7月3日の礼拝案内

次週礼拝(7月3日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄7:54~8:1

 交読文:詩編10編1節~7節

 讃美歌:讃詠546番、20番、303番、404番、頌栄541番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

6月26日の説教要旨

使徒言行禄6:1~7

「私たちは、祈りとみ言葉の奉仕に専念することにします」(6:4)

キリストの使徒たちは、「ナザレのイエスのことを話してはいけない」と言ってくる最高法院の権力に屈しませんでした。イエス・キリストの十字架と復活を人々に伝え続けます。キリストの使徒たちの証を聞いたたくさんの人は洗礼を受け、教会に入って来ました。

2:47を見ると、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」とあります。その他にも、「その日に三千人ほどが仲間に加わった」とか、「男の数が五千人ほどになった」などと記されています。

教会は120人が祈るところに聖霊が注がれるところから始まりました。それが、短期間のうちに何千人もの信仰者の群れとなったのです。

エルサレム周辺だけでなく、ローマ帝国全域のユダヤ人が、ナザレのイエスの十字架と復活を聖書の預言の実現として信じるようになり、何千人もの人たちが使徒たちのところに来て、自分たちの財産を神への捧げものとして持ってくるようになりました。

このように見て行くと、教会の成長の勢いはものすごいものだったことがわかります。

しかし、教会にとって人が集まって大きな群れになる・豊かな財産を持つ、ということは、手放しで喜べることではありませんでした。

教会が大きくなるにつれ、当然様々な問題が起きてきます。人の数が増えれば増えるほど、今までなかった問題が生じてくるようになります。

今日読んだところを見ると、分配のことで問題が起きた、ということが書かれています。

教会の中には、ヘブライ語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人がいました。

「ヘブライ語を話すユダヤ人」は、エルサレムを中心とした、ユダヤ地方に住んでいたユダヤ人たちのことです。

「ギリシャ語を話すユダヤ人」というのは、地中海全域に離散して住んでいて、当時のローマ帝国で使われていたギリシャ語を話していたユダヤ人、ということです。

エルサレムに形成されたキリスト教会には、今や、ローマ帝国全域・地中海全域に散らばって住むギリシャ語をユダヤ人たちも含む大きな信仰共同体となっていたのです。

ヘブライ語を話すユダヤ人に対して、ギリシャ語を話すユダヤ人たちから分配のことで苦情が出ました。ギリシャ語を話すユダヤ人たちのやもめたちが軽んじられ、その女性たちが受け取る分配が少なくされていた、というのです。

このように、教会の人数が増えると、当然、12人の使徒たちだけでは全体をまとめきれなくなってきます。一人一人に目が届かなくなってきました。そこで教会は新しく7人を選び出し、その人たちが教会の食事の世話などが任されることになりました。

私たちが今日読んだのは、教会の中で新しく世話係が選び出された、というところだ。読んでみると、小さな出来事のように思えます。

しかし、これは、教会が、一つの組織として形を整え始めるきっかけとなった、とても重要な出来事です。教会の成長は新しい段階を迎えたのです。

私たちは、今日読んだ出来事を通して、「教会が成長する」とはどういうことか、様々なことを考えていくことが出来ると思います。そもそも「教会の成長とは何か」、そして「教会を成長させるものは何か」、このことを改めて考えていきましょう。

ペンテコステの後、教会には多くの人がキリストへの信仰を告白し、洗礼を受け、キリストへの捧げものをもって入って来ました。短期間で教会は人数が増え、財産も増えました。

しかし、改めて「人数と財産が増える」、ということだけが教会の成長なのか、ということが問われるのではないでしょうか。確かに、洗礼者が多くいることはキリスト者としてうれしいことですし、教会の財産が潤沢にあれば、安定した運営ができます。

しかし、「教会の成長」というのは、それだけのことではないでしょう。今日の場面で私たちが見たように、人が増え、財産が増えることによる問題が出てくるのです。

「教会の成長の本質とは何か」、「信仰共同体としての成長の本質とは何か」、考えなければなりません。

教会の人数の多さや少なさ、また、教会がもつ財産の大きさや小ささ以上に、神の御心を本当に行えているかどうか、そのことの方が、私たちにとっては大切なことなのです。

イエス・キリストを信じる人たちがその教会の群の中で、正しく神を愛し、正しく隣人を愛することが出来ているかどうか、ということが何より大切なことになってきます。

ギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちにとって、「自分たちに正しく食べ物が分配されなかった」は問題でした。それは、彼女たちだけの問題ではありませんでした。それは、教会全体の問題だった。キリスト教会の中で重んじられる人たちと軽んじられる人たちの線引きができてしまっていた、ということです。

どんなに教会が豊かで、人数が多くても、立場の弱い人が軽んじられている、というのであれば、その教会は成熟していません。「未熟」なのです。そのような教会をご覧になってもキリストはお喜びになりません。

エルサレムの人が、エルサレム以外の人たちを、社会的に弱い人たちを軽んじる、ということが教会の中で起こりました。キリスト教会の中で、神を愛し、隣人を愛する、ということが実践できていないのであれば、教会にどれだけ人が集まり、財産を積み上げても、意味はないのだ。

イエス・キリスト以は前おっしゃいました。最も大切な律法は、「心を尽くして神を愛すること、そしてもう一つは隣人を自分のように愛することである」。全ての律法の掟は、この二つの言葉に集約される、とおっしゃいました。

旧約聖書の律法を見ると、神は「やもめ、寄留者、みなしごを守れ」、と最初に言われています。

聖霊を注がれて出来た教会なのに、早くも神の掟、律法が壊れ始めていました。先に教会の一員となっていた人たちが、後から来た人たちを軽んじる、ということが起こっていたのです。

キリストの使徒たちは、驚いたのではないでしょうか。イエス・キリストの福音を語り、それを聞いて洗礼を受けた人たちの間で、早くもそんな俗っぽい問題が起こったのです。

私たちも、ここを読んで、「キリストの十字架の救いを知った人たちの間で、どうしてこんなことが起こるのか」と不思議に思うのではないでしょうか。

しかし、これが人間なのです。この事件を通して私たちは、自分たちの教会のことを振り返る必要があるでしょう。

旧約聖書を通してイスラエルを見ても、新約聖書を通して教会を見ても、その信仰共同体の中に起こるのは全て、とても人間的で、俗っぽい問題でした。派閥争いや、嫉みあいとか、不平等といったことです。

出エジプトの際、荒れ野の旅の中、モーセだけが神と話をすることを妬んだ人たちがいました。しかも、それはモーセの兄弟たちでした。イスラエルの指導者・預言者・祭司でありながら、兄弟同士で妬みあっていたのです。

パウロの手紙を見ても、パウロの使徒としての権威を妬む人たちが教会の中にいたことがわかります。

教会の人数が増えると、「私たち」と「あの人たち」という風に、小さなきっかけで派閥が生まれ始めます。コリント教会がそうでした。同じ教会の中で、「私はペトロにつく」「私はパウロにつく」などという争いが起こっていたのです。パウロは、「イエス・キリストはいくつにも分かれてしまったのですか」と厳しく戒めています。

私たちは聖書を通して、信仰共同体の中に、どれだけ簡単に人間の思いが入り込んでくるかを見ることが出来ます。信仰共同体は本当にささいなことで、単なる人間の集まりに堕落してしまう危険性をはらんでいるのです。

さて、ここで大切なのは、キリストの使徒たちがどのようにこの問題に取り組み、乗り越えたのか、ということです。 Continue reading

6月26日の礼拝案内

次週礼拝(6月26日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄6:1~7

 交読文:詩編9編14節~21節

 讃美歌:讃詠546番、19番、213番、376番、頌栄540番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

6月19日の説教要旨

使徒言行禄5:17~32

「ペトロとほかの使徒たちは答えた。『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。』」(5:29)

アナニアとサフィラの夫婦が、人を騙して作ったお金の一部を捧げたことで教会の聖さを汚し、キリストの霊に打たれて死んでしまいました。その一部始終を見ていた人々は、本当に恐れるべき方を知りました。

キリストの使徒たちは、「あなたがたはメシアを十字架で殺してしまった」「しかし、十字架で殺されたナザレのイエスは復活なさって、あなたがたが悔い改めて立ち返ることを求めていらっしゃる」ということを伝え続けます。

使徒たちが告げる福音を聞き、使徒たちが行う様々な病や悪霊からの癒しを見て、民衆の多くがイエス・キリストに心を寄せ、教会の一員となっていきました。

しかし、キリストの福音を告げる使徒たちに対して反感を覚えた人たちがいました。主イエスを裁判にかけて有罪とし、十字架へと追いやった最高法院の人たち、ユダヤの指導者たちです。

今日読んだところには、大祭司とその仲間のサドカイ派の人たちが「ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた」、とあります。指導者たちが、使徒たちを「ねたんだ」、というのは、民衆が使徒たちの方に行ってしまったことを単に「うらやましいと思った」、ということではありません。この「ねたみ」というのは、元の言葉では「熱心さ」という意味もあります。

神の御心を正しく行うための「熱心さ」でした。ユダヤの指導者として、神の御心を正しく知り、神の前に正しく生きる、ということ、そして、ユダヤの民衆を神の御心に従った生き方へと正しく導くこと、指導することに熱心だったのです。指導者たちは、キリストの使徒たちが伝えていることは、神の御心に反していると思い、やめさせなければならない、という「熱心さ」を抱きました。

ここで難しいのは、指導者たちも、使徒たちも、両方が「神の御心に従おう」という「熱心さ」を持っていた、ということです。「どちらが本当に神の御心をおこなっているのか」、ということが問題となります。ナザレのイエスの復活を伝えているキリスト使徒たちが正しいのか、それとも、イエスを犯罪人としてローマの十字架へと差し出した指導者たちが正しかったのか、はっきりさせなければなりません。

今日私たちが読んだ場面には、指導者たちが使徒たちの活動をやめさせることができなかった、ということが記されています。

指導者たちは自分たちの権力を用いてイエスの復活を語ることをやめさせようとしました。使徒たちを捕らえて牢に入れてしまいます。

しかし、夜中に天使が牢を開け、使徒たちに「神殿の境内で命の言葉を民衆に告げなさい」と言います。最高法院の人たちは使徒たちを尋問しようとしたのにいなくなってしまったことに驚きました。しかも、牢から出た使徒たちは、そのままどこかに逃げて身を隠すようなことをせず、また神殿の境内に戻って、また同じ場所に戻って、同じ言葉を語り続けていたのです。

指導者たちはもう一度使徒たちを最高法院へと連行して、使徒たちに尋ねました。

「お前たちはイエスを殺した責任を私たちに負わせようとしているのか」

これに対してペトロたちは、「人間よりも神に従わなくてはなりません。あなたがたが木に付けて殺したイエスは復活させられました。私たちは事実の証人なのです」と答えました。

キリストの使徒たちは、自分たちの先生に有罪判決を下して殺した最高法院の人たちに恨みを晴らすために福音宣教をしたのではありません。ただ、天使に命じられたから、ただ聖霊にそのように導かれたから、見たことを告げていただけでした。

聖書は、神の御心を行っていたのは、指導者たちではなくキリストの使徒たちであったことを伝えています。

最高法院の人たちが権力をもって福音宣教をやめさせようとしても、使徒たちを止めることは出来ませんでした。なぜ、何の権力ももたないキリストの使徒たちを止めることが出来なかったのでしょうか。

キリストの証し人は、地上の権力を何も持っていません。今もそれは同じです。持っているのは、天からの権威です。天使が、神の霊が、使徒たちを語らせたのです。神は、使徒たちが黙ることをお許しになりませんでした。

彼らは、好き好んで、イエス・キリストを伝えるという危険を担っていたのではありません。彼らは、天からの命令によってキリストを証しし、その証しのための道筋が天から敷かれていったのです。

牢に入れられようが、大祭司にやめろと言われようが、使徒たちは、聖霊によって語り続けることを求められたから、福音を告げることをやることは許されませんでした。神の御心を行ったのは、使徒たちであり、もっと正確に言えば、神が使徒たちを用いて、ご自分の言葉を語って行かれたのです。

私たちは、当時の指導者たちからの圧力に負けずに福音を伝えていく使徒たちの姿を「強い、とても真似できない」と思うのではないでしょうか。しかし、そこにあるのは、福音が持っている強さであって、人間としての使徒たちの強さではないのです。

キリストの使徒たちだって、私たちと何ら変わらない、普通の弱い人間でした。この人たちは、一度はイエス・キリストを見捨てた人たちです。

主イエスは、「あなたがたは、私が種々の試練に遭ったとき、絶えず私と一緒に踏みとどまってくれた」と弟子達におっしゃったことがあります。主イエスの福音宣教の旅の中で、様々な試練があったのでしょう。イエス・キリストと一緒にいても、神の国を宣教するということには、色んな苦難があったのです。それでも、弟子達はその苦難をイエス・キリストと一緒に忍耐して何度も乗り越えました。

しかし主イエス逮捕される夜、弟子達は最後にこう言われてしまいます。

「今夜、あなたがたは私を見捨てて逃げるだろう」

弟子達は、言い返しました

「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しています」

立派な覚悟です。しかし、それほどの覚悟をもっていたのに、弟子達は主イエスが逮捕されるに及んで、皆逃げ去りました。ペトロなどは三度「イエスを知らない」と言ってしまいました。どんなに強い気持ちを持っていても、どんなに心が燃えていても「肉体は弱い」、ということが明らかになります。キリストの直弟子とはいえ、弱い人間なのです。

ではなぜ、その弟子達が、最高法院を前にしても逃げず、福音を語ることをやめなかったのでしょうか。

弟子達がご自分を見捨てて逃げてしまう弱さを持っていることをご存じだったイエス・キリストは、「私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った」とおっしゃいました。

弟子達は、自分の人生の中で何度、キリストを見捨てた夜のことを思い出したでしょうか。そして、何度、イエス・キリストの「あなたのために、信仰がなくならないように祈った」という言葉を思い出したでしょうか。

弟子達は、イエス・キリストが自分の弱さを全てご存じであったこと、そして、その弱さを全てご存じの上で、信仰がなくならないように祈ってくださっていた、ということを何度も振り返ったでしょう。

主イエスを見捨てるという信仰の失敗を犯した、あの弱かった弟子達が今、神殿で主イエスの復活を語り、逮捕されても、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と明言します。彼らはキリストを見捨てる、という痛みを知っていたのです。それに勝る痛みはない、ということも。

今、弱い使徒たちが強められています。何によってでしょうか。キリストの祈りによってです。「あなたの信仰がなくならないように祈った」というそのキリストの祈りによって彼らは再び立ち上がることが出来のです。

教会には、イエス・キリストを証しする使命が託されています。私達は何によってキリストの復活を証しする教会として立つことが出来ているのでしょうか。教会の強さとは何でしょうか。

教会に集っている私たちには、何の強さもありません。知識や財産や、権力が強い人たちが集まっているから教会は2千年もたち続けてきたのでしょうか。「私は神など必要ない、キリストの救いなんていらない」と言えるほど強い人が集まっているのでしょうか。

そうではありません。逆です。教会には、「キリストなしには生きていけない」、ということを思い知らされた、弱い人たちが集まっているのです。

教会は、キリストを求めるからこそ強いのです。キリストを求めなければ何にもできないような弱い群れのために、イエス・キリストが「あなたがたの信仰が無くならないように私は祈っている」と言ってくださっている、そのことが、教会の強さなのです。

私達自身には、福音宣教のための強さなどありません。あるのは、私たちを支えているキリストの祈りです。 Continue reading

6月19日の礼拝案内

次週礼拝(6月19日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄5:17~32

 交読文:詩編9編14節~21節

 讃美歌:讃詠546番、17番、191番、392番、頌栄540番

【牧師予定】

◇6月14日(火) 15時より富士見町教会にて三宅島伝道所支援委員会不在:6月13日(月)午後~16日(木)朝 

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

6月12日の説教要旨

使徒言行禄5:1~11

「アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持ってきて使徒たちの足元に置いた。」(5:1~2)

聖書に関して、よく言われる誤解があります。それは、「旧約聖書は厳しくて、新約聖書には優しいことが書かれている」とか、「ユダヤ教は神の裁きを恐れ、キリスト教は神の愛を喜んで生きていきている」、というようなものです。

キリスト教は愛の宗教で、キリストは何をしても許してくださる愛情の深い方で、それが旧約の時代と新約の時代の違いだ、というようなことが言われたりしますが、それは全くの間違いです。

確かにキリスト教は愛の宗教だと言っていいでしょう。しかしそれは、一つの側面でしかありません。キリストは、「私は律法を完成させるために来た」とおっしゃいました。旧約聖書を通して伝えられてきた、人間の罪に対する神の裁き、神の怒り、神の忍耐、そして神の愛を完成さるために来られたのです。人間の罪に対する厳しさということでは、旧約聖書も、新約聖書も伝えていることも何ら変わりはありません。

私達はキリストの聖さ、神の聖さというものの峻厳さを聖書を通して知らなければならないのです。そして、その聖さを恐れることを学ばなければなりません。

今日私たちは、教会に献金したアナニアとサフィラという夫婦が、神に打たれて死んでしまった、という場面を読みました。教会を迫害した人たちではなく、教会に献金した人が、神によって打たれた、というのです。

ここを読んだ人は、誰もが衝撃を受けると思います。

「神の聖さに相応しくない献金をすることは、命に関わるほどのことなのだろうか」

そう思って、神への恐れが深まる事件だと思います。

我々は、生まれたばかりの教会に起こったこの衝撃的な事件を通して、教会の聖さについて、そしてその聖い教会に相応しい捧げものとはどういうものか、ということを考えさせられることになります。

旧約聖書のヨシュア記に、アカンという人のことが書かれています。アカンは、神にささげるべきものを、隠れて自分のものとしていました。そのことによって、イスラエルは戦いに負けるようになってしまいます。結局、アカンは神にその罪を暴かれ、最後には死んでしまうことになるのです。

人間にとって、自分の目の前にある地上の富・宝は、魅力的なものです。あまりに魅力的で、この宝が自分の身を亡ぼすかもしれない、ということすら見えなくなってしまいかねません。

私たちは、イエス・キリストがおっしゃった、「天に富を積みなさい」という言葉を思い出すことが出来るでしょう。

「あなたがたは地上に富を積んではならない。・・・富は、天に積みなさい・・・あなたの富のある所に、あなたの心もあるのだ」

教会に集う一人の信仰者として、キリスト者として、そして献金者として、私たちはこの夫婦が神に打たれてしまった、ということと、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とおっしゃったキリストの言葉に対して、向き合わなければならないと思います。

今、私たちの目には何が映っているでしょうか。私たちの心は、地上の富、天の富、どちらに向いているのか、目を背けず、今日の聖書の言葉に向き合いたいと思います。

アナニアとサフィラの夫婦が献金する前に、バルナバと呼ばれていたヨセフという人が、自分の畑を売って、その代金を持ってきて使徒たちの足元に置いた、ということが書かれています。

そのすぐ後で、アナニアと、妻のサフィラが同じように土地を売って教会に献金しました。

私たちは、バルナバの献金と、アナニア・サフィラ夫婦の献金を比べることが出来ます。それぞれ、全く質の違うものでした。

正直なお金を正直に教会に献金したバルナバと、姑息なやりかたで人を騙して作ったお金で教会に献金しつつ自分の懐も肥やしたこの夫婦は対照的です。

バルナバは自分の畑を売ってできたお金をそのまま教会に捧げました。「自分の持っているものを施し、キリストに従う」、という、あのイエス・キリストの教えに忠実な、まさに献身のしるしでした。

しかしアナニアとサフィラの夫婦は、二人で相談して土地の代金をごまかしてお金を作り、しかも、全額ではなくその一部を教会への献金として持ってきた、とあります。夫婦は、事前によく相談したのでしょう。「教会に献金もできて、自分たちの懐にもお金が入ってくるやり方はないだろうか」

「土地の代金をごまかした」、ということは、誰かをだまして土地を高く売りつけた、ということです。つまりその献金は誰かの不幸の上に作られたものでした。

この二人は頭のいい夫婦だったのでしょう。ガリラヤの田舎出身のキリストの使徒たちの馬鹿正直なやり方をもどかしく思ったかもしれません。もっと頭を使って、手っ取り早く儲けて、それを教会に入れて、とにかく教会を豊かにすればいい、そして自分の利益も出そう、と考えたようです。

結局、このことが、二人を破滅へと導きました。

人間に破滅をもたらすもの、教会を破壊するもの、汚すものはなにか、ということを私たちはここで考える必要があります。

使徒ペトロはアナニアとサフィラそれぞれにこう言いました。

「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」

「主の霊を試すとは、何としたことか」

二人は、人を騙して作ったお金でも、結果として教会が豊かになることのであればそれでいいではないか、と考えたのでしょう。しかし、その捧げものを神がお喜びになるかどうか、ということは少し考えればすぐにわかったことではないでしょうか。

ペトロが二人に告げた罪は、人をだまして得たお金を、聖なる神にささげて神の聖さを、キリストの聖さを、教会の聖さを汚そうとしてしまったことでした。夫婦は、二人とも、神に打たれて死んでしまいました。

我々はアナニアとサフィラが神に打たれて死んでしまったことに驚きます。神に打たれた、ということはイエス・キリストに打たれた、ということです。

私たちは「聖くない献金をしてしまったとしても、命をとられるほどのことなのだろうか」、と思ってしまうかもしれません。

しかし、我々はこの事件が持っている深刻さをよく考えなければならないでしょう。アナニアとサフィラがしたことは、実は教会の命に関わることでした。

教会は、単なる人間の集まりではありません。キリスト者の交わりは聖い信仰による交わりです。手段を選ばずとにかく大きくなればいい、とにかく豊かになればいい、というようなものではありません。イエス・キリストがおっしゃたように、教会は「祈りの家」でなければならないのです。

もしも、アナニアとサフィラがもってきたお金を使徒たち・教会が喜んで受け入れていたとしたらどうだったでしょうか。教会にある交わりは汚れ、キリストからは「これは強盗の巣だ」と言われて、旧約聖書に出てくるあのバベルの塔のように上から崩れてしまうでしょう。

何が教会を壊すのでしょうか。教会の中にいる人々の意見の相違が教会の交わりを壊すこともあるでしょう。

しかし、それ以上に怖いことは、教会の中でキリスト者同士が、お互いをごまかすこと、騙すことです。それは神を、キリストをごまかそうとすることだからです。キリスト者がキリストを騙すようになると、教会は壊れます。神ご自身の手によって、その教会は滅ぼされることになります。

アナニアとサフィラの中には、それが悪いことだ、という罪悪感はなかったようだ。 Continue reading

6月12日の礼拝案内

次週礼拝(6月12日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄5:1~11

 交読文:詩編9編14節~21節

 讃美歌:讃詠546番、15番、330番、452番、頌栄540番

【牧師予定】

◇6月14日(火) 15時より富士見町教会にて三宅島伝道所支援委員会不在:6月12日(日)午後~16日(木)朝 

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

6月5日ペンテコステ礼拝の説教要旨

使徒言行禄4:1~14

「ほかのだれによっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(1:12)

ルカ福音書の13章に、エルサレムをご覧になったイエス・キリストが嘆かれたことが記されています

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鶏が雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」

イスラエルの歩みが神の前にどのようなものであったかということが、このキリストの嘆きの中に全て込められています。神は、ご自分から離れていこうとするイスラエルを何度も何度もあきらめずに集めようとして来られました。

旧約聖書には、預言者たちが神から言葉を預かってイスラエルに伝え続けたことが記されています。預言者たちは、「あなたがたは、神から離れてしまっている。神に立ち返れ」、と言い続けました。

しかし、そのことが、逆に預言者に対する迫害につながって来ました。神の言葉を伝えるということは、「あなたは神の御心から離れてしまっている」ということを警告することであり、批判することだからです。神の言葉は、誰にとっても耳に痛い言葉であり、自分こそ正しいと信じている人ほど不愉快になります。

今日私たちが読んだ場面でも、同じようなことが起こっています。旧約時代の預言者たちが支配者たちからされたのと同じように、キリストの使徒たちも迫害されます。

この時のユダヤの指導者たちはペトロとヨハネを危険視しました。二人は、神殿の門で物乞いをしていた足の悪い人をキリストの名前によって癒しました。民衆はそれを見て驚き、使徒たちの言葉に聞き入りました。

ペトロとヨハネは、旧約の預言者のように、人々にイエス・キリストへの立ち返りを求めました。

「神は全ての預言者の口を通して予告して来られたメシアの苦しみを、このようにして実現なさった、だから悔い改めて立ち返りなさい・・・あなたがたは預言者の子孫であり、神があなた方の先祖と結ばれた契約の子です」

4節には「二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が5千人ほどになった」とあります。二人は、たった一日で、これだけの人々に大きな影響を与えたのです。指導者たちは、神殿で死者の復活を語るペトロとヨハネの言葉に、民衆が熱心に耳を傾けていたことを危惧しました。

神殿守衛長とサドカイ派の人々は、神殿の境内で民衆に話すペトロとヨハネ捕らえて牢に入れた。そして牢に入れられた使徒たちは、最高法院の人たちと直接向き合うことになったのです。

議員、長老、律法学者、そして大祭司とその一族がペトロとヨハネの二人を取り囲み、「お前たちは何の権威によって、誰の名によってああいうことをしたのか」と尋問しました。

ユダヤの指導者たち・最高法院の人たちにとって神殿は自分たちの神殿だった。自分たちの支配の中で、ペトロとヨハネは勝手なことを人々に教えていたのです。指導者たちは、祭司だけが神殿の中心の至聖所に入ることが許される特別の権威をもっていると思っていました。それなのに、ペトロとヨハネは旧約時代の預言者たちのように、またイエス・キリストにように、神の権威をもって神殿で言葉を語りました。

ペトロとヨハネを逮捕したのは、サドカイ派の人たちでした。ユダヤ教の数ある派閥の中でも、サドカイ派の人たちは、死人の復活を信じていませんでした。ペトロとヨハネはエルサレム神殿で、十字架で殺され、「復活なさったナザレのイエスこそメシアである」と説いていたのを聞いて、見過ごすことが出来ませんでした。

逮捕され、最高法院の中で、「何の権威で・名でこんなことをしているのか」と尋問されたペトロは何のためらいもなく、「自分たちはイエス・キリストの名によって神殿で癒しを行い、キリストの名によって語っているのです」と告げました。

私たちはこのペトロの姿に驚くのではないでしょうか。ペトロとヨハネを取り囲んでいた最高法院の人たちは、主イエスに死刑を宣告した人たちです。

ペトロはこの人たちを恐れ、逃げました。最高法院の人たちが主イエスを裁判にかけている時、大祭司の屋敷の庭で「私はイエスなどという人は知らない」と三度否定しました。

キリストが逮捕されたあの夜逃げ出したあのペトロが、今最高法院の人たちの真ん中に立って、堂々とイエス・キリストを証しています。主イエスを見捨て、主イエスを知らないと言ったあのペトロとはまるで別人のようではないでしょうか。

何がペトロを変えたのでしょうか。

8節には「ペトロは聖霊に満たされて言った」とあります。

ペトロは聖霊によって変えられたのです。これは主イエスが以前弟子達におっしゃった通りです。

「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張っていく。それはあなたがたにとって証をする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」

キリストがおっしゃった通り、ペトロは最高法院の権威者たちに囲まれ、普通なら震えあがり、縮こまってしまうところを、堂々とキリストを証します。ペトロには、そして教会には、聖霊と共にキリストの証の言葉が与えられたのです。

キリストはこうもおっしゃいました。

「わたしの名のために、あなたがたは全ての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい」

旧約時代、預言者がそうだったように、私たち教会は神の言葉を伝えることで全ての人に憎まれます。キリストご自身がおっしゃったように、私たちはキリストの名のために全ての人に憎まれるのです。

しかし、キリストは、それでも「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。命を勝ち取りなさい」とおっしゃっています。私たちは自分を憎む人たちのためにとりなし、神の元へと招きます。そのための言葉は、聖霊が備えてくださるのです。

私たちは、今、キリストをこの世に証する群れとして生きています。キリスト教会は、自分たちの思いや熱心さによってできているのではありません。天から注がれた聖霊によって祈りが集められ、語るべき言葉をいただいて、今この瞬間を生きているのです。

さて、ペトロは最高法院の人たちに向かってはっきり言いました。イエス・キリストのことを「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です」

必要ないと思って捨てたものが、実は一番大切なものであり、そしてその捨てられたものから新しいものが生まれてくるという旧約聖書の言葉を引用して、痛烈に最高法院の人たちの信仰的な無知を指摘しています。「あなたがたが殺したイエスこそメシアだったのだ」ということを暗に告げているのです。

これに対して、13節には「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった」と記されています。

最高法院の人たちは驚いたでしょう。ペトロとヨハネが立派で有名な律法学者だった、というのであればわかります。しかし、この人たちはガリラヤの漁師で、聖書の専門家でもなく、むしろ、「無学な普通の人」だったのです。そんな二人が、最高法院の人たち、聖書の専門家たちに対して堂々とイエス・キリストを証しをしました。

パウロはコリント教会に、こう記している。

「兄弟たち、あなたがたが召された時のことを思い起こして見なさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や家柄の良いものが大変わったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学なもの・・・選ばれました。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです」

14節には「しかし、足を癒していただいた人がそばに立っているのを見ては、一言も言い返せなかった」とあります。聖霊は、証の言葉と一緒に、しるしも用意してくださいます。ペトロとヨハネの二人のキリストの使徒を前にして、最高法院という身分の一番高い人たちは黙るしかなかありませんでした。

教会には、言葉だけでなく、しるしも天から与えられています。そのことこそが、教会の強さなのです。

イエス・キリストが神殿で神の国の教えを説かれた時に、律法学者たちから質問をされました。「あなたは何の権威でこんなことをしているのか」

キリストの使徒たちも、神殿で神の言葉を語り、同じ質問をされました。「一体何の権威であんなことをしたのか」

「何の権威であなたはこんなことをしているのか」というのは、キリスト者である以上、いつの時代でも問われることなのです。私たちはその時に、言うべき言葉が天から添えられます。私たちの答えは決まっているのです。

「十字架にかけられて殺され、神が復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの権威によって今ここでそのキリストを証しています」

一回、一回の礼拝を通して、私たちは世に向かって証の姿を見せています。大いに聖霊に用いていただきましょう。私たちはキリストの名によって立たせていただき、歩ませていただき、生きることが許されているのです。キリストの名のために用いていただけるよう、聖霊に委ねて行きましょう。

6月5日ペンテコステ礼拝の案内

 次週ペンテコステ礼拝(6月5日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄4:1~14

 交読文:詩編9編14節~21節

 讃美歌:讃詠546番、15番、330番、452番、頌栄540番

【報告等】

◇6月4日(土) 10時より 役員会があります。

◇次週はペンテコステ礼拝となります。聖餐式があります。礼拝後愛餐会があります。どうぞご予定ください。ペンテコステ献金をお捧げください。

【牧師予定】

◇5月30日(月)~6月1日(水) 東京教区総会

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会  Continue reading

5月29日の説教要旨

使徒言行禄3:1~10

「ペトロは言った。『私には金や銀はないが、もっているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』」(3:6)

聖霊が注がれたキリストの使徒たちは、人々の前で不思議な業としるしを行い、「あなた方が十字架で殺したイエスこそ、メシア、救い主だったのだ」と伝えました。使徒たちの業を見、言葉を聞いた「全ての人に恐れが生じた」と聖書に記されています。人々は、聖霊によって新しくイエス・キリストという名前の元に集められた教会の中に、人間を超えた力の働きを見たのです。

今日私達は、ペンテコステに聖霊を注がれたキリストの弟子、ペトロとヨハネが神殿で施しを乞うていた足の悪い人に声をかけ、イエス・キリストのお名前によって癒した場面を読みました。

ペトロとヨハネがここで足の悪い人をキリストのお名前によって癒し、立てるようにしたことで、人々の間にまた「恐れ」が生じました。私たちは、信仰の業は、人々に本当に恐れるべきお方を示していくことである、ということを見せられているのではないでしょうか。

この日、ペトロとヨハネが、午後三時の祈りのために神殿に上って行きました。私たちはまず、このことに驚かされるのではないでしょうか。ペトロもヨハネも、イエス・キリストが逮捕される時にすぐにキリストを見捨てて逃げた人たちです。ペトロは、「ナザレのイエスなんて人は知らない」と否定までして、自分の身を守りました。主イエスが十字架で殺されたことで落胆し、自分たちにも害が及ぶのではないかと恐れ、一か所に集まって、誰にも見つからないように肩を寄せ合っていた弟子達です。

そんなペトロとヨハネが、聖霊を受けると部屋から出て、使徒としてイエス・キリストの復活を伝えるために堂々と外に出て、「あなたがたが殺したイエスこそ、メシアだったのだ」と伝え続けたのです。そして午後三時に、堂々とエルサレム神殿に通って祈りを捧げていたのです。あの弱かった弟子達が、です。

あの夜主イエスを見捨てたのとは別人のようになったペトロとヨハネの姿がここにあります。この人たちをここまで変えた力があった、ということ、そして彼らを変えたのと同じ力が私たちにも働いている、ということに私たち自身も、恐れを感じるのではないでしょうか。

さて、二人は、神殿の門のそばに座って、そこで神殿の境内に入っていく人たちに施しを乞うている人を見ました。その人は生まれながらに足の不自由な人でした。この人は、毎日、誰かにここまで運んできてもらって、自分が生きていくためのお金を人々に求めていました。

この人にとって、そのことが、「生きる」ということでした。神殿の門に座って施しを乞うこと、それがこの人にとって「生きる」ということであり、「生活する」ということだったのです。

この人が神殿に通っていたのは、祈るため・礼拝するためではありません。この人にとって神殿は、祈る場所ではなく、そこに入って行く人たちから施しを受けるための場所でした。

この人にとって、礼拝する、とか、祈る、という気持ちは他の人たちよりも希薄だったのではないでしょうか。それよりも、礼拝に行こうとする人たちから得る自分の生活費の方を考えていたでしょう。

その人の前にペトロとヨハネが立ちました。

「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『私たちを見なさい』と言った」とあります。二人はこの足の悪い人を「じっと見」ました。

そして、「私たちを見なさい」と言われたこの足の悪い人も、ペトロとヨハネを見つめ返しました。「何かもらえる」と期待したのでしょう。

しかし、ペトロは言いました。

「私たちには金や銀はない」

この一言は、足が悪い人を落胆させたのではないでしょうか。

「それでは一体なぜ『私達を見なさい』などと言うのか、何を期待すればいいのか・・・」

ペトロは続けてこう言いました。

「しかし、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」

ペトロは右手をとってこの人を立ち上がらせると、この人は踊りあがって立ち、歩き出した。この人は、金や銀よりも価値のあるものをキリストの使徒たちから与えられました。

ここに、私達は、この癒しの業の象徴的な意味を見ます。ペトロとヨハネは、この人に手を差し出して、「立ち上がらせた」とあるが、これは元の聖書では「起こした」という言葉がつかわれています。

これはイエス・キリストの復活に使われている言葉です。私たちは、立たされた人に、キリストの名前を知った者として新しい命に生き始める信仰者の姿を、ある意味では信仰者としての「復活」の姿を見るのです。

足が悪かった人がキリストの名前を知り、最初にしたことは何だったでしょうか。神殿に入る、ということでした。

今まで、この人にとって、神殿は他の人たちが入っていく場所でした。しかし、キリストを知った今、この人にとって神殿は、自分が行く場所、自分が礼拝する場所へと変わったのです。

キリストを知った人・キリストに出会った人がまず何をするか、それは礼拝です。真の神の元へと導かれたことを知り、祈るのです。そのことが、「新しい命を生きる」、ということでした。

足を癒された人はこれまで毎日神殿の門に来て、神殿に入ろうとする人たちから「施しを」もらおうとしていた、ということが3節に記されています。今までこの人が求めていたのは「施し」でした。

この「施し」というのは、聖書の元の言葉を見ると「憐み」という言葉です。この人が求めていたのは「憐み」だした。毎日、人からの「憐み」を求めて生きてきた人でした。そして人からの「憐み」というのは、「金や銀」でした。

そこに、キリストの使徒が来て、「金や銀に勝るもの、イエス・キリストのお名前をあげよう」と言います。この人はここで、神・キリストからの「憐み」をいただきました。

それは、この人が期待していたもの、人間からの「憐み」とは全く違うものでした。「人からの金や銀をもらって生きる者」から、「自分の足で礼拝へと向かう者」とされたのです。この人は、キリストの証人とされました。

ペトロは、金や銀に勝る価値のあるものをこの人に施しました。それは、イエス・キリストのお名前、「キリストの憐み」でした。キリストの名を知った人は、変えられます。「自分に目を向けてほしい」、と思っていた人が、「自分を通してキリストに目を向けてほしい」、という思いで生き始めるのです。

この出来事は、一人の人がキリストの名によって癒された、というだけで終わりませんでした。起こされたこの人自身が、神を讃美しながら、ペトロたちと一緒に境内に入って行きました。そして先に神殿の境内に入っていた人たちは、後から、この人が踊りながら入って来たのを見て、我を忘れるほど驚いたのです。

キリストの名前によって起こされたその人は、ただそこにいるだけで、キリストを証しする者となりました。

私達は、福音書に出てくるレギオンを思い出すことができると思います。

ある人が、悪霊の大群レギオンに取りつかれていました。イエス・キリストがその人の下にやって来て、その人をレギオンの支配から救いだされます。悪霊レギオンの支配から解放されたその人は、その地方一体を巡って、自分に起こったことを人々に伝えていきました。

自分がキリストに救われた者として生きる、そのことで、人々がイエス・キリストを知るようになったのです。これは、私達も同じことです。

私たちは自分の力でイエス・キリストに出会ったのではありません。キリストの方から来てくださいました。そしてキリストを受け入れた・・・それだけです。

聖霊の働きの中で、自分の力に勝るキリストの名前を知り、キリストの恵みの支配の中で生きる者とされたのであれば、後は、キリストを信じ、キリストを求めて生きればいいのです。それが、そのまま証の生活となります。

ペトロは神殿の境内で驚いている人たちに向かって、「なぜ驚くのですか」と言っています。「私達がやったのではない。神がなさったことだ」と言います。 Continue reading