9月26日の説教要旨

マルコ福音書13:14~23

「主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主はご自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである」(13:20)

「神殿はやがて崩れることになる」という主イエスの言葉を聞いた弟子達は、「それはいつ起こるのですか。どんな徴があるのですか」と聞いてきました。この主イエスの神殿崩壊預言は、この時から40年後の紀元70年に、現実のものとなります。紀元66年、ユダヤ人はローマ帝国への反乱を起こし、73年までその戦いは続きました。それはユダヤ戦争と呼ばれています。

紀元70年、ローマ軍はエルサレムを占領し、神殿と都の大部分を破壊します。エルサレムの陥落は、ユダヤ人側の負けを決定づけるものでした。エルサレムを失った後、ユダヤ人たちは、最後にはマサダという要塞にこもり、ローマ軍に包囲され、悲惨な最期を遂げることになります。

「素晴らしい建物ですね」と弟子達は神殿を見て感動していましたが、既にこの時、主イエスは40年後の、ローマに包囲され、破壊されていくエルサレム神殿が見えていらっしゃいました。

「この神殿は完全に崩れるだろう」という主イエスの言葉に驚いた弟子達は「そのことはいつ起こるのですか」と聞いてきました。主イエスは、神殿崩壊という衝撃的な出来事が、いつ起こるのか、それにはどんな兆しが見えるのか、ということを弟子達にお話にはなっていません。

主イエスが弟子達におっしゃったのは、「その時がどれほど恐ろしく、混乱しようとも、その時に見聞きするものによって惑わされてはいけない。あなたがたの信仰が揺らがないようにしていなさい」ということでした。エルサレム神殿が崩壊する時、それがどれほど恐ろしく、切迫したものか、ということを主イエスは包み隠さず弟子達にお教えになっています。

「その時が来たら、躊躇せずに逃げなさい」

「屋上から下に降りたり、家の中にあるものを取り出す暇もない、畑にいても上着を取りに家に帰る時間すら惜しんで逃げなければならないようなことが起こる」

「身重であったり、乳飲み子を抱えていたりすることですら苦しみになるだろう、もしそれが冬であればさらに苦しみは増すだろう」

このようなことをおっしゃいました。

そして、「神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来る」とまでおっしゃっています。大事なことは、それがいつ起こるのか、ということではなく、それ以上に、そのような苦難を信仰を抱いて乗り越えなければならない、ということでした。

弟子達は、そして当時のユダヤ人にとって、エルサレム神殿が崩れるなどということは考えられないことでした。エルサレムは神の都であり、神に守られているから不滅だ、と信じていたのです。

BC167年に、アンティオコス・エピファネスというシリアの王が、エルサレム神殿の財宝を奪い取り、神殿の中に偶像の像を立てようとしたことがありました。ユダヤ人たちはこれに反発して、シリアを相手に戦いました。エルサレム神殿は神の家なのです。ユダヤ人は神のために戦い、勝利しました。

このことから、「エルサレムは神の都であるため、負けることはない。エルサレム神殿は神の家であるため、異邦人によって破壊されるなどということはない」という思いがユダヤ人の間で強くなりました。

弟子達は、主イエスの言葉を聞いた後でも、「神殿が崩れるなど、信じられない」と心の内では思っていたでしょう。だからこそ主イエスは「一切のことを前もって言っておく」と、包み隠さずお話しなさったのです。

神の子イエス・キリストが神殿の崩壊を預言される、ということは、それは間違いなくそうなる、ということです。ではなぜ神殿は壊れるのでしょうか。私達がこれまで読んできたように、もう神殿は祈りの家ではなく、強盗の巣となっていたからです。神殿の境内で商人が商売をしたり、神殿に献金した弱いやもめが破産したりしてしまうようなことになっていました。弱い者たちが見向きもされていない、神の教えである律法が守られていない神殿は、神ご自身の手によって滅ぼされるのです。

神殿崩壊預言をしたのはイエス・キリストが最初ではありません。旧約の預言者たちの中にも、エルサレム神殿の崩壊を預言した人はいました。ミカや、エレミヤがそうです。

紀元前6世紀、エレミヤはエルサレムの滅びを預言しました。エルサレムが堕落していたからです。エレミヤはエルサレム神殿に入って来る人たちに言いました。

「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、空しい言葉により頼んではならない。・・・神の神殿に来て『救われた』というのか。お前たちは、あらゆる忌むべきことをしているではないか。この神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。その通り。私にもそう見える、と主は言われる」

エルサレム神殿に来て、形だけ礼拝するだけで、寄留していた外国人、孤児、寡婦を大切にせず、異教の神々を礼拝していた人たちに向かって、エレミヤはそのように言いました。「主の神殿」という言葉の響きだけで自分の信仰は満たされていると満足している人たちに、エレミヤは神の怒りを告げたのです。

エレミヤの時代、イスラエルはバビロンという大きな国に降伏して、その支配下にありました。紀元前598年にイスラエルはバビロンに降伏し、バビロンはエルサレムの王を始め、国の指導者たちを自分の国へと連行して行きました。

エルサレムに残された人たちは、有力な指導者たちを失って自分たちはこれからどうなるのか、と不安になっていました。そのような中でエレミヤは厳しい預言をします。

「エルサレムはバビロニアによって滅ぼされる。それはイスラエルの不信仰に対する神の裁きだ。私達は神の裁きを従順に受け入れ、悔い改めなければならない」

当然、エレミヤは他の人々からは嫌われました。             Continue reading

9月26日の礼拝案内

【次週礼拝(9月26日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書13:14~23

 交読文:詩編5編2節~7節

 讃美歌:讃詠546番、29番、172番、270番、頌栄543番

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。9月23日(木)~25日(土)の間、牧師は夏休みで不在となります。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

9月19日の説教要旨

マルコによる福音書13:3~13

「イエスは話し始められた。『人に惑わされないように気をつけなさい』」(13:5)

主イエスは神殿から出て行かれ、谷を挟んで向かい側にあるオリーブ山に登り、そこからエルサレム神殿の方を向いて座っていらっしゃいました。当時大改修が進められていた美しく荘厳なエルサレム神殿をご覧になりながら、何を考えていらっしゃったのでしょうか。

オリーブ山から神殿を眺めていらっしゃる主イエスに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの4人が「そのことはいつ起こるのですか」とおそるおそる尋ねて来ました。

エルサレム神殿の境内から出て行く際、「この神殿の一つの石も崩されずに他の石の上に残ることはない」という主イエスの言葉を聞いたのです。弟子達は言葉を失いました。「聞き間違いではないか」、と信じられなかったでしょうし、弟子達同士で「先生がおっしゃったことは本当に起こるのだろうか」と話し合いもしたでしょう。

弟子達は、オリーブ山まで来てようやく、「そのことはいつ起こるのですか。その時にはどんな徴があるのですか」と質問してきたのです。

マルコ福音書の13章全体が、この弟子達の二つの質問に対する、主イエスの言葉です。しかし、この13章全体の言葉を読むと、主イエスは弟子達の質問に直接はお答えになっていないことがわかります。「何年後に神殿は壊れるだろう、そしてその前にはこんな徴が見られるだろう」とはおっしゃっていないのです。

主イエスは、弟子達に謎めいた言い方で何かをお教えになっています。

13章全体を通して一貫して弟子達が言われているのは、「惑わされないように気を付けていなさい」ということでした。

主イエスは、弟子達には神殿の崩壊を始め「この世の終わり」とも思えるような苦難が起こるが、どんな時にも惑わされず、ただ神を信頼して、神が定めてくださった時を待ちなさい、ということを集中しておっしゃるのです。

弟子達は、本当はもっと具体的に神殿が壊れるのがいつなのか、その時にはどんな前兆があるのか、ということを知りたかったでしょう。

しかし主イエスがこの時見据えていらっしゃったのはむしろ、エルサレム神殿が崩れた後のことでした。「いつ神殿が壊れるのか」、ということ以上に、「神殿が壊れた後もあなたがたは混乱の中も惑わされずに福音を宣べ伝え続けるのだ」、ということをお伝えになっているのです。

主イエスはあと数日のうちに十字架で殺されることになります。そして三日目に復活なさって、天に昇られます。弟子達はこの地上に残されることになります。

主イエスはここではっきりと弟子達におっしゃいます。

「あなた方は地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれるだろう」

地方法院や会堂、というのは、ユダヤ人がいるところです。ユダヤ人にキリストを宣べ伝える際に直面するという試練があるだろう、ということです。

更に、「私のために総督や王の前にたたされて証しをすることになるだろう」とおっしゃいます。

総督や王というのは、異邦人支配者のことです。異邦人にキリストを宣べ伝える際にもキリスト者は試練が与えられるのです。

実際に、エルサレム神殿はこの40年後に崩れることになります。しかし、弟子達はこの時の主イエスの言葉を何度も思い出したのではないでしょうか。「エルサレム神殿が崩れても、まだ世界の終わりではない、とあの方はおっしゃった。惑わされず、イエス・キリストの福音を確かに宣べ伝えいこう」、と弟子達は、そして教会は働き続けました。

主イエスは信仰者たちが受ける苦しみを、「産みの苦しみ」とおっしゃいました。主イエスご自身、ご自分の十字架の痛みをもって、世の人々を神の元へと通じる道を切り開かれました。教会は、そのキリストの十字架の痛みに与ります。誰か一人を神の元へと導く、誰か一人をイエス・キリストの信仰へと導くことは、痛みを伴うことです。

自然に誰もが神を求め、キリストを信じるようになる、というのであれば、どれだけ楽でしょうか。しかし、キリストは「自分の十字架を背負って私に従いなさい」とおっしゃいました。それは、イエス・キリストの下へと誰かを導こうとする痛み・重荷を背負いなさい、ということです。

キリストの弟子達の時代から、今に至るまで、どれだけの痛みを教会は担って来たでしょうか。「信仰を捨てた方が楽だ」、という時代にあっても、多くのキリスト者は時代の波に惑わされず、戦争・地震・飢饉・偽メシアの出現の中で信仰を守ってきました。

その痛みを通して、新たな信仰者が教会へと導かれてきました。教会は、産みの苦しみに耐え続けて来たのです。1世紀の始めから教会は苦しい時を過ごしてきました。無数の、痛みを伴う信仰者たちの証しの姿がありました。信仰ゆえの苦しみの姿です。

主イエスはその苦しみを「産みの苦しみ」とおっしゃいます。単なる苦しみではありません。何かを生み出す苦しみです。

ヨハネ福音書で、主イエスは弟子達にこうおっしゃっている。

「あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産む時、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」

教会は世に生きる中で痛みを感じます。しかし、それはただ、痛みで終わるのではなく、その痛みを通して、不思議な仕方で福音が広められていく喜びを与えられるのです。

使徒言行録に、キリストの使徒たちの信仰の姿が描かれている。

ナザレのイエスなど知らないと三度否定したペトロは、主イエスの復活の姿を見ました。そして復活のキリストを伝え続けました。

「イエスが復活した」と宣べ伝えていたペトロは牢に入れられました。そして最高法院で大祭司から尋問されます。

「今後イエスの名によって誰にも話すな」と言われますが、ペトロとヨハネは「神に従わないであなた方に従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。私達は、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と答えました。弟子達は、苦難を超えて福音のために働き続けたのです。

また別の時、使徒のステファノが捕らえられ、殺されました。ステファノが殺された日、「エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散っていった」とあります。

キリストの福音はそこで終わったか、というとそうではありませんでした。「散って行った人々は福音を告げ知らせながら巡り歩いた」とあります。

迫害を受けてその地域から追い出された人たちは、追い出され逃げた先で、福音を伝えていきました。そうやってキリストの福音が広がったのです。そして、ステファノの殉教の中で、迫害者の一人として働いたサウロという人が、やがてパウロと呼ばれるキリストの使徒へと変えられます。

こうして見て行くと、教会の成長、福音の広がりというのは不思議ではないでしょうか。世の中で迫害を受け、逆風の中にあっても、不思議な仕方でキリストの復活を信じる人たちが教会へと導かれていくのです。そこには、確かに、聖霊の働きがあります。だから、主イエスは弟子達に「惑わされるな」とおっしゃったのです。

主イエスは「地方法院に引き渡されて、会堂で打ちたたかれても、総督や王の前にたたされることになっても、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。実は、話すのはあなた方ではなく、聖霊なのだ」と断言されました。

実際に、使徒言行録やパウロの手紙を読むと、イエス・キリストを信じたキリスト者の群れ、教会は外から迫害を受け、内からは信仰を惑わす人が現れたりしていたことがわかります。捕らえられたり、差別されたり、多くの人が殺されたりしました。

教会の中にも、「キリストの復活など信じない」と言い出す人や、「もう世界の終わりは来ている」と言って極端な信仰に走る人も出たりしました。

主イエスは、「その時には私を名乗るものが大勢現れて、多くの人を惑わす」とおっしゃっています。自分こそこの世界の救い主であると自分で信じる人が現れるのです。「自分に正義がある、この世界は自分の正義に従わなければならない」という人間が出て、影響力をもった時に、多くの人の血が流されることになります。そのような人は、自分を礼拝するように求めはじめる。 Continue reading

9月19日の礼拝案内

【次週礼拝(9月19日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書13:3~13

 交読文:詩編5編2節~7節

 讃美歌:讃詠546番、28番、361番、512番、頌栄543番

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。9月22日(木)~24日(土)の間、牧師は夏休みで不在となります。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

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牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

9月12日の説教要旨

マルコによる福音書13:1~2

「イエスは言われた『これらの大きな建物を見ているのか』」(13:2)

主イエスと弟子達が神殿の境内を出て行きながら交わした短い会話です。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんと素晴らしい建物でしょう」と一人の弟子が言ってきました。主イエスは「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とお答えになります。

とても短い、一言ずつのやりとりですが、このやりとりを通して、一つのことがはっきりします。イエス・キリストがご覧になっていたものと、弟子達が見ていたものが全く違っていた、ということです。

主イエスと弟子達はガリラヤ地方からエルサレムを目指して過越祭への巡礼の旅をしてきました。日曜日にエルサレムに入ってから、主イエスの目に、そして弟子達の目には何が映って来たのでしょうか。それぞれ考えてみたいと思います。

主イエスがエルサレムに入られた日曜日、まず行かれたのは、エルサレム神殿でした。その日は神殿の様子を見て回られただけで宿へと戻られました。神殿の様子をご覧になって主イエスが何を思われたのか、何もおっしゃっていません。

しかし、主イエスの神殿に対する思いが、翌日の月曜日に明らかになります。

月曜日に神殿の境内に入られた主イエスは、そこで巡礼者を相手に両替をしたり生贄を売ったりしていた商人たちを追い出され、「あなたがたは祈りの家を強盗の巣にしている」とお怒りになりました。

そしてさらにその翌日の火曜日には、神殿の賽銭箱に銅貨二枚を献金して、全財産を失ったやもめをご覧になります。

私達はこの方が神の子であり、キリストであることを知っています。神の子が、神の家である神殿に入られたのだから、喜ばれるのが本当です。主イエスは、エルサレムに入られてから、一度でも笑われたでしょうか。主イエスが神殿でご覧になって喜べるようなものは見出すことがお出来にならなかったのです。

神殿が神殿でなくなっていた、ということ、単なる立派な建物に成り下がっていることに心を痛めていらっしゃいました。建物が素晴らしい分、祈りがないということ、律法が行われていないということが浮き彫りになっていたのです。

神殿に失望された主イエスに向かって、弟子の一人が言います。「先生、ご覧ください。なんと素晴らしい石、なんと素晴らしい建物でしょう。」

主イエスがおっしゃったのは「これらの大きな建物を見ているのか」という言葉でした。「私とあなたとは見ているものが違う。あなたはただ、建物の立派さに目を奪われているだけだ」というこということです。

弟子達が立派な神殿に目を奪われるのは当然のことだったでしょう。弟子達はガリラヤ出身の、農村地域の人たちです。ガリラヤの町々にはこのような建築物はありません。壮麗な神殿の姿に素朴に感動していたのです。

元々、神殿はソロモンによって造られました。紀元前586年にエルサレム神殿はバビロニア帝国によって破壊されてしまいますが、バビロンでの捕囚生活を生き延びてエルサレムに戻ってきた人たちによって、紀元前515年に神殿は再建されます。エルサレム神殿はイスラエルの信仰の中心であり、イスラエルの象徴そのものでした。

主イエスの時代にはヘロデ大王が始めた更なる神殿の大改修・再建を進められていました。何十年にもわたる大工事で、主イエスの時代になってもまだ終わっていなかったほどです。改修工事の途中であっても、主イエスの時代の人たち、そして弟子達はこの神殿の大きさ、美しさに目を奪われたでしょう。

この時、主イエスと弟子達の間には距離がありました。それぞれ、見ているものが違うのです。今、主イエスは神殿から出て行かれます。そしてもうこの後は、神殿には二度とお入りになることはありません。

この時、主イエスは弟子達に衝撃的な言葉をお聞かせになりました。

「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

この神殿は、跡形もなく徹底的に崩れることになるだろう、という神殿崩壊の預言をされました。主イエスの目に映っていたのは、目の前に立っている立派な神殿の姿ではなく、破壊され、廃墟になってしまった神殿の運命だったのです。

神の家・祈りの家であるはずの神殿は、徹底的に破壊されることになる、という主イエスの神殿崩壊預言は、実際、この40年後の紀元70年に実現することになります。ユダヤ人は、ローマに対して反乱を起こし、結局ローマ軍によって神殿ごと滅ぼされることになります。主イエスの預言は実現するのです。

神殿崩壊の預言は、主イエスの前の預言者たちによってもなされて来ました。例えば、紀元前8世紀に預言者ミカは堕落したエルサレムの指導者たちに向かってこう言っています。「お前たちのゆえに、シオンは耕されて畑になり、エルサレムは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる。」

紀元前6世紀にも預言者エレミヤが神の言葉をエルサレムの人たちに伝えています。 Continue reading

9月12日の礼拝案内

【次週礼拝(9月12日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書13:1~2

 交読文:詩編5編2節~7節

 讃美歌:讃詠546番、27番、303番、380番、頌栄543番

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

9月5日の説教要旨

マルコ福音書12:38~44

「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(12:40)

主イエスが神殿の境内で群衆に向かって二つのことをおっしゃいました。一つは「なぜ律法学者たちは、メシアのことをダビデの子と呼んでいるのか」という質問です。もう一つは、「律法学者たちの偽善に気をつけなさい」という警告です。

今日私達は、主イエスの律法学者たちの偽善に対する警告の言葉と、実際にそのことによって苦しむ一人のやもめの姿を見ました。律法学者たちは、自分たちでは「自分は正しく律法を実践している」と考えていました。しかしイエス・キリストの目には、そうは映っていませんでした。

信仰者が、信仰の実践の中で陥る落とし穴がここに潜んでいます。律法学者たちの偽善の姿、また神殿でのやもめの姿から学んでいきたいと思います。

律法学者たちの誤った信仰の実践について主イエスは具体的にこうおっしゃっています。

「彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場であいさつされること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。」

もちろん、当時の律法学者が全員そうだった、というわけではないでしょう。律法学者の中にも主イエスの教えを聞いて、「先生、その通りです」と教えを受け入れた人もいました。

しかし、当時は主イエスがおっしゃったような律法学者が多くいたのでしょう。「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と主はおっしゃいます。

私達は福音書を読んでいると、律法学者というのは、悪い人たち・悪意をもった人たちだ、という印象をもってしまいがちです。

しかし、実際はそうではありません。誰かを苦しめようと意図的に悪い行いをしていたわけではありません。誠実に聖書を研究し、神の御心に沿う生き方を真剣に実践しようとしていた人たちです。

しかし、この主イエスの言葉を見ると、多くの律法学者は、自分が神の目にどう映っているか、ということよりも、自分が人の目にどう映っているか、ということに心が向いてしまっていたようです。

自分を大きく見せることに心を奪われてしまい、無意識のうちに偽善がはびこって来て、弱い人たちの姿が目に入らなくなってしまう・・・これが、信仰者が陥る落とし穴ではないでしょうか。

この主イエスの言葉は、信仰者に向けられた、信仰の在り方に対する問いでもあるのです。「あなたの信仰は、どうなのか、人に見せるための信仰になっていないか、弱い者に心は向いているか、見せかけの祈りになっていないか。」

主イエスは、エルサレムに入られる前、誰が神の国に入るのか、ということを弟子達にお教えになった際に、こうおっしゃっています。「先の者が後になり、後の者が先になる」。

エルサレムへの旅の中で弟子達の関心は「誰が一番偉いのだろうか」ということでした。エルサレムに入る直前には、ヤコブとヨハネが抜け駆けして主イエスに「私達二人だけを優遇してください」と願い出たりしました。

そのような弟子達に、主イエスは「あなた方の間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたいものは、全ての人の僕になりなさい」とおっしゃいました。

なぜ主イエスはご自分の弟子達に「全ての人の僕になりなさい」とおっしゃったのでしょうか。イエス・キリストご自身が、「全ての人の僕」として来られたからからです。

キリストの弟子として生きる、ということは、キリストのように生きる、ということです。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」

主イエスの命は、身代金だとご自身でおっしゃいました。そのキリストの弟子達である、ということは、神の御心に従い、神に仕え、人のために命をつかう生き方をしていく、ということなのです。

主イエスは、「神を愛し、隣人を愛する」ということが律法だ、とお教えになりました。神が律法を通してお求めになっているのは、そのことなのです。

律法学者たちの姿は、主イエスの目には律法からかけ離れたものとして映りました。律法学者たちは、主イエスの言葉で言うなら、「先の者」だったはずです。ユダヤ人社会の中で、人々の先頭に立って、律法について聖書についての教えを説き、実践していた人たちでした。しかし、彼らはいつの間にか神の国から遠い生き方をする「後の人」になってしまっていたのです。

長い衣をまとうこと、人から挨拶されること、上席・上座に座ること、長い祈りをすること・・・神に喜んでいただくためではなく、人々から注目と尊敬を集めるための律法になってしまっていたようです。

律法を求めながらも律法から外れてしまったことで、どんな問題が起こっていたのでしょうか。この後、神殿で献金をする一人のやもめが出てきます。

主イエスは、群衆にお語りになった後、賽銭箱に群衆がお金を入れる様子を見ていらっしゃいました。そこは、神殿の中でも「女性の庭」と呼ばれる、たくさんの人が行きかう場所で、13個の賽銭箱が並べられていたそうです。

そこでは「大勢の金持ちがたくさんお金を入れていた」とあります。この賽銭箱にお金を投げ入れる姿は、他の人からも見られることになります。たくさんの献金をする人ほど、注目を浴びるのです。

そのような中で、誰にも注目されない一人の貧しいやもめが献金しようとやって来ました。この人は、レプトン銅貨二枚、本当にわずかな捧げものをしました。ただ彼女は神を愛し、自分が持っているものを心を込めて捧げたのです。この人は、全財産を神殿に献金しました。

主イエスはその姿をご覧になって、弟子達を呼んで「あの女性の姿を見なさい」とおっしゃいました。主イエスがご自分の弟子達に見てほしいと願われたのは、多額の献金をする大勢の金持ちではなく、乏しい中から自分の持っている物・生活費を全部入れたこの女性でした。神のため、隣人のために、ささやかに生きる小さな人でした。

主イエスは「あの女性は誰よりも多く捧げた」とおっしゃいました。「先の者か後の者か」ということでは、この女性は、この世では「一番後の者」でした。しかし、このわずかな捧げものをした女性こそ神の国に最も近い人、「一番先の者」だと主イエスはおっしゃいます。この人こそ、天に宝を摘む人だったのです。主イエスが弟子達に見てほしいと願われたのは、この女性でした。

私達は、間違えてはならないと思います。イエス・キリストは、この女性をご覧になって、「立派な信仰だ」と喜んでいらっしゃるのではないのです。むしろ、お怒りになっていらっしゃいます。

この女性は、全財産を献金しました。つまり、破産した、ということです。わずか銅貨二枚の献金によって。

律法にはこう記されています。

「寡婦や孤児は全て苦しめてならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く」

弱い者を守れ、と律法は言っています。しかし、この弱く貧しい女性は、律法学者たちから見向きもされていのです。神の家・神殿で、破産しました。しかし、誰もそれに気づいていません。

わずか銅貨二枚を神殿に捧げたことで、この女性はもう食べるものも買うことが出来なくなりました。本当は律法学者が、このような弱く貧しいやもめを守らなければならないということを一番知っているはずの人たちです。その女性の周りには、誰もその苦しみに手を差し伸べる人はいませんでした。

40節で主イエスは律法学者たちは「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」とおっしゃっています。この女性の献金の姿に、そのことが現れています。

主イエスが弟子達に「あの女性を見なさい」とおっしゃったのは、「美しい信仰の姿ではないか。あの人を見習いなさい」と言いたかったのではありません。「神殿で、守られなければならない人が守られていない。律法学者たちが律法が求めていることから目を背けている。これで神殿と言えるだろうか」と、弟子達にお見せになるためです。神殿が、祈りの家としての姿を失ってしまっているその有様を弟子達に「見ておきなさい」とおっしゃったのです。

主イエスがエルサレムに入り、神殿に入られてからここまでご覧になったのは、神殿が神殿でなくなっている、という事実でした。弱い女性が神殿で破産するということが起こっている、それこそ、神殿が強盗の巣になっている、ということではないでしょうか。 Continue reading

9月5日の礼拝案内

【次週礼拝(9月5日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書12:38~44

 交読文:詩編4編

 讃美歌:讃詠546番、26番、452番、252番、頌栄543番

牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

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8月29日の説教要旨

マルコ福音書12:35~37

「ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」(12:37)

主イエスがエルサレムに入られてから、祭司長、律法学者、長老といったユダヤの指導者たちが、律法に関する難しい議論を仕掛けて来ました。ガリラヤからやってきたイエスという律法の教師がエルサレムの人たちの注目を集めていたこと、そして神殿がまるで自分の家であるかのようにふるまっていたことに危機感を覚えたのです。

しかし、この人たちは聖書に関する議論を通してナザレのイエスを言い負かすことは出来ませんでした。それどころか、主イエスがファリサイ派やサドカイ派の人たちの議論に立派にお答えになり、「心を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛する、ということが律法である」とおっしゃったのを聞いて、「先生、あなたがおっしゃっている通りです」と主イエスに聞き従う律法学者まで出て来てしまいました。

もう質問して来る人がいなくなったので、主イエスはそのまま神殿の境内で教えを語られました。群集は喜んで主イエスの言葉に耳を傾けました。

主イエスは、その群衆に向かって、質問をなさいました

「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」

「聖書を見ると、ダビデ本人がメシアに向かって『主よ』と呼びかけている。『私の子よ』、ではなく、『私の主よ』と呼びかけている。それなら、なぜメシアは『ダビデの子』」なのか、という質問です。

律法学者だけでなく、この時代の人々は皆、「あのダビデ王のようなメシアが来る、メシアはダビデの再来である」と信じていました。聖書にそう預言されていたからです。

例えば、エゼキエル書にこういう預言があります。

「私は彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。・・・私は彼らと平和の契約を結ぶ」。

このように、いろんな預言書の中に、「メシアが来る、再びダビデが来る」、という預言が残されていたのです。

そのことから、人々はやがて来るとされているメシアのことを、「ダビデの子」という称号で呼ぶようになり、メシアはダビデの再来として、自分たちを救いだしてくれる、と期待していました。

「なぜ律法学者たちは、メシアをダビデの子と呼んでいるのか」

この質問は、群衆にとって面食らうものだったと思います。

「律法学者がそう呼んでいるのだから、メシアはダビデの子なのだろう、ダビデの再来なのだろう」、人々はそう理解していたのではないでしょうか。しかし、主イエスはあえてそのことを人々に考えさせようとなさいました。当時の人たちにとって当然だったことを、根本から問い直されたのです。

主イエスは、エルサレムへの旅を始める際に、弟子達にも質問されています。

「人々は私のことを何者だと言っているか」

弟子達は、「皆、あなたのことを預言者だと言っています」と答えました。主イエスはさらに弟子達に問われます。「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」

ペトロは弟子達を代表して答えた。「あなたは、メシアです」。

主イエスは、ここで同じことを人々に問いかけていらっしゃいます。

「律法学者を始めとして、あなたがたはメシアのことをダビデの子と呼んでいる。

あなたがたが期待しているダビデの子とは何者なのか。」

人々はダビデが成し遂げたことを自分たちの時代に成し遂げてくれるだろう、と期待していました。

ダビデはサウル王の後イスラエルの指導者になり、先頭に立って戦い、エルサレムをイスラエルの首都に定め、イスラエルを国として築き上げ人です。剣をもち、敵と戦い、イスラエルを導いた英雄でした。イスラエルの人たちにとってダビデという名前は、戦争に勝つ王様のイメージでした。

主イエスの時代の人たちは、「ダビデの子」、と聞くと、ローマ帝国を打ち破る英雄を思い浮かべたでしょう。主イエスの時代、人々はそのように、自分たちの先頭に立って軍を率い、外国の支配からイスラエルを救ってくれる指導者であるメシアを待っていたのです。

その人々の期待に対して、主イエスは、「あなたたちが考えているダビデの子は、本当にそのような、戦争を指導する救い主なのだろうか」と問われるのです。

人々は、「このイエスという人こそ、ダビデの子ではないか」という期待を抱いていました。エリコの町で、バルティマイという目の見えない人が、主イエスに向かって「ダビデの子」と叫び、その信仰に応えて主イエスがその人の目を癒されたのを見ました。

エルサレムに入る際には、ガリラヤからの群衆が主イエスを前後から「我らの父ダビデの鍛えるべき国に、祝福があるように。いと高き所にホサナ」と叫びました。

「この方こそダビデの子なのではないか」という強い期待をもって、群衆はこの方のおっしゃることに耳を傾けていたのだ。

確かに、主イエスはダビデの子、メシアでした。聖書はそのことを証ししているし、私達もこの方のことを、メシア、つまりキリストであると信じています。

しかし、大切なことは、「それでは主イエスはどのようなダビデの子・キリストなのか」、ということなのです。人々が期待していたように、軍馬に乗って軍隊を指揮し、敵を倒すメシア・ダビデなのでしょうか。

主イエスのお姿は、むしろ、逆でした。馬ではなく、子ロバにのってエルサレムに入られました。強く、威厳のある王としてではなく、柔和で謙遜で平和な王としてエルサレムに入って来られました。そもそも、主イエスは弟子達に、「私はエルサレムで殺されることになっている」とおっしゃっています。主イエスの使命は、人々を戦争へと駆り立て、その先頭に立つ、ということではなかったのです。

主イエスの弟子達への問い、また群衆への問いは、今、聖書を読んでいる私達への問いかけです。私達は、自分勝手な期待を、自分に都合のいい期待を主イエスに対して持っていないでしょうか。

「あなたがたは私にどのような救いを期待しているのか」と問われています。

もしイエス・キリストが、自分が欲しいもの・自分に都合のいいものをくださる救い主であれば、信じることは簡単でしょう。信じたらすぐにいいことがたくさん起こって、自分の人生に問題が何もなくなる、というのであれば、誰でもキリストをすぐに信じるでしょう。

しかし、イエス・キリストを信じて従う・信じて従い続ける、ということは、そんなに簡単なことではありません。キリストに従う、ということは、ご利益がたくさんもらえる、ということではないのです。「私に従う者は自分の十字架を背負って私に従いなさい」と主はおっしゃいました。キリストに従うということは、キリストの十字架の御業に加わる、ということなのです。

私達は本当に主イエスがもたらしてくださった救いを正しく見据えることが出来ているでしょうか。そもそも聖書には、ダビデの子について、どのように預言されているでしょうか。

エゼキエル書34章で、神はこうおっしゃっている。

「見よ、私は自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊が散り散りになっている時に、その群れを探すように。私は自分の羊を探す。」 Continue reading

8月29日の礼拝案内

【次週礼拝(8月29日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書12:35~37

 交読文:詩編4編

 讃美歌:讃詠546番、25番、197番、344番、頌栄542番

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください