2月13日の説教要旨

マルコ福音書15:1~15

「群衆はまた叫んだ。『十字架につけろ』」(15:13)

ユダヤの最高法院の人たちは、神であると自称したナザレのイエスを死刑にしてもらおうと、ローマ総督、ポンテオ・ピラトのところへと連れて行きました。ローマの支配下において、ユダヤ人たちは誰かを死刑にすることを許されていなかったのです。誰かに死刑の判決を下し、刑を執行するのは、ローマの権威よらなければならなりませんでした。

彼らはローマの総督であったピラトに、「この者はユダヤ人の王と自称しています」と言って引き渡したようです。それはつまり、「この者はローマへの反乱を企てています。十字架刑に処してください」ということです。

ピラトは、自分のところに連れてこられたナザレのイエスを見て、「これは、祭司長たちがナザレのイエスの人気を妬んでやっていることだ。イエスは何も罪を犯していない、ローマにとっても何の危険もない」とすぐに見抜きました。

ピラトは、ユダヤ人たちの問題に振り回されたくはありませんでした。ユダヤ人たちの思惑のために、ローマ総督の権威を利用されたくありません。無実の人間を死刑にすることは、ピラトにだって後味のいいものではなかったでしょう。

しかし、この日はユダヤの祭り、過越祭の当日でした。ユダヤ人たちの民族意識・愛国心が燃え上がる時です。ナザレのイエスをめぐって、ユダヤ人たちの感情が高ぶり、エルサレムで暴動が起こるようなことだけは避けたい、という思いも持っていました。

ピラトは本当はローマ総督の権威をもって「この者は無罪だ。死刑にはしない」と言うこともできました。しかし、それではユダヤ人たちの感情を損ねる、ということを恐れてもいました。

ピラトは現実主義者でした。ユダヤ人たちの感情を損ねずに、ナザレのイエスを解放する方法を考えます。祭りのたびごとに囚人を一人解放する、という習慣を用いることにしました。ピラトは「ユダヤ人の王を自称した」という、ナザレのイエスを助けるよう人々が願い出るだろうと踏んでいました。

しかし、その狙いは外れることになります。群衆が押しかけてきて、いつものように囚人を一人解放してほしいと要求し始めました。

ピラトは言いました。「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」

ピラトは、群衆が「そうです」と言うかと思っていました。しかし、「イエスではなくバラバを釈放してほしい」と群衆は答えたのです。ピラトが主イエスを取り調べている間に、祭司長たちが、群衆をそう言うように扇動していたのです。

聖書には、「暴動の時人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた」とあります。これだけ読むと、極悪非道な犯罪者という印象を受ける。

しかし、バラバは、普通の犯罪者とは違いました。「暴動に加わっていた」ということは、ユダヤのためにローマ帝国と戦った、ということです。「人殺しをして」というのは、ローマ兵を殺した、ということです。

ローマ帝国の支配・抑圧に不満をもっていたユダヤ人たちにとってバラバは、犯罪者ではなく、自分たちの自由のために戦ってくれた英雄だったのです。

それに対して、ナザレのイエスはどうだったでしょうか。この人は、自分で自分のことをユダヤ人の王だと言っているが武器をとってローマと戦うことをしていないじゃないか・・・そのような思いもあったでしょう。

ナザレのイエスは、エルサレムの民衆にとってガリラヤ地方から来た、田舎教師に過ぎませんでした。ユダヤ人のために武器を戦ってもいないのに、そしてエルサレムの人間でもないのに、ユダヤ人の王だと自称しているなんてお笑い草です。

愛国の英雄バラバが釈放されるのであれば、ナザレのイエスを死刑にすればいい。エルサレムの群衆は皆そう思いました。

エルサレムに入って来られた主イエスに対して、人々は様々な反応を示しました。ガリラヤから来た巡礼者たちは、主イエスに向かって「ホサナ」と叫び、歓声をもって一緒にエルサレムに入場してきました。

しかし、エルサレムの人たちは、神殿の境内から商人を追い出したり、律法学者たちと論争したり、神殿の境内で巡礼者たちに神の国の教えを説いたりする「この人は何者だろう」と見ていました。

ここで「イエスを十字架につけろ」と叫んだのは、エルサレムの人たちです。この人たちは、ピラトが主イエスを取り調べている間に、ナザレのイエスは死刑にすべき人間だ、ということを祭司長たちから説得されてしまっていました。

私たちは、これまで、主イエスの受難予告を見てきました。「私はエルサレムで殺されることになっている」と聞かされても弟子達は信じられませんでした。なぜこの方が十字架刑で殺されることになるのか、その理由が見当たらなかったからです。

私たちもそうではないでしょうか。ここまで、この方は何も悪いことをしていません。十字架刑というのは、ローマへの反逆者への見せしめの刑です。主イエスが武器を取って民衆を煽り立て、反乱軍のリーダーとして戦った、というのであれば、十字架刑に処せられる理由になりますが、実際にはそんなことはなさっていません。

ただ、神の国の福音を人々にお教えになっただけです。それなのに、なぜこの方は十字架に上げられることになったのでしょうか。

イエス・キリストは、ピラトによって有罪とされたわけではありません。この方はローマの裁判の中で有罪とされたわけではないのだから、別に「釈放」などされなくてもいいはずなのです。

それがなぜ、最後に十字架へと上げられることになったのでしょうか。「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した」とあります。主イエスに罪を見出したからではありません。ローマの総督が、ユダヤの群衆を満足させるために、この方は十字架へと上げられることになったのだ。

聖書を読んでいて、なぜイエス・キリストが十字架へと上げられたのか、明な理由を私たちは見出すことはできません。主イエスは洪水に押し流されるように、十字架へと上げられていきます。弟子達に見捨てられ、最高法院で有罪判決を下され、群衆に突き上げられたピラトによって十字架刑の宣告をお受けになりました。

どの段階を見ても、正当な手続きは踏まれていません。そして誰一人として、この不当な十字架刑に対して否を唱えていないのです。

我無実の主イエスが次々にいろんなところで有罪とされ、十字架へと追いやられている姿が描かれています。あれだけ力強く奇跡をおこない、人を癒し、悪霊を追い払い、律法学者たち相手に一歩も引かなかった方が、無抵抗に負けていかれるのです。

イザヤ書53章には、神の子が人間の手によって殺されることになる、という預言があります。その預言は、「誰が信じることができただろうか」という言葉で始まっています。

確かにそうでしょう。なぜ、神の子・メシアが、罪人の手によって殺されるのか、そしてなぜそれが罪人にとっての救いなのか、私たち人間の理屈で考えてもわかりません。主イエスが弟子達に見捨てられ、ユダヤ人たちから排斥され、ローマ軍の手によって殺された、ということは、人間が神に勝利したように見えます。

もしも、イザヤ書の預言がなければ、イエス・キリストの十字架刑は、誰もこの方のことを理解せず、歴史の中で記憶されることもなかったのではないでしょうか。一人の犯罪者の処刑として終わっていたのではないでしょうか。

しかし、旧約の預言は、神の救いは、神の子が罪人の罪を担い、身代わりとなって殺されることによって成し遂げられることをあらかじめ伝えていました。

キリストは初めからご自分が十字架にかかることをご存じでした。弟子達に何度もそのことを予告されていました。この十字架の死こそがキリストの勝利だったのです。

キリストが予告した通り、まっすぐに十字架へと歩んでいかれます。弟子達に見捨てられ、ペトロに「そんな人は知らない」と否定され、ユダヤ人たちに逮捕されて有罪とされ、群衆によって「十字架につけろ」と言われ、ピラトに十字架刑を宣告される・・・全て、キリストの計画通り、すべて、神の御心の通りにことが進んでいます。

私たちは、この方が飲み干していらっしゃる苦難の杯に、どれだけ自分の罪を見出しているでしょうか。

イザヤ書53:4

「彼が担ったのは私達の病、彼が負ったのは私達の痛みであったのに、私達は思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだと」

キリストは一人一人の罪を背負っていかれます。

弟子達から見捨てられることで、弟子達の罪を背負われました。ペトロに知らないと言われることでペトロの罪を背負われました。 Continue reading

2月13日の礼拝案内

 次週礼拝(2月13日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書15:1~5

 交読文:詩編7編7節~18節

 讃美歌:讃詠546番、73番、400番、172番、頌栄542番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

2月6日の説教要旨

マルコ福音書14:66~72

「ペトロは、『鶏が二度なく前に、あなたは三度、わたしを知らないと言うだろう』とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した」

聖書は、大祭司の屋敷の中と外で同時に起こったことを私たちに描いて見せています。大祭司の屋敷の中では、主イエスが「私こそがメシアだ」と言い現わされ、やがて栄光の雲にのってやってくる神であることを示されました。その時、屋敷の外では「あなたはナザレのイエスの仲間だ」と言われたペトロが自分の身を守るために、「私はそんな人は知らない」と嘘をついていました。

罪人のために命をお捨てになったイエス・キリストと、自分の命を救うためにキリストとは無関係であると偽ったペトロの姿が対照的です。

今日私たちが読んだところは、ペトロに焦点が当てられています。ペトロの姿を通して、我々は、自分のイエス・キリストに対する信仰の姿勢を顧みたいと思います。そして、このペトロのために、この私たちのために命をなげうってくださったキリストの恵みをかみしめていきましょう。

主イエスから離れながらも、遠くからここまでついてきていました。

主イエスは、オリーブ山で弟子達におっしゃいました。

「あなたがたは皆私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ」

弟子達が散り散りに逃げていく羊のようにご自分を見捨てることを予告されていました。

弟子達は「そんなことはしない」と言い、ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません」と言いました。それに対して主イエスは「あなたは、今日、今夜、鶏が二度なく前に、三度私のこと知らないというだろう」とおっしゃいました。

ペトロは心外だと言わんばかりに食い下がって、力を込めて言います。「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは申しません」しかし、オリーブ山に主イエスを逮捕する群衆がやってきた時に、皆主イエスを見捨てて逃げてしまいます。

我々は、ナザレのイエスの弟子であることを否定し、「イエスなんて人は知らない」と言ってしまったペトロのことを弱い信仰者の姿として見がちです。しかし、12人の弟子達の中で、唯一ペトロだけが、この大祭司の屋敷の中庭まで従って来ていたのだ。ペトロは、まだ主イエスを見捨てていません。

しかし、ここでペトロは、「あなたはイエスの弟子ではないのか・あなたはイエスと一緒にいたのではないか」と三度聞かれ、三度否定してしまうことになります。

よく見てみると、ペトロの否定は一度目よりも二度目、二度目よりも三度目の方が強くなっています。

はじめに、一人の女中がペトロを見て何気なく「あなたもナザレのイエスと一緒にいた」と言いました。この「女中」というのは、まだ少女だったでしょう。一人の少女が相手だから、「なんのことだ」と言って、ペトロは相手にせず簡単に逃げることが出来ました。

しかし、その女中は今度はペトロではなく周りの人たちに言います。「この人は、イエスの仲間です」

今度はペトロは聞こえないふり、知らないふりができなくなりました。ペトロがイエスの弟子かどうか、ということが公の問題となってしまったのです。はっきりと言わなければならなくなりました。ペトロはもう一度打ち消します。これで、公に自分がイエスの仲間・弟子ではない、ということを宣言しまうことになります。

周囲にいた人たちは、ペトロのガリラヤのなまりを聞いたのでしょう、「確かにお前はガリラヤ人だ」と言って、ガリラヤのナザレのイエスの仲間かどうかを追求しました。

ここまで言われるとペトロは更にはっきりと、そこにいる全員に対して強く主イエスとの関係を否定しなければならなくなります。

「呪いの言葉さえ口にしながら」とありますが、これは、「誰かを呪う」、という言葉です。ペトロは、誰かを呪いました。もちろん、主イエスのことです。ペトロは確かに主イエスのことを呪いながら、「私はイエスの弟子ではない。私はイエスなど知らない」と言い切ってしまいました。

ペトロは自分がこの場から逃れるのに必死で、オリーブ山でのイエス・キリストから「あなたは今日、今夜、鶏が二度なく前に三度私を知らないと言うだろう」と言われたことを忘れていたようです。呪いとともに主イエスとの関係を否定したその時、鶏の声が聞こえ、オリーブ山での記憶を呼び戻しました。

ペトロは死ぬまで、何度この夜の自分を思い出したでしょうか。そしてそのたびにどれだけ自己嫌悪に陥ったでしょうか。ガリラヤ湖で漁師をしていたペトロは、自分の家を、舟を、家族をあとに残してまで主イエスに従って来ました。ペトロにとって主イエスは自分の家族以上の方でした。この方こそ神の子・メシアだと信じて、そう告白しました。

しかし家族以上に大切に思い、神の子・メシアだと信じた方を、自分の口で呪い、「自分とあの人は関係ない」、と言い切ってしまいました。

ペトロがご自分のことをメシアであると言い現わした時、主イエスは弟子達におっしゃいました。

「神に背いたこの罪深い時代に、私と私の言葉を恥じるものは、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」

ペトロは鶏の声を聴いて、泣き崩れてしまいました。

さて、もうペトロは終わりでしょうか。「イエスなど知らない」と言ってしまったペトロのことを、イエス・キリストは「お前のことなど知らない」とおっしゃるでしょうか。

そうではありません。キリストはペトロに、弟子達に、「あなたがたは皆私につまずく」と前もっておっしゃっていました。キリストはペトロが、弟子達がご自分をお見捨てになることをご存じでした。ご自分を離れ、さまよう羊のように道を失ってしまうことを前もってご存じでした。

だからこそ、前もって、私は復活したのち、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と、再会を約束されたのだ。信仰のつまずきによって、キリストから離れることによって道を見失うことになる弟子達に、行くべき道を、彼らを待っている希望をお示しになっていました。

その言葉通り、十字架で殺され、三日目に復活なさったイエス・キリストは弟子達のために、ご自分の墓の中に言葉を残されていました。空になったキリストの墓で、光り輝くみ使いが告げます。

「さあ、行って、弟子達とペトロに告げなさい。『あの方はあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われた通り、そこでお目にかかれる』と」

み使いは、「弟子達とペトロに」と言います。特別にペトロの名前を言うのです。誰よりも最後までイエス・キリストに従おうと近くについて行ったのに、最後に呪いの言葉を口にしなければならないところまで追い込まれてしまいまい、鶏の鳴き声を聞いて崩れたペトロの苦しみを知っていたからでしょう。

ペトロは泣き崩れました。しかし、その涙は復活のキリストへと立ち返ったところで、喜びと感謝の涙へと変えられます。後悔の涙が喜びと感謝の涙へと変えられる、それが信仰がもつ意味ではないでしょうか。

私たちも何度、これまでの歩みの中でペトロが聞いた鶏の声を聴いてきただろうか。何度、キリストから離れ、キリストを否定する自分を見せつられてきただろうか。そして、これから何度、鶏の声を聞くことになるでしょうか。

私たちの躓きの先には、復活のキリストの招きがあります。つまずきで終わりではありません。私たちの自己嫌悪と涙は何度でも、喜びと感謝の涙へと変えていただけるのです。キリストに従うということは、そういうことなのです。

さて、最後に考えたいと思います。ペトロをはじめ、弟子達はこのつまずきの先で、キリストの招きと召しを受けて、使徒として働き始めることになります。しかし、12弟子の中で一人だけ、使徒になれなかった人がいます。イスカリオテのユダです。

ユダと、他の11人の道を分けたのは一体何だったのでしょうか。マルコ福音書には、もうユダは出てこない。彼がどうなったのかはわかりません。他の福音書を見ると、ユダは自殺した、ということが記されています。

キリストの使徒として生きる道と、自らの命を閉ざす道・・・ユダと他の11人の違いはなんだったのでしょうか。一つだけはっきりしているのは、ユダはキリストに立ち返らなかった、ということです。彼は立ち返る場所にイエス・キリストを見出だしませんでした。キリストを見ようとしなかったユダは、キリストから離れた後、生きる道を失いました。キリストの許しの言葉を、回復の希望を、ユダは自ら断ってしまったのです。

ここに、信仰の分かれ道があります。

キリストの復活の予告に希望を見出し、復活のキリストの許しを得た11人の弟子達は、そしてペトロは、新たに使徒としての道を歩み始めます。命を捨ててくださった方のことを、今度は自分が命を懸けて伝え始めることになったのです。キリストに立ち返ったからです。 Continue reading

2月6日の礼拝案内

 次週礼拝(2月6日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書14:53~65

 交読文:詩編7編7節~18節

 讃美歌:讃詠546番、69番、239番、243番、頌栄542番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇2月5日(土) 役員会があります。

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月30日の説教要旨

マルコ福音書14:53~65

「イエスは言われた『そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に、囲まれて来るのを見る』」(14:62)

主イエスはこれまで、神を「父」と呼んで来られました。それはつまり、ご自分が神の子である、ということです。

一週間前にエルサレムに入られた主イエスは神殿の境内から商人を追い出し、そこで神の国の教えを群衆に語って来られました。エルサレム神殿の中でわがもの顔に振る舞うナザレのイエスに、祭司長、律法学者、長老は「何の権威でこんなことをしているのか」と問い詰めます。

その際、主イエスは彼らにぶどう畑のたとえをお話しなさいました。ブドウ園の主人の息子が、ブドウ園の農夫たちに殺されてしまう、というたとえ話です。それは祭司長たちが主イエスを殺す、ということを暗示したたとえ話でした。ブドウ園の主人というのは、神であり、殺される主人の息子は神の子である・・・つまり、主イエスご自身は「神の子・メシアである」ということを暗示した話でした。

また、神殿の崩壊の預言を聞いた弟子達に主イエスは「世の終わりがいつ来るかわからないのだから、備えて、目を覚ましていなさい」「その日、その時は、父だけがご存じである」とおっしゃいました。この世の終わりがいつなのか、自分の父である神のみがご存じである、という言い方です。

神を自分の父と呼び、自分が神の子であるかのように振る舞ってきた。ナザレのイエスに、ついに大祭司は裁判の中で、核心をついた質問をします。

「お前はほむべき方の子、メシアなのか」

神を直接言い表すことを裂けて、「ほむべき方」と言っています。つまりこれは「お前は、結局何者なのだ。神なのか」という質問です。

ここで主イエスははっきりと「そうです」とお答えになりました。

これまで主イエスは民衆に対して、御自分からメシアであることを秘密にしてこられました。ペトロが主イエスに「あなたはメシアです」と信仰を告白した時にも、「それを誰にも言ってはいけない」とお命じになりました。人々がそれぞれ好き勝手なメシア像を持っていたからです。

しかし、ついにここで隠してこられたご自分の本当の権威、神の子メシアであることをユダヤの指導者たちに明らかにされました。ご自分の口ではっきりと、ご自分が天から来た神であり、やがて栄光に包まれて世の終わりに再びやってくるだろう、とおっしゃったのです。

「人の子が全能の神の右の座に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」

旧約聖書の預言書、ダニエル書7章で預言されている、栄光の雲に囲まれてやってくる「人の子」と呼ばれている神の姿こそ、「私だ」とおっしゃったのです。

これを聞いて大祭司は衣を引き裂きながら、「この者は神を冒涜した」と言いました。そして最高法院の人たちは、主イエスを死刑にすることを決議しました。

メシアである主イエスがご自分をメシアとおっしゃった、ということで、なぜ死刑の判決になるのでしょうか。主イエスは、本当のことをおっしゃっただけなのです。主イエスがおっしゃったことが本当であるなら、何の問題もないはずです。これは真実を明らかにする「裁判」なのですから。

しかし、最高法院の人たちは、この主イエスの言葉を受け入れませんでした。それを信じることができなかったからです。

私たちは、考えたいと思います。人間の裁きとは何なのでしょうか。本当に人間は、正しく人間を裁くことができるのでしょうか。

聖書の中には、神の裁きを待ち望む弱い人たちの叫びがたくさん残されています。「主よ、私はあなたの裁きを待ち望みます」といろんな時代の信仰者が祈りが記録されています。

なぜでしょうか。人間の裁きが不完全だからです。罪の力に支配されている人間は、自分に引き寄せた裁きをしてしまうのです。良いものをよい、悪いものを悪いとする、ということは、人間には難しいのです。自分の都合の良いように裁きを行ってしまいます。人の裁きを左右する、他の力が働いてしまいます。

この夜の最高法院の人たちを見ればわかります。これはもともと主イエスを死刑へと陥れるための裁判でした。「ナザレのイエスは死刑だ」、ということがもともと決まっていたのです。主イエスは正しい裁きの中で有罪とされたのではありません。愚かな罪びとの裁きの中で、甘んじて有罪判決をお受けになったのです。

私たちは、この裁判を通して考えたいと思います。人は神を裁くことができるのでしょうか。神を裁く人間とは一体何なのでしょうか。

私たちは今、十字架へと追いやられるイエス・キリストのお姿を見ています。それは、罪の力がキリストを十字架へと運ぶ姿であり、キリストが罪を全て背負っていかれるお姿です。

主イエスはご自分に死刑の宣告をした、この最高法院の人たちの罪を今、背負われました。神に仕えるはずの祭司や律法学者たちが神に死刑判決を下した瞬間です。その罪を、神ご自身が背負われるのです。

私たちは、受難の道を行かれるイエス・キリストの周辺に自分の姿を見出します。私達はあの時キリストを十字架へと追いやる大勢の人たちの中にいたのです。キリストを引き渡すユダ、キリストを見捨てる弟子達、キリストを裁き有罪とした最高法院の人たち、そしてこの後、十字架刑を宣告するローマ総督ポンテオ・ピラト・・・。私たち一人一人が、キリストを見捨てた弟子達の中に、キリストを陥れる偽の証言をした人の中に、死刑を決議した人の中に、唾を吐き、殴った人の中に確かにいたのです。

最後の晩餐からイエス・キリストの十字架の死にいたるまで、私たちは、自分の姿をここで見せつけられることになります。自分の罪を見つめなければならないのです。そして、その罪をご自分の身に引き受けていかれるイエス・キリストの愛を見せつけられることになります。

主イエスは世の終わりにご自分が栄光に包まれて再び来る、とおっしゃいました。エルサレムへの旅の初めに、主イエスは3人の弟子達を山の上へといざなわれた。3人はそこで栄光の光に輝き、天の雲に包まれるイエス・キリストのお姿を見ました。最高法院の人たちに主イエスがおっしゃった栄光の天の雲を、弟子達は、既に見たのです。

キリストの復活を見た弟子達は、その栄光を伝えるようになりました。弟子達は十字架の死から復活なさったイエス・キリストを一生涯伝え続けたのです。

ペトロは後に、自分の手紙の中でこう書いている。

「私たちの主イエス・キリストの力に満ちた栄光を知らせるのに、私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これは私の愛する子。私の心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉と栄光をお受けになりました。私たちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聴いたのです」

一度は見捨てて逃げ去った主イエスを、なぜ弟子達は一転して、命をかけて伝え続けたのでしょうか。最後の晩餐から十字架に打ち付けられるまでの、あのキリストの最後の夜を一生涯忘れることが出来なかったからでしょう。あの夜の自分の罪を忘れることが出来なかったからです。

弟子達は主イエスを見捨てて逃げました。しかし、あの方は自分たちを許し、ガリラヤでの再会を約束してくださいました。あの夜、キリストはイザヤが預言した苦難の僕として甘んじて罪びとからの痛みをお受けになりました。そしてその先にある、ダニエルが預言した人の子・栄光の雲につつまれる神の再臨をお示しになりました。

使徒言行録を見ると、ペトロは多くの人たちに証言したことが記されている。

「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」

ゴルゴタの丘で主イエスを十字架へと追いやった人たちは、ペトロの言葉を聞いて恐れました。そして恐れを抱いた人たちは皆、悔い改めの洗礼を受け、キリストの許しへと立ち返った。

一度は逃げたペトロでした。しかし、キリストが復活なさったのち、自分の命をかけて、キリストの復活を証言し続けました。自分の罪を知った者、そしてその罪が許されたことを知った者は、その罪を担ってくださった方のことを証言する者へと変えられるのです。そしてその証言が、また新たな証言者を生みだしていきます。

結び

人となられた神が自分たちの目の前にいらっしゃり、「私はやがて神の座に着き、天の雲に囲まれて来るだろう」とおっしゃったのを聞いても、祭司長や律法学者たちは、信じなかった。罪によって信仰の目が曇っていたからだ。

キリストの十字架は、復活へとつながっていきます。私たちには、罪びとでありながら、神の元へと立ち返る道が拓かれた。主の復活で、雲が払われたのです。

私たちの一生は、イエス・キリストの後を追い、離れていた神の元へ立ち返る旅です。 Continue reading

1月30日の礼拝案内

 次週礼拝(1月30日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書14:53~65

 交読文:詩編7編2節~6節

 讃美歌:讃詠546番、68番、249番、288番、頌栄541番

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月23日の説教要旨

マルコ福音書14:53~65

「しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった」(14:61)

「2000年前に生きて、十字架で殺され、そして墓からよみがえったと言われているイエスという人は一体何者だったのか」・・・これは、どの時代にも人類に投げかけられてきた問いです。

ある人は、「イエスは人類に道徳と愛の模範を示した人だった」、と言います。ある人は、「イエスは、ローマへの反乱を主導したユダヤの民衆のリーダーだった」と言います。

当時のガリラヤの民衆は主イエスのことを「預言者」として見ていました。また、当時のエルサレムの最高法院の人たちは、神殿で我が物顔に振る舞い、勝手に神の国の教えを語る厄介者として見ていました。そして弟子達は主イエスのことをメシアだと見ていました。

主イエスは弟子達だけに「私はエルサレムで殺されることになっている。そして三日目に復活する」と前もっておっしゃっていました。聖書は、この方を、神の愛の律法を完成させた神の子、メシアだと言います。御自分の命を犠牲にして、天の国に用意されている永遠の命をお示しくださった方として私たちに伝えているのです。

私たちはついに、イエス・キリストが御自分がメシアであることを公に宣言なさった場面を読みました。大祭司の屋敷へと連行され、最高法院の人たちが全員集まっているところで「お前は一体何者か」と問われ、ついに、その場で公にご自分が何者であるのかを宣言されたのです。

「お前はほむべき方の子、メシアなのか」ときかれ、主イエスは「そうです」とお答えになりました。それだけでなく、「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」とまでおっしゃいました。

祭司長たちは、この一言で主イエスを有罪とします。神を自称して、神を冒涜した罪で死罪としました。いよいよ、イエス・キリストは十字架へと送られていくことになります。御自分が救おうとなさっている罪びとたちによって十字架へと上げられていく主イエスのお姿をしっかりと見つめていきましょう。

これは主イエスにとって不公平な裁判でした。夜中に逮捕され、そのまま大祭司の屋敷という個人の家に連れていかれ、そこに最高法院の全員がすでに集まって待ち受けていました。時間も場所も、手続きも、めちゃくちゃです。そこに集まった最高法院の人たちは、主イエスが有罪か無罪かを判断するためではなく、死刑にするために集まっていたのです。もう判決は決まっていました。そのために、偽の証言をする人たちまで前もって雇われていました。

裁判の中で何人もの人が、証人として発言します。「イエスは自分で神殿を壊し、新しい神殿を建てると言った」。

実際には主イエスはそんなことをおっしゃっていません。神殿の立派さに感動していた弟子達に「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とおっしゃっただけです。

おそらく、この時の言葉を聞いたユダが、「イエスは神殿についてこんなことを言っていた」と、祭司長たちに事前に伝えていたのでしょう。それが曲げられた形で証言されています。

主イエスは、本当であれば、「私はそんなことを言っていない」と言い返すこともお出来になったのに、黙っていらっしゃいました。大祭司自身が不審に思って主イエスに尋ねます。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」。しかしそれでも、イエスは黙り続けて何もお答えにならなかった、と記されています。

弟子のペトロは、この時のキリストの沈黙についてのちに手紙の中でこう書いています。キリストは「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。」

預言者イザヤは、イザヤ書53:7で神の救いの御業のために自分を犠牲にする苦難の僕について預言しています。

「彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように。毛を切るものの前にものを言わない羊のように、彼は口を開かなかった」

ペトロは預言者イザヤが預言していた苦難の僕の姿をイエス・キリストの沈黙に見出したのです。手紙の中で「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」、とそのイザヤの言葉を引用しています。

主イエスは偽の証言に対して、申し開きすることはいくらでもお出来になったはずです。しかし、ご自分を十字架へと追い立てるこの罪びとたちを救うために、黙ってすべてを甘んじてお受けになったのです。

このキリストの沈黙を通して、神の大きな救いの御業が実現しようとしています。証言した人たちは「この男が『私は人間の手で作ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で作らない別の神殿を建てて見せる』というのを、私たちは聞きました」と言いました。

これは偽の証言だったので、結局彼らの証言は食い違ったものになりましたが、皮肉にも、この人たちの言葉は現実のものとなっていくことになります。

「人間の手で作った神殿は壊れる」・・・確かにそうなりました。

「人間の手で作らない別の神殿が建てられていく」・・・これも後に実現しました。

私たちは、人の手によって作られたものが必ず壊れるということを知っています。どんなに人間の技術の粋を集めた建築物でも、どんなに立派な神殿であっても、それは結局は「人の手によるもの」なのです。

建築物だけではありません。国もそうです。人間が作り上げた国も、永遠には続きません。人間の支配の華々しさは一瞬です。空しいものです。

旧約の時代にイスラエルを苦しめたアッシリアも、バビロンも、ペルシャもローマも、すべて滅んでしまいました。あれだけ繁栄を誇り、強かった国々が、わずか100年、200年で消えていったのです。どんなに国境を広げようが、他国の人を奴隷にしようが、強い武器を持とうが、人間の支配は時間がたてば消えていきます。

残るのは何か・・・それは「人の手によらないもの」です。言葉を変えると、神の手・言葉によるものが残るのです。

ソロモンがエルサレム神殿を建てたとき、神はおっしゃいました。

「もしあなたたちとその子孫が私に背を向けて離れ去り、私が授けた戒めと掟を守らず、他の神々のもとに行って仕え、それにひれ伏すなら、私は与えた土地からイスラエルを断ち、私の名のために聖別した神殿も私の前から捨て去る。こうしてイスラエルは諸国民の中で物笑いと嘲りの的となる。」

この神の言葉は本当に実現してしまいました。不信仰に陥ったイスラエルは、バビロンに滅ぼされ、神殿も破壊されてしまうことになりました。

神の子イエス・キリストを裁いたイスラエルは、キリストの裁判から40年後にローマ軍によってエルサレム神殿を破壊されることになります。

人の手によるものは、壊れるのです。神を捨てると、神殿は壊れるのです。

イエス・キリストは、人の手によらないものをこの世にもたらしてくださいました。パウロはコリント教会に向けてこう書いている。

「我々は神のために力を合わせて働く者であり、あなた方は神の畑、神の建物なのです。・・・あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。・・・あなた方はその神殿なのです。」

キリストは、私たちを建ててくださいました。私たちキリスト教会が神の神殿なのです。ここは霊の神殿です。ここには聖霊による神の支配があります。そしてここには神が導き入れてくださる永遠の命があるのです。

ヘブライ人への手紙9:11にこう記されています。

「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で作られたのではなく、すなわち、この世のものではない、さらに大きく、さらに完全な幕屋を通り、雄ヤギと牡牛の血によらないで、ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

キリストは、我々罪びとが流すはずだった血を、ご自身が引き受け、十字架の上で全身の血を流してくださいました。キリストを十字架へと追いやった我々の代わりに、です。説明のつかない、許しの御業です。

キリストは、そのような仕方で人の手によらない、神の御手による霊の神殿をこの世にお建てになったのです。

今、我々は、聖書を通してイエス・キリストの十字架への歩みを見ています。 Continue reading

1月23日の礼拝案内

次週礼拝(1月23日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書14:53~65

 交読文:詩編7編2節~6節

 讃美歌:讃詠546番、67番、331番、132番、頌栄541番

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月16日の礼拝案内

次週礼拝(1月16日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マタイ福音書5:7~11

 交読文:詩編7編2節~6節

 讃美歌:讃詠546番、71番、461番、90番、頌栄541番

【報告等】

◇次週、礼拝の中で三宅島伝道所教師就任式があります。荒川教会の国府田祐人牧師による就任式司式・説教となります。

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください