創世記2:4~15
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(2:7)
創世記1章には、「天地創造の七日間」が描かれています。神が六日かけて、この世界と、そこに生きる人間を創造されました。そして七日目に休まれ、その一日を聖別され天地創造の御業は終わりました。
今日私たちは、その続きを読みました。創世記を1章、2章と続けて読むと、少し混乱するかもしれません。1章で語られた神の天地創造の御業は、2章に入ってもう一度語りなおされているのです。
しかも、2章では1章で語られたのとは違う仕方・違う視点で語られているのです。1章では、神が七日かけて一日一日、このように天地に秩序を造って行かれた、ということを順を追って描かれます。2章では、不毛の大地に人間が造られ、その人間を中心に世界の秩序が創造されていく、という描き方がされているのです。
創世記が世界の始まりを違う角度で二度語り伝えている、ということを踏まえて、この2章の創造の記事から学ぶべき信仰の教訓を見出していきたいと思います。
2章では、神が不毛な世界に人間をお創りになった、というところから始まります。2章の創造物語では、とにかく人間という存在に目を向けているのです。人間が何から造られ、どのように生きるものとされたのか・・・私たちは人間の本質について考えさせられることになります。
2:7「主なる神は、土の塵で人を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった」
元のヘブライ語では神が「アダマからアダムを造った」という表現がされています。多くの人は、最初に「アダムという名前の男性の人間」が造られた、と理解しているのではないでしょうか。しかし、聖書を細かく見ると、そんなに単純なことではないことがわかります。
1:27で既に、人間は神にかたどられ「神の似姿」として「男と女に創造された」ことが書かれています。そして2章に入り、神の創造をもう一度語りなおす段階にきて初めてこの「アダム」という言葉が出てくるのです。
ある神学者は、主なる神が「アダマからアダムを形作った」というこの一文を「土の塵で『人』を形作った」と訳すのは、訳しすぎている、と言います。この2:7の「アダム」という言葉は「人」ではなく、「土から造られたもの」と訳すべきだ、と言うのです。
私達は創世記を読みながら、「女性よりも男性の方が先に造られた、ということを聖書は伝えているのだろう」と考えるのではないでしょうか。しかし、聖書は、人の原材料は土である、ということをまず私達に示しているのです。
人間存在の一番根本的なこととして、「人間は土から造られた、この大地の生き物である。土から離れて生きることはできない存在であり、土と共に生きて行かなければならない存在なのだ」ということを私たちに教えているのです。
神は、陶芸家のように「土から造られたもの・アダム」を形作られました。それは、単なる土の器・置物として造られたのではありませんでした。神がその「土の産物・アダム」にご自分の息を吹き入れて、アダムは初めて、土の塊から「人間・アダム」となり、生きるものとされたのです。
この短い記述から私たちは「人間とは何か」、ということを聖書から教えられます。人間は土から造られ、やがて、土に返るものなのです。このことを我々はどれだけ考えているでしょうか。知識としては知っていても、どれだけそのことを意識して自分の生き方を選択しているでしょうか。土の器に聖い息を吹き入れ、私達を人間として生きるものとしてくださっている方にどれだけ思いを向けているでしょうか。
この2章の創造物語では、1章とは少し違う呼び方で神のことを呼んでいる。
1章では、神は「神」と呼ばれていますが、2章では神のことを「主なる神」と呼んでいます。
人が神によって土から造られ、神の息が吹き込まれて生きるものとされことを見ると、神は我々人間にとって、文字通り、主なる神、主(あるじ)であることがわかるのではないでしょうか。聖書は私達の真の支配者へとまず立ち返らせるのです。
このように、1章の創造物語と2章の創造物語は、まったく違った角度から天地創造を描いています。人間の創造については今見た通りです。それでは、2章ではどのように神が世界をお創りになったと語っているでしょうか。
2:4「主なる神が地と天を造られた時」とあります。1章では「天と地」です。2章では逆になって「地と天」と言っています。1章では「天」の方にまず焦点を当てていますが、2章では「地・大地」の方に焦点を当てているのです。
2章の創造物語が伝える神の創造以前の世界は「地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった」ということでした。大地は「不毛」という「無秩序・混沌」に支配されていたのです。
なぜ大地が不毛だったのか、聖書は理由を二つ書いています。一つは、主なる神が地上に雨をお送りにならなかったから、そしてもう一つは土を耕す人がいなかったからです。
以前話したことの繰り返しになりますが、この創世記の天地創造の物語は、科学の論文や理科の教科書のように読むべきものではありません。イスラエルが今の私たちに神への信仰の本質を伝えている「信仰の物語」として向き合わなければならないのです。
神の秩序を正しく保つものは何でしょうか。それは、大地に雨を降らせてくださる神の御業と、その雨を受けた大地を耕す人の業である、というのです。聖書は、世界の秩序は、神が下さる恵みと、恵みに応える人間の調和に根差していることを我々に教えているのです。
神はその秩序のために、アダム・人間に二つのことをなさいました。人が生きるための場所をお創りになったことと、人に生きる目的をお与えになったことです。神は、エデンというところに「園」をお創りになって、人をそこに置かれました。そして人がエデンの園を「耕して守る」ことをお求めになりました。
神が不毛の大地の中に園を造られ、大地の土から造られた「土の生き物・アダム」をそこに置き、土を耕すものとされた・・・これが、創世記二章が伝えている創造の秩序なのです。
我々は土の上に生きています。当たり前のことです。その当たり前のことが、神によって与えられた神秘の恵みであることをどれだけ認識しているでしょうか。自分が、今踏んでいる土からできていて、土が生みだす恵みによって生きていて、その土を潤す雨が天から与えられている、ということが当たり前すぎて、そのことがどんなに深い神秘であるか、本当に意識して考えることは少ないのではないでしょうか。
聖書の創造物語は私たちをその根源的な神秘へと引き戻すのです。「あなたの原点はここにある。ここが、世界について神について自分について考える出発点なのだ」と私たちに示しています。
さて、2章の創造物語を見ると、1章の創造物語には書かれていない、不思議ものを神はお創りになっています。9節の最後に、神がエデンの園の中央に「命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた」とある。神が何のためにこの二本の木を園に置かれたのか、まだこの段階では明らかではありません。
この後蛇の誘惑を受けて人は善悪を知る木の実を食べてしまいます。そのことで神は人が善悪を知る者となったことを嘆かれ、次に「手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となる恐れがある」と人を楽園から追放されることになります。
どうやら、どちらも人が食べてはならない木だったようです。「なぜ神は人が食べてはならない二本の木をわざわざ園の中央に生えさせられたのだろうか」と素朴に疑問に思うのではないでしょうか。しかし聖書が伝えようとしているのは、単純に「人が土足で侵してはならないものがある」、ということではないでしょうか。
善悪を知る木の実を食べて、人は「神のように」なろうとしました。それに加えて人が更に「永遠に生きる者」になろうとすることを神は、良しとされませんでした。
「神のようになりたい」「命を好きなように操作したい」、という欲望が人間の心の奥底にあることを聖書は指摘しているのです。誰も否定することができない罪です。そのような人間の思いが世界の秩序をどんなに崩してしまうか、私たちは知っています。神の領域として私たちが踏み入れるべきではないものがこの世界にはあるのです。
忘れてならないのは、この創世記の言葉を書き残したのは、偶像礼拝によってエルサレムの都を失ったイスラエルの民である、ということです。これは「善悪を知る木」の実を食べ、神のようになろうとして神から離れ、偶像礼拝に走り、滅んだ信仰の民によって書かれた物語なのです。そのようにして読むと、この創造物語を単なる空想の産物として軽んじることはできないでしょう。
さて、この創世記2章を読むと、私たちにはまだ「命の木」が残されている、ということになります。このことをどう考えればいいのでしょうか。
「命の木」は新約聖書のヨハネ黙示録の最後に出てきます。ヨハネ黙示録はこの世の終わりの様子を描いている言葉ですが、22:14にこう記されています。
「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」 Continue reading →