5月29日の礼拝案内

次週礼拝(5月29日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄3:1~10

 交読文:詩編9編8節~13節

 讃美歌:讃詠546番、14番、352番、270番、頌栄539番

【報告等】

◇6月5日(日)はペンテコステ礼拝となります。愛餐会があります。どうぞご予定ください。

【牧師駐在日】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

5月22日の説教要旨

使徒言行禄1:12~26

「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」(1:14)

イエス・キリストが天に昇って行かれるのを見送った信仰者たちが、その後神が聖霊を注いでくださる時までどのように過ごしたか、ということが記されている場面です。

「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、地の果てに至るまで、私の証人となる」

主イエスはそうおっしゃって、天に昇って行かれました。

キリストを天に見送った後、地上に残された信仰者たちにとっての課題は、キリストがおっしゃった「聖霊が降る時」まで、何をして待てばいいのか・どのように待てばいいのか、ということでした。主イエスはただ、「時を待て」とおっしゃっただけで、「その時のために今からこういう準備をしておきなさい」と具体的な指示は出していらっしゃいません。

主イエスを天に見送った後、信仰者たちがしたことは、「祈る」、ということでした。

祈り、そして、イスカリオテのユダが抜けた後の12弟子の穴を埋め、神が備えてくださっている時を待ち続けたのです。キリストが十字架で殺されたあの過越の祭りから数えて50日目、ペンテコステの日に祈る弟子達の上に聖霊が注がれることになります。

私たちは、なぜこの人たちの上に聖霊が与えられたのか、ということを考えたいと思います。

主イエスがおっしゃった「時」を待ち続けたのは、主イエスの弟子達、ガリラヤから従って来た女性たち、そして主イエスの家族、合わせて約120人の群でした。この120人が特別に選ばれて天から聖霊が注がれることになります。

この120人には何か特別なものがあった、ということでしょう。この人たちには、他の人たちとは決定的に違う何かがあった、ということになります。それではこの120人は、何が特別だったのだろうか。何が違っていたのでしょうか。ユダヤの律法学者やローマ帝国にイエス・キリストを力強く証言する才能や力があった、ということでしょうか。

そうではありません。

この人たちだけが、イエス・キリストに従い、祈り続けていたのです。他の誰もがイエスという方を捨てた中で、主イエスを十字架にかけた人たちの真っただ中で、この人たちだけが、イエス・キリストへの信仰を持ち、祈り続けていたのです。

そのことにおいて、彼らは特別だったのです。それ以外に、この人たちに何か特別なものなどありません。キリストへの祈りがなければ、この人たちは普通の人たちでした。

言い方を変えると、祈り、というものが、普通の人たちを、特別な群れへと変えていく、ということです。

キリストの12弟子はイスカリオテのユダを失いました。このため、誰か一人を選び出さなければならなくなりました。彼らがどのようにユダの代わりを選び出したか、というと、くじ引きだった。

「くじ引き」と聞くと安易な決め方のように思えます。しかし、そのくじ引きも、よく読んでみると、彼らの祈りによる信仰の業だったことがわかります。彼らは神の御心を求めて祈り、結果を神に委ねた結果、マティアが選び出されたのです。

こうしてみると、この人たちは「祈りの群だ」だった、と言っていいでしょう。聖霊は、その「祈りの群」に注がれ、それが「教会」となって福音を世に運んでいくことになっていきます。

我々は、ここに大切なことを見ます。イエス・キリストを求める群、というのは、「キリストに祈る群れ」だ、ということです。キリスト教会は、「キリストに祈り続ける群だ」なのです。

「そんなことは当たり前じゃないか」と思えるかもしれません。しかしこのことは、決して当たり前ではないのです。「当たり前」に思ってしまう時こそ、教会の危機となります。

教会は、「祈りの群れ」であり、もっと言えば、「祈るしかない群れ」です。キリストから託された福音宣教という使命の重さに耐えかねて、神に祈ってすがるしかない群れなのです。

信仰者たちは、たった120人でこれから全世界にイエス・キリストの復活を伝え広めなければならなくなりました。彼らは途方もない使命をキリストから与えられました。

今ここで、キリストに従う120人は他になすすべもなく祈っています。聖霊は、その「祈り」上に注がれることになります。

私たちは教会の強さと弱さを見ることが出来ます。「人間の集まりである教会の弱さ」と、「神によって集められた教会としての強さ」です。

後に、使徒パウロはコリント教会にこう手紙を書いています。

「兄弟たち、あなたがたが召された時のことを思い起こして見なさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。・・・それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです」

教会は、自分たちの強さを捨て、神の前に弱い自分たちを差し出すことで強くされます。逆説的ですが、それがキリスト教会の強さです。

教会は、私達信仰者は、何を持っているのでしょうか。聖霊を注がれた後、弟子のペトロとヨハネは、神殿にいた足の不自由な人に言いました。

「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」

教会が持っているもの、キリスト者が持っているものとは何でしょうか。金や銀ではありません。イエス・キリストの名前だというのです。

私たちは、金や銀を持っているから教会として強く歩めるのではありません。金や銀がなくても、キリストが生きて私たちと一緒に歩み、立たせてくださるから、教会は倒れないのです。金や銀よりも尊いものを、金や銀よりも価値があるものを大切に抱いているから、教会は倒れないのです。

弟子達は、福音宣教の中で、昔イエス・キリストから言われた言葉を何度も思い出したでしょう。

「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持って行ってはならない」

主イエスが12弟子をガリラヤ宣教に送り出した際におっしゃった言葉です。主イエスが彼らにお与えになったのは、「悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能」でした。それだけ、でした。

弟子達は託されたキリストの権能だけをもってガリラヤ中を周り、神の国の教えを説き、何も不足することがありませんでした。全てが備えられていたのです。イエス・キリストのお名前が、キリストの権能があれば、そして祈りがあれば、教会は倒れません。

主イエスはこうもおっしゃっていました。

「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の名のために王や総督の前に引っ張っていく。それはあなた方にとって証をする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなた方に授けるからである」

教会の強さはここにあります。神の備えを信じて祈る、ということです。祈りによってしか自分たちは立ちえない、ということを知っていることこそ、実は教会の強さなのです。祈りを通して、人間をはるかに超えた神の導きによって教会の道は切り拓かれていきます。

この時、祈っていたのは、たった120人でした。世界中でこの120人だけが、キリストの復活を知り、自分たちに聖霊が注がれる時を祈りつつ待っていました。

「こんな少人数で世界中にキリストの復活を伝えることができるのか」、と誰もが不安を持っていたと思います。 Continue reading

5月22日の礼拝案内

 次週礼拝(5月22日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄1:13~26

 交読文:詩編9編8節~13節

 讃美歌:讃詠546番、13番、164番、344番、頌栄539番

【報告等】

◇6月5日(日)はペンテコステ礼拝となります。愛餐会があります。どうぞご予定ください。

【牧師駐在日】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

5月15日の説教要旨

 

使徒言行禄1:6~12

「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」(1:7)

使徒言行録には、復活のキリストと共に過ごし、聖霊を注がれ、自分たちが思ってもいなかったところへと向かっていく弟子達の姿が描かれています。私達はその弟子達の姿を通して、自分自身に働く聖霊の力というものについて思いを巡らせていきます。

聖書に記録されている出来事は、決して過去のことではありません。キリストを見捨てた人、キリストを知らなかった人、キリストに背を向けていた人にキリストが出会ってくださり、その人たちがキリストを証しするようになる姿が記されています。これはキリストの時代から今に至るまで、実は私たちが生きる日常の中で起こっていることです。

私達は、使徒言行録を通して、聖霊に導かれながらキリストの復活を証しする弟子達の姿に信仰者としての自分を重ねながら、彼らと共に旅をすることになります。

さて、今日は福音宣教がキリストから弟子達へと引き継がれた、という場面を読みました。ルカ福音書の初めを読むと、この時代、人々は神の救いを待っていた、ということがわかります。

洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ「差し迫った神の怒り」を伝え、「悔い改めよ」と民衆に向かって叫びました。人々はそれを聞いて恐れ、徴税人も兵士もヨハネの下にやって来て、「私はどうすればよいのですか」と尋ねてきたことが記されています。

「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないか、と皆心の中で考えていた」、と福音書に書かれています。

この時代、誰もが、救い主を待っていたのです。どういう救い主か、というと、自分たちをローマ帝国の支配から解放してくれる救い主です。

主イエスの弟子達もそうでした。弟子達は復活なさった主イエスから神の国の教えを聞いて、こう質問しています。

「イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」

弟子達が期待していた「神の国」というのは、ローマから独立して国家となった、強いイスラエルのことだったようです。彼らは、復活なさった主イエスに、自分たちをローマ帝国の支配から救い出して、ユダヤ人の国、イスラエルという国が立て直してくださることを期待しました。

十字架の死から蘇られた復活の主が自分たちの目の前にいて、「神の国」の教えを語ってくださっています。肉体の死をも克服された方が、「君たちに聖霊が下る」とおっしゃっているのです。自分たちが武器をもってローマに向かって立ち上がる日は近い、と思ったでしょう。

しかし、主イエスは「イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」という弟子達の質問に対して、「そうだ」とも「違う」ともおっしゃっていません。ただ、「その時は、君たちにはわからないのだ」とおっしゃいました。主イエスがおっしゃったのは、ただ、「神の救いの時が迫っている」ということだけでした。それがいつなのか、そしてどういう救いなのかについては具体的に何も明らかにされないのです。

弟子達は、心の中で困惑したのではないでしょうか。「もうすぐ自分たちはローマを相手に戦うのか」と考えていた弟子達は、主イエスから「聖霊の力が与えられる時を待て」と言われ、「君たちは私の証人となるのだ」と言われたのです。

嚙み合っていない主イエスの御心と弟子達の期待・・・私たちは、この時の弟子達の期待感と困惑を理解できるのではないでしょうか。

私たち自身、キリスト者として「今自分が何をすればいいのか」、ということを具体的に知りたいと願います。キリスト者として、「あれをすべきではないか、これをすべきではないか」、と考えます。しかし、考えれば考えるほど、「自分は何もできていないのではないか」、と思ってしまうのではないでしょうか。

しかし、冷静に考えると、自分が良いと思うこととキリストがお求めになっていることが必ず同じとは限りません。イスラエルという国の立て直しを期待していた弟子達に聞かされたのは、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」いう気の言葉だった。

弟子達にとって、それは意外な使命だったでしょう。イエス・キリストの証言者となること、それがこれから弟子達に求められた戦いだったのです。自分が聞いたイエス・キリストの教えを、そしてイエス・キリストという方を地の果てまで伝えていく、その先に神の国がある、ということでした。

私達は、弟子達がどれだけ信仰者として弱い人たちだったのかを知っています。一度は主イエスを見捨てた人たちです。その人たちが今、キリストを伝える使徒として新たに召されているのです。この人たちは、特別に強い人たち、偉い人たちではありませんでした。むしろ、普通の弱い人たちでした。

弟子達は恐れたのではないでしょうか。「地の果てまでイエス・キリストを伝えるなどという大それたことが自分にできるのか」、と心の中で思ったでしょう。

弟子達はこの後聖霊を注がれ、福音宣教へと向かっていくことになります。彼らが伝えたのは、彼らがもっていた立派な考えや哲学ではありませんでした。彼らが実際にキリストから聞いたこと、実際にキリストの周りにいて見たことでした。それが、弟子達がイエス・キリストを地の果てまで伝えるために持っていた唯一の武器でした。

そして弟子達に託されたその福音宣教の業は今、キリスト教会に受け継がれています。

このように見て行くと、私達は思うのではないでしょうか。

「自分には弟子達のように、直接イエス・キリストの教えを聞いたわけではない、直接キリストの業を見たわけではない。自分には弟子達のように直接キリストから言葉をいただいたり、食卓を囲んだりしたことはないから、何をすればいいのかわからない。」

確かに、私たちはイエス・キリストが地上にいらっしゃった時代を生きたわけではありません。しかし、「キリストを体験した・キリストを感じた」という体験はあるのではないでしょうか。「信じがたい聖書の言葉は、それでも真理だ」、と思える経験があったから、今この礼拝に身を置いているのではないでしょうか。「あの時、確かにキリストが私と共にいてくださった・確かにキリストを近くに感じた」と思えることがあって、キリストに信頼して、今こうして礼拝の中にいるのではないでしょうか。そこには、確かに聖霊の働きがあります。

主イエスはこうおっしゃったことがあります。

「誰でも、人々の前で自分を私の仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。」

「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれた時は、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」

使徒言行録を見ると、弟子達がイエス・キリストの証言をするときには、「聖霊に満たされて」語った、と記されています。

私達も同じです。

私達も、語るべきこと、なすべきことは、聖霊が導いてくれるのです。私達にとって、ただなすべきことは、「私はイエス・キリストの仲間だ、キリスト者だ」と言い表すことです。

主イエスは、ガリラヤからエルサレムへと旅をする途中で、3人の弟子達を連れて山へ登られたことがあります。3人の弟子達は山の上でモーセとエリヤと語り合われる主イエスを見ました。

聖書には、「弟子達は沈黙を守り、見たことを当時誰にも話さなかった」とあります。ペトロたちは山の上で見た光景を、自分たちの中だけに留めておこうとしました。「私はモーセとエリヤと、先生が語り合うのを見た」と言っても信じてもらえない、と思ったのでしょう。「誰かに話して馬鹿にされるよりも、黙っている方がいい」と思ったのでしょう。

しかし、十字架の死から復活なさった主イエスはペトロをはじめ弟子達に「地の果てに至るまで、私のことを伝えなさい」と言って派遣されました。黙っていることは許されなかったのです。

私達も同じなのです。自分がイエス・キリストの仲間であることを言い表すことには、痛みが伴います。しかし、キリストがまず私達罪人の仲間となってくださって、十字架で痛みを担ってくださったことを覚えたいと思います。

弟子達はこの後聖霊を受け、キリストの使徒と呼ばれるようになり、キリストのために様々な痛みを自分の身に負うことになりました。キリストを伝えるということは、「キリストと痛みを共にする」、ということでもあります。

使徒たちは、キリストのために苦しむことを彼らは自分たちの信仰の喜びとしました。「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどのものにされたことを喜んだ」と使徒言行禄の5章に記されています。私達は聖霊によって変えられていくのです。

主イエスがガリラヤで弟子達を宣教の旅へと派遣された時、弟子達に「何も持っていくな」とお命じになりました。「身一つで行け」、とおっしゃったのです。

弟子達はその言葉に従い、ガリラヤを回りながら神の国の到来を伝え、その先々で信仰者たちによって生活を守られました。不思議です。キリストは、信仰者が行く先で、先回りして受け入れてくださるのです。

私達はイエス・キリストを証しするために何か特別に持っていなければならないようなものはありません。イエス・キリストの証言の他何も持っていない弟子達は、行く先々で聖霊によって、不思議な仕方で宣教の道が開かれていきました。聖霊は今もキリスト教会のために、私達の見えないところで天の国へと導き続け、私達の知らないところに道を準備してくださっています。

キリストが弟子達に託された福音宣教の業は、今のキリスト教会、私たちにまで受け継がれてきました。私たちはキリスト者として、キリストの証人として今を生きています。

身一つでいいのです。あとは全て、聖霊が備えてくださり、私達を用いてくださる。聖霊に身をゆだねて、「私はキリストの仲間です」を言い表していきましょう。

5月15日の礼拝案内

次週礼拝(5月15日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄1:1~5

 交読文:詩編9編8節~13節

 讃美歌:讃詠546番、12番、159番、509番、頌栄539番

◇6月5日(日)はペンテコステ礼拝となります。愛餐会があります。どうぞご予定ください。

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◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

5月8日の説教要旨

使徒言行禄1:1~5

「『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる』」(1:5)

イエス・キリストが復活なさった後の弟子達の姿を見ています。これからしばらく、使徒言行禄を読みながら、キリストの復活によって宣教へと押し出された使徒たち、そして教会の成長を見ていきたいと思います。

使徒言行禄は、ルカ福音書と同じ著者によって記されました。ルカ福音書は前編としてイエス・キリストを、使徒言行禄は後編として使徒たち・教会の働きを描いています。

今日私たちは、使徒言行禄の一番初めのところを読みました。十字架に上げられ、無残に殺されたイエス・キリストは、弟子達に復活されたお姿を見せ、40日間、彼らと共に過ごされました。

復活なさった主イエスと共に食事をしたりして過ごした人たちは、主イエスが天に昇って行かれた後、エルサレムの家の一室で祈り続けることになります。そしてその祈りの上に聖霊が注がれ、「キリストが復活された」、という喜ばしい知らせ・福音がエルサレムに、アンティオキアに、アジアに、ヨーロッパに広がっていくのです。

使徒言行禄は「旅の記録」と言っていいものです。教会がどのように誕生したのか、そして、聖霊に満たされた信仰者の群がどのようにイエス・キリストの復活を伝えるためにエルサレムから世界中へと旅へと出て行ったのかが描かれています。

そして使徒言行禄を読む際に大切なことは、その旅は今の私たちにまで続いている、ということです。キリストが復活なさったという福音は、私たちキリスト教会を通して今でも世界中をかけめぐっているのです。

福音を知らされた人たちは、次の人にキリストの復活を伝えるために、今いる場所から次の場所へと旅立って行きました。

ペトロやパウロ、そしてキリストの使徒たちが迫害されながら、場所を変えてキリストを伝えるために旅を続ける姿を見ます。

使徒言行禄は、キリストによって押し出される信仰者たちの旅を描きながら、私たちにはいつも信仰によって新しい道が与えられる、ということを伝えているのです。

ルカ福音書と使徒言行禄と記したルカは、キリストの福音を知った信仰者たちの旅を描く中で「道」という言葉をよく使っています。聖書の中で「道」という言葉がつかわれる時、それは、単なる道路のことではありません。一人の人間がキリストを知ってから歩み始める信仰の道・信仰の生き方そのものを意味しています。

キリストを知る、ということでどれだけ自分の生きる道を変わったか、それを思い返すと、誰もが気づくでしょう。自分の小さなキリストへの信仰が自分の人生をどれだけ変えたのか、振り返ると驚くのではないでしょうか。

キリストを知って生きるのと、知らずに生きるのでは、歩む道が、生き方が全く違ってきます。私たちは信仰を通して何を恐れ、何を一番大事にするべきかを知ります。信仰を通して積み重ねていく選択・決断によって、信仰者の人生は自分では考えもしなかった方へと導かれていくのです。

使徒言行禄で描かれているキリストの使徒たちを見ていくと、わかるでしょう。彼らは、誰もが普通の人でした。ペトロやヨハネは、使徒言行禄の中では「無学な普通の人」と書かれています。

キリストの使徒とされた人たちにはどんな特徴・共通点があったのでしょうか。

それは、「もう自分にはキリストの許しにすがるしかない」というところまで自分の罪に打ちひしがれた人たちだった、ということです。

復活のキリストに許され再び招かれた彼らは「自分を喜ばせる生き方」をやめました。そして「神が喜んでくださる生き方」を歩むようになりました。彼らは復活のキリストに招かれ、新しい道を与えられた人たちだったのです。

信仰の道はいつでも、神から何かを見せられる、というところから始まります。自分の力で何かを手にする、というところから始まるのではありません。「もう祈るしかない、もうキリストに許していただくしかない」、というところから祈りを通して何かが示されるのです。

復活されたキリストが天に昇って行かれるのを見送った弟子達は、ずっと天を見上げていました。キリストが復活して目の前に現れてくださったのに、またいなくなってしまわれた・・・どうしていいかわからなかったのです。その彼らに新しい道を示したのは、白い服を来た二人の人でした。この二人は、キリストの墓にいた天使でした。

天使は弟子達に告げます。

「イエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる」

普通だったら信じないでしょう。しかし、彼らは、キリストの復活を自分の目で見ました。キリストの昇天を自分の目で見ました。

弟子達はなすべきことが天から示されたのです。キリストは天に昇って行かれ、その姿を見ることがなくなっても、彼らは孤独ではありませんでした。祈り、神が備えてくだる時を祈って待ったのです。やがて、エルサレムの町の中にあった家の一室で祈り続ける彼らの上に天から聖霊が注がれることになります。

改めて、確認しておきたいと思います。キリスト教会は、信仰深い人たちが集まって、「教会を作ろう」と言って作ったものではありません。祈りの群れに天から聖霊が注がれ、教会はできました。

福音書を振り返ると、神のご計画が実現する時には、いつも聖霊の導きが与えられています。

キリストがお生まれになるときは、天使がマリアにそのことを告げました。「聖霊があなたに下り、いと高き方の力があなたを包む」。聖霊が降ってマリアは主を身ごもりました。

主イエスが洗礼をお受けになった時、「天が開け、聖霊が鳩のように見える姿でイエスの上に」降ったとあります。主イエスに聖霊が降り、メシアによるガリラヤ宣教が始まりました。

いつでも、聖霊を通して神の救いの御業は進んできたのです。そして今、復活なさったイエス・キリストは弟子達におっしゃいます。「私は、父が約束されたものをあなた方に送る」。それこそ聖霊だった。

人は自分の力で自分を信仰者とすることはできません。むしろ、自分の力を捨てて、聖霊に身をゆだねた時に、自分が変えられていくのです。

教会を迫害していたサウロは復活なさったイエス・キリストの声を聞きました。「なぜ私を迫害するのか」。そこから彼はパウロという名前でキリスト者としての道を歩み始めました。パウロは、まさか自分が教会のために働くようになるなどとは思ってもみなかったでしょう。

ペトロは屋上で昼寝をしていた時、神から様々な動物の幻を見せられ、そこから異邦人へとキリストの復活を伝えに行く道が示されました。ペトロも、まさか自分が異邦人にまでキリストの復活を伝えることになるなどとは思ってもいなかったでしょう。

聖霊は、人間の思いを超えて働くのです。

主イエスの一番弟子のペトロは最高法院の人たちに捕まり「イエスのことを人々に話すな」と言われた際、堂々と弁明しました。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。我々は見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」

聖霊は人を変えます。全く新しく造り変えます。新しい存在として、新しい道を歩ませます。私たちは、これから使徒言行禄を通して、そのことを学んでいきたいと思います。

最後に、詩編126編の言葉を見ます。

BC6世紀に、バビロンに囚われていたイスラエルの人たちが詠んだ歌です。

4~6節「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出ていった人は束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」

イスラエルの人たちがバビロンで捕囚とされていた時に、神の言葉が与えられました。捕らわれの身から解放される、と告げられたのです。エルサレムを破壊されバビロンへと連れ去られた人たちは、それでも神への信仰を捨てませんでした。それどころか、自分たちの神への不信仰の反省を踏まえて、旧約聖書の言葉を書き残しました。

神を信じて、苦しくても福音の種を蒔く人たちは、必ず喜びの歌を歌うことが出来るのです。信仰者が、信仰の道を歩んだ先で見せられる祝福の喜びが歌われています。

当時のイスラエルの人たちにとって、エルサレムに帰る、ということは、神の元に立ち返る・神に許される、という救いの喜びでした。神は、御自分を信じ、求める人をお見捨てになることはなかったのです。

神は、インマヌエルと呼ばれるメシアを世にお送りになり、そのメシアに罪びとの罪を十字架の上で負わせられました。そして天から聖霊を送り、今も教会を通して、まだ神から離れている人たちをご自分のもとへと取り戻そうと働いていらっしゃいます。

今日、私たちは、復活のイエス・キリストから与えられる聖霊が、今も教会に働いていることを強く覚えたいと思います。私たちは、今でも、キリストにつながっている限り、新しい道が天から与えられ、日々新しく創造されていくのです。

5月8日の礼拝案内

 次週礼拝(5月8日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄1:1~5

 交読文:詩編9編8節~13節

 讃美歌:讃詠546番、11番、186番、168番、頌栄539番

【牧師駐在日】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

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5月1日の説教要旨

ルカ福音書24:36~49

「『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する』」

イースターの朝、女性たちが、主イエスの墓が空になったことを弟子達に伝えました。このことは弟子達を混乱させました。

「主イエスのご遺体を誰かが盗んだのか?」

女性たちは墓の中で天使から「あの方は蘇られた」と告げられたことも言いました。しかし弟子達はそんな話を信じませんでした。

その後、エマオへと向かう二人の弟子達が復活なさった主イエス・キリストに出会います。主イエスは二人とエマオまで共に歩み、聖書を解き明かし、御自分の復活が聖書の預言の実現であることをお教えになりました。

そして今、イエス・キリストはエルサレムで、弟子達の真ん中に立って、復活なさったご自身の姿を現わされました。

弟子達は主イエスを見て、「亡霊を見ているのだと思った」、と記されています。この時代、死者の霊が地上をさまよう、ということは一般的に信じられていましたが、死者が実際に肉体を伴って蘇る、ということは考えられないことでした。

主イエスは弟子達に「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」とおっしゃいました。そしてご自分の手と足をお見せになってご自分が亡霊ではないことを示されました。

弟子達は、「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていた」とあります。喜びと、信じられない、という思いが心の中で同時に湧き上がって来て、弟子達の混乱は続きました。

このように、実際に主イエスの復活を見ても揺れている弟子達を見ると、信仰者として頼りなく見えます。しかし、これが信仰者の偽りない姿ではないでしょうか。

主イエスが以前「私は十字架で殺されるが三日目に復活する」とおっしゃっていたとはいえ、実際にそれを見ると、簡単に受け入れられるようなものではないでしょう。むしろ、自分が見ているものの不思議さに圧倒され、どうしていいのか分からなくなるのではないでしょうか。

実は、私たちの信仰はそのようなところから始まるのです。私たちの信仰は、いつも新鮮な驚きで満ちているはずなのです。信じられないことを目の当たりにして、不思議さに打たれ、理解しようにも理解しきれない弟子達の姿は、まさに信仰者の姿そのものです。

「信仰」というのは、驚きだと思います。聖書に記録されている、信じがたい復活のイエス・キリストとの出会いに驚き、不思議さに打たれながらキリストの言葉に聞き従わざるを得ない・・・それが信仰生活でしょう。

本当は、死人のよみがえりを信じない方が、楽なのです。聖書を読んで、「そんなバカなことがあるはずがない」、と信仰の戦いを放棄することの方が楽でしょう。しかし、信仰というのは、その葛藤、その戦いから降りないことです。その驚きは、私たちが死ぬまで続きます。

主イエスを十字架で失った弟子達が、最初に与えられた復活のキリストの言葉は「あなたがたに平和があるように」でした。

弟子達は恐怖の中にありました。自分たちの先生が殺された、次に、自分たちはどうなるのだろう、という恐怖がありました。

そこで「あなたがたに平和があるように」というキリストの声を聞かされます。恐れの中にあるキリスト者に与えられるキリストの慰めの言葉です。自分ではどうしようもない時、道を失ったときに信仰者だけが聞くことが出来る、キリストの言葉です。私たちは祈りの中でこのキリストの声を聞くから、主の復活を信じ続けることが出来るのではないでしょうか。

恐怖の中にある者、道を見失った者が一番聞きたい言葉が、信仰の証言を分かち合う群に与えられるのです。

さて、復活なさったイエス・キリストは、十字架につけられる前と同じように、弟子達と共に食卓を囲み、依然と同じように神の国の教えを説かれました。その教えの内容は以前と同じでした。神の国の教えです。

神はあなたを愛していらっしゃる、あなたが神の元に立ち返り神と共に生きることを求めていらっしゃる、ということを変わらずお伝えになりました。

主イエスはご自分の身に起こった十字架と復活を「聖書に書かれている通り」とおっしゃっています。この方の死と復活は、全て神のご計画として旧約聖書の中に預言されていたのです。

この時の弟子達の驚きに見るように、聖書に記されている奇跡の中で、キリストの復活ということが一番信じられないことではないでしょうか。

神の子が罪びとの罪を背負って十字架で死んでくださり、復活し、天の上り、聖霊によって私たちを今も導かれている・・・そう聞くと、あまりに話が大きくて、簡単に受け入れることはできないでしょう。

しかし、それこそが、聖書が全体を通して私たちに伝えようとしている救いなのです。

後に、キリスト教会の中からキリストの復活を信じない人たちが出てきた時、パウロは手紙の中でこう書いています。

「キリストは聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死に、葬られました」

「キリストは聖書に書いてある通り、三日目に復活しました」

イエス・キリストに起こったことは、全て旧約聖書に記録されている預言の言葉の実現だった、と力を込めて伝えるのです。

イエス・キリストが、以前、弟子達にたとえ話をお聞かせになりました。こういう内容だ。

贅沢に遊び暮らしていた金持ちと、貧しいラザロという人がいました。金持ちは死んだ後、陰府に落ちます。そして貧しかったラザロはアブラハムと一緒に宴の席に座っていました。

金持ちは、生前の自分の生活を悔い改めて、アブラハムに向かって願いました。「自分がいるところに自分の兄弟たちが来ることのないように、ラザロを遣わしてください」。しかし、アブラハムは、「今聖書を読んで信じないのであれば、死者が復活して神の言葉を伝えたとしても信じないだろう」、と言いました。

考えさせられるたとえ話です。もし今、私たちが聖書を読んでイエス・キリストの復活を信じないのであれば、実際に誰かが生き返って「復活はあるのだ、永遠の命はあるのだ」と言っても信じないだろう、ということです。

私たちには、聖書に記録されたキリストの復活証言があります。聖書の証言を通して、私たちは今も生きて働かれるイエス・キリストとの交わりを知ります。もし聖書を読んで、それを受け入れないというのであれば、実際に復活なさったイエス・キリストのお姿をこの目で見たとしても、信仰に導かれることはないでしょう。

逆に言えば、私たちには、聖書があれば十分なのです。私たちは、驚きに打たれながら、復活のイエス・キリストの慰めの言葉を聞きながら生きていきます。

さて、復活なさったキリストは弟子達に使命を託されました。それはキリストの復活を証言する、ということでした。

何か人の目を集めたり噂になったりするような特別なことをしろとおっしゃるのではありません。ただ、キリストについて見聞きしたこと、つまり、私たちが経験したイエス・キリストとの交わりを隣の人に伝えなさい、ということです。

この使命は、今の教会まで受け継がれています。それぞれの、イエス・キリストとの出会いを、キリストと共にする歩みを、キリストから聞かせていただくみ言葉を隣の人に証言するのです。

主イエスは48節でこうおっしゃっている。

「あなたがたはこれらのことの証人となる。私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高いところからの力に覆われるまでは、都に留まっていなさい」 Continue reading

5月1日の礼拝案内

次週礼拝(5月1日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ルカ福音書24:36~49

 交読文:詩編9編8節~13節

 讃美歌:讃詠546番、10番、243番、354番、頌栄539番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇毎週土曜日は牧師駐在日ですが、4月30日(土)は不在となります。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

4月24日の説教要旨

ルカ福音書24:13~35

「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(24:27)

失意の中、エルサレムを離れていく二人の弟子達に、主イエスが一緒に寄り添って歩き始め、主イエスの復活を知った弟子達がエマオからエルサレムに戻った、という出来事です。

エマオは、エルサレムから60スタディオン離れたところにある村だ、と書かれています。60スタディオンは、10kmの距離です。

イエス・キリストの二人の弟子が、エルサレムで主イエスが殺されたことを嘆きながら、失望の内にエルサレムから離れ、エマオへと歩いていました。彼らは、婦人たちから主イエスの墓が空っぽになった、という知らせを聞いていた。しかし、「この話がたわごとのように思われたので、婦人たちを信じなかった」と記されています。死んだ人が生き返るなどという馬鹿なことがあるはずがない、と受け入れなかったのです。

私たちが今日読んだ、エマオへの道行きは、「認識の出来事」としてよく知られています。二人は、復活なさったキリストと話しながら歩いたのに、この方がキリストだとは認識しませんでした。しかし、キリストと食卓を囲み、パンを受け取ると霊の目が開いて、キリストだと認識します。

私たちはここに、人がどのように復活のキリストを信じるようになるのか、という、「信仰の目の開き」を見ます。この二人の弟子達に起こったことは、キリストを信じる人であるなら、「これはまさに自分に起こったことだ」と、自分の歩んできた信仰の道を振り返ることが出来る場面でしょう。

後に、二人は聖書の言葉を聞いたとき、自分たちの心が燃えていた、と思い出すことになります。弟子達は、復活のキリストに出会って、初めて聖書に記されていることが夢物語ではなく、真実のことであり、自分も聖書の登場人物の一人であることを知りました。

キリストが不思議な仕方で出会ってくださり、聖書の真理を伝えてくださる時、それは私たちにとっても、心燃える時となります。絶望の中、昨日まで生きてきた場所から逃げようとする自分にキリストが寄り添い、共に歩き、み言葉を聞かせてくださり、聖書の真理を知って、行くべき道を歩み始めるのです。誰もが、イエス・キリストとの出会いを思い返す出来事ではないでしょうか。

私たちは、この「エマオへの道行き」の出来事を通して、自分自身のイエス・キリストとの出会いを思い返した時、「またわからないのか、私は復活してあなたと共に歩んでいるではないか」という声を思い返します。

二人の弟子の内の一人は、名前がクレオパといいました。もう一人の名前は記されていません。この「もう一人」が一体誰なのか、ということについてはいろんな説があります。

ヨハネ福音書にクレオパの妻であるマリアの名前があるので、この「二人の弟子達」というのは、クレオパとマリアの夫婦だったとも推測できます。

しかし、福音書はここであえてクレオパの同行者の名前を記していません。「クレオパとマリアの夫婦が歩いていた」、とは書いていないのです。

このことは重要なことだと思います。聖書がクレオパの同行者の名前をあえて記していない、ということに、何か特別な意味があるのではないでしょうか。

聖書は、この無名の弟子の姿に、私たち読者の姿を見せようとしているのではないでしょうか。聖書は、「今、あなたはエマオへと歩いている。クレオパと一緒に歩いているこの弟子はあなただ」と、私たちの姿をこのエマオへの道行き登場人物として見せ、信仰者としての在り方を問いかけているのではないか。

私たちはこのエマオ途上の弟子達とキリストとの出会いを通して、聖書から「これはあなたに起こったことであり、今もあなたに起こっていることだ」と見せられているのです。

二人の弟子達は、エルサレムから遠ざかりながら、道の上でエルサレムでの出来事を語り合っていました。この二人に、三人目が加わります。この三人目の人物は、復活なさったイエス・キリストでしたが、不思議なことに、この時の二人の弟子達にはそのことがわかりませんでした。

その三人目の人から「話しているのは何のことですか」と尋ねられて、クレオパは「あなたはエルサレムにいたのに、ナザレのイエスの十字架のことを知らないのですか」と驚きました。あれだけ話題になって、あれだけたくさんの人がゴルゴタの丘にその十字架を見に行ったのに、どうしてこの人はそのことを知らないのだろう、と不思議に思ったのです。

二人の弟子は、イエスという人がどのように活動を続け、そしてどのように最後に十字架に上げられて殺されたのかを語りました。恐らく、「イエスの活動はもうそこで終わってしまった。イエスが伝えた神の国をもう私たちは見ることができなくなった」と、悲観的なことを伝えたのだろう。

弟子達は、ナザレの預言者がイスラエルを率いて、もう一度強いイスラエルを取り戻してくれると信じていました。しかし、殺されてしまいました。しかも十字架で殺されてしまいました。彼らは確かに主イエスの死を見たのです。

「エルサレムでこんなことがあって、自分たちは失望しているのだ」ということを伝えると、この二人は、三人目の人から「まだわからないのか」と言われてしまいます。「物分かりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と叱られます。

その三人目の人は、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言って、聖書全体を説明して、ナザレのイエスの十字架の意味を語って聞かせた。

二人は、この人の話に驚き、もっと聞きたい、と思ったのでしょう。エマオに到着しても、この三人目の人物を引きとどめ、なおも話を聞こうとしました。

夕方になり、夕食の食卓を三人で囲みました。ここをよく読んでみると、面白いことがわかります。二人がこの人を引き留めたのに、三人目の人物が、この食卓の主人として取り仕切っています。この人が讃美の祈りを唱え、パンを裂いて、二人に渡しています。

そして不思議なことに、その人からパンを受け取った瞬間に、二人は、その人が復活なさったイエス・キリストだと分かりました。そして、わかると同時に、その人が見えなくなったのです。

このエマオでの食卓は、キリストからパンを渡され者の信仰の目が開かれた、という出来事なのです。

エルサレムから絶望感をもって出てきた二人の弟子達は、ここから希望に満ちてエルサレムへと引き返しました。

この時まで二人の弟子達の頭の中にあったのは、「自分はこれからどうすればいいのか、何を信じていけばいいのか」ということでした。三日前までは、ナザレのイエスを救い主だと信じ、この方が自分の生き方を示してくださると信じて従って来ました。

しかし、ナザレのイエスは十字架で殺されてしまい、いきなり、自分たちが歩むべき道が奪い去られました。

彼らにできたことは、エルサレムから離れることでした。留まりたくない場所、もうそこに居たくないと思う場所から逃げることでした。「昨日までの自分たちが信じてきたものは何だったのか」「これからどうすればいいのか」・・・彼らはエマオへと向かってはいたが、迷子になっていました。次にどっちに向かって一歩を踏み出せばいいのか分からなくなっていました。

しかし、復活の主との出会いは、次の一歩をどちらに踏み出せばいいのかを確かに教えてくれました。弟子達がエルサレムに戻るということは、復活のキリストとの出会いがなければ絶対になかったことです。

エルサレムに戻ると、復活なさった主イエスが弟子のシモンにも出会われた、ということが話されていた。女性たちが告げた、空の墓の問題は解決されました。あの方は、本当に復活なさったのです。

主イエスが復活なさったということ、このことが、弟子達が新たに生きる希望となりました。キリストとの出会いは私たちが歩む道を変えるのです。キリストに出会う、ということは、生きる道が、方向が、目的が変わる、ということなのです。

「主イエスは確かに自分に出会い、言葉をかけてくださった」と振り返って思う瞬間があるのではないでしょうか。その時には主イエスだとはわからないかもしれない。しかし、後から思い返すと、「確かにあの時キリストは自分と一緒に歩いて、行くべき道を教えてくださったと分かる」ことがあります。

私たちは自分たちの肉の目でキリストの姿を捉えることはできません。しかし、肉の目に捉えることのできないキリストとの出会いは、私たちを確かに変えるのです。

信仰者にとって、キリストが復活なさったということは決して消えない希望です。もしも「主イエスが十字架で殺された」、ということで全てが終わっていたのであれば、聖書に記されていることは全て過去のこととして読まれることになったでしょう。

しかし、聖書は、今のことが記されているのです。聖書は、「この方は今、復活なさり、生きてあなたと共に歩んでくださっている」と伝えています。

弟子達は、聖書の解き明かしをキリストご自身から聞かされました。「聖書に記されていることは全て、あなたに起こったことなのだ」、と教えられえたのです。

復活なさったイエス・キリストは今も私たちの目には見えない形で、共に歩いてくださっています。私たちが「ここから逃げ出したい」と思う時も、私たちにはわからない仕方で寄り添い、必要な言葉を聞かせ、「まだわからないのか」と叱ってくださいます。

キリストの十字架の後、秩序を失い、生きる道・目的を失った弟子達に寄り添い、希望をお与えになったキリストは、あのエマオへの道でそうなさったように、今も私たちを神の国へと寄り添って、共に歩いてくださっているのです。