内容ではないでしょうか。

しかし、「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め」という箴言の言葉を思い出したいと思います。私たちが読んだこの冒頭の言葉の中に、我々が知らなければならない「知恵・分別」があるのです。

古代、ギリシャ哲学や、東方オリエンタル宗教は、基本的に二元論を持っていました。世界を真っ二つに分ける考え方です。多くの人々は、物質世界と精神世界をはっきりと分けて考えていました。

神はこの世を超えた光の中にいらっしゃり、私たち肉の存在である人間は、造られたこの物質世界の闇の中に押し込められている・・・天と地には明確な区別がある。霊の世界と肉の世界が交わることはない、という考え方です。

多くの人は、この世界を邪悪なものとして見ていました。肉体も、罪の肉であり、意味を持たないものでした。自分たちの魂が、この肉体の牢獄から解放されて神の元に戻って行く、という願いを持って生きていたのです。そのような時代に、この福音書は記されました。

この福音書の初めの部分を読むと、やはり、光と闇、霊と肉、などと二つの世界を想定した言葉がつかわれています。ただ、この福音書が当時の哲学やオリエンタル宗教の二元論と違っているのは、この世界は愛を持つ神によって造られたこと、この世界は「良いもの」として造られたこと、そして神は今でも人間を愛し取り戻そうとなさっていることを示していることです。

3節「万物は言によって成った。成ったもので言によって成らないものは何一つなかった」

「言」とはイエス・キリストのことです。天地創造の際、神がご自分の言葉で世界の秩序を整えていかれたあの「光あれ」という言こそ、イエス・キリストである、というのです。

4節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」

イエス・キリストは創造主であり、命であり、光である、と伝えます。キリストが来てくださったこの世は、光に照らされた命に満ちた、祝福の世界なのです。

旧約聖書が伝えて来たことは、人間は創造主を見失い、そのことによって命を見失い、創造の光を見失った、ということでした。イスラエルの悲惨な歴史を通して、人間の罪がもたらす苦しみを私たちに伝えています。

この世を空しいものにしているのは何でしょうか。罪です。では、罪とは何でしょうか。神を見失い、神の御心を見失い、神の創造の秩序を忘れた混沌に生きるところへと導く力です。

その混沌・闇の中に、救い主イエス・キリストが我々を迎えに来てくださった事実を福音書は証ししています。福音書に書かれていることは、神話のようなおとぎ話ではありません。真の神が、真の人間となって世に生まれ、最後には十字架でころされた、という歴史的な事実です。

さて、福音書はこの世の混沌の闇の中に、「洗礼者ヨハネが遣わされた」ことをいいます。先ほども少し触れましたが、当時の哲学やオリエントの宗教、いわゆる「二元論」では、神はこの世とは関りを持つとは考えていませんでした。神は神の世界に、人間は人間の世界に生きて、接点はない、と考えていました。神は神の世界で完結していて、この世で生きる我々人間とは無限の距離がある、と考えられ、信じられていました。だからこそ私たち人間は、自分の肉体が生きているこの世界から脱出しなければならない、という思考になっていました。

しかし、ヨハネ福音書は万物をお創りになった神が今も人間を愛し求めていらっしゃる、ということを証しします。

人は神から離れてしまいました。「神のようになれるのだ」という蛇の声に従って、神に背を向け、自分が神になろうとする道を歩み始めました。それでも神は、人間を諦めることはなさいませんでした。何度も預言者に招きの言葉を託し、世に遣わしてこられた。そして時が満ちて、洗礼者ヨハネが遣わされ、キリストがいらっしゃるための道を備え、神の独り子イエス・キリストが来てくださったのです。

神は、世界を創造するだけで、あとは関りを持たないような神ではありません。道を失った人間を取り戻すために招きの御手を伸ばしてくださる神なのです。

洗礼者ヨハネは光を証しするために来た、と書かれています。彼は「光ではなく、光の証しするために来た」と繰り返されています。

ギリシャ語の「証をする・証言する」、という言葉は、後に英語の「殉教する」という言葉の元になります。そのことは、ヨハネから始まり、イエス・キリストを証しするキリスト者たちの信仰の歩みがどのようなものであったかを示しているではないでしょうか。キリスト者たちは、自分たちの生涯をかけて、命を懸けて、イエス・キリストを証言していきました。

そもそも、そのようなキリスト者の証しの業によって、このヨハネ福音書は書かれたのです。聖書が書かれた。

21:24「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」

一体これまで、私たちを含めて、何人の証し人が起こされてきたでしょうか。一体これまで何人の人がキリストの光を知り、その光の中に生きながら光を指さしてきたでしょうか。何人のキリスト者が、自分の命を懸けて来たでしょうか。

キリストは十字架に上げられ、三日目に復活なさいました。そして弟子達に現れてこうおっしゃいました。

「父が私をおつかわしになったように、私もあなたがたを遣わす」20:21

神がキリストを遣わされたように、私たちもキリストから遣わされているのです。私たちには使命が確かに与えられているのです。キリスト教の知識を増やして、それで終わり、ではないのです。そんな自己完結を求められているのではありません。目の前にいる人・隣にいる人への、「一緒に、光に向かって生きよう。一緒にキリストの下に行こう」という一言を私たちは託されているのです。

5節で、「光は闇の中で輝いている。闇は光を理解しなかった」とあります。「理解しなかった」という言葉は、「克服しなかった、消すことができなかった」という意味もあります。確かに、この世はキリストを理解せず、十字架に上げました。しかし、罪の力は十字架でもキリストに勝つことはできませんでした。

この世に光が来た、ということは、この世の闇が浮き彫りにされた、ということですこの世の闇があぶり出された、ということです。光が来たからこそ、私たちにはこの世の「闇」というものが示されました。本当に戦うべき相手を知りました。それはあの蛇の誘惑の声との戦いです。「あなたは神のようになれる、見えもしないどこか空の上にいるような神など信頼できないじゃないか」という声が、様々な形で私たちに聞こえてくる。いくらでも思いつくのではないでしょうか。 Continue reading