4月24日の礼拝案内

 次週礼拝(4月24日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ルカ福音書24:13~25

 交読文:詩編9編2節~7節

 讃美歌:讃詠546番、9番、151番、522番、頌栄544番

【報告等】

◇4月23日(土) 10時より三宅島伝道所総会があります。現住陪餐会員の方はご出席ください。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日になっています。10時~17時まで伝道所におります。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

4月17日イースター礼拝の説教要旨

マルコ福音書16:1~8

「彼女たちは、『だれが仮名の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。」(16:3)

イエス・キリストが十字架で殺されたのは金曜日でした。それから三日目の朝、つまり、日曜日の朝、数人の女性が主イエスが葬られた墓に向かって歩いていました。主イエスの遺体に香油を塗ろうとしていたのです。彼女たちは、そこで、空になった主イエスの墓を見ることになりました。

イエス・キリストの証言をまとめて編纂された4つの福音書にはすべて、この朝のことが記録されています。この朝、確かに十字架で殺されたはずのイエス・キリストの墓が空になった、ということ、それが決定的な事実として報告されているのです。

この朝、ナザレのイエスの墓が空になっていた、ということが、後のキリスト教会の信仰の基盤となりました。死者が復活した、という信じがたいことが・・・いや、信じる方がおかしいようなことが、教会の信仰の基盤となったのです。

後に、使徒パウロがコリント教会にこう書いています。

「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたのある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」

確かに、死人が蘇ったということは、誰にとっても信じがたいことです。後のキリスト教会の中にも、キリストの復活を疑う人が出始めていました。

しかし、パウロは言うのです。

「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」

この日の朝起こったことを忘れないために、キリスト教会は毎週日曜日の朝に礼拝を捧げています。私たちはイースターの今日、改めて私たちの信仰の根拠は何か、そして信仰の希望は一体どこにあるのか、ということを確かめたいと思います。

キリストの復活という奇跡を目撃したのは、数人の女性たちでした。この朝、女性たちは驚きました。こんなことになるとは思ってもいなかったからです。

「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合いながら墓へと向かった、と書かれている。

彼女たちは、墓が石で墓が塞がれている、ということを知っていました。つまり、墓に行っても仕方がない、ということを知っていながら、墓に向かっていました。香油を買って、主イエスの遺体を清めようとしてもその墓には入れない、ということは分かった上で、それでも行ったのだ。

この時の女性たちにとって大事なことは、石をどけることができるかどうか、ではなく、主イエスに近づく、ということでした。無駄だと分かっていても、主イエスの墓に向かわざるを得なかった、主イエスを求めざるを得なかったのです。

私たちはこの朝の女性たちに、信仰の姿勢を見ます。女性たちは「解決策」をもってキリストの墓に向かったのではありませんでした。「どうしようか」と言いながらも、ただキリストを求め、近づき、その先で彼女たちは思いもよらなかった道を示されたのです。

「墓」は、私たち肉なる存在にとっては終着点です。いずれ行きつく「絶望」のように、その先には何もない「行き止まり」のように考えられています。しかし、キリストの墓は終着点ではなく、新しい出発点でした。この方の空の墓は、新しい希望の始まりとして私たちに示されています。

私たちは、確証をもってキリストを求めるのではありません。私たちには、どかすことのできない石があります。どうにも背負えない重荷があります。それでもキリストに近づく、いや、それだからキリストに近づくのです。そして、キリストを求め、近づいた先で、私たちには考えが及びもしなかった神の御業が用意されているのを見見せられます。そうやって、私たちも、この女性たちのように信仰の証人にされていくのです。そのようにして「主は生きておられる、アーメン」という祈りへの導き入れられるのです。

この女性たちは、三日前の金曜日の午後、ゴルゴタの丘にいました。そこで確かに主イエスが十字架で息を引き取られたのを見ました。その夕方、アリマタヤのヨセフによって新しい墓に埋葬されたのを見ました。そしてこの日曜日の朝、女性たちは墓が空になっているのを見ました。

この人たちは、キリストを助けるために何かをした人たちではありません。この女性たちは、ただ、イエス・キリストを見続けた人たちでした。ただ、殺されるキリストを遠くから眺める以外、何もできなかった、無力な人たちでした。

しかし、この人たちが、キリストの死と復活の証人として神に選ばれたのです。

墓の中にいた天使の伝言を受け取り、キリストの弟子達に伝えたのはこの女性たちでした。キリストの十字架の死と復活の証人として、そして天使の言葉を受け取り、運ぶ預言者として彼女たちは、確かに神によって用いられました。

空っぽになった墓の中で、女性たちは、天使から主イエスが蘇られたこと、ガリラヤで弟子達を待っていらっしゃる、ということを告げられます。聖書には、女性たちがそこから逃げ去り、「震えあがって正気を失い、誰にも何も言わなかった」、とある。あまりの恐ろしさに、何も言わなかった、というのです。

マルコ福音書の本編は、そこで終わっています。

しかし実際には、彼女たちは、黙ったままではなかったのでしょう。黙ったままではいられなかったのです。女性たちはこの朝見たことを弟子達に、人々に伝えていきました。彼女たちの証言によって、弟子達は再び集まって祈るようになり、その祈りに聖霊が与えられることになります。

私たちは、この女性たちの姿を通して、「恐れを伴う信仰」ということを考えさせられます。福音を信じるというのは、実は「恐れるべき方を知る」ということではないでしょうか。畏れを伴わない信仰に、死を超えた喜びはありません。女性たちは、この墓の中で、死に勝るものを見たのです。墓を出て逃げ去るほどの恐れを感じました。震えあがって正気を失うほどの恐れです。

空っぽの墓に立って、天使から声をかけられて逃げ出した、この女性たちの恐れから私達の信仰は始まっています。そうであれば、私たちの信仰には恐れが伴うは当然でしょう。なんとなく信じていれば自分にいいことが起こるのではないかと期待して祈ったりするようなものではありません。信仰を通して、私たちは死を超えたものが見せられます。それは、私達の体が打ち震えるほどの希望なのです。

さて、女性たちが墓の中で天使から聞かされたのは、主イエスが以前弟子達におっしゃったことでした。

「私は復活したのち、あなたがたより先にガリラヤへ行く」

弟子達は初めにこう言われた時、この言葉が耳に入りませんでした。「君たちは私を見捨てて逃げるだろう」と言われたので、「そんなことはありません」と言うのに必死だったのです。

この日曜日の朝、弟子達はどこにいたのでしょうか。主イエスから離れ、イエスの弟子である自分はこれからどうなるのかという不安と、本当に自分は主イエスを見捨てて逃げてしまった、という苦しみの中にいました。

弟子達は、天使から言葉を受けた女性たちを通して、もう一度キリストの許しと招きの言葉を聞くことになります。

主イエスと一緒に旅をしていた時、弟子達の心を占めてたのは、「自分たちの中で誰が一番偉いのだろう」ということでした。弟子達は自分のことばかり考えていたのです。

だから、主イエスの言葉を聞けていませんでした。自分に都合のいい言葉ばかりを選別して聞こうとしていました。

自分に都合のいい言葉ばかりを求めて神の言葉を締め出してしまう人には神の言葉は聞こえてきません。自分の中から雑音が消えた時に福音は聞こえるのです。

「あの方はあなたが戻って来ることを待っていらっしゃる。あの方は罪びともう一度迎え入れてくださる」・・・世界の初め、闇の中に「光あれ」と神の声が響いたように、「あなたの命は闇の中では終わらない、光の元へと立ち返れ」という福音が与えられることになります。

天使は、「弟子達とペトロに伝えなさい」と特にペトロ名前を出しました。なぜ特別にペトロなのでしょうか。主イエスを見捨てて逃げただけでなく、三度否定してしまった、弟子達の中でも一番信仰の痛みを感じた人だったからでしょう。

ペトロは一番強い気持ちを持って、誰よりも最後まで近くに従っていきました。そしてそこで誰よりも強く主イエスのことを否定してしまいます。

信仰をもってキリストを求めれば求めるほど、自分の弱さがどんどん見えてきます。それでも主イエスは、「自分の十字架を背負って私に従いなさい」と厳しくおっしゃいます。「私の弟子というだけで君たちは迫害される」とおっしゃり、「あなたがたには世で苦難がある」ともおっしゃいました。

その通りでしょう。ペトロはその言葉通り、信仰の痛みを知りました。だからこそ、キリストは特にペトロの名前を呼んでお招きになったのです。信仰ゆえの痛みを感じる人こそ、キリストの慰めの言葉が向かいます。

「重荷を負うて苦労している者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう」

「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」

神の国の宣教を、今度は許しの言葉を与えられた彼らが、原点であるガリラヤから始めていきます。弟子達は試練を潜り抜けたのです。弟子達がはじめになすべきことは復活の主に会いに行くことでした。

信仰者がまずなすべきことは、いつでも、復活の主のもとに立ち返ることです。あの朝の女性たちや弟子達のように。そこから、新しい道が始まります。

4月17日イースター礼拝のご案内

次週礼拝(4月17日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書16:1~8

 交読文:詩編9編2節~7節

 讃美歌:讃詠546番、8番、146番、154番、頌栄544番

【報告等】

◇次週はイースター礼拝です。聖餐式があります。礼拝後、愛餐会をもちます。

◇4月23日(土) 10時より三宅島伝道所総会があります。

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日になっています。10時~17時まで伝道所におります。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

4月10日の説教要旨

創世記15章

「日が沈みかけた頃、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ」(15:12)

イエス・キリストの十字架の痛み・苦しみを思う時を過ごしています。キリストの十字架は神がキリスト教会と新しく結ばれた愛の契約の儀式でした。キリストの十字架の意味をより深く知るために、先週に引き続き、創世記に遡って聖書を見ていきます。

アブラムは75歳の時に神に召され、自分の一族と故郷から離れ、はるばるカナンの地まで旅をしてきました。神を信頼し従ったアブラムには多くの祝福が与えられ、家が栄え、たくさんの家畜、財産に恵まれます。

しかしアブラムには、自分の祝福を受け継ぐ子供がいない、という空しさがありました。そのことを神に訴えた時、神はアブラムに子供と土地をお与えになることを約束されます。そしてそのしるしとして、契約を結ぶことを神は提案されました。

今日読んだところには、正に、神とアブラムが契約を交わす場面です。

12節を見ると、「日が沈みかけた頃」とあります。アブラムが契約の儀式の準備をしていると夕方になった、ということです。神がアブラムに満天の星をお見せになってから、日が昇り、また日が沈みそうになる時間まで、神とアブラムの語りはずっと続いていた、ということです。

私たちはここに、夜も朝も昼も夕方も、信仰者に祝福を与えようとなさる神のお姿を見ることが出来るのではないでしょうか。

その後すぐに神とアブラムの間に契約が結ばれて、アブラムに子供と土地が与えられる、ということが確かなものになりますが、その契約の儀式が最中、不思議なことが起こります。

契約の儀式をまさに始めようとする時に、アブラムが深い眠りに襲われたのです。アブラムは「恐ろしい大いなる暗黒」を見せられた、と記されています。ただ、眠くなって目を閉じた、というのではありません。祝福の契約の中で、なぜか「恐ろしい大いなる暗黒」が神から見せられた、というのです。

祝福の契約の儀式の中で光が見せられた、というのであればわかります。しかし、神は、アブラムに闇をお見せになったのです。

ここには、どのような御心があったのでしょうか。

神はアブラムに満天の星を見せ、「この星のように、あなたから信仰の民が生まれてくる」とおっしゃって祝福されました。そして、神は同時に、そのアブラムから生まれてくる信仰の民が通ることになる「恐ろしい闇」も、前もってアブラムにお見せになったのです。

アブラムから生まれる信仰の民イスラエルはやがて、400年にも渡って異邦の国で寄留者となり、そこで奴隷生活を・抑圧を体験することになる、と言われます。

神はこの契約の儀式の中で、これから起こることを全て示されたのです。

アブラムから信仰の民が生まれる、ということ。

その信仰の民は苦しい試練を通る、ということ。

そして最後に、その民は信仰の試練という闇の先で解放され、ここへと戻ってくる、ということ。

この夜アブラムに示された祝福は、複雑なものでした。子孫が与えられる、という単純な喜びだけではなかったのです。

アブラムからイスラエルという民が生まれ、イスラエルが苦難を通って祝福へと導かれる、という、アブラム自身が自分の生涯の中で見届けることが出来ないほど壮大な神の祝福のご計画がこの闇の中で示されたのです。

私たちは、「神から祝福をいただける」、と聞くと、すぐに自分の周りから問題がなくなって、すべての悩みと苦難が消えることのように考えてしまうのではないでしょうか。

しかし、神が下さる祝福の中には、私たちにとって必要な試練も含まれているのです。

私たちは、出エジプト記を読んで、イスラエルがエジプトで奴隷にされた時の嘆きを知っています。神はそのイスラエルの嘆きを聞いて、エジプトからイスラエルを解放されました。しかし解放されたイスラエルはその後40年間荒野の旅を続けなければなりませんでした。その試練の先に、約束の地が用意されていたのです。

神の祝福は、人間の側の思いとは全く違った仕方で実現していきます。神の民イスラエルだから、教会だから、神に守られて何の苦も無く豊かになり、何の問題も心配もなく過ごせるようになる、というようなことが祝福ではないのです。

アブラムに示された祝福は信仰の試練・苦難を通った先にある祝福でした。

出エジプトの最後でモーセがイスラエルに荒野の旅の意味を告げます。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

イスラエルは荒れ野の40年という信仰の試練を通して、自分たちが神によって生かされている民であるということを学ばされたのです。約束の地はその学びの先にありました。

なぜ、神はこんなにも遠くにある祝福をお見せになったのでしょうか。16節の最後で、「アモリ人の罪が極みに達していないからだ」とおっしゃっています。

この時アブラムがいたカナンの地にはアモリ人が住んでいました。つまり、カナン人のことです。神は「アモリ人の罪はまだまだ大きくなる」とおっしゃいます。

アモリ人は偶像礼拝の罪を重ねていました。そして神は、アモリ人の罪が極みに達した時に、アブラムから生まれるイスラエルがこのカナンの地に戻って来て、真の神への信仰をもたらすことになるだろう、とおっしゃるのです。

神の壮大な祝福がここに示されています。

アモリ人の罪が、試練を経たイスラエルによって清められることになる・・・そのようにして真の神の民が増し加えられることになる、という、アブラムには想像もつかないような大きな計画でした。

さて、この、神とアブラムのやりとりを通してわかるのは、神は、信仰者に試練をお与えになる、ということです。そしてその信仰の試練は、祝福に至るための通り道なのです。神は、試練の中で、私たちを祝福を受けるにふさわしい者へと作り変えてくださいます。

私たちにとって、本当にしんどいのは、苦しみの意味が分からない時でしょう。なぜ自分が、なぜ自分の家族が、なぜ自分の愛する者が、なぜ家族の中で自分だけが・・・そのような心の叫びを誰もがもっています。神は、その私たちの心の叫びを聞きながら、荒れ野を共に歩いてくださるのです。

神の試練が無意味だ、ということはありません。荒野の中でこそ、神が共にいてくださることを私たちは見せられるのです。

アブラムに暗闇が臨み、これらの神の言葉が語られた後、二つに裂かれた動物の間を燃え盛る火が通り過ぎました。神とアブラムの間に契約が結ばれた、ということです。

その後、神はもう一度はっきりとおっしゃいました。

「あなたの子孫にこの土地を与える」(18節) Continue reading

4月10日の礼拝案内

 次週礼拝(4月10日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:創世記15:1~11

 交読文:詩編9編2節~7節

 讃美歌:讃詠546番、7番、316番、291番、頌栄544番

【報告等】

◇4月23日(土) 10時より三宅島伝道所総会があります。

◇4月9日(土) 10時より 役員会があります。

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日になっています。10時~17時まで伝道所におります。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 Continue reading

4月3日の説教要旨

創世記15:1~11

「アブラムは主を信じた。主イエスはそれを彼の義と認められた」(15:6)

このアブラムという人は、後にアブラハムという名前になり、イスラエルの「信仰の父」と呼ばれるようになった人です。後のイスラエルの人たちは、自分たちのことを「アブラハムの子」と呼ぶようになります。

「アブラハムの子」・イスラエルの一員である、ということは、神とアブラハムの間に交わされたこの契約に加えられている一人・神と共に生きる信仰の民の一員である、ということです。

今日読んだところは、新しいイスラエルである私たちキリスト教会にとって、自分たちの根っこがどこにあるのかが見える大切な場面です。

神はどのような時にアブラムに語り掛け、祝福の契約を結ばれたのか、見ていきましょう。

15:1「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」

「これらのこと」というのは、14章に記されている、アブラムが住んでいた地方の王たちの戦いのことです。何人もの王たちが争いに巻き込まれてアブラムの甥のロトが連れ去られてしまいました。アブラムは僕たちを率いて戦い、ロトを、そして財産や女性たちなど、連れ去られた人たち・ものを取り戻しました。

神がアブラムに声をかけられたのは、アブラムが人間たちの争いに巻き込まれて疲れ切っていた時でした。

「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」

「あなたには私の守りがある。この世の愚かな人間同士の争い、戦い・混乱の中にあっても、私はあなたを守る」と神はアブラムに約束してくださったのです。

戦い巻き込まれて疲れていたアブラムが一番聞きたいと思っていた言葉だったのではないか、と誰もが思うのではないでしょうか。

しかし、アブラムは神による守りの約束を聞いても、喜ぶどころか、不満を口にします。

「わが神、主よ。私に何をくださるというのですか。私には子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。ご覧の通り、あなたは私に子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が後を継ぐことになっています」

戦争に巻き込まれること以上に、アブラムの心を占めていたのは、自分に後継ぎとなる子供がいない、ということでした。

神に召されてからここまで、アブラムは神からたくさんの祝福を受けてきました。自分の財産が増え、僕たちを率いて戦えるほどの力をもつことが出来ました。しかし、アブラムには、空しさもあったのです。自分が死んだあと、それを受け継ぐ自分の子がいない、ということでした。

たとえ甥のロトを救い出したとしても、ロトが自分の家を継ぐわけではないのです。アブラムは、神に愚痴をこぼしました。

アブラムの嘆きを聞かれた神はさらに、言葉をお与えになります。

4節 「見よ、主の言葉があった」とあります。聖書は、私達読者に向かって「見よ」と言います。神がこの次におっしゃった言葉には決定的な意味があるのです。

「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」

アブラムの僕の一人、エリエゼルではなく、これからアブラムに生まれる子供が跡を継ぐ、と神はおっしゃいました。つまりそれは、これからアブラムに子供が与えられる、ということです。

そして神はアブラムにその証拠として、アブラムを外に連れ出して、天の星をお見せになりました。

「あなたから生まれる子孫はこのようになる」

神の招きにこたえて自分の故郷を捨て、ここまで旅をしてきたアブラムは、神の言葉は必ず実現する、ということを知っていました。自分が死んだあとのことを考えて空しさを覚えていたアブラムは、満天の星を見て圧倒されたのではないでしょうか。

それは、アブラムという一人の信仰者から、天を覆うほどの信仰の民・契約の民が生まれるだろうという予告でした。

アブラムにとっては、思いもかけなかった祝福でした。昨日まで、こんな祝福が自分に突然与えられるなどということは予想もしていませんでした。満天の星を通して神の恵みを見せられたアブラムは「主を信じた」とあります。既にアブラムは75歳を超えていました。しかし、「あなたから生まれる者が後を継ぐ」という神の言葉を疑いませんでした。

なぜアブラムはそんな、信じがたい言葉・約束を受け入れることができたのでしょうか。

神が、そうおっしゃったからです。それをおっしゃったのが、神だったからです。それが神の言葉だったからです。だから彼は受け入れたのです。これまでの神の言葉は全て実現したからです。

旧約聖書の元のヘブライ語では、「言葉」という単語には「言葉」という意味ともう一つ、「出来事」という意味もある。神がそうおっしゃったのなら、もうすでにそれは間違いなく実現する出来事なのです。

旧約聖書では預言者たちの言葉が記録されています。預言者たちが伝えた神の言葉は、歴史の中で必ず実現していきました。言いっぱなしではなく、神の言葉・神が預言者を通しておっしゃったことは全て出来事となっていきました。

神はご自分の言葉を受け入れたアブラムを「義と認められた」とあります。「義」というのは、正しい関係性のことを言う言葉です。神は、アブラムを、御自分が契約を結ぶのにふさわしい、誠実な人としてご覧になった、ということです。私たちはこの神とアブラムとの短いやりとりの中に、神と信仰者の間に結ばれた深い信頼を見るのです。

さて、私たちはこのアブラムという人を見てどう思うでしょうか。信じられないようなことを神から告げられ、アブラムは黙って信じました。

私たちは、ここでのアブラムの姿を見て、「自分には真似できない。『信仰の父』と呼ばれるようなアブラムの真似はできない。自分は疑い深い人間だからアブラムのような上等な信仰を持つことはなかなかできない」、などと思ってしまうのではないでしょうか。

しかし、アブラムも、私たちと同じ、一人の信仰者に過ぎませんでした。私たちと同じなのです。神から祝福をいただきながらも、失望したり、愚痴ったりする私たちと同じなのです。

本当に誠実さを示されたのは神でした。神は、愚痴をこぼすアブラムに忍耐強く寄り添われたように、私たちのような足元の定まらない信仰者を祝福をもって追いかけてくださるのです。

神とアブラムのように、私たちは神と一緒に時間を重ねて、少しずつ信頼を積み重ねていく、その信頼関係が私たちの信仰生活ではないでしょうか。 Continue reading

4月3日の礼拝案内

次週礼拝(4月3日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書

 交読文:詩編8編2節~10節

 讃美歌:讃詠546番、6番、526番、380番、頌栄543番

【報告等】

◇4月23日(土) 10時より三宅島伝道所総会があります。

◇次週、聖餐式があります。

◇4月3日(日) 雑誌「信徒の友」の取材があります。礼拝後、愛餐会(お弁当)がありますので、ご予定ください。

◇4月9日(土) 10時より 役員会があります。

 【牧師予定】

◇4月2日(土) 牧師は伝道所を留守にします。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:Continue reading

3月27日の説教要旨

マルコ福音書15:42~47

「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである」(15:43)

「小さな信仰の業が」

イエス・キリストは金曜日の朝から十字架につけられ、午後三時に大声で叫んで息を引き取られました。十字架刑は見せしめのための処刑法ですので、十字架につけられた人が息を引き取るまで何日も苦しむような刑罰でした。

主イエスは、十字架に上げられる前に夜通し暴力を振るわれ、体を痛めつけられていたので、弱っていらっしゃったのでしょう。朝に十字架につけられ、午後の3時に息を引き取られました。ピラトは、「もう死んだのか」と驚いています。

十字架上で死んだ人の遺体は、その家族が引き取りに来ないのであれば地面にそのまま投げ捨てられることになります。息を引き取られた主イエスの遺体はすぐに十字架から降ろされず、見せしめのために人々の目にさらされたままにされました。

今日読んだ最初の、42節には、「すでに夕方になった」とあります。午後三時から、夕方まで、もうすぐ日が沈もうとする時間までそのままにされていた、ということです。

ユダヤの一日は、日没が区切りとなります。日が沈んだところから一日が始まる、という数え方ですので、日が沈めばユダヤ人にとっての安息日となります。

もうすぐ日没になる、という時間に、アリマタヤという町の出身で、身分の高い議員であったヨセフという人が、勇気を出してポンテオ・ピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるように願い出た、ということが記されています。

ヨセフは、日付が変わって安息日になる前に、主イエスを十字架から降ろし、埋葬しようとした。ユダヤ人にとって、十字架の上に死体をそのままにしてさらしておくことは聖い安息日に相応しいことではなかったからです。

旧約聖書の申命記に、このように記されています。

「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない」

死体を夜通し木の上にさらすことを神はお喜びになることではない、神がイスラエルにくださった土地を汚すことになる、と律法で言われています。安息日には仕事をすることは禁じられているので、日が沈んでしまうと、主イエスの遺体を十字架から降ろしたり、埋葬したりすることができなくなってしまいます。

ローマ兵にとってそんなことはどうでもいいことでしたので、十字架の罪人を見せしめのためにそのままにしておくつもりでした。しかし、ユダヤ人の議員であったヨセフにとっては我慢できないことでした。彼はイエスの家族が遺体を引き取りに来るのを待っていましたが、主イエスの家族も、弟子達も遺体をとりに来ません。このままだと安息日の間、十字架の上にそのままにされてしまいます。

3時に主イエスが息を引き取られてから、この夕方まで、ヨセフはどうすべきか考え続けていたのでしょう。日没が迫る中、ヨセフは決断しました。覚悟を決めてピラトのところに行き、主イエスの遺体を引き渡していただきたい、と願い出たのです。

「勇気を出して」願い出た、と聖書には記されています。確かに勇気が必要だったでしょう。身分の高いユダヤの議員でありながら、ヨセフはローマ総督ポンテオ・ピラトに、ローマへの反逆者の遺体を引き渡していただきたい、と願い出るのですから、そのことによってローマからも、同胞のユダヤ人からも不審に思われることは間違いありません。「お前もイエスの仲間か」と十字架に上げられるかもしれません。

なぜヨセフは、命の危険を承知でナザレのイエスの遺体を引き取ろうとしたのでしょうか。聖書はその理由について一言、「この人も神の国を待ち望んでいたのである」と記しています。この人も、このイエスという方に神のお姿・メシアのお姿を見出していたのです。

12章28節以下を見ると、ひとりの律法学者と主イエスのやりとりが記されています。エルサレム神殿の境内で、ひとりの律法学者が主イエスに「あらゆる掟の内で、どれが第一でしょうか」と質問しました。

その人自身、悩んでいたのかもしれません。聖書に数多く記されている掟をどう守ればいいのか、何を第一とすればいいのか、迷いがあったのかもしれません。

主イエスは、「あなたの神である主を愛しなさい」という掟と「隣人を自分のように愛しなさい」という掟をおっしゃり、その二つの掟を切り離せない一つのものとしてお示しになりました。

律法学者はそれを聞いて納得しました。霧が晴れて真理が見えました。そして「その二つの掟は、どんな捧げものや生贄よりも優れています」と主イエスに答えます。

「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた」と聖書に記されています。

主イエスから「あなたは神の国から遠くない」と言われた律法学者がアリマタヤのヨセフだったかどうかは分かりません。大切なことは、イエス・キリストには、12弟子以外にも、心から従おうとする人たちがいた、ということです。ガリラヤの漁師たちだけでなく、エルサレムの律法学者や議員の中にも主イエスに神の姿を見出した人たちはいたのです。

私達は「イエス・キリストの弟子」と聞くと、12人だけを思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、キリストの直弟子「だけ」がキリストを世界に伝えて行ったのではありません。

主イエスに神の国の到来を期待して、従っていた人たちはたくさんいたのです。聖書の中では描かれていない、もしくは、ほんの少ししか描かれていない無名のキリスト者たちがたくさんいました。アリマタヤのヨセフも、聖書の中では目立たない、小さな存在です。

しかし、このような、誰からも注目されないような小さな信仰者一人一人の、小さな信仰の業を通して、神の御業は進んでいったのです。

小さな信仰者が、小さな信仰の業を行う際には、大きな勇気がいります。主イエスを三度否定したペトロを見ればわかるでしょう。「あなたはナザレのイエスを知っているか。あなたはイエスの仲間か」、そう尋ねられて「そうです」と答えるだけのことにも大きな勇気がいります。

ましてや、アリマタヤのヨセフは、ユダヤ人の中でも、身分の高い議員でした。「ナザレのイエスは死刑にすべきだと言っている」人々の中で、一人だけ皆と違うこと・反対のことをするのに、どれほど勇気が要ったでしょうか。

ヨセフがイエスの遺体を引き取るということは、仲間からの決別であり、ローマへのささやかな抵抗であり、イエス・キリストへの献身でした。どれほどの勇気がいったか、と思います。

彼は、一人の議員として、ではなく、一人の信仰者として決断しました。「死んでもなお、この方は神の子だ」、という信仰があったからこそ、勇気を振り絞ってピラトに「遺体を引き取らせてください」と願い出たのでしょう。

ヨセフは自分の私財を投げうって、主イエスのために墓を買い、そこに遺体を収めました。

そして数人の女性たちが、その埋葬を見ていたことが記されています。この女性たちは、主イエスが十字架に上げられる時から、ずっと見ていました。この人たちは主イエスの死を見届け、埋葬まで見届けました。

そしてこの女性たちは三日後の朝、その墓が空っぽになるのを見ことになります。確かに死んで、確かに埋葬された方が蘇られた、ということの証人となります。そしてこの女性たちの証言が、後のキリスト教会の信仰の礎となっていきます。

この女性たちもまた、小さな信仰者でした。女性たちがしたことは、ただ、キリストを見続けた、ということです。何か人の目をひくような、尊敬されるような社会事業をしたわけではありません。主イエスを遠くから見続けていたこの人たちの小さな目撃証言が、やがて教会の核となっていきます。

私たちは信仰者として日々、何をしているでしょうか。どんな信仰の業をなしているでしょうか。そのように訊かれると誰もが「自分は信仰者として十分なことは出来ていない」と下を向くでしょう。

しかし、取るに足らない、私たちの日々の小さな祈り、小さな信仰の業は、確かに用いられていきます。どんなに小さくても、神がそれを用いてくださるのです。誰か一人の、皆の注目を集めるような立派な信仰の働きによって神の御業が進むのではありません。

使徒パウロは、コリント教会への手紙の中でこう記しています。

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」

「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」

私たちは、自分の信仰の小ささを恥じる必要はありません。神は、そのような見劣りするような部分を、大いに用いてくださるのです。私たちの小さな信仰の決断が、小さな信仰の勇気が、神の救いの御業のために確かに用いられます。

日が沈む前のヨセフと女性たちの姿・業を見つめたいと思います。

3月27日の礼拝案内

次週礼拝(3月27日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書15:42~47

 交読文:詩編8編2節~10節

 讃美歌:讃詠546番、4番、132番、356番、頌栄543番

【報告等】

◇4月3日(日) 雑誌「信徒の友」の取材があります。

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

3月20日の説教要旨

マルコ福音書15:33~41

「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(15:38)

「道が拓かれる」

詩編の22編で、このような嘆きが歌われています。

「私は虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。私を見る人は皆、私をあざ笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」

「犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のように私の手足を砕く。骨が数えられるほどになった私のからだを、彼らはさらしものにして眺め、私の着物を分け、衣をとろうとしてくじを引く」

イエス・キリストの十字架はまさに、この詩編の嘆きの言葉が現実になったものでした。そこには、これ以上ない孤独と絶望がありました。ゴルゴタの丘の上、大地は暗くなり、御自分の弟子や仲間もなく、目の前には敵だけがいたのです。

極限の孤独の中、これ以上ない絶望の中で、主イエスは「わが神、なぜ私を見捨てたのですか」と叫ばれました。ゴルゴタの十字架を包んだ暗闇は、神に見捨てられた絶望、そしてキリストが担ってくださった私達の罪そのものでした。

十字架刑を受けた人は何時間も苦しむことになります。十字架の横木に釘で手を打ち付けられ、自分の体重を足で支えないといけないのです。肉体の痛みに加えて、呼吸をすることが出来なくて苦しみます。長い時間痛みに苦しみ、ゆっくりと意識を失っていき、最後には窒息死することになります。

しかし、主イエスの死の瞬間はゆっくりと意識を失っていくようなものではなく、突然でした。「大声を出して息を引き取られた」とあります。

ヨハネ福音書には、主イエスの最後の言葉として「成し遂げられた」という一言が記録されています。「成し遂げられた」・・・それはご自分が神の救いの御業を成し遂げた・自分の使命を果たした、という勝利の言葉とも読めます。

しかし、このマルコ福音書では、ただ、主イエスが大声で叫ばれた、という事実だけが記録されていて、何をおっしゃったのかはわかりません。勝利の叫びだったのか、絶望と苦痛の叫びだったのかわかりません。私たちはマルコ福音書に記録された、キリストの死をどのように受け止め、理解すればいいのでしょうか。

主イエスの死は、一人のユダヤ人が息を引き取った、というだけの出来事ではありませんでした。この方の死は、この世界の歴史の大きな転換点でした。

主イエスの死によって、神殿の奥深くで、異変が起こりました。息を引き取られた瞬間に、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」のです。

エルサレム神殿には垂れ幕が二つありました。一つは、至聖所の入り口にありました。祭司が一人だけで、その垂れ幕を通って中に入り、香をたく場所・至聖所の入り口を垂れ幕が仕切っていたのです。

そして、至聖所の中に、さらにもう一枚、至聖所の中でも最も神聖な空間を区別する垂れ幕がありました。年に一度、祭司がその中に入り、贖罪の捧げものを捧げるのです。

この二枚の垂れ幕の内、どちらが裂けたのかはわからりません。福音書にはそのことは書かれていません。しかし、どちらの垂れ幕が裂けたのか、ということが大事なのではありません。至聖所に至る垂れ幕が裂けた、ということが持つ、その意味が大事なのです。

20メートル近い高さの垂れ幕がただやぶれたというのではありません。「上から」「真っ二つにされた(受身形)」と記されています。聖書は、神が、上から垂れ幕を裂かれた、ということをつたえているのです。

このことを、ヘブ10:19―20ではこう説明しています。

「兄弟たち、私たちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道を私たちのために開いてくださったのです」

十字架の上でイエス・キリストの肉体が裂かれた、ということはすなわち神殿の垂れ幕が裂かれた、ということであり、それは神への道が開かれた、ということだったのです。

祭司だけが入れることになっていた、神との出会いの場所が、祭司以外の人たちにも開かれたのです。神との出会いの場所を遮っていた垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、誰もが神の元へと行けるように、道が拓かれました。

イエス・キリストの死が神殿の中にあった垂れ幕を真っ二つに裂いた、ということ、それは、祈りを失い、「強盗の巣」となっていたエルサレム神殿の中心を破壊した、ということでもあります。ここから、神の目に「強盗の巣」とみなされたエルサレム神殿は、ここから崩壊への道をたどることになります。40年後のローマ軍による破壊への秒読みがここから始まったのです。

そしてキリストの死は、人の手によらない霊の神殿を打ち立てました。キリスト教会です。

イエス・キリストの死と共に、もう一つ、不思議なことが起こっています。ローマの百人隊長が、十字架で死なれたイエス・キリストを見上げて「この人は本当に神の子だった」と信仰を告白したのです。この人は十字架刑の責任者でした。この人の指示で主イエスは十字架へと上げられたのです。

百人隊長にとって、ナザレのイエスは、ユダヤ人の王を自称して逮捕され、ローマへの反逆の罪で十字架に上げられた犯罪人でしかなかったはずです。同じユダヤ人たちからさえも最後まで馬鹿にされ、侮辱され、弱々しく死んでいった、一人の犯罪人でした。

十字架の上で侮辱され、絶望の叫びを上げ、弱々しく死んでいくナザレのイエスを見た百人隊長が、なぜか「本当に神の子だった」と信仰を告白した、というのです。

なぜなのでしょうか。主イエスの十字架での最期を見ると、どこにも神の子だと思えるような要素はありません。イエス・キリストの死の何が、この百人隊長を信仰に導いたのか、百人隊長は何をキリストの死に見出したのか、聖書は何も書いていません。

「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という絶望の叫びがあり、最後に大声を出して死んだ・・・それだけです。主イエスが十字架の上で華々しい奇跡を行われた、とか、主イエスの祈りにこたえて神の声が聞こえてきた、というのならわかります。しかし、ナザレのイエスはこのゴルゴタの丘で、暗くなったゴルゴタの丘で、無残に、誰の助けもなく無残に死んだのです。

百人隊長は、誰よりも、一番近くでナザレのイエスの死を見ました。しかしこの人はナザレのイエスへの信仰告白から一番縁遠い人だったはずです。異邦人の軍人・ローマの百人隊長で、十字架刑の責任者です。その人が、神の子らしくない死に方をしたイエスを見て、「この人はキリストだ」と信仰を告白したのです。

私たちはこのことに、「神殿の垂れ幕が上から真っ二つに裂けた」ということの意味を見ます。ローマの百人隊長は、ユダヤ人でもなく聖書を良く知っている祭司や律法学者でもありませんでした。異邦人の死刑執行人でした。その人が、暗闇のゴルゴタの丘に神の姿を見出したのです。いや、上から見せられた、と言った方がいいかもしれません。信仰の道が「向こう側から」拓かれたのです。神の御手が働いたとしか言いようのないことです。

キリストの十字架の前で、私達は信仰の分かれ道に立たされます。主イエスを侮辱していたユダヤ人たちに神の子の本当のお姿は見えませんでした。そして死刑執行の責任者であった異邦人が「本当にこの人は神の子だった」と信仰を告白しました。

このゴルゴタの十字架をどう見るか、ということが、私たちの信仰の分かれ道となります。この方の十字架を、神に見捨てられて十字架で死んだ罪人と見るか、世の全てを背負い私の身代わりとなって死んでくださったメシアと見るか・・・罪人の死と見るか、神の子による犠牲の死と見るか。

この時、十字架の周りにいた人たちは主イエスの叫びをどのように聞いたでしょうか。この時、主イエスの周りには弟子達はいませんでした。皆、主イエスを見捨てて、どこかに逃げ去っていました。百人隊長のように、強い思いをもって十字架の主イエスを見ていた人はいなかったのでしょうか。

聖書には、主イエスに従って来た女性たちが、遠く離れてこの十字架を見守っていたことが記されています。その中には、「小ヤコブとヨセの母マリア」という人がいました。この人は、主イエスの実の母マリアです。自分の息子の十字架を、マリアはどのような思いで見たでしょうか。

この女性たちが、後に、キリストの復活の目撃者となり、弟子達にキリストの復活を伝える証言者となります。彼女たちはこの時、自分たちの目で、確かに主イエスの十字架の死を見届けました。三日後に、この方の空っぽの墓も、自分たちの目で実際に見ることになります。そしてこの数人の女性たちの証言が、後のキリスト教会の信仰の拠り所となるのです。

ローマの百人隊長と、女性たち・・・この人たちは、主イエスの十字架の死に何かを見ました。それを見せたのは、聖霊ではないでしょうか。神殿の垂れ幕を真っ二つに裂いた力が、彼らの心の中にあった垂れ幕を裂いて、信仰の目を開かせたのです。このちいさな信仰の証言者たちから、イエス・キリストへの信仰は世界へと広まっていくことになります。

ヘブ6:19―20「私たちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入っていくようなものなのです。」

私たち教会は荒波の中でも錨をおろしてじっと耐える船のようなものです。イエス・キリストという方に魂の錨を下ろし、日々天の故郷へと向かうのです。天の故郷への道は、上から拓かれました。今、私たちも、聖書を通してゴルゴタの丘に立ち、百人隊長や女性たちと一緒に、キリストの十字架に神の子の尊い犠牲を見ています。

イエス・キリストの十字架の死からの復活という、誰にも信じられないようなことを証言した人たちがいて、今の私達の信仰生活があります。誰も信じてくれないことを、声高に「あの方は本当に十字架の死から蘇られた」と伝え続けた人たちがいて、今の私達の礼拝があります。

我々は、日々の信仰の試練の中で、キリスト者たちが伝え続けたキリストの十字架と復活の証言へと立ち返ります。そして、キリストの証言者として用いてくださる聖霊に身を委ねるのです。