9月11日の礼拝案内

次週礼拝(9月4日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄11:19~30

 交読文:詩編11編

 讃美歌:讃詠546番、52番、224番、500番、頌栄543番

【牧師予定】

◇9月19日(月)~25日(日) 夏休み

9月24日(土) 東京神学大学にて 「青年の集い」で証

9月25日(日) 三宅島伝道所:藤盛勇紀牧師による説教

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 Continue reading

9月4日の説教要旨

使徒言行禄10:34~48

「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」(10:34)

ペトロとコルネリウスが、神によって出会わされた場面を読んでいます。この二人の出会いは、先週もお話ししたように、「ユダヤ人と異邦人の出会い」であり、「ガリラヤの漁師とローマの百人隊長の出会い」であり、当時では考えられないようなものでした。

それは、人間には作り出すことのできない、民族・社会的な地位を超えて「神が創造された出会い」と言っていいでしょう。

神はなぜこの二人を出会わせられたのでしょうか。一つの大きな真理を示されるためでした。それをここでペトロが言い表しています。

「神は人を分け隔てなさらないことが、よくわかりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」

このペトロの言葉を読むと、「神は人を分け隔てなさる」という思いがあった、ということがわかります。当時のユダヤ人たちは「イスラエルの神は、ユダヤ人だけをご自分の民とされた。ユダヤ人でない人たち・異邦人を受け入れられることはない。神は、ユダヤ人を他の民族とは区別して特別に思ってくださっている」という思いを持っていたようです。

実際に出会った二人の様子を見ていきたいと思います。

ペトロを迎えたコルネリウスは言いました。

「よくおいでくださいました。今、私たちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」

謙遜なコルネリウスの姿です。コルネリウスは、神の言葉を聞こうとして、今「神の前にいる」と言いました。実際彼は、ペトロの前にいます。

しかし、神の言葉を自分に伝えるペトロを前にするということは、コルネリウスにとっては「神を前にする」ということだったのです。

旧約聖書のイザヤ書に、へりくだる者への神の祝福の言葉があります。

「高く、崇められて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。私は、高く、聖なるところに住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」

まさに、コルネリウスは、「へりくだる霊の人」でした。ガリラヤの漁師であったペトロを迎えて、ローマの百人隊長であったコルネリウスがひざまずいたのです。当時の社会背景を考えると、コルネリウスの方が、はるかに強い身分にありました。ここに異邦人コルネリウスの信仰の姿勢が表れています。

コルネリウスは、自分よりも身分が低くても、相手が神の言葉を聞かせてくれる人であるならば、預言者を受け入れるように、キリストを迎え入れるように、ひざまずくのです。

そして、ペトロは、その「へりくだる霊の人」コルネリウスと、その家族や親せきの上に、聖霊が注がれるのを見ました。異邦人の上に聖霊が降るのを見たのです。

ペンテコステにはエルサレムでユダヤ人に聖霊が降りました。そして今、エルサレムの外で、異邦人の町カイサリアで、ローマ兵の上に聖霊が注がれるのを見ました。エルサレムだから、とか、ユダヤ人だから、とかいうペトロが自分で勝手に作り上げていた神の民の輪郭が今、崩されました。場所や民族を超えて、神はご自分を求める信仰者に聖霊を注がれるのです。

申命記で、モーセがイスラエルの民にこう言っています。

「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく恐るべき神、人を偏り見ず、わいろを取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」

その人が何人で、どれぐらい社会的な身分が高いのか、などということを神はご覧になっていないのです。人を偏り見ることなく、神はお招きになっているのです。

この出会いを通して、ペトロは、「異邦人と自分との間に壁を作っていた」、ということを見せられました。

ユダヤ人と異邦人との間の壁は、教会の中でも長い間存在しました。ユダヤ人と異邦人の間に、割礼を受けている人と受けていない人の間に、社会的な地位が高い人と低い人の間に、・・・教会の中でも、「私は誰々につく」というような派閥が生まれていきました。

律法の中で、「神は人を偏り見ることはない」と言われているにも関わらず、ペトロの時代のユダヤ人たちは、ユダヤ人たちは神から特別に見られていると思い込んでしまっていたのです。このユダヤ人の意識は、後々まで教会の中に問題を残しました。キリストの使徒たちには、そのような偏見との闘いもあったのです。

パウロも、手紙の中でペトロと同じことを言っています。

「神は、人を分け隔てなさいません」

「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」です。

なぜ、キリストの元に集まった人たち、教会の群れの中でそのような壁や溝が出来てしまうのでしょうか。人はなかなか「自分と自分以外の人」という思いを捨てきれないのです。

ルカ福音書の中に、「放蕩息子のたとえ」と呼ばれるたとえ話があります。家を出て放蕩の限りを尽くしてから帰って来た放蕩息子を父親が迎え入れ、その父の許しを理解できない兄が怒った、という内容のたとえ話です。

これは、実際にあった話ではなく、たとえ話です。イエス・キリストは、神がどれほど御自分の元から離れた罪びとを求めていらっしゃるか・戻って来た罪びとを喜ばれるか、ということを伝えていらっしゃいます。

しかし、普通に読むと、兄の主張の方が正しく思えるでしょう。

「なぜ弟を赦すのか」と、兄は父親を非難します。弟が家を捨てた時点で、兄と弟の間に壁が出来ました。

それは兄にとっては、なくすべきではない壁だった。

しかし、父は「弟が戻ってきたことを喜ぶべきではないか」とその壁を取り去ろうとした。

私たちがこの「弟」の方に自分の姿を重ねた時、このたとえ話を理解することが出来ます。許される価値のない罪びとを、神は愛し、許し、天の国へと招いてくださる、ということを。

このたとえの中で一番理解できないのは、放蕩息子が帰ってきたことをここまで喜ぶ父親の許しでしょう。なぜ許したのか。なぜ喜んだのか。なぜ怒らなかったのか。その許しが、あまりに深いので、私たちには理解できないのです。

「赦す」、ということには痛みが伴います。本当は、父親は怒って放蕩息子に「許さない」と言った方が楽だったはずです。息子が自分にしたことを全て許し家に受け入れる、ということは、怒りを全て自分が飲み込む、ということであり、それは痛みを伴うことでした。

イエス・キリストの十字架の痛みは、まさに、その許しの痛みでした。ご自分に向かって「イエスを十字架に上げろ」と叫ぶ人たちの代わりに、御自分が痛みを担われたのです。ご自分を侮辱する人たちを赦すために、主は十字架で苦み、死なれました。

「どうしてそんな人たちを赦すのですか」と、私たちは思うのではないでしょうか。しかし、キリストはおっしゃいます。「私の十字架、私の痛みによって、罪びとが私の元へと戻ってくる。それは喜びではないか」

私たちはどのようにして神との間にある壁を、また隣人との間にある壁を除くことが出来るのでしょうか。イエス・キリストを知ることだ。共にキリストの元に立つしかありません。 Continue reading

9月4日の礼拝案内

 次週礼拝(9月4日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄10:34~48

 交読文:詩編11編

 讃美歌:讃詠546番、31番、243番、511番、頌栄543番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇9月3日(土)10時より 役員会があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

8月28日の説教要旨

使徒言行禄10:21~33

「今私たちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」(10:33)

使徒言行禄を読んでいると、教会は聖霊によって創造され、作られていった、ということがわかります。キリストの使徒たち、キリスト者たちが計画を立てて、「教会」と呼ばれるものを作っていったのではなく、聖霊がキリスト者たちに出会いを与え、人間には思いもよらない仕方で福音の広がりを創造していったのです。

預言書イザヤは、幻を見せられ、預言書の中でこう言っています。

「終わりの日に、主の神殿の山は、山々のかしらとして堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう』と」

イザヤは、平和が完成する「終わりの日」には、国々は「もはや戦うことを学ばない」と言います。

全ての民が、真の神に向かって一つになっていき、平和が完成に向かっていくこの歴史の中で、ペトロとコルネリウスの二人が出会わされました。それは終わりの日の平和の完成のための大切な一歩でした。

今日はキリストの使徒ペトロとローマの百人隊長コルネリウスが、聖霊の導きによって出会った、という場面を読みました。

コルネリウスはカイサリアの町で、ペトロはヤッファの町で、それぞれ神から幻を見せられます。コルネリウスは、「ヤッファに人を遣わしてペトロを招きなさい」と天使から告げられ、ペトロは「迎えに来た人たちと一緒に旅立ちなさい」と霊から告げられました。

先週も話しましたが、ペトロとコルネリウスの出会いは、当時の常識を踏まえると考えられないものでした。ユダヤ人と異邦人の出会いであり、ガリラヤの漁師とローマの百人隊長の出会いです。どう考えても、接点がないのです。

しかし、神は、この二人が出会い、イエス・キリストの下に信仰の友となることをお望みになりました。そしてこの出会いが、キリストの福音が異邦人へと広まっていくために、とても重要な意味を持つことになったのです。

今日私達が読んだ10章には、とても細かく、二人の出会いの様子が描かれています。

ヤッファにいたペトロにまず目を向けます。

コルネリウスが遣わした人が、ヤッファに着き、海岸にある革なめし職人シモンの家に来て、「ここにペトロという人が泊まっていますか」と尋ねました。

ペトロはたった今見せられたばかりの幻について考えていました。幻の中で、天から食べてはならない生き物が見せられ「こんなものは食べられない」と言うと、「神が清めた物を、あなたは清くないと言ってはならない」と言われたのです。

自分が考えてきた基準とは異なる、神の基準が示されたようでした。しかし、それが一体今の自分にとってどういう意味があるのか、と思案に暮れていたのです。

そこに、新たに霊の言葉が与えられました。

「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。私があの者たちをよこしたのだ」

これまでのペトロだったら、行かなかったのではないでしょうか。「外国人と交際したり、訪問したりすることは律法で禁じられている」、と信じていたのです。しかし、たった今、神から「神が清めたものを汚れていると、あなたは言ってはならない」と幻で言われたばかりでした。そして神ご自身が霊を通して「コルネリウスに会いに行きなさい」とおっしゃったのです。

ペトロは下に行って、コルネリウスの使者に会いました。そして、ローマの百人隊長コルネリウスがペトロを招くに至った次第を聞き、カイサリアに行ってコルネリウスに会うことを決断しました。

この使徒言行禄10章を読んで不思議なのは、この時、自分たちに今何が起こっているのか誰もわかっていない、ということです。コルネリウスは神が自分におっしゃったことに従い、ペトロを招いきました。ペトロは神がおっしゃったため、コルネリウスの使者と共にカイサリアへと旅立ちました。

しかし、コルネリウスも、ペトロも、なぜ自分が相手に会わなければならないか、告げられていなません。ただ、天使から、霊から「相手を招きなさい」「相手に会いに行きなさい」と言われただけです。何のために、相手に会うのか、会ったらどうなるのか、知らされないまま、二人はお互いに会おうとしています。

コルネリウスも、コルネリウスの使者も、ペトロも、ペトロと一緒に旅立ったヤッファのキリスト者たちも、誰も、次に何が起こるのかわかっていません。それでもただ、神がそうおっしゃったので、その言葉にそれぞれが従っていったのです。

ルカ福音書の5章に、こういう場面があります。

主イエスが、漁師であったペトロに、「沖に漕ぎだして網を下ろし、漁をしなさい」とおっしゃいました。ペトロは、「先生、私達は夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と答えました。経験を積んだ漁師ペトロが一晩中漁をしたのに、魚はかからなかったのです。体だけでなく、心も疲れていたでしょう。

しかし、ペトロは続けてこう言います。

「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」

すると、網が破れそうになるほどの魚がかかりました。そこでペトロは、このイエスという方に、自分の経験や知識に勝るものを見出しました。自分の考え方、基準に勝るものを見たのです。

ペトロは舟が沈みそうになるほどの魚を見て、主イエスの前にひれ伏した。

「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」

私たちは信仰の不思議を見ます。信仰というのは、不思議なものなのです。自分の期待通りになるとか、自分の将来が全部見えるようになるとか、そんなことではありません。祈りの中で、神の不思議が見せられる、ということです。神を信じたら必ずこうなる、などと言えることは一つもありません。

ペトロにしても、コルネリウスにしても、神の言葉は自分にそう告げている・・・「お言葉ですから」・・・彼らの信仰はそれでした。私たちの信仰も、このような従いではないか。

神がこうお求めになっているから・聖書は神の御心をこのように伝えているから、私たちはその言葉に信頼して自分をゆだねるのです。先に何があるか分からない、しかし、聖霊の導きに信頼して、自分の計画ではなく神のご計画を、その先で見せられるのです。

旧約聖書の士師記にマノアという人が出てきます。サムソンの父親です。子供が生まれなかったマノアの妻に、神は「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げられました。

マノアは、主のみ使いに尋ねました。「お名前はなんとおっしゃいますか」主のみ使いは、「なぜ私の名を訪ねるのか。それは不思議と言う」と答えました。

マノアは、「主、不思議なことをなさる方」に捧げものをした、と記されています。私たちにとって神は、「不思議なことをなさる方」なのです。

ペトロとコルネリウスの出会いも不思議だ。

コルネリウスも、ペトロも、昨日まで全く知らなかった者同士でした。

ここにいる私たちも、そうでしょう。同じ教会で礼拝を守り、同じみ言葉を聞いているのは、私たちが「こうしよう」と相談したからではありません。神が、この礼拝をおつくりになり、この礼拝の中に私たちを招き入れ、今この出会いが与えられているのです。

これからも神がお望みになるのであれば、この礼拝は続いていくでしょう。来週も、再来週も、ここに礼拝が創造されるでしょう。私たちは信仰を通して、神がなさる「不思議」を見せられているのです。 Continue reading

8月28日の礼拝案内

次週礼拝(8月28日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄10:21~33

 交読文:詩編10編8節~18節

 讃美歌:讃詠546番、30番、262番、280番、頌栄542番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

8月21日の説教要旨

使徒言行禄9:43~10:20

「『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』」(10:15)

使徒言行禄は、いろんな人に焦点を当て、それぞれの人がどのようにイエス・キリストの福音を伝えて行ったのか、ということを記録しています。復活のキリストに出会った弟子達、弟子達と一緒に祈った人たち、弟子達が伝えたキリストの十字架と復活を知って教会に加わった人たち・・・ペトロ、ステファノ、パウロ、フィリポなど、いろんな人がいろんな場所でイエス・キリストの復活を証言していきました。

使徒言行禄を読んでわかるのは、一人一人の使徒たちが綿密に福音宣教の計画を立て、その計画が実現していったのではない、ということです。使徒たちや、時には教会の迫害者、また迫害によってエルサレムから追い散らされたキリスト者たちに不思議な出会いが与えられ、イエス・キリストの復活を信じる人が増えていったことが記されている。

私達は、福音の広がりは大きな聖霊の力によって導かれていた、ということを知るのです。

今日私たちが読んだのも、そのことがわかる場面です。

神の導きによって、ガリラヤの漁師であったユダヤ人ペトロと、ローマの百人隊長コルネリウスが出会わされることになるのです。この二人が出会うということは、普通では考えられないことでした。

この後、ペトロ自身が言っていますが、「ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられている」、と考えられていたのです。ユダヤ人が、イスラエルの神を知らない異邦人と接触すると、自分たちの信仰が悪い影響を受けてしまう、と思っていたようです。

しかし、これからペトロは神に導かれてコルネリウスに会うことになります。そして、コルネリウスをはじめとする異邦人の上に聖霊が降るのを見ます。ペトロは、「神は、人を分け隔てなさらない」ということを見せられることになるのです。

ペトロとコルネリウスの出会いは、後のキリスト教会にとってとても重要な意味を持つことになりました。神は、ユダヤ人だけでなく、異邦人も、つまり、この世界の全ての人をご自分の元へと集めようとなさっていることが教会に示されたのです。

二人がどのように出会ったのか、見て行きましょう。

ペトロはエルサレムを出て方々を巡り、リダ、ヤッファと導かれて来ました。彼は、「ヤッファの革なめし職人の家に滞在していた」、とあります。方々を歩き廻って来たペトロでしたが、今はヤッファに留まって、神が自分に次の場所を示してくださるのを待っていました。

革なめし職人の家は、どうしても臭いを出してしまうので、普通は町はずれに建てられます。ヤッファは港町だったので、皮なめし職人の家は海岸にありました。

今、ペトロは、地中海にいます。ガリラヤの漁師だったペトロは、キリストから「あなたを人間をとる漁師にしよう」と言われて弟子になりました。ガリラヤ湖で漁師をしていたペトロが、今、人間をとる漁師へと変えられ、地中海へとやってきました。

小さなガリラヤ湖から、大きな地中海へ・・・ペトロを通して、キリストの福音が新しく広い世界へと広がっていこうとしていることを暗示しています。

ペトロがヤッファに滞在していた時、海沿いのずっと北にあるカイサリアにローマの百人隊長コルネリウスがいました。カイサリアは、ユダヤ地方を治めるローマの総督が普段いる町なので、ローマの軍隊も駐屯していました。カイサリアは貿易港でもあり、いろんな国の人がいた町です。

そのような街にあって、コルネリウスは、「信仰あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」ような人でした。「神を畏れていた人」というのは、イスラエルの神を畏れ、信じていた人、ということです。コルネリウスのは一家そろって、ローマ人でありながら、ユダヤ人たちが信じているイスラエルの神を信じ、信仰者たちを援助していました。

彼は、毎日午後3時に祈っていました。その祈りの中で、コルネリウスは神から幻を見せられます。主の天使が自分の目の前に立って、「ヤッファにいるペトロを招きなさい」と言うのです。コルネリウスこの幻を信仰をもって受け止め、疑うことなく、会ったこともない、顔も知らない、そして本当にそこに居るかどうかわからないペトロという人の元へと自分の部下をヤッファに送りました。

ペトロは、もちろん、遠く離れたカイサリアで、ローマの百人隊長が自分を求めているなどということは知りません。ペトロはただ、ヤッファにいて、次に自分が示される神の導きを待っていただけです。

イエス・キリストは、弟子達にこうおっしゃったことがあります。

「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」

蒔かれた種が、農夫・人間の知らないところで、土の中で、夜も昼も成長していく様子を、神の国の成長、福音の広がりになぞらえていらっしゃいます。

私たちは、「種を蒔けば芽が出て実がなる」、などということは当たり前すぎて普段はあまり考えないのではないでしょうか。しかし、こんなに不思議なことはないのです。なぜあの小さな種から、土と水によって我々人間の命を、生活を支えるほどの実がなるのでしょうか。そこには人間の力を超えた自然の営みが、神の創造の御業があります。

私たち、神の国がどのように実現していくかわかりません。種を土に蒔いたら芽が出て多くの実を結ぶ、ということが神秘であるように、福音がなぜ広がるのか、なぜ人がキリストを信じるようになるのか、私達には説明できないのです。

聖書は教会のことを、「神の畑」と言っています。福音の種がまかれ、それが神の御業によって、人間には見えない仕方で成長していくのです。

この時のペトロを見ればわかります。自分にまさか起こるはずがない、というようなことが、自分の知らないところで進んでいました。ローマの百人隊長が、ガリラヤの漁師である自分を招こうとしていたのです。

次は、ペトロの番でした。昼の12時ごろに屋上で祈っていたペトロは空腹を覚えました。ペトロにも幻が見せられました。聖書で「食べてはいけない」、と言われている生き物が入った入れ物が天から降りてきたのです。

幻の中でペトロは天からの声を聞きました。

「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」

しかしペトロは「主よ、私は汚れたものは食べません」と答えます。

それに対して神は「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない」とおっしゃいました。

ペトロは、幻の中で三度、このやり取りを繰り返しました。

ペトロは思案に暮れた。

「今見た幻は一体何だろうか」

神は、「神が清めた物を、清くないなどと、『あなたは』言ってはならない」とおっしゃっいました。「人間であるあなたが決めることではない、神である私が決めることだ」ということでしょう。

ペトロが、幻の意味を考えているところに、コルネリウスからの使者が到着しました。先ほども言ったように、ペトロにとって、異邦人と会うことは「けがれる」ことでした。それに、自分を迫害しに来た兵士かもしれません。本当は会いたくなかったでしょう。

しかし、そのペトロに聖霊が告げました。「ためらわないで一緒に出発しなさい。私があの者たちをよこしたのだ」

祈りの中で見せられた幻がなかったら、ペトロはコルネリウスからの三人の使者に会わなかったのではないでしょうか。それが神から与えられた出会い・導きだとはわからなかったでしょう。

私たちは今日、神が、二人が出会うように導かれた、という場面を見ました。ローマの百人隊長であったコルネリウスと、ガリラヤの漁師でありキリストの使徒であったペトロ、二人それぞれに神が幻をお見せになり、出会いを準備されました。

コルネリウスとペトロに共通しているのは、祈りの中で神の導きが示された、ということです。神の導きは、信仰者の祈りの中で見せられるのです。 Continue reading

8月21日の礼拝案内

次週礼拝(8月21日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄9:43~10:20

 交読文:詩編10編8節~18節

 讃美歌:讃詠546番、28番、164番、501番、頌栄542番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

8月14日の説教要旨

使徒言行禄9:31~43

「アイネア、イエス・キリストが癒してくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」(9:34)

先週まで、私達は、サウロという教会の迫害者がキリストの使徒とされた、という場面を読みました。今日読んだところでは、聖書はまたキリストの一番弟子であるペトロの働きへと目を向けています。

使徒言行禄には、教会がどのように始まり、成長していったのか、ということが記録されています。

復活なさったイエス・キリストは、「あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」と、弟子達におっしゃいました。イエス・キリストの復活と昇天を見た弟子達、信仰者たちは、その言葉を信じて祈り続け、その祈りの群れの上に、ペンテコステの日に聖霊が注がれ、キリスト者の群れ・教会が作られました。

人々は使徒たちのキリスト証言を聞いて驚き、自分たちがメシアを十字架で殺したということを知り、罪を悔い改めて洗礼を受け、教会の群へと加わり、教会はとても大きな群れに成長しました。しかし、すぐに、エルサレムにいたキリスト者たちは、迫害され、エルサレムの都から追い散らされることになります。

エルサレムからキリスト者がいなくなってしまった・・・普通ならそこで福音宣教は終わるはずです。教会は、いいところまで成長したが、結局、バラバラに解体されてしまった、ということで終わるでしょう。

しかし、使徒言行禄は、迫害を超えて働く聖霊の導きを記録しています。迫害さえ用いて、聖霊の働きは続くのです。エルサレムから追い散らされたキリスト者たちは、自分が逃げた先で、キリストを証ししていきました。皆、イエス・キリストの出来事を黙ってはいられなかったのです。

キリストの使徒、フィリポはサマリアに行き、そこでキリスト者の群れを作りました。その後、エチオピア人の高官に、ナザレのイエスこそ、イザヤ書で預言されている苦難の僕、受難のメシアであることを伝えました。

キリスト者を迫害したサウロは聖霊に導かれ、キリスト者へと変えられた。

預言者イザヤはこう言っています。

「私の思いは、あなたたちの思いと異なり、私の道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、私の道は、あなたたちの道を、私の思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」

聖書に記録されている教会の成長は、まさにイザヤが預言している通り、人間の思いを超えています。エルサレムの教会が迫害され、無くなってしまったことで、逆に福音が広がるなどと、誰が予想したでしょうか。教会を迫害する人が、たった三日で教会のために働き、教会と共に迫害を受けるようになるなど、誰が考えたでしょうか。

イエス・キリストがおっしゃったように、ユダヤ、サマリアだけでなく、まさに「地の果て」まで、使徒たちは聖霊の不思議な導きによってキリストの証人として遣わされていくのです。

使徒言行禄は、使徒たちが考えた宣教計画が次々に成功した、ということが書かれているのではありません。使徒たちが、自分たちが「あそこに行こう、あの人に会おう」と自分たちで計画を立てて、福音を広めた、ということではないのです。使徒たちが聖霊に導かれ、自分の力を超えた神の計画が実現していく様を見せられていったということが記録されているのです。行く場所も、会うべき人も、使徒たちは全て聖霊から示された・与えられた、という記録なのです。

サマリアで宣教し、エチオピア人にキリストを伝えたフィリポにしても、教会を迫害したサウロに会いに行くよう導かれたアナニアにしても、リダやヤッファへと導かれたペトロにしても、実は、誰一人、自分が行こうと思っていた場所に行った人はいません。

使徒たちが、教会が、キリスト者が持っているイエス・キリストの名前が、迫害から逃げるキリスト者と共に広まっていった、ということに、私たちは神のご計画の深さを見ます。そしてその聖霊の導きが、私たちの思いを高く超えた神のご計画の中で今も教会に働いている、ということを覚えたいのです。

使徒言行禄の使徒たちの姿、教会に与えられる救いの御業を通して、自分たちを導く聖霊の力を見ていきましょう。

さて、今日私たちが見たのは、ペトロです。

ペトロはエルサレムの外に出て行き、地中海の沿岸地域へと歩いていき、キリスト者の共同体の中で癒しと復活の業を行っていました。

方々をめぐり歩き、リダという町にいたキリスト者たちのところに行きます。そこで癒しを行い、アイネアという寝たきりの女性を立ち上がらせました。それを見聞きしたリダとシャロンに住む人たちは「主に立ち返った」、とあります。

更に、ヤッファの町のキリスト者が、リダにペトロがいることを聞いて、人を送り「急いで私たちのところへ来てください」と頼みました。これは、「ためらわずに私たちのところに来てください」という言葉です。

実際のところ、ペトロには、ヤッファに行くことにはためらいがあっただろう。ペトロは、もともとは、ガリラヤの漁師でした。ユダヤ地方の北にサマリア地方があり、ガリラヤ地方は、更にその北です。

ヤッファは、ユダヤの中心のエルサレムから西へ行ったところにある海沿いの町だ。もうここまで行くと、はるか北のガリラヤ湖で漁師をしていたペトロにとっては、未知の地域です。

今日私たちが読んだところに出てくるリダ、シャロン、ヤッファという地名は、いろいろな意味において、「端っこ」にある町々でした。

リダは、ユダヤの丘陵地の一番端にある町です。

シャロンはヤッファとカイサリアの間にある森林地域。

そしてヤッファは地中海沿岸の港町、つまり、陸の端っこでした。

ペトロにしてみれば、ガリラヤで漁師をしていた自分が、まさかを訪れることになるなどとは思ってもみなかったような町々なのです。ヤッファはユダヤ地方でありながら、ギリシャ・ローマ世界の影響が色濃く、ギリシャ人が多く住んでいたので、外国に来たような感じを覚えたでしょう。

なぜペトロはそんな町々に赴いたのか・・・ペトロが綿密に計画を立てて行ったことではありません。ペトロは次々と行く場所が示され、そこでなすべき業が示されていったのです。目に見えない導きによって、自分の意に反して、どんどん見知らぬ場所へと運ばれていったのです。

そしてそのことによって、イエス・キリストのお名前が、ペトロの思ってもみなかった仕方で広まっていったのです。

ペトロは自分の足で方々を歩き、イエス・キリストのお名前を伝えました。ペトロがしたことは、イエス・キリストご自身がなさったことでした。神の国を求める人のところに、神の国を届ける、キリストを求める人のところに、キリストの名を届ける、という宣教の旅です。

ペトロは、リダの町でアイネアを癒す際、こう言っています。

「アイネア、イエス・キリストが癒してくださる。起きなさい」

「私が癒してあげよう」と言ったのではありません。

「イエス・キリストが癒してくださる」と言ったのです。

ペトロはただ、イエス・キリストのお名前をそこへと運んだだけでした。アイネアはペトロが口にした「イエス・キリスト」というお名前によって癒され、人々は、そこにキリストの臨在を見ました。人々はその業の中にイエス・キリストを見て、ペトロが告げる福音は真実だと知って、神へと立ち返ったのです。

イエス・キリストは、ガリラヤで弟子達を宣教へとお遣わしになったことがあります。その際、弟子達に。悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能をお授けになって、あとは、「何も持たずに行け」とおっしゃいました。

ペトロは今、あのガリラヤ宣教と同じことをしています。ペトロは何も持っていないのです。持っていたのは、キリストのお名前だけでした。

ペトロが癒しを通して示したのは、「キリストがあなたのところに今来られている」「キリストはあなたを求めていらっしゃる」ということでした。キリスト者がキリストのお名前を大切に抱いてその場に生きる、ということがどれだけ大きな意味をもっているか、私たちは学ぶことが出来るのではないでしょうか。 Continue reading

8月14日の礼拝案内

 次週礼拝(8月14日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄9:31~43

 交読文:詩編10編8節~18節

 讃美歌:讃詠546番、27番、393番、331番、頌栄542番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

8月7日の説教要旨

使徒言行禄9:19~31

「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」(9:26)

誰よりも熱心に教会を迫害したサウロは、復活のイエス・キリストによって目を見えなくされました。その三日後、神に遣わされたアナニアから「あなたの目が見るようになるように、あなたが聖霊で満たされるように」と言われると、サウロの目は見えるようになりました。サウロは、ナザレのイエスがキリストであること、そして、キリストは本当に復活なさった、ということを知り、身を起こして洗礼を受け、自分もキリスト者となりました。

私たちはこれから、イエス・キリストを信じ、キリスト者となったサウロがどのように変わったのか、使徒言行禄を通して見ていくことになります。彼はすぐにあちこちの会堂で「イエスこそ神の子である」と宣べ伝え始めました。自分がやってきたことを恥じて、誰にも知られず身を隠した、というのではありません。三日前まで、「イエスは神の子だ、イエスはキリストだ」と言う人たちを迫害していた人が、キリスト者と同じことを言い始めたのです。

このサウロの変わり身を見て、彼を知っている人たちは当然皆驚きました。サウロがエルサレムからダマスコにやって来たのは、キリスト者迫害のためでした。その迫害者が、たった三日間で、迫害する側から迫害される側に身を置いたのです。

サウロは、ユダヤ人からも、キリスト者たちからも驚かれ、そして不信感を抱かれました。キリスト者を迫害していたユダヤ人たちからすれば、サウロは裏切り者です。

結局、以前は仲間だったユダヤ人たちから殺意を抱かれるようになってしまいました。サウロは、自分の弟子達に助けられて、夜の間にかごに載せられて町の城壁伝いにつり下ろされ難を逃れました。

サウロは、後に自分の手紙の中でもこの時のことを書いています。

「ダマスコでアレタ王の代官が、私を捕えようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていた時、私は、窓からかごで城壁づたいに下ろされて、彼の手を逃れたのでした」

教会を迫害する者が、教会と共に迫害される者へと変わり、夜、町から命からがら逃げるようなことになっても、イエス・キリストへの信仰を捨てませんでした。私たちは、このサウロに起こった変化を通して、イエス・キリストの復活という事実が、これほど人を変える力をもっている、ということを知ります。

私達も今、キリストの復活を信じて、この礼拝の中に身を置いています。サウロのように、劇的ではないかもしれませんが、私達は、どこかで復活のキリストと出会い、確信し、そして今、礼拝を捧げる者として生きるようにされて、今があります。

私たちは、人々を驚かせたこのサウロの変化を通して、キリストとの出会い・キリスト信仰がどれほど人を変えることになるのか、また人の人生にどれほど意味をもたらすものとなるのかを見ていきたいと思います。

サウロは、後にガラテヤの信徒の手紙の中で、キリストに出会う前の自分について、こう書いています。

「あなたがたは、私がかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。私は、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年頃の多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」

サウロは、以前の自分のことを「熱心」だった、と言っています。神が望まれることをしよう、という熱心さを「誰よりも強く持っている」、という自負をもっていました。それは神に反している人たちを迫害し、滅ぼそうというほどの熱心さでした。

しかし、サウロは、復活のイエス・キリストと出会い、以前自分が持っていた「熱心さ」が誤ったものであることを知ります。彼は、自分を誇ることに熱心でした。

サウロは、以前の自分のことを「イスラエルの中のイスラエル、ヘブライ人の中のヘブライ人であり、律法に関しては非の打ちどころのない者だった」、と手紙の中で書いています。しかし、復活のキリストに出会い、「キリストを知るあまりのすばらしさに、自分を誇ることをやめた」、と言うのです。

サウロは、キリストに出会ってから、自分を誇ることをやめ、キリストを自分の誇りとするようになりました。キリストとの出会いは、そのように人を変えていくのです。

旧約聖書の創世記に、ヤコブという人が出てきます。

兄のエサウから長子の権利を奪い、更に、エサウが受けるはずだった祝福までだまし取った人です。兄エサウの怒りをかったヤコブは逃げました。

別の土地に逃げたヤコブは、妻を娶り、やがてエサウのいる故郷に帰ることになります。ヤコブは兄の怒りを恐れていたので、隊列の一番後ろから進みました。自分の身を守ろうと一番安全だと思われるところにいたのです。

いよいよ明日エサウに再会する、という日の夜、ヤコブの前に神が現れました。そしてヤコブは神と一晩中格闘しました。

二人は朝まで戦い、神はヤコブに「もう放してくれ」とおっしゃいます。しかし、ヤコブは、「私を祝福してくださるまでは放しません」と言いました。神はその場でヤコブを祝福され、「あなたは神と戦った。これからはイスラエルと名乗りなさい」と言われます。

イスラエルとなったヤコブは、変わりました。翌日、群れの一番後ろにいた彼は、先頭に立って、エサウの前に進み出たのです。ヤコブは兄エサウとの再会を果たし、兄弟は和解しました。ここからイスラエルという神の民が始まっていくことになります。

このヤコブの物語は、実は信仰者一人一人の物語なのです。「イスラエル」という言葉には、「神と戦う者」という意味があります。ヤコブは神と戦ってイスラエルとなりました。群れの一番後ろにいたヤコブは、イスラエルとなって群れの先頭に立ちました。

サウロも、イエス・キリストと戦って、キリスト者となり、教会を迫害する者から、教会のために戦う者となりました。

信仰者は、ヤコブやサウロが変えられた姿をして、神との出会い・キリストとの出会いを通して変えられた自分を顧みることが出来るのではないでしょうか。私たちも、聖書を読んだり、神に向かって祈ったりする中で、信仰の戦いがあったでしょう。「ここに書かれていることは本当だろうか。キリストを信じようとしても自分にはいいことなど起こらないではないか」と、誰もが思ったことがあるでしょう。

しかし、それでも、私たちは聖書の言葉を求め続けます。ヤコブが神と格闘したように、私たちも祈りを通して、キリストと戦うのです。「主よなぜですか」、「キリストは本当に共にいてくださるのですか」、そう言ってぶつかっていきます。それでいいのです。

サウロは、目が見えなくなった三日間、自分のそれまでの間違った熱心さを振り返り、また自分に語り掛けてきたナザレのイエスとの内なる対話を続けたでしょう。罪なる自分との決別のため、また新しくキリスト者として生きるため、誰でももがく時間が必要なのです。そして、キリストに身をゆだねた時、キリストが自分を片時も見放さず導いてくださっていたことを知るのです。

サウロは、ユダヤ人たちからも、キリスト者たちからも、不信に思われました。そのサウロを、エルサレムの教会へと仲介した人がいました。バルナバという人です。

聖書には、こう書かれている。

「バルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語り掛けられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。」

しかし、エルサレムのキリスト者たちは、誰もサウロを受け入れようとしませんでした。あれだけ教会を迫害したサウロなのだから、キリスト者になったふりをして、自分たちをそうやって騙そうとしているのではないか、と疑っていたのかもしれません。

「しかし」バルナバはサウロを信じました。彼をエルサレム教会へと連れて行き、サウロがイエス・キリストと出会い、どのように変わったのかを伝え、執成しました。

サウロが後に記した手紙と合わせて考えると、バルナバは、サウロがキリストに召されてから17年後に、サウロを迎えに行き、エルサレムに連れて行った、と推測できる。サウロは17年間、一人でキリストを伝え続けていたということだ。そしてバルナバは、サウロのことを17年間、覚えていたということです。

私達は、このバルナバがしたことの意味に目を向けたいと思います。もし、バルナバがサウロを信じなかったとしたら、また、サウロという人を忘れてしまったとしたら、どうだっただろうか。

後のパウロの福音宣教はなかったでしょう。キリストの福音がエルサレム周辺から、アジア大陸からヨーロッパ大陸へと渡り、あんなに短期間に広まっていくことはなかっただろう。

このバルナバとサウロのことを考える時、私達は自分がキリスト者になった時のことを思い返すことが出来ます。必ず、自分を聖書へと、教会へと導いた誰かがいたはず、もしくは、何かがあったはずです。

自分一人で聖書を手に取るところから、その自分を教会へと執り成し、そして時間をかけてイエス・キリストの名による洗礼へと導いた存在があったはずです。牧師だったかもしれない、キリスト者の友人だったかもしれない、家族だったかもしれない、何かの本を読んで、ということだったかもしれない・・・とにかく、教会と自分を結び付けてくれた、キリストと自分を結び付けてくれた仲介者がいたはずです。

それは決して偶然ではないのです。自分が教会へとキリストへと向かう道の上に、神が仲介者を、導き手を備えてくださっていたのです。 Continue reading