MIYAKEJIMA CHURCH

1月28日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:13~22

「弟子達は、『あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」(2:17)

カナで最初のしるしを行われたイエス・キリストは、ご自分の家族と弟子達と一緒にカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在されました。その後、過越祭が近づいたので、弟子達と一緒にエルサレムへと上って行かれました。

主イエスがエルサレムに上り、神殿でなさったことは、境内にいた生贄の動物を売る人たちや両替商の人たちを追い出す、ということでした。神の家であり、全ての人の祈りの家であるはずのエルサレム神殿の境内で、商人たちの商売が行われていたのです。

キリストがここまで大暴れしてお怒りになることなど他にないので、読む者にとっては印象に残る場面でしょう。この事件は、どの福音書にも記されているので、よほど人々の記憶に残っていたのでしょう。キリストによる「宮清め」と呼ばれています。

どの福音書にも記録されているキリストの宮清めですが、ヨハネ福音書だけは、他の福音書とは随分違った描き方をしています。マタイ、マルコ、ルカの福音書は、この事件を、イエス・キリストの公の生涯の最後に起こったこととして記録しています。しかしヨハネ福音書は、この出来事を、キリストの公の生涯のはじめで、「最初のしるし」を行われたすぐ後に描いているのです。

ヨハネ福音書は、私たちに何を伝えようとして、この宮清めの出来事を描いているのでしょうか。

主イエスはカナの婚礼の席で、水を葡萄酒に変えられました。そのしるしは、旧約の預言者たちが伝えて来たメシアの宴が現実のものとなったというしるしであり、救いの到来、新しい時代の到来のしるしであった、ということを前にお話ししました。

そのすぐ後に書かれているこの宮清めの出来事も、預言の実現なのです。

旧約の預言者、ゼカリヤは、こんな預言の言葉を残している。

「主は地上を全て治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられその御名は唯一の御名となる・・・その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」ゼカ14:21

ゼカリヤは、「主の神殿に商人がいなくなる」日の到来を預言しました。ゼカリヤが言う「その日」とは、「主の日」です。「主の日」とは、神が世に来られる時のことです。

主イエスが追い出されたことで、神殿の境内から商人がいなくなりました。ゼカリヤが到来を預言した「主の日・神が世に来られた日」に、神殿から商人がいなくなる、という預言が実現したのです。

神殿から商人たちを追い出されたイエス・キリストこそ、世に来られた神でした。神がご自分の家に来て、清められたのです。

ゼカリヤだけではない。

他にも、この時のキリストのお姿を預言していた預言者がいます。マラキです。

「あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる・・・彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に捧げものを正しく捧げる者となるためである。その時、ユダとエルサレムの捧げものは遠い昔の日々・・・そうであったように主にとって好ましいものとなる。」(マラキ書3:1~4)

なぜこの出来事が「宮清め」と呼ばれているのでしょうか。金属を精錬する火のように、神ご自身が神殿を清められたのです。捧げものを、正しく捧げる神の家とするためです。

主イエスの宮清めはゼカリヤやマラキの預言の実現でした。私たちは、水を葡萄酒に変え、神殿から商人たちを追い出されたキリストに、神の秩序の回復を見ます。神が世に来られ、祝福の葡萄酒で満たし、信仰を磨き上げてくださる時が来たのです。

キリストは祈りの家を清めてくださいます。では、今の私たちにとっての祈りの家とは、神殿とはどこにあるのでしょうか。

弟子達は、後にイエス・キリストが復活なさったのを見て、「三日で建て直す」とキリストがおっしゃったのは、石でできた建造物としての神殿ではなく、御自分の体のことであったということを理解しました。

イエス・キリストは神殿から商人を追い出して、神の家を清められました。そしてそれは、「目は見えない」新しい神殿の到来をも意味していました。ここから神殿が刷新されていくことになります。その神殿こそ、イエス・キリストご自身だった、というのです。

しかし、キリストが神殿から商人たちを追い出された時には、誰もそのことがわかりませんでした。それが分かったのは、キリストの十字架と復活の後でした。

キリストが復活なさった後、弟子達はなぜキリストが神殿であれだけお怒りになり暴れたのかも理解しました。

17節 「弟子達は、『あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。」

弟子達は神殿でお怒りになったキリストを、「あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす」という言葉と共に思い出しました。これは詩編69:10の言葉です。

詩編69編は、信仰者の受難をうたった詩です。詩編の元の言葉は、このような言葉です。

「あなたの神殿に対する熱情が私を食い尽くしているので、あなたを嘲る者の嘲りが私の上に降りかかっています。私が断食して泣けば、そうするからと言って嘲られ、粗布を衣とすれば、それも私への嘲りの歌になります」

神を愛するが故の信仰の苦しみを謳い上げた詩です。後に弟子達がなぜこの詩編の言葉と共にキリストの宮清めを思い出したか・・・彼らはキリストの十字架を見たからです。

神殿への愛・熱情がキリストの身を焦がすほどでした。その神への愛を貫くために、あの方は十字架に上げられたということを、弟子達は詩編の言葉と共にキリストの宮清めの姿を思い出したのです。

キリストが神殿であれほど乱暴なふるまいをなさったのは、神殿に対する熱意、神の家に対する愛ゆえのことでした。そしてその神への愛によって、キリストは十字架に上げられてしまったのです。

キリストの弟子達をはじめ、代々のキリスト者たちは、信仰ゆえの痛みを担って来ました。神を愛し続けるには、忍耐がいります。神を愛そうとする者を傷つけようとする力があるからです。

後に弟子達が思い出した詩編69編は、確かに信仰ゆえの痛みを歌っています。

「恵みと慈しみの主よ、私に応えてください。憐み深い主よ、御顔を私に向けてください」

「私が受けている嘲りと、恥を、屈辱を、あなたはよくご存じです。私を苦しめる者は、全て御前にいます」

しかし、信仰の痛みの先にある慰めも歌い上げています。

「神の御名を讃美して私は歌い、御名を告白して、神を崇めます。・・・貧しい人よ、これを見て喜び祝え。神を求める人々には健やかな命が与えられますように。主は乏しい人々に耳を傾けてくださいます。主の民の囚われ人らを決しておろそかにはされないでしょう」 Continue reading

1月21日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:1~12

「イエスは、この最初のしるしをカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子達はイエスを信じた」(2:11)

ヨハネ福音書は、カナという小さな村で行われた婚礼の宴の舞台裏で行われた奇跡を、キリストが最初に行われた「しるし」として描いています。ヨハネ福音書で、弟子達を召し出されたキリストの公の活動として最初の事件となります。そしてこの出来事は、この後のキリストの公の活動を暗示するものでもあり、旧約の預言の実現でもあります。

キリストが六つの水がめに水をいっぱいにし、それを葡萄酒へと変えられたということの意味は何なのでしょうか。「この方にはこんなにも人間離れした力があった」ということを伝えるだけのものではないはずです。

カナの婚礼で行われた「しるし」を通して、私達は、このイエスという方が世に来られた意味を、そしてこの方がやがて十字架で流す血の意味を見せられることになるのです。先週に引き続いて、カナの婚礼の場面を見ていきたいと思います。

キリストが最初にお見せになった「しるし」は、婚礼の宴の席で、人々が飲み切ることが出来ないほど豊かな葡萄酒をおつくりになるということでした。「婚礼の席」で、「豊かな葡萄酒」が出される、というところに、この「しるし」の意味があります。「婚礼」は契約の象徴だし、「葡萄酒」は血の象徴です。私たちは、この場面に、「契約の血」がやがて与えられることを見るのです。

旧約時代の預言者たちの言葉と、カナの婚礼のしるしを照らし合わせて見ると、私たちは、メシア到来の祝福の実現を見ることが出来ます。

BC8世紀、預言者アモスは当時偶像礼拝に腐敗していた北イスラエル王国で、神の律法の言葉が守られていないことを糾弾ました。当時の北イスラエル王国では、「弱者を守れ」という神の愛の教えが守られず、貧しい人がわずかな値段で売りとばされたりしていたのです。

アモスはそのような腐敗した北イスラエル王国の滅びを預言して人々に告げました。そして滅びを預言すると同時に、その滅びの先にある神の救いの幻も伝えました。

アモスの預言書の最後の言葉はこういうものです。

「見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続き、ブドウを踏む者は、種まく者に続く。山々はブドウの汁を滴らせ、全ての丘は溶けて流れる。私は我が民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒らされた町を建て直して住み、園を造って、実りを食べる。私は彼らをその土地に植え付ける。私が与えた地から再び彼らが引き抜かれることは決してないと、あなたの神なる主は言われる。」

北イスラエル王国は弱く貧しい者たちを顧みないその罪ゆえに滅びることになる、しかしその先で、神は許しの時・再建の時を既に備えていらっしゃる、とアモスは預言したのです。

アモスは、罪の許しの時に何が起こるかを預言しました。

「丘が溶けて流れるほど豊かな葡萄酒」をもって神は祝福をくださる、というのです。。

預言者イザヤも、終わりの日に与えられる神の救いの様子を伝えています。

「万軍の主はこの山で祝宴を開き、全ての民に良い肉と古い酒を供される。・・・主はこの山で・・・死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、全ての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上からぬぐい取ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそ私達の神。私達は待ち望んでいた。この方が私達を救ってくださる。この方こそ私達が待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう」(25:6以下)

「花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」(62:6)

イザヤは、神と人が宴の中で一緒に座ることを預言しました。花婿と花嫁のように神と人が宴の中で一緒に座ることになる、そして神が人の顔から涙をぬぐってくださる時が来る、と言っています。

私達が今日読んだ、カナの婚礼のイエス・キリストこそ、アモスやイザヤの預言の実現なのです。

神の子が、婚礼の席に共に座って下さり、祝福の葡萄酒を豊かに与え、涙をぬぐってくださる時が来たのです。

アモスが預言した許しの時、イザヤが預言した神との契約の回復の時が来た、ということです。預言者たちが伝えて来た「神との新しい契約の時・祝福の時」が、このカナの婚礼で示された「しるし」の意味なのです。

婚礼の世話役は、花婿を呼んで「あなたは良い葡萄酒を今まで取っておかれました」と言いました。キリスト以前にはなかった、良いことが始まっていくことが示されています。イエス・キリストから祝福が新しく始まるのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが私たちの間に来ました。私たちはそのことを喜ぶべきなのです。

そうして見ると、カナの婚礼のしるしは、私たちにとっても大きな意味を持つのではないでしょうか。私たち一人一人にとって、イエス・キリストに出会う前と後では、生きる意味が大きく変わったはずです。自分の中から何かが無くなってしまいそうになった時、自分の知らないところで、自分の人生の舞台裏で、キリストが祝福を用意して満たしてくださったのではないでしょうか。

教会は、主日ごとに礼拝します。私達の礼拝の中心には聖餐卓があります。私たちは神と共に、キリストと共に席に着き、礼拝の中で自分と神との出会いを喜び、神との契約を喜ぶのです。

さて、私たちは今日、一つの言葉に注目したいと思います。「しるし」という言葉です。他の福音書では、「奇跡」とか「偉大な業」とかいう言葉がつかわれていますが、ヨハネ福音書はイエス・キリストが水を葡萄酒に変えられたことを「しるし」と呼んでいます。主イエスが行われたことを「しるし」と呼んでいることには、何か特別な意図があるようです。

2:11「イエスは、この最初のしるしをカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子達はイエスを信じた」

実は、このカナの婚礼と呼ばれている出来事で本当に変えられたのは弟子達でした。花婿と花嫁でもなく、婚礼の世話人たちでもなく、参列者たちでもありません。厳密に言えば、これはその婚礼の場にいた人たちが主イエスの行われた奇跡を見て驚いた、という出来事ではないのです。むしろ婚礼の表舞台では誰もキリストがなさったしるしを見ていません。これは婚礼の舞台袖で小さな奇跡を行われた主イエスに神の栄光を見て、弟子達が「信じる者」となったという出来事なのです。

弟子達は確かに、主イエスを求め、ここまで付いてくるようになりました。しかし改めて、弟子達はこの婚礼で主イエスが行われた「しるし」を見て、「信じた」と書かれています。

この「しるし」を見て、弟子達の中で何かが大きく変わったのでしょう。この「しるし」を通して、本当の意味で、「この方が神のメシアであり、この方を通して神の栄光を現われる」ということを「信じた」のです。弟子達は、「しるし」を通して「主イエスについていく者」から、「主イエスを信じる者」になった。

このことを見ると、「しるし」というのは、私たちをただ驚かせるものではなく、キリストと私たちを結び付けるものであることがわかります。聖書が私たちに示す「しるし」は、「何か信じがたい現象」「何か魔術的なもの」ではありません。神の栄光が表され、私たちをキリストへと結びつけるものということです。

主イエスはガリラヤでこのあといくつもの「しるし」を行われます。それは、人々を驚かせるものではなく、むしろ「私を本当に神の子・キリストと信じるか」と問いかけるものでもありました。

このような「しるし」は、今も私たちにも与えられています。まず、今私たちが教会でキリストを礼拝している、ということが、すでに「しるし」が与えられたということの証拠でしょう。

誰もが、教会へと足を向けるようきっかけとなった「あのこと」があり、「あの人」がいたのです。それこそ、それぞれに与えられた神からの「しるし」、と言っていいのではないでしょうか。他の人たちからすれば、奇跡には見えないかもしれません。「そんなのはあなたの思い込みだ、偶然だ」と言われるかもしれません。しかし、自分にとって必然としか思えない時に、自分とキリストにしかわからない「しるし」が見せられたから、今私たちはこの礼拝にいるのではないでしょうか。

私たちは、何となく興味を持って教会に来て、一度礼拝に加わった、というのではないのです。何よりの奇跡は、自分が礼拝の中に身を置くようになり、そして今も礼拝者として、信仰者としてあり続けている、ということではないでしょうか。楽しいことがあっても、辛いことがあっても、毎週礼拝に来て、神の言葉を聞き、祈りを捧げ、礼拝ごとに新たにされていく自分を感じるということです。

この福音書の最後の方、20:30でこう書かれています。

「このほかにも、イエスは弟子達の前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名による命を受けるためである」

キリストの弟子達は福音書に書ききれないほどのしるしを見たのです。しかしこのヨハネ福音書の中に書かれているのは、書ききれるだけのしるしです。書ききれないほどのしるしが、これまで与えられてきました。何も誇るものをもたないこの私にも、こんなにも小さな者にも、神は福音の種を大切に蒔いてくださってきたのです。

なぜイエス・キリストが十字架で殺された後も、キリストを信じる人たちが起こされたのでしょうか。なぜ直接キリストを見知っている世代の人たちがいなくなっても、キリストを信じる信仰者が次の世代にも起こされてきたのでしょうか。そしてなぜ今も、この聖書という不思議な、信じがたいことばかりが書かれている書物が求められ、読まれているのでしょうか。

ここに真理があるからでしょう。「しるし」があるからでしょう。キリストと私たちを結び付ける何かがあるからでしょう。

私たち自身、肉の目を通して、キリストのしるしを直接見たわけではないのに、なぜ教会に足を運ぶのでしょうか。今私たちがキリスト者として今ここに生きているということこそが、何よりキリストが生きて私たちを導いておられる「しるし」ではないでしょうか。

この島の中で私たちはキリスト者として生かされていることこそ、神がこの島の人たちにお与えになった招きの「しるし」なのです。

私たちにはキリストのように人の目を引き付ける奇跡を行うことは出来ません。しかし、私たちが今ここで礼拝し、祈り、讃美をささげるこの小さな信仰の業は、キリストが起こされた大きな奇跡であり、この島の中で「しるし」として確かに用いられていくのです。

1月14日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:1~12

「婦人よ、私と何の関係があるのです」

「カナの婚礼」と呼ばれている場面です。主イエスが、御自分の母マリアと弟子達と一緒に参列していた結婚式の祝いの席で、葡萄酒がなくなってしまいました。マリアからそのことを知らされた主イエスが水を葡萄酒に変えられた、という奇跡の出来事です。

小さな村でキリストが行われた、小さな奇跡・しるしです。決して大きな、華々しい奇跡ではありません。主イエスが水を葡萄酒にされた、ということを知っていたのは、婚礼の舞台裏にいたわずかな人たちでした。しかしこの小さな奇跡が、イエス・キリストの福音宣教を理解する上で重要な意味を持っているのです。

これが、キリストが行われた最初の「しるし」であった、と書かれています。ヨハネ福音書がわざわざ、「これが最初のしるしであった」と書いているということは、キリストが行われたこの小さな奇跡によって、一組の新しい夫婦、またその親族の面目が保たれた、というだけでなく、今ここで生きている私たちにとっても、大きな意味をもつ「しるし」である、ということでしょう。

カナはガリラヤ湖の北、ナザレの町から数キロのところにある小さな町です。キリストが婚礼の祝いの席でしるしを行われたということがヨハネ福音書に記録されているので、この町はキリスト教会の中で、結婚の儀式の始まりの町であるかのように言われることもあります。今でも、結婚の記念日に訪れたりする人が多いそうです。

しかし、ヨハネ福音書がこのカナの婚礼の場面で焦点を当てているのは、結婚式そのものでも、花婿・花嫁でもありません。むしろ、この時の結婚式・新郎新婦については何も触れられていません。焦点はむしろ、この婚礼の舞台裏に当てられています。「結婚とはこうあるべき」とか、「夫婦とはこういうものだ」ということに焦点があるのではないのです。

まず大切なことは、その婚礼の席にイエス・キリストが参列されていた、ということです。「言は肉となり、私たちの間に宿られた」と1章に書かれてます。「私たちの間に住まれた」という意味の言葉です。神が人間と同じ地平に住まれる、ということは信じがたいことですが、それが真実であったことを、このカナの婚礼のイエス・キリストのお姿に見ることが出来るのです。婚礼の宴という私たち人間の日々の営み、人間のささやかな喜びの生活の中に、神は共にいてくださいました。人となられた神が、人間の生活の中で御業を行われたのです。

このことは今の私たちにも言えることです。自分の目の前や真横に神がいて共に生活してくださっている、ということが何も特別なことでなく、それが私たち信仰者の日常であるということを、ここに見たいと思います。

さて、その婚礼の席でマリアは自分の息子のイエスに「葡萄酒がなくなりました」と告げました。マリアがなぜ主イエスに助けを求めたのかは何も書かれていません。新郎新婦とマリアが特に親しい関係にあったのか、マリアの親族だったのか・・・

「イエスも、その弟子達も婚礼に招かれた」と書かれてますので、自分の息子が弟子達を連れて参列したせいで、婚礼の葡萄酒がなくなってしまった、と、責任を感じていたのでしょうか。

当時の婚礼は数日続くものでした。食べ物や飲み物が途中でなくなってしまうことは、招待する側にとっては不名誉なことでした。マリアは婚礼の葡萄酒がなくなってしまったことを深刻にとらえました。彼女は主イエスに状況を伝えます。

しかし、それを聞かれた主イエスの言葉に、私たちは驚くのではないでしょうか。

「婦人よ、私とどんな関りがあるのです」

主イエスはそれほど深刻に捉えてはいらっしゃいません。むしろ母マリアを冷たく突き放すような言い方をなさっています。ここでは「私とどんな関わりがあるのです」と訳されていますが、細かく訳すと「『私とあなた』にとってどうしたというのです」という言葉になります。

主イエスにとっても、マリアにとっても、婚礼で葡萄酒が足りなくなるということは深刻な問題ではない、それは新郎新婦の問題であって、私たちには関係ないじゃないか、というような言い方です。慈愛に満ちた「優しいイエス様」とはかけ離れた反応です。

主イエスがそのようにおっしゃった理由が、その後で言われています。

「私の時はまだ来ていません」

主イエスがおっしゃる「私の時」に目を向けることこそ、婚礼の席で葡萄酒がなくなることよりも重要なことだ、ということでしょう。では主イエスがおっしゃる「私の時」とは何のことなのでしょうか。いつ、何が主イエスに起こる時のことなのでしょうか。

神の子イエス・キリストが「私の時」とおっしゃっているのだから、イエス・キリストが救い主として救いの御業を行われる時、ということでしょう。主イエスはその「時」を見据えて、今この婚礼の時を過ごしていらっしゃるのです。主イエスが見据えていらっしゃるその「時」に比べると、今起こっている婚礼の不手際など、本当は問題ではない、ということなのでしょう。

では、それは具体的に何の「時」なのでしょうか。それは、十字架の時でした。この福音書を最後まで読んでいくと、イエス・キリストは、十字架に上げられ、酸い葡萄酒をお受けになると、「成し遂げられた」とおっしゃって、息を引き取られます。キリストがキリストとして「成し遂げる」救いの時、それが、主イエスがここでおっしゃっている「私の時」です。

12章で、主イエスがエルサレムにロバに乗って入場された場面が描かれています。その時、ギリシャ人が主イエスの下に会いに来ました。ユダヤ人だけでなく、ギリシャ人、つまりユダヤの律法を知らない人たちも、イエスという方の業と教えを伝え聞いて、主イエスの救いを求めてやってきたのだ。

主イエスはその人たちをご覧になってこうおっしゃいました。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。」

主イエスは、ついに自分が一粒の麦として地に落ちる時が来たことを悟られました。自分は一粒の麦として地に落ちなければならない。実りをもたらすために、自分は落ちなければならない、ということをご存じでした。そしてその時のことを主イエスは御自分が「栄光を受ける時」とおっしゃるのです。

主イエスはご自分が逮捕される夜、弟子達の足を洗い、執り成しの祈りをささげられました。その祈りの初めで「父よ、時が来ました」とおっしゃっています。それは十字架の時であり、主イエスが栄光をお受けになる時であり、神のこの世に対する愛が頂点に達する時でした。

カナの婚礼の席で行われたキリストの奇跡は、「最初のしるし」と書かれています。この最初のしるしから、最後のしるし・十字架の死への歩みが始まるのです。この葡萄酒の奇跡から、キリストが十字架の上で口に含まれるあの葡萄酒へと歩みがつながって行くということです。

主イエスは、一度は「私にもあなたにも関係ないでしょう」と母マリアにおっしゃいましたが、すぐにこの婚礼の席の祝福が壊れないように水を葡萄酒に変えるという奇跡を行われました。

さて私たちは、カナで行われた婚礼の席でキリストが水を葡萄酒に変えられた出来事の中に何を見ればいいのでしょうか。キリストが私たちを祝福で満たしてくださる、ということです。

キリストはあの十字架で、御自分の血をもって私たちを祝福へと導いてくださいました。男女が夫婦としての契約を交わす婚礼の席で、キリストは葡萄酒をお与えになったことはとても象徴的です。この葡萄酒は、神との新しい契約の血であるイエス・キリストの血の象徴・契約の祝福の象徴なのです。

カナで行われたしるしは、ただ、「イエスという人が不思議な力を持っていることを示した」というだけのものではありませんでした。キリストの十字架という栄光の時、神の子としての受難の時への秒読みが開始されたしるしであり、神と新たに結ぶ契約の血のしるしが与えられた、ということなのです。

マリアは一度主イエスから「あなたと私に何の関係があるのですか」と言われても諦めなかった。彼女は給仕の人たちに、主イエスが何か指示を出したら従うよう伝えました。「何かを言いつけたら、その通りにしてください」と言っています。これは「彼があなた方にどんなことを言っても、してやってください」という言葉です。

主イエスは人の理解を超えた仕方で何かを示される、ということをマリアは知っていたようです。だから「どんなことを言っても言う通りにしてください」と給仕係の人たちに前もって念押ししています。

主イエスは大きな清めの石の水瓶に水をいっぱい入れるようにお命じになりました。普通なら、「なんでそんなことをするのか」と言うでしょう。それは手や足を洗うためのものです。「水瓶に水を満たすことと葡萄酒がなくなりそうなこととどう関係があるのですか」と言いたくなるのではないでしょうか。しかし、給仕していた人たちはマリアから言われていたこともあり、何も言わず、黙々とその言葉に従いました。

給仕をしていた人たちが主イエスにそう言われて何を思ったのかは書かれていません。ただ、従った、とだけ書かれています。彼らはただ水を瓶に入れるだけでなく「縁・口」までいっぱい入れました。言い返さず従っただけではなく、徹底した従いの姿勢が見られます。

ここで大切なことは、イエス・キリストの最初の「しるし」は、諦めなかったマリアと給仕係の人たちの徹底した従いを通して起こされていった、ということです。諦めずにキリストを求め、示された道に従うこと・・・その先で私たちは神の栄光を見ることになるのです。

この最初のしるしから、ご自身の十字架という神の救いの御業のしるしへの公の歩みが始まります。イエス・キリストの周りには、いつも信仰者たちの従いの姿があったことを見逃してはならないと思います。

カナの婚礼の席ではマリアが、給仕係が、キリストを求め、キリストの言葉に徹底して従った信仰の業がありました。万策尽きて、もうキリストにすがるしかない中で、信仰者たちに、自分たちの力では見出すことが出来なかった道が示されたのです。

私達は人間としての力の終わりに来た時、そして私達がただ言葉を失った時、何も出来ない時・ただ神に祈るしかない時があります。自分で何とかできればいいのです。祈りなしで何でもできれば楽です。しかし、私たちには祈るしかない時があります。

そのような時にこそ、神が私たちの日常の中に共に生きてくださっているという真理を見出すのです。婚礼のような喜びの中でも、荒野のような飢え渇きの中でも、神は私達に祝福をくださろうとしています。希望がもてない時にも・・・いや、希望が持てない時にこそ、私たちには祈るべき方が近くにいてくださるのです。

1月7日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:43~51

「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」(1:50)

アンデレとペトロをご自分の弟子として召された翌日、主イエスはエルサレムやベタニアのあるユダヤ地方から、北のガリラヤ地方へと向かわれました。その途中、フィリポという人に会い、「私に従いなさい」と御自分の弟子へと召されました。

前に、「弟子のアンドレは誰かを主イエスの下へと連れて行く人だった」、ということをお話ししましたが、このフィリポも同じです。福音書を読んでいくと、フィリポとアンドレはいつも、一緒に誰かを主イエスのもとに連れて行く役割を果たしていることがわかります。

フィリポも、アンドレも、ギリシャ名の人です。2人とも、「ユダヤ人だから」「ギリシャ人だから」というような人種や民族の分け隔てをすることなく、誰かを着やすく主イエスの下に連れて行く社交的な人だったようです。

キリストに召し出されたフィリポは、自分の友人のナタニエルに会って言いました。

「モーセが律法に記し、預言者たちも書いてある方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」

この言葉からすると、フィリポは、モーセの律法や預言書の言葉、つまり旧約聖書の言葉をよく知っていた人だったのでしょう。フィリポの友人の「ナタニエル」はヘブライの名前です。「神がお与えになった」、という意味の名前です。

ナタニエルは、「神がお与えになった」という名前でしたが、「神がお与えになった」恵みを、フィリポのように素直に見ることが出来ませんでした。

「ナザレから何か良いものが出るだろうか」

ナタニエルには、フィリポやアンドレのように、ユダヤ人・ギリシャ人に関係なく物事を見る感覚はなかったようです。

ガリラヤ地方は神の都エルサレムからはるか北にあり、外国との境に接していました。

イスラエルの中心から地理的に遠く離れた田舎でした。イザヤ書では、「異邦人のガリラヤ」という言葉で呼ばれたりしている。

なぜナタニエルがそんなことを言ったのかというと、自身がガリラヤの出身だったからです。21:2で、彼はナザレよりも北にあるカナの出身であったことが書かれています。

自分自身がガリラヤの人間であったからこそ、到来が預言されて来たメシアがガリラヤから出るはずがない、と思っていたのです。彼はガリラヤがどんな土地かよく知っていました。自分と同じ地平からメシアのような神聖な存在が出てくるはずがない、と思っていたのです。

ナタニエルの見方は、一般的なガリラヤの人が持っていたものだったでしょう。メシアがガリラヤの大工の家に生まれるなどということは考えられませんでした。エルサレムの祭司階級に生まれ、大祭司となって民衆を導くようなメシアなら理解できたかもしれません。もし神が特別なものをお与えになるのであれば、もっと特別な場所に、特別な家に生まれるだろう、と考えていたのでしょう。

この福音書は初めに、「万物をお創りになった神が、人となって世に来られた」、ということを書いています。神が我々と同じ場所に生まれ、生活されるということは確かになかなか想像がつかないでしょう。誰だった、神がその辺を歩いていらっしゃるような光景を想像できません。

当時の人たちにとって、神がガリラヤの大工の家にお生まれになったということは躓きとなりました。「あの人は大工のヨセフの子ではないか」と、そこで人々はキリストに近づくことをためらってしまうことになるのです。6:42

ナタニエルもその1人だった。

ガリラヤのナザレへの偏見をもって話しを聞こうとしないナタナエルを、フィリポは自分の言葉で説得しようとはしませんでした。彼がしたのは、「来なさい、そうすればわかる」と、主イエスご本人の下へと連れて行くことでした。

そのイエスという人がキリストであることを知るには、言葉を尽くした説明ではなく、ご本人のもとに連れて行くしかないのです。

ナタニエルはフィリポに付いて行きました。「キリストに会いたい」と思ったからではないでしょう。「ナザレからメシアが出ることはない」という自分の考えが正しいことを知るためでしょう。

しかし、ナタナエルは驚くことになります。主イエスは、初めて会ったはずのナタニエルに「あなたはイチジクの木の下にいた」とおっしゃいました。「イチジクの木の下にいた」というのは、「律法を学んでいた・聖書を読んでいた」ということです。当時の律法の教師たちは、イチジクの木の下で生徒に聖書の言葉を教えていたのです。

キリストはイチジクの木の下にいたナタナエルの姿に、「真のイスラエル人だ」とおっしゃいました。真剣に神の言葉を求めていたことを見抜かれたのです。ナタニエルは既に自分が見られ、心の内まで知られていたことを知り、疑いを捨てて信仰を告白しました。

私たちは、神が自分のことを自分以上によく知っていらっしゃることを知った時、驚きます。そして私達が神を信じる以上に、神が私達を信頼してくださっていることを知った時、自分の常識が砕かれ、信仰の道を見出すのではないでしょうか。

イエス・キリストは、マタイ福音書の山上の説教の中で、こうおっしゃっています。

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」

キリストは聖書の言葉を求めて学びを続けているナタナエルに必要なものを既にご存じでした。主イエスは「そのままイチジクの木の下で聖書の学びを続けなさい」とはおっしゃいませんでした。「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と、御自分に従う信仰の道をお与えになったのです。

ナタナエルは、自分がイチジクの木の下にいた、という、自分しか知らないことを知っていたイエスという方に信仰を告白しました。

「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」

しかしキリストはナタニエルの信仰告白に対して「まだあなたは何も見ていない」とおっしゃいました。信仰は、何か驚くべきことを見て終わりではないのです。何かを見るために歩み続けるのが信仰です。信仰の歩みの上で、信仰者は更に大きな奇跡を見ていくことになるのです。

キリストに従うということは、キリストの偉大な知識や能力、奇跡に驚いて完結することではありません。この方の後に付いて行く先で、この方が見せてくださることを見続けるということなのです。

私達はキリストに従う先で何を見せていただくのだろうか。

「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り下りするのを、あなたがたは見ることになる」1:50

「天が開け、神の天使たちが上り下りする」、という言葉で思い起こすのは、創世記28章に記されているヤコブの夢です。兄エサウを騙して怒りをかったヤコブは、家から逃げ出しました。兄から逃げる途中、ヤコブは野宿をしました。

その際、彼は夢を見ました。先端が天まで達する階段が地に向かって延びており、神のみ使いたちがそれを昇ったり下ったりする夢です。ヤコブはその夢の中で神の祝福の声を聞きます。

「見よ、私はあなたと共に居る。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」

兄を騙し、父親も欺いて、家から逃げることになったようなヤコブに、神は守りを約束されました。私達は創世記を読む際、「どうして神はヤコブのような人を追いかけて守ろうとなさるのだろうか」と不思議に思うでしょう。神の選びということは、私達にとっては不思議です。

ヤコブは眠りから覚めてこう言いました。

「まことに主がこの場所におられるのに、私は知らなかった」 Continue reading

12月31日の礼拝説教

創世記3:14~24

「アダムは女をエバと名付けた。彼女が全て命あるものの母となったからである」(3:20)

神がお創りになったエデンの園は、完全な豊かさと美しさをもっていました。人はそのエデンの園に置いていただき、自分が創り出された土に仕え、土を守り、そこから与えられる恵みを夫婦で楽しむ命が備えられました。心地よい風が吹く夕方には、一日の生活の充実感をもって神と語り合う時間をもっていたのです。

しかし、人は蛇の誘惑によって、一瞬でその平安を失ってしまうことになりました。創世記は、その悲劇を淡々と描いています。そしてその悲劇を通してイスラエルの信仰の失敗の歴史を描き出し、神から離れた偶像礼拝がもたらす悲惨な現実を突きつけるのです。

神の言葉を捨てた人間は何を失ったのでしょうか。神を中心に世界・自分見る、という視点を失ったのです。自分を世界の中心に据え、自分だけを見るようになり、神に対して恥を覚える者となってしまいました。

風が吹く夕方、自分を探しに来てくださった神に向かって「私はあなたから隠れています。裸であることを知って恐ろしくなったのです」と言う者になってしまいました。そして「自分以外のものが悪い」と他に責任を押し付ける者となり、神を中心とした大地との調和、神を中心とした夫婦の調和が崩れました。

神への不従順によって人間が何を失ってしまうのか、聖書は一番初めに楽園で人間が犯した失敗を描き、警告を発しているのです。

まず私達は今日読んだ場面で、神が蛇、女、人にそれぞれなんとおっしゃったのかを見たいと思います。

女が「自分は蛇に騙された」と言ったので、神はまず蛇を裁かれました。蛇に対して、蛇が呪われるものとなり、生涯這いまわり、塵を食らうことになる、とおっしゃいます。そしてこれまで普通に語り合っていた蛇と人は互いを忌み嫌い、殺しあうことになると言われました。

次に神は女に対して言葉をお与えになります。女は蛇のように呪われはしませんでした。しかし、三つの辛い現実が示されます。出産の痛み、夫を求めなければならない生活、男による支配です。

そして最後に神は男に向かって言葉を発せられました。男自身は蛇のように呪いは受けてはいません。しかし、「男のゆえに、土が呪われるものとなった」とおっしゃっています。

神の言葉に背いた人間の罪によって、大地が呪われることになったというのです。

エデンの園ではありあまる豊かさを大地から得ていた人間でした。しかし神から離れたせいで、自分が土に返る時まで汗を流し、苦労しても楽園でそうだったように豊かな実りがもたらされることはない、と宣言されます。

土から造られ、土に仕える存在であったアダムは、神から離れることで土との調和を失いました。それどころか、アダムは、土の上で苦しむことになったのです。園の中で与えられた豊かな木の実はなくなり、大地に仕えて園を守るという調和が崩れ、風を感じながら夕方神と語らう至福の時間はもうなくなってしまいました。これから一生男は呪われた土の上で労苦し、そして死ぬという定めとなったのです。

神が夫婦におっしゃった言葉を見ると、この世に生きる辛さが凝縮されていないでしょうか。

私たちがこの創世記を読む際に気を付けなければならないのは、字面を読んでそのまま自分の生活に持ち込んではならない、ということです。

神がここでそうおっしゃったから、「女は男に支配されるべきものである」とか、「外で働くのは男の役割であり、土の上で苦しむのは男だから仕方ない」とか、いうことではないのです。聖書がここで描いているのは、神に背き楽園を失った「あるべきでない」人間の姿なのです。

私たちが聖書を読む際に一番気をつけなければならないのは、その言葉、その物語が書かれた時代背景を踏まえる、ということです。どのような時代に書かれ、その時代の人たちはこの物語に何を見出したのかを踏まえて読まなければ、「男はこうあるべきだ、女はこうあるべきだ」、というような、安っぽい理解になってしまいます。

創世記の物語は、この創世記が記されたその時代のイスラエルが置かれた現実と、なぜイスラエルがそのような苦しみに陥ったのか、ということを描き出しているのです。

この不思議な物語は、紀元前のイスラエルの人たちにとって単なる娯楽ではありませんでした。神が人をエデンの園の外へと出され、人は出産の痛みを感じつつも生きるために土の上でもがき、しまいに死ぬ者とされた・・・イスラエルはこの物語の中に信仰の教訓を見出していました。

創世記が書かれたのは、イスラエルがバビロン捕囚を体験した時代です。BC6世紀、イスラエルの民は聖なる都エルサレムを失い、異教の国バビロンへと連行され、偶像の信仰に囲まれる苦しみの生活を体験しました。

神の言葉に背いてエデンの園から追放されたアダムとエバに、自分たちの姿を重ねて見たでしょう。神の言葉に背を向け、祝福を失った男と女の悲惨は、当時のイスラエルの人たちの現実そのものだったのです。

何百年も預言者たちが偶像礼拝をやめるよう神の言葉を伝えたにも関わらず、イスラエルはやめませんでした。遂に、バビロンの軍隊によってエルサレムに裁きがもたらされました。エルサレムは破壊され、人々はバビロンへと連行されて行きました。異教の地バビロンで、偶像礼拝の誘惑に囲まれた中での生活を余儀なくされたのです。

バビロンでの捕囚生活の中で、家が途絶えないように女性は子を産むことが求められ、家父長制度の中で男に支配されていました。男は炎天下、土の上で来る日も来る日も働かねばならず、その日一日を生き延びるのに精いっぱいでした。

そういう人たちが、この創世記を読んだのです。その時代のイスラエルの人たちにとって、ただ確かだったのは、苦しみの先で死ぬ、ということだけでした。神から離れ、「死ぬ者となった」という厳しい現実が創世記に記されています。

それこそが、バビロン捕囚の中で生きる意味を見失いかけていたイスラエルの人々の現実だったのです。国を失い、ただその日一日を生き延びることが、生きる全てとなっていた無味乾燥な時代に創世記は記されました。エルサレムを失った人たちは、楽園を失った夫婦に自分たちの姿を重ね、信仰の失敗の教訓としたのです。

そのようにして聖書を読むと、神がくださった祝福の生活を自ら捨ててしまったイスラエルの姿が透けて見えてきます。聖書は、ある意味、イスラエルの嘆きの書です。「なぜ自分たちは滅んでしまったのか。自分たちはどこで道を踏み外してしまったのか。自分たちをそそのかす蛇の声とは一体何だったのか。」

女が男に支配されながらも男を求めなければならないような苦しみ、男が必死で汗を流して働いても報いが少ない苦しみ・・・そのような苦しみが一体どこから来ているのか・・・。

驚くべきことに、創世記は神を責めていません。この世に生きる苦しみを神のせいにしていないのです。神はもともとは祝福の世界をお創りになったのに、人間が自らその楽園を捨ててしまった、その愚かさを描いている。「この愚かさを繰り返してはいけない」、という信仰の教訓として創世記は書かれました。

創世記は私たちにただ生きる絶望を伝えているのでしょうか。最後にこのことを考えたいと思います。

創世記が示しているのは、罪の絶望だけなのでしょうか。「あなたには今もこの先も、希望を持つことはできない」ということなのでしょうか。

22節に神の心の言葉が書かれています。

「人は善悪を知る者となった。」

これは以前にお話ししたように、「支配者になろうとする存在となった」ということです。

そして神は一つのことを憂いていらっしゃいます。

「今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となる恐れがある」

人は支配者になろうとする心を持ってしまった、自分中心の生き方を知ってしまった・・・そのような人間が、それぞれが「自分こそ世界の中心である」と思うようになったらどうなるか・・・。

人間同士で殺し合い、自然をも支配しようとして大地を痛めつけることになります。今この世界にある環境破壊の問題も、一番の大元は創造主を見失っている、という人間の罪に原因があるのです。

そのような人間が「命の木を知ってはいけない」、と神は思われました。だから人はエデンの園から追放されたのです。永遠の命に相応しくないと思われたからです。 Continue reading

12月24にちの礼拝説教

マタイ福音書1:18~24

「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」

およそ2000年前に、ベツレヘムでイエスという名前の男の子が生まれました。このことが、世界を一変させました。紀元前・紀元後、という風に歴史が二つに分けられる程、イエス・キリスの誕生は世界にとって特別な意味を持つものでした。

この方がお生まれになったことの意味、そしてこの方が十字架で死なれたことの意味を、1世紀のキリスト者たちは信仰の証言集として福音書にまとめあげ、後世に伝えました。

このイエスという方は、「永遠なる神の子」であり、「初めから神と共にいらっしゃった方」であり、「この方を通して万物が造られた方」だったと、ヨハネ福音書は冒頭で証言しています。

マタイ福音書とルカ福音書では、この方のことを神でありながら聖霊を通してマリアという女性の胎に宿り、ヨセフの家の下にお生まれになったということを証言しています。

天使はヨセフとマリアそれぞれにキリスト誕生の告知をしました。マタイ福音書には、ヨセフへの告知が、ルカ福音書にはマリアへの告知が書かれています。クリスマスにお話しされるヨセフやマリアの物語は、神秘的であり、胸が温かくなるような出来事として語られることが多いのではないでしょうか。しかし、聖書に証言されている天使のお告げは、ヨセフとマリアにとって非常に厳しい信仰の試練でした。

ヨセフにキリストの誕生が告げられたのは、自分のいいなずけのマリアが身ごもっていることを知った後でした。ヨセフはマリアが自分に対して不誠実なことをした、と結論付けました。当然でしょう。ヨセフに身に覚えがないとすれば、マリアがヨセフ以外の誰かと関係したとして考えられません。ヨセフはどれほど傷つき失望したでしょうか。ユダヤの慣習では、婚約は法的に結婚と同等にみなされていました。二人はもう既に周りの人たちから夫婦として見られていたのです。

ヨセフはマリアも同じように痛い目に合うべきだ、とか仕返しをしてやろうという気にはなりませんでした。早く離縁すれば、マリアは独身に戻った後に、誰かの子を身ごもったように見えます。少なくとも、「婚約者を裏切った」汚名を着ることはありません。ヨセフはマリアと縁を切る決心をしました。少しでもマリアの汚名を少なくするよう、守ろうとしたのです。

天使がヨセフにマリアの子は聖霊によって宿ったことを告げたのは、まさにその決心の後でした。天使がはじめから「これからマリアは聖霊によって男の子を身ごもることになるから、心配しないように」と告げたのであれば、ヨセフがこれほど苦しむことはなかったでしょう。

しかしこれが神がヨセフのためにお選びになった時だった。まるでマリアが身ごもっていることを知ったヨセフがどのような決断を下すのかを神はご覧になっていたようです。天使は、マリアに対するヨセフの思いを見定めた上で、改めてこのことが神の御業によるものであることを告げました。

神がお選びになる「時」は、いつでも人間にとっては唐突です。「神の声が聴きたい、御心が今知りたい」、と願う時にすぐに答えが与えられるわけではありません。じっと耐えるしかない時を過ごさなければならないこともあります。そのような中で私達がどんな姿勢でいるのか、神から見られている時があります。

神は我々人間が自分で予期していない時に思いもよらない道を不思議な仕方で示されます。神の御業が現れる時、いつでも人は戸惑います。「なぜ今なのか、なぜそのような仕方なのか。私はそんなことを予想もしていなかった」・・・そのように、神の御心を求めていながらも、人は神から道を示された時、戸惑うのです。

神はいつも私たちをご覧になっている、ということでしょう。その上で、私たちに本当に良いものと良い時を選ぼうとなさっているのです。神がどのような道を示してくださるのか、それをいつ示してくださるのか・・・その神の決断をどう受け入れるか、というところに私たちの信仰が現れます。

ヨセフとマリアの夫婦は、それぞれが天使の言葉を聞きました。一緒に聞いたのではありません。別の場所で、全く別の時にそれぞれ聞きました。

ルカ福音書ではマリアは、天使のお告げを聞いた時、「御心がこの身に成りますように」と言ったと書かれています。マタイ福音書では、マリアのことで苦しんだヨセフでしたが、天使の言葉を夢で聞き、眠りから覚めると「妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった」と書かれています。

ヨセフもマリアも、お互いへの信頼を損ねることなく、神への信頼をもって自分たちの結婚に進んだのです。キリストの受胎告知は、この夫婦二人にとって試練でした。これから、世間からどのような目で見られることになるのかを知った上で、二人は神に託された幼子を守り育てる道を選び取りました。

キリストの誕生は、その歴史の中で大きな喜びの出来事として私たちは祝っています。その喜びの出来事の元には、ヨセフとマリアという年若い夫婦の大きな信仰の決断があったことを覚えたいと思います。

2人は結婚する前に身ごもっていることが分かり、それでも結婚しました。その後、家畜小屋の中で出産し、ユダヤの王ヘロデに命を狙われることになります。幼子を守るために過酷な旅を続け、エジプトまで逃げることになりました。危険が迫り、不安の中歩き続けなくてはならなかった、それでもこの夫婦は幼子を守るために神の言葉に従い続けることになります。

天使はヨセフに、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と告げました。「イエス」は、ユダヤ人の間ではごく普通の名前です。「主は救い」、という意味の名前です。

「主は救い」、という意味のイエスという名前が、この方が誰であるか、何をするためにお生まれになったのかが示しています。

ユダヤ人は当時多くの人が、救い主を求めていました。彼らはローマの支配から解放してくれる救い主を待っていました。ダビデやソロモンが打ち立てた強い時代のイスラエル王国を復興してくれる強いリーダーを求めていました。自分たちが生きている間安全と豊かさをもたらしてくれる救い主を求めていたのです。

ヨハネ6章にこういう出来事が記録されています。

キリストが5つのパンと二匹の魚を5000人の人たちに分け与えていき、人々は満腹しました。すると人々は「まさにこの人こそ、世に来られる預言者だ」と言って、主イエスを王にするために連れて行こうとします。主イエスは人々が自分を担ぎ上げようとしていることを知って、一人で山に退かれました。

それでも人々が主イエスを探しにやってきた時、主はこうおっしゃいました。「あなたがたが私を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」

人々がメシアに求めていた救いと、実際にメシアがお与えになろうとしていた救いは、違っていのです。天使がヨセフに告げたのは、「その子は自分の民を罪からの救い出す」メシアでした。

ダビデやソロモンのように、剣をもって軍隊を率いてイスラエルに昔の栄光をもたらす救い主ではありませんでした。自分のおなかをいっぱいにしてくれて、自分たちに豊かさと、ローマ帝国の支配からの解放をもたらしてくれる救い主ではなかったのです。イエス・キリストは罪からの解放をもたらす救い主、つまり神を見失った民を神の元へと連れ戻してくれる羊飼いとしての救い主でした。

「インマヌエル」という言葉を天使は告げています。これは、紀元前8世紀、預言者イザヤが告げた言葉です。。

「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」イザ7:14

BC8世紀、イザヤはユダ王国の王アハズにこの言葉を告げました。その時、アハズ王は恐れおののいていました。北イスラエルと、シリアが同盟を組んで自分の国に攻めて来ることを知って、「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」と書かれています。

そこで、イザヤは神からアハズの下に遣わされ、伝えました。

「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない・・・心を弱くしてはならない」

預言者は王に向かって、「静かに神に頼りなさい」、と、神が敵から守ってくださることを告げたのです。しかし、王は聞きませんでした。アハズは信じなかったのです。「神に頼るだけで国を守れるのか」と考えたのです。

神を頼ろうとしない王に向かって、イザヤは告げました。

「見よ、乙女が身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」

インマヌエル、「神我らと共にあり」という名で呼ばれる方の誕生をイザヤは預言しました。

「神が共に居てくださる」ということを信じられないことほど、辛いことはありません。一国の王となって民の頂点に立ったとしてもインマヌエルを信じられなければ不幸なのです。

「神が我々と共にいてくださる」ということを教えてくれる救い主の誕生が預言されました。人にとって、「神が共にいてくださる」ということが救いなのです。強い人や強い国に頼ることではありません。 Continue reading

12月17日の礼拝説教

創世記3:1~13

「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り・・・」(3:7)

エデンの園で土に仕え土を守る生き方を与えられた夫婦は、蛇の誘惑に負けてしまいました。神から「食べると死んでしまう。食べてはならない」と命じられていた木の実を、二人はあっけなく食べてしまったのです。

夫婦で相談することなく、神の言葉を思い出して互いに戒めあうことなく、二人は順番に実を食べました。本当はこのような時にこそ、神の言葉のうちに留まるよう夫婦で励ましあうことが求められていたはずなのに、です。

この場面を読むと、誰もが「なぜ二人はこんなにも簡単に誘惑に負けてしまったのか」と思うのではないでしょうか。私たちは、ここに人間のもろさを見ます。

イエス・キリストは十字架に上げられる直前、弟子達に「あなたたちは私を見捨てるだろう」とおっしゃいました。弟子達は言い返します。「あなたを見捨てることなど決してありません」。

しかし主イエスがゲツセマネの園で、「心は燃えていても、肉体は弱い」とおっしゃった通り、「死ぬことになってもあなたを知らないなどと言いません」と言った弟子達は、わずか数時間の内にキリストを見捨てて散り散りに逃げて去りました。

人が心の中でどんなに強く「自分は神の言葉から離れない」と思っていたとしても、誘惑の言葉を聞いて崩れるのは一瞬なのです。だからこそ創世記はこの夫婦の罪の姿を通して私たちに警告しているのです。

「自分は大丈夫だ、自分だけは大丈夫だ」と思っている人ほど、実は脆かったりします。自分の弱さを知り、自分の弱さを恐れている人の方が、慎重に神の言葉を吟味するのではないでしょうか。

私たちは今日、木の実を食べた夫婦と同じ弱さ・キリストを見捨てた弟子達と同じ弱さを持つ者として、聖書の言葉に向き合いたいと思います。

2:17で神は人におっしゃいました。

「あなたは園のどの木からも実を取って食べてよいが、善悪を知る木、これから実を取って食べてはならない。これから取って食べる日、あなたはかならずや死ぬであろう」

神がおっしゃった「これから取って食べる日」・・・その日が本当に来てしまいました。

この「善悪を知る木の実」は、「人がわきまえておかねばならない一線・侵してはならない領域」の象徴として描かれているのでしょう。人には神の平和の支配の内側に留まるために、超えてはならない一線があります。それは一体何か、そしてその一線を越えてしまうとその先に何があるのか、ということをこの物語は私たちに考えさせているのです。

聖書の物語は字面だけを追ってもよくわからないので、少し聖書で使われている表現を丁寧に見ていきたいと思います。

聖書は蛇のことを「賢い」ものだった、と書いています。蛇の賢さは破滅をもたらす賢さでした。「賢い」という言葉は、旧約聖書が書かれたヘブライ語では、「裸」という言葉と語呂があいます。更に、「賢い」「裸」という言葉は「呪い」という言葉と語呂があうのです。

蛇は、その賢さを用いて人が裸であることを教え、そのことで、神から呪いを受けることになります。創世記は、「賢い」「裸」「呪い」という三つの言葉をセットにして描き出しているのです。

誤った賢さによって自分が裸であることを知り、呪いの内に破滅する・・・神のような支配者になれる、と錯覚した人間の姿を我々は決して他人事として終わらせることができないでしょう。

それでは、聖書が言っている「善悪を知る」とはどういうことなのでしょうか。「善悪の知識」と聞いて私たちが思い浮かべる「道徳的な生き方をするための善悪の分別」のようなものとは全く違うようです。神は、「その実を食べると死ぬ」とおっしゃいました。その木の実は人が知るべきでない知識、人を死に導く知識をもたらすものでした。

蛇は、人にこう言っている。

「それを食べる日、あなたがたの目が開いて、あなた方が神のように善悪を知るようになる、と神は知っていらっしゃるのだ」

蛇は、ただ「善悪を知るようになる」ではなく、「神のように」という言葉を付けています。「神のように善悪を知るようになる」

「君たちが神のようになることを、神は恐れているのだ」というような言い方です。

「善と悪を知る」、という表現が、サムエル記で使われているところがあります。ある女性がダビデに訴えます。

「主君である王様は、神のみ使いのように善と悪を聞き分けられます。」サム下14:17

旧約聖書では、「善と悪を聞き分ける・善と悪を知る」という表現は、王として民を支配することを意味しました。つまり、「善悪を知る」というのは、「道徳的な人間になる」ということではなく、「王様になる・支配者になる」ということなのです。

蛇の誘惑はそれでした。

「その木の実を食べると神のように善悪を知ることが出来る」と言ったのは、「木の実を食べると神のようにこの世を支配することができるようになるのだ」ということだったのです。「もう神の支配の下に生きることはない、君たちは、自分が世界の支配者になれるのだ、神と同列になれるのだ」、と言って、木の実を示しました。その言葉が決め手になり、二人は実を食べてしまいます。

7節を見ると、2人が実を食べると、「二人の目が開けた」とあります。今まで見えなかったものが見えるようになった、知らなかったことを知った、ということです。2人は木の実を食べて何を知ったのでしょうか。「自分たちが裸であること」でした。

では「自分が裸であることを知る」ということは、どういうことなのでしょうか。それがなぜ「死んでしまう」ことに結びつくのでしょうか。聖書独特の表現が続きます。

ある人は、「ここで言われている『裸であることを知る』というのは、『人が自分に目を向け始めた』ということではないか」と言います。確かに、それまでは神に目を向け、心を向けていたのが、自分を・自分だけを見るようになっています。

「自分が裸である」ことを知って、人はどう変わったのでしょうか。人の中で中心が変わったのです。世界の中心が変わったのです。神を中心に見えていた景色が、自分を中心に据えて世界を見始めました。

そして面白いことに、人は「自分を恥じるようになった」と書かれています。実を食べる前、人はエデンの園で神との交わりを楽しみ、満ち足りた命を生きていました。しかしそれが自分だけを見るようになったとたんに、自分の恥が見え始め、もとは一つの存在であった夫婦でありながら互いに自分を隠し始めたのです。

神から離れた人間が自分だけを見るようになり、自分の恥だけが見え始めた・・・このことには、深い教訓が隠されているのではないでしょうか。

「人が1人でいるのはよくない」と思われた神は人に夫婦という単位をお与えになりました。存在を共有する「夫婦と」いう「二人で一つの肉」として生きるようにされました。神の支配の下、御心に沿って生きるよう励ましあい、その恵みを分かち合うはずの夫婦でした。

しかし木の実を食べた後はどうなったでしょうか。実を食べたその日の夕方、神から声をかけられるまで、この夫婦は二人で会話をしなかったようです。神から離れた男と女は、互いに恥を感じ、互いから隠れ、神から隠れました。

8節を見ると、エデンの園に心地よい風が吹く頃、神が人に会いに来られたことが書かれています。神と人は毎日この夕方の心地よい時間、語り合っていたようです。しかしいつもの時間に、いつもの場所に人はいませんでした。 Continue reading

12月10日の礼拝説教

創世記3:1~13

「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ』」

聖書の初めに記されているこの創造物語は、天地が創造され、人が楽園に住むようになって理想郷ができて終わり、という話ではありませんでした。神が言葉をもって天地の秩序を創造され、人が楽園に生きるようになってからすぐに、人が神から与えられた楽園から追放されてしまう、という悲劇が起こるのです。

天地創造も、楽園からの追放も、私たちにとっては昔話でもなくおとぎ話でもありません。聖書は、私たち一人一人が今置かれている現実を生々しく描き出し、警告を発しています。「ここに、あなたの姿がある。あなたはこの楽園の登場人物なのだ」と突きつけるのです。

聖書は、ここに書かれている出来事を他人事として私たちが読むことを許しません。私たちの目を何度も、この世界の根源にあるもの・我々人間の根源にあるものへと向けさせます。そのことを踏まえなければ、私達がイエス・キリストの言葉を聞いても、キリストの御業を見ても、本当にはわからないのです。

なぜキリストは「私は真のブドウの木、私につながっていなさい」とおっしゃったのでしょうか。

なぜキリストは「私は良い羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃったのでしょうか。

キリストは私達をどこへと連れ戻そうとしてくださったのか。

なぜキリストは十字架で殺されるために、この世に生まれてくださったのか。

全ては、人が神の言葉を捨てて罪の誘惑に身を委ねた、ここから始まっているのです。ここから人間をご自分の下に取り戻そうとなさる神の招きの御業が始まるのです。その神の招き・救いの御業の歴史を記したのが、聖書です。

私たちは創世記を読んで「太古の昔に、アダムとエバが罪を犯した」という風に、他人事のような言い方をしてしまいます。しかしそうではないのです。天地創造を読むたびに、楽園からの追放を読むたびに、私たちは今自分が置かれている現実を見せられることになるのです。

今日私たちは創世記3章の初めを読みました。天地と生き物の創造が1章2章と描かれてきて、3章に入って、聖書で初めての会話が記録されています。

聖書に出てくる初めての会話は、神と人間の会話ではありませんでした。神と人間が言葉を交わす前に、誘惑がやって来ました。

神と人間が初めて互いに言葉を交わすのは、蛇の言葉を聞いた男と女が善悪の知識の木の実を食べてしまった後です。神は楽園の中で、人に呼びかけられます。

「どこにいるのか。」

それに対して人の答えは「あなたを恐れて隠れております」というものでした。

「あなたはどこにいるのか」 「私はあなたから隠れている」

これが神と人間との間に交わされた最初の会話の内容です。いなくなった人間を追い求めていらっしゃる神と、神から隠れようとする人間の会話です。楽園で交わされた会話とは思えない内容です。

豊かに実を結ぶ木が茂り、その間を美しい川が流れる園で神と人が語りあう、という光景であれば、まさに楽園・パラダイスと呼べたでしょう。しかし、蛇の誘惑の声を聞き、自分が神のようになろうとした人間は、神との間に何か大切なものを失ってしまいました。蛇と女の間に交わされたのは、誘惑する者と、誘惑される者との会話でした。

人間に忍び寄ってくる誘惑の声がどれほど狡猾なのか、そして誘惑にさらされる人間がどれほど弱いのか・・・創世記が私たちに見せようとしているのは、まさにこのことなのです。

救いとは何でしょうか。神から離れていた者がもう一度神の恵みの支配に戻ることです。神の元へと連れ戻すために迎えに来てくださった方を、私たちは「救い主」と呼んでいます。「救い主・キリスト」という言葉の意味を知るためにも、私達は今日特に、蛇の誘惑の言葉をよく見つめたいと思います。

「主なる神が造られた野の生き物の内で、最も賢いのは蛇であった」とあります。蛇は、人を神から引き離そうとする力、罪の象徴としてここに登場します。その「賢さ」は人を誤った方向に導こうとする賢さであり、神がいらっしゃるのとは反対の方向に行きたくさせる「賢さ」でした。

蛇は女に言いました。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」

蛇が女に直接質問しているような言葉です。しかし、元のヘブライ語では蛇が独り言をつぶやいたような言い方をしています。

「そうか、神はどの木からも食べてはいけないなどとおっしゃったのか・・・」

わざと人に聞こえる所で独り言をぼそっとつぶやいたような言い方です。その言葉が聞こえた女は、蛇の誤解を訂正します。

「食べてはいけないと言われている木は一本だけです。食べると死んでしまうと言われています」

何も知らないかのようにふるまっていた蛇は、今度は何でも知っているかのように振舞います。「その木を食べても死にはません。食べると神のようになれるのです」

蛇がしたことは、それだけだった。誘惑の恐ろしいところは、それが誘惑だと分からないことです。蛇の賢さは、一度も「その実を食べてごらんなさい」と言っていないことです。

「そうですか、神はあの木の実を食べてはいけないなどとおっしゃったのですか。神はあなたが賢くなることを、強くなることを怖がっているのですね」・・・こうつぶやいただけなのです。

蛇の言葉を聞いた後、女がその木を見ると「いかにも美味しそうで、目を引き付け、賢くなれるようにそそのかしていた」と6節に書かれています。蛇の誘惑の言葉を聞くまでは、その木の実を「美味しそう」とは思わなかったはずです。「食べると死んでしまう」と神から言われている「おそろしいもの」だったはずです。しかし、蛇の言葉を聞くと、その木の実が、突然美味しそうに見え始めた、というのです。

蛇ではなく、今度はその木の実そのものが女をそそのかすようになりました。女は、蛇に無理矢理食べさせられたのではありません。蛇の言葉を聞いて、自分の意志で手を伸ばし、実を食べ、それを一緒にいた男に渡したのです。

どうでしょうか。私たちは、この蛇の言葉は自分には無縁だと言えるでしょうか。木の実を食べてしまう女と男は、自分よりも弱い、と言えるでしょうか。

使徒パウロが、手紙の中でこんなことを書いています。

「サタンでさえ光の天使を装うのです」

確かにそうでしょう。サタンがサタンの姿でやってきたら、誰だって警戒します。女にとって、この時の蛇は光の天使に見えていたかもしれません。「知らないのであれば、教えてあげましょう」という思いやりに満ちた親切な姿で近寄ってきています。 Continue reading

12月3日の礼拝説教

創世記2:15~25

「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(2:15)

創世記では、天地が造られた後、大地・土から人が造られる様子が2章で描かれています。5節を見ると、人が土から形作られる前には天地は雨もなく木も草もはえておらず、耕す人もいない「荒野」のような世界であったことがわかります。人が造られてから、その「荒野」に潤いが与えられていきました。神が人間のためにこの世界の秩序を整えていかれたということを聖書は私たちに教えてくれています。

15節「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」

「エデンの園」と聞くと、美しい木が生えており、清らかな川が流れ、人が何もしなくても悩んだり焦ったりすることなく生きていくことができる園を思い浮かべるのではないでしょうか。

しかし、神は何もしなくてもいい場所としてエデンの園を用意されたのではありませんでした。人は「土を耕し、守ること」を神はお定めになったのです。人は楽園で座っていればいい、ということではありませんでした。15節の「耕す」という単語は「仕える」という意味に近い言葉です。土から形作られた人は、土に仕え、土を守ることが使命とされたのです。「仕える」とは、自分を低くして相手に自分を差し出すということです。我々人間が仕える相手は土なのです。私たちが今、足をつけて生きている大地なのです。

神は人を土からお創りになりました。つまり人は「土なる存在」です。そして9節にあるように、人をお創りになったのと同じ土から木を生えいでさせられました。人は土から造られ、そして土からもたらされる実りによって生きるものとされました。

聖書は、この創世記の初めで世界の根源、人間の根源を教えてくれている、ということを以前お話ししました。私達はこの創世記の物語から、私達人間の根源的な使命を、「生きる」ということの大元を学ぶことができます。

聖書が私たちに伝えている内容は決してむつかしいことではありません。難しいことではありませんが、私たちがすぐに忘れてしまうことです。人はすぐに、自分が生きる上での根源を忘れてしまうのです。

人は土から造られました。土は、人間の命の根源です。そして、人は命を終えると土に返ります。私たちはそのことを知っているでしょう。しかし、私たちはそのことをすぐに忘れるのです。

命の根源を忘れ、人間こそが大地の支配者であり世界は自分のために存在していると思い上がった時に、人間は互いに血を流し、自然を簡単に破壊する道に踏み込んでしまいます。私たちは、土・大地を支配しているように思っていますが、逆なのです。土から自分が生きるためのものを勝ち取っているのではありません。大地・自然に仕えることで、神からの恵みをいただき、生かされているのです。人はこの世界・大地に生きるためには自然に対する畏怖の念、そしてこの世界をお創りになった神から生きる糧が来るということを忘れてはならないのです。

創世記は、人が土の上で生きるための姿勢を教えてくれています。鳥のさえずりを聞きながら、何にもしないで木の実を食べるような生活が求められているのではありません。人が土に仕え、土から生きる糧が与えられるという神の秩序を通して、私たちの心は創造主へと向かうのです。そこから、命の源である神への讃美が、祈りが、礼拝が生まれてくるのです。

使徒パウロはこう書いています。る。

ロマ11:36「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」

全ては神から出て、神に帰る・・・創世記の初め、つまり聖書が最初に私たちに教えているのは、この循環なのです。

さて、このエデンの園の物語の中で、神は一つ不思議なことをなさっています。園の中央に命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられ、「善悪の知識の木からは食べてはいけない。食べると必ず死んでしまう」とおっしゃいました。

神は、人間のためにご用意なさった園の中に、一つの制限をお与えになったのです。なぜ神は、食べると死んでしまうような危険な木を園の中央に置かれたのでしょうか。また、どうして、「善悪の知識」が、人間の死に結びついてしまうのでしょうか。

私達には不思議に思えることです。今まで、このことについていろんな議論がされ、理由が考えられてきました。恐らく、神が善悪の知識の木を園の中に置かれたのは、人間の有限性が示された、ということではないか、と言われています。

人は神の似姿として造られたと書かれています。「似ている」ということは、「神ではない」、ということでもあります。人には超えてはならない一線があるのです。そういうことではないでしょうか。

「善悪の知識」と聞くと、普通はいいことだと思うのではないでしょうか。善悪の分別がつくこと、道徳心を持っている、ということであれば、いいことではないか、と思うのです。しかし、聖書が伝えている「善悪の知識」は、人を死に追いやる知識として言われています。人が知るべきでない知識、人を死に誘う知識のようです。

使徒パウロが、こんなことを書いています。

「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。・・・あなたがたは、罪の奴隷であった時・・・どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行きつくところは、死にほかならない」ロマ6章15節以下

パウロは、二本の道の岐路があることを伝えています。神の支配の内に生きて永遠の命に至るか、罪の支配に生きて死に至るか、という岐路です。それを踏まえると「善悪の知識」とは、罪の知識・神から離れる道を教える知識のことである、ということがわかります。

創世記は、私達が今立たされている岐路を、この物語を通して教えているのです。命に至る道と、死に至る道の分かれ目・・・神に向かう道と、神から離れる道の分かれ目です。

聖書が言っている「死」とは何でしょうか。創世記やパウロが伝えている「死」というのは、単なる「肉体の死」ではありません。実際、人が善悪の知識の実を食べても死にませんでした。神がここで「必ず死んでしまう」とおっしゃっているのには、何か別の意味があるのです。

律法や預言書を見ると、「こういうことをした者は死なねばならない」という表現が出てきます。これは、死刑の宣告の言葉ではありません。祭司が、礼拝に相応しくない人に対して言っていた表現です。例えば、偶像礼拝をする人や、隣人の妻を犯したり、弱い者を苦しめている人は、礼拝に相応しくないとされ、命の領域である礼拝に加わることが許されませんでした。

「あなたは命の領域である礼拝に参加することが許されない」ということを、祭司は「あなたは死なねばならばない」という表現で伝えていたのです。

そのことを踏まえると、神が「善悪の木の実を食べると死ぬ」と人におっしゃったのは、「その木の実を食べると礼拝に相応しくない悪を知ってしまう」という意味だったのでしょう。

人は、信仰の道と不信仰の道、神と共に生きる道と神から離れる道、という二本の道の岐路に立たされています。そしてそれが、私たちが今置かれている現実であるということを創世記は警告しているのです。私達を礼拝から遠ざけようとする知識は、今も私達の周りに溢れているのではないでしょうか。

私達は考えたいと思います。楽園とは何でしょうか。神との交わりがあるところが、楽園です。インマヌエル、ということです。創造主を知り、自分たちを生かしている大地に海に、創造主から与えられている恵みとして、信仰をもって仕える生活・・・そこに楽園はあります。

預言者たちは、礼拝こそ命の領域であることを伝えて、真の神への立ち返りと訴え続けました。私たちは今、この礼拝の中へと自らの足で向かって来ました。礼拝こそ命の領域だからです。

神を求める人が集まっているここに、楽園があります。命があります。ただ気が合うから、仲良しだから集まっているのではありません。本当に恐れるべき方を知り、命を与え生かしてくださる方に讃美と祈りを捧げ、自分が行く道を示していただくために、ここにいるのです。そしてそこで信仰の友に出会うのです。

それが、救い主イエス・キリストがおっしゃった、「神の国は近づいた・神の支配が来た」という福音です。私たちは神の恵みの支配へとキリストに導き入れられたのです。

大切なことは、聖書を通して私たちの本当の支配者を知ることです。自分こそが自分の、そして大地の支配者であると信じ込む知識の実ほど恐ろしいものはありません。私たちはそのような知識・思いによって、神から離れ、自ら滅びへと向かっていくことになるのです。

さて神は、園の中に生きる人をご覧になって、「人が独りでいるのはよくない」、と思われました。十分な食べ物、美しい環境があってもそれだけでは人にとって十分であると思われませんでした。人は独りで生きるべき存在ではない、ということが描かれています。

人は土から造られ、1人で生きてやがて土に返るだけの空しい存在ではいのです。言葉を交わし、互いに生きる意味を与えあい、教えあう存在「助け手」を、神は必要と思われました。

神は獣や鳥を人のところへ持ってこられ、人はそれに名前を付け、同じ世界に住むものとしましたが、獣も鳥も本当の「助け手」とはなりませんでした。動物と仲良くなっても、神がお考えになるような、存在を共有するような本当の助け手とはなりませんでした。

神は人の「外」ではなく人の「内」に助け手をお求めになりました。人のあばら骨の一部を抜き取り、女を作り上げられます。人はそれを見て、「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉」と言いました。

これも不思議な物語です。一体何を伝えようとしている物語なのでしょうか。男と女という二つの性別が出来た、ということでは終わっていません。男と女という性の区別がありながら、同時に、男と女が一体となる、という夫婦の形が語られているのです。 Continue reading

11月19日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:35~43

「『来なさい、そうすればわかる』」(1:39)

洗礼者ヨハネは、「荒野で叫ぶ声」として、人々に歩むべき道を示し続けて来ました。彼が指し示していたのは、世にいらっしゃる神の言・救い主イエス・キリストと共に歩む「道」でした。ヨハネの使命は、キリストという「道を」を指し示すことでした。彼は主イエスのお姿を見るたびに、「見よ、神の子羊だ」と人々に行っています。

洗礼者ヨハネには弟子達がいました。エルサレムの都でから離れた荒野で、洗礼者ヨハネの下で厳しい信仰生活を送っていた人たちがいました。ヨハネは、その人たちを自分の弟子として受け入れてはいましたが、その人たちに「ずっと私の下に留まって、私の教えに従って過ごしなさい」とは言っていませんでした。

ヨハネは、「荒野で叫ぶ声」として、自分の弟子達にも、「私ではなく、私の後から来られる偉大な方に従いなさい。私が指さす方を見なさい。その先に、あなた方が本当に求め従うべき方がいらっしゃる」と、言い続けて来たのでしょう。

ヨハネの弟子達は、自分たちの先生が常々「私は荒野で叫ぶ声である」と言うのを聞きながら、「いつ、先生が言っているメシアは来るのだろうか、いつ、自分が本当に従うべき方が現れるのだろうか」と、荒野でメシアの到来を待っていたのです。

荒野にいるヨハネこそメシアではないか、という期待を持ってエルサレムから送られて来た人たちに、「私はメシアではない」とヨハネははっきり答えました。皮肉にも、その人たちがエルサレムに帰って行った翌日、ヨハネは自分のもとに歩いて来たイエスという人を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と言いました。

弟子達はついにヨハネが「見よ、あの方だ」と言うのを聞きました。ヨハネはその翌日にも、自分から洗礼を受け歩いているイエスという人を見つめて、「見よ、神の子羊だ」と言いました。

その際、二人の弟子達がヨハネと一緒にいました。ヨハネが「見よ、神の子羊だ」と言ったということは、その二人にとっては「私から離れて、あの方に従いなさい」と言われたのと同じことでした。

「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」とあります。

私達はここに、ここに信仰の共同体である教会の芽生えを見ることができます。普通、教会はペンテコステの日に聖霊が上から注がれて出来た、と言われることが多いでしょう。ペンテコステの聖霊はキリストを信じて祈り従う小さな信仰の群れの上に注がれました。ではその小さな群れは、どこから始まったか。イエス・キリストに従い始めたこの二人の小さな従いから始まっていったのです。

二人はイエスに近づきました。初めはただ、おそるおそる、イエスという方がどこに泊まっているのか、ということを知ろうとしただけです。そこから「従う」という信仰の生き方に変わっていくことになります。

37~38節には、二度、「従う」という言葉がつかわれています。二人の弟子は主イエスに「従い」、そして主イエスは二人が「従ってくるのを見て」声をかけられました。「従い」ということは、福音書において、いや、聖書全体において、一番大きなテーマです。

私達はそれぞれ、どのように主イエスに従うようになったでしょうか。初めはこの二人のように、恐る恐る近づいて行ったのではないでしょうか。「自分が本当に従うべきものは何か、自分を委ねることのできる真理は何か」、ということを考えているところに、この二人にとってのヨハネのように、キリストを指さす誰かがいたり、何かのきっかけがあって、少しずつ近づいて行ったのではないでしょうか。

友人だったかもしれない、家族だったかもしれない、本やテレビやラジオだったかもしれない・・・キリストを指し示す誰か・何かがあったでしょう。そして示された方を見て、本当にその方が自分の道となる方であるかどうかを知ろうとしたでしょう。

キリストはご自分のもとに近づいて来た二人に、逆に問いかけていらっしゃいます。。

「何を求めているのか」

これが、この福音書で発せられた最初のキリストの言葉です。

「何を求めているのか」

私達は福音書全体を通してこのことを問われることになります。

ヨハネ福音書の最後で、一度はキリストを知らないと言ったペトロが、復活のキリストから問われます。

「あなたは私を愛しているか」

これこそ信仰者が一生涯を通してキリストから、神から問われ続けることではないでしょうか。

「あなたは私を求めるか。あなたは私を愛しているか」

「何を求めているのか」というキリストの一言は、改めて私達が心の奥底で求めている救いを思い起こさせます。私達はキリストに何を求めているのでしょうか。実は、私達は「何か」を求めている。そして「誰か」を探し求めているのです。

私たちがキリストに求めているのは、キリスト教の知識ではありません。知識としてのキリストではなく、キリストご本人です。幼子がただ親を求めるように、私達はキリストを求めるのです。キリストに求められることを求め、そしてキリストと共に生きることを求めています。一言で言うと、「インマヌエルのぬくもり」ではないでしょうか。

キリストは、「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねる二人に、「来なさい、そうすればわかる」とおっしゃいました。「私は誰それの家に滞在している」という答え方ではありません。二人の本当の興味は、キリストの宿泊場所ではありませんでした。本当にこの方が、自分の一生をかけて従うだけの方なのかどうかを見極めてたかったのでしょう。

2人は主イエスと一日共に時間を過ごし、この方こそキリストであると知りました。全ては、イエス・キリストの後に付いて行く、従うところから始まるのです。そしてその従いの中で、全てが示されていくのです。

キリストの後ろを歩む中で、私達は「何を求め、どこに向かえばいいのか」が示されていくことになります。キリストはご自身に従うところから始まる道へと招かれるのです。

ヨハネ福音書を読んでいると、私達は何度も同じ問いを投げられることになります。

「何を求めているのか」

そして私達は同じ招きを与えらます。

「来なさい。そうすればわかる」

ヨハネの二人の弟子たちは、世に来られたイエス・キリストに出会いました。それは、二人にとって、「荒野に道が通された」、ということでした。この世の中に示された、天のみ国・永遠の命へと至る道です。

創世記で、神が人間を探される場面があります。アダムとエバが蛇の誘惑によって食べてはならない実を食べ、楽園の木の間に隠れ、神から身を隠してしまいました。神は、人をお求めになります。

「どこにいるのか」

これこそ私たちが置かれている現実です。

神は今でも「あなたはどこにいるのか」と探し求めてくださっています。神が私達を求めて「どこにいるのか」とおっしゃるその声こそ、イエス・キリストなのです。神の招きの言葉は、私達と同じ人となって世に来てくださいました。 Continue reading