7月18日の礼拝案内

【次週礼拝(7月18日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書11:27~33

 交読文:詩編2編

 讃美歌:讃詠546番、20番、355番、515番、頌栄541番

【報告等】

◇7月18日(日) 八丈島教会教師就任式が執り行われます。

 牧師予定】

◇7月13日(火)に予定されていた東支区教師会、伊豆伝道委員会は、緊急事態宣言が出されたため中止になりました。

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

7月11日の説教要旨

マルコ福音書11:18~26

「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(11:24)

主イエスが神殿の境内から商人たちを追い出されたのを見て、祭司長・律法学者。長老たちといったユダヤの指導者たちは、「あのイエスをどのようにして殺そうか」と相談を始めました。

過越祭の時期は、ユダヤ人指導者が神経をとがらせていました。エルサレムに世界中からユダヤ人が巡礼に集って来て、イスラエルが外国の支配からの解放を記念するのです。ユダヤ人の愛国精神が高まる時期でした。些細なきっかけで過越祭のエルサレムからローマへの暴動が起きかねません。

そんな中で、ナザレからイエスという人がやって来てエルサレムの都の中で人々から注目を浴びるようになっていました。ナザレのイエスは、日曜日にエルサレムに到着し、ガリラヤからの巡礼者たちから「ホサナ」と讃えられながら入場してきました。翌日の月曜日にはエルサレム神殿の境内で両替や生贄を売っていた商人たちを追い出しました。そして今やエルサレムの人たちは、このイエスという人が語る言葉に熱心に耳を傾けるようになっていました。

ユダヤ人の指導者であった祭司や律法学者たちは、誰にもエルサレムで目立つことをしてほしくありませんでした。巡礼者たちには、静かに過ごしてほしかったのです。ナザレのイエスの振る舞いは、目に余るものがありました。何とか、ナザレのイエスがこれ以上目立つことのないように、暴動の芽を早いうちに摘んでおく必要を感じました。

指導者たちは、群衆の知らないところでナザレのイエスを殺すしかない、と計画を立て始めます。いよいよ、イエス・キリストの十字架に向かって事態が動き始めることになります。

さて、今日私達は、キリストが呪われたイチジクの木が枯れ、それを見た弟子達が驚いた、というところを読みました。

聖書は一本のイチジクの木のことを何度も書いています。大人気ない八つ当たりのようにも見える、主イエスのイチジクの木に対する呪いの言葉、そしてその言葉によって木がどうなったのか、そしてそれを見た弟子達の反応と、聖書はイチジクの木を巡って起こったことをとても丁寧に描いています。たかが一本のイチジクの木がそれほど大事なのでしょうか。

旧約聖書を見ると、イスラエルの不信仰を神が嘆かれている言葉がたくさんあります。神は不信仰のイスラエルを、実をつけないイチジクや、実を結ばないブドウに例えていらっしゃいます。

紀元前8世紀、イスラエル南王国の預言者であったミカが、このような神の言葉を伝えています。

「悲しいかな、私は夏の果物を集める者のように、ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく、私の好む初なりのイチジクもない。主の慈しみに生きる者はこの国から滅び、人々の中に正しい者はいなくなった。」

神が、信仰者を探そうとなさっても、見つからなかった、と言うのです。イスラエルの中に正しい信仰者を探すのは、季節外れの時期にイチジクの木に果実を探すようなものだ、とおっしゃいます。

預言者ミカと同じ時期にエルサレムで預言をしていたイザヤも、イザヤ書の5章に「ぶどう畑の歌」と呼ばれている神の言葉を残しています。神が、肥沃な丘をよく耕して石を除き、良いブドウを植えられたのに、そのブドウ畑に実ったのは酸っぱいブドウの実だった、という内容の歌です。その歌の中で神はおっしゃいます。「私がブドウ畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあると言うのか。」

イザヤが伝えるこの「ブドウ畑」というのは、紀元前8世紀にエルサレムに住む人たちのことでした。神が愛情を注ぎ、イスラエルの人々を、そしてエルサレムの都にご自分の愛を注がれたのに、イスラエルはそれに答えなかった、神は、そのようなエルサレムの不信仰を「農夫に収穫の実をつけないぶどう畑」とおっしゃいます。

これらの旧約の預言を踏まえて、キリストによって枯らされてしまったイチジクの木を見ると、その象徴的な意味がよくわかると思います。このイチジクの木は祈りを無くしてしまったキリストの時代のエルサレム神殿でした。キリストは、このイチジクを枯らすことによって、弟子達に不信仰の末路をお示しになったのです。

これは、主イエスから弟子達は強烈なメッセージでした。しかし、弟子達は、主イエスがこのイチジクの木を通してお伝えになろうとしたことを、きちんと受け止めることができたでしょうか。

弟子達は確かにイチジクの木が枯れていることに驚きました。しかし、彼らが驚いたのは、祈りの家であるはずのエルサレム神殿の不信仰ではなく、単に、主イエスの言葉によって「イチジクの木が枯れた」、という事実でした。

弟子達はこれまでに何度も、主イエスが奇跡を行われるのを見て来ました。主イエスは病の人を癒したり、悪霊を追い出したりしてこられました。彼らが見て来た奇跡は全て、病や悪霊から誰かを救いだすための、救いの御業でした。

しかし、このイチジクの木を枯らしてしまう、という奇跡は、今までの主イエスが行われてきたこととは全く種類が違います。人間相手ではなく、木が相手です。救い業ではなく呪いの業です。弟子達は、なぜ主イエスがこのようなことをなさったのか、この時は理解できなかったでしょう。

驚く弟子達に、主イエスはおっしゃった。

「神を信じなさい。はっきり言っておく。誰でも、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、その通りになる。」

主イエスはただ、祈りが持っている力、信仰が持っている力を弟子達にお伝えになりました。

「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、その通りになる。」

私達はこの言葉を聞いてどう思うでしょうか。

「本当だろうか」と思うのではないでしょうか。信仰者であれば、誰だって神に祈ります。そして信仰者であるなら、「祈ったら何でも叶うなんていうことはない」、ということもよくわかてっているでしょう。たくさん祈る人ほど、そのことをよく知っているのではないでしょうか。

私達には、どんなに真剣に祈っても、実現しない願い事はたくさんあるのです。私達にとって祈り・信仰とは、都合のいいことを起こしてくれる魔術のようなものではありません。

ここを読む際に大事なことは、主イエスがここでおっしゃっている「この山」とは何か、と言うことです。主イエスがここでおっしゃっている「この山」というのは、エルサレムのある山のことです。もっと言えば、神殿のことです。

そのことを踏まえて主イエスの言葉を読むと、「心からの祈りは、強盗の巣になっている神殿に勝っている」、ということであることがわかります。神殿の建物に力があるのではない。祈りに、信仰に力がある、と言うことです。単純なことですが、これは見た目にすぐに影響されてしまう私達にとって大事なことだと思います。

主イエスが弟子達におっしゃったことは、とても単純でした。

「神を信じなさい」

この単純なイエス・キリストの一言が、後の弟子達にとってどれだけ大きな支えになったかわかりません。

十字架の死から復活なさった主イエスが天に昇られる際、弟子達は地の果てまでイエス・キリストの復活を証しするよう命じられました。「自分たちにそんな大それたことが出来るだろうか、この人数でできるだろうか」、と恐れたでしょう。

しかし、弟子達は神を信じました。自分たちではなく、神を信じました。そして祈り続け、聖霊を受け、世界へとキリストの復活を一生かけて伝え続けました。弟子達は主イエスがおっしゃった言葉の意味を、後々まで何度も思い出して考えたのではないでしょうか。「神を信じなさい」「祈り求める者は全て既に得られたと信じなさい」というキリストの言葉が、彼らの心に残り、彼らを支えていったのです。

主イエスは、最後に弟子達にこうおっしゃいました。

「立って祈る時、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、許してあげなさい。そうすれば、あなた方の天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」

我々キリストを信じる者の祈りとは何なのか、ということがこの一言に現れています。私達が祈りを通して神の求める究極のもの、それは「許し」です。人を許すこと、人に許してもらうこと、そして神に許していただくことです。

ルカ福音書に、放蕩息子のたとえと呼ばれるキリストのたとえ話があります。家を捨てて放蕩の限りを尽くした息子は、放蕩の果てに全てを無くし、最後に求めたのは、父の家に帰ることでした。彼が最後の最後で求めたのは、財産ではなく、放蕩でもなく、父の許しだったのです。

「お父さん、私を許してください」と言って父の下に帰る息子の姿こそ、信仰者の祈りの姿です。 Continue reading

07月11日の礼拝案内

【次週礼拝(7月11日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書11:18~26

 交読文:詩編3編

 讃美歌:讃詠546番、19番、239番、313番、頌栄541番

【報告等】

◇7月18日(日) 八丈島教会教師就任式が執り行われます。

 牧師予定】

◇7月13日(火) 富士見町教会にて 東支区教師会、伊豆伝道委員会があります。

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 Continue reading

07月04日の説教要旨

マルコによる福音書11:11~18

「葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなっていないかと近寄られたが、葉の他は何もなかった。」(11:13)

 過越祭への巡礼のため、主イエスと弟子達は、エルサレムの近くにあるベタニアという村に宿を取られました。

主イエスは日曜日に子ロバに乗って、武器も持たず、柔和で謙遜な姿でエルサレムに入場されました。それは、預言者ゼカリヤが預言したエルサレムの王の入場の姿そのものでした。

 エルサレムに入られる直前に主イエスはご自分の使命について弟子達におっしゃいました。「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た。」

罪にとらわれている人たちを取り戻すために、身代金としてご自分の血を流されるキリストの十字架への秒読みが始ました。その秒読みの中で、主イエスが何をなさったのか、ということを見ていきたいと思います。

私達が今日読んだのは、エルサレム入場の翌日のこと、月曜日の出来事です。

エルサレムに向かうためにベタニアの村から出ようとされた時、主イエスは葉っぱが茂っているイチジクの木をご覧になりました。それは遠くから見たらたくさん実をつけているように見える木でした。しかし、近づいてみると、その木にはイチジクの実が一つもなっていませんでした。主イエスは、その木を呪われます。

 そしてそのままエルサレムの町に入り、神殿の境内に入って行かれました。そこで商人たちが台を置いて、巡礼者たちを相手に、両替をしたり、生贄を売ったりしていたのをご覧になって、お怒りになって台や腰掛をひっくり返されました。

 ここを読んで、どう思うでしょうか。

月曜日に主イエスがなさったことは、私達にとっては首をかしげるようなことではないでしょうか。イチジクの木を、実がなっていないからと言って呪ったり、神殿で大暴れしたり・・・これまで私達が見て来た穏やかなイエス・キリストのお姿からは考えられないような振る舞いではないでしょうか。

イエス・キリストのこれらの振る舞いは、一体何だったのでしょうか。マルコ福音書は、この11章全体を通して、イチジクと神殿を交互に描いています。聖書は、イチジクの木に、その時代のエルサレム神殿を重ね合わせて私達に見せようとしているのです。

イチジクの木は、少し離れたところからだと、葉が茂っていたのでたくさんの実がついているように見えました。しかし、近くで見ると一つも実がなっていませんでした。

エルサレム神殿もそうだったのです。確かに遠くから見れば、立派な建築物でした。しかし、神殿の中では両替が行われ、生贄の売買が行われていたのです。

主イエスにとって、そのようなエルサレム神殿はもはや「祈りの家」ではありませんでした。離れたところから見てどんなに立派に見えたとしても、主イエスに言わせれば、その中身は「強盗の巣」だったのです。

イチジクの木はキリストご自身によって呪われ、枯らされてしまいます。それはエルサレム神殿の運命を暗示しています。実際にエルサレム神殿は、この出来事の約40年後、紀元70年にローマ軍によって破壊されることになるのです。

私達は、この月曜日のイエス・キリストの振る舞いを、「子供じみみた振る舞いだ」と言って、軽んじてはいけないと思います。

イエス・キリストが実を結ばないイチジクの木を呪われた、ということ、そして祈りがなかったエルサレム神殿から商人たちを追い出されたということ・・・これらのことを通して、信仰者は、自分の信仰を吟味しなければならないのではないでしょうか。

神殿は、ダビデ王の後のソロモン王の時代に建てられました。神殿の建築が完成した時、ソロモンはこのように祈りました。

「あなたの民イスラエルに属さない異国人が、御名を慕い、遠い国から来て、この神殿に来て祈るなら、あなたはお住まいである天にいましてそれに耳を傾け、その異国人があなたに叫び求めることを全てかなえてください。こうして、地上の全ての民は御名を知り、あなたの民イスラエルと同様にあなたを畏れ敬い、私の建てたこの神殿が御名をもって呼ばれていることを知るでしょう」

それに対して、神はこうお答えになりました。

「もしあなたたちとその子孫が私に背を向けて離れ去り、私が授けた戒めと掟を守らず、他の神々の元に行って仕え、それにひれ伏すなら、私は与えられた土地からイスラエルを断ち、私の名のために聖別した神殿も私の前から捨て去る。」

神はエルサレム神殿を無条件に守られる、などと言うことはおっしゃいません。

「あなたがたが私を捨てるのであれば、私は神殿を捨てる」とおっしゃるのです。

キリストが呪われたイチジクの木が枯れた、ということには深刻な信仰の問題が隠されています。神殿がもし、「祈り」という実を結ばないのであれば、神ご自身によって呪われ、倒されてしまう、ということです。

主イエスにとって、神殿の境内に両替のための台を置いたり、ここで生贄を売ったりすることは冒涜でした。主イエスは、境内にいた人たちに向かって叫ばれます。

「こう書いてあるではないか「『私の家は、全ての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』」

『私の家は、全ての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』とは、イザヤ書56章に書かれている言葉です。預言者イザヤは、ユダヤ人だけでなく、異邦人たち、全世界の人たちが真の神にもとに集められる日が来ることを預言しました。 Continue reading

07月04日の礼拝案内

【次週礼拝(7月4日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書11:11~18

 交読文:詩編2編

 讃美歌:讃詠546番、17番、269番、365番、頌栄540番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇7月3日(土) 役員会があります。

◇7月18日(日) 八丈島教会教師就任式が執り行われます。

 牧師予定】

◇7月13日(火) 富士見町教会にて 東支区教師会、伊豆伝道委員会があります。

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:Continue reading

06月27日の説教要旨

マルコ福音書11:1~11

 「もしだれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」(11:3)

ついに主イエスのエルサレムへの旅が終りました。これから私達は、エルサレムに到着し、入場されたイエス・キリストのお姿を見ていくことになります。そしてそれはイエス・キリストの最後の7日間のお姿ということになります。

主イエスがエルサレムに入場されたのは日曜日でした。この日から、ちょうど一週間後の日曜日の朝、過越祭の中で子羊が屠られる時間に、主は十字架に上げられて殺されることになります。

いつ、なんのために主イエスがエルサレムに来られたのか、ということを踏まえて、これからキリストの最後の七日間を見ていきたいと思います。

主イエスがエルサレムへと旅をされたのは、過越祭に参加するためでした。

過越祭は、イスラエルが昔、エジプトでの奴隷生活から神によって救いだされたことを記念する祭りです。エジプトから脱出する夜、イスラエルの人たちは、家の鴨居に子羊の血を塗りました。神の裁きは子羊の血を塗ったイスラエルの家を過越し、エジプトを打ちました。

神の裁きの過越しによって自分たちの先祖がエジプトから救いだされた、という解放を記念するための祭りです。ユダヤ人にとってとても大切な祭りでしたので、この時期、エルサレムには世界中からユダヤ人たちが巡礼に来ていました。過越祭の前後1~2週間は、エルサレムには大勢の巡礼者が訪れるため、普段の人口の6倍になったと言われています。

大勢のユダヤ人が世界中から巡礼にやって来て集まり、外国の支配からの救いを記念する祭りを祝うのですから、ユダヤのナショナリズム・愛国主義が高まる時でもありました。ローマによる支配に対する反感が高まる時期であった、ということです。

そのため、この時期にはユダヤを占領していたローマ軍は、ユダヤ人たちが暴動を起こさないように警戒を強めていました。ユダヤ人の指導者たちも、ローマとのささいな衝突から反乱や戦争という大きな問題が起きないように、神経をつかっていました。

そのような中、「この方は預言者ではないか」と人々から期待されていたナザレのイエスが、ガリラヤからの巡礼者たちと共にエルサレムの都に入場してきたのです。ユダヤ人指導者たちからすれば、このイエスという人は、要注意人物でした。人々がナザレのイエスを担ぎ上げるようなことが無いように、イエスには、目立つことをしてほしくなかったのです。

当然、これからエルサレムの町の中で、主イエスとユダヤ人指導者たちとの間には緊張が高まっていくことになります。

さて、まず主イエスがどのようにエルサレムに入って行かれたか、ということを見ましょう。主イエスはベタニアという村に宿を取られた。ここは、エルサレムから3キロメートルほどのところにある村で、過越祭の巡礼者たちは、ここに宿をとってエルサレムに通っていました。

主イエスは、この最後の3キロメートルを、ご自分の足で歩いて、ではなく、弟子達にロバを借りて来させ、自分の服をロバの上にかけ、それに乗って入ってエルサレムに入場されました。

なぜそんなことをなさったのでしょうか。ガリラヤからここまで長く旅を続けてきて、最後の最後で疲れてしまったからでしょうか。

もちろん、そうではありません。これこそ、エルサレムの王の入場の姿でした。

旧約聖書のゼカリヤ書に、神が王としてエルサレムに来られる、という預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ロバの子であるロバに乗って。私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を断つ。戦いの弓は断たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海は、大河から地の果てにまで及ぶ」

主イエスのエルサレム入場のお姿は、ゼカリア書に預言されているエルサレムの王、ダビデの子そのものそののです。ついにメシアがエルサレムに来たのです。

ガリラヤからの巡礼者たちは主イエスがなさることを見て、不審に思ったのではないでしょうか。主イエスは、エルサレムへの旅の初めに、弟子達にお尋ねになりました。「あなたがたは、私を何者だと言うのか」

弟子達は、そして人々は、ここでロバに乗ってエルサレムに入られる主イエスのお姿から問われことになります。

エルサレムに子ロバに乗って入場する私を見て、あなたは、私を何者だと言うか。」

子ロバに乗ってエルサレムに入場する、という、一見奇妙な主イエスの行動ですが、私達はゼカリヤの預言の実現を見ます。「エルサレムの王が来る、子ロバに乗って。王は戦車も武器もなくし、平和をもたらす」

何百年もの時を超えて、ゼカリヤの預言が実現しました。弟子達は主イエスの言葉通りに、ロバを探しに行くと、そこロバがいました。そしてそこにいた人たちに主イエスから言われたように伝えると、ロバを貸してくれました。

全て、主イエスがおっしゃった通りに物事が進んで行きます。決して偶然ではありません。全て、神のご計画でした。この弟子達と、ロバの持ち主との小さな会話まで、神は何百年も前から預言者の口を通してご準備されていたのです。

イエス・キリストがエルサレムにロバに乗って入場された姿というのは、滑稽だったと思います。普通、王様というのは、立派な馬に乗って兵隊を引き連れて、威厳をもって自分の城に入場するのです。

しかしイエス・キリストという王様は、小さなロバに乗って、とぼとぼとエルサレムに入って行かれます。とても強そうには見えません。弱く、低く、柔和で謙遜な王としてエルサレムに入られました。この方はイスラエルに軍事的な強さをもたらす救い主ではありませんでした。ゼカリアが預言していた、「平和の王」の姿です。

預言者ゼカリヤは、その王によってもたらされる救いについて、こう預言しています。「万軍の主はこう言われる。その日、あらゆる言葉の国々の中から、10人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ』。」

キリストがこの世にもたらしてくださったのは、全ての人が本当の神を知って生きるという平和でした。ゼカリヤ書には、このような預言がある。

「人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので苦しむ。」 Continue reading

06月27日の礼拝案内

【次週礼拝(6月27日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書11:1~11

 交読文:詩編2編

 讃美歌:讃詠546番、16番、130番、507番、頌栄540番

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

06月20日の説教要旨

マルコによる福音書10:46~52

「『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(10:52)

マルコ福音書は、イエス・キリストの公の生涯を大きく三つに分けて伝えています。ガリラヤ地方での宣教、エルサレムへの旅、エルサレムでの最後の7日間です。今日の場面は福音書の第二部、キリストと弟子達のエルサレムへの旅の最後の所になります。

主イエスのエルサレムへの旅は終わろうとしています。エルサレムの手前にある町エリコに到着しました。これからエルサレムに入り、キリストの受難への秒読みが始まろうとするまさにその時、一人の目の見えない人が主イエスのお名前を叫びました。

バルティマイという名前の人でした。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。」バルティマイは人々から「黙れ」と叱られても、主イエスを求めて叫び続け、その声は主イエスの耳にまで届き、バルティマイは目を開かれるのです。

イエス・キリストの旅は、ベトサイダという村で目の見えない人を癒されるところから始まっています。そしてこの旅は、エルサレムに到着する直前にバルティマイという人の目が癒されることで終わっています。

主イエスのエルサレムへの旅が、盲人の癒しで始まり、盲人の癒しで終わっている、ということには、象徴的な意味があります。イエス・キリストと共に歩む・生きるということは、「目が開かれる」、ということであり、霊の目が開かれた人はキリストと共に人生の旅を続けるということです。

皮肉なことですが、イエス・キリストの弟子達は、ガリラヤからエルサレムまで主イエスと旅を共にしながらキリストの教えの本当の意味、キリストの本当のお姿がまだ見えていませんでした。弟子達はまだ霊の目は開いておらず、信仰の道は見えていません。

エルサレムに入る直前になっても、弟子達が求めていたのは、主イエスが栄光の座にお着きになる時に自分もそのそばにおいてほしい、自分にも栄光の分け前が欲しいという、この世での偉さでした。

主イエスはこの旅の中で弟子達に繰り返し神の国の教えを語ってこられました。「神の国に入るには子供のようにキリスト・神を求め、受け入れなければならない」「この世で偉いとされている人は、神の国では偉いとはみなされない」「先にいる者が後になり、後にいる者が先になる」

しかし、そう言われても弟子達は理解できませんでした。弟子達がこの旅の間考えていたことは、「誰が一番偉いのか」ということでした。神の国に入るために小さい者になろう、皆に仕える者になろう、そして子供のようにイエス・キリストを求めよう、と考えるには至りませんでした。キリストのことを理解しないまま、エルサレムの手前まで来てしまったのです。

エリコは、エルサレムへと向かう巡礼者が止まる最後の町です。エリコに来るまでに、主イエスの一行にはたくさんの巡礼者たちが加わりました。もうすぐ過越祭があるのです。彼らは早く神の都エルサレムに入りたいと思っていました。それなのに、一人の目の見えない物乞いが大声を上げて主イエスを引き留めようとします。弟子達も巡礼者たちも、バルティマイを叱りました。このバルティマイという人が、これからエルサレムに巡礼に向かう人たちに、本当に求めるべき霊の宝を示すことになるのです。

この人は、イエスという方がガリラヤで語られた神の国の福音について、また行われた数々の不思議な業について、エリコの町で物乞いをしながら伝え聞いていたのでしょう。そして、「そのイエスという方こそイスラエルのメシア」に違いない、と主イエスに会える時を待っていたのです。

「その方は過越祭のためにガリラヤからエルサレムに登って来るに違いない。その時には、エリコの町を通るはず。自分の目の前を通るはず。その時、自分の思いをぶつけよう。主イエスの足音を聞き逃してはいけない」と、道端で耳をすましていたのでしょう。

バルティマイは、キリストが目の前を通り過ぎる瞬間を逃しませんでした。そしてただ主イエスのお名前を呼び続けました。人々から「黙れ」と言われても。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び続けました。

バルティマイは、「ダビデの子」と繰り返し叫びます。「ダビデの子」というのは、預言者エゼキエルを通して預言されていた、イスラエルを導いて神の元に連れ戻す羊飼い、救い主のことです(エゼ34章)。神は、預言者エゼキエルの口を通して、「ダビデの子孫からイスラエルの羊飼いを起こす」、とおっしゃいました。

バルティマイは、ナザレのイエスこそ、その「ダビデの子、イスラエルの羊飼い」である、見抜きました。彼は確かに目の見えない人でしたが、誰よりも、霊の目はキリストに対して開いていたのです。

バルティマイの信仰の叫びは、イエス・キリストの足を止めました。そしてキリストの元に招かれ、目を癒していただいきます。キリストの足を止め、バルティマイに救いをもたらしたものは何だったのでしょうか。イエス・キリストは、「あなたの信仰が、あなたを救った」とおっしゃいました。

バルティマイがキリストを求める姿というのは、無様だったと思います。なりふり構わず叫ぶのです。彼は目の見えない、一人の物乞いに過ぎませんでした。有名な律法学者だったのではありません。

自分で主イエスの下に行くことが出来ないのです。近づいて、普通に自分の信仰を伝えることが出来ないのです。彼は、自分が物乞いをしている場所から大声を上げて、キリストを求めるしかありませんでした。無様に自分をさらけ出し、人々から「黙れ」と言われても、嫌われても、キリストを求め続けるしかなかったのです。そしてそのことが、バルティマイ自身を救った、とキリストはおっしゃいます。彼の人生を変えたのは、彼自身のキリストを求める心、彼自身の信仰でした。

そしてバルティマイの信仰は、自分だけでなく、周りにいた人たちも変えています。人々は初めはバルティマイに「黙れ」と言いました。巡礼者たちにとって、主イエスの歩みを止めようとするこの物乞いは、邪魔でしかなかったのです。

しかし、キリストがバルティマイの叫びを聞き、「あの人をここに連れて来なさい」と招かれると、人々のバルティマイに対する言葉が変わります。人々の「黙れ」と言う言葉が、「安心しなさい」という言葉に変わるのです。「安心しなさい。立ちなさい。あの方がお呼びだ。」拒絶の言葉から、励ましの言葉に変わりました。

救いを求める一人の信仰者の姿が、キリストを足をそこに止め、周りの人たちの心をも変えたのです。キリストへの信仰は、自分を変えるだけでなく、人々をも変えるのです。

私達は自分の信仰を振り返って、自分の信仰が持つ力の小ささに嘆くことがあるのではないでしょうか。「もっと影響力を持てないか、もっと自分に力があったら、キリストをたくさんの人に知ってもらえるのではないか」、などと思うのです。

しかし信仰の業というのは、このバルティマイの叫びのようなものなのです。沈みそうで溺れそうになっているその中からキリストに助けを求める叫び、祈り。その不格好な信仰者の業が、実は用いられるのです。

バルティマイは、雄弁に聖書を解釈して語れるような律法学者ではありませんでした。彼は、ただ物乞いしながら、みじめさを抱えながら、キリストの足跡が聞こえた時に叫ぶべき祈りの言葉を温めていました。そして叫ぶべき時に、「私を憐れんでください」と叫んだのです。これが、信仰の業です。このことが周りの人を変えるのです。

無様でもいい、いや、無様だからこそ、私達は祈るのではないでしょうか。その必死になって神の救いを求める人の姿が、キリストの憐れみを求める祈りの姿が、周りの人たちをも変えていきます。

バルティマイは、癒されました。それだけでは終わりませんでした。「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」とあります。

キリストに出会い、目を開かれたその人は、その後、自分が歩むべき道が目の前に現れるのです。それはキリストが進まれる道です。信仰者はキリストの後ろを歩くようになります。羊飼いが羊飼いを先頭に立って導くようにキリストが信仰者を神の国に通じる道を先に立って導いて下さいます。

バルティマイが主イエスの後に従った、というのは、ただエルサレムに付いて行った、ということではありません。それはキリストの道を歩き始めた、そして一生キリストの道を歩きとおした、ということです。

「道」というのは、イエス・キリストに従う道のことです。使徒言行録にも「道」と言う言葉が使われています。単なる「道路」ということではなく、イエス・キリストに従う信仰の道という意味で用いられています。主の道、神の道などとも言われています。

バルティマイに起こったことは、全ての信仰者に起こることです。キリストを求める人がキリストに出会って霊の目を開かれ、歩むべき道に従っていく・・・それこそが、私達が洗礼によってキリストと契約を結び、共に歩むと決めた道なのです。

生きる中でいろんな試練や苦難があり、右往左往する私達であっても、先を行かれるキリストに付いて道を歩む限り、それは、まっすぐ神の国へと近づいているということなのです。

06月20日の礼拝案内

【次週礼拝(6月20日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書10:46~51

 交読文:詩編2編

 讃美歌:讃詠546番、15番、252番、301番、頌栄540番

牧師予定】

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06月13日の説教要旨

マルコ福音書10:35~45

「イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人達が権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない』」(10:42)

主イエスが「私はこれから殺されることになっている」とおっしゃったすぐ後に、弟子であったヤコブとヨハネの兄弟が、的外れな願い事をしました。「あなたが栄光の座にお着きになる時は、私達の一人を右に、もう一人を左においてください。」つまり、自分たち兄弟を他の弟子達よりも優遇してください、という申し出です。

このことは他の10人の弟子達にすぐにばれてしまいました。

他の10人の弟子達は怒りました。ヤコブとヨハネが、主イエスがお伝えになってきた神の国の教えが全く分かっていなかったからではありません。自分たちが求めていたものを、この二人の兄弟が誰よりも早く抜け駆けして求めたからです。ヤコブとヨハネが願い出なかったら、他の誰かが同じことを願ったのではないでしょうか。ヤコブとヨハネだけではなく、12人の弟子達全員が、イエス・キリストがおっしゃる神の国の教えを全く理解できていなかったのです。

ご自分の十字架が待つエルサレムを前にして、まだこんなことで言い争う弟子達をご覧になって、主イエスはどのような気持ちでいらっしゃったでしょうか。

あらためて、12人の弟子達全員におっしゃいました。

「あなたがたも知っているよう縫い、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたいものは、皆に仕える者になり、一番上になりたいものは、全ての人の僕になりなさい」

弟子達と一緒に過ごす時間がほとんど残されていない中、主イエスはとても厳しい口調でこのことをおっしゃったのではないでしょうか。

キリストの弟子として求めるべきものは、この時弟子達が求めているものと反対のものでした。誰かよりも上に立って、支配しようとすることではなく、誰かのために自分をひくくして仕える、ということ。権威をもって人を支配するのではなく、隣人の奴隷となってお互いに仕えあう、ということ。

主イエスは「異邦人はそうしているが、あなたがたはそうあってはいけない」という言い方をなさっている。異邦人と同じではダメだ、という言い方です。異邦人というのは、聖書の神を知らない人たち、ということです。特に、ここで主イエスがおっしゃる「異邦人」というのは、この時代ユダヤを占領し、ユダヤ人を支配していた、ローマ人のことです。

この時代、ユダヤ人たちは屈辱の中を生きていました。ローマの兵士たちが自分たちの国に駐屯し、自分たちを見張り、支配し、ローマに税を納めるよう求めていたのです。

キリストの弟子達もユダヤ人です。異邦人によって支配され、屈辱を感じていた者の一人だったはずです。ローマの軍隊に支配されて屈辱を感じているはずなのに、結局自分たちもそのローマ人と同じものを求めてしまっている・・・弟子達はまだそのことに気づいていません。

ローマ人であっても、ユダヤ人であっても、人は支配されるよりも支配する側にいたいと願います。その方が安心できるからです。しかし人間が同じ人間を自分の下に置くと、下に置かれた人間は、屈辱に耐えるしかなくなります。それが「人間の支配(人間の国)です。

しかし、イエス・キリストがお伝えになる神の支配(神の国)はそうではありません。皆、同じ神の支配のもとに生きるのです。皆同じ神の元に、上も下もなく生き、優越感も屈辱もありません。羊飼いに守られる羊のように、そこにはただ平等に安心と平和があります。

主イエスはおっしゃいます。「あなた方の中で偉くなりたいものは、皆に仕える者になりなり、一番上になりたいものは、全ての人の僕になりなさい」

そこから、神の国に生きる、ということが始まるのです。

全ての人が互いに、僕になって仕えあう・・・そう聞くと、確かに美しい世界のように思う。しかし、本当にそんな世界は実現可能なのか、と思ってしまうのではないでしょうか。言葉としては、理念としては美しいが、そんなことは理想論ではないか・・・。

だからこそ、イエス・キリストは、まずご自分が十字架を通して、誰よりも低くなって仕える、ということの模範を世に示されました。私達は今日読んだところのキリストの最後の言葉を特に心に留めたいと思います。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」

主イエス・キリストがこの世に来られた理由がはっきりと言われています。

主イエスはご自分のことを、「人の子」とおっしゃいます。ご自分が、旧約聖書のダニエル書に、この世界の全ての支配を神から任される「人の子」であることを示されています。

しかし、天と地を支配する王として世に来られた「人の子」であるイエス・キリストの支配は、ローマがユダヤを支配していたように、軍事力によるものではありませんでした。羊飼いが自分の羊を柵の中に入れ、守りの中に置く・・・愛の支配です。

このイエスという方がなぜ十字架にかけられて殺されなければならなかったのか、ということは、謎でした。何も悪いことをしていません。むしろ人々を癒し、悪霊から救い、神の国の教えを説いて来られた方です。だから弟子達も主イエスの受難予告を真剣に捉えることが出来ませんでした。

イエス・キリストの十字架の苦しみの意味を預言しているのが、イザヤ書です。イザヤ書には、「苦難の僕の歌」と呼ばれる、いくつかの歌があります。神が、一人の僕を世に遣わされ、その僕が、罪人の罪を全て身代わりとなって背負って死ぬ、ということが歌われています。

イザヤ書53章

「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪を全て主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみこみ、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」

「私の僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。」

「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」

人々は、やがてキリストの十字架に、イザヤが預言していた苦難の僕の姿を見るようになりました。

私達は、キリストの十字架を見つめなければならないと思います。「ほかの人よりも偉くなりたい」というこの時の弟子達こそ、生身の人間の姿です。教会の中でさえ、私達は、この時の弟子達のように、「誰が一番偉いのだろうか」などということを気にしてしまいます。

使徒パウロは、フィリピ教会にこう書き送っている。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」

主イエスはご自分の十字架を前にして、弟子達に最も大事なことを、お伝えになりました。

弟子達が互いにどうあるべきか、そしてご自分の十字架の死の意味は何か。ということを。

イエス・キリストの救いの御業を歌い上げる「キリスト讃歌」と呼ばれる歌があらいます。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものが全て、イエスの御名に跪き、全ての舌が『イエス・キリストは主である』と公にのべて父である神をたたえるのです」(フィリピ2章)

人に仕える、という神の御心に命をかけて、最後まで従順になる、ということをキリストは見せてくださいました。そして、そのお姿が人々を神の元へと招いたのです。

この後、この世の偉さをも求めたヤコブとヨハネ、そしてほかの10人の弟子達も、キリストの十字架と復活を見ることになります。彼らは変わります。この世の偉さ以上に、「あの方こそ主である」と世に伝えることに価値を見出し、そのことに一生をささげました。

神の御心に従い人に仕えるキリストの「苦難の僕」としてのお姿が私達の信仰の模範です。私達は弟子達のように、十字架に至るまで従順であられたキリストのお姿を見据える中で、この世の偉さよりも尊いものを見出していきます。

この世の宝に勝る天の宝を求めて私達がイエス・キリストの前に低くなる時、それを見た世の人々は、イエス・キリストがもたらしてくださった、神の愛による支配を見るのです。