11月28日の礼拝案内

【次週礼拝(11月28日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:イザヤ書7:1~17

 交読文:詩編6編2節~6節

 讃美歌:讃詠546番、58番、94番、96番、頌栄539番

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

11月21日の説教要旨

マルコ福音書14:32~42

「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(14:36)

有名な、イエス・キリストのゲツセマネの祈りの場面です。

「月の光のもと祈りをささげるキリストと弟子達」、と聞くと、夜の静寂に包まれた、静かで穏やかな祈りの光景を思い浮かべるでしょう。しかし、ゲツセマネで祈りを捧げられるイエス・キリストのお姿は、決して穏やかでも静かでもありませんでした。

神の子イエスご自身が、のたうちまわるほど苦しみながら、ご自分に課せられた十字架の死という使命をめぐって神と対話をなさった壮絶な祈りの姿でした。そしてそばにいた弟子達は一緒に祈りを合わせるどころか、眠りこけてしまっていました。

福音書には、主イエスが父なる神への祈りのお姿が何度も記録されています。しかし、ここまで福音書は、主イエスが何を祈っていらっしゃったのか、ということは記してきませんでした。ここで初めて、主イエスの祈りの言葉が明らかにされます。

ご自分に飲み干すよう神から与えられた苦難の杯を取り除けていただきたいと願い、それがかなわないのであれば、神の御心が行われるようそれを飲み干すことができるように、と祈られてきたのです。キリストはこの祈りを、生涯にわたって祈って来られたのです。

イエス・キリストのご生涯は、祈りの生活そのものでした。ある時は夜通し祈られ、弟子達が翌朝呼びに来なければならなかった、ということもありました。それほど祈らなければならなかったのです。

その祈りがなければ、十字架というご自分の使命に歩みを続けていくことはできなかったからです。祈りを通して神との対話を続け、一歩一歩、ご自分の十字架へと歩みを進めなければなりませんでした。それを考えると、キリストの地上の一生は、祈りの戦いそのものだった、と言っていいのではないでしょうか。

これまで主イエスは静かに、何度もご自分がエルサレムでどんな運命をたどるのか、ということを弟子達にお話しなさって来ました。何の恐れもなく全てを受け入れていらっしゃるかのような静かな主イエスのお姿を見ると、淡々と十字架に向かっていらっしゃるように見えます。

しかし、決してそんなことはありませんでした。キリストは「ひどく恐れてもだえ」「地面にひれ伏して」「苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られたのです。

ヘブライ人への手紙の2章に、こう書かれている。

「イエスは、神の御前において憐み深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちをと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがお出来になるのです。」

イエス・キリストは、私たちが感じる痛み・恐れを同じように感じるところまで来てくださいました。「神の子だから痛みや苦しみや恐れなどとは無縁の方なのではないか」、というのは違います。

主イエスが十字架の上で背負われることになっている世の罪の重さを考えると、とてもそんなことは言えないでしょう。

旧約聖書の初めからここまで読むと主イエスが背負われることになっている罪の重さがどれほどのものか、ということがわかります。この方は天地創造以来神に背を向けてきた人間の罪を全て、お一人で背負われるのです。

人間は、天地創造以来の罪から、まさに今、解放されようとしています。罪人が見失っていた、神のもとへ続く道が、再びこの方の十字架によって照らされようとしているのです。イエス・キリストのゲツセマネでの祈りのひと時は、歴史の中で神が人間を取り戻されるための計画が実現しようとしている瞬間なのです。天地創造以来最も緊迫した、そして厳粛な、聖なる瞬間だと言っていいのではないでしょうか。

イエス・キリストがゲツセマネで祈られたことは、最終的には「あなたの御心が行われますように」ということでした。はじめは、「この杯を私から取り除けてください」と祈られます。この「杯」は、旧約聖書の中では、苦しみと裁きの表す言葉として用いられています。主イエスは愛する父に苦しみからの救いを求めて祈っていらっしゃるのです。

しかし、「父なる神」が、ご自分の独り子に望まれたのは、ご自分の独り子が苦しんで死ぬことでした。そして神の子の死によって、すべての人の罪を許し、すべての人をご自分のもとに取り戻す、ということでした。

これまで主イエスはご自分の死の意味を弟子達に示してこられました。ご自分の死のことを「多くの人のための身代金」とか、「多くの人のために流される私の血」という言葉でおっしゃってきました。

多くの人を救い出す犠牲としての死、それこそ、イザヤが預言していた「苦難の僕」の姿です。

苦難の杯を飲む以外の道を神に求められる主イエスは、最後には神の御心をお求めになります。

「しかし、私が願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」

「あなたがお望みになる限り、私は死にます」、とおっしゃるのです。主イエスはこの祈りの後に逮捕されることになります。今、祈ることをやめて、立ち上がり、この場から離れたら、十字架にかからずに済みます。しかし、主イエスはゲツセマネに留まるために祈りの戦いを続けられます。

この時、12弟子の中でもペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけが主イエスと一緒にゲツセマネに行くことが許されました。宣教の旅の初めから召された、弟子達の中でも一番主イエスと一緒にいる時間の長い三人です。主イエスから「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われました。

しかし、三人の弟子達はすぐに眠ってしまいます。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と起こされても、主イエスが自分たちから離れていかれると、すぐに眠ってしまいます。「眠っているのか、起きて祈っていなさい」と言われてしまいます。

主イエスはなぜ弟子達をゲツセマネへと伴い、一緒に祈ってほしい、とおっしゃったのでしょうか。この三人に、祈りで支えてほしいと願っておられたからです。しかし、弟子達は眠気に負けて、主イエスと一緒にひと時も祈ることすらできなませんでした。

ここを読むと、イエス・キリストは弟子達と一緒にゲツセマネにいらっしゃるにも関わらず、孤独でいらっしゃった、ということがわかります。主は実際にはお一人で祈っていらっしゃったのです。

イエス・キリストに起こされないとすぐに眠ってしまう信仰をもつ弟子達は、私たちの信仰の弱さそのものです。考えてみたいと思います。私たちはどれだけキリストのために祈っているでしょうか。私たちの罪のために取りなして祈ってくださるキリストのために、私たちはどれだけ自分の祈りをもって支えているでしょうか。

私たちは、自分のこと、また、自分の周りのことに関しては祈るのだ。

自分を助けてほしいと祈る時には私たちはたくさんの言葉を用います。

私たちは、キリストに向かっては祈りますが、キリストのために祈っているでしょうか。

キリストは最後まで孤独でした。そこに弟子達がいるのに。一緒に祈ってくれる信仰の友がそこにいなかったのです。

ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、この夜のキリストの祈りのお姿を、そして眠りこけてしまった自分たちのふがいなさを、後々何度も思い出したでしょう。生涯忘れることができなかったでしょう。

イエス・キリストがゲツセマネでここまで必死に祈ってくださったのは、弟子達が弱かったからです。神を忘れ、神から離れていることにすら気づかず生きている罪びとには、キリストの祈りが必要なのです。誘惑の中、わずか一時も目を覚ましていることのできない弱い罪びとだからこそ、キリストが目を覚まし、地面にひれ伏して祈り続けてくださったのです。弟子達が弱いからこそ、私たち罪びとが弱いからこそ、キリストはこの世界を救おうと孤独の中で祈り続けてくださったのです。

主イエスは神に向かって、「アッバ、父よ」と呼びかけられました。親しみを込めた、父親への呼びかけの言葉です。弟子達がゲツセマネへと伴われたのは、キリストと共に神に向かって「アッバ、父よ」と呼ぶ祈りに加えられるためです。

使徒パウロが、ガラテヤの諸教会に向けて、こう書いています。

「あなたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、私たちの心に送ってくださった事実からわかります」

私たちキリスト者は、イエス・キリストによって神の子とされています。神に向かって「アッバ、父よ」と叫ぶ神の子であるイエス・キリストの霊が私たちの心の中に送られているのです。 Continue reading

11月21日の礼拝案内

【次週礼拝(11月21日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書14:32~42

 交読文:詩編6編1節~6節

 讃美歌:讃詠546番、57番、133番、338番、頌栄539番

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

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11月14日の説教要旨

マルコ福音書14:27~31

「イエスは弟子達に言われた。『あなたがたは皆、私につまずく。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と書いてあるからだ。しかし、私は復活したのち、あなたがたより先にガリラヤへ行く。』」

弟子達にとって、イエス・キリストと囲んだ「過ぎ越しの食卓」は大きな衝撃でした。主イエスから「あなたがたの中の一人が私を裏切ろうとしている」と聞かされた。

過越しの食卓に座を連ね、出エジプトの恵みに思い浸っていた弟子達は衝撃を受けました。考えられないことでした。過越の食卓が一気に緊迫したものになります。

弟子達は「誰だろうか」と皆考えました。その弟子達に追い打ちをかけるように、主イエスは葡萄酒を配り、「これは私の体、私の血だ」と、ご自分に死が差し迫っていることを示されました。

主イエスと弟子達は、この過越しの食卓から、オリーブ山へと出ていきました。

オリーブ山まで歩く間、弟子達は、主イエスが食卓でおっしゃったことを頭の中で反芻していたでしょう。

「12人の中で裏切るのは一体誰なのか」

「食卓で手渡されたパンと葡萄酒が主イエスの体であり血であるとはどういうことか」

オリーブ山に着いた時、弟子達は主イエスからさらに衝撃的なことを聞かされます。弟子の一人が裏切ろうとしているだけではなく、「あなたがたはこれから私を見捨てて逃げる」とおっしゃったのです。

あまりのことに、もう黙ってはいられなくなりました。ペトロは皆を代表して答えます。

「たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません」

弟子達はペトロと同じ気持ちでした。当然自分は先生と一緒に最後までいるつもりだ自分が途中で先生を見捨てて離れてしまうなどということはない、と全員が意思表示しました。

しかし、そのペトロの言葉に対して主イエスは「よく言ってくれた、私は嬉しい」とはおっしゃいませんでした。Continue reading

11月14日の礼拝案内

【次週礼拝(11月14日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書14:27~31

 交読文:詩編6編1節~6節

 讃美歌:讃詠546番、56番、132番、294番、頌栄539番

牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

11月7日の説教要旨

マルコ福音書14:22~26

「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(14:25)

「最後の晩餐」とか、「主の食卓」と呼ばれている、キリストが弟子達にご自分の肉と血を象徴するパンと葡萄酒をお与えになった食卓です。私たちが礼拝の中で行う聖餐式の原型となる過越の食卓です。

「過越の食卓」は、定められた手順を踏んでもたれます。その家族の長が取り仕切り、長い時間をかけて、食事や盃が出されるごとに祝福の言葉とその意味が語られます。そうやって、イスラエルの先祖の出エジプトの恵みを追体験するのです。

主イエスと弟子達がもったこの食卓は、普通の過ぎ越しの食卓とは少し違っていました。

過去に与えられた救いについてだけではなく、これから与えられることになる新しい救いについて語られているのです。

「主イエスは、私の体と血をあなたたちに与えよう、取りなさい」とおっしゃっています。主イエスは、ご自分の死を弟子達にお与えになりました。

この晩、主イエスが弟子達と囲まれた過ぎ越しの食卓は、「新しい過ぎ越し・救い」の始まりだったのです。

我々は、まず、この食卓の根っこにあるものをしっかりとらえていきたいと思います。過ぎ越しの食卓は、イスラエルはエジプトでの奴隷生活からの解放を思い起こし、自分たちの今が神の救いの恵みによるものであることを記念する食卓です。

聖書に記されている出エジプトの出来事を読むと、神の救いの不思議を思わされるのではないでしょうか。神によってエジプトの奴隷生活から救われた、と聞くと、イスラエルは神によってすぐに豊かで幸せな生活を始めたと思うのではないでしょうか。「神の救いと聞くと誰だって楽に楽しく生きられるようになることだと考えます。

しかし神がイスラエルをエジプトから解放し、導き入れられたのは荒れ野でした。そこから40年間、イスラエルは荒れ野の旅を続けなければならなくなります。実際にエジプトから脱出した人たちは皆荒れ野で死に、約束の地にたどり着いたのは荒れ野で生まれた世代の人たちでした。それほどに苦しい旅でした。イスラエルの人たちは荒れ野で何度も、自分たちを導くモーセやアロンに向かって「こんなにしんどいのならエジプトに帰りたい」と泣き言を言いました。 

なぜ、イスラエルは40年も荒れ野を旅しなければならなかったのでしょうか。神は、旅の最後で、モーセを通して全イスラエルに向けてその理由をお教えになりました。

申命記に記されている言葉を引用します。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことの無いマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足が腫れることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」 Continue reading

11月06日の礼拝案内

【次週礼拝(11月6日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書14:22~26

 交読文:詩編5編8節~13節

 讃美歌:讃詠546番、55番、242番、310番、頌栄539番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

10月31日の説教要旨

マルコ福音書14:12~21

「はっきり言っておくが、あなたがたの内の一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」(14:18)

ガリラヤから過越祭への巡礼のためにやってきた主イエスの一行は、エルサレムで「除酵祭の第一日を迎えた」、とあります。この日は木曜日でした。除酵祭の第一日、この木曜日の日が暮れて夜を迎え、そしてその夜が明ければ、イエス・キリストは十字架に上げられ、殺されることになります。

今日私たちが読んだのは、イエス・キリストが弟子達と過ごす最後の時間を、どのように過ごされたか、という場面です。

この日主イエスがなさったことは、食事の席を弟子達に探させ、そして共に食事をする、ということでした。その食卓は「最後の晩餐」と後に呼ばれることになります。

この日、主イエスが弟子達と囲まれたのは、「過ぎ越しの食事」と呼ばれる、イスラエルにとって、自分たちのルーツを思い出すための特別な祭りの食卓でした。過越祭は、イスラエルの人たちが自分たちの先祖がエジプトの奴隷生活から神によって救い出されたことを記念する祭りです。

出エジプト記にその「過越し」の出来事が記されています。神は、イスラエルをエジプトでの奴隷生活から解放するために、エジプトを打たれました。その際、イスラエルの人たちは、神の裁きが自分たちのもとに来ないように、目印として、家の鴨居に子羊の血を塗りました。神は、子羊の血が塗られたイスラエルの家をは過ぎ越して、エジプトを打っていかれたのです。

そしてその夜、イスラエルの人たちは旅の準備を整えることもなく、急いで食事をし、エジプトを出発しました。過越祭の中でもたれる「過越しの食卓」は、その夜の食事を再現して、思い起こすためのものでした。イスラエル解放の夜を記念するために、一家の長が食事を取り仕切って自分たちの先祖が神に救い出された夜のことを、順を追って追体験するのです。

イスラエルの人たちは、そのようにして過越祭を通して、自分たちが神によって救われて今も生かされている、ということを代々子供たちに伝え、神への信仰を確かなものとしてきたのです。

イエス・キリストが、十字架に上げられる前に最後に弟子達と囲まれたのが「過ぎ越しの食卓」であった、ということは偶然ではありません。私たちはここを読んで、あまりにもキリストがおっしゃる通りに物事が運んでいることに驚くのではないでしょうか。

事細かに弟子達に指示を出されています。「エルサレムの都に行くと、水瓶を運んでいる男に出会うからその人について行きなさい。そしてその人が入って行く家の主人に、食事の席を準備させなさい」

どこで誰に会い、そしてどのように言えばよいのかまで弟子達に指示をお与えになっています。まるですべてそうなると決められていたかのようです。

実は、そうなのです。そう決まっていたのです。この日、イエス・キリストと弟子達が最後の晩餐として過ぎ越しの食事を囲むということは、神のご計画の内にあったことでした。

イザヤ書53章に、すべての罪びとを背負って死ぬ、という使命が与えられた「神の僕」が世に与えられるだろう、という預言があります。

「私たちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かっていった。その我々の罪をすべて主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみこみ、彼は口を開かなかった。屠り場に惹かれる子羊のように、毛を切る者の前にものを言わない羊のように、彼は口を開かなかった」

「苦難の僕」の歌と呼ばれるイザヤ預言です。神に背を向けて離れてしまった罪びとたちのすべての罪を担う「苦難の僕」と呼ばれる人が来る、という預言です。

イエス・キリストこそ、その苦難の僕でした。この方はこれから罪びとの罪を背負って十字架の上で死んでくださいます。この方は生贄なのです。犠牲なのです。そして罪びとにとっては罪の重荷から解放してくださる方でした。

主イエスがこの日弟子達と過越しの食卓を囲まれたということは、長い歴史の中で神が実現なさる救いのご計画の一部でした。十字架の前夜、それはまさに新しい過越しの夜であり、罪からの解放の前夜だったのです。使命を背負って、この世に来てくださった苦難の僕を通して、神がすべての罪びとを身元へとお集めになるご計画は、間違いなく実現しています。

苦難の僕は今、罪びとを救い出すために、一つ一つ苦しみへの階段を上ってくださっています。後のキリスト教会にとって、この夜主イエスと弟子達が囲んだ最後の晩餐は、新しい救いの始まりとして記念すべきものとなりました。

イスラエルの人々が過ぎ越しの食事を通して自分たちが何者であるのか、ということを思い出し、代々それを伝えてきたように、キリスト教会もこの晩キリストと弟子達が囲んだ食卓を通して、自分たちの信仰の原点と、自分たちが生きている世界にキリストが今も共に生きて歩んでくださっていることを深く覚えるようになるのです。

この時の弟子達にはまだわからりませんでしたが、これは新しい過ぎ越しであり、新しい救いの始まりの食卓でした。この夜の食卓が、新しい救いの記憶となり、弟子達は人々に伝えて行くことになります。

さて、主イエスは、この食卓で、一つの衝撃的な事実を弟子達に打ち明けられました。

「この中の一人が私を裏切ろうとしている」

弟子達は皆驚きました。イスカリオテのユダも、驚いたでしょう。自分が主イエスを引き渡すために祭司長たちと取引をしたのがばれていたのです。見抜かれていたのです。

しかし、主イエスはこの席「それはイスカリオテのユダだ」とはおっしゃいません。ユダがご自分を裏切ることまでも神のご計画の内にあることを受け入れていらっしゃるからです。

主イエスは、全てご存じだった。

この後、ユダの裏切りによってユダヤ人指導者たちに逮捕され、裁判にかけられ、ローマ総督に引き渡され、十字架刑を宣告され、鞭うたれ、十字架に張り付けられることも・・・ユダに裏切られるだけでなく、ほかの弟子達もご自分から離れ去ってしまうことも・・・ペトロが三度「イエスなど知らない」と言ってしまうことも、全てご存じでした。

そもそもイエス・キリストは、そのご生涯のはじめから、エルサレムでご自分の十字架の死が待っているということをご存じでした。すべてお分かりになっていた上で、エルサレムに旅をし、一日一日エルサレムに滞在して十字架の時が来るのを待っていらっしゃったのです。

今この時、目に見えないところで祭司長たちや律法学者たちがご自分への殺意をもって動いていること、そしてイスカリオテのユダが主イエスを引き渡すために接触したことだった、全てご存じでした。

「まさか私のことでは」と一人一人が言い始めた。

ユダも他の弟子達に調子を合わせて、同じようにまさか私ですか?」と白々しく尋ねていた Continue reading

10月31日の礼拝案内

【次週礼拝(10月31日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書14:12~21

 交読文:詩編5編8節~13節

 讃美歌:讃詠546番、54番、204番、259番、頌栄544番

牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

◇11月2日(火) 15時より 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道委員会

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

10月24日の説教要旨

マルコ福音書14:1~11

「12人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った」(14:10)

聖書は、シモンの家での香油の注ぎの出来事の前後に、主イエスのいらっしゃらないところで何が起こっていたか・どんな計画が進んでいたか、ということを書いています。

祭司長たちや律法学者たちがなんとかしてナザレのイエスを捕えて殺そうと狙っていた、とあります。そしてベタニアで主イエスが香油を注がれた後、弟子の一人、イスカリオテのユダが主イエスを彼らに引き渡そうとして取引しに行った、ということが書かれています。

祭司長や律法学者たちは、主イエスがガリラヤにいらっしゃった時からずっと彼らは主イエスを殺そうと考えていました。「危険人物であるあのナザレのイエスが今、エルサレムに来ている、自分たちの手の届くところにいる」、そう思っても、簡単には手が出せないでいました。

過越祭には多くの巡礼者が神殿に詣でていて、その巡礼者の群衆は主イエスのことを熱心に支持していたのです。皆、喜んで、神殿の境内で神の国の教えを語る主イエスの言葉に耳を傾けていました。もし、そのような人たちの目の前で無理やりナザレのイエスを捕えたりすると暴動になる危険性があります。日中、ナザレのイエスはずっと神殿で過ごしていて、群集が一緒にいるのです。祭司長や律法学者たちがナザレのイエスを捕まえて殺るのであれば、夜を選ぶしかありませんでした。しかし、それは簡単ではなかった。

10万人以上が過越祭の巡礼でエルサレムに来ていたと言われています。エルサレムの町の中にそれだけの人数を収容することはできないので、巡礼者たちは、夕方になるとエルサレムの外に出て、周辺の村々に宿泊していました。10万人の中からナザレのイエス一人だけを見つけ出すことは困難でした。

ユダヤの指導者たちは、イエスとその弟子達が夜どこに泊まっているのか、どこに行けば誰の目にも触れずにイエスを逮捕できるのか、詳しい情報を求めていました。そこにイエスの弟子のユダがやって来て、「イエスと他の弟子達が夜の間どこにいるのか教えましょう」と言ったのです。これこそ指導者たちが求めていた情報でした。彼らは喜んで、ユダにお金を与える約束をしました。

我々は今日特に、このユダという人に注目したいと思います。イスカリオテのユダは、イエス・キリストの弟子でありながら、キリストを最後に裏切った人物として、とても有名な人です。聖書を読んだことがない人でも、キリスト者でなくても、このユダという人のことを知っている人は多いでしょう。

ユダは、脅されて主イエスを引き渡そうとしたのではありません。自分の意思によってそうしたのです。

ユダの裏切は突然で、驚かされます。寝食を苦楽を共にしてきた主イエスと他の弟子達を、彼はなぜ裏切ったのでしょうか。主イエスを裏切って、金をもらう約束を取り付けた、ということを見ると、ユダは狡猾で悪い心をもっていた人物だった、という印象を受けます。

ユダはお金に目がくらんだのだのでしょうか。他の福音書を見ると、ユダが主イエスを裏切って受け取ったのは、銀貨30枚だった、と記録されています。銀貨30枚というのは、30日分の同労賃金、一か月分の収入ぐらいの額です。一生遊んで暮らせるだけのお金をもらえるというのなら、わかりますが、その程度の金額のために、一年以上従い続けて来た主イエスと他の弟子達を売り渡す、ということは考えにくいでしょう。

ユダの裏切の理由について、与えられている情報から、多少推測することは出来ます。

12弟子の中でもユダだけ、特別に、「イスカリオテのユダ」という呼び方がされています。「イスカリオテ」というのは、ユダの苗字ではありません。これは「ケリヨトの人」という意味の言葉だ。「ケリヨトの人、ユダ」と彼は呼ばれていたのです。ケリヨトはユダヤ地方のずっと南にある町で、ユダはここの出身だったようです。ユダだけが「イスカリオテのユダ」と呼ばれていた、ということはつまり、ユダは弟子達の中で一人だけ、ガリラヤ人ではなかった、ということです。

主イエスは「ガリラヤの預言者」として人々から称賛を受けていました。他の弟子達も主イエスのことを「自分と同じガリラヤ人の預言者・メシア」という同郷意識をもって見ていました。

しかし、ケリヨトの人であったユダには「我々ガリラヤ人」というような同胞意識はありませんでした。ユダは冷静に客観的に主イエスを見極めて、自分の意思で、「このガリラヤの先生に従おう」と思って従っていたのです。

ユダも他の弟子達同様、このイエスという方がいずれイスラエルをローマの支配から救い出してくださる指導者だと信じて従っていたでしょう。主イエスが「エルサレムに行く」とおっしゃった時には、皆「先生はこれからエルサレムに行って、いよいよ王座に着かれるのだろう」という期待を持ったでしょう。

ところが、エルサレムに出発する際に、主イエスは「私はエルサレムで殺されることになっている」と、ご自分の運命を弟子達に明らかにされました。弟子達は皆驚きました。主イエスがローマからイスラエルを解放し、栄光の座に座るだろうという期待を持っていたからこそ、ここまで従ってきたのです。ユダも、自分の従いの先には栄光があると期待したから、ケリヨト人でありながら、ガリラヤの教師である主イエスに従っていたのです。

それなのに、エルサレムに旅を続ける中で「私は殺されるのだ」と主イエスは何度も繰り返されました。そしてエルサレムに入ってからは、神殿から商人を追い出したり、神殿の崩壊を預言したりなさっています。ベタニア村のシモンの家で香油を注がれた際、主イエスは「この人は私の葬りの準備をしてくれた」とおっしゃいました。「やはり先生はここで死ぬ覚悟でいらっしゃるのだ」と、彼は失望したでしょう。

ユダにしてみれば、「先生が殺されるのを見るためにここまで従ってきたのではない」という思いが強かったでしょう。このままだと本当に主イエスも弟子達も自分も、殺されてしまう。先生は彼らと戦う意思をもっていらっしゃらない。むしろ死ぬ覚悟を決めていらっしゃる。これ以上、指導者たちを刺激しないためには何をすべきか、自分や他の弟子達まで巻き添えにならない方法はないか、ユダは考えたのではないでしょうか。

このように、与えられた情報を集めて、ユダの裏切の理由を推理していくことは、ある程度は可能だ。しかし、結局のところユダの本当の思いというのは、ユダ本人に聞いてみないとわかりません。聖書が、あえて、ユダの裏切の理由を書いていない、ということにも、大きな意味があるのでしょう。

ただ言えることは、ケリヨトの人でありながら、ガリラヤの教師に従って長い期間苦楽を共にしてきたユダが、主イエスと弟子達を裏切ろうと決意するまでには多くの葛藤があっただろう、ということです。ユダという人は、極悪人でも、詐欺師でもなく、心の中にいろんな葛藤をもった、普通の人だったのです。裏切り者として有名なイスカリオテのユダは、実は、我々と何ら変わりない、人間的な弱さを抱えた人だったのです。

ユダは、イエス・キリストに自分の未来を見出すことが出来なくなってしまいました。主イエスは、ご自分の受難と一緒に「三日の後、復活する」と、復活の希望を予告してこられました。しかし弟子達は主イエスの受難予告だけを聞いて、復活予告を聞き逃してきています。

もしも、ユダが、主イエスのことを本当にキリストであると最後まで信じぬくことができたのであれば、主イエスの死の向こうには復活の希望があると考えることが出来たのではないでしょうか。

しかし、ユダにとって主イエスの死は全ての終わりでした。

我々は、ユダの姿を通して、イエス・キリストに希望を見出すことができない人間の人のもろさを見ることができるでしょう。誰でも、自分の全てをかけていた希望を失った時に、どれだけ簡単に崩れてしまうのか、ということを、このユダの姿は我々に教えてくれます。

使徒パウロはコリント教会にこう書き送っています。

「立っていると思うものは、倒れないように気を付けるがよい。」

我々はキリストを信じ、真っすぐな思いを持っている時には「自分は今しっかりと立っていて、どんなことがあっても揺らがない」、と思い込んでいます。しかし、本当は、我々の信仰の足元はいつもぐらついているのです。次の一歩で躓いて倒れるかもしれない、ということをすぐに忘れてしまいます。12弟子の一人でさえそうでした。

しかし、キリストを信じる人は、躓いてもそれで終わりではありません。

パウロはこのようにも書いています。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなた方を耐えられない様な試練に合わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」

どんな試練があっても、苦難があっても、我々にはイエス・キリストという最後の希望があることを忘れなければ、我々はふらつきながらでも立ち続けることが出来るのです。

生きる中で、自分が行き止まり・行き詰りにいる見える時もあるでしょう。しかしそれでも、今の私達には見えないところで、神が新しい道を用意してくださっている、ということを聖書は我々に訴えています。

このユダという人さえいなければ、主イエスは十字架で殺されることはなかったのではないか、と誰もが考えます。しかし、このユダの裏切という、想定外のことのように思える人間の罪も、神の救いご計画の中でもちいられた、という神秘に思いを馳せたいと思います。

我々信仰者がこの人生の中で与えられる葛藤も、苦難も、神はご自分の救いのために用いてくださいます。

パウロはローマの信仰者たちに、こう書いている。

「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、我々は知っています」

我々は、ユダの裏切を他人事のように見ることは許されません。ユダの中に自分と同じ弱さがあることを見つめ、今自分に与えられている許しの大きさをかみしめ、今我々が抱いている弱さや葛藤さえも、神は恵みをもって用いてくださることに感謝したいと思います。

キリストを信じることは、苦難や葛藤を伴うことです。しかし、その苦難や葛藤を乗り越えさせてくださるのも、キリストなのだ、ということを覚えたいと思います。