3月20日の礼拝案内

 次週礼拝(3月20日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書15:33~41

 交読文:詩編8編2節~10節

 讃美歌:讃詠546番、2番、90番、298番、頌栄543番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

3月13日の説教要旨

マルコ福音書15:33~41

「昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続いた」(15:33)

「十字架の闇」

ゴルゴタの丘の十字架上でイエス・キリストがイエス・キリストが息を引き取られた瞬間です。神の救いの御業が現れた、この歴史の中で最も神聖な場所・瞬間です。

ゲツセマネでイエス・キリストは「できることなら、苦しみの杯を私から取り除けてください。しかし、私が望むことではなく、あなたの御心のままに」と何度も祈られました。それは、イエス・キリストが地上の生涯で神と向き合って祈られた最後の時間でした。しかしその祈りの中で示されたのは、神は自分に十字架の死を望んでおられる、ということでした。

主イエスは救い主キリストとして、神の御業のために自分を差し出すために、祈りの戦いを続け、御自分が与えられた苦しみの杯を飲み干すために十字架の死へと進んで行かれたのです。

私達はこの十字架の主イエスの死を見て不思議に思うのではないでしょうか。

「なぜ神の子が十字架で死ななければならなかったのか。なぜ神の子が神に向かって絶望的な叫びを上げなければならなかったのか。なぜこの方の十字架は暗闇に包まれたか」

これらのことについて、考えていきたいと思います。

死の直前、主イエスは十字架の上で叫ばれました。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」

これは主イエスが実際に話されていたアラム語で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味の叫びです。神に向かって放たれた、祈りとも、恨み言ともとれる叫びです。これが主イエスの地上での最後の言葉でした。

ここまで主イエスは沈黙を貫いてこられました。最高法院のユダヤ人たちの裁判の中でも、ピラトの尋問に対しても、黙って有罪の判決を受け、言い返すことなく、抵抗することなく十字架へとご自分の身をゆだねてこられた方です。群衆が「イエスを十字架につけろ」と叫んだ時も、ローマ兵から鞭で打たれた時も、兵士たちから嘲りと侮辱を受けた時も、十字架に打ち付けられた時も、主イエスは徹底して沈黙を貫いてこられました。

しかし、息を引き取られる瞬間、沈黙を破り、叫ばれます。

「わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。その一言は絶望の叫びでした。信仰者の最後の希望である神を見失った叫びです。

この時主イエスが確かに十字架の上で叫ばれた言葉を、周りで聞いていた人たちは正確に記憶して、聖書にそのまま「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と記録されました。

なぜ神の子が、神に向かって絶望の叫びを上げて死んでいかなければならなかったのでしょうか。私たちにとって、そのことは大きな謎です。

ここまで、ガリラヤからエルサレムに至るまで、この方は神のために働いてこられました。神の国の教えを説き、神の業を行ってこられた方です。

私たちは、ここに神に見捨てられた神の子、という究極の矛盾を見ます。「神の子ですら神から見捨てられる」ということを見ると恐怖を感じます。

主イエスはこの福音書の中で神に向かって「父」と呼びかけてこられました。しかしここで初めて、神を「父」と呼ばず、「神」と呼びかけていらっしゃいます。神と主イエスとの間に、距離があるのです。

主イエスが最後に叫ばれたこの一言は、詩編22編の最初の言葉です。それは自分をむち打ち、嘲る人たちの中で神を求める祈りの言葉です。

神に背を向けたイスラエルは何度も、罪がもたらす苦しみの中で神に向かって祈り叫んできました。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」

これは罪の中から救いを求める叫びだ。

私たちはこのキリストの叫びをどう捉えればいいのでしょうか。

聖書は、キリストの十字架の死は、私達罪人の身代わりの死であった、ということを証ししています。そうであるなら、十字架の上のキリストの死は、本当は私たち罪びとがそうなるはずのものであったことであり、「わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という叫びは、本当は罪びとが十字架の上で叫ぶはずの叫びだった、と言っていいのではないでしょうか。

この方は、この罪の絶望・罪の孤独・罪の悲惨を、十字架の上で身に引き受けてくださり、本当は、私たちが死ぬ際、最後の一息で叫ぶ絶望の言葉を代わりに叫んでくださったのではないでしょうか。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉は本当は神の子キリストが叫ぶようなことではありません。あの方は、私達の罪の叫びを十字架の上まで持って上がっくださったのです。私達が「わが神、なぜ私を見捨てたのですか」と叫ばなくてもいいように。

キリストの十字架の死に関して、もう一つ不思議なのは、全地が暗くなった、ということです。

「12時頃、全地が暗くなり、3時まで、主イエスが息を引き取られるまで闇が続いた」、とあります。

日食が起こったのでしょうか。それは考えられません。日蝕は3時間も続かないし、過越祭はそもそも満月の時期なので、日食が起こらない季節です。

偶然3時間もの間太陽が厚い雲に覆われたか、偶然嵐が3時間続いたのか、それは分かりません。

しかし私たちにとって、どんな自然現象によって暗くなったのか、ということが重要なのではないのです。キリストが十字架に上げられた際に起こった「闇」にはどんな意味があったのか、ということが重要なのです。

旧約の預言者アモスがこんな預言を残しています。

アモス8:9

「その日が来ると、と主なる神は言われる。私は真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。私はお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子をなくしたような悲しみを与え、その最後を苦悩に満ちた日とする。」

ゴルゴタの神の子の十字架を包む暗闇、それはまさに、アモスが預言した「独り子をなくしたような悲しみの闇、喜びの祭りを悲しみに変える闇」でした。

アモスが預言した「その日」、つまり「裁きの日」が、来たということです。。

真昼に太陽が沈み、白昼に大地が闇となる時。

祭りの喜びが悲しみに、喜びが嘆きになる時。 Continue reading

3月13日の礼拝案内

 次週礼拝(3月13日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書15:33~41

 交読文:詩編8編2節~10節

 讃美歌:讃詠546番、1番、136番、142番、頌栄543番

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

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3月6日の説教要旨

マルコ福音書15:21~32

「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」(15:30)

二千年前に、エルサレムのゴルゴタの丘でナザレのイエスというユダヤ人青年が十字架刑で処刑されたこ出来事の中に、私たちはどれだけのことを見ているでしょうか。

1世紀のユダヤ人の歴史家、ヨセフスという人は、「紀元30年ごろ、エルサレムでイエスという人が十字架で殺された」と記録しています。ただ、それだけを書いています。歴史家ヨセフスにとっては、「そういうことがあった」という、一言で片付く出来事だったのでしょう。

しかし、一世紀のキリスト者たちは、この方の十字架を単なる「罪人(ざいにん)の処刑」では終わらせませんでした。彼らはナザレのイエスという方に関して膨大な証言を集め、福音書を紡ぎあげ、この方の十字架が神の許しと招きの御業であったことを後の世に残したのです。

我々は、このイエスという方の十字架を私たちはどう見るでしょうか。改めて考えたいと思います。

極限の痛みの中、キリストは最後まで、誰からも憐みを受けることなく黙ってすべてを甘んじてお受けになりました。私たちはゴルゴタの丘の光景を通して、神の子が罪人のためにどれだけの痛みを引き受けてくださったのか、そして罪びとの目にどれだけ神の子の本当のお姿が見えていなかったのか、ということを知ります。

人々はここまで、主イエスのことを「ダビデの子」と呼んできました。強いイスラエルを築き上げたダビデ王の再来として期待したのです。しかし主イエスは人々が期待した強いユダヤの王ではなく、羊飼いとしてのダビデの再来でした。ユダヤ人を指導してローマに反乱を起こすメシアではなく、イスラエルのために自分を犠牲にして、神の元へとすべての人を招くメシアでした。

主イエスの十字架の罪状が「ユダヤ人の王」と掲げられたことは、これ以上ない皮肉です。主イエスはローマへの反乱者と一緒に十字架に上げられました。「二人の強盗」というのは、主イエスの代わりに釈放された反乱の指導者バラバの配下の者たちでしょう。まるで、ローマに反乱を起こしたユダヤ人の王であるかのように扱われています。主イエスの本当のお姿とはまるでかけ離れています。人々がどれだけこの方のことを理解できていなかったか、ということがわかります。

しかし、この人間の無理解さえも神の救いのご計画の中に入っていました。主イエスご自身は、御自分がお受けになる痛みについて、「すでに聖書に書かれている」と何度もおっしゃってきました。

ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて山に登り、モーセとエリヤと共に話された後、山を下りるときに、主イエスは三人におっしゃいます。「人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてある」

ユダがご自分を裏切ろうとしていた過ぎ越しの食卓では、「人の子は、聖書に書いてある通りに、去って行く」とおっしゃいました。

ゲツセマネの園にご自分を逮捕しに来た人たちには、「これは聖書の言葉が実現するためである」とおっしゃいました。

主イエスは何度も何度も、ご自分に与えられる痛み、侮辱、すべての人から与えられる死について、「すでに聖書に書かれている・預言されている」とおっしゃって来ました。ゴルゴタの丘でこの方がお受けになった痛みは全て神のご計画の内にあったのです。

主イエスは弟子達に受難を予告されました。

「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人のことを侮辱し、唾をかけ、鞭うったうえで殺す」

全て、その通りになっています。

ユダヤの指導者たちから有罪とされ、ローマ兵からは鞭で打たれ、いばらの冠をかぶせられ、頭をたたかれ、唾を吐かれました。そして今、十字架の上でユダヤ人からの痛みをお受けになっています。

それだけではありません。

「そこを通りがかった人」から、「祭司長たちと律法学者」たちから、そして「一緒に十字架につけられた人たち」からののしられました。

主イエスの十字架の周りには誰一人味方はいなかったのです。「たとえ死ぬことになってもあなたを見捨てることはありません」、と言った弟子達でさえ一人もいません。近くにいて主イエスの受難の予告を聞いていた弟子達でさえそうでした。

聖書の言葉をよく知っていた祭司長、律法学者たちですら、主イエスの十字架に神の御心を見出すことはありませんでした。十字架に上げられたナザレのイエスを初めて見るユダヤ人たちならなおさら、この方のことを理解することはなかったでしょう。

さて、もし私たちが、この時ゴルゴタの丘のキリストの十字架を見たら、なんと声をかけたでしょうか。「この方は神の子で、今私たちの罪を背負って死のうとしてくださっているのだ」と言えたでしょうか。頭を振りながら、周りにいた人たちと一緒に、この方に向かって侮辱の言葉を吐いたのではないでしょうか。

キリストは十字架で血を流すご自分のお姿を通して、私たちの罪を教えてくださっている。

十字架に上げられた主イエスに向かってユダヤ人たちは様々な侮辱の言葉を吐きました。

「神殿を打ち倒しし、三日で建てる者」

「メシア、イスラエルの王」

彼らが侮辱するために吐いた言葉は皮肉にも、真実でした。

この方はエルサレム神殿を打ち倒し、霊の神殿を三日でお建てになる方でした。この方は本当にメシアであり、イスラエルの王でした。

イエス・キリストの十字架の死は、確かにエルサレム神殿の終わりでした。古い神殿はここで滅びるのです。この後、キリストが息を引き取られた瞬間に、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けます。キリストはご自分の命と引き換えに、神へと通じる道を拓かれるのです。

十字架の死から三日後、キリストは復活され、「人の手によらない」神殿、霊の神殿、神の畑を新しく打ち立てられます。キリスト教会です。

人々は少しずつ、自分たちが十字架で殺したナザレのイエスが実はメシアであり、イスラエルの王、この天地の王・神であることに気づいていくことになります。

「他人は救ったのに、自分は救えない」と人々は十字架のキリストに向かって叫びました。確かに、主イエスはこれまで多くの人を奇跡の業で癒し、悪霊を追い出してこられました。「あれだけの力があったのだから、十字架から降りることだってできるはずだ」、そう考えたのでしょう。

主イエスは以前、ご自分に与えられる痛みの意味について弟子達にこうおっしゃいました。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」

「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」

この方は、自分を救えないのではないのではありません。救わないのです。自分を救うことが許されていないのです。十字架から降りることは許されないのです。神が、御自分に十字架で死ぬことをお求めになっているからです。今、身代金としてご自分の命を自ら差し出すことが神から与えられた使命であるということをご存じだったのです。契約の血をご自分の体から流すことが求められているのです。

イエス・キリストは十字架の周りで御自分を侮辱する一人一人を、その罪から救いだすために、今痛みを引き受けていらっしゃいます。主の十字架の周りで叫ぶ人たちは、自分たちの罪をこの方にどんどん負わせています。

この十字架の三日後に、人々は墓の中からよみがえられた主イエスを見ることになります。一人や二人ではありません。キリストの弟子達だけではありません。多くの人が殺されたはずのイエスを見ました。

復活なさったキリストにペトロはもう一度招かれ、宣教へと押し出されました。そしてエルサレムの人たちに告げました。 Continue reading

3月6日の礼拝案内

 次週礼拝(3月6日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書15:21~32

 交読文:詩編8編2節~10節

 讃美歌:讃詠546番、83番、145番、507番、頌栄543番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇3月5日(土) 役員会があります。

 【牧師予定】

◇3月8日(火) 18時より 富士見町教会にて東支区総会があります。

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会  Continue reading

2月27日の説教要旨

マルコ福音書15:21~32

「兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。そして、イエスをゴルゴタという所に連れて行った。」(15:21-22)

イエス・キリストは鞭で打たれ、その後600人ものローマ兵たちから暴力をお受けになりました。いよいよ、ここからキリストの十字架刑が始まります。

十字架刑とはどのような刑だったのでしょうか。十字架に上げられる囚人は、十字架に釘で打ち付けられる前にまず鞭で打たれます。十字架刑を宣告されたイエス・キリストも、鞭で打たれました。

当時ローマ兵がつかっていた鞭の中には、痛みが増すように鞭の先にガラスや陶器の破片などがつけられたりしていて、肉をえぐるように作られているものもありました。むち打ちの段階で死んでしまう囚人も多くいました。

十字架刑は奴隷やローマに反乱を企てた暴徒のための処刑法でした。みせしめのための処刑法なので、すぐには囚人を殺しません。十字架に上げられた人は、十字架の上で何時間も、人によっては何日も苦しむことになります。

紀元前1世紀を生きたローマの文筆家のキケロは十字架について、「最も残酷で不快な処刑法」と記しています。

紀元1世紀のユダヤ人の歴史家ヨセフスは十字架による死のことを「最も哀れな死」と記しています。

囚人は自分が打ち付けられることになる十字架の横木を処刑場まで運ばされます。主イエスは、鞭打ちの刑と兵士たちからのリンチによって、もうご自分で横木を運ぶ力が残っていませんでした。

弱り切った主イエスの代わりに横木を運んだのは、キレネ人シモンという人でした。総督の官邸から外へと主イエスが引き出された時、偶然そこを通りかかり、無理やり主イエスの十字架の横木を運ぶようローマ兵から命じられたのです。

シモンが「イエスの十字架を運べ」と言われてどう思ったか、どんな気持ちで十字架を運んだのか、聖書には何も記されていない。しかし、書かれていなくても私たちはすぐに想像できるだろう。「無理矢理運ばされた」とあるので、当然シモンは喜んで運んだわけではありませんでした。

シモンにとっては、見ず知らずのナザレのイエスという犯罪人の十字架を無理やり背負わされた不運でした。犯罪人の十字架を運ばされるということはシモンとって不名誉極まりないことでした。「なぜ自分が」、と運の悪さを呪ったことでしょう。

しかし、このことは、のちにシモンの栄誉となりました。

聖書はシモンのことを随分詳しく記録しています。アレクサンドロとルフォスという二人の息子たちの名前まで書かれています。

マルコ福音書が記された1世紀の教会では、「あのアレクサンドロとルフォス」の父親という知られ方をしていたのでしょう。アレクサンドロとルフォスは、福音書が記された時代には教会の指導者として皆に名が知られていたのでしょう。だからこそ、マルコ福音書はシモンのことを「あの二人の父親であるシモンが」という書き方をしているのです。

シモンは、後に主イエスの復活を知り、自分があの時背負った十字架はキリストの十字架だった、ということを知ったのでしょう。自分の肩に重く食い込んだあの十字架の痛みは、キリストのための痛みだった・・・そのことがシモンの恥を信仰の誇りへと変えたのです。

シモンは自分の二人の息子たちに、あのイエス・キリストのゴルゴタの道行きの時の話を何度も話して聞かせたのでしょう。ゴルゴタまで、見ず知らずの囚人の十字架を運んだ、ということがシモンの信仰の誇りとなり、そしてそのことが、彼をキリストの証人へと変えたのです。

私たちにとっての信仰の誇りは何でしょうか。それは、私たちがどのようにキリストの十字架を担ったか、そして、今、私たちがどのようにキリストのために自分の十字架を担っているか・・・そういうことではないでしょうか。

私たちの信仰の誇りというのは、人から拍手をもらうような、人間としての誇りではありません。シモンはゴルゴタまで、人間として立派なことをしたのではありません。誰もが嫌がることを、偶然そこを通ったというだけで嫌々やらされただけです。

シモンは主イエスを見ても、メシアだとはわかりませんでした。言われたので、仕方なく運びました。信仰者としては褒められることではありません。ここにシモンの立派さなんてものはありません。むしろシモンの信仰の弱さ・霊的な弱さが現れています。

しかし、この不名誉が、キリストの十字架の意味を知った時に、名誉に変わるのです。キリストを恥としていた人が、キリストを誇りにするようになるのです。自分の霊の弱さが神の御業の中で用いられた、ということがシモンの誇りとなり、彼はキリストの証人となりました。

使徒パウロはコリント教会にこう書いている。

「私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです」

なぜパウロはこんなことを言ったのでしょうか。自分の弱さが神に用いられている、ということ、そして自分が自分の力で福音を伝えているのではないということを知ったからでしょう。

パウロは「私をもっと強くしてください、私の中から弱さをなくしてください」と祈りました。しかし、祈りの中で神から言われます。

「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ発揮されるのだ」

これを聞いてパウロは、強さを求めることをやめました。

「キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と言っています。

パウロは自分の弱さを聖霊がキリストのために用いてくださっていることを知ったのです。私たちの信仰の誇りは、私たちの人間的な弱さを通して生み出されていくものなのです。

イエス・キリストを見捨てた弟子達は、のちにキリストの証人として用いられることになった。弱い罪びとに過ぎなかった弟子達でした。その罪の弱さまでも用いられることになりました。

キリストの十字架を運ぶつもりなど全くなかった、田舎から出てきたキレネ人シモンがしたことが、のちに教会の中で記憶され、聖書の中に記録されることになりました。シモンはゴルゴタの道行きの中で、キリストをキリストとして見ることはできなかった、信仰的には弱い人でした。しかし、シモンのその弱さを通して神の御業は進んだのです。

さて、私たちが今日読んだキリストの十字架への歩み、そして十字架の上での死は、聖書が私たちに描き出す救いの歴史の頂点です。聖書は十字架の残酷さを詳細に描くよりもむしろ、キリストの十字架の意味を伝えることの方に重点を置いています。

キリストが没薬を混ぜた葡萄酒を差し出されてもお飲みにならなかった、ということ、そして兵士たちがキリストの服を分け合った、ということを記しています。それほど重要に思えないようなことを、聖書はわざわざ記録しています。これは何なのでしょうか。

没薬を混ぜた葡萄酒は、痛みを緩和させるためのものでした。しかしキリストはそれをあえて拒絶され痛みを全てお受けになる道を選ばれました。

そしてキリストは服を奪われ、裸で十字架へと上げられ、十字架の下ではその服を兵士たちがくじを引いて分け合った、ということが記されています。

なぜ聖書はそのようなことをわざわざ記録しているのでしょうか。十字架に向かわれる主イエスがお受けになった痛みはすべて聖書の言葉の実現であることを示そうとしているのです。

詩編69:21「嘲りに心を打ち砕かれ、私は無力になりました。望んでいた同情は得られず、慰めてくれる人も見出せません。人は私に苦いものを食べさせようとし、渇く私に酢を飲ませようとします」

詩編22:18「骨が数えられるほどになった私の体を、彼らはさらし者にして眺め、私の着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」

メシアに与えられることになっている苦しみ、孤独、嘲りは全て預言されていました。福音書は、私たちに、旧約聖書を通して預言されていたことは全て、この方の十字架だった、と伝えているのです。 Continue reading

2月27日の礼拝案内

次週礼拝(2月27日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書15:21~32

 交読文:詩編7編7節~18節

 讃美歌:讃詠546番、82番、269番、520番、頌栄542番

 【牧師予定】

◇3月8日(火) 18時より 富士見町教会にて東支区総会があります。

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

2月20日の説教要旨

マルコによる福音書15:16~20

「兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを弾いていき、部隊の全員を呼び集めた」(15:16)

ローマ兵からキリストが暴力を振るわれた、という場面です。イエス・キリストは夜中に逮捕されてから十字架に上げられるまで、あらゆる仕方で暴力を振るわれてきました。

ユダヤの最高法院の人たちによって有罪とされた際には「ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、『言い当ててみろ』と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った」とあります。

ローマ総督ポンテオ・ピラトに引き渡されて十字架刑の宣告を受ると、鞭で打たれました。そしてその後、主イエスはローマ兵たちへと引き渡され、さらに、たたかれたり侮辱されたりしたのです。

これから主イエスは十字架にくぎで打ち付けられて殺されることになります。兵士たちの役目は、このイエスという人を十字架に上げて処刑することでした。しかし、兵士たちは、連れてこられたイエスという人をすぐに十字架へと送りませんでした。王の格好をさせ、侮辱し、暴力を加えてから十字架へと送ったのです。

この兵士たちは、ユダヤの大きな祭りである過越祭の警備にあたっていた人たちでした。過越祭から暴動が起きたりしないようにらみを利かすのが仕事でした。緊張する役目であると同時に、何もなければ暇を持て余す役目でもありました。退屈して時間を持て余していたところに、「ユダヤ人の王」を自称したイエスという男が連れてこられます。

兵士たちにとって、このナザレのイエスは、愚かにもローマへの反逆を企て事前にそれが発覚し、捕らえられて自分たちのところへと連れてこられた人物にしか過ぎませんでした。ユダヤ人の反乱を主導しようとして失敗した、ただの愚か者です。兵士たちにはこのイエスという人物を大事に扱う理由、愛する理由などありません。どうせこれから死刑になる人間です。

兵士たちがどんな思いで、そしてどのように、また、どれほど主イエスのことを痛めつけたのか、すぐに想像できるのではないでしょうか。

彼らは自分たちの楽しみのために主イエスに侮辱と暴力を加えました。ただ自分たちの楽しみのためだけに、主イエスを使って自分たちを満足させたのです。

ここでは「部隊の全員」が呼び集められた、と書かれています。この「部隊」というのは600人の部隊でした。全員が集められた、ということは、イエス・キリストは600人の兵士たちから侮辱され、たたかれ、唾を吐かれた、ということです。どれほどすさまじい暴力だったか、ということがわかります。

さて私たちは主イエスを侮辱して痛めつける兵士たち、そしてそれを黙って甘んじてお受けになる主イエスご自身の姿に、何を見るでしょうか。

異邦人兵士たちがここで侮辱し、頭をたたき、唾を吐きかけた方は、「ユダヤ人の王」でも、「神への冒涜者」でもありません。聖書はこの方をキリスト・メシアとして証しています。神の右に座し、全世界を統治する権威を神から託される「人の子」と呼ばれるメシアとして伝えています。ユダヤの支配者であっても、ローマの支配者であっても、この方が本当は誰なのかを知ったら青ざめるほどの権威を持った方でした。

その方を兵士たちは今楽しんで侮辱しています。自分の罪を背負い、死んでくださるメシア・この世界の王を、彼らは何も知らず殴り、唾を吐きかけています。

しかし、誰も自分が何をしているのか分かりませんでした。このことは旧約の預言者イザヤはすでに預言していました。

イザヤ書53:1~4

「私たちの聞いたことを、誰が信じ得ようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。」

「私たちの聞いたことを、誰が信じ得ようか」

まさにイザヤが預言した通りです。誰も、自分が痛めつけ、侮辱している相手が神のメシアだと、誰も気づきませんでした。ローマの兵士たちはもちろん、聖書の言葉をよく知っているユダヤの大祭司や律法学者ですら気づきませんでした。何も知らずに自分たちの王を侮辱し、痛みを与える罪びとの姿がここにあります。

まさか自分の目の前に全世界の支配者、神がいるとは誰も思いませんでした。私たちも同じでしょう。何も知らず、神のメシアを侮辱する兵士たちを通して、私たちは神の御心に自分がどれだけ鈍感であるか、ということを見せつけられるのではないでしょうか。

「神の御心」とか「神のご計画」と聞いても、自分の日常からかけ離れた、どこか自分から遠いところにあるように思ってしまうのではないでしょうか。私たちはどこかで、キリストは遠いところにいらっしゃる方だ、遠い時代の方だ、と決め込んでいるのではないでしょうか。

今も目の前にキリストが共にいてくださるということ、キリストが私と一緒の歩幅で歩いてくださっている、ということをどれだけ現実味をもってとらえているだろうか。目に見えない聖霊の力を、導きを、守りを、どれだけ見ようとしているでしょうか。私たちの霊は乏しいのです。だからこそ、聖書を通して、キリストに痛みを与えた人たちの姿を通して反省しなければならないのではないでしょうか。

弱々しく、無抵抗に痛めつけられるイエス・キリストのお姿を見て、「これが本当に全世界の統治者・メシアなのだろうか」、と思わせられます。

エルサレムにお入りになる前に、キリストは弟子達にすでにご自分の受難を予告されていました。

「今、私たちはエルサレムへ上っていく。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭うったうえで殺す」

キリストはエルサレムでご自分を待ち受けている痛みを、侮辱を全てご存じでした。そしてエルサレムに入る前に弟子達を呼び寄せて、ご自分がなぜ殺されるのか、という神の救いのご計画の本質をお話になりました。

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたいものは、皆に仕える者になり、一番上になりたいものは、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」

ローマの兵士たちから侮辱され、たたかれ、唾を吐かれ、鞭うたれるお姿は、実は、ご自分の命を罪人のために身代金として捧げていらっしゃる、キリストの勝利のお姿なのです。

しかし、この時、異邦人の兵士たちから無抵抗に侮辱され、痛めつけられている主イエスの姿の中に、誰が神の勝利を見出すことができたでしょうか。イザヤが「誰が信じ得ようか」と預言した通りなのです。

キリストは弟子達に「人のために仕える」ということをお教えになりました。「私がそうしたように、君たちも、そうしなさい。私が生きたように、君たちも生きなさい」とお教えになりました。つまり、「神と隣人の僕として生きなさい」ということです。

全ての人がイエス・キリストのように生きる・・・すべての人が神の僕として神に仕え、隣人の僕として互いに仕えあう・・・それが、キリストが世に示された神の国なのです。神の支配、神の国とはそういう世界です。全ての人がイエス・キリストの支配の下に生きる、ということで全ての人が神と隣人に仕えて生きる平和の国が実現していきます。

さて、キリストはご自分の受難を予告された際、最後にこうおっしゃいました。

「そして人の子は三日の後に復活する。」

メシアは死に勝る支配をもたらしてくださいます。ご自分を殺す罪びとたちに永遠の命という恵みを下さるのです。

イザヤ書56章のイザヤの預言を最後に引用します。

「主のもとに集って来た異邦人は言うな、主はご自分の民と私を区別される、と。・・・主のもとに集って来た異邦人が主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく私の契約を固く守るなら、私は彼らを聖なる私の山に導き、私の祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。・・・私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。追い散らされたイスラエルを集める方、主なる神は言われる。すでに集められたものに、さらに加えて集めよう、と。」

イザヤは、異邦人への神の招きを預言しました。異邦人の兵士たちはイエス・キリストに唾を吐き、侮辱し、痛めつけた。しかしこの兵士たちでさえ神は招かれているのです。

「自分はあの時キリストに唾を吐いた、私はキリストを侮辱した、だから、自分は神に愛される資格などない」・・・そんなことはありません。もしそこで終わりなら、誰一人神に許されることはないでしょう。私たちは生きてきた中で何度キリストに唾を吐き、キリストを知らないと言い、キリストを鞭打ってきたでしょうか。

神はご自分の独り子を鞭で打ち、唾を吐き、侮辱した異邦人たちの罪を許すために、そんな私達のために、独り子の命をお与えになったのです。

パウロはコリント教会にこう記しています。

「罪と何のかかわりもない方を、神は私たちのために罪となさいました。私たちはその方によって神の義を得ることができたのです。」2コリ5:21

私たちが自分自身の罪の深さを知れば知るほど、それを赦してくださる神の愛の深さを知ることになります。自分の罪を嘆く罪びとの声の大きさよりも、神の招きの声の方が大きいのです。

招きのみ言葉へと霊の耳を開いていたいと思います。イエス・キリストをただ、キリストと信じ、許しの招きに身を委ねた先で、祈りの家に生きることができるのです。

2月20日の礼拝案内

 次週礼拝(2月20日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書15:16~20

 交読文:詩編7編7節~18節

 讃美歌:讃詠546番、79番、138番、494番、頌栄542番

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

2月13日の説教要旨

マルコ福音書15:1~15

「群衆はまた叫んだ。『十字架につけろ』」(15:13)

ユダヤの最高法院の人たちは、神であると自称したナザレのイエスを死刑にしてもらおうと、ローマ総督、ポンテオ・ピラトのところへと連れて行きました。ローマの支配下において、ユダヤ人たちは誰かを死刑にすることを許されていなかったのです。誰かに死刑の判決を下し、刑を執行するのは、ローマの権威よらなければならなりませんでした。

彼らはローマの総督であったピラトに、「この者はユダヤ人の王と自称しています」と言って引き渡したようです。それはつまり、「この者はローマへの反乱を企てています。十字架刑に処してください」ということです。

ピラトは、自分のところに連れてこられたナザレのイエスを見て、「これは、祭司長たちがナザレのイエスの人気を妬んでやっていることだ。イエスは何も罪を犯していない、ローマにとっても何の危険もない」とすぐに見抜きました。

ピラトは、ユダヤ人たちの問題に振り回されたくはありませんでした。ユダヤ人たちの思惑のために、ローマ総督の権威を利用されたくありません。無実の人間を死刑にすることは、ピラトにだって後味のいいものではなかったでしょう。

しかし、この日はユダヤの祭り、過越祭の当日でした。ユダヤ人たちの民族意識・愛国心が燃え上がる時です。ナザレのイエスをめぐって、ユダヤ人たちの感情が高ぶり、エルサレムで暴動が起こるようなことだけは避けたい、という思いも持っていました。

ピラトは本当はローマ総督の権威をもって「この者は無罪だ。死刑にはしない」と言うこともできました。しかし、それではユダヤ人たちの感情を損ねる、ということを恐れてもいました。

ピラトは現実主義者でした。ユダヤ人たちの感情を損ねずに、ナザレのイエスを解放する方法を考えます。祭りのたびごとに囚人を一人解放する、という習慣を用いることにしました。ピラトは「ユダヤ人の王を自称した」という、ナザレのイエスを助けるよう人々が願い出るだろうと踏んでいました。

しかし、その狙いは外れることになります。群衆が押しかけてきて、いつものように囚人を一人解放してほしいと要求し始めました。

ピラトは言いました。「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」

ピラトは、群衆が「そうです」と言うかと思っていました。しかし、「イエスではなくバラバを釈放してほしい」と群衆は答えたのです。ピラトが主イエスを取り調べている間に、祭司長たちが、群衆をそう言うように扇動していたのです。

聖書には、「暴動の時人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた」とあります。これだけ読むと、極悪非道な犯罪者という印象を受ける。

しかし、バラバは、普通の犯罪者とは違いました。「暴動に加わっていた」ということは、ユダヤのためにローマ帝国と戦った、ということです。「人殺しをして」というのは、ローマ兵を殺した、ということです。

ローマ帝国の支配・抑圧に不満をもっていたユダヤ人たちにとってバラバは、犯罪者ではなく、自分たちの自由のために戦ってくれた英雄だったのです。

それに対して、ナザレのイエスはどうだったでしょうか。この人は、自分で自分のことをユダヤ人の王だと言っているが武器をとってローマと戦うことをしていないじゃないか・・・そのような思いもあったでしょう。

ナザレのイエスは、エルサレムの民衆にとってガリラヤ地方から来た、田舎教師に過ぎませんでした。ユダヤ人のために武器を戦ってもいないのに、そしてエルサレムの人間でもないのに、ユダヤ人の王だと自称しているなんてお笑い草です。

愛国の英雄バラバが釈放されるのであれば、ナザレのイエスを死刑にすればいい。エルサレムの群衆は皆そう思いました。

エルサレムに入って来られた主イエスに対して、人々は様々な反応を示しました。ガリラヤから来た巡礼者たちは、主イエスに向かって「ホサナ」と叫び、歓声をもって一緒にエルサレムに入場してきました。

しかし、エルサレムの人たちは、神殿の境内から商人を追い出したり、律法学者たちと論争したり、神殿の境内で巡礼者たちに神の国の教えを説いたりする「この人は何者だろう」と見ていました。

ここで「イエスを十字架につけろ」と叫んだのは、エルサレムの人たちです。この人たちは、ピラトが主イエスを取り調べている間に、ナザレのイエスは死刑にすべき人間だ、ということを祭司長たちから説得されてしまっていました。

私たちは、これまで、主イエスの受難予告を見てきました。「私はエルサレムで殺されることになっている」と聞かされても弟子達は信じられませんでした。なぜこの方が十字架刑で殺されることになるのか、その理由が見当たらなかったからです。

私たちもそうではないでしょうか。ここまで、この方は何も悪いことをしていません。十字架刑というのは、ローマへの反逆者への見せしめの刑です。主イエスが武器を取って民衆を煽り立て、反乱軍のリーダーとして戦った、というのであれば、十字架刑に処せられる理由になりますが、実際にはそんなことはなさっていません。

ただ、神の国の福音を人々にお教えになっただけです。それなのに、なぜこの方は十字架に上げられることになったのでしょうか。

イエス・キリストは、ピラトによって有罪とされたわけではありません。この方はローマの裁判の中で有罪とされたわけではないのだから、別に「釈放」などされなくてもいいはずなのです。

それがなぜ、最後に十字架へと上げられることになったのでしょうか。「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した」とあります。主イエスに罪を見出したからではありません。ローマの総督が、ユダヤの群衆を満足させるために、この方は十字架へと上げられることになったのだ。

聖書を読んでいて、なぜイエス・キリストが十字架へと上げられたのか、明な理由を私たちは見出すことはできません。主イエスは洪水に押し流されるように、十字架へと上げられていきます。弟子達に見捨てられ、最高法院で有罪判決を下され、群衆に突き上げられたピラトによって十字架刑の宣告をお受けになりました。

どの段階を見ても、正当な手続きは踏まれていません。そして誰一人として、この不当な十字架刑に対して否を唱えていないのです。

我無実の主イエスが次々にいろんなところで有罪とされ、十字架へと追いやられている姿が描かれています。あれだけ力強く奇跡をおこない、人を癒し、悪霊を追い払い、律法学者たち相手に一歩も引かなかった方が、無抵抗に負けていかれるのです。

イザヤ書53章には、神の子が人間の手によって殺されることになる、という預言があります。その預言は、「誰が信じることができただろうか」という言葉で始まっています。

確かにそうでしょう。なぜ、神の子・メシアが、罪人の手によって殺されるのか、そしてなぜそれが罪人にとっての救いなのか、私たち人間の理屈で考えてもわかりません。主イエスが弟子達に見捨てられ、ユダヤ人たちから排斥され、ローマ軍の手によって殺された、ということは、人間が神に勝利したように見えます。

もしも、イザヤ書の預言がなければ、イエス・キリストの十字架刑は、誰もこの方のことを理解せず、歴史の中で記憶されることもなかったのではないでしょうか。一人の犯罪者の処刑として終わっていたのではないでしょうか。

しかし、旧約の預言は、神の救いは、神の子が罪人の罪を担い、身代わりとなって殺されることによって成し遂げられることをあらかじめ伝えていました。

キリストは初めからご自分が十字架にかかることをご存じでした。弟子達に何度もそのことを予告されていました。この十字架の死こそがキリストの勝利だったのです。

キリストが予告した通り、まっすぐに十字架へと歩んでいかれます。弟子達に見捨てられ、ペトロに「そんな人は知らない」と否定され、ユダヤ人たちに逮捕されて有罪とされ、群衆によって「十字架につけろ」と言われ、ピラトに十字架刑を宣告される・・・全て、キリストの計画通り、すべて、神の御心の通りにことが進んでいます。

私たちは、この方が飲み干していらっしゃる苦難の杯に、どれだけ自分の罪を見出しているでしょうか。

イザヤ書53:4

「彼が担ったのは私達の病、彼が負ったのは私達の痛みであったのに、私達は思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだと」

キリストは一人一人の罪を背負っていかれます。

弟子達から見捨てられることで、弟子達の罪を背負われました。ペトロに知らないと言われることでペトロの罪を背負われました。 Continue reading