1月15日の礼拝説教

使徒言行禄16:11~15

「安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。」(16:13

パウロたちは、不思議な仕方で聖霊に導かれ、アジア大陸の西の端、トロアスという港町まで来ました。そこでパウロたちは、幻を見せられます。一人のマケドニア人が、「海を渡ってここまで来て私たちを助けてください」とパウロに訴える幻でした。パウロ、シラス、テモテの三人は、「神が私たちを召されているのだ」という確信を得てトロアスから船に乗り、ヨーロッパ大陸へと渡って行きました。

16:11を見ると、「私たちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした」とあります。「パウロたちは」ではなく「私たちは」と聖書は書いているのです。

この書き方に関してはいろいろと議論はありますが、おそらく聖書は、今ここを読んでいる私たち読者を、このパウロたちの福音宣教の旅の中に身を置くように招いているのでしょう。この「私たち」という言葉の中に、文字通り、今ここにいる私たちも含まれているのです。

私たちは、使徒言行禄に記録されているキリストの使徒たちの福音宣教を、客観的に、他人事のように眺めることは許されません。ここに記録されているキリストの使徒たちの福音宣教を、まさに「私たちの」福音宣教として見るように我々は招かれているのです。

ヨーロッパ大陸へと渡り、福音を告げる使徒たちと共に旅を続けていきましょう。

パウロたちは、ヨーロッパに渡り、まずフィリピという町に入りました。聖書には、「マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピ」と書かれています。この町は、「植民都市」でした。ローマ軍がそこに居て、ローマ帝国の一員であるという意識を植え付けようとしていた町でした。

パウロたちはこれまで、ユダヤ人が住んでいて礼拝共同体を形成している町々に入り、ユダヤ人の礼拝堂に入って聖書の言葉を解き明かしてきたが、ここはエルサレムから遠く、海峡を越えたヨーロッパ大陸にあってユダヤ人ほとんどすんでいなかったのでしょう。どうやらフィリピにはユダヤ人の礼拝堂はなかったようです。フィリピでは、聖書を知っている人たちに福音を語る、ということはできませんでした。

聖書には、パウロたちはフィリピの町に着いて、「数日間滞在した」とあります。数日間、どうすればいいのか考えていたのでしょう。宣教のきっかけをつかめなかったようだ。

パウロたちは、「安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った」とあります。「フィリピの町の中に祈りの場所がなさそうだ。次の町に行こう」、と言ってあきらめたのではありませんでした。

町の中になければ、町の外に行って、祈りの場所があると思われるところを探したのです。そして町の外の川岸に女性たちが祈りを中心に集まっているのを見て、彼女たちにキリストの話をしました。

私たちは、フィリピの「町の外」でキリストの使徒と祈りの群れが出会った、ということに注目したいと思います。神を求める心を持ち寄る人たちは、「町の外」に行ってまで祈りを共にしていたのだ。キリストの福音を知らせたいと思う使徒たちは、「町の外」にまで祈りの群を探しに行ったのだ。

どの町にも、祈りを求める群れがいます。どんなに聖書を知っている人が少なく、街中に建物を建てることすらできないほど人数が少なくても、祈る心・神を求める心を持つ人はいるのです。

街中がダメなら、外で礼拝しようという礼拝者たち。

町の中に礼拝者がいなければ、町の外にまで探しに行く使徒たち。

たとえそこが植民都市で、ローマ帝国への同化政策がとられているような中にあっても、神の真理を求める人々の心を奪い去ることはできません。

ここを読めばわかるように、パウロたちが見た女性たちの集まりは、とても礼拝とは言えないようなものでした。川岸に集まっていた、というだけです。建物もない、聖書もない、ただ神を求め祈るだけの小さな群れでした。

ここに集まっていた女性たちはおそらく一度も聖書を自分で読んだことがなかったでしょう。文字を読むこともできなかったのではないでしょうか。それでも祈る心を持ち寄って神を求めて川岸に集まり、共に祈っていたのです。

神がヨーロッパ大陸で使徒たちにまずご準備なさったのは、このような小さな祈りの群れとの出会いでした。このことは、私たちにとって大きな意味を持っているのではないでしょうか。

消え入りそうな群れであっても、神は福音をお聞かせになるのです。キリストが弟子達にお話しなさった種まきのたとえ話のように、種を蒔く人は、石だらけの土地でもいばらの土地でも丁寧に種を蒔くのです。

このリディアたちの祈りの姿の中に、私たちは自分たちの姿を重ねて見ることが出来るでしょう。私たちは確かに小さい、島の教会です。しかし神の言葉との出会いは、間違いなくここにあります。私たちの上にキリストは種を蒔いてくださっています。聖書がいう「私たち」の中に、ここにいる私たちも含まれているのです。希望をもっていいでしょう。

さて、この群の中に、リディアという女性がいました。「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという人」と書かれています。

この一文からわかるのは、リディアはティアティラというところからの移住者であった、ということ、独立して商売をする職業婦人であった、ということ、そして、そのような働き方をするということは夫を失った未亡人である、ということです。

布を扱っていたということなので、リディアの仕事場は川岸にあったのでしょう。夫はおらず、よそから来た移住者で、町の外の川岸にいた・・・このようにして見ると、この人はフィリピでは町の片隅、社会の端っこで生きていた人でした。フィリピにいた、神に祈る人たちは、おそらくリディアが自分の仕事場に集まって、祈っていたのでしょう。

この時川岸に集まって祈りを共にしていた女性たちは、皆、リディアのような境遇にあった人たちだったのではないでしょうか。移住者とか、未亡人とか、祈る時には町の外にまで来なければならないような人たちではなかったでしょうか。

そのような、生きる厳しさの中にあっても、彼女たちは祈ることをやめませんでした。

いや、生きる厳しさの中にあったからこそ、彼女たちは祈ることをやめなかったのでしょう。

神は、その祈りの群れに、福音を携えた使徒を送られたのです。祈る群れに聖霊を注いで教会をお創りになったように、神は、祈る群れに宣教者をおつかわしになりました。

「主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた」とあります。神が、リディアの心をお開きになり、リディアの心の中へとご自分の言葉をお与えになったのです。神は彼女の祈りにお応えになりました。

彼女は家族と一緒に洗礼を受け、パウロたちを強引に家に招待しました。もっとイエス・キリストのことを聞かせてもらおうとしたのでしょう。

フィリピ教会は、この時川岸で祈っていた女性たち、またこのリディアから始まっていきました。たった数人の女性が核となり、やがて福音を求める人たちが集っていたところから小さな祈りの群れはフィリピ教会として成長を続けていくことになったのです。

新約聖書の中にはパウロが書いた、「フィリピの信徒への手紙」が入っています。「フィリピの信徒への手紙」を読むと、その後のフィリピ教会の様子が見えてきます。

パウロがフィリピの町を去った後、牢に捉えられることがあったようです。パウロはその牢屋の中でフィリピの信徒たちに向けて手紙を書きました。

牢獄で書いた手紙なので悲壮感に溢れているかというと、そうではありません。獄中書簡でありながら、「喜びの手紙」と呼ばれています。パウロが、牢屋の中にいながら、フィリピ教会の人たちと喜びを分かち合っている内容の手紙なのです。

パウロとフィリピのキリスト者たちが共有していた喜びとは何だったのでしょうか。それは、「イエス・キリストのために、自分は自分の十字架を背負うことが出来ている」ということでした。

パウロはこう書いている。

「あなた方には、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、私の戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」

パウロは、「キリストのために苦しむ恵み」ということを言っています。そして、フィリピ教会の人たちが「キリストのために苦しむ」ことを「恵み」として受け入れていることを喜んでいるのです。 Continue reading

1月15日の礼拝案内

次週礼拝(1月15日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 使徒言行禄16:11~15

 交読文:詩編14編

 讃美歌:讃詠546番、82番、252番、288番、頌栄541番

【牧師予定】

◇1月10日(火)15時より 富士見町教会にて伊豆諸島伝道委員会

1月8日(日)の午後~10日(火)不在です。

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月8日の礼拝説教

使徒言行禄16:6~10

「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテア地方を通って行った。」(16:6)

バルナバと決別し、シラスと一緒に二度目の福音宣教の旅に出発したパウロは、途中でテモテという青年を宣教の仲間に加えました。今日私たちが読んだのは、その後の宣教の旅の様子です。

今日の場面を読んで驚くのは、パウロたちが、聖霊によって何度も伝道を禁止された、ということです。自分たちが「ここに行ってイエス・キリストを宣教しよう」と進もうとするたびに、聖霊から、また主イエスの霊から止められてしまったのです。

パウロたちは、アンティオキアの教会の人たちによって送り出されました。15:40を見ると、アィオキア教会の人たちはパウロとシラスを「主の恵みに委ねて」送り出した、ということが書かれています。教会の人たちは、二人を「主の恵みにゆだねて」見送ったのです。それは、聖霊に委ねて、送り出した、ということでしょう。

アンティオキア教会の人たちは、「福音宣教に必要なものを十分持たせてパウロたちを送り出した」というのではありません。「主の恵みに委ねて」、聖霊に委ねて送り出したのです。

教会の人たちは知っていました。これからパウロたちが行く道は、自分たちの援助があってどうこうなるものではないということ、行く先々で「主の恵み」である聖霊の助けがなければ進まないものである、ということを。

だから彼らはただ「主の恵みに委ねて」祈り、パウロたちを福音宣教の旅へと送り出したのです。パウロたちにとって、最終的に頼ることが出来るのは、主の恵み、聖霊による導きでした。

それなのに、パウロたちが宣教のために行こうとする道が、聖霊によってことごとく閉ざされていったというのです。これはどういうことなのでしょうか。

私達は、今日の場面を通して、パウロたちが考えていた福音宣教の計画を超えた、神のご計画を見せられることになる。

パウロの当初の計画は、自分とバルナバが一緒に宣教した町々にもう一度戻って、どうなっているか様子を見よう、というものでした。シラスと一緒にそれらの町々に行って、エルサレム教会が決めた、「異邦人に割礼は強要されない」「偶像に捧げられた肉と血を避ける」「性的にみだらな行いを避ける」という決定を伝えるつもりでした。

パウロとシラスは、最初の旅で回ったデルベとリストラの町に行きました。しかし次にイコニオンの町に向かおうとすると、不思議なことが起こります。

6節にはこう書かれている。「彼らはアジア州でみ言葉を語ることを聖霊から禁じられた」

パウロたちは、純粋に、イエス・キリストの福音を伝えようと次の町に向かおうとしたのに、聖霊がそれを止めた、というのです。

南に向かう予定だったが、聖霊から止められたので、仕方なくパウロたちは西に向かいました。しばらく西に進んで、「南がダメなら、北に行こう」とビティニア州に入ろうとしました。すると今度は「イエスの霊がそれを許さなかった」のです。

パウロたちは戸惑ったと思います。私たちも、ここを読んで、戸惑うのではないでしょうか。「神のための福音宣教」なのに、なぜ聖霊は、イエス・キリストの霊は、それを止めるのでしょうか。

北にも南にも行くことを禁じられたパウロたちは、仕方なく西に向かって行きました。そして最後に、トロアスという港町へと導き入れられたのです。トロアスは、もちろん、パウロたちの計画には無かった町でした。

パウロたちの足取りを地図で確認すると、真っすぐ西へと導かれていることがわかります。なぜ神は、パウロたちをトロアスへと導かれたのでしょうか。

トロアスは、アジア大陸からヨーロッパ大陸へと渡るための船が出ている港町です。神は、パウロが行こうとした道とは別の道をご準備されていました。それは、ヨーロッパ大陸へと続く道だったのです。

パウロ達は、自分たちが行こうとした道が神によって何度も閉ざされたので、「自分たちが立てた計画は失敗に終わるのだろうか」と不安になったかもしれません。しかし、神は、パウロたちをまっすぐ、御自分の計画に従って導いて来られたのです。

パウロたちは、自分たちが行こうとした道を行くことはできませんでした。しかし、自分たちの思いを超えた道が示されました。海を越えて、アジア大陸からヨーロッパ大陸へと向かう道が神から示されたのです。

旧約聖書のイザヤ書55章にこういう言葉がある。

「私の思いは、あなたたちの思いと異なり、私の道はあなたたちの道と異なる、と主は言われる。天が地を高く超えているように、私の道は、あなたたちの道を、私の思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」

パウロは、結局、一回目の宣教旅行で巡った町々には行くことはできませんでした。自分たちの計画は実現しなかったのです。しかし、パウロたちの計画を超えた神のご計画が、今、パウロたちを通して実現しようとしています。

この後、パウロたちはヨーロッパ大陸へと向かうことになります。そしてヨーロッパの各地で福音宣教をした後、またアンティオキア教会に戻り、また宣教の旅に出ることになります。その三度目の宣教旅行の際に、パウロは、初めに回ろうとした町々に行くことになるのです。

このように、使徒言行禄を読んでいくと、全て神のご計画のうちに、パウロの計画も実現していった、ということがわかります。このことは、私たちにとって大きな信仰の学びとして示されています。全て人が考える道筋で実現していくのではないのです。神が備えられた道の上で、神が備えられた時に、信仰の実りが生まれていくのです。

神は、まずパウロたちにご自分の道を行かせました。そしてその先で、パウロたちの計画も実現しました。パウロ自身が考えていた計画よりも広く深い計画の中で、福音は広がっていったのです。

聖霊は、パウロたちに何度も伝道禁止命令を出しました。「その道に行くな」という聖霊の声に、パウロたちは従いました。パウロたちは、自分たちの宣教旅行の意味を何度も問い直したのではないでしょうか。「自分たちがしていることは無駄ではないか」、と不安にもなったでしょう。しかし、神は全てにおいて、時と場所を備えていらっしゃいました。

パウロ自身、後に手紙の中でこう書いています。

「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています」

イエス・キリストも、山上の説教の中でおっしゃっています。

「あなたがたの父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存じなのだ」

聖霊は、時に、私たちを遠回りとも思えるような道へと導きます。しかし、神は、御自分の畑の収穫のための最短距離を私達に行かせてくださるのです。

教会にも、礼拝の中で、祈りの中で、道が示されます。神は、私たちのために、私たちが考えるよりも大きなご計画をお持ちです。

パウロは、後にコリント教会の人たちに、手紙でこう書きました。

「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」

「教会は神の畑、神の建物なのです」

教会は神の畑であり、そこに作物を実らせるお方は神ご自身だ、と言っています。実現するのは、私たち人間を超えた、神の御心なのです。

イエス・キリストは、こんなたとえ話をなさった。 Continue reading

1月8日の礼拝案内

 次週礼拝(1月8日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 使徒言行禄16:6~10

 交読文:詩編14編

 讃美歌:讃詠546番、79番、186番、365番、頌栄541番

【報告等】

◇1月7日(土)10時より 役員会があります。

【牧師予定】

◇1月10日(火)15時より 富士見町教会にて伊豆諸島伝道委員会

1月8日(日)の午後~10日(火)不在です。

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 Continue reading

1月1日の礼拝説教

ルカ福音書1:26~38

「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(1:38)

天使ガブリエルが、ガリラヤ地方にあるナザレという町にいるマリアのところに行き、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と告げました。

26節には「六か月目に」こういうことが起こった、とあります。何から数えて六か月目にこのようなことがあったのでしょうか。

マリアに現れる六か月前、天使ガブリエルは、エルサレムの祭司であったザカリアという人に現れていたのです。ザカリアとその妻エリサベトは既に高齢でした。しかし天使はザカリアに「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」と告げたのです。

私達は今日、イエス・キリストがお生まれになった際にはどのようなことが起こったのか、そしてその出来事は、どのような歴史の流れの中で起こったのか、ということを見ていきたいと思います。

マリアの前に、まずザカリアへの天使の告知を見たいと思います。エルサレム神殿の一番奥にある至聖所で、ザカリアが祭司として香をたいていた際に天使は現れました。「子供を授かる」という天使の告知を、ザカリアはそのまま信じることが出来ませんでした。

「私は老人ですし、妻も年をとっています」と答えます。ザカリアは、天使の言葉、つまり神の言葉を信じることはできなかったために、神の言葉が実現するまで口がきけなくされてしまいました。そしてエリサベトは天使が告げた通り、男の子を身ごもったのです。

なぜザカリアは神から与えられた言葉をすぐに信じることが出来なかったのでしょうか。至聖所の中で天使に告げられた言葉を、神殿で神に仕える祭司がすぐに信じることが出来なかった、というのです。

祭司であったとしても、人間にとって自分の知識や経験にそぐわないことは、たとえ神から告げられたことでも簡単には受け入れられないのです。それだけ、人間は自分がもっている常識に縛られている、ということでしょう。

私たちはここで、ガブリエルがザカリアに告げた最初の言葉に注目します。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」。天使は「あなたの願いは聞き入れられた」と言っています。つまり、ゼカリアとエリサベトはこれまで祈り続けて来た、願い続けて来た、ということです。子供を授かることを願って二人は神に祈り続けてきたのです。

それなのに、ザカリアは天使が告げた言葉をすぐに受け入れることができませんでした。この時のザカリアの言葉はとても現実的だ。「私も、妻も、年老いています」

このザカリアの応答は、神がなさる奇跡を前にした人間の姿です。確かに自分は神にそう祈り続けてきたけれども、実際にそれが実現するとなると、なんだか信じられない思いになる、それが実現することに恐れが生じるのです。

私たちも当然祈っているでしょう。しかし、実際に祈りが聞かれると、なんだか信じられない思いになるのではないでしょうか。「私の祈りは本当に神に聞かれていた」という畏れに打たれます。逆説的だが、私たちの信仰にはそのような驚きがあるのではないでしょうか。

ザカリアやマリアのように実際にこんな風に直接天使からのお告げを聞いた人はいないでしょう。しかし、祈りが聞かれた際の驚きというのは理解できるでしょう。神が私たちの祈りを聞いてくださるということは、喜びであると同時に、私達に恐れを感じさせることなのです。

もし、ザカリアとエリサベトが、祈っていなかったとしたら、どうだったでしょうか。少なくとも、天使から「あなたの願いは聞き入れられた」という言葉を聞くことはなかったでしょう。

私達は祈りの力というものを甘く見てはいけないのです。祈る本人の思いを超えた仕方で、神はその祈りを聞いて下さいます。そして私達の思ってもいないような時に、思ってもいなかった場所、「まさか」という仕方で答えてくださるのです。

マリアに天使が現れたのは、そのザカリアの驚きの六か月後のことでした。天使は、神殿のあるエルサレムではなく、「異邦人の地」と呼ばれたガリラヤ地方のナザレという小さな村に現れました。それも、ザカリアのような祭司ではなく、何も特別な身分をもっていない一人の女性、少女と言っていいでしょう、マリアの元に現れました。

マリアにとっては、これは突然の天使のお告げでした。ザカリアとエリサベトのように、長年の祈りが聞かれて神の言葉が告げられた、ということではなかったのです。マリアはまだ結婚していません。それなのに、子供が自分の中に宿った、と言われます。しかも、その子は聖霊によって宿った子で「いと高き方の子、神の子と呼ばれ、神の支配をこの世にもたらすだろう」、と告げられたのです。

当然マリアは戸惑い、「私はまだ男の人を知りません」と言いました。天使は、これは聖霊によることであり、マリアの親類であるエリサベトにも同じことが起こっていることを告げました。そして最後に、「神にできないことは何ひとつない」と言いました。

マリアはこの天使の一言を聞いて、全てを受け入れました。「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」

マリアは、この時、14、5歳の少女だったと言われます。天使の言葉に驚きつつも最後にはその言葉を受け入れました。マリアが少女だったから、純粋な信仰の持ち主だった、あまり考えなかった、ということなのでしょうか。そうではないでしょう。

マリアの最後の言葉に、マリアの信仰の姿勢が現れています。

「私は主のはしためです」

「はしため」、と訳されているのは、「奴隷・僕」という言葉です。「私は主の奴隷・僕です」という言葉なのです。

「奴隷」と聞くと、我々はあまりいい響きに感じないでしょう。人間が同じ人間を奴隷としたとき、私たちは嫌悪感を覚えます。

しかし、聖書では、神に仕える者・神の御心に従う者、という信仰的な意味で「奴隷」という言葉がつかわれます。

使徒パウロはロマ6:16でこう言っています。「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」

神に従順に仕える奴隷となるということ、それは神を自分の支配者とすることです。神の恵みの支配に信頼して身をゆだねることです。マリアが選んだのはそちらでした。

神を信じ、自分を神に委ねることで、信仰者は自分では作り出すことのできない奇跡を見せられることになります。マリアは、自分のことを「神の奴隷・僕です」、と言いました。この信仰が、やがて神の子イエス・キリストの誕生につながるのです。

私たちはマリアという女性を何か特別な人のように思うのではないでしょうか。自分と同じ人間ではないのではないか、自分にはマリアのような特別なことは起こらないのではないか、と考えてしまうのではないでしょうか。

しかし、そうではありません。マリアも一人の信仰者でした。神によって選ばれたから、特別に見られるようになっていますが、私達と変わらない、同じ一人の人間でした。

そして私達も一人の信仰者として、神の奇跡によって選ばれ、今ここにいるのです。マリアがそうだったように、神の尊いご計画の中で私達も用いられているのです。

イエス・キリストは、ある時、一人の女性からこういうことを言われました。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」

女性は、主イエスの母マリアのことをそう讃美しました。主イエスの母であるマリアをうらやましがったのかもしれません。

しかし、主イエスはその女性に向かって、こうおっしゃいました。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」

マリアは主イエスを生むために選ばれた「幸せな女性」のように思われていたのかもしれません。しかし、主イエスご自身は、「本当に幸せなのは、神の言葉を聞き、それを守る人だ」、とおっしゃるのです。

そうであるなら、私たちが今ここで、神の言葉・聖書の言葉を聞き、守ろうとしていることが、実はどれだけ特別で、幸せなことなのか、今一度再認識する必要があるのではないでしょうか。

「神に従順に仕える奴隷となって義に至る」、ということにおいては、全ての信仰者は平等です。ザカリアやマリアを包んだあの祝福は、私たちも同じように届いているのです。 Continue reading

12月25日の礼拝案内

次週礼拝(12月25日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: ルカ福音書1:26~38

 交読文:詩編14編

 讃美歌:讃詠546番、109番、103番、112番、頌栄540番

【報告等】

◇12月24日(土)19時より クリスマスイブ礼拝があります。

◇12月25日(日)はクリスマス礼拝となります。聖餐式があります。礼拝後、愛餐会があります。どうぞお残りください。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

12月18日の説教要旨

創世記21:1~22

「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」(21:17~18)

神はこれまで何度もアブラハムとサラの二人に、「あなた方の間に男の子が生まれるだろう」と予告して来られました。15章、17章、18章にそのことが記されています。神は、男の子の誕生だけでなく、「その子をイサクと名付けなさい」と、名前まで備えていらっしゃいました。

しかし、その神の言葉をきいたアブラハムもサラも、「年老いた自分たちに子供が生まれるはずがない」と、笑って来ました。笑い飛ばしてきた、と言ってもいいでしょう。

しかし、私たちが今日読んだ創世記21章で、神がおっしゃった通りアブラハムとサラの間にイサクが生まれたことが記されています。人間には考えられないことを神は成し遂げられました。年老いた夫婦の間に、命を創造されたのです。

イサクが生まれてサラは「神が私に笑いをくださった」と喜び、神の御業を讃美しています。サラのこれまでの笑いは不信仰の笑いでした。しかし今、不信仰の笑いが、信仰による笑いへと神によって変えられたのです。

アブラハムとサラという年老いた夫婦の間に神の恵みによって男の子が生まれた・・・そのことだけを見れば、これは喜びの出来事であり、私たちを神への賛美へと導く奇跡だと、手放しで言えるでしょう。

しかし、イサクの誕生は単なる喜ばしい出来事として終わるものではありませんでした。今日私たちは、イサクの誕生の場面だけでなく、その後に起こった出来事も見ました。イサクが誕生したことにより、ハガルとイシュマエルという親子がアブラハムの下から追放されることになってしまうのです。

イサクが誕生したことによって生み出される悲劇、そしてそれを超えて働いて行かれる神の御業を、視野を広くもって見ていきましょう。

さて、イサクの誕生の場面を読むと面白いことに気づきます。アブラハムが出てこないのです。イサクの誕生の際に、「アブラハムとサラが一緒に喜んだ」、という書き方はされていません。イサクが乳離れした日に、アブラハムが盛大な祝宴を開いた、ということだけが8節に書かれています。イサクが2歳か3歳になったぐらいで、ようやくアブラハムが登場するのです。

21章の最初を見ると、「主は、約束された通りサラを顧み、先に語られた通りサラのために行われた」とあります。「サラを顧み、サラのために」行われた、とあるように、聖書は、アブラハムではなくサラの方に焦点を当てています。そして、イサクが誕生して喜んだサラの言葉だけがここに記されているのです。

私たちはここで、サラという女性に注目したいと思います。それほど、このサラという人は、神の祝福に相応しい人だった、ということなのでしょうか。

サラがこれまで何をしてきたのか、どんな人だったのかを見返すと、とても「神の祝福に相応しい人だ」と断言することはできないでしょう。サラは、アブラハムの家庭をかき乱してきたような人でした。

サラは、自分に子供ができないので、自分の女奴隷であったハガルを夫のアブラハムに側女として差し出し、跡継ぎを得ようとしました。ハガルはアブラハムとの間に子供を宿すと、サラのことを軽んじるようになり、これに怒ったサラは、「ハガルが私を軽んじるのはあなたのせいだ」と夫アブラハムを非難して、ハガルに辛く当たるようになりました。あまりにサラがハガルにつらく当たったのでハガルはサラの下から逃げ出してしまったほどでした。

逃げ出したハガルはサラの下に戻ってきました、サラの下にイサクが生まれ、ハガルの息子イシュマエルがイサクをからかっているのを見ると、サラは不安になり、またハガルを追い出そうとします。

サラはアブラハムに言いました。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎなるべきではありません。」アブラハムは悩んだ末に、ハガルとイシュマエルと追放することにしました。

サラは、そのような人でした。ハガルにつらく当たったり、ハガルとイシュマエルを追い出したりするサラを見ると、妻としても母としても自己中心的で、わがままし放題の人に見えるのではないでしょうか。

それなのに、聖書をよく読んでみると、神はそのようなサラを中心にご自分の計画を進めていかれるのです。

ハガルが女主人サラにいじめられて逃げ出した時、神はハガルに出会ってこう言われた。「女主人の下に帰り、従順に仕えなさい。」神は、自分をいじめる女主人サラの下に帰りなさい、とおっしゃるのです。残酷な命令のように聞こえるのではないでしょうか。

それだけではありません。「ハガルとイシュマエルの親子を追い出してください」とサラから言われて苦しむアブラハムにも、神は「全てサラが言うことに聞き従いなさい」とおっしゃいました。サラが望む通りハガルとイシュマエルを追い出しなさい、とおっしゃるのです。

このようにして見ていくと、私たちは戸惑うのではないでしょうか。神はなぜサラのような身勝手で、残酷なことを言う女性の味方をなさるのでしょうか。私たちの目には不思議に見えます。

私たちが今日読んだアブラハムの一家に起こったことを見ると、人間の醜さや愚かさ、冷酷さが見えてきます。太古の昔の人たちの家庭は複雑で厳しいものだった、と思えるのではないでしょうか。

しかし、家族の難しさ、人間関係の複雑さというのは、昔も今も変わらないだろう。形を変えて、いろんなむつかしさがあります。家族だから当然お互い愛し合い、受け入れあうことが出来る、などということはありません。それが現実ですし、その現実を聖書は私たちに見せつけます。

しかし、聖書を読む私たちが忘れてならないのは、その人間の営みの中に、神の働きが流れている、ということなのです。創世記のアブラハム物語をよく読んでいくと、悩み苦しんでいる一人一人に、神が確かに寄り添っていらっしゃることがわかります。

ハガルがサラから逃げ出した際、神はハガルを追いかけ、「あなたが生む男の子にイシュマエルと名付けなさい。イシュマエルから大きな国民が生まれる」と祝福を告げられました。その祝福と共に、ハガルはサラの元へと帰ったのです。

アブラハムの下から追い払われたハガルとイシュマエルがベエル・シェバの荒れ野で死ぬのを待ちながら泣いていた時、神がまた追いかけてきてくださいました。「ハガルよ、恐れることはない。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。私は、必ずあの子を大きな国民とする」と再び祝福なさいました。

神には、大きなご計画があった。

イサクとイシュマエルという二人の男の子から大きな国民を生みだす、というご計画でした。

逃げ出したハガルはサラの下に戻る必要があった、そしてハガルとイシュマエルはイサクから離れる必要があったのです。神は、悩んだり苦しんだり泣いたりするアブラハムの家族一人一人に寄り添いつつ、ご自分の計画のためにそれぞれを導かれていますハガルにもサラにも、イサクにもイシュマエルにも、それぞれに道を用意していかれるのです。

そしてその道は、イエス・キリストの誕生へとやがてつながるのです。

ヘブライ人への手紙に、こういう言葉がある。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」

そして、旧約聖書に出てくる信仰者たちの名前を挙げられ、こう書かれています。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」

「彼らは天の故郷を熱望していたのです」

アブラハムも、サラもハガルも、イサクもイシュマエルも、神のご計画の実現を自分の目で見ることはできませんでした。自分の目で、「大きな国民」を見ることはできませんでした。しかし、自分の思いをはるかに超えた神の祝福の計画を信じて、それぞれの地上での命を生き抜いたのです。

イエス・キリストは、「神の国はいつ来るのか」と尋ねられた時、こうお応えになりました。

「神の国は、見える形では来ない。ここにある、あそこにある、と言えるものでもない。実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」

私たちは、アブラハムの家庭内で起こった醜い争いの中に、神の恵みの支配、神の国を見出すことはむつかしいでしょう。祝福されたはずのアブラハムの一家には衝突や葛藤がありました。 Continue reading

12月18日の礼拝案内

次週礼拝(12月18日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 創世記21:1~22

 交読文:詩編14編

 讃美歌:讃詠546番、73番、108番、354番、頌栄540番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

12月11日の説教要旨

創世記19章

「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」(19:29)

ソドムで起こったこと、そしてソドムに起こったことを続けて読みました。

ソドムの町に入った二人の旅人を暴力で自分たちの支配会に置くために、町中の男たちがロトの家にやって来ました。ロトはなんとか旅人たちを守ろうとした、守り切ることはできませんでした。戸が破られようとしたその時、二人の旅人たちが出てきてロトを家の中へと引き入れ、ソドムの男たち全員に目つぶしを食らわせ、戸口がわからないようにしました。

この二人の旅人たちは、神のみ使いでした。男たちが目を開けられなくなった隙に、使いたちはロトに自分たちが何者であるかを告げ、身内の人たちを連れてソドムの町から逃げるように伝えました。

ロトは嫁いだ娘たちの婿たちのところへ行き、「ここから早く逃げよう。主がこの町を滅ぼされるのだ」と言いましたが、婿たちは冗談だと思い、従いませんでした。ロトは一晩中婿たちを説得し続けていたようです。

夜明け近くなると、み使いたちはロトを急き立てました。「早く、妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に降る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう」

16節を見ると、まだ「ロトはためらっていた」、とあります。婿たちがロトの言葉を信じない、ということは、婿たちに嫁いだ自分の娘たちもソドムの町から出ない、ということです。娘たちも滅びに巻き込まれてしまう、ということでした。

16節には、「主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた」とあります。どうやら三人目の旅人、主なる神ご自身が、アブラハムとのやりとりを終えて、追いつかれたようです。主はロトのためらいをご覧になって、「憐れまれ」ました。神は、ロトの痛みをご存じでした。

しかしそれでも、正しい人ロトが滅びに巻き込まれることを良しとされませんでした。アブラハムに「正しい人を巻き込むことはしない」、と約束された通り、神は正しい人ロトの一家をみ使いに手を取らせて町の外へと連れて行かれました。

そして言われます。

「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない」

ソドムの町から出て行く、ということはロトにとって降ってわいたような話でした。昨日まで、この町から出て行くなどということは考えてもいませんでした。しかし、いつの間にかソドムの罪は膨らみ、もう滅びるしかないところまで来ていたのです。

ソドムからの脱出のためにロトに与えられた時間は一晩だった。私たちはここで、出エジプトの思い出すことが出来るのではないでしょうか。

エジプトでの奴隷生活に苦しんでいたイスラエルの民の叫びを聞かれた神は、モーセをお選びになり、イスラエルの民をエジプトから救い出されましたが、その際、イスラエルの民がエジプトから出て行くために与えられた時間は、やはり、一晩でした。あわただしく、ほとんど何も持たず、イスラエルはただ神の導きを信じて出て行くしかありませんでした。そこからイスラエルにとって長く、不安な旅が始まったのです。

この時のロトは、まさに、エジプトから出て行こうとするイスラエルそのものです。ロトはソドムから出て行くことをためらいました。「命がけで山に逃れよ」とおっしゃる主に対して「主よ、できません」と言いました。まだソドムに未練があったのです。

ソドムは肥沃な土地で、ロトも豊かな生活が出来ていました。ここまで自分の生活を築き上げてきたのに、突然町を離れ、肥沃な低地から山に移って新しく厳しい環境で生活をまた築いていくということは大変なことでした。ソドムから出て行ったら次はどんな土地で、どんな生活になるか分からないのです。

「山に逃れなさい」とおっしゃる神に対して、ロトは、「できません。あそこにある小さな町なら近いので、あそこで私の命を救ってください」と言いました。ロトは豊かな低地の生活を捨てきれなかったのではないでしょうか。

しかし、交渉してくるロトの願いを神は聞き入れられました。ロトの一家がその小さな町ツォアルに着いた時、主はソドムとゴモラの上に天から、硫黄の火を降らせ、滅ぼされました。こうしてロトの一家は、罪に対する滅びから神ご自身の手によって救い出されたのです。

これで全てが終わったか、というとそうではありませんでした。ロトの妻が、「振り返ってはいけない」と言われていたにも関わらず、後ろを振り向いたので塩の柱になってしまったのです。

聖書はこのことを26節でただ一言、「ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった」と簡潔に書き記している。ロトの妻に起こったことを、聖書は全く何も解説を加えていません。しかし、塩の柱とされたロトの妻の姿は、大きな警告となって私たちの目の前に示されているのではないでしょうか。

ロトの妻は、ただ、後ろを振り向いた、というだけのことでした。しかし、神の救いの中で、後ろを振り向いいてしまうということがどれほど恐ろしいことなのか、ということを聖書は伝えているのではないでしょうか。

出エジプトの際、旅の中でイスラエルは何度もエジプトを振り返りました。「荒野を旅するよりも、エジプトで奴隷であった時の方がマシだった」、と何度もモーセに訴えました。そのたびに、イスラエルは神から罰を受けました。

神はエジプトから脱出したイスラエルを荒れ野で養いつつ、その後もイスラエルに40年間寄り添って共に歩み、約束の地まで導き入れられました。そしてモーセは、40年の荒れ野の旅を最後に振り返り、「この荒れ野の40年は、神に委ねることを学ぶための旅だったのだ」、とイスラエルに語りました。

ロトの一家がソドムから救い出されたのは、ある意味で小さな出エジプトでした。罪の支配から、神が救い出してくださり、神の御手の内に、恵みの支配へと立ち帰って行く旅でした。しかし、ロトの妻は、ソドムの町を振り返ってしまいました。それは、罪の支配を振り返ってしまった、ということでしょう。

イエス・キリストは弟子達に、ソドムの出来事についてお教えになっている。

「ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失うものは、かえって保つのである」

キリストは、ソドムの滅びの出来事を、過去のこととしてお話しなさっていません。「人の子」、つまり御自分が世に再び来られる時に、同じことが起こる、とおっしゃっているのです。私たちは、ソドムの滅びを、むしろ将来自分たちに起こることとして見つめなければならないのです。

そのようにして見ると、塩の柱とされたロトの妻の姿は、私たちにとって大きな教訓となるのではないでしょうか。ロトの妻は、み使いの救いの導きに全てをゆだねることが出来ず、後ろを振り返ってしまいました。その一瞬の迷い・未練が、どんなに恐ろしいことになるのか、を私たちはここで学びたいと思います。

さて、ソドムの滅びを離れたところから見た人がいました。アブラハムです。アブラハムは朝早く起きて、神と語り合った場所に行き、山の上から低地を見ました。昨日までそこにあった町が、なくなり、地面から煙が立ち上っている光景が目に飛び込んできました。

聖書は、このことも非常に簡略に書いています。神による滅びを見たアブラハムが何を思ったのか、ということは何も記されていません。私たちはただアブラハムの心情を想像するしかありません。

ソドムの町には10人の正しい人すらいなかったのか、という虚脱感があったのではないでしょうか。そして罪に対する神の裁きの厳しさも、アブラハムの心を打ったのではないでしょうか。

私たちは、聖書が、創世記が、我々読者に何を伝えようとしているのか、アブラハムの立ち位置に立って、しっかりここで見つめなければならないと思います。創世記には、人間の罪が描かれています。神が裁きを行われ、罪を滅ぼし、そして罪の中から信仰者を救い出す様が描き出されています。そして創世記は私たちに不信仰の結末を生々しく見せるのです。

神は人の罪を決して見逃すということはなさいません。信仰が豊かな霊の実を結ぶように、不信仰も、罪の実を結ぶのです。不信仰が結ぶ実、それは、滅びです。

不信仰の町ソドムは神によって滅ぼされました。今一度、ソドムの罪とは何だったのかを振り返りたいと思います。

預言者たちが、このソドムの滅びについて書いている。

紀元前626年ごろ、預言者ゼファニヤがこんな預言を残しています。

「金も銀も彼らを救い出すことはできない。主の憤りの火に、地上はくまなく主の熱情の火に焼き尽くされる」 Continue reading

12月11日の礼拝案内

 次週礼拝(12月11日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 創世記19:19~33

 交読文:詩編14編

 讃美歌:讃詠546番、71番、98番、263番、頌栄540番

【報告等】

◇12月11日(日)礼拝後、役員会があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください