10月23日の説教要旨

使徒言行録14:8~20

「パウロは彼を見つめ、癒されるのに相応しい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさいと大声で言った』」

ピシディア州のアンティオキアまで来たパウロとバルナバは、安息日のユダヤ人の会堂で行われた礼拝に入って行きました。二人はその礼拝の中で、「聖書で預言されてきた神の救いの約束は、ナザレのイエスという方を通して実現した」、ということを語りました。

次の安息日に、パウロとバルナバの元に町中の人たちが集まって来たのを見て嫉みをもった一部のユダヤ人たちは、パウロたちが語る福音を受け入れず、語ることに反対しました。

パウロたちは、福音を受け入れなかったユダヤ人たちに言います。「神の言葉は、まずあなたがたユダヤ人に語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く」

ユダヤ人たちは人々を扇動してパウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出しました。パウロとバルナバは次にイコニオンという町に行き、同じようにユダヤ人の会堂に入って話をしますが、そこでも同じことが起こりました。福音を信じる人と信じない人に別れ、信じない人たちがまたパウロとバルナバを追い出しのです。

今日私たちが読んだのは、迫害によって追い立てられたパウロとバルナバが、リカオニア州のリストラという町に来て、一人の足の不自由な人を癒したという場面です。

二人は、キリストの使徒としてどんどんユダヤ人が少ない地域・異邦人世界へと深く入って行っています。ここは小アジアの南部で、独自の言葉、独自の宗教観をもっていた地域です。大きな国際都市ではなく、地方の小さな町でした。人々は自分たちの土地のルールで生きて、保守的な考え方を持っていたようです。

これまでパウロとバルナバは、初めて行く町ではユダヤ人の会堂に入って、礼拝の中で聖書の話をしてきました。しかし、リストラの町では会堂ではなく道端で福音を語ったようです。ユダヤ人の会堂が建てられていないぐらい、ユダヤ人の少ない町だったのだろう。

リストラの町の道端に、足の不自由な男性が座っていました。「生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった」とあります。使徒言行禄の3章にも、足の不自由な人が出てきました。その人は、エルサレム神殿に入って行く人たちに向かって物乞いをしていました。このリストラの町にいた足の不自由な男性も、道を通る人たちからの施しを求めていたのではないでしょうか。家族に養ってもらわなければならず、社会的な地位もなく、道端に座って時を過ごすしかなかった人だったのではないでしょうか。

もしかしたら、生まれた時から足が不自由だったことで、町の人たちからは優しくされていたかもしれません。しかし、その人自身は、道端に座っているしかできない自分、他の人たちに生かしてもらうしかない自分を、どれだけ受け入れることができていたでしょうか。

この人がリストラの町の道端に座っていると、パウロとバルナバという二人が来て、イエスという方の話をしました。聖書には、パウロは「彼を見つめ、癒されるのにふさわしい信仰があるのを認めた」とあります。この人はよほど真剣にイエス・キリストの救いの出来事の話を聞いていたのでしょう。群衆の中でも、ひと際パウロの目を引くほど熱心に福音を聞いていたようです。

ここを読むと不思議に思えます。この足の不自由な男性は、イエスという方を見たことも、会ったこともないのです。なぜそこまで真剣にイエスという人に起こった十字架と復活という出来事を聞いたのでしょうか。

言えるのは、この人が救いを求めていたからでしょう。心に飢え渇きを覚え、魂を包んでくれる福音を求めて一番真剣に聞いていたのがこの人だったから、パウロはこの人に信仰を見出したのでしょう。

この人は見たこともない、会ったこともないイエスという人に起こったことを、パウロとバルナバの言葉を通して信じました。

ヘブライ人への手紙にはこういう言葉があります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

この人はまさに、見えないものを確信した信仰者でした。パウロは大声で「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と言いました。するとその人は踊りあがって歩き出したのです。

私たちは、聖書が、この足の不自由な人の信仰に焦点を当てていることに注目したいと思います。聖書は、パウロが特別な人間で、奇跡を行う力があった、ということを伝えようとしているのではありません。この人の信仰が、神の奇跡を起こした、ということです。信仰が、奇跡を起こしたのです。奇跡を見て信仰を持った、というのではありません。

マタイ福音書に、カナン人の女性が主イエスに自分の娘から悪霊を追い出してほしいと願った女性のことが書かれています。この女性は何度も主イエスに願いました。しかし主イエスは何度も拒否されました。それでも女性はあきらめず、何度もすがって主イエスに救いを求めました。そして主イエスは最後に、「夫人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」とおっしゃったのです。キリストを求め、信じぬく先に奇跡があるのです。

今日私たちが見た、リストラの町にいた足の不自由だった男性もそうでした。この男性は、自分の人生を呪っていたかもしれません。そこにキリストの福音がもたらされ、そして信じました。その信仰を通して、聖霊による救いが訪れました。

この人は、主イエスに癒されたカナン人の女性と同じ異邦人でした。ユダヤ人ではありません。ユダヤ人のように、聖書のことは知りません。この人はただ、目の前でイエスという方の十字架と復活を語るパウロの言葉を信じました。ただ、信じたのです。その信仰が、この人に奇跡をもたらしたのです。

信仰が持つ力を改めて、ここで確認したいと思います。私たちの信仰は、「ただ信じるだけ」ではありません。私たちの信仰を通して、何かしらの聖霊の業が行われ、私達自身、自分の信仰を通して奇跡を見せられるのです。信仰によって自分が思いもしなかったことが起こり、考えもしなかった道へと導かれていきます。神は私たちの信仰を通して働かれます。私たちは、信頼して、歩めばいいのです。

さて、リストラの町の人たちは、足の悪い人が癒された奇跡を見て、群衆はパウロをヘルメスと呼び、バルナバをゼウスと呼び、礼拝しようとしました。町の人たちは、聖書を知らない異邦人でしたので、自分たちが知っている神話に当てはめて、パウロとバルナバを神だと信じ込んでしまいました。ヘルメスは水星の神、ゼウスは木星の神です。

このリストラの群衆の反応は、「2000年も前の聖書を知らない人たちの無知」として済ませられるものではないと思います。このリストラの町で起こったことは、今まさに私たちの周りで起こっていることでもあるからです。何か不思議なことがあれば、人は自分の信仰の型にはめて理解しようとするのではないでしょうか。

教会には奇跡が起こります。信仰が、祈りがあるところには、本当に不思議なことが起こります。もしそれを聖書の言葉抜きで解釈する時、私たちの周りには簡単に偶像礼拝が始まってしまうでしょう。

何か不思議なことを行う人を見たら、「この人は神ではないか」「この人は神に近い人ではないか」とすぐに信じて、その人を拝む、ということは今だって起こることだ。誰かをすぐに神格化してしまうことは、昔だけのことではありません。

パウロとバルナバは、リストラの町でキリストを伝えたのに、自分たちが神に祭り上げられてしまいました。二人はリストラの人たちが自分たちを礼拝しようとしているのを見て、全力でやめさせました。2人は「自分たちは神ではない」というところから始めなければならなかったのです。

パウロとバルナバはこの時、誘惑を受けました。信仰者にとって、人々が自分を神のように崇めてくれる、というのは、心地よいものです。神ではなく自分に讃美の言葉が向けられることがあると心地よいのです。これは、キリスト者を襲う誘惑の力です。

イエス・キリストが宣教の最初に与えられた試練・誘惑でした。荒野で主イエスは悪魔から誘惑をお受けになりました。

「私を拝むなら、地上の栄光をあげよう」

十字架で殺されるよりも、この世界で快楽に浸った方が楽に決まっています。迫害されるよりも、世に迎合して楽しんだ方が楽に決まっています。

私たちはイエス・キリストのお名前を利用して自分が祭り上げられることへの誘惑が絶えずあるのです。キリストはそれでもサタンの誘惑を退けて、受難の使命を課せられた生贄の子羊として十字架への歩みをお選びになりました。私たちは信仰者としてそのキリストの歩みに従うのです。キリストのお姿を見つめるしか、私達には誘惑を退ける方法はありません。

さて、パウロとバルナバは、アンティオキアとイコニオンから追いかけてきたユダヤ人たちによってまた追い払われてしまいました。石を投げつけられ、半殺しにされてしまいました。イエス・キリストのお名前を用いて、足の悪い人を癒したのに、二人は暴力を振るわれたのです。そして町から追い出されてしまいました。理不尽です。彼らがリストラの町に立ち寄ったのは、無意味だったのでしょうか。

そんなことはありません。パウロは次の宣教の旅で、もう一度リストラに戻ってくることになります。その際、このリストラの町で、テモテという青年をキリストの使徒として仲間に加えることになるのです。

彼らが語った福音、また行った奇跡の業は、福音の種としてリストラに蒔かれ、育っていきました。キリストの使徒たちは迫害を受けながら次の町へ、次の町へと追いやられ、そうやって福音は町々をめぐっていったのです。

私たちはキリストを信じる中で、良いことも悪いことも起こります。聖書を通して言えるのは、そこに信仰がある限り、私たちの苦難も、全て聖霊が用いてくださる、ということです。

パウロは後にローマの信徒たちにこう書き送っています。

「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くと言うことを、私たちは知っています」

私たちの信仰生活の中にある誘惑との闘いは、必ず用いられます。信仰が持っている力を信じたいと思います。

10月16日の説教要旨

使徒言行録13:42~51

「集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついてきたので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた」(13:43)

キリストは弟子達にこうおっしゃったことがあります。

「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことで悪口を浴びせられる時、あなた方は幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

イエス・キリストに従おうとする信仰生活には、必ず逆風が吹く、という前提の言葉です。

キリストの言葉通り、使徒言行禄を読んでいると、キリストの使徒たちは聖霊に導かれて福音を告げているにも関わらず、いたるところで反対されたり迫害を受けたりしているのがわかります。

今日私たちが読んだパウロとバルナバもそうでした。二人は、ピシディア州のアンティオキアという町に行き、ユダヤ人の会堂に入り、安息日の礼拝の中で、イエス・キリストの福音を伝えました。

「聖書で告げられている神の救いの約束は、ナザレのイエスという方を通して実現した」

「その方は死人の中から復活され、神がご自分の下に全ての人をお集めになるために遣わされた救い主・メシアだった」

二人の言葉を聞いて信じた人たちは、二人の後を追いかけてきて、「もっと聞かせてください」「次の安息日にも同じことを話してください」と頼みました。

しかし、次の安息日になると、パウロたちが告げる「主の言葉」を聞こうとやってきた町中の人を見て、一部のユダヤ人たちが嫉みを起こし、パウロたちが話すことに反対したのです。

アンティオキアの会堂では、福音を受け入れ「もっと聞きたい」と願う人たちがいる一方で、パウロとバルナバに話をさせようとしないユダヤ人たちもいたのです。恐らくパウロたちに反対したのは、「ユダヤ人だけは特別に神に選ばれた民だ、異邦人とは違う」いう意識をもっていた人たちでしょう。

彼らはパウロ達に対して、「ねたみ」をもった、と書かれています。これは「熱心」という意味の言葉です。「自分たちユダヤ人こそ、神に選ばれたイスラエルの民であり、自分たちこそ神の御心に従っている民だ」、という「熱心さ」をこの人たちはもっていたのです。だから彼らは、「ユダヤ人でない人たちまでキリストは神の元へと招いていらっしゃる」、と伝えるパウロたちの言葉に対して、熱心に反対したのです。

イエス・キリストが弟子達に前もっておっしゃったとおりでした。「主の言葉」が語られるところでは、旧約の預言者たちが迫害されたように、キリストの使徒たちも、教会もののしられ、悪口を浴びせられ、反対されるのです。

私たちは聖書を読んでいると、福音が語られるところではいつでも、福音を受け入れる人と受け入れない人に分かれる、ということを見ます。そして、福音を受け入れようとしない人たちから、信仰者は反対を受けるのです。

イエス・キリストでさえもそうでした。神の救いの言葉が伝えられる所には必ず反対が起こるということは、イエス・キリストが幼子の時から、聖霊によって示されていたことでもあります。

主イエスがお生まれになってすぐ、母マリアは、幼子イエスを抱いて神殿に参拝しました。そこに、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げを聖霊から受けていたシメオンという人がいました。

シメオンは幼子イエスを腕に抱いて、主イエスの父・母に祝福して告げました。「この子は、反対を受けるしるしとして定められています。」

シメオンがマリアに告げた祝福は奇妙なものだった。

「この子は神の救いを告げることになるから、いいことがたくさんあるだろう」、というのではないのです。「神の救いのために働くことになるこの幼子は、多くの人たちから反対を受けるだろう、この子には逆風が吹くだろう、多くの人の心にある罪がこの子に向かってくるだろう」、と、祝福とは思えないようなことを言うのです。

更にシメオンはマリアにも言いました。

「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」

痛みがこの子を襲うだろう、母であるあなたも心に痛みが与えられるでしょう、というのが、シメオンの「祝福」でした。

その言葉通り、イエス・キリストの公の宣教の生涯を見ると、確かにたくさんの人たちが主イエスに神のお姿を見出し、従いました。しかし最後には、キリストは十字架で殺されてしまうのです。

今、キリストに召されたパウロとバルナバは、同胞であるはずのユダヤ人たちから、キリストの福音を語ることに対して反対を受けました。これは、驚くようなことではないのです。主イエスが以前弟子達におっしゃったように、福音が告げられる所では反作用が起こるのです。だから福音を語る人には痛みがあるのです。キリストへの信仰を持ち続ける、ということには、痛みが伴い続けるのです。そしてその痛みは、キリストご自身が担われたものでした。私たちの信仰生活というのは、そのキリストの痛みに与る、ということなのです。

パウロとバルナバは今キリスト者として、使徒として、イエス・キリストの痛みに倣っています。福音を受け入れようとしないユダヤ人たちにパウロは言いました。

「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しないものにしている。見なさい、私たちは異邦人の方に行く」

このパウロとバルナバの姿は、故郷ナザレでの主イエスのようです。主イエスも、故郷のナザレの礼拝堂で、安息日に聖書の言葉の解き明かしたことがあります。しかし、主イエスのことを少年の時からよく知っていた人たちは、「あのヨセフの息子のイエスが、あんなことを言っている」と言って、受け入れませんでした。主イエスはそのことで「福音・神の救いは異邦人へと向かっていくだろう」とおっしゃいました。

私たちはここに、不思議な逆転現象を見ます。神が初めにお選びになったユダヤ人が、神のメシアを受け入れず、むしろイスラエルの神を求める異邦人が主イエスのことをメシアとして受け入れました。

これはどういうことなのでしょうか。

パウロもキリストと同じ言葉を告げました。「福音は異邦人に向かう」

それでは、神はもうユダヤ人をお見捨てになった、ということなのでしょうか。そうではありません。キリストの使徒たちは、その後もユダヤ人にキリストの福音を伝え続けています。

ロマ書9章の初めでパウロはこう書いています。

「私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。」

パウロの悲しみ、痛みとは何だったのでしょうか。それは、自分と同じユダヤ人たちが、主イエスのことをメシアとして受け入れていない、ということでした。

しかしパウロは、神がユダヤ人をお見捨てになったとは考えません。このユダヤ人たちの不信仰を通して福音は異邦人にまで広がり、やがて、ユダヤ人も異邦人も、全ての人が神の元に・キリストの元に集められるのだ、と書いています。パウロは、壮大な、神の招きの御業を見据えていたのです。

確かに今はイエス・キリストに対してユダヤ人たちは不信仰かもしれません。しかし「ユダヤ人の不信仰を通して神の招きのご計画は進んでいる・教会の成長は進んでいるのだ」、と言うのです。「神のなさることはなんと深いことか」と結んでいます。

今私たちが聖書の言葉を語り、イエス・キリストへの信仰を言い表しても多くの人たちは受け入れないでしょう。

「それは、あなたが信じていることで、私に押し付けないでほしい」

「キリストの救いなどというものを知らなくても、私は生きていけますから」 Continue reading

10月16日の礼拝案内

次週礼拝(10月16日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 使徒言行禄13:42~52

 交読文:詩編12編

 讃美歌:讃詠546番、56番、171番、504番、頌栄544番

【牧師予定】

◇10月11日(火)15時より 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道委員会

◇11月3日(木)香川県高松教会にて さぬき島しょ部伝道協議会

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日  Continue reading

10月9日の説教要旨

使徒言行禄13:13~25

「パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた」(13:14)

教会を迫害したサウロは、キリストによって召され、使徒パウロとしてキリストの福音を伝える使命を担うようになりました。彼は死ぬまで、福音宣教の旅を続けた人です。

パウロは異邦人伝道の拠点となったアンティオキアの町から、ある時は船に乗り、ある時は歩いて、エルサレムの教会と連携をとりながら、地中海沿岸の町々に福音を伝えていきました。キリストの使徒パウロを「旅の人」と呼んでいいのではないでしょうか。

神は、パウロをお選びになる際、パウロのことを「異邦人に私の名を伝えるために選んだ器」と呼ばれました。そして「私の名のためにどれだけ苦しまなければならないかを彼に示す」とおっしゃいました。

使徒言行禄を読んでいくと、パウロの福音宣教の旅は、神の言葉通り、「異邦人にイエス・キリストを伝える」という苦しみの旅であったことがわかります。

パウロは使徒として召されるまで、「自分は異邦人とは違う、正統なユダヤ人であり、正統なユダヤの信仰をもっている」と自負していました。そして教会の「イエスをキリストだ」という信仰は正しくないと考え、迫害していました。

そのパウロが、異邦人に対して、「イエスこそキリストである」と伝える旅を続けるようになった、というのです。教会の迫害者としての消えない過去の痛みを引きずりつつ、同時に、許された恵みを覚えつつ旅を続けたのではないでしょうか。

今日私たちが読んだのは、そのパウロの福音宣教の初めのところです。パウロは大きな福音宣教の旅を三度しますが、これは第一次宣教旅行の初めの場面になります。

パウロ、バルナバ、ヨハネの三人はまずキプロス島に行き、偽預言者と対決し、その島にいたローマの総督セルギウス・パウルスをキリストへの信仰へと導きました。三人は、この総督に送り出されて、パンフィリア州のペルゲという港町に行き、そこからピシディア州のアンティオキアに行きます。

しかし、ペルゲという港町に着いたところで、ヨハネだけがパウロとバルナバから離れてエルサレムへと帰ってしまいました。なぜヨハネが宣教の旅を途中でやめてしまったのか、その理由は何も書かれていません。宣教者は三人から二人になってしまいました。

二人が到着したこの「アンティオキア」は、パウロとバルナバが出発したアンティオキアとは、同じ名前ですが、別の町です。今、パウロは今まででエルサレムから一番遠いところにやって来たことになります。

初めて足を踏み入れるアンティオキアという町でキリストの使徒パウロとバルナバは何をしたのでしょうか。彼らの姿を通して、私たちキリスト教会にとって宣教とは何か、伝道とは何か、ということを考えることができると思います。

ヨハネと別れたパウロとバルナバが初めて訪れた町・アンティオキアで宣教のためにしたことは、町の中にあったユダヤ人の会堂で行われていた礼拝に加わる、ということでした。

地中海全域にユダヤ人は離散して住んでいましたので、エルサレムから離れても、ローマ帝国の中にはたくさんのユダヤ人の礼拝堂がありました会堂では、安息日ごとに律法と預言者の書が読まれ、イスラエルの神を信じる人たちが礼拝していました。その日は安息日だったので、二人がユダヤ人の礼拝堂に行くことは自然なことでした。

パウロとバルナバがアンティオキアにあったユダヤ人の会堂で礼拝をしていると、会堂長が二人のところに、「言葉をください」と伝えてきました。当時は、「エルサレムから来た人たちは尊敬をもって迎えられた」、と言われています。

エルサレムは、言うなれば、イスラエルの信仰の本場です。パウロとバルナバの格好を見て、「この人たちはエルサレムから来た人たちだ」と思ったのでしょう。「お二人に教えを乞いたい」とそこにいた礼拝者たちは求めました。

パウロはその会堂の中にいた礼拝者たちに向かって、「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々」と呼びかけています。「イスラエルの人たち」、というのはユダヤ人のことです。「神を畏れる人たち」は、異邦人でありながらイスラエルの神を求める人たちのことです。つまり、このアンティオキアという町ではもうすでに、ユダヤ人と異邦人が一緒にイスラエルの神を礼拝していたのです。

パウロとバルナバは、会堂で、律法と預言の解き明かしをしました。「解き明かし」と言っても、律法と預言書の解説・講義をしたわけではありません。

二人は宣言したのです。「あなたがたが安息日ごとに読んでいる律法と預言書に記録されている神の救いの約束は、イエスという方を通して、もう実現したのだ」と。

パウロは言葉を求める人たちに出エジプトの出来事を語りました。

「どんな風に神がイスラエルを導いてこられたか」

「イスラエルは、その神にどれだけ背を向けてきたか」

「神はもう一度ご自分から離れたイスラエルを身元に連れ戻す約束をされた」

パウロはイスラエルの太古の歴史の言い伝えを語ります。

奴隷とされていたイスラエルを神が解放してくださったこと。

荒野を40年間、導いてくださったこと。

約束の地に導き入れ、その土地を相続させられたこと。

そして、サムエル、サウル、ダビデと指導者をお与えになり、神は「ダビデの子孫からイスラエルに救い主を送る」と約束されたこと。

神は歴史の中で「ダビデの末からメシアが来る」ということを預言者を通して約束されました。

BC8C、アッシリア帝国に滅ぼされそうになっていたエルサレムで、預言者イザヤはメシアの到来をこう預言しています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊が留まる」「その日が来れば、エッサイの根は、全ての民の旗印として建てられ、国々はそれを求めて集う。」

BC6C、バビロンに捕囚とされていたユダの人たちに、預言者エゼキエルはイスラエルの牧者・メシアの到来を預言している。

「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、私は自ら自分の群を探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群を探すように、私は自分の羊を探す」「私は彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させるわが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」

パウロは礼拝の中でイスラエルの歴史の授業をしたのではないのです。聖書の中に記録されてきた預言者たちが伝えた神の約束の言葉、メシアの到来は現実のものとなったことを宣言したのです。「それはナザレのイエスだ」、と伝えました。

実は、パウロとバルナバが宣教の初めにしたことは、イエス・キリストが宣教の初めになさったことと同じでした。

ルカ福音書の4章に、主イエスの宣教の初めの様子が記されています。

「イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」とあります。主イエスは、故郷のナザレの会堂で、安息日にイザヤ書の巻物を読まれました。「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が油を注がれたからである」。そのイザヤ預言をお読みになると、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にした時、実現した」とおっしゃいました。 Continue reading

10月9日の礼拝案内

次週礼拝(10月9日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 使徒言行禄13:42~52

 交読文:詩編12編

 讃美歌:讃詠546番、55番、187番、222番、頌栄544番

【報告等】

◇10月8日(土)10:00~役員会があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

10月2日の説教要旨

使徒言行禄13:1~12

「魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、誰か手を引いてくれる人を探した。」(13:11)

大飢饉の中、サウロとバルナバはアンティオキア教会からエルサレム教会への援助の品を届けに来ました。彼らがそこで見たのは、エルサレム教会・キリスト者たちに対する迫害でした。ヘロデ・アグリッパが使徒ヤコブを殺し、ペトロも牢に入れ殺そうとしていたのです。

しかし主の天使がペトロを救い出し、ヘロデは神に栄光を帰さなかったことで撃ち倒されてしまいます。エルサレムではそのことで、「神の言葉がますます栄え広がっていった」とあります。

パウロとバルナバは、迫害を超えて働く聖霊の働きをエルサレムで見ました。そしてエルサレムからマルコと呼ばれるヨハネを連れてアンティオキア教会へと帰って行きました。

私たちはこれまで、使徒言行禄を読みながら、教会に対していろんな逆風があったことを見てきました。教会に対する迫害があり、使徒たちの殉教がありました。しかし、どんなに苦難があっても、試練があっても、聖霊の不思議な導きによって教会は道が拓かれていったのです。この世の力は福音の広がりを止めることはできませんでした。

使徒言行禄はこれから、サウロの宣教の姿に焦点を当てていくことになります。サウロはこれからパウロと呼ばれるようになり、ここから本格的に異邦人への福音宣教の旅を続けていきます。サウロは最後にはローマ帝国の中心地、ローマへと向かうことになりますが、今日私たちが読んだのは、その最初の一歩を踏み出した、という場面です。

福音宣教の旅を続けるパウロを、聖霊がどのように用いたのか、これから見ていきましょう。

ステファノの殉教をきっかけにエルサレムの教会に大迫害が起こり、キリスト者たちはエルサレムの外へと追い散らされました。キリスト者たちは、それぞれ逃げた先でキリストを伝えていき、キリストの福音はどんどんエルサレムの外へと広がっていくことになりました。やがて、エルサレムのはるか北にあってローマ帝国の東西を結ぶ国際都市アンティオキアにキリスト者の群れが出来ました。

アンティオキア教会はバルナバとサウロが中心となり、成長を遂げていきます。エルサレム教会がユダヤ人伝道の拠点となり、アンティオキア教会が異邦人伝道の拠点として、それぞれの役割を担っていくことになっていくことになります。

そのアンティオキア教会に聖霊を通して神の言葉が与えられました。礼拝と断食を続ける中に、「バルナバとサウロを私のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために」との言葉が聞こえます。

いよいよ、教会の迫害者だったサウロがキリストの証人として地の果てに至るまで旅を続けていくことになります。

使徒言行禄を読んでわかるのは、神はご自分のために人を召して、その人をご自分の計画のために行くべき場所を示される・・・聖霊は、福音を一か所には留めておかない、ということです。

アンティオキア教会は、ここに名前を記されているサウロとバルナバ、そしてシモン、ルキオ、マナエンを中心に、順調に成長を遂げていました。サウロとバルナバがいれば、アンティオキア教会はますます大きく成長していったはずです。

しかし、神は、二人が一か所に留まっていることをお許しにならなりませんでした。二人には向かうべき場所があったのです。聖霊は、「そこに留まる人」と、「次の場所へと向かう人」をそれぞれ召し出し、一人一人の信仰者に「次にいるべき場所」を示されます。

アンティオキア教会の人たちは「二人の上に手を置いて出発させた」とあります。聖書には短くそのように一言書かれているだけですが、アンティオキア教会の人たちにとっては大きな決断だったでしょう。

本当は、「二人にずっと自分たちの教会にいてほしい」、と思っていたはずです。私たちは、ここで二人を送り出したアンティオキア教会の人たちの信仰の決断を見逃してはならないと思います。主の働きのために、キリストの使徒を、福音宣教者を自分の教会から送り出す、とういうこと、それは、他の場所にいるキリスト者のために、またキリストの福音を待っている人たちのための信仰の業でした。

自分たちの教会が大きくなれば、人数が増えれば、財産が豊かになれば、私たち満足してしまいがちです。それを「教会の成長」と考えるからです。そして、自分たちだけのことを考え始めてしまいます。

しかし改めて、「教会の成長」とは何でしょうか。人数が増え、財産が豊かになることももちろん成長と言えるでしょう。しかし、「霊的な」成長というものもあるはずです。

福音を信じる人の群れをその場所で大きく豊かにしていく、ということに加えて、福音を、また次の場所へと届ける役割を担い、果たしていくこと・・・そのことも、イエス・キリストから託された使命です。

ヨハネ福音書の最後を見ると、復活なさったキリストがペトロをどのように召されたかが書かれています。

「私の羊を飼いなさい。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年を取ると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」

主イエスはそうおっしゃってから、ペトロに「私に従いなさい」とおっしゃったのです。

キリストに従う中で、信仰者は、「行きたい場所」ではなく、神がお示しになった「行くべき場所」へと導かれていきます。「ここにいてほしい」と思う人を別の場所に送り出さなければならないこともあるでしょう。その導きに従う中で、教会は、人間が考える計画を超えて、福音の広がりのために用いられていくのです。

アンティオキア教会は、サウロとバルナバという、教会の中心的な二人を送り出しました。神は、御自分の計画のために留まる人と、次の場所に向かう人をいつもお選びになります。これは今でもそうでしょう。

さて、信仰の決断によってアンティオキア教会から送り出されたバルナバとサウロは、ヨハネを助手として連れて行き、向かったのはキプロス島でした。このキプロス島はバルナバの故郷でした。

地中海全域にユダヤ人は離散して住んでいて、それぞれの場所で礼拝のための会堂を建て、聖書の言葉を朗読し、神の救いのご計画が実現するのを求め続けていました。バルナバ、サウロ、ヨハネの三人は、島の中にあったユダヤ人の諸会堂を巡り、イエス・キリストの十字架と復活を伝えて回りました。

しかし、そこにはバルイエスというユダヤ人の魔術師・偽預言者がいて二人の福音宣教の邪魔をしてきました。バルイエスは、ギリシャ名は「エリマ」と呼ばれていたようです。

キプロス島に駐在していたローマの地方総督のセルギウス・パウルスという人が、バルナバとサウロの二人を招いて神の言葉を聞こうとします。しかし、この偽預言者が地方総督をキリストの福音から遠ざけようと邪魔をしてくるのです。

神に召され導かれた先で使徒たちを待っていたのは、偽預言者との対決でした。キリストの使徒たちが福音宣教の旅に召される、ということは、偽預言者との闘いへと召される、ということでもある、ということでしょう。福音が語られるところでは、いつでも、預言者と偽預言者との対決があるのです。

預言者と偽預言者との闘いは、いつの時代もありました。エレミヤ書を見ると、預言者エレミヤと偽預言者ハナンヤとの対決が記録されています。偽預言者ハナンヤという人が、人々が聞いて喜び言葉を「神の言葉」として伝えていました。

しかしエレミヤは逆でした。人々が聞きたくないような神の言葉を語っていたのです。人々の罪、神の怒り、そして神への立ち返りを訴えていました。それは、神の御心から離れた人たちが「聞かなければならない」言葉でした。

預言者エレミヤは、邪魔をする偽預言者ハナンヤに言いました。

「あなたや私に先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就する時初めて、まことに主が遣わされた預言者であることがわかる」(28:9)

どちらの預言が成就したでしょうか。エレミヤでした。偽預言者ハナンヤは、間もなく死んでしまいました。

神の言葉を語ろうとする使徒たちの邪魔をした偽預言者バルイエスはどうなったでしょうか。彼はサウロからこう言われてしまいます。

「お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に降る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」

サウロがそう言うと、その言葉通りになりました。これが偽預言者の末路でした。

このことは、エレミヤやサウロだけに起こったことではありません。キリストへの信仰をもって生きる私たち一人一人に起こっている現実です。

ただそこでキリストを信頼して静かに生活したいだけなのに、私たちの周りにはどれだけの雑音があるでしょうか。神を見えなくさせ、自分のことだけを考えさせようとする誘惑の言葉がいかに多いことでしょうか。我々信仰者にとって、誘惑ほど魅力的であり恐ろしいものはないのです。罪の力は必ず私たちの身を亡ぼすところへと導こうとします。 Continue reading

9月25日の礼拝案内

次週礼拝(9月25日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:コリントの信徒への手紙1 1:1~3

 交読文:詩編11編

 讃美歌:讃詠546番、19番、280番、294番、頌栄543番

【牧師予定】

◇9月19日(月)~25日(日) 夏休み

9月24日(土) 東京神学大学にて 「青年の集い」で証

9月25日(日) 藤盛勇紀牧師による説教(三宅島伝道所)

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会Continue reading

9月18日

使徒言行禄12章

「主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである」(12:23)

旧約聖書の「コヘレトの言葉」の中に、有名な言葉があります。

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」

人間の知恵を超えた神の摂理・神のご計画を言い表した言葉です。

神が「時」を備え、人間の知らないところで全てを導かれていることがよく描かれているのが、創世記のヨセフ物語でしょう。

ヨセフは、12人の兄弟の中で、父親の愛情を一身に集めていました。そのことで、他の兄弟たちから疎まれ、ヨセフは最後には奴隷として売られてしまいます。売られた先でヨセフはエジプト王ファラオの夢の解き明かしをして、エジプトの宰相となりました。やがて、エジプトに飢饉が起こりますが、ヨセフに神から与えられた知恵によってエジプトは豊作の間に食料を貯蔵し、その飢饉を乗り切ることが出来ました。その飢饉の中で、ヨセフは、エジプトに食料を求めてやってきた兄弟たちと再会し、家族と和解して、共に生きるようになった、という話です。

ヨセフはその人生の中で、数多くの山と谷、喜びと苦しみを体験しましたが、最後にはエジプトの民が飢饉から救われ、自分の兄弟たちとも再会することができました。全ての山と谷・喜びと苦しみは、「神が備えられた時」へと向かう過程だったのです。

ヨセフは、自分を奴隷に売ろうとした兄弟たちにエジプトで再会した際、こう言いました。

「神が私をあなたたちより先におつかわしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」

「あなたがたは私に悪を企みましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」

私たちは聖書を読んでいて、「本当に神は働いていらっしゃるのだろうか」、と思える場面がいくつもあります。特に、神のために働いている預言者たちや、キリストの使徒たちが苦しむ姿を見ると、そう思うのではないでしょうか。

私たち自身も、神を信じているにも関わらず様々な苦難に直面する時、「神を信じているのになぜこんなに辛いことが起こるのだろうか、神を信じる意味とは何か」と考えてしまうでしょう。

しかし預言者やキリストの使徒たちは、直面する苦難にも関わらず、それでも神への信頼を捨てませんでした。そしてその信頼の先で何かを見せられたのです。「神は悪を善に変えて救いをもたらされた」というヨセフの言葉の意味を、私たちも日々の信仰生活の中で考えなければならないと思います。神が備えられた「時」ということについて、考えていきたいと思います。

今日私たちが読んだのは、イエス・キリストの使徒、ヤコブがヘロデによって殺されてしまった、という場面です。ヤコブを殺し、ペトロも殺そうとしてヘロデは、最後には神によって打たれ、死んでしまいます。

ヤコブは、元はガリラヤの漁師で、ヨハネの兄弟でした。ガリラヤで漁師をしていた時、イエス・キリストがそこを通り、「私に従いなさい」と召し出された人です。イエス・キリストの12弟子の中でも、主イエスと一番長く時を過ごした人です。

ここに出てくるヘロデは、イエス・キリストがお生まれになった時に殺そうとしたヘロデ大王の孫にあたる人で、ヘロデ・アグリッパという人でした。洗礼者ヨハネを殺したヘロデ・アンティパスの甥でもあります。暴君の血を引いていた人だ、と言っていいでしょう。

さて、ヘロデ・アグリッパは、なんのためにヤコブを殺したのでしょうか。ヤコブが殺されたのは、大飢饉が起こった時でした。食べ物が少なくなり、政治に対して、権力者に対して人々の不満が高まっていました。そういう時に、ヘロデはヤコブを殺し、そして次にペトロを見せしめにして殺そうとしていました。

ヘロデがキリストの使徒たちを殺そうとしたのは、人々の恨みをキリスト者に向けようとしたからでしょう。

「この飢饉は、キリスト者たちのおかしな信仰のせいだ。民衆に食べ物がいきわたらないのは自分のせいではない」ということを演出しようとしたのです。実際、ユダヤ人たちはヤコブが殺されたことを「喜んだ」、とあります。

先ほど、神は「時」を備えていらっしゃる、ということをお話ししました。それでは、ヤコブが殺された「時」とは何だったのでしょうか。ヤコブの命は、どのように神によって用いられたのでしょうkじゃ。

以前ヤコブは、自分の兄弟のヨハネと一緒に、イエス・キリストに「自分たちを特別扱いしてほしい」「他の10人よりも高い地位につけてください」と抜け駆けしたことがあります。

そのさい、キリストは「あなたがたは、何を望んでいるのか、自分で分かっていない」とおっしゃって、「私の杯を飲めるか」とお尋ねになりました。二人は何も考えずすぐに「飲めます」と答えました。

キリストがこの時おっしゃった「私の杯」とは「受難の杯」でした。主イエスは、弟子達全員に「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」とおっしゃいます。

キリストに従う、ということは、そういうことでした。この世の栄達に与ることではなく、神の救い御業のためにキリストのように痛みを負っていく、ということです。神の救いのために、身代金として自分の命を捧げたイエス・キリスト、そのキリストに倣う、ということです。

ヤコブは、イエス・キリストがおっしゃった「受難の杯」をここで受けました。ヤコブの命は、神によって天に収穫されたのです。

ヘロデは、ヤコブの死をユダヤ人たちが喜んだのを見て、次にペトロを捕えました。それは、除酵祭の時期でした。除酵祭・過越祭の時期は、裁判や処刑は行われません。祭りの時期が終わったら、ペトロを殺そうとヘロデは考えていました。ユダヤ人たちをもっと喜ばせて、飢饉の不満のはけ口にするつもりだったのでしょう。

ペトロが捕らえられたことで、「教会は彼のために熱心な祈り」を神に捧げました。ここで、聖霊の救いが与えられます。牢で眠っていたペトロを天使が起こして、そこから逃がしたのです。ペトロは、ただ天使の声に従って歩いて行きました。

ペトロにとっては「現実のものとは思えない」、幻を見ているような体験でした。全てが、ペトロの意志に関係なく、「ひとりでに」救いの道が拓かれていった、というのです。第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門もひとりでに開き、気が付いたら、主の天使によって、解放の道が拓かれていたのです。

私たちは使徒言行禄を通して、神の力がいつでも信仰者の祈りを通して働いてきたことを見てきました。実際の私たちの信仰生活でも、祈りを通して働く力、私たちの言葉では説明できない力を感じることがあると思います。そのことは、祈り続けている人であれば、知っているはずです。私達が今日読んだ場面のペトロほど劇的でなくても、「神は、あの時、ああいう仕方で私の祈りを聞いてくださった」ということが、信仰者それぞれにあるはずです。

教会には祈りがあります。祈りは、信仰者に与えられた一番の恵みです。神は、預言者を通して「私を求めよ。そして生きよ」とおっしゃいました。それは、神を信頼して祈って生きる、ということです。その先で、私たちはキリストのように、誰かを神の元へと招くために命を使うことが出来るのです。

ヤコブを殺し、ペトロも殺そうとした暴君ヘロデ・アグリッパはどうなったでしょうか。ヘロデは、ペトロを逃がしてしまった番兵を殺すよう命じました。そしてユダヤからカイサリアへと下って行きました。カイサリアの町の人たちに対して何かの不満があったようです。

カイサリアの人たちはヘロデから食料を受け取っていたので、ヘロデの機嫌を損ねるわけにはいきませんでした。ヘロデにへつらって彼を神のように扱いました。人々がヘロデを神のように崇めたとたん、主の天使はヘロデを打ち、ヘロデは死んでしまったのです。

このヘロデの死に方は、旧約聖書のダニエル書の内容とよく似ています。バビロンの王、ネブカドネツァルは大きな金の像を作り、それを拝むように人々に告げました。ネブカドネツァルは、王宮の屋上を散歩しながら、「なんとバビロンは偉大ではないか。これこそ、この私が都として建て、私の権力の偉大さ、私の威光の尊さを示すものだ」と言います。すると天から声が響いて、「ネブカドネツァル王よ、お前に告げる。王国はお前を離れた」と言われてしまうのです。

自分の権力、栄光に酔いしれ、自分がまるで神であるかのようにふるまったネブカドネツァルは、神からすべてを取り去られてしまうのです。

聖書は、私たちに、人間がいかに誘惑に弱いか、そして誘惑がどれほど恐ろしいものか、時代を超えて教えようとしています。人間が神になろうとすることほど魅力的で、同時に危険なことはありません。神になろうとする者は、破滅するのです。神に打たれるのです。

旧約聖書の箴言に「主を畏れることは知恵の初め。無知なものは知恵をも諭しをも侮る」という言葉があります。

ヘロデの死に方を通して、教えられることではないでしょうか。神を畏れる、ということこそが、初めに私たちが知らなければならないことだ、というのです。それこそ、聖書が創世記で一番初めに伝えていることです。

「これを食べると神のようになれる」と蛇から言われたアダムとエバは、「食べてはいけない」と言われていた実を食べてしまいました。そのことで楽園を失います。神を畏れる、ということを忘れ、自分が神のようになれる、と思い込んだ人間の末路を、創世記は一番初めに教訓として私たちに教えてくれています。

聖書を読みながら、キリストを信じるがゆえに殺されたヤコブやステファノを見ると、恐ろしく思います。しかし、一人一人の殉教者たちは、天の国を仰ぎ見ながら、その命を神によって収穫されました。キリストは、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」とおっしゃいました。

ヨセフ物語でヨセフが言ったように、神は、人が犯す悪を善に変えてくださり、御自分の招きの御業を進めていかれます。神は、この世でキリストのために働く者を、人の知恵を超えて、人の思いを超えて用いてくださるのです。信頼して、信仰の苦難の中にあっても、神の御業を待ち望みましょう。

9月18日の礼拝案内

次週礼拝(9月18日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄12章

 交読文:詩編11編

 讃美歌:讃詠546番、53番、225番、361番、頌栄543番

【牧師予定】

◇9月19日(月)~25日(日) 夏休み

9月24日(土) 東京神学大学にて 「青年の集い」で証

9月25日(日) 藤盛勇紀牧師による説教(三宅島伝道所)

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

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9月11日の説教要旨

使徒言行禄11:19~30

「弟子達はそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた」(11:29)

先週まで、ペトロとコルネリウスが神の導きの中で出会い、キリストを信じて神の言葉を求めたコルネリウスに聖霊が降った、という場面を見てきました。

その後、ペトロはエルサレムに戻ります。すると、エルサレムにいたキリスト者たちが、ペトロが割礼を受けていない異邦人を訪ねて、一緒に食事をした、ということを非難し始めました。

当時のユダヤ人にとって、外国人と交際することは律法で禁じられている、という理解がありました。「イスラエルの神を知らない異邦人と交際すると自分たちの信仰がけがれる」、という思いをもっていたのです。

ペトロ自身も、コルネリウスに会う前は、そう思っていました。しかし、ペトロは神が異邦人にも聖霊を注がれたのを見て、「神はユダヤ人だけをご自分の民として招かれている」という考えは間違っていることを知りました。

ペトロは、自分を非難するエルサレムの信仰者たちに、自分がどのようにカイサリアにいるローマの百人隊長コルネリウスのもとへと導かれたのかを語りました。そして言いました。「主イエス・キリストを信じるようになった私たちに与えてくださったのと同じような賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、私のような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることが出来たでしょうか」

「その言葉を聞いて、人々は静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を讃美した」、と書かれています。

ペトロはコルネリウスとの出会いを通して、「神は人を分け隔てなさらない。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられる」ということを学ばされました。

そして、そのペトロの証を通して、エルサレムのキリスト者たちも、神はユダヤ人であろうがユダヤ人でなかろうが、全ての人をお招きになっている、ということを学んだのです。

今日私達が読んだのは、エルサレムでユダヤ人キリスト者たちがそんなことを議論している間に起こったことでした。聖霊はエルサレムの外で大きな救いの業を進めていた。

「迫害を受けて散らされた人たちは、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行った」、とあります。ステファノの迫害をきっかけにエルサレムで迫害された信仰者たちは、追い散らされて、ユダヤから北の地域へと逃げていったようです。そしてその人たちは、逃げながらキリストのことを伝えていきました。

多くの人は、イエス・キリストの福音をその土地その土地のユダヤ人だけに伝えていたようです。しかし、一部の人たちは、エルサレムのずっと北にあるアンティオキアの町まで、ユダヤ人以外の、ギリシャ語を話す人たちにも福音を伝えました。

アンティオキアは当時の国際都市で、ローマ帝国の中で広く使われていたギリシャ語を話す国際人がたくさんいました。そのアンティオキアで、エルサレムから逃げてきた人たちからキリストの福音を聞いて、たくさんの人たちがイスラエルの神に立ち返っていきました。

私たちはここに福音の広まりの不思議を見ます。エルサレムのキリスト者たちが何か特別な宣教をした、というのではないのです。エルサレムでキリスト者たちが「異邦人にキリストの福音を伝えるべきかどうか」と議論していた間に、彼らの知らないところで福音は異邦人に広まっていたのです。

エルサレム教会が迫害を受け、それで散らされた人たちが、逃げながら「人々に語りかけ、福音を告げ知らせた」とありますが、ここでつかわれている「語り掛けた」というのは、「噂した・話題に上らせた」というような意味合いの言葉です。

異邦人にまで福音を伝えた人たちは、キリストを噂したのです。聖書の専門知識をもって解説していったのではありません。イエス・キリストに関して、そして自分たちが見た、キリストの使徒たちの業、聖霊によるしるしのことを、黙っていられなかったのです。

旧約聖書のエレミヤ書に、こういう言葉がある。

「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、私の心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃えあがります。押さえつけておこうとして私は疲れ果てました。私の負けです」

なぜ、イエス・キリストの福音が迫害を超えて広まったのでしょうか。なぜ福音が、エルサレムのユダヤ人からアンティオキアの異邦人にまで広まったのでしょうか。福音を広めていかれるのは、神ご自身だからです。

イザヤ書にこのような神の言葉が言われています。

「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす。」

キリストの福音・神の招きを広めていらっしゃるのは、神ご自身です。エルサレムのキリスト者が頑張ったのでも、迫害から逃れた人たちが特別な宣教をしたのでもありません。

21節に「主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち返った者の数は多かった」とあります。人々が頑張って新しい信仰者をかき集めたのではありませんでした。主が信仰者たちの証の業を助けていかれたのです。それによって、キリストを信じる人たちが教会へと導かれていきました。

さてエルサレム教会に「アンティオキアでキリストを信じる人が増えている」という噂が届きました。彼らは驚いたでしょう。自分たちが「神は異邦人も招いていらっしゃるのかどうか」を議論している間に、はるか北の国際都市、アンティオキアでたくさんの異邦人がキリストを信じるようになっていた、というのです。

エルサレムの信仰者たちは、使徒の中からバルナバを選び、アンティオキアへと様子を見に行かせました。「バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた」とあります。

バルナバは、「慰めの子」という意味のニックネームです。その名前通り、彼はアンティオキア教会に励まし・慰めを与えました。

アンティオキアに派遣されたバルナバがしたもう一つのことは、教会を迫害し、その後キリスト者へと変わったサウロを招くことだった。サウロは、以前エルサレムでキリストの弟子達の仲間に加わろうとしましたが、皆が彼を信じないで恐れ、受け入れませんでした。教会の迫害者として有名だったサウロはエルサレム教会に受け入れられず、故郷のタルソスにいた。

バルナバはサウロの信仰を覚えていたのでしょう。彼を見つけ出し、アンティオキアへと招き、キリストの宣教を共にしました。「バルナバとサウロは、1年間、アンティオキア教会で一緒に教えた」、とあります。

二人の使徒たちが力を合わせて福音を伝える中で、教会にとって、大きな変化がありました。「このアンティオキアで、弟子達が初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」とあります。

「キリスト者」は、「キリストに属する者」という意味の言葉です。バルナバとサウロから教えを受け、洗礼を受けた人たちは、「バルナバの弟子・サウロの弟子」と呼ばれたのではありません。「キリストのもの」と呼ばれるようになったのだ。

このように、国際都市のアンティオキアでキリスト者が増えてきたことで、ユダヤ人と異邦人という区別は教会の中で薄まって来ました。人々は、キリスト者となってイエス・キリストに結び付くことで、「キリストの下で」一つとなっていったのです。

そのように、アンティオキア教会が順調に成長しているところに、エルサレムから「預言する人たち」がやって来ました。その預言者たちの中の一人、アガボという人が、「大飢饉が世界中で起こる」と預言しました。

ヨセフスというユダヤ人の歴史家は、紀元46~48年にかけて飢饉があった、と書いています。預言者アガボが言った通り、約二年にわたって、飢饉が実際に起こったようだ。

飢饉の中で、教会はどうしたでしょうか。聖書にはこう書かれている。

「弟子達はそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たち援助の品を送ることに決めた。そして、それを実行し、バルナバとサウロに託して長老たちに届けた」

アンティオキアの異邦人教会が、エルサレムのユダヤ人教会に援助を届けた、というのです。

エルサレムとアンティオキアという二つの、異なる人種が集っている教会が、キリストを求める信仰の中で、互いに支えあうようになきました。福音の広がりと共に、人間が作り出した壁が少しずつ無くなっていったことが分かります。

エルサレム教会とアンティオキア教会、ユダヤ人教会と異邦人教会が、一つのキリスト教会として助け合うようになっていきました。このことは、遡ってみると、信仰者同士の出会いの積み重って出来てきたことです。 Continue reading