2月13日の礼拝案内

 次週礼拝(2月13日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書15:1~5

 交読文:詩編7編7節~18節

 讃美歌:讃詠546番、73番、400番、172番、頌栄542番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

2月6日の説教要旨

マルコ福音書14:66~72

「ペトロは、『鶏が二度なく前に、あなたは三度、わたしを知らないと言うだろう』とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した」

聖書は、大祭司の屋敷の中と外で同時に起こったことを私たちに描いて見せています。大祭司の屋敷の中では、主イエスが「私こそがメシアだ」と言い現わされ、やがて栄光の雲にのってやってくる神であることを示されました。その時、屋敷の外では「あなたはナザレのイエスの仲間だ」と言われたペトロが自分の身を守るために、「私はそんな人は知らない」と嘘をついていました。

罪人のために命をお捨てになったイエス・キリストと、自分の命を救うためにキリストとは無関係であると偽ったペトロの姿が対照的です。

今日私たちが読んだところは、ペトロに焦点が当てられています。ペトロの姿を通して、我々は、自分のイエス・キリストに対する信仰の姿勢を顧みたいと思います。そして、このペトロのために、この私たちのために命をなげうってくださったキリストの恵みをかみしめていきましょう。

主イエスから離れながらも、遠くからここまでついてきていました。

主イエスは、オリーブ山で弟子達におっしゃいました。

「あなたがたは皆私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ」

弟子達が散り散りに逃げていく羊のようにご自分を見捨てることを予告されていました。

弟子達は「そんなことはしない」と言い、ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません」と言いました。それに対して主イエスは「あなたは、今日、今夜、鶏が二度なく前に、三度私のこと知らないというだろう」とおっしゃいました。

ペトロは心外だと言わんばかりに食い下がって、力を込めて言います。「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは申しません」しかし、オリーブ山に主イエスを逮捕する群衆がやってきた時に、皆主イエスを見捨てて逃げてしまいます。

我々は、ナザレのイエスの弟子であることを否定し、「イエスなんて人は知らない」と言ってしまったペトロのことを弱い信仰者の姿として見がちです。しかし、12人の弟子達の中で、唯一ペトロだけが、この大祭司の屋敷の中庭まで従って来ていたのだ。ペトロは、まだ主イエスを見捨てていません。

しかし、ここでペトロは、「あなたはイエスの弟子ではないのか・あなたはイエスと一緒にいたのではないか」と三度聞かれ、三度否定してしまうことになります。

よく見てみると、ペトロの否定は一度目よりも二度目、二度目よりも三度目の方が強くなっています。

はじめに、一人の女中がペトロを見て何気なく「あなたもナザレのイエスと一緒にいた」と言いました。この「女中」というのは、まだ少女だったでしょう。一人の少女が相手だから、「なんのことだ」と言って、ペトロは相手にせず簡単に逃げることが出来ました。

しかし、その女中は今度はペトロではなく周りの人たちに言います。「この人は、イエスの仲間です」

今度はペトロは聞こえないふり、知らないふりができなくなりました。ペトロがイエスの弟子かどうか、ということが公の問題となってしまったのです。はっきりと言わなければならなくなりました。ペトロはもう一度打ち消します。これで、公に自分がイエスの仲間・弟子ではない、ということを宣言しまうことになります。

周囲にいた人たちは、ペトロのガリラヤのなまりを聞いたのでしょう、「確かにお前はガリラヤ人だ」と言って、ガリラヤのナザレのイエスの仲間かどうかを追求しました。

ここまで言われるとペトロは更にはっきりと、そこにいる全員に対して強く主イエスとの関係を否定しなければならなくなります。

「呪いの言葉さえ口にしながら」とありますが、これは、「誰かを呪う」、という言葉です。ペトロは、誰かを呪いました。もちろん、主イエスのことです。ペトロは確かに主イエスのことを呪いながら、「私はイエスの弟子ではない。私はイエスなど知らない」と言い切ってしまいました。

ペトロは自分がこの場から逃れるのに必死で、オリーブ山でのイエス・キリストから「あなたは今日、今夜、鶏が二度なく前に三度私を知らないと言うだろう」と言われたことを忘れていたようです。呪いとともに主イエスとの関係を否定したその時、鶏の声が聞こえ、オリーブ山での記憶を呼び戻しました。

ペトロは死ぬまで、何度この夜の自分を思い出したでしょうか。そしてそのたびにどれだけ自己嫌悪に陥ったでしょうか。ガリラヤ湖で漁師をしていたペトロは、自分の家を、舟を、家族をあとに残してまで主イエスに従って来ました。ペトロにとって主イエスは自分の家族以上の方でした。この方こそ神の子・メシアだと信じて、そう告白しました。

しかし家族以上に大切に思い、神の子・メシアだと信じた方を、自分の口で呪い、「自分とあの人は関係ない」、と言い切ってしまいました。

ペトロがご自分のことをメシアであると言い現わした時、主イエスは弟子達におっしゃいました。

「神に背いたこの罪深い時代に、私と私の言葉を恥じるものは、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」

ペトロは鶏の声を聴いて、泣き崩れてしまいました。

さて、もうペトロは終わりでしょうか。「イエスなど知らない」と言ってしまったペトロのことを、イエス・キリストは「お前のことなど知らない」とおっしゃるでしょうか。

そうではありません。キリストはペトロに、弟子達に、「あなたがたは皆私につまずく」と前もっておっしゃっていました。キリストはペトロが、弟子達がご自分をお見捨てになることをご存じでした。ご自分を離れ、さまよう羊のように道を失ってしまうことを前もってご存じでした。

だからこそ、前もって、私は復活したのち、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と、再会を約束されたのだ。信仰のつまずきによって、キリストから離れることによって道を見失うことになる弟子達に、行くべき道を、彼らを待っている希望をお示しになっていました。

その言葉通り、十字架で殺され、三日目に復活なさったイエス・キリストは弟子達のために、ご自分の墓の中に言葉を残されていました。空になったキリストの墓で、光り輝くみ使いが告げます。

「さあ、行って、弟子達とペトロに告げなさい。『あの方はあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われた通り、そこでお目にかかれる』と」

み使いは、「弟子達とペトロに」と言います。特別にペトロの名前を言うのです。誰よりも最後までイエス・キリストに従おうと近くについて行ったのに、最後に呪いの言葉を口にしなければならないところまで追い込まれてしまいまい、鶏の鳴き声を聞いて崩れたペトロの苦しみを知っていたからでしょう。

ペトロは泣き崩れました。しかし、その涙は復活のキリストへと立ち返ったところで、喜びと感謝の涙へと変えられます。後悔の涙が喜びと感謝の涙へと変えられる、それが信仰がもつ意味ではないでしょうか。

私たちも何度、これまでの歩みの中でペトロが聞いた鶏の声を聴いてきただろうか。何度、キリストから離れ、キリストを否定する自分を見せつられてきただろうか。そして、これから何度、鶏の声を聞くことになるでしょうか。

私たちの躓きの先には、復活のキリストの招きがあります。つまずきで終わりではありません。私たちの自己嫌悪と涙は何度でも、喜びと感謝の涙へと変えていただけるのです。キリストに従うということは、そういうことなのです。

さて、最後に考えたいと思います。ペトロをはじめ、弟子達はこのつまずきの先で、キリストの招きと召しを受けて、使徒として働き始めることになります。しかし、12弟子の中で一人だけ、使徒になれなかった人がいます。イスカリオテのユダです。

ユダと、他の11人の道を分けたのは一体何だったのでしょうか。マルコ福音書には、もうユダは出てこない。彼がどうなったのかはわかりません。他の福音書を見ると、ユダは自殺した、ということが記されています。

キリストの使徒として生きる道と、自らの命を閉ざす道・・・ユダと他の11人の違いはなんだったのでしょうか。一つだけはっきりしているのは、ユダはキリストに立ち返らなかった、ということです。彼は立ち返る場所にイエス・キリストを見出だしませんでした。キリストを見ようとしなかったユダは、キリストから離れた後、生きる道を失いました。キリストの許しの言葉を、回復の希望を、ユダは自ら断ってしまったのです。

ここに、信仰の分かれ道があります。

キリストの復活の予告に希望を見出し、復活のキリストの許しを得た11人の弟子達は、そしてペトロは、新たに使徒としての道を歩み始めます。命を捨ててくださった方のことを、今度は自分が命を懸けて伝え始めることになったのです。キリストに立ち返ったからです。 Continue reading

2月6日の礼拝案内

 次週礼拝(2月6日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書14:53~65

 交読文:詩編7編7節~18節

 讃美歌:讃詠546番、69番、239番、243番、頌栄542番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇2月5日(土) 役員会があります。

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月30日の説教要旨

マルコ福音書14:53~65

「イエスは言われた『そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に、囲まれて来るのを見る』」(14:62)

主イエスはこれまで、神を「父」と呼んで来られました。それはつまり、ご自分が神の子である、ということです。

一週間前にエルサレムに入られた主イエスは神殿の境内から商人を追い出し、そこで神の国の教えを群衆に語って来られました。エルサレム神殿の中でわがもの顔に振る舞うナザレのイエスに、祭司長、律法学者、長老は「何の権威でこんなことをしているのか」と問い詰めます。

その際、主イエスは彼らにぶどう畑のたとえをお話しなさいました。ブドウ園の主人の息子が、ブドウ園の農夫たちに殺されてしまう、というたとえ話です。それは祭司長たちが主イエスを殺す、ということを暗示したたとえ話でした。ブドウ園の主人というのは、神であり、殺される主人の息子は神の子である・・・つまり、主イエスご自身は「神の子・メシアである」ということを暗示した話でした。

また、神殿の崩壊の預言を聞いた弟子達に主イエスは「世の終わりがいつ来るかわからないのだから、備えて、目を覚ましていなさい」「その日、その時は、父だけがご存じである」とおっしゃいました。この世の終わりがいつなのか、自分の父である神のみがご存じである、という言い方です。

神を自分の父と呼び、自分が神の子であるかのように振る舞ってきた。ナザレのイエスに、ついに大祭司は裁判の中で、核心をついた質問をします。

「お前はほむべき方の子、メシアなのか」

神を直接言い表すことを裂けて、「ほむべき方」と言っています。つまりこれは「お前は、結局何者なのだ。神なのか」という質問です。

ここで主イエスははっきりと「そうです」とお答えになりました。

これまで主イエスは民衆に対して、御自分からメシアであることを秘密にしてこられました。ペトロが主イエスに「あなたはメシアです」と信仰を告白した時にも、「それを誰にも言ってはいけない」とお命じになりました。人々がそれぞれ好き勝手なメシア像を持っていたからです。

しかし、ついにここで隠してこられたご自分の本当の権威、神の子メシアであることをユダヤの指導者たちに明らかにされました。ご自分の口ではっきりと、ご自分が天から来た神であり、やがて栄光に包まれて世の終わりに再びやってくるだろう、とおっしゃったのです。

「人の子が全能の神の右の座に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」

旧約聖書の預言書、ダニエル書7章で預言されている、栄光の雲に囲まれてやってくる「人の子」と呼ばれている神の姿こそ、「私だ」とおっしゃったのです。

これを聞いて大祭司は衣を引き裂きながら、「この者は神を冒涜した」と言いました。そして最高法院の人たちは、主イエスを死刑にすることを決議しました。

メシアである主イエスがご自分をメシアとおっしゃった、ということで、なぜ死刑の判決になるのでしょうか。主イエスは、本当のことをおっしゃっただけなのです。主イエスがおっしゃったことが本当であるなら、何の問題もないはずです。これは真実を明らかにする「裁判」なのですから。

しかし、最高法院の人たちは、この主イエスの言葉を受け入れませんでした。それを信じることができなかったからです。

私たちは、考えたいと思います。人間の裁きとは何なのでしょうか。本当に人間は、正しく人間を裁くことができるのでしょうか。

聖書の中には、神の裁きを待ち望む弱い人たちの叫びがたくさん残されています。「主よ、私はあなたの裁きを待ち望みます」といろんな時代の信仰者が祈りが記録されています。

なぜでしょうか。人間の裁きが不完全だからです。罪の力に支配されている人間は、自分に引き寄せた裁きをしてしまうのです。良いものをよい、悪いものを悪いとする、ということは、人間には難しいのです。自分の都合の良いように裁きを行ってしまいます。人の裁きを左右する、他の力が働いてしまいます。

この夜の最高法院の人たちを見ればわかります。これはもともと主イエスを死刑へと陥れるための裁判でした。「ナザレのイエスは死刑だ」、ということがもともと決まっていたのです。主イエスは正しい裁きの中で有罪とされたのではありません。愚かな罪びとの裁きの中で、甘んじて有罪判決をお受けになったのです。

私たちは、この裁判を通して考えたいと思います。人は神を裁くことができるのでしょうか。神を裁く人間とは一体何なのでしょうか。

私たちは今、十字架へと追いやられるイエス・キリストのお姿を見ています。それは、罪の力がキリストを十字架へと運ぶ姿であり、キリストが罪を全て背負っていかれるお姿です。

主イエスはご自分に死刑の宣告をした、この最高法院の人たちの罪を今、背負われました。神に仕えるはずの祭司や律法学者たちが神に死刑判決を下した瞬間です。その罪を、神ご自身が背負われるのです。

私たちは、受難の道を行かれるイエス・キリストの周辺に自分の姿を見出します。私達はあの時キリストを十字架へと追いやる大勢の人たちの中にいたのです。キリストを引き渡すユダ、キリストを見捨てる弟子達、キリストを裁き有罪とした最高法院の人たち、そしてこの後、十字架刑を宣告するローマ総督ポンテオ・ピラト・・・。私たち一人一人が、キリストを見捨てた弟子達の中に、キリストを陥れる偽の証言をした人の中に、死刑を決議した人の中に、唾を吐き、殴った人の中に確かにいたのです。

最後の晩餐からイエス・キリストの十字架の死にいたるまで、私たちは、自分の姿をここで見せつけられることになります。自分の罪を見つめなければならないのです。そして、その罪をご自分の身に引き受けていかれるイエス・キリストの愛を見せつけられることになります。

主イエスは世の終わりにご自分が栄光に包まれて再び来る、とおっしゃいました。エルサレムへの旅の初めに、主イエスは3人の弟子達を山の上へといざなわれた。3人はそこで栄光の光に輝き、天の雲に包まれるイエス・キリストのお姿を見ました。最高法院の人たちに主イエスがおっしゃった栄光の天の雲を、弟子達は、既に見たのです。

キリストの復活を見た弟子達は、その栄光を伝えるようになりました。弟子達は十字架の死から復活なさったイエス・キリストを一生涯伝え続けたのです。

ペトロは後に、自分の手紙の中でこう書いている。

「私たちの主イエス・キリストの力に満ちた栄光を知らせるのに、私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これは私の愛する子。私の心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉と栄光をお受けになりました。私たちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聴いたのです」

一度は見捨てて逃げ去った主イエスを、なぜ弟子達は一転して、命をかけて伝え続けたのでしょうか。最後の晩餐から十字架に打ち付けられるまでの、あのキリストの最後の夜を一生涯忘れることが出来なかったからでしょう。あの夜の自分の罪を忘れることが出来なかったからです。

弟子達は主イエスを見捨てて逃げました。しかし、あの方は自分たちを許し、ガリラヤでの再会を約束してくださいました。あの夜、キリストはイザヤが預言した苦難の僕として甘んじて罪びとからの痛みをお受けになりました。そしてその先にある、ダニエルが預言した人の子・栄光の雲につつまれる神の再臨をお示しになりました。

使徒言行録を見ると、ペトロは多くの人たちに証言したことが記されている。

「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」

ゴルゴタの丘で主イエスを十字架へと追いやった人たちは、ペトロの言葉を聞いて恐れました。そして恐れを抱いた人たちは皆、悔い改めの洗礼を受け、キリストの許しへと立ち返った。

一度は逃げたペトロでした。しかし、キリストが復活なさったのち、自分の命をかけて、キリストの復活を証言し続けました。自分の罪を知った者、そしてその罪が許されたことを知った者は、その罪を担ってくださった方のことを証言する者へと変えられるのです。そしてその証言が、また新たな証言者を生みだしていきます。

結び

人となられた神が自分たちの目の前にいらっしゃり、「私はやがて神の座に着き、天の雲に囲まれて来るだろう」とおっしゃったのを聞いても、祭司長や律法学者たちは、信じなかった。罪によって信仰の目が曇っていたからだ。

キリストの十字架は、復活へとつながっていきます。私たちには、罪びとでありながら、神の元へと立ち返る道が拓かれた。主の復活で、雲が払われたのです。

私たちの一生は、イエス・キリストの後を追い、離れていた神の元へ立ち返る旅です。 Continue reading

1月30日の礼拝案内

 次週礼拝(1月30日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書14:53~65

 交読文:詩編7編2節~6節

 讃美歌:讃詠546番、68番、249番、288番、頌栄541番

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月23日の説教要旨

マルコ福音書14:53~65

「しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった」(14:61)

「2000年前に生きて、十字架で殺され、そして墓からよみがえったと言われているイエスという人は一体何者だったのか」・・・これは、どの時代にも人類に投げかけられてきた問いです。

ある人は、「イエスは人類に道徳と愛の模範を示した人だった」、と言います。ある人は、「イエスは、ローマへの反乱を主導したユダヤの民衆のリーダーだった」と言います。

当時のガリラヤの民衆は主イエスのことを「預言者」として見ていました。また、当時のエルサレムの最高法院の人たちは、神殿で我が物顔に振る舞い、勝手に神の国の教えを語る厄介者として見ていました。そして弟子達は主イエスのことをメシアだと見ていました。

主イエスは弟子達だけに「私はエルサレムで殺されることになっている。そして三日目に復活する」と前もっておっしゃっていました。聖書は、この方を、神の愛の律法を完成させた神の子、メシアだと言います。御自分の命を犠牲にして、天の国に用意されている永遠の命をお示しくださった方として私たちに伝えているのです。

私たちはついに、イエス・キリストが御自分がメシアであることを公に宣言なさった場面を読みました。大祭司の屋敷へと連行され、最高法院の人たちが全員集まっているところで「お前は一体何者か」と問われ、ついに、その場で公にご自分が何者であるのかを宣言されたのです。

「お前はほむべき方の子、メシアなのか」ときかれ、主イエスは「そうです」とお答えになりました。それだけでなく、「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」とまでおっしゃいました。

祭司長たちは、この一言で主イエスを有罪とします。神を自称して、神を冒涜した罪で死罪としました。いよいよ、イエス・キリストは十字架へと送られていくことになります。御自分が救おうとなさっている罪びとたちによって十字架へと上げられていく主イエスのお姿をしっかりと見つめていきましょう。

これは主イエスにとって不公平な裁判でした。夜中に逮捕され、そのまま大祭司の屋敷という個人の家に連れていかれ、そこに最高法院の全員がすでに集まって待ち受けていました。時間も場所も、手続きも、めちゃくちゃです。そこに集まった最高法院の人たちは、主イエスが有罪か無罪かを判断するためではなく、死刑にするために集まっていたのです。もう判決は決まっていました。そのために、偽の証言をする人たちまで前もって雇われていました。

裁判の中で何人もの人が、証人として発言します。「イエスは自分で神殿を壊し、新しい神殿を建てると言った」。

実際には主イエスはそんなことをおっしゃっていません。神殿の立派さに感動していた弟子達に「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とおっしゃっただけです。

おそらく、この時の言葉を聞いたユダが、「イエスは神殿についてこんなことを言っていた」と、祭司長たちに事前に伝えていたのでしょう。それが曲げられた形で証言されています。

主イエスは、本当であれば、「私はそんなことを言っていない」と言い返すこともお出来になったのに、黙っていらっしゃいました。大祭司自身が不審に思って主イエスに尋ねます。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」。しかしそれでも、イエスは黙り続けて何もお答えにならなかった、と記されています。

弟子のペトロは、この時のキリストの沈黙についてのちに手紙の中でこう書いています。キリストは「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。」

預言者イザヤは、イザヤ書53:7で神の救いの御業のために自分を犠牲にする苦難の僕について預言しています。

「彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように。毛を切るものの前にものを言わない羊のように、彼は口を開かなかった」

ペトロは預言者イザヤが預言していた苦難の僕の姿をイエス・キリストの沈黙に見出したのです。手紙の中で「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」、とそのイザヤの言葉を引用しています。

主イエスは偽の証言に対して、申し開きすることはいくらでもお出来になったはずです。しかし、ご自分を十字架へと追い立てるこの罪びとたちを救うために、黙ってすべてを甘んじてお受けになったのです。

このキリストの沈黙を通して、神の大きな救いの御業が実現しようとしています。証言した人たちは「この男が『私は人間の手で作ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で作らない別の神殿を建てて見せる』というのを、私たちは聞きました」と言いました。

これは偽の証言だったので、結局彼らの証言は食い違ったものになりましたが、皮肉にも、この人たちの言葉は現実のものとなっていくことになります。

「人間の手で作った神殿は壊れる」・・・確かにそうなりました。

「人間の手で作らない別の神殿が建てられていく」・・・これも後に実現しました。

私たちは、人の手によって作られたものが必ず壊れるということを知っています。どんなに人間の技術の粋を集めた建築物でも、どんなに立派な神殿であっても、それは結局は「人の手によるもの」なのです。

建築物だけではありません。国もそうです。人間が作り上げた国も、永遠には続きません。人間の支配の華々しさは一瞬です。空しいものです。

旧約の時代にイスラエルを苦しめたアッシリアも、バビロンも、ペルシャもローマも、すべて滅んでしまいました。あれだけ繁栄を誇り、強かった国々が、わずか100年、200年で消えていったのです。どんなに国境を広げようが、他国の人を奴隷にしようが、強い武器を持とうが、人間の支配は時間がたてば消えていきます。

残るのは何か・・・それは「人の手によらないもの」です。言葉を変えると、神の手・言葉によるものが残るのです。

ソロモンがエルサレム神殿を建てたとき、神はおっしゃいました。

「もしあなたたちとその子孫が私に背を向けて離れ去り、私が授けた戒めと掟を守らず、他の神々のもとに行って仕え、それにひれ伏すなら、私は与えた土地からイスラエルを断ち、私の名のために聖別した神殿も私の前から捨て去る。こうしてイスラエルは諸国民の中で物笑いと嘲りの的となる。」

この神の言葉は本当に実現してしまいました。不信仰に陥ったイスラエルは、バビロンに滅ぼされ、神殿も破壊されてしまうことになりました。

神の子イエス・キリストを裁いたイスラエルは、キリストの裁判から40年後にローマ軍によってエルサレム神殿を破壊されることになります。

人の手によるものは、壊れるのです。神を捨てると、神殿は壊れるのです。

イエス・キリストは、人の手によらないものをこの世にもたらしてくださいました。パウロはコリント教会に向けてこう書いている。

「我々は神のために力を合わせて働く者であり、あなた方は神の畑、神の建物なのです。・・・あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。・・・あなた方はその神殿なのです。」

キリストは、私たちを建ててくださいました。私たちキリスト教会が神の神殿なのです。ここは霊の神殿です。ここには聖霊による神の支配があります。そしてここには神が導き入れてくださる永遠の命があるのです。

ヘブライ人への手紙9:11にこう記されています。

「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で作られたのではなく、すなわち、この世のものではない、さらに大きく、さらに完全な幕屋を通り、雄ヤギと牡牛の血によらないで、ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

キリストは、我々罪びとが流すはずだった血を、ご自身が引き受け、十字架の上で全身の血を流してくださいました。キリストを十字架へと追いやった我々の代わりに、です。説明のつかない、許しの御業です。

キリストは、そのような仕方で人の手によらない、神の御手による霊の神殿をこの世にお建てになったのです。

今、我々は、聖書を通してイエス・キリストの十字架への歩みを見ています。 Continue reading

1月23日の礼拝案内

次週礼拝(1月23日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書14:53~65

 交読文:詩編7編2節~6節

 讃美歌:讃詠546番、67番、331番、132番、頌栄541番

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月16日の礼拝案内

次週礼拝(1月16日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マタイ福音書5:7~11

 交読文:詩編7編2節~6節

 讃美歌:讃詠546番、71番、461番、90番、頌栄541番

【報告等】

◇次週、礼拝の中で三宅島伝道所教師就任式があります。荒川教会の国府田祐人牧師による就任式司式・説教となります。

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月9日の説教要旨

マルコ福音書14:43~52

「ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、『先生』と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。」(14:45~46)

ゲツセマネの祈りを終えた後、イエス・キリストは弟子の一人ユダに率いられた群衆によって逮捕されました。私たちは、これからイエス・キリストがイザヤが預言した「苦難の僕」として、夜通し痛みを与えられ苦しんでいかれるお姿を見ていくことになります。

ユダが剣や棒をもった「群衆」を手引きして来ました。この「群衆」というのがユダヤ人兵士なのか、神殿の警備をしていた警察のような人たちなのか、細かいことは書かれていません。ただ、ここで分かっているのは、この「群衆」は、祭司長や律法学者、長老といった、ユダヤの最高法院によって遣わされた人たちだった、ということです。

過ぎ越しの食事を終えて弟子達がゲツセマネに向かい、主イエスが祈っていらっしゃる間に、ユダは他の弟子達から離れて、逮捕の一団を呼びにやったようです。そして自分でその一団を率いてきました。ユダはすでに、最高法院の人たちとの取引を終えていたので、この時、懐には祭司長たちから与えられた銀貨が入っていたでしょう。

主イエスは何日も神殿にいてたくさんの人に神の国の教えを話してこられたのですから、その顔を知っている人たちは大勢いたでしょう。それでもユダは、念には念を入れて、暗闇の中で逮捕する相手を間違えないように、「私が口づけして挨拶するのがイエスだ」と打ち合わせをしてやってきました。「接吻」とは頬と頬をあわせる、親愛を示す挨拶です。これが、ユダの裏切りの合図でした。皮肉にも、ユダは主イエスへの愛情を示し仕方で、裏切ったのです。

私たちはここに神に対する人間の罪を見ます。このキリストに対するユダの姿は、神に背き続ける歴史を作ってきたイスラエルそのものではないでしょうか。イスラエルの歴史は、神の恵みに喜び、すぐに誘惑に負けて神を離れ、その先で苦しみ、再び神に許していただく、ということの繰り返しでした。

神に対して面と向かっては、いい顔をするのです。しかし、神に向かって親愛の情を示しながら、わずかな地上の富、一時の地上の快楽・安心を求めて、心が離れてってしまう・・・それこそ、イスラエルの不信仰の歴史です。

主イエスはユダの口づけがどのような意味をもっているのか、全てご存じでした。それでも、ここでユダを叱ることもせず、拒絶することもせず、黙って彼がすることに身をゆだねていらっしゃいます。

神は、預言者イザヤの口をとおしておっしゃいました。

「地の果てのすべての人々よ、私をあおいで、救いを得よ。私は神、ほかにはいない。私は自分にかけて誓う。私の口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない」(45:22)

神は、地の果てのすべての人々に向かって、全世界のすべての人間に向かって、「私のところに戻ってきなさい」と招かれます。本当は、ユダだって、招かれているのです。

しかしユダは目の前に神の招きを見ながら、口づけをもって神に背を向けました。罪の力の働きが、ここにあります。そして、キリストは苦難の僕として全てをご存じの上でユダの罪の業を受け入れられました。神の愛の招きがここにあります。

主イエスはユダと、武装した群衆を相手に、最後まで無抵抗で通されました。近くにいた人が、主イエスを守ろうとして剣を手に取って逮捕の一団に襲い掛かります。ご自分の目の前で争う人たちに向かって主イエスはおっしゃいました。

「まるで強盗にでも向かうように、剣や棍棒を持ってとらえに来たのか。私は毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちは私を捕えなかった」

ここで争う必要はないのだ。

主イエスを捕えようとする人と、主イエスを守ろうとする人、どちらに正義があるのでしょうか。

真夜中に武装した群衆が一人の人を捕えに来る、ということ、それ自体が異常なことでした。正当な理由があれば、白昼であっても、そこに群衆がいても、逮捕の理由を堂々と告げてからとらえることができるはずでした。この行動の中にすでに、最高法院の人たちが抱えている疾しさが表れています。自らの罪に目を向けるよう主イエスは促されました。

主イエスは無抵抗でした。ただ一言、ご自分の無抵抗の理由をこうおっしゃいました。

「これは、聖書の言葉が実現するためである」

祭司長たちはなぜ主イエスを逮捕したのでしょうか。それは、ナザレのイエスが、自分たちの律法の理解と違うことを民衆に教えていたからです。祭司長たちは、神の言葉である律法を正しく守るためにナザレのイエスを排除しなければならないという自分たちの正義のために、このようなことをしました。

しかし、神はこの夜の主イエスの逮捕をどうご覧になっていたでしょうか。

イザヤ書にこう記されています。

「彼が担ったのは私たちの病。彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と」

主イエスを捕えに来た群衆、ユダ、祭司長や律法学者たちは、自分たちに正義があると信じていました。「自分たちは神のために自分たちは働いている、自分たちは正義だ」と思っていました。

しかし、イザヤの預言を通して、この主イエスが逮捕されるお姿を見ると、御自分を捕えに来たすべての人たちの罪の病を自ら背負っていらっしゃる苦難の僕であることが見えてきます。

ここで主イエスがおっしゃった、「聖書の言葉が実現するため」とは、聖書の中の、どの言葉のことなのでしょうか。主イエスがついさっき弟子達におっしゃったゼカリア預言の言葉です。

「私は羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」

そのゼカリアの預言通り、「弟子達は皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とあります。主イエスにとって、ご自分が捕らわれること、そして弟子達全員から見捨てられることは驚きではありませんでした。それが神の御心だったのです。それも苦難の僕として与えられることになっていた痛みでした。むしろ、主イエスはこの瞬間のために祈りながら備えて来られたのです。主イエスはゲツセマネで「御心が行われますように」と祈られました。それは、「必要な痛みを全て受け入れます」ということだったのです。

さて、ユダの口づけによって逮捕され、弟子達全員に見捨てられた後に、一人の若者が必死にその場から逃げ去ったことが記されています。

不思議な記述です。いったい誰なのか、なぜこの人がその場から逃げ出したのかも記されていません。12弟子の一人なのかどうかさえもわかりません。

ただ、聖書は「一人の若者が裸になってまで必死に、無様に逃げた」、ということを短く記しています。この人が一体何者なのか、ということは推測するしかありません。

イエス・キリストに従って来た人でしょう。若者は「素肌に亜麻布をまとっただけの格好をしていた」、とあります。以前、主イエスがガリラヤで弟子達を宣教に遣わされたとき時、こうおっしゃいました。

「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして下着は二枚着てはならない」

主イエスの、「身一つで神の国を宣べ伝えなさい、身一つで私に従いなさい」、という教えをこの若者は、忠実に守っていたようです。ただ、亜麻布を一枚体にまとって従っていた、ということがこの若者の信仰の姿勢をよく表しています。

しかし、このようなまっすぐな信仰を持った人であっても、主イエスが逮捕されるのを見て、たった一枚の持ち物である亜麻布を取られて、裸になってでも逃げだしたのです。

いったいこの人は誰なのでしょうか。この若者は、私たちです。聖書は、「裸でキリストを見捨てて逃げ出したこの若者こそ、あなたの罪の姿だ」と見せつけているのです。

強い決心をもってキリストに従おうとしても、何かがあるとキリストを置いて逃げてしまう・・・キリストを見捨ててその場から逃げ出そうとする弟子達であり、また私たち信仰者のありのままの姿だ。

私たちは主イエスが弟子達におっしゃった言葉を思い出すのではないでしょうか。

「心は燃えても、肉体は弱い」 Continue reading