5月8日の説教要旨

使徒言行禄1:1~5

「『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる』」(1:5)

イエス・キリストが復活なさった後の弟子達の姿を見ています。これからしばらく、使徒言行禄を読みながら、キリストの復活によって宣教へと押し出された使徒たち、そして教会の成長を見ていきたいと思います。

使徒言行禄は、ルカ福音書と同じ著者によって記されました。ルカ福音書は前編としてイエス・キリストを、使徒言行禄は後編として使徒たち・教会の働きを描いています。

今日私たちは、使徒言行禄の一番初めのところを読みました。十字架に上げられ、無残に殺されたイエス・キリストは、弟子達に復活されたお姿を見せ、40日間、彼らと共に過ごされました。

復活なさった主イエスと共に食事をしたりして過ごした人たちは、主イエスが天に昇って行かれた後、エルサレムの家の一室で祈り続けることになります。そしてその祈りの上に聖霊が注がれ、「キリストが復活された」、という喜ばしい知らせ・福音がエルサレムに、アンティオキアに、アジアに、ヨーロッパに広がっていくのです。

使徒言行禄は「旅の記録」と言っていいものです。教会がどのように誕生したのか、そして、聖霊に満たされた信仰者の群がどのようにイエス・キリストの復活を伝えるためにエルサレムから世界中へと旅へと出て行ったのかが描かれています。

そして使徒言行禄を読む際に大切なことは、その旅は今の私たちにまで続いている、ということです。キリストが復活なさったという福音は、私たちキリスト教会を通して今でも世界中をかけめぐっているのです。

福音を知らされた人たちは、次の人にキリストの復活を伝えるために、今いる場所から次の場所へと旅立って行きました。

ペトロやパウロ、そしてキリストの使徒たちが迫害されながら、場所を変えてキリストを伝えるために旅を続ける姿を見ます。

使徒言行禄は、キリストによって押し出される信仰者たちの旅を描きながら、私たちにはいつも信仰によって新しい道が与えられる、ということを伝えているのです。

ルカ福音書と使徒言行禄と記したルカは、キリストの福音を知った信仰者たちの旅を描く中で「道」という言葉をよく使っています。聖書の中で「道」という言葉がつかわれる時、それは、単なる道路のことではありません。一人の人間がキリストを知ってから歩み始める信仰の道・信仰の生き方そのものを意味しています。

キリストを知る、ということでどれだけ自分の生きる道を変わったか、それを思い返すと、誰もが気づくでしょう。自分の小さなキリストへの信仰が自分の人生をどれだけ変えたのか、振り返ると驚くのではないでしょうか。

キリストを知って生きるのと、知らずに生きるのでは、歩む道が、生き方が全く違ってきます。私たちは信仰を通して何を恐れ、何を一番大事にするべきかを知ります。信仰を通して積み重ねていく選択・決断によって、信仰者の人生は自分では考えもしなかった方へと導かれていくのです。

使徒言行禄で描かれているキリストの使徒たちを見ていくと、わかるでしょう。彼らは、誰もが普通の人でした。ペトロやヨハネは、使徒言行禄の中では「無学な普通の人」と書かれています。

キリストの使徒とされた人たちにはどんな特徴・共通点があったのでしょうか。

それは、「もう自分にはキリストの許しにすがるしかない」というところまで自分の罪に打ちひしがれた人たちだった、ということです。

復活のキリストに許され再び招かれた彼らは「自分を喜ばせる生き方」をやめました。そして「神が喜んでくださる生き方」を歩むようになりました。彼らは復活のキリストに招かれ、新しい道を与えられた人たちだったのです。

信仰の道はいつでも、神から何かを見せられる、というところから始まります。自分の力で何かを手にする、というところから始まるのではありません。「もう祈るしかない、もうキリストに許していただくしかない」、というところから祈りを通して何かが示されるのです。

復活されたキリストが天に昇って行かれるのを見送った弟子達は、ずっと天を見上げていました。キリストが復活して目の前に現れてくださったのに、またいなくなってしまわれた・・・どうしていいかわからなかったのです。その彼らに新しい道を示したのは、白い服を来た二人の人でした。この二人は、キリストの墓にいた天使でした。

天使は弟子達に告げます。

「イエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる」

普通だったら信じないでしょう。しかし、彼らは、キリストの復活を自分の目で見ました。キリストの昇天を自分の目で見ました。

弟子達はなすべきことが天から示されたのです。キリストは天に昇って行かれ、その姿を見ることがなくなっても、彼らは孤独ではありませんでした。祈り、神が備えてくだる時を祈って待ったのです。やがて、エルサレムの町の中にあった家の一室で祈り続ける彼らの上に天から聖霊が注がれることになります。

改めて、確認しておきたいと思います。キリスト教会は、信仰深い人たちが集まって、「教会を作ろう」と言って作ったものではありません。祈りの群れに天から聖霊が注がれ、教会はできました。

福音書を振り返ると、神のご計画が実現する時には、いつも聖霊の導きが与えられています。

キリストがお生まれになるときは、天使がマリアにそのことを告げました。「聖霊があなたに下り、いと高き方の力があなたを包む」。聖霊が降ってマリアは主を身ごもりました。

主イエスが洗礼をお受けになった時、「天が開け、聖霊が鳩のように見える姿でイエスの上に」降ったとあります。主イエスに聖霊が降り、メシアによるガリラヤ宣教が始まりました。

いつでも、聖霊を通して神の救いの御業は進んできたのです。そして今、復活なさったイエス・キリストは弟子達におっしゃいます。「私は、父が約束されたものをあなた方に送る」。それこそ聖霊だった。

人は自分の力で自分を信仰者とすることはできません。むしろ、自分の力を捨てて、聖霊に身をゆだねた時に、自分が変えられていくのです。

教会を迫害していたサウロは復活なさったイエス・キリストの声を聞きました。「なぜ私を迫害するのか」。そこから彼はパウロという名前でキリスト者としての道を歩み始めました。パウロは、まさか自分が教会のために働くようになるなどとは思ってもみなかったでしょう。

ペトロは屋上で昼寝をしていた時、神から様々な動物の幻を見せられ、そこから異邦人へとキリストの復活を伝えに行く道が示されました。ペトロも、まさか自分が異邦人にまでキリストの復活を伝えることになるなどとは思ってもいなかったでしょう。

聖霊は、人間の思いを超えて働くのです。

主イエスの一番弟子のペトロは最高法院の人たちに捕まり「イエスのことを人々に話すな」と言われた際、堂々と弁明しました。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。我々は見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」

聖霊は人を変えます。全く新しく造り変えます。新しい存在として、新しい道を歩ませます。私たちは、これから使徒言行禄を通して、そのことを学んでいきたいと思います。

最後に、詩編126編の言葉を見ます。

BC6世紀に、バビロンに囚われていたイスラエルの人たちが詠んだ歌です。

4~6節「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出ていった人は束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」

イスラエルの人たちがバビロンで捕囚とされていた時に、神の言葉が与えられました。捕らわれの身から解放される、と告げられたのです。エルサレムを破壊されバビロンへと連れ去られた人たちは、それでも神への信仰を捨てませんでした。それどころか、自分たちの神への不信仰の反省を踏まえて、旧約聖書の言葉を書き残しました。

神を信じて、苦しくても福音の種を蒔く人たちは、必ず喜びの歌を歌うことが出来るのです。信仰者が、信仰の道を歩んだ先で見せられる祝福の喜びが歌われています。

当時のイスラエルの人たちにとって、エルサレムに帰る、ということは、神の元に立ち返る・神に許される、という救いの喜びでした。神は、御自分を信じ、求める人をお見捨てになることはなかったのです。

神は、インマヌエルと呼ばれるメシアを世にお送りになり、そのメシアに罪びとの罪を十字架の上で負わせられました。そして天から聖霊を送り、今も教会を通して、まだ神から離れている人たちをご自分のもとへと取り戻そうと働いていらっしゃいます。

今日、私たちは、復活のイエス・キリストから与えられる聖霊が、今も教会に働いていることを強く覚えたいと思います。私たちは、今でも、キリストにつながっている限り、新しい道が天から与えられ、日々新しく創造されていくのです。

5月8日の礼拝案内

 次週礼拝(5月8日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄1:1~5

 交読文:詩編9編8節~13節

 讃美歌:讃詠546番、11番、186番、168番、頌栄539番

【牧師駐在日】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

5月1日の説教要旨

ルカ福音書24:36~49

「『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する』」

イースターの朝、女性たちが、主イエスの墓が空になったことを弟子達に伝えました。このことは弟子達を混乱させました。

「主イエスのご遺体を誰かが盗んだのか?」

女性たちは墓の中で天使から「あの方は蘇られた」と告げられたことも言いました。しかし弟子達はそんな話を信じませんでした。

その後、エマオへと向かう二人の弟子達が復活なさった主イエス・キリストに出会います。主イエスは二人とエマオまで共に歩み、聖書を解き明かし、御自分の復活が聖書の預言の実現であることをお教えになりました。

そして今、イエス・キリストはエルサレムで、弟子達の真ん中に立って、復活なさったご自身の姿を現わされました。

弟子達は主イエスを見て、「亡霊を見ているのだと思った」、と記されています。この時代、死者の霊が地上をさまよう、ということは一般的に信じられていましたが、死者が実際に肉体を伴って蘇る、ということは考えられないことでした。

主イエスは弟子達に「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」とおっしゃいました。そしてご自分の手と足をお見せになってご自分が亡霊ではないことを示されました。

弟子達は、「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていた」とあります。喜びと、信じられない、という思いが心の中で同時に湧き上がって来て、弟子達の混乱は続きました。

このように、実際に主イエスの復活を見ても揺れている弟子達を見ると、信仰者として頼りなく見えます。しかし、これが信仰者の偽りない姿ではないでしょうか。

主イエスが以前「私は十字架で殺されるが三日目に復活する」とおっしゃっていたとはいえ、実際にそれを見ると、簡単に受け入れられるようなものではないでしょう。むしろ、自分が見ているものの不思議さに圧倒され、どうしていいのか分からなくなるのではないでしょうか。

実は、私たちの信仰はそのようなところから始まるのです。私たちの信仰は、いつも新鮮な驚きで満ちているはずなのです。信じられないことを目の当たりにして、不思議さに打たれ、理解しようにも理解しきれない弟子達の姿は、まさに信仰者の姿そのものです。

「信仰」というのは、驚きだと思います。聖書に記録されている、信じがたい復活のイエス・キリストとの出会いに驚き、不思議さに打たれながらキリストの言葉に聞き従わざるを得ない・・・それが信仰生活でしょう。

本当は、死人のよみがえりを信じない方が、楽なのです。聖書を読んで、「そんなバカなことがあるはずがない」、と信仰の戦いを放棄することの方が楽でしょう。しかし、信仰というのは、その葛藤、その戦いから降りないことです。その驚きは、私たちが死ぬまで続きます。

主イエスを十字架で失った弟子達が、最初に与えられた復活のキリストの言葉は「あなたがたに平和があるように」でした。

弟子達は恐怖の中にありました。自分たちの先生が殺された、次に、自分たちはどうなるのだろう、という恐怖がありました。

そこで「あなたがたに平和があるように」というキリストの声を聞かされます。恐れの中にあるキリスト者に与えられるキリストの慰めの言葉です。自分ではどうしようもない時、道を失ったときに信仰者だけが聞くことが出来る、キリストの言葉です。私たちは祈りの中でこのキリストの声を聞くから、主の復活を信じ続けることが出来るのではないでしょうか。

恐怖の中にある者、道を見失った者が一番聞きたい言葉が、信仰の証言を分かち合う群に与えられるのです。

さて、復活なさったイエス・キリストは、十字架につけられる前と同じように、弟子達と共に食卓を囲み、依然と同じように神の国の教えを説かれました。その教えの内容は以前と同じでした。神の国の教えです。

神はあなたを愛していらっしゃる、あなたが神の元に立ち返り神と共に生きることを求めていらっしゃる、ということを変わらずお伝えになりました。

主イエスはご自分の身に起こった十字架と復活を「聖書に書かれている通り」とおっしゃっています。この方の死と復活は、全て神のご計画として旧約聖書の中に預言されていたのです。

この時の弟子達の驚きに見るように、聖書に記されている奇跡の中で、キリストの復活ということが一番信じられないことではないでしょうか。

神の子が罪びとの罪を背負って十字架で死んでくださり、復活し、天の上り、聖霊によって私たちを今も導かれている・・・そう聞くと、あまりに話が大きくて、簡単に受け入れることはできないでしょう。

しかし、それこそが、聖書が全体を通して私たちに伝えようとしている救いなのです。

後に、キリスト教会の中からキリストの復活を信じない人たちが出てきた時、パウロは手紙の中でこう書いています。

「キリストは聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死に、葬られました」

「キリストは聖書に書いてある通り、三日目に復活しました」

イエス・キリストに起こったことは、全て旧約聖書に記録されている預言の言葉の実現だった、と力を込めて伝えるのです。

イエス・キリストが、以前、弟子達にたとえ話をお聞かせになりました。こういう内容だ。

贅沢に遊び暮らしていた金持ちと、貧しいラザロという人がいました。金持ちは死んだ後、陰府に落ちます。そして貧しかったラザロはアブラハムと一緒に宴の席に座っていました。

金持ちは、生前の自分の生活を悔い改めて、アブラハムに向かって願いました。「自分がいるところに自分の兄弟たちが来ることのないように、ラザロを遣わしてください」。しかし、アブラハムは、「今聖書を読んで信じないのであれば、死者が復活して神の言葉を伝えたとしても信じないだろう」、と言いました。

考えさせられるたとえ話です。もし今、私たちが聖書を読んでイエス・キリストの復活を信じないのであれば、実際に誰かが生き返って「復活はあるのだ、永遠の命はあるのだ」と言っても信じないだろう、ということです。

私たちには、聖書に記録されたキリストの復活証言があります。聖書の証言を通して、私たちは今も生きて働かれるイエス・キリストとの交わりを知ります。もし聖書を読んで、それを受け入れないというのであれば、実際に復活なさったイエス・キリストのお姿をこの目で見たとしても、信仰に導かれることはないでしょう。

逆に言えば、私たちには、聖書があれば十分なのです。私たちは、驚きに打たれながら、復活のイエス・キリストの慰めの言葉を聞きながら生きていきます。

さて、復活なさったキリストは弟子達に使命を託されました。それはキリストの復活を証言する、ということでした。

何か人の目を集めたり噂になったりするような特別なことをしろとおっしゃるのではありません。ただ、キリストについて見聞きしたこと、つまり、私たちが経験したイエス・キリストとの交わりを隣の人に伝えなさい、ということです。

この使命は、今の教会まで受け継がれています。それぞれの、イエス・キリストとの出会いを、キリストと共にする歩みを、キリストから聞かせていただくみ言葉を隣の人に証言するのです。

主イエスは48節でこうおっしゃっている。

「あなたがたはこれらのことの証人となる。私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高いところからの力に覆われるまでは、都に留まっていなさい」 Continue reading

5月1日の礼拝案内

次週礼拝(5月1日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ルカ福音書24:36~49

 交読文:詩編9編8節~13節

 讃美歌:讃詠546番、10番、243番、354番、頌栄539番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇毎週土曜日は牧師駐在日ですが、4月30日(土)は不在となります。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

4月24日の説教要旨

ルカ福音書24:13~35

「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(24:27)

失意の中、エルサレムを離れていく二人の弟子達に、主イエスが一緒に寄り添って歩き始め、主イエスの復活を知った弟子達がエマオからエルサレムに戻った、という出来事です。

エマオは、エルサレムから60スタディオン離れたところにある村だ、と書かれています。60スタディオンは、10kmの距離です。

イエス・キリストの二人の弟子が、エルサレムで主イエスが殺されたことを嘆きながら、失望の内にエルサレムから離れ、エマオへと歩いていました。彼らは、婦人たちから主イエスの墓が空っぽになった、という知らせを聞いていた。しかし、「この話がたわごとのように思われたので、婦人たちを信じなかった」と記されています。死んだ人が生き返るなどという馬鹿なことがあるはずがない、と受け入れなかったのです。

私たちが今日読んだ、エマオへの道行きは、「認識の出来事」としてよく知られています。二人は、復活なさったキリストと話しながら歩いたのに、この方がキリストだとは認識しませんでした。しかし、キリストと食卓を囲み、パンを受け取ると霊の目が開いて、キリストだと認識します。

私たちはここに、人がどのように復活のキリストを信じるようになるのか、という、「信仰の目の開き」を見ます。この二人の弟子達に起こったことは、キリストを信じる人であるなら、「これはまさに自分に起こったことだ」と、自分の歩んできた信仰の道を振り返ることが出来る場面でしょう。

後に、二人は聖書の言葉を聞いたとき、自分たちの心が燃えていた、と思い出すことになります。弟子達は、復活のキリストに出会って、初めて聖書に記されていることが夢物語ではなく、真実のことであり、自分も聖書の登場人物の一人であることを知りました。

キリストが不思議な仕方で出会ってくださり、聖書の真理を伝えてくださる時、それは私たちにとっても、心燃える時となります。絶望の中、昨日まで生きてきた場所から逃げようとする自分にキリストが寄り添い、共に歩き、み言葉を聞かせてくださり、聖書の真理を知って、行くべき道を歩み始めるのです。誰もが、イエス・キリストとの出会いを思い返す出来事ではないでしょうか。

私たちは、この「エマオへの道行き」の出来事を通して、自分自身のイエス・キリストとの出会いを思い返した時、「またわからないのか、私は復活してあなたと共に歩んでいるではないか」という声を思い返します。

二人の弟子の内の一人は、名前がクレオパといいました。もう一人の名前は記されていません。この「もう一人」が一体誰なのか、ということについてはいろんな説があります。

ヨハネ福音書にクレオパの妻であるマリアの名前があるので、この「二人の弟子達」というのは、クレオパとマリアの夫婦だったとも推測できます。

しかし、福音書はここであえてクレオパの同行者の名前を記していません。「クレオパとマリアの夫婦が歩いていた」、とは書いていないのです。

このことは重要なことだと思います。聖書がクレオパの同行者の名前をあえて記していない、ということに、何か特別な意味があるのではないでしょうか。

聖書は、この無名の弟子の姿に、私たち読者の姿を見せようとしているのではないでしょうか。聖書は、「今、あなたはエマオへと歩いている。クレオパと一緒に歩いているこの弟子はあなただ」と、私たちの姿をこのエマオへの道行き登場人物として見せ、信仰者としての在り方を問いかけているのではないか。

私たちはこのエマオ途上の弟子達とキリストとの出会いを通して、聖書から「これはあなたに起こったことであり、今もあなたに起こっていることだ」と見せられているのです。

二人の弟子達は、エルサレムから遠ざかりながら、道の上でエルサレムでの出来事を語り合っていました。この二人に、三人目が加わります。この三人目の人物は、復活なさったイエス・キリストでしたが、不思議なことに、この時の二人の弟子達にはそのことがわかりませんでした。

その三人目の人から「話しているのは何のことですか」と尋ねられて、クレオパは「あなたはエルサレムにいたのに、ナザレのイエスの十字架のことを知らないのですか」と驚きました。あれだけ話題になって、あれだけたくさんの人がゴルゴタの丘にその十字架を見に行ったのに、どうしてこの人はそのことを知らないのだろう、と不思議に思ったのです。

二人の弟子は、イエスという人がどのように活動を続け、そしてどのように最後に十字架に上げられて殺されたのかを語りました。恐らく、「イエスの活動はもうそこで終わってしまった。イエスが伝えた神の国をもう私たちは見ることができなくなった」と、悲観的なことを伝えたのだろう。

弟子達は、ナザレの預言者がイスラエルを率いて、もう一度強いイスラエルを取り戻してくれると信じていました。しかし、殺されてしまいました。しかも十字架で殺されてしまいました。彼らは確かに主イエスの死を見たのです。

「エルサレムでこんなことがあって、自分たちは失望しているのだ」ということを伝えると、この二人は、三人目の人から「まだわからないのか」と言われてしまいます。「物分かりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と叱られます。

その三人目の人は、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言って、聖書全体を説明して、ナザレのイエスの十字架の意味を語って聞かせた。

二人は、この人の話に驚き、もっと聞きたい、と思ったのでしょう。エマオに到着しても、この三人目の人物を引きとどめ、なおも話を聞こうとしました。

夕方になり、夕食の食卓を三人で囲みました。ここをよく読んでみると、面白いことがわかります。二人がこの人を引き留めたのに、三人目の人物が、この食卓の主人として取り仕切っています。この人が讃美の祈りを唱え、パンを裂いて、二人に渡しています。

そして不思議なことに、その人からパンを受け取った瞬間に、二人は、その人が復活なさったイエス・キリストだと分かりました。そして、わかると同時に、その人が見えなくなったのです。

このエマオでの食卓は、キリストからパンを渡され者の信仰の目が開かれた、という出来事なのです。

エルサレムから絶望感をもって出てきた二人の弟子達は、ここから希望に満ちてエルサレムへと引き返しました。

この時まで二人の弟子達の頭の中にあったのは、「自分はこれからどうすればいいのか、何を信じていけばいいのか」ということでした。三日前までは、ナザレのイエスを救い主だと信じ、この方が自分の生き方を示してくださると信じて従って来ました。

しかし、ナザレのイエスは十字架で殺されてしまい、いきなり、自分たちが歩むべき道が奪い去られました。

彼らにできたことは、エルサレムから離れることでした。留まりたくない場所、もうそこに居たくないと思う場所から逃げることでした。「昨日までの自分たちが信じてきたものは何だったのか」「これからどうすればいいのか」・・・彼らはエマオへと向かってはいたが、迷子になっていました。次にどっちに向かって一歩を踏み出せばいいのか分からなくなっていました。

しかし、復活の主との出会いは、次の一歩をどちらに踏み出せばいいのかを確かに教えてくれました。弟子達がエルサレムに戻るということは、復活のキリストとの出会いがなければ絶対になかったことです。

エルサレムに戻ると、復活なさった主イエスが弟子のシモンにも出会われた、ということが話されていた。女性たちが告げた、空の墓の問題は解決されました。あの方は、本当に復活なさったのです。

主イエスが復活なさったということ、このことが、弟子達が新たに生きる希望となりました。キリストとの出会いは私たちが歩む道を変えるのです。キリストに出会う、ということは、生きる道が、方向が、目的が変わる、ということなのです。

「主イエスは確かに自分に出会い、言葉をかけてくださった」と振り返って思う瞬間があるのではないでしょうか。その時には主イエスだとはわからないかもしれない。しかし、後から思い返すと、「確かにあの時キリストは自分と一緒に歩いて、行くべき道を教えてくださったと分かる」ことがあります。

私たちは自分たちの肉の目でキリストの姿を捉えることはできません。しかし、肉の目に捉えることのできないキリストとの出会いは、私たちを確かに変えるのです。

信仰者にとって、キリストが復活なさったということは決して消えない希望です。もしも「主イエスが十字架で殺された」、ということで全てが終わっていたのであれば、聖書に記されていることは全て過去のこととして読まれることになったでしょう。

しかし、聖書は、今のことが記されているのです。聖書は、「この方は今、復活なさり、生きてあなたと共に歩んでくださっている」と伝えています。

弟子達は、聖書の解き明かしをキリストご自身から聞かされました。「聖書に記されていることは全て、あなたに起こったことなのだ」、と教えられえたのです。

復活なさったイエス・キリストは今も私たちの目には見えない形で、共に歩いてくださっています。私たちが「ここから逃げ出したい」と思う時も、私たちにはわからない仕方で寄り添い、必要な言葉を聞かせ、「まだわからないのか」と叱ってくださいます。

キリストの十字架の後、秩序を失い、生きる道・目的を失った弟子達に寄り添い、希望をお与えになったキリストは、あのエマオへの道でそうなさったように、今も私たちを神の国へと寄り添って、共に歩いてくださっているのです。

4月24日の礼拝案内

 次週礼拝(4月24日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ルカ福音書24:13~25

 交読文:詩編9編2節~7節

 讃美歌:讃詠546番、9番、151番、522番、頌栄544番

【報告等】

◇4月23日(土) 10時より三宅島伝道所総会があります。現住陪餐会員の方はご出席ください。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日になっています。10時~17時まで伝道所におります。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

4月17日イースター礼拝の説教要旨

マルコ福音書16:1~8

「彼女たちは、『だれが仮名の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。」(16:3)

イエス・キリストが十字架で殺されたのは金曜日でした。それから三日目の朝、つまり、日曜日の朝、数人の女性が主イエスが葬られた墓に向かって歩いていました。主イエスの遺体に香油を塗ろうとしていたのです。彼女たちは、そこで、空になった主イエスの墓を見ることになりました。

イエス・キリストの証言をまとめて編纂された4つの福音書にはすべて、この朝のことが記録されています。この朝、確かに十字架で殺されたはずのイエス・キリストの墓が空になった、ということ、それが決定的な事実として報告されているのです。

この朝、ナザレのイエスの墓が空になっていた、ということが、後のキリスト教会の信仰の基盤となりました。死者が復活した、という信じがたいことが・・・いや、信じる方がおかしいようなことが、教会の信仰の基盤となったのです。

後に、使徒パウロがコリント教会にこう書いています。

「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたのある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」

確かに、死人が蘇ったということは、誰にとっても信じがたいことです。後のキリスト教会の中にも、キリストの復活を疑う人が出始めていました。

しかし、パウロは言うのです。

「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」

この日の朝起こったことを忘れないために、キリスト教会は毎週日曜日の朝に礼拝を捧げています。私たちはイースターの今日、改めて私たちの信仰の根拠は何か、そして信仰の希望は一体どこにあるのか、ということを確かめたいと思います。

キリストの復活という奇跡を目撃したのは、数人の女性たちでした。この朝、女性たちは驚きました。こんなことになるとは思ってもいなかったからです。

「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合いながら墓へと向かった、と書かれている。

彼女たちは、墓が石で墓が塞がれている、ということを知っていました。つまり、墓に行っても仕方がない、ということを知っていながら、墓に向かっていました。香油を買って、主イエスの遺体を清めようとしてもその墓には入れない、ということは分かった上で、それでも行ったのだ。

この時の女性たちにとって大事なことは、石をどけることができるかどうか、ではなく、主イエスに近づく、ということでした。無駄だと分かっていても、主イエスの墓に向かわざるを得なかった、主イエスを求めざるを得なかったのです。

私たちはこの朝の女性たちに、信仰の姿勢を見ます。女性たちは「解決策」をもってキリストの墓に向かったのではありませんでした。「どうしようか」と言いながらも、ただキリストを求め、近づき、その先で彼女たちは思いもよらなかった道を示されたのです。

「墓」は、私たち肉なる存在にとっては終着点です。いずれ行きつく「絶望」のように、その先には何もない「行き止まり」のように考えられています。しかし、キリストの墓は終着点ではなく、新しい出発点でした。この方の空の墓は、新しい希望の始まりとして私たちに示されています。

私たちは、確証をもってキリストを求めるのではありません。私たちには、どかすことのできない石があります。どうにも背負えない重荷があります。それでもキリストに近づく、いや、それだからキリストに近づくのです。そして、キリストを求め、近づいた先で、私たちには考えが及びもしなかった神の御業が用意されているのを見見せられます。そうやって、私たちも、この女性たちのように信仰の証人にされていくのです。そのようにして「主は生きておられる、アーメン」という祈りへの導き入れられるのです。

この女性たちは、三日前の金曜日の午後、ゴルゴタの丘にいました。そこで確かに主イエスが十字架で息を引き取られたのを見ました。その夕方、アリマタヤのヨセフによって新しい墓に埋葬されたのを見ました。そしてこの日曜日の朝、女性たちは墓が空になっているのを見ました。

この人たちは、キリストを助けるために何かをした人たちではありません。この女性たちは、ただ、イエス・キリストを見続けた人たちでした。ただ、殺されるキリストを遠くから眺める以外、何もできなかった、無力な人たちでした。

しかし、この人たちが、キリストの死と復活の証人として神に選ばれたのです。

墓の中にいた天使の伝言を受け取り、キリストの弟子達に伝えたのはこの女性たちでした。キリストの十字架の死と復活の証人として、そして天使の言葉を受け取り、運ぶ預言者として彼女たちは、確かに神によって用いられました。

空っぽになった墓の中で、女性たちは、天使から主イエスが蘇られたこと、ガリラヤで弟子達を待っていらっしゃる、ということを告げられます。聖書には、女性たちがそこから逃げ去り、「震えあがって正気を失い、誰にも何も言わなかった」、とある。あまりの恐ろしさに、何も言わなかった、というのです。

マルコ福音書の本編は、そこで終わっています。

しかし実際には、彼女たちは、黙ったままではなかったのでしょう。黙ったままではいられなかったのです。女性たちはこの朝見たことを弟子達に、人々に伝えていきました。彼女たちの証言によって、弟子達は再び集まって祈るようになり、その祈りに聖霊が与えられることになります。

私たちは、この女性たちの姿を通して、「恐れを伴う信仰」ということを考えさせられます。福音を信じるというのは、実は「恐れるべき方を知る」ということではないでしょうか。畏れを伴わない信仰に、死を超えた喜びはありません。女性たちは、この墓の中で、死に勝るものを見たのです。墓を出て逃げ去るほどの恐れを感じました。震えあがって正気を失うほどの恐れです。

空っぽの墓に立って、天使から声をかけられて逃げ出した、この女性たちの恐れから私達の信仰は始まっています。そうであれば、私たちの信仰には恐れが伴うは当然でしょう。なんとなく信じていれば自分にいいことが起こるのではないかと期待して祈ったりするようなものではありません。信仰を通して、私たちは死を超えたものが見せられます。それは、私達の体が打ち震えるほどの希望なのです。

さて、女性たちが墓の中で天使から聞かされたのは、主イエスが以前弟子達におっしゃったことでした。

「私は復活したのち、あなたがたより先にガリラヤへ行く」

弟子達は初めにこう言われた時、この言葉が耳に入りませんでした。「君たちは私を見捨てて逃げるだろう」と言われたので、「そんなことはありません」と言うのに必死だったのです。

この日曜日の朝、弟子達はどこにいたのでしょうか。主イエスから離れ、イエスの弟子である自分はこれからどうなるのかという不安と、本当に自分は主イエスを見捨てて逃げてしまった、という苦しみの中にいました。

弟子達は、天使から言葉を受けた女性たちを通して、もう一度キリストの許しと招きの言葉を聞くことになります。

主イエスと一緒に旅をしていた時、弟子達の心を占めてたのは、「自分たちの中で誰が一番偉いのだろう」ということでした。弟子達は自分のことばかり考えていたのです。

だから、主イエスの言葉を聞けていませんでした。自分に都合のいい言葉ばかりを選別して聞こうとしていました。

自分に都合のいい言葉ばかりを求めて神の言葉を締め出してしまう人には神の言葉は聞こえてきません。自分の中から雑音が消えた時に福音は聞こえるのです。

「あの方はあなたが戻って来ることを待っていらっしゃる。あの方は罪びともう一度迎え入れてくださる」・・・世界の初め、闇の中に「光あれ」と神の声が響いたように、「あなたの命は闇の中では終わらない、光の元へと立ち返れ」という福音が与えられることになります。

天使は、「弟子達とペトロに伝えなさい」と特にペトロ名前を出しました。なぜ特別にペトロなのでしょうか。主イエスを見捨てて逃げただけでなく、三度否定してしまった、弟子達の中でも一番信仰の痛みを感じた人だったからでしょう。

ペトロは一番強い気持ちを持って、誰よりも最後まで近くに従っていきました。そしてそこで誰よりも強く主イエスのことを否定してしまいます。

信仰をもってキリストを求めれば求めるほど、自分の弱さがどんどん見えてきます。それでも主イエスは、「自分の十字架を背負って私に従いなさい」と厳しくおっしゃいます。「私の弟子というだけで君たちは迫害される」とおっしゃり、「あなたがたには世で苦難がある」ともおっしゃいました。

その通りでしょう。ペトロはその言葉通り、信仰の痛みを知りました。だからこそ、キリストは特にペトロの名前を呼んでお招きになったのです。信仰ゆえの痛みを感じる人こそ、キリストの慰めの言葉が向かいます。

「重荷を負うて苦労している者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう」

「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」

神の国の宣教を、今度は許しの言葉を与えられた彼らが、原点であるガリラヤから始めていきます。弟子達は試練を潜り抜けたのです。弟子達がはじめになすべきことは復活の主に会いに行くことでした。

信仰者がまずなすべきことは、いつでも、復活の主のもとに立ち返ることです。あの朝の女性たちや弟子達のように。そこから、新しい道が始まります。

4月17日イースター礼拝のご案内

次週礼拝(4月17日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書16:1~8

 交読文:詩編9編2節~7節

 讃美歌:讃詠546番、8番、146番、154番、頌栄544番

【報告等】

◇次週はイースター礼拝です。聖餐式があります。礼拝後、愛餐会をもちます。

◇4月23日(土) 10時より三宅島伝道所総会があります。

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日になっています。10時~17時まで伝道所におります。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

4月10日の説教要旨

創世記15章

「日が沈みかけた頃、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ」(15:12)

イエス・キリストの十字架の痛み・苦しみを思う時を過ごしています。キリストの十字架は神がキリスト教会と新しく結ばれた愛の契約の儀式でした。キリストの十字架の意味をより深く知るために、先週に引き続き、創世記に遡って聖書を見ていきます。

アブラムは75歳の時に神に召され、自分の一族と故郷から離れ、はるばるカナンの地まで旅をしてきました。神を信頼し従ったアブラムには多くの祝福が与えられ、家が栄え、たくさんの家畜、財産に恵まれます。

しかしアブラムには、自分の祝福を受け継ぐ子供がいない、という空しさがありました。そのことを神に訴えた時、神はアブラムに子供と土地をお与えになることを約束されます。そしてそのしるしとして、契約を結ぶことを神は提案されました。

今日読んだところには、正に、神とアブラムが契約を交わす場面です。

12節を見ると、「日が沈みかけた頃」とあります。アブラムが契約の儀式の準備をしていると夕方になった、ということです。神がアブラムに満天の星をお見せになってから、日が昇り、また日が沈みそうになる時間まで、神とアブラムの語りはずっと続いていた、ということです。

私たちはここに、夜も朝も昼も夕方も、信仰者に祝福を与えようとなさる神のお姿を見ることが出来るのではないでしょうか。

その後すぐに神とアブラムの間に契約が結ばれて、アブラムに子供と土地が与えられる、ということが確かなものになりますが、その契約の儀式が最中、不思議なことが起こります。

契約の儀式をまさに始めようとする時に、アブラムが深い眠りに襲われたのです。アブラムは「恐ろしい大いなる暗黒」を見せられた、と記されています。ただ、眠くなって目を閉じた、というのではありません。祝福の契約の中で、なぜか「恐ろしい大いなる暗黒」が神から見せられた、というのです。

祝福の契約の儀式の中で光が見せられた、というのであればわかります。しかし、神は、アブラムに闇をお見せになったのです。

ここには、どのような御心があったのでしょうか。

神はアブラムに満天の星を見せ、「この星のように、あなたから信仰の民が生まれてくる」とおっしゃって祝福されました。そして、神は同時に、そのアブラムから生まれてくる信仰の民が通ることになる「恐ろしい闇」も、前もってアブラムにお見せになったのです。

アブラムから生まれる信仰の民イスラエルはやがて、400年にも渡って異邦の国で寄留者となり、そこで奴隷生活を・抑圧を体験することになる、と言われます。

神はこの契約の儀式の中で、これから起こることを全て示されたのです。

アブラムから信仰の民が生まれる、ということ。

その信仰の民は苦しい試練を通る、ということ。

そして最後に、その民は信仰の試練という闇の先で解放され、ここへと戻ってくる、ということ。

この夜アブラムに示された祝福は、複雑なものでした。子孫が与えられる、という単純な喜びだけではなかったのです。

アブラムからイスラエルという民が生まれ、イスラエルが苦難を通って祝福へと導かれる、という、アブラム自身が自分の生涯の中で見届けることが出来ないほど壮大な神の祝福のご計画がこの闇の中で示されたのです。

私たちは、「神から祝福をいただける」、と聞くと、すぐに自分の周りから問題がなくなって、すべての悩みと苦難が消えることのように考えてしまうのではないでしょうか。

しかし、神が下さる祝福の中には、私たちにとって必要な試練も含まれているのです。

私たちは、出エジプト記を読んで、イスラエルがエジプトで奴隷にされた時の嘆きを知っています。神はそのイスラエルの嘆きを聞いて、エジプトからイスラエルを解放されました。しかし解放されたイスラエルはその後40年間荒野の旅を続けなければなりませんでした。その試練の先に、約束の地が用意されていたのです。

神の祝福は、人間の側の思いとは全く違った仕方で実現していきます。神の民イスラエルだから、教会だから、神に守られて何の苦も無く豊かになり、何の問題も心配もなく過ごせるようになる、というようなことが祝福ではないのです。

アブラムに示された祝福は信仰の試練・苦難を通った先にある祝福でした。

出エジプトの最後でモーセがイスラエルに荒野の旅の意味を告げます。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

イスラエルは荒れ野の40年という信仰の試練を通して、自分たちが神によって生かされている民であるということを学ばされたのです。約束の地はその学びの先にありました。

なぜ、神はこんなにも遠くにある祝福をお見せになったのでしょうか。16節の最後で、「アモリ人の罪が極みに達していないからだ」とおっしゃっています。

この時アブラムがいたカナンの地にはアモリ人が住んでいました。つまり、カナン人のことです。神は「アモリ人の罪はまだまだ大きくなる」とおっしゃいます。

アモリ人は偶像礼拝の罪を重ねていました。そして神は、アモリ人の罪が極みに達した時に、アブラムから生まれるイスラエルがこのカナンの地に戻って来て、真の神への信仰をもたらすことになるだろう、とおっしゃるのです。

神の壮大な祝福がここに示されています。

アモリ人の罪が、試練を経たイスラエルによって清められることになる・・・そのようにして真の神の民が増し加えられることになる、という、アブラムには想像もつかないような大きな計画でした。

さて、この、神とアブラムのやりとりを通してわかるのは、神は、信仰者に試練をお与えになる、ということです。そしてその信仰の試練は、祝福に至るための通り道なのです。神は、試練の中で、私たちを祝福を受けるにふさわしい者へと作り変えてくださいます。

私たちにとって、本当にしんどいのは、苦しみの意味が分からない時でしょう。なぜ自分が、なぜ自分の家族が、なぜ自分の愛する者が、なぜ家族の中で自分だけが・・・そのような心の叫びを誰もがもっています。神は、その私たちの心の叫びを聞きながら、荒れ野を共に歩いてくださるのです。

神の試練が無意味だ、ということはありません。荒野の中でこそ、神が共にいてくださることを私たちは見せられるのです。

アブラムに暗闇が臨み、これらの神の言葉が語られた後、二つに裂かれた動物の間を燃え盛る火が通り過ぎました。神とアブラムの間に契約が結ばれた、ということです。

その後、神はもう一度はっきりとおっしゃいました。

「あなたの子孫にこの土地を与える」(18節) Continue reading

4月10日の礼拝案内

 次週礼拝(4月10日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:創世記15:1~11

 交読文:詩編9編2節~7節

 讃美歌:讃詠546番、7番、316番、291番、頌栄544番

【報告等】

◇4月23日(土) 10時より三宅島伝道所総会があります。

◇4月9日(土) 10時より 役員会があります。

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日になっています。10時~17時まで伝道所におります。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 Continue reading