MIYAKEJIMA CHURCH

6月4日の礼拝案内

次週 礼拝(6月4日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄20:36~21:17

 交読文:詩編17:6~12

讃美歌:讃詠546番、16番、242番、285番、頌栄539番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

【牧師予定】

◇5月30日(火) 赤羽会館にて 東京教区総会

◇6月13日(火) 富士見町教会にて

 伊豆諸島伝道委員会・三宅島伝道所支援委員会

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:Continue reading

5月28日ペンテコステ礼拝説教

使徒言行禄20:17~35

「今、神とその恵みの言葉とにあなたがたを委ねます。この言葉は、あなたがたを作り上げ、聖なるものとされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることが出来るのです」(20:32)

使徒言行録は、文字通りキリストの使徒たちの言葉と行いを記録したものです。しかし、はじめから丁寧に読んでいくと、その使徒たちを導いた聖霊の働きの記録である、ということがわかります。

使徒たち召し出し、最初の教会を作り、今の私達まで導いてきた聖霊の働きに思いを向け、私達キリスト教会がもっている本当の「強さ」とは何か、私達の強さは何に根差しているのか、ということを捉えて行きたいと思います。

パウロの、最後の旅の様子を私達は見ています。聖霊はパウロに、これからエルサレムに行き、その後ローマに行く、という道を示していました。神のご計画を信じてエルサレムに向かう途中で、パウロたちを乗せた船はミレトスの港に停泊しました。その時間を使って、パウロはエフェソ教会の長老たちを呼び寄せて最後の別れをします。

パウロは自分がこれまでどのようにイエス・キリストに仕えて来たか・聖霊に導かれてきたか、ということを語り、その生き証人であるキリスト者として自分と同じようにキリストへの信仰に留まるよう励ましました。

パウロは、次に何が起こるのかを知らないままに、それでも聖霊の導きを信頼して「神の道・主の道」を歩いてきました。これまで苦難、投獄、嘲笑、暴力がありました。それでもパウロは、自分に与えられた様々な痛みをも、「自分に必要な神から与えられた試練」として、「神のご計画の実現のために必要な試練」として向き合って来たのです。試練のたびに、神はパウロのために新しい道を切り開いてくださってきたのです。

その自分の信仰の体験を踏まえた上で、パウロは、エフェソ教会の長老たちに言っています。

22節 「今、私は、霊にうながされてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるのか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきりと告げてくださっています。」

聖霊は、パウロを、困難の無い道へと恵みをもって導いて下さる、というのではありませんでした。「困難と投獄」が待ち受けている道へと導こうとしていたというのです。

パウロは以前から、教会の人たちに伝えて来ました。

14:22 「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」

そもそも、神がパウロを召された時、パウロの行く道についてこうおっしゃっっています。

9:15 「私の名のために、どんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう」

パウロは「キリストを信じれば辛いことがなくなる、楽に生きられる」などというご利益を伝えません。「罪びとのために苦しんでくださったキリストに倣い、神の元へと立ち返ること」を教えるのです。

パウロは、自分の役割を、後に手紙の中でこう書いています。

フィリピ3:13「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」

パウロは信仰の歩みの先に、「賞・ご褒美」があることを言っています。信仰の試練・苦難の先に、神が私たちのために用意してくださっている何かがあるのです。だから、パウロは自分が苦難の中にありつつ、「皆一緒に私に倣う者になりなさい」と手紙に書くのです。「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです・・・しかし、私たちの本国は天にあります」

パウロはエフェソ教会の長老たちに別れを告げ、もう二度と会うことはないことを知っていました。彼はここで、少し突き放したような言い方をしています。

26節「今日はっきり言います。誰の血についても、私には責任がありません。私は、神のご計画を全て、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです」

自分のやるべきことは全てやったのだから、あとはあなたたちの責任だ、という言い方で、少し冷たく感じます。

パウロは自分の手紙の中でもこう書いている。

ロマ15:19「私は、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」

今のイスラエルからバルカン半島までの範囲を巡り、福音を全て語り尽くした、と断言しています。

パウロが「福音を語り尽くした」と言っているのは、自分が大きな群れを作った、ということではありません。パウロが関わって来た諸教会は、家の教会で、今のように何百人もいるような規模のものではありませんでした。たかだか数十人です。ある群れは数人でした。誰かの家に集まって、肩を寄せ合って福音を聴き、キリストに従っていた人たちです。

パウロが神から与えられた責任は、大きな教会を作ることができたかどうか、ではなく、示された場所で語るべき言葉を全て語ったかどうか、ということでした。イエス・キリストの十字架と復活を語り尽くしたかということだったのです。

これこそ、神が預言者にお求めになったことでした。旧約の預言者エゼキエルに神はこうおっしゃっています。

3:18 「もしあなたが悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。しかし、あなたが悪人に警告したのに、悪人が自分の悪と悪の道から立ち返らなかった場合には、彼は自分の罪ゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」 Continue reading