ヨハネ福音書2:13~22
「弟子達は、『あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」(2:17)
カナで最初のしるしを行われたイエス・キリストは、ご自分の家族と弟子達と一緒にカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在されました。その後、過越祭が近づいたので、弟子達と一緒にエルサレムへと上って行かれました。
主イエスがエルサレムに上り、神殿でなさったことは、境内にいた生贄の動物を売る人たちや両替商の人たちを追い出す、ということでした。神の家であり、全ての人の祈りの家であるはずのエルサレム神殿の境内で、商人たちの商売が行われていたのです。
キリストがここまで大暴れしてお怒りになることなど他にないので、読む者にとっては印象に残る場面でしょう。この事件は、どの福音書にも記されているので、よほど人々の記憶に残っていたのでしょう。キリストによる「宮清め」と呼ばれています。
どの福音書にも記録されているキリストの宮清めですが、ヨハネ福音書だけは、他の福音書とは随分違った描き方をしています。マタイ、マルコ、ルカの福音書は、この事件を、イエス・キリストの公の生涯の最後に起こったこととして記録しています。しかしヨハネ福音書は、この出来事を、キリストの公の生涯のはじめで、「最初のしるし」を行われたすぐ後に描いているのです。
ヨハネ福音書は、私たちに何を伝えようとして、この宮清めの出来事を描いているのでしょうか。
主イエスはカナの婚礼の席で、水を葡萄酒に変えられました。そのしるしは、旧約の預言者たちが伝えて来たメシアの宴が現実のものとなったというしるしであり、救いの到来、新しい時代の到来のしるしであった、ということを前にお話ししました。
そのすぐ後に書かれているこの宮清めの出来事も、預言の実現なのです。
旧約の預言者、ゼカリヤは、こんな預言の言葉を残している。
「主は地上を全て治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられその御名は唯一の御名となる・・・その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」ゼカ14:21
ゼカリヤは、「主の神殿に商人がいなくなる」日の到来を預言しました。ゼカリヤが言う「その日」とは、「主の日」です。「主の日」とは、神が世に来られる時のことです。
主イエスが追い出されたことで、神殿の境内から商人がいなくなりました。ゼカリヤが到来を預言した「主の日・神が世に来られた日」に、神殿から商人がいなくなる、という預言が実現したのです。
神殿から商人たちを追い出されたイエス・キリストこそ、世に来られた神でした。神がご自分の家に来て、清められたのです。
ゼカリヤだけではない。
他にも、この時のキリストのお姿を預言していた預言者がいます。マラキです。
「あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる・・・彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に捧げものを正しく捧げる者となるためである。その時、ユダとエルサレムの捧げものは遠い昔の日々・・・そうであったように主にとって好ましいものとなる。」(マラキ書3:1~4)
なぜこの出来事が「宮清め」と呼ばれているのでしょうか。金属を精錬する火のように、神ご自身が神殿を清められたのです。捧げものを、正しく捧げる神の家とするためです。
主イエスの宮清めはゼカリヤやマラキの預言の実現でした。私たちは、水を葡萄酒に変え、神殿から商人たちを追い出されたキリストに、神の秩序の回復を見ます。神が世に来られ、祝福の葡萄酒で満たし、信仰を磨き上げてくださる時が来たのです。
キリストは祈りの家を清めてくださいます。では、今の私たちにとっての祈りの家とは、神殿とはどこにあるのでしょうか。
弟子達は、後にイエス・キリストが復活なさったのを見て、「三日で建て直す」とキリストがおっしゃったのは、石でできた建造物としての神殿ではなく、御自分の体のことであったということを理解しました。
イエス・キリストは神殿から商人を追い出して、神の家を清められました。そしてそれは、「目は見えない」新しい神殿の到来をも意味していました。ここから神殿が刷新されていくことになります。その神殿こそ、イエス・キリストご自身だった、というのです。
しかし、キリストが神殿から商人たちを追い出された時には、誰もそのことがわかりませんでした。それが分かったのは、キリストの十字架と復活の後でした。
キリストが復活なさった後、弟子達はなぜキリストが神殿であれだけお怒りになり暴れたのかも理解しました。
17節 「弟子達は、『あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。」
弟子達は神殿でお怒りになったキリストを、「あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす」という言葉と共に思い出しました。これは詩編69:10の言葉です。
詩編69編は、信仰者の受難をうたった詩です。詩編の元の言葉は、このような言葉です。
「あなたの神殿に対する熱情が私を食い尽くしているので、あなたを嘲る者の嘲りが私の上に降りかかっています。私が断食して泣けば、そうするからと言って嘲られ、粗布を衣とすれば、それも私への嘲りの歌になります」
神を愛するが故の信仰の苦しみを謳い上げた詩です。後に弟子達がなぜこの詩編の言葉と共にキリストの宮清めを思い出したか・・・彼らはキリストの十字架を見たからです。
神殿への愛・熱情がキリストの身を焦がすほどでした。その神への愛を貫くために、あの方は十字架に上げられたということを、弟子達は詩編の言葉と共にキリストの宮清めの姿を思い出したのです。
キリストが神殿であれほど乱暴なふるまいをなさったのは、神殿に対する熱意、神の家に対する愛ゆえのことでした。そしてその神への愛によって、キリストは十字架に上げられてしまったのです。
キリストの弟子達をはじめ、代々のキリスト者たちは、信仰ゆえの痛みを担って来ました。神を愛し続けるには、忍耐がいります。神を愛そうとする者を傷つけようとする力があるからです。
後に弟子達が思い出した詩編69編は、確かに信仰ゆえの痛みを歌っています。
「恵みと慈しみの主よ、私に応えてください。憐み深い主よ、御顔を私に向けてください」
「私が受けている嘲りと、恥を、屈辱を、あなたはよくご存じです。私を苦しめる者は、全て御前にいます」
しかし、信仰の痛みの先にある慰めも歌い上げています。
「神の御名を讃美して私は歌い、御名を告白して、神を崇めます。・・・貧しい人よ、これを見て喜び祝え。神を求める人々には健やかな命が与えられますように。主は乏しい人々に耳を傾けてくださいます。主の民の囚われ人らを決しておろそかにはされないでしょう」 Continue reading