MIYAKEJIMA CHURCH

6月2日の礼拝説教

ヨハネ福音書5:30~40

「あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」(5:40)

ヨハネ福音書は、「この世を救いに来られた神の子が、この世の人々に裁かれ、有罪とされ十字架で殺された」、ということを証言しています。福音書の一番初めの書き出しで、この福音書を通して描かれていく悲劇の結末を既に述べているのです。「神の言葉であり、神ご自身であられる方が世を照らす光として来られた」、「しかし、世は光を理解しなかった」、という、イエス・キリストの十字架の死を暗示します。

ユダヤ人の祭りに参加するためにエルサレムに上って来られて主イエスは、38年間病であった人を癒されました。安息日に癒しを行い、「床を担いで歩きなさい」と御命じになったことで、エルサレムのユダヤ人たちは、「安息日にしてはならないことを命じた人」「律法を守ろうとしない人」「神と自分を同等に考えている危険人物」と見るようになりました。

これがきっかけになり、この後何章にも渡ってユダヤ人たちは、「このイエスという人が一体何者であるのか」「このイエスという人が言っていることが本当なのかどうか」を議論していくことになります。そしてイエス・キリストの十字架に向かって、人々の裁きがここから始まっていくことになるのです。

ユダヤ人たちの非難の目に対して、主イエスは、「御自分の業は神から託された業であり、御自分には神から裁きも託されている」とお伝えになります。命を与えること、裁くことを、神の権威をもって行っていらっしゃる、そしてそれは今だけでなく将来においてもご自分が担う、とおっしゃいます。

主イエスの十字架と復活を知り、この方がキリストであると信じる我々にとっては、この主イエスの言葉は希望です。神がこの世で癒しの御業を行ってくださって、そして全ての人を神の元へと招いてくださっているということをキリストの姿を通して私達は示されているからです。

しかし、まだ主イエスの十字架も復活も知らない人たちにとってはどうだったでしょうか。自分の目の前に立っている人が神であるかどうかを判断することは難しかったでしょう。

癒しの奇跡が行われただけならよかったのです。それが「何の仕事もしてはならない安息日」であり、癒した人に「床を担いで歩きなさい」と命じたことで、議論が複雑になっていくことになりました。

ヨハネ福音書を読み進めていく私たちは、聖書から問われることになります。本当の意味で本当に裁きの場に引き出されているのは、誰なのでしょうか。主イエスが人間によって裁かれているのでしょうか。そうではなくて、本当は、神の子イエス・キリストを裁こうとする人間は裁かれることになるのではないでしょうか。

使徒言行録を見ると、主イエスの十字架と復活の後、ペトロが聖霊に満たされてエルサレムの人々にこう告げています。

「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主として、またメシアとなさったのです」

「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、『兄弟たち、私達はどうしたらよいのですか』と言った」と書かれています。

エルサレムで主イエスを非難したユダヤ人たちは、自分たちが話しているのが誰なのか、まだわかっていませんでした。今日読んだところで、主イエスは「私は人間による証しは受けない」とおっしゃっています。

確かに、使徒言行録を読むと、主イエスのことをメシアであると証ししたのは、聖霊でした。人間の言葉を超えた聖霊の力が働き、人々がキリストを信じるようにされていったことが書かれています。

主イエスがわずかに、御自分のことを証言する人としてお認めになっていたのは、洗礼者ヨハネだけでした。

35節「洗礼者ヨハネは、燃えて輝く灯であった」

洗礼者ヨハネは主イエスを見て、「見よ、神の子羊だ」と弟子達に言いました。しかし、ヨハネの言葉を聞いても、一体どれだけの人がその言葉を信じ、主イエスに従ったでしょうか。イエス・キリストにとっては洗礼者ヨハネの証言すら、灯のような、ろうそくの火のような小さなものでした。

主イエスはおっしゃる。

「私にはヨハネの証に勝る証しがある。父が私に成し遂げるようにお与えになった業、つまり、私が行っている業そのものが、父が私をおつかわしになったことを証ししている」

キリストがベトザタの池で病人を癒されたこと、その人に安息日であっても「床を担いで歩きなさい」とおっしゃったこと。そのすべてが、本当は主イエスこそ神から遣わされた方であり、神の子メシアであるということの証拠なのです。主イエスが誰かからご自分がメシアであることを証言してもらう必要はありませんでした。既に、御自分の御業とみ言葉が、メシアであることの証拠となっていたからです。

人間は、メシアの業・メシアの言葉の前でそのまま問われることになります。逆の言い方をすれば、人間の知恵だけで誰かを説得してイエスこそメシアであると証明していくことは出来ません。キリストとの霊的な出会いによって、人は信仰へと誘われていくのです。

私達自身、そうではなかったでしょうか。説得されて、聖書の知識を増やして信じるようになった、ということではなかったでしょう。自分にしかわからない仕方でキリストが出会ってくださり、不思議な仕方で教会へと導かれていったのではないでしょうか。

なぜキリストを信じていなかった自分がキリストを信じるようになったのかを思い返すと、何かの飛躍があったはずです。説明できない飛躍です。何かしらの奇跡を見せられた、何かしらの神秘を体験した、そういうことから信じるという歩みが始まっていったのではないでしょうか。

今日読んだところの最後で、主イエスは、御自分を批判するユダヤ人たちにおっしゃっています。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない。」

この言葉の中には、イエス・キリストの悲しみが満ちています。ここで言われている「聖書」というのは、今私たちが「旧約聖書」として読んでいるものです。ユダヤ人たちは、永遠の命を求めて一所懸命聖書を研究していたことを主イエスご自身、お認めになっています。

神が預言してこられたように、やがて来るであろうメシアを彼らは待っていました。その彼らが、今、キリストという永遠の命を目の前にしているのに、気づいていないのです。

ユダヤ人たちには既に、メシアに関する知識は持っていました。しかし、実際にメシアが目の前に現れても、気づかなかったのです。主イエスの業を見、主イエスの言葉を聞いても、「この方こそ聖書がその到来を伝えて来た神の子・メシアである」と信じることが出来ませんでした。

彼らは、旧約聖書で預言者の言葉を実際に聞いても信じて従おうとしなかったイスラエルと同じです。神は一体これまで何人の預言者を世に遣わしてこられたでしょうか。しかし人々は聞きませんでした。その過ちを繰り返してはいけない、とイスラエルの民は後世に聖書の言葉を残しました。自分たちの不信仰の歴史と、不信仰が自分たちにどのような滅びをもたらすことになったのかを記録したのです。

しかし、今、イエス・キリストの前にいる人たちは、預言者の言葉を聞こうとしなかったイスラエルの過ちを繰り返しています。主イエスの言葉を聞いても、奇跡を見ても、その中に神の子メシアとしての姿を見出すことが出来ていません。

だから、キリストは深い悲しみをもって、「聖書は私のことを証ししているのに、誰も私のもとに来ようとしない」と嘆いていらっしゃるのです。「あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がおつかわしになった物を、あなたたちは信じないからである」。

さて、私たちは改めてここでよく考えてみたいと思います。ユダヤ人たちの間で、主イエスに対する殺意が生まれていきました。神と自分を対等に考えている、また安息日の規定を重んじていないイエスという人物を彼らは危険視しました。ここから主イエスが何者であるかを聞き出そうとし、試そうとします。最後には主イエスのことを裁判にかけ、十字架に上げて殺すことになります。

繰り返しますが、本当に裁きの場に出されているのは誰なのでしょうか。安息日に仕事をしたイエスが裁かれているのでしょうか。それとも、神の子を殺そうとしている人間が裁きの場に置かれているのでしょうか。

主イエスはおっしゃいます。

「父は誰をも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」

この世で真の裁きを行うのは、イエス・キリストお一人です。その全権を神ご自身から委ねられているからです。

後にイエス・キリストがローマ総督ポンテオ・ピラトと向き合われた時、二人はこんな言葉を交わしています。ピラトが主イエスに言います。

「お前はどこから来たのか。私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか」 Continue reading

5月26日の礼拝説教

ヨハネ福音書5:19~30

「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声と聴く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(5:25)

ユダヤ人たちがナザレのイエスに対する敵意を抱くようになり、その敵意が殺意へと深まっていった、という場面を読んでいます。安息日であったにも関わらず癒しを行い、癒した人に「床を担いで歩きなさい」と告げたイエスのことを、ユダヤ人たちは律法の言葉に反する危険人物として見るようになりました。安息日は、仕事の手を休めて神を礼拝すべき聖なる時であるはずなのです。

そのユダヤ人たちに対して、主イエスは「私の父は安息日も働いていらっしゃる」とおっしゃいました。その言葉が更にユダヤ人たちの敵意を深めることになりました。自分が神と同等の権威を持っているように振舞い、まるで自分が神であるかのようなものの言い方をしたからです。

今日私達が読んだのは、主イエスがはっきりと御自分と神との関係を語られた場面です。この福音書の中で最も明瞭にキリストがご自身と神との関係を語られた言葉ではないかと思います。

何の権威で神殿から商人を追い出すようなことをされたのか、なぜニコデモやサマリア人の女性に、あんなにもはっきりと永遠の命について語ることがおできになったのか・・・この主イエスの言葉を読めばわかります。

御自分が何者であるか、御自分の権威の源がどこにあるのか、ということをお話しなさっています。それだけでなく、この世でなさっている御業の意味、またこの世の終わりに何が待っているのか、ということまで明らかになさっています。

私達は、このキリストの言葉を通して、キリストと共に生きる自分たちの今がどこに向かっているのか、何に向かっているのか、キリストが今を生きる私たちに何を約束してくださっているのか、ということを知るのです。改めて、世の終わりから、自分たちが生きている今という時を見つめなおしていきたいと思います。

キリストはガリラヤで、王の役人の息子を癒されました。続けて、エルサレムのベトザタの池では病人を癒されました。キリストの癒しは、ただ御自分が持つ奇跡の力を見せびらかすためのものではありませんでした。ただ、人として良いことをした、というだけのことでもありませんでした。

キリストが誰かを癒されたその癒しには、癒された人にとってだけでなく、この世の全ての人にとって大きな意味があったのです。旧約聖書を見ると、神から力を託された預言者たちが、誰かを癒したり命を与えたりしています。預言者が行う、ということは、神が行われる、ということでした。

預言者サムエルの母ハンナが祈りの中でこう言っている。

「主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げて下さる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる」サムエル記上 2:6

我々人間の命、人間の存在はまるごと神の御手の内に置かれている、という信仰が祈られています。人は命の作ってくださった創造主の御手の内にあることを歌っています。

キリストはユダヤ人たちにおっしゃいました。「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」

「神がそうなさるように、私もそうする」、という言い方です。キリストが誰かを癒されたということは、神がその人を癒された、ということなのです。そしてそのことは、神が愛を持ってこの世に御手を伸ばしていらっしゃる、ということを世に示す大きなメッセージでした。

主イエスは25節で、人々が目撃した奇跡の意味をお教えになっています。

「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聴いたものは生きる」

主イエスが誰かを癒された、ということは、「来ると言われていた時が来た」ということなのです。

主イエスは最初のしるしを行われたカナの婚礼で、「私の時」という言葉をつかわれました。母マリアが「婚礼の葡萄酒が無くなりました」と言ってきた時、「私の時はまだ来ていません」とおっしゃっています。

イエス・キリストの時とはいつのことなのでしょうか。その「時」を見極めることが、私たちの信仰の中で大切なことであるようです。

主イエスはサマリア人の女性に、おっしゃいました。

「婦人よ、私を信じなさい。あなた方がこの山でもエルサレムでもないところで父を礼拝する時が来る・・・今がその時である」

主イエスは「霊と真理をもって礼拝する時」が来た、とおっしゃいました。そしてその「霊と真理をもって礼拝する時」は、主イエスご自身の十字架という罪の許しの御業によってもたらされることになるのです。

キリストが行われる奇跡を通して私たちは何が見せられているのでしょうか。「真の礼拝の時が迫っている」、ということだ。一つ一つの奇跡の御業が、十字架への秒読みとなり、伏線となっているのです。

聖書はただ、「この人には不思議な力があったのだ」ということを伝えているのではありません。私たちが生きている「時」がどういう時なのかを伝えようとしているのです。そして今、私たちは真の礼拝の時が来た時代を生きている、ということを知るのです。

聖書を読みながら、私達自身、キリストの御業に何を見出しているでしょうか。

「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」19節

この言葉を聞くと、主イエスは無力な方のように思えます。しかしそうではありません。ご自身がなさることは、全て神の御業であるということを示されているのです。ヨハネ福音書の中で、主イエスは神のことを100回以上「父」と呼ばれています。そしてご自身のことを「子」という言葉で約50回おっしゃっています。

イエス・キリストと神の関係は同一なのです。私たちはイエス・キリストの言葉を神の言葉として聞き、キリストの御業に神の働きを見ます。

「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」21節

命をつかさどる神が、世に来られました。それが、イエス・キリストです。キリストは神として、復活の命、永遠の命へと世の全ての人を招こうとなさっています。「時」は来ています。復活という神秘は、現実に起こることであり、私たちが生きる今はそこに向かって生きている今であることを聖書は証ししているのです。

キリストは救いを求める人に、必要な時と必要な場所を備えて出会い、救いの言葉をくださいます。王の役人の祈りに、ベトザタの池で救いを求める人の訴えに、キリストは寄り添われました。

もし我々がキリストに救いを求めていなかったとしたらどうでしょうか。キリストを拒絶するということは、キリストを世にお遣わしになった神を退けるということでもあるのです。

この世の終わりに起こることは神秘です。聖書を読むと、今の私たちにとっては、「本当にこんなことが起こるのだろうか」と不思議に思うような、世の終わりの様子が描かれています。今まで誰も見たことのない光景が記されています。

聖書が「世の終わりにはこうなる」と示していることについては、我々は信じるか信じないか、どちらかしかありません。

私たち今地上に生きる人間の一番の憂いは、死ぬ、ということです。そして、「死ぬ」ということは全ての終わりなのかどうか、ということです。自分が死んだら、その後はどうなるのか。自分は、家族は、どうなるのか。愛する人とのつながりはどうなってしまうのか。聖書はその我々の憂いに答えてくれています。

使徒パウロはこう言っている。

「最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは私も受けたものです。すなわちキリストが聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと。また、聖書に書いてある通り3日目に復活したこと、ケファに現れその後、12人に現れたことです」1コリ15章

パウロは、キリストに起こった受難、復活を「聖書に書いてある通りに」起こったことだ、と繰り返して強調しています。それは、神のご計画でした。長い歴史の中で神は人間を取り戻そうと招きを続けて来られました。それは神が預言者を通して語られ、その言葉が聖書として残されて、今も私たちに伝えられている、とパウロは言います。私たちの信仰は、私たちの命は、肉体の死で終わるものではありません。それも神のご計画です。 Continue reading

5月19日の礼拝説教

ヨハネ福音書5:1~18

「もう、罪を犯してはいけない」

今日はペンテコステ礼拝です。キリストが天に昇って行かれ、地上に残された信仰者の群れの祈りの上に聖霊が注がれました。キリストの十字架を見てから隠れていた人たちが聖霊の注ぎによって、地の果てに至るまでキリストを証言する者として召されることになりました。聖霊の働きは今に至るまで続き、キリスト教会が立ち続け、キリストを求める人が新たに起こされています。

不思議ではないでしょうか。私たちが誰かに教会に来るようにと説得して回っているわけではありません。むしろ、私たちが思ってもみなかったところから、聖霊に招かれた人が教会へとやってくるのです。ペンテコステの今日、特にその聖霊の導きの不思議を覚えたいと思います。

今日私達は、主イエスによる癒しと、その後に問題が起こったことを読みました。主イエスはガリラヤのカナから、ユダヤ人の祭りに参加するために、エルサレムへと上って来られました。そしてベトザタの池と呼ばれる水のほとりで、孤独の絶望の中で癒しを求めていた人を癒されました。

その病人にとっては、「ただ癒された」、というだけでなく、キリストに見出された、という救いの出来事でした。救いを求める人、祈り続ける人のところに、救い主は時を選んで訪れてくださいます。そして、信仰者の祈りと救い主が出会う時、人の思いを超えた奇跡が起こるのです。私達はその不思議を聖書から教えられます。

その癒しの出来事の後に何が起こったのでしょうか。1人の人がキリストに見出され、癒されたことを、ヨハネ福音書は単なる「美しい救いの出来事」として描いているわけではありません。この癒しの業によって、ユダヤ人たちの中に主イエスに対する殺意が生まれることになった、ということが書かれているのです。

誰かの病を癒すことでなぜ殺意を抱かれるようになるのでしょうか。感謝されたり、更に救いを求められたりしたというのであればわかります。しかしどうして、誰かを助けることによって殺意を抱かれてしまうのでしょうか。

人間が聖書の言葉・神の御心を歪んで理解してしまうと、神の言葉であるイエス・キリストの救いの御業の意味も、いびつにゆがめられてしまうのです。その聖書への思いが熱心であればあるほど、ゆがんでしまいます。そのことが、ここに現れています。

その日はユダヤ人の祭りであっただけでなく 安息日でもありました。神殿とその周辺にはたくさんのユダヤ人がいたでしょう。

キリストは安息日に38年間寝たきりだった人を癒され、こうお命じになります。

「起きなさい。あなたの寝床を担ぎなさい。そして歩くのだ」

癒されたその人は、キリストに命じられた通り、自分が今まで身を横たえていた「寝床を担いで」歩きました。ユダヤ人の祭りの最中であり安息日であったので、周りには多くのユダヤ人がいました。「安息日に寝床を担ぐことは許されていない」と周りにいたユダヤ人たちから問題視されてしまいます。この「ユダヤ人」というのは、特に、ユダヤ人の指導者たちです。

これは以前主イエスが神殿で大暴れされた時に、「あなたは何の権威でこんなことをしたのか」と聞いて来た人たちでした。彼らは律法の言葉に関すること・神殿に関することに敏感でした。当時、聖書の律法に書かれている掟を遵守することはユダヤ人にとって生きることそのものだったのです。律法の掟を守って生きるということが、神の恵みの支配に留まる生き方でした。律法から逸れてしまうと、それは、神の支配の外に出てしまう、ということを意味しました。

ユダヤ人たちは、床を担いだ人を見て、「それは安息日にしてはならないことだ」と言っています。安息日の由来は創世記の初めに記されている通りです。神は世界をお創りになり、創造の御業を終えられてから手を止めてその世界を覧になりました。だから被造物である我々人間も、神がなさったように、働く手を止めてこの世界を見るのです。そうやって、創造主への思いを、また創造主に愛されている被造物である自分たちへの思いを深めるのです。それが 安息日です。

安息日は、人が仕事の手を止めて、世界を、また自分を見つめ、創造主へと思いをはせる礼拝の時となりました。

確かに、安息日は大切なものでしょう。問題は、それでは何が「仕事」とされるのかということです。神へと思いを向けることの妨げになる「仕事」とは何なのでしょうか。主イエスがなさった癒しは、神の礼拝を邪魔する「仕事」だったのでしょうか。神の御心にそぐわない「仕事」だったのでしょうか。

安息日に「床を担ぐ」ことは、「神に心を向けていないことだ」、と周りにいたユダヤ人たちは考えました。彼らはこの人が癒されたという救いの御業ではなく、安息日に床を担いではいけない、ということの方に心を向けました。

私たちはこれをどう見るでしょうか。

主イエスに癒された人はユダヤ人たちに答えました。

「私を癒してくださった方が床を担いで歩きなさいと言われたのです」

それを聞いたユダヤ人たちは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのは誰だ」と聞きます。主イエスに癒された人自身、自分を癒してくださった方が一体誰なのか、まだわかっていませんでした。

主イエスは、御自分の奇跡の力を人々に見せびらかすようなことはなさっていません。御自分の力を誇示して注目を集めて人々を信仰へと導くようなことはなさっていないのです。むしろ、神の救いを求めている人を探し出し、その場にいた人、周りにいた人たちに気づかれないように、人々の間に紛れて救いの御業を行っていらっしゃいます。

聖書には、「病気を癒していただいた人は、それが誰であるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである」と書かれています。癒された本人でさえも、その方がイエスという方であることすら知らなかったのです。互いの自己紹介すらすることなく分かれたようです。

私たち自身、キリストとの出会いを思い返すとこのようなものだったのではないでしょうか。自分とキリストとの出会いを振り返ると、キリストは本当に時を選んで自分の前に来てくださった、と思い起こすことが出来るでしょう。聖書を読んでいきなり信じた、教会に行ってすぐに信じた、という人はほとんどいないでしょう。

不思議な仕方で自分はここまで導かれてきた、それはあの時から始まっていた・・・あれが、キリストが自分の思いを知って迎えに来てくださった瞬間だった・・・と思い出すのではないでしょうか。そしてキリストは離れてしまいそうになる自分をその後も、何度も迎えに来てくださった、と思い返すのではないでしょうか。

キリストとの出会いは一つの点で終わることはありません。キリストは私達を探し求め続けてくださいます。出会ってくださり、癒してくださり、道を示してくださり、そしてその道を私たちの肉体の死を超えて共に歩んでくださいます。

この後、主イエスは御自分が癒された人に神殿で会われました。癒された人が見つけたのではなく、主イエスがまたこの人に出会われた、という書き方がされています。

キリストは、神殿の境内でこの人にもう一度出会われておっしゃいます。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」

なぜ主イエスはこの人に「もう罪を犯してはいけない」とおっしゃったのでしょうか。どういう意味なのでしょうか。この「もう罪を犯してはならない」というのは、「私に出会う前の古い自分に戻ってはならない」ということでしょう。「あの池のそばで、自分を素通りする人たちの背中を見て痛みを覚えていた、あの時の自分に、私に出会う前の自分に戻ってはならない。そのために私につながっていなさい」ということです。

一度私たちに出会ってくださったキリストは何度も、「私につながっていなさい。私から離れてはいけない。罪を犯してはいけない」と言い続けてくださいます。今に至るまで聖霊を通してキリストが我々に語りかけてくださっているのは、これなのです。

この一言が、この癒された人を変えました。この人は、このキリストの一言を聞いて、自分の身に起こった癒しは、罪の癒しであり、神との関係の回復であることだったと悟りました。そしてこの人は変わったのです。

15節「この人は立ち去って、自分を健やかにしたのはイエスだとユダヤ人たちに告げた。」

この人は、自分の体と罪を癒してくださった方をユダヤ人たちに証しました。イエスという方を積極的に人々に伝え始めたのです。

それまでは、ただ癒された人でした。それが、キリストに言葉をいただき、道を示されたことで、自分が次になすべきことを知ったのです。自分に出会い、癒し、救ってくださったのは、あの方だ、と証言しはじめました。

キリストに出会った人の次の一歩は、自分で決めた一歩ではありません。

詩編37:23 Continue reading

5月12日の礼拝説教

ヨハネ福音書5:1~9

「よくなりたいか」

主イエスがガリラヤのカナに行かれた時、ある役人が自分の息子を癒してほしいと訴えて来ました。彼は、王の役人でありながら、ナザレのイエスに向かって「主よ」と呼びかけ、救いを求めました。ヨハネ福音書は、この癒しを「二回目のしるしである」と記録しています。

続けて、主イエスはユダヤ人の祭りに加わるためにエルサレムに上られました。これが何の祭りであったのかということは書かれていませんが、この時期、エルサレムには多くの巡礼者たちがいて、たくさんの人であふれていたことでしょう。

その祭りの中で、主イエスはエルサレムのベトザタの池のほとりで38年間病気で苦しんでいた人を癒されました。しかしそれは安息日でした。仕事の手を休めるべき安息日に、誰かを癒した、ということでこの後主イエスとユダヤ人たちの間で議論になります。

私達は今日読んだキリストによる癒しの出来事を通して、安息日とは何か、また安息日にしるしを行われたこのイエスという方は何者なのか、ということを見せられていくことになります。ただ、「キリストによって誰かが癒されてよかった」、というだけでは終わりません。

この癒しの出来事には、いろんな象徴的な意味が含まれています。ヨハネ福音書は、

「5つの回廊があった」ベトザタの池で、「38年間」病に苦しんでいた人がキリストによって救われた、ということを通して何か象徴的なものを見せようとしています。

ベトザタの池の近くにあった5つの回廊は、モーセ五書、律法の象徴と考えられます。

池のほとりに横たわっていた人の病気の年数は38年間でした。荒野をさまよったイスラエルの年数と重なります。モーセは出エジプトしたイスラエルに語りかけている。

「我々はゼレド川を渡ったが、カデシュ・バルネアを出発してからゼレド川を渡るまで38年かかった」(申命記2:13)

この病に苦しんでいた人は、神の言葉である律法が与えられていながら荒野の苦しみを感じていたイスラエルの象徴のような人なのです。

出エジプトをしたイスラエルは荒野を歩き続けました。神の律法をいただいて神に導かれ、神に養われていたにも関わらず、荒野の苦しみを感じ続けました。なぜでしょうか。私達は、キリストが出会われたこの病の人に、救いを求め荒野をさまよう人の痛みを見ることができるのだ。

それは過去のイスラエルだけではなく、今の私たちの痛みでもあります。

キリストは寝たきりになっている人をごらんになって「あなたは健やかになりたいのか、良くなりたいのか」とお尋ねになりました。ベトザタの池に通っている、ということは、「良くなりたい」ということです。いちいちそんなことを聞かなくてもわかることだし、その人もそう聞かれたら「もちろんです」と答えるのが普通でしょう。

しかし、この人の答えは「はい、良くなりたいです」ではありませんでした。

「誰も私を助けてくれないのです。みんな私を置いて行ってしまうのです。私には助けがないのです」

病気で横たわっていたこの人が抱き続けて来た本当の苦しみは、自分が立てないということ以上に、「誰も自分を助けてくれない」という孤独でした。自分を素通りして、皆、先に池の方に降りて行ってしまうのです。この人は自分を置き去りにして進んでいく人たちの背中を見送ることが、自分が病であるということ以上の痛みに感じていたのです。

キリストがこの人に何を見出されたのかは何も書かれていません。しかし、この人の言葉を聞いてすぐにおっしゃいました。

「起きなさい、あなたの寝床を担ぎなさい。そして歩きなさい」

イエス・キリストは人間の心の中に何があるのかをご存じである、と福音書は記しています。キリストは この人の心の内を確かにご覧になって、何かを見出し、癒しの言葉、救いの言葉をお与えになりました。

病の人はキリストの一言によって寝床を担いで起き上がりました。なぜキリストはこの人を癒されたのでしょうか。周りには他にも、この人のように何かしらの不自由を抱えている人たち、病の人たちがいたでしょう。なぜ、この人だったのでしょうか。この人だけ、だったのでしょうか。

キリストはこの人が一番可哀そうと思われた、ということなのでしょうか。この後を読めばわかりますが、癒された人自身が、この後キリストに癒された証し人となり、証の器として用いられていくことになります。キリストはこの人を、御自分の証の器として召し出されたのです。

聖書に描かれているキリストとの出会いはそういうものです。キリストに癒されて終わり、ではなく、その人がキリストを証しするために自分の生き方が変わる様が描かれているのです。

キリストに出会った人は、キリストに救われた者として生きるようになります。

「私に出会ってくださったのはイエス・キリストです。私を癒し、立ち上がらせ、歩ませてくださっているのは、イエス・キリストです」と言って生きるようになるのです。キリスト者は、自分がキリスト者である、ということで既に、キリストの証人なのです。

マルコ福音書に、ゲラサ人の地方でレギオンという悪霊の大群に取りつかれていた人のことが書かれています。その人はキリストによってレギオンから救われた際、「一緒に行きたい」とキリストに従おうとしました。

しかしキリストは、「自分の家に帰りなさい」とおっしゃって、自分の身に起こったことを人々に伝えるようにお命じになりました。この人は、「デカポリス地方に言い広めた」と書かれています。

デカポリスというのは、「10の町々」という意味の言葉です。キリストに出会った一人の人が、10の町々への証しの器とされたのです。私達がキリストに出会う、ということは、ただ、出会った、というだけでは終わりません。自分が思ってもみないような仕方でキリストに用いられていくことが始まる、ということなのです。

さて、キリストに癒された人に焦点を当てて見たいと思います。キリストはこの人の38年間を担われました。この人の38年の苦しみは何だったのでしょうか。この人は、神の救いを求め続けて来た人でした。全てを諦めているなら、ベトザタの池に通ったりはしません。天使が下りてくるときに動く水に、いつか自分も入りたい、と願っていました。その信仰の営みがあったからこそ、キリストが来られた時、この人はそこにいたのです。

イスラエルは出エジプトの荒野の旅の最後で、その旅の意味を知らされた。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。・・・人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」

病の38年というこの人の荒野の旅路は、イエス・キリストに出会うための38年となったのです。キリストに出会ったこの人のその後の人生は、痛みと孤独を知ったキリストの証人としての歩みへと変わりました。

マタイ福音書で、キリストは福音を聴いても悔い改めない人たちのことを嘆いて、こうおっしゃっている。

「疲れた者、重荷を負うものは、誰でも私の下に来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜なものだから、わたしのくびきを負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたはやすらぎを得られる。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである」

洗礼を受けてキリスト者になれば、痛みや病かとは無縁になるのか、というとそうではありません。むしろ、キリスト者だからこそ、担わなければならない、キリストのための痛みというものもあります。

ベトザタの池で長年横たわり、孤独の中で他の人たちが自分の脇をすり抜けて行くのを見送るしかなかったこの人のように、私たちだって、自分よりも先を行く他の人たちの背中を眺めてうらやむ時はあるでしょう。どうやっても自分で自分を救えない時・試練の時があります。

しかし、私たちにあるのは絶望ではありません。絶望の中に差し込む光を待つ、という選択肢が我々信仰者には与えられています。疲れた時、重荷を負った時、我々はイエス・キリストのくびきを負わせていただきます。それは、自分に課せられた重荷を共にキリストが共に担っていただくということです。

自分でなんとかできるのであれば何とかすればいいでしょう。しかし、どうあがいても道が見いだせない時があります。人としての頑張りではどうにもならない時、その場にしゃがみ込むしかない時が、人にはあります。 Continue reading

5月5日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:43~54

「主よ、子供が死なないうちにおいでください」

ある一人のサマリア人女性を通じて、主イエスはサマリア人たちにご自身を示されました。シカルというサマリアの街に住んでいた人々は、サマリア人でありながらユダヤ人であられた主イエスの下に来て、「私たちは自分で聞いて、あなたが本当に世の救い主であると分かった」と言いました。ユダヤ人とサマリア人の間に会った壁を越えて、人々はキリストを見出したのです。非常に印象深い、主イエスのサマリア滞在です。

その滞在の後、主イエスはガリラヤへと移動されました。44節にこう書かれています。

「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。」

サマリアで人々からキリストとして受け入れられた主イエスでしたが、これからの故郷のガリラヤ滞在でどんなことが待っているのかを暗示している言葉です。

今日私たちが読んだのは、イエス・キリストが、最初のしるしを行われたカナで再び奇跡を行われた、という場面です。王の役人が、エルサレムでたくさんのしるしを行ったイエスという人に、自分の息子を癒してもらおうとしてやってきました。キリストはその人に「あなたの息子は生きる」という言葉をお与えになり、その言葉通り、役人の息子の病は治りました。

ヨハネ福音書はこれを、「イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた二回目のしるしである」と記録しています。最初のしるしは、カナの婚礼で水を葡萄酒に変えられた奇跡でしたが、福音書はその1つ目のしるしの後、キリストが行われたエルサレムでのたくさん行われたことを記録しています。しかしエルサレムで行われたそれらのしるしは数として数えられていません。「その他のしるし」のように扱っています。

ヨハネ福音書にはキリストが行われた大きな7つのしるしがあると言われています。

1つ目は カナの婚礼で水をぶどう酒に変えた奇跡

2つ目は 王の役人の息子の癒し

3つ目は 足の萎えた人の癒し

4つ目は 5000人にパンと魚をお与えになった奇跡

5つ目は キリストが水の上を歩かれた奇跡

6つ目は 盲人の癒し

7つ目が ラザロのよみがえり

ヨハネ福音書は最後で、「世界中の書物に収めきれないほど」キリストのしるしは行われた、と記録していますが、聖書が特に私たちに大切なしるしとして見せようとしているのが、これらの七つのしるしである、ということです。

これらの奇跡の出来事を通してヨハネ福音書は私たちに何を証ししようとしているのでしょうか。一言で言えば、「新しい時代が来た」、ということです。

主イエスはエルサレム神殿で、「新しい神殿を建てて見せる」とおっしゃいました。イスラエルの教師ニコデモには、「人は新しく生まれ変われなければ神の国を見ることはできない」とおっしゃいました。サマリアの女性には「私は生きた水である。エルサレムでもサマリアでもないところで礼拝がささげられる時が来る。今がその時である」とおっしゃいました。そして今日読んだところでは、キリストは御自分に癒しの救いを求める者に新しい命をお与えになりました。

キリストがもたらしてくださった、新しい神への招きの時代、新しい礼拝の時代、新しい命の時代は、私たちの生活の中に届いたのです。神殿の奥の、祭司しか入れないようなところで私たちはキリストと出会うのではありません。

生活の中にある痛みの中に、悩みの中に、自分の努力だけではどうしようもない苦しみの中で、祈るしかない中で、「渇く者は私の下に来なさい。値無しに命の水を飲ませよう」という御声を聞くことが出来る時代を迎えたのです。

今日私たちが読んだのは、単に「不思議な奇跡の業が行われた」というだけのことではありません。生活の中で、自分が考えてもいなかった方向から与えられるキリストの言葉・救いがある、ということ、そしてそのような恵みに満ちた新しい時代を生きているということを、福音書に証しされたしるしを通してかみしめたいと思います。

さて、サマリアで女性とお話しをなさった後、主イエスはガリラヤへと戻って行かれました。ガリラヤの人たちはイエスを歓待しました。人々は、エルサレムの祭りで主イエスがなさった奇跡を見ていたからです。自分たちの土地から出た英雄のように迎え入れました。

しかし、主イエスはガリラヤの人たちの喜びを冷めた目でご覧になっています。「預言者は、自分の故郷では敬われないものだ」という思いをもっていらっしゃるのです。

何か不思議な業を見た人たちは、興奮して御自分に近寄ってくるということをご存じでした。エルサレムでたくさんのしるしを行われた際、人々は主イエスの下にやってきました。2章の最後で、福音書にはこう書かれています。

「イエスご自身は彼らを信用されなかった・・・イエスは何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」 Continue reading

4月28日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:27~42

「さあ、見に来てください。私が行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」

主イエスとサマリア人女性がヤコブの井戸のそばで話している間、弟子達は町に買い物に出かけていました。女性が、「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています」というのを聞いて、主イエスは「それは、あなたと話をしているこの私である」とおっしゃいました。

女性にとっては、時が止まったような瞬間でした。自分が今聞いた言葉をなんとか飲み下そうと、女性は口をつぐみました。今、自分の目の前にいらっしゃるこの方が、自分で自分のことを「私こそがキリストだ」とはっきり言ったのです。確かに、この方は初めて自分に合うのに、自分のことを全て知っておられました。人には隠しているようなことまで全てご存じで、心の底まで見透かしていらっしゃいました。嘘を言っているようには思えません。

サマリア人女性が驚いて主イエスのことを見つめる時間が流れました。ちょうどその時、主イエスの弟子達がそこに帰って来ました。そして、今度は弟子達が驚きました。自分たちの先生が、サマリア人女性と話しておられるのです。

あまりに驚いて、女性に向かって「何の用ですか」とか、主イエスに向かって「この人と何を話していらっしゃるんですか」と尋ねる者もいなかった、とあります。主イエスと女性が見つめあっているのを見て、何かただならぬ話をしていた、という緊張感を感じたのでしょう。

女性は、戻って来た弟子達に目をくれることもなく、向かって行きました。よほど急いでいたのでしょう。水くみに必要な大切な水瓶を忘れて行ってしまいました。私たちは、女性がどれだけこの水くみの作業を嫌っていたかを、ここまで読んで知っています。これまで5人の夫をもち、今は夫ではない男性と暮らしていた人です。町の人たちから軽蔑の目を向けられ、女性は人目を避けて、一日の一番暑い時間帯、だれも井戸に水を汲みに来ない正午に通っていたのです。はやく水くみを済ませて、井戸から離れ、すぐに家に戻りたいと思っていた人です。

その人が、大切な水瓶をその場に残して町に行ったのです。「飲めばなくなる水・飲んでもすぐに渇く水」ではなく、「永遠に尽きることのない命の水」を見出したことの証拠だろう。

そして、今まで人目を避けて生きて来た彼女が、家々を回り、「さあ、見に来てください。私が行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と言いました。

なんという変わりようでしょうか。キリストに出会った人は、ここまで変わるのです。そして女性の言葉を聞いた町の人々は、「イエスの下にやって来た」とあります。町の人たちは信じるしかなかったのでしょう。

「この人は人目を避けて自分の家に閉じこもっていた人ではないか。その人が町中で自分を人目にさらし、『来てください』と言っている。この人が言っているのは本当のことではないか」と、人々は町を出て、主イエスのもとへと向かうことにしました。

さて、女性が町に向かってその場を去った後の弟子達です。主イエスとサマリア人女性が話していた、ということについては誰も触れませんでした。まるで何事もなかったかのように、ただ自分たちが買ってきたものを差し出して「ラビ、食事をどうぞ」と言いました。

しかし主イエスは、弟子たちがご自分とサマリア人女性が会話をしていた事実から目を背けることをお許しにはなりませんでした。サマリア人女性に「生きた水」をお示しになったように、弟子達には「私にはあなた方の知らない食べ物がある」とおっしゃいました。主イエスはニコデモやサマリア人女性に謎をかけられたように、弟子達にもこのようなことをおっしゃるのです。

弟子たちはニコデモやサマリア人女性がそうだったように、文字通り主イエスの言葉を解釈しました。「誰かが食べ物を持ってきたんだろうか」と不思議に思いました。

主イエスがニコデモに「水と霊によって生まれなければならない」とおっしゃったように、サマリア人女性に「生きた水」を語られたように、ここで弟子たちには「天からのパン・食べ物」のことが語られている。弟子たちは、より深い天の言葉の理解へと招かれることになります。「弟子達が知らないパン」とは我々地上のものたちが知らない糧、霊の糧です。

「目を上げて畑を見るがいい、色づいて刈り入れを待っている」と主イエスは弟子達におっしゃいました。井戸の周りには麦畑があったようです。収穫の時期だったようです。畑には収穫する人が働いていたのでしょう。

ここで言われているように、収穫には4ヶ月ぐらいかかります。1月か2月に種をまいて、5月か6月に収穫となるそうです。主イエスが弟子達に「見なさい」とおっしゃったのは、種を蒔き、それを育て、収穫する人たちの喜びの姿でした。

「君たちは、あのように、天の収穫を喜ぶ者となるのだ」とお示しになったのです。

詩編126:5~6

「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」

弟子達には、キリストを信じる者には、福音の種まきがまかされています。種まきをしんどいと思うこともあります。しかしその種まきが無駄に終わることはありません。必ず、私たちの涙は、喜びの歌へと変えられていくのだ。

主イエスは「あなた方が自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、私はあなた方を遣わした。他の人々が労苦し、あなた方はその労苦の実りにあずかっている」

弟子達は主イエスが何をおっしゃっているのか、理解できなかったのではないでしょうか。自分が蒔いたのではない種があり、その収穫を自分が刈り入れることが許される、というのです。

「先生は何をおっしゃっているのだろう」と考えているところに、サマリアの人たちがやって来ました。あの女性が、町から人々を連れてきて、「この方が、私の行ったことを全て言い当てました」と言います。

主イエスは人々に請われるまま、そこに二日間滞在されました。そして「更に多くの人々が、主イエスの言葉を聞いて信じた」、とあります。そして、人々は女性に言いました。「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」

弟子達は、サマリア人女性が人々を主イエスの下に連れてくるのを、そして人々が主イエスを世の救い主として信じるのを見ました。弟子達は主イエスのなぞかけを、字義通りに、「自分たちが買い物をしている間に、誰かが主イエスにパンを持ってきた」、と思っていた。弟子達は主イエスの言葉を地上のレベルで解釈しました。

しかし、主イエスから井戸の周りに会った小麦畑の収穫を見て、弟子たちは気づき始めたのではないでしょうか。主イエスが、単に小麦の収穫の喜びではなく、「この人たち」のことを言っているのではないか。

一人が種をまき、別の人が借り入れるという諺が本当のことになっています。主イエスの言葉は4ヶ月も待たなくても実りが育ちました。「目を上げて畑を見るがよい」というのは、単に弟子達が目線を上げるということではなく 天に心を向けなさい、ということではないか。そしてその言葉は、そのまま私たちにも向けられているでしょう。

主イエスとサマリア人女性との会話は、最後には、サマリアの町の人々の主イエスへの立ち返りという救いの出来事につながりました。そして見過ごしてならないのは、主イエスはその出来事を、弟子達にお見せになった、ということです。

弟子達は自分たちの先生がサマリアの女性と話しているのを見て驚きました。ユダヤ人とサマリア人の間にある溝、男性と女性の違いをこだわりがあったからです。しかし、それらの溝や壁を越えて、神は救い主の下に二つの民族の人々を招かれました。

サマリア人たちだけではなくユダヤ人であった弟子たちもこの収穫の喜びに招かれています。弟子達は、自分たちの人間的な思いを超えて世のすべての人を1つに集めようとなさる神の御業を見たのです。

実際サマリア人女性は主イエスの弟子たちの業を担っています。誰かを主イエスの元へと招くのは、本来は弟子達の使命であったはずです。しかしここでは、一人のサマリア人女性が、キリストを証し人々をキリストのもとに招いています。一番キリストとは縁遠いと思われているような人が、です。

サマリアの人々は、この女性を通してイエス・キリストの業を信じました。そして次には、自分自身でこの方の言葉を聞いたから信じるのだ、と言うようになりました。

ここに至って主イエスが誰であるのかがはっきりしました。単なるユダヤ人の旅人ではありません。律法学者でもありません。預言者でもありません。それ以上の方です。

救い主キリストであるということ。

それは聖書では神ご自身のことを指しています。

旧約時代の預言者イザヤが、神の言葉を伝えている。 Continue reading

4月21日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:16~26

「それはあなたと話をしているこの私である」

サマリアのシカルという町の井戸で、あるサマリア人女性とユダヤ人男性の旅人が出会った、という出来事を読んでいます。「私に水を飲ませてください」と言う旅人の一言から会話が始まって行きます。

人目を避けて、一日の一番暑い時間帯に井戸の水を汲みに来た女性にとって、見ず知らずのユダヤ人男性から話しかけられたことは迷惑だったでしょう。しかし、この旅人との会話が 進むに従って彼女は「この人には何かある」と思うようになっていきました。

「私にはこの井戸に勝る水がある。あなたが私が誰かを知ったら、あなたの方から私に水をくださいと言ったでしょう」と旅人は言いました。「私にはこの井戸に勝る水がある」という言葉に、サマリア人女性は食い下がります。このユダヤ人の旅人は、サマリア人の祖であるヤコブよりも、まるで自分の方が偉いかのような言い方をしているのです。

「この井戸は私たちサマリア人の先祖であるヤコブが掘ったのです。あなたはヤコブよりも偉大だと言うのですか」

旅人は、静かに答えました。

「この井戸の水は飲んでも渇くが、私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」

女性は「水が湧き出る」、と聞いて、「もう水くみに来なくてもいいのでは」、という期待を抱きました。しかしそこまで会話が進むとなぜか旅人は女性に「あなたの夫をここに呼んできなさい」と言います。

「私に夫はいません」と答える女性に、「あなたはこれまで5人と結婚して、今は夫ではない男性と暮らしている」と答えました。女性は初めて会うこのユダヤ人の旅人が、自分のことを全て知っていることに驚きました。彼女の誰にも知られたくない生活のすべてを見通しているこの方のことを、女性は本当にサマリア人の先祖であるヤコブよりも偉大な方ではないかと思い始めるのです。

「あなた」という呼び方から「主よ」という呼び方になり、「あなたは預言者だとお見受けいたします」と言うようになりました。不審に思いながらも、女性は少しずつこの旅人の言葉に恐れを抱くようになっていき、この方の言葉を神の言葉として聞くようになっていったのです。

使徒パウロはコリント教会にこういう言葉を書いています。

「神は・・・私たちを通じていたるところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」Ⅱコリ2:14

「キリストを知るという知識の香り」とは何でしょうか。

「キリストを知る」とは、どういうことなのでしょうか。

この女性はキリストと会話を続ける中で、少しずつ、「この方は預言者ではないか」、「この方は本当にキリストではないか」と心の目が開かれていきました。本を読んで、聖書学者が書いていることを理解して「キリストを知る」ということももちろん大事なことでしょう。しかし、このサマリア人女性は、難しい内容の宗教の本を読んだり、キリスト教の講演を聞いたのではないのです。

この女性は、自分に声をかけて来られたキリストに対して、「この方は誰なんだろう」と思いながらも、キリストの言葉を聞き続けた、求め続けた、ただそれだけで「この方は本当にメシアかもしれません」と人々に告げるようになります。彼女は諦めなかったのです。救いを、キリストをも求めることを諦めなかったのです。

当時はユダヤ人男性がサマリア人女性に声をかけることなど非常識なことだった。

それでも、彼女はこの方に出会い、言葉を交わしながら「あなたはヤコブに勝る方なのですか、あなたがおっしゃる水とはなんですか。なぜ私のことを全てご存じなのですか」と言って、その場を立ち去ることをしなかったのだ。

これが、「キリストを知ろうとする」ということではないでしょうか。この方に出会い、この方に全てを知られていることを知り、自分の内にあるあらゆる醜さをご存じの上で招いてくださる懐の深さを知って、どんどん求めていくことです。

このサマリア人女性は、目の前に座って自分に話しかけているユダヤ人の旅人の名前すら知ります。恐らく、主イエスとこの女性との会話は数分のやりとりだったでしょう。キリストを求め、真の礼拝を求め、罪の許しを求める女性は、目の前に現れ、全てを知ってくださっている方に、命の水を求め続けました。そのことによって、キリストを知っていったのです。

私達はキリストを知って、求め始めるのではないのでしょう。逆ではないでしょうか。キリストに知られ、キリストを求めるからこそ、キリストのことが少しずつ分かって来るのではないでしょうか。パウロが「キリストを知る」、と表現しているのは、そういうことではないでしょうか。

1世紀のキリスト者たちは、キリスト教の勉強をしてキリストを知ったのではないのです。聖霊の導きとしか言いようのない、「キリストとの出会いだった」としか言いようのないことを経験して、「キリストを知る知識の香り」を身にまとったのです。キリスト者たちは、その「キリストを知る知識の香り」をまとって生きることで、隣人をキリストの元へと導いて行ったのです。

招いてくださるイエス・キリストに向かって、直接「あなたは一体誰なのですか」と問いかける、そこにこそ、「キリストに出会う」、ということの本質があるのでしょう。それは、私たちのキリスト教についての知識量というようなものとは関係なく、もっと、単純なことではないでしょうか。

「このような私まで、神は探し求め、招いて下った」、という事実に打たれ、ひれ伏すことです。それが、本当の意味で「キリストを知る」ということでしょう。

さて、サマリア人女性は旅人に向かって、「あなたを預言者とお見受けします」と告白した。そして一つのことを尋ねた。

「サマリア人はサマリアの山で礼拝しましたが、ユダヤ人はエルサレムに礼拝の場所があると言っています」

女性は何を知りたがっているのでしょうか。彼女の言葉は、「預言者であるあなたに、サマリア人の私が一体どこで礼拝すればいいかを教えてほしい」、という訴えだった。彼女は、礼拝の場所を探し求めていたのです。

自分の私生活を全て知っているということは、この方は預言者なのだろう、そして預言者は神の言葉を託されているのだから、私が神を礼拝するためには、どこに行けばいいのか教えてほしい、と思ったのだ。

それにしてもなぜ突然、女性は正しい礼拝の場所がどこなのかを尋ねたのでしょうか。礼拝の場所を知りたいと願うことは、どこで罪の許しを得られるのか知ろうとした、ということです。

女性の訴えは、「私の罪は一体どこに持っていけば許されるのですか」ということでした。

申命記18章15節に「モーセのような預言者が来る」と言われています。それは、神から離れた人を神の元へと招く言葉を伝えてくれる人、正しい神との関係へと導いてくれる人が来る、ということです。このサマリア人女性は、今自分の目の前にいるユダヤ人男性が、その預言者ではないかと希望を持ちました。それは、罪の許しの希望だったのです。

女性は、「私どもの先祖はこの山で礼拝しました」と言っています。サマリアは、信仰の父と呼ばれるアブラハムやイスラエルという名前を神から与えられたヤコブが礼拝を捧げた場所でした。

アブラハムが神に召され、故郷ウルを離れ、旅をしてたどり着いた場所は、サマリアでした。アブラハムはそこで礼拝を捧げています。創12:6

また、一度は逃げ出したヤコブが家族と兄エサウの下に戻った時にも、そこで礼拝を捧げました。創 33:20

しかし、主イエスの時代には、サマリアから礼拝の場所が無くなってしまっていました。イスラエルは歴史の中で、南北に分裂してしまいます。南のユダヤ人と北のサマリア人に別れ、ユダヤ人たちはエルサレムで、サマリア人たちはサマリアでそれぞれ礼拝をささげるようになりました。

サマリアの人たちは Continue reading

4月14日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:7~19

「あなたの夫を連れてきなさい」

イエス・キリストと、サマリア人女性の出会いの場面を読んでいます。女性は井戸のそばに座って来た旅人が、自分に話しかけてきたことに驚きました。当時、「ユダヤ人とサマリア人は交際しなかった」、と書かれています。男性が女性に話しかけることも、はばかられていた時代でした。

それでも主イエスはかまわず女性に話つづけていらっしゃいます。しかし、この場面を読むと、主イエスと女性の会話はなかなかかみ合っていません。

「水を飲ませてください」と女性に頼まれた主イエスでした。しかし本当に問題にされたのは、女性がご自分に水を飲ませてくれるかどうか、ということではありませんでした。「水を飲ませてください」と言った御自分が一体何者であるか、そして主イエスが女性にお与えになろうとしている「水」とは何なのか、をお伝えになろうとしたのです。

3章で主イエスとニコデモの会話が記録されていますが、それとよく似ています。ニコデモは主イエスの言葉の表面的に理解しようとしました。このサマリア人女性も同じです。

ニコデモとの違いは、このサマリア人女性は、自分に話しかけてきたユダヤ人の旅人が言葉で言い表すことのできない何かを伝えようとしているのではないかと感じて、なんとか理解しようと聞き続けたことです。

ニコデモは、イスラエルの教師として「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と、主イエスに食い下がりました。

「もしあなたが神の賜物を知っており、『また水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」

この言葉を聞いて、女性は「この人はユダヤではとても偉い人なのだろう」と思ったようです。「あなた」と呼んでいたのが、「主よ」と呼ぶようになり、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と言うようになっていきます。そして最後には女性は人々のところへ行き、「あの方はメシアかもしれません」と告げて回ることになるのです。

イエス・キリストとの出会いによって、人は自分がまとっている仮面や鎧を脱いでいくことになります。そうやって身軽になっていくにつれて、キリストの存在を間近に感じるようになっていくのです。

サマリア人女性は、主イエスの言葉を不思議に思いました。自分はからかわれているのだろうか、と思ったかもしれません。「水を飲ませてください」と言ったかと思うと、「私に頼んだら生きた水を与えたことでしょう」などと言うのです。水を入れる入れ物を持ってもいないのにそんなことを言ってくるのです。

そしてまるで自分が、旧約聖書の創世記に出てくるヤコブよりも偉いかのような言い方をすることが気になりました。女性は主イエスに質問します。

「あなたは私たちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え彼自身もその子供や家畜もこの井戸から水を飲んだのです」

ヤコブはイスラエルとも呼ばれ、イスラエル12部族の元になった人です。特にサマリア人の祖先とされていました。このユダヤの旅人はヤコブが掘ったこの井戸の水に勝る「生きた水」を与える、などと言っているのです。

サマリア人女性にとって、ヤコブ以上に偉い、という人物は考えられなかったでしょう。女性は、主イエスをヤコブと比較しています。だから主イエスがおっしゃることの意味がなかなか分かりませんでした。

キリストに対する無理解というのは、人が誰しももっている、このような比較に根差していることが多いのです。「イエス・キリストと誰それは、どちらが偉大だろうか」、などと考えるのです。

キリストを世界の偉人の一人に数える人は多いのではないでしょうか。しかし、イエス・キリストのことを、単に「社会にいい影響を及ぼした偉い人の一人」として見るのであれば、このサマリア人の女性やイスラエルの教師ニコデモのように、主イエスがおっしゃる言葉が理解できなくなってしまいます。キリストをキリストとして見る信仰の目を持たなければ、聖書を読んでも本当のところはよくわからない、ということになってしまうのです。

ニコデモは、「人は上から新たに生まれなければならない」と言われて、「どうして母の胎に戻ってもう一度生まれることができるでしょうか」と言いました。この女性も、「私はあなたに生きた水を与えよう」と言われても「あなたはヤコブよりも偉いのですか」と言いました。ちぐはぐなやりとりです。

ニコデモも、サマリア人女性も、主イエスのことをはじめはキリストではなく「ユダヤ人の律法の偉い教師」として見ました。だから人の知識で、人の地平でしかこの方を見ることができなかったのです。

主イエスがおっしゃる「生きた水」とは何なのでしょうか。ヤコブが掘った井戸の水とはどう違うのでしょうか。女性は主イエスがおっしゃった「生きた水」のことを文字通り、わき出す水のことだと理解しています。

ヤコブが掘ろうが、誰が掘ろうが、井戸から水を汲んで飲んでもやがて喉は渇きます。しかしこの旅人は言うのです。

「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかしわたしが与える水を飲むものは決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」

この言葉は女性にとってとても魅力的なものでした。女性は生きるために毎日この井戸に水を汲みにこなければなりませんでした。しかし水汲みは嫌な作業でした。人目を避けて、一日で一番暑い時間に水汲みに来ていました。人目を避けなければならないような生き方をしている人だったのです。

この人が水をくれるというのであれば、自分はもう人目を避けてこの井戸に水くみに来る必要はなくなります。女性は答えました。

「主よ、渇くことがないように、またここにくみに来なくてもいいようにその水をください」

これこそ女性の本当の願いでした。

よく見ると、主イエスは女性に「生きた水、湧き出る水」とおっしゃっています。単なる「水」のことをおっしゃっているのではないのです。文字通りの水ではなく、何か霊的な意味でこの言葉を女性にお伝えになっているのです。

聖書で、水は「命」の象徴です。

詩編42:1~2「枯れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く」

イスラエルの詩人は歌っています。「水を求めるように神を求める」「魂の渇きを満たしてくださるのは神であり、自分の魂は命の神を常に求めている」

預言者イザヤの書にも、神の言葉があります。

イザヤ書55:1「渇きを覚えているものは皆水のところに来るがよい。・・・耳を傾けて聞き私のもとに来るがよい。聞きしたがって魂に命を得よ」

国を失い、バビロンに捕らわれていたイスラエルの人たちに向けて神が預言者を通して語られた言葉です。

外国にとらわれていたイスラエルの人たちは魂が飢え、渇いていました。そこで神の招きの言葉を聞いたのです。

「水の所に来なさい」

「水の所」とは神の御許です。このようにイエスキリストがおっしゃる「生きた水」とは神のことです。そして「私はあなたに生きた水を与えることができる」とおっしゃるのはつまり「私が神である、だからここに来なさい」ということなのです。今サマリア人女性は目の前に「命の源泉」を見ているのです。

ここまで言われても女性はまだキリストがおっしゃっていることが理解できていません。彼女はまだ主イエスが自分の水汲みの仕事を軽減させてくれる、ことを期待しています。

私たちもこの女性が持っていた期待と同じようなことをキリストに対して抱くことはないでしょうか。キリストを信じれば何か自分の仕事が楽になるという期待をいたりはしないでしょうか。自分が抱えている仕事や問題が軽くならないのであればすぐに私たちはすぐにキリストを疑ってしまうのではないでしょうか。 Continue reading

4月7日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:1~9

「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」

イエス・キリストと、一人のサマリア人女性の出会いが記録されています。主イエスがユダヤ地方からサマリアを通って旅をされていた途中のことでした。2人の出会いは、主イエスが旅に疲れてそのまま座られた井戸のそばでした。

旧約聖書を読むと、井戸のそばでいろんな人たちの出会いがあったことが書かれています。イサクや、ヤコブ、モーセもそうです。彼らは、井戸で何かしらの出会いがあり、それが結婚のきっかけとなったりしました。小さな偶然のような誰かの井戸での出会いが、歴史の中で全ての人間にとって大きな意味を持つことがあります。

今日私達が読んだところを何気なく読むと、サマリアの井戸で主イエスと女性が出会った、というだけのことでしょう。しかし旧約聖書の物語や、当時のユダヤとサマリアの背景を踏まえて読むと、表面を読んだだけではわからない、この出会いに隠された神の導きの深さを見ることが出来るのです。

主イエスはユダヤ地方で洗礼者ヨハネと同じように、人々に洗礼を授けていらっしゃいました。「実際に授けていたのは弟子達であった」、と書かれていますが、主イエスの権威のもとに弟子達は人々に洗礼を授けていたのでしょう。

主イエスが洗礼者ヨハネよりも多くの弟子を造り、洗礼を授けている、ということがファリサイ派の人たちに知られることになりました。

「イエスはそれを知ると、ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた」とあります。

ファリサイ派の人たちから警戒され、宣教活動の邪魔をされることを煩わしく思われたのでしょう。

ヨハネ福音書を読むと、主イエスの一行は頻繁にユダヤ地方とガリラヤ地方を行き来していたことが分かります。北のガリラヤ地方と南のユダヤ地方を行き来する際、一つ問題がありました。ガリラヤ地方とユダヤ地方の間に、サマリア地方があったということです。

何が問題かというと、ここにも書かれているように、この当時、ユダヤ人はサマリア人と交際しなかったのです。ユダヤ人がガリラヤとユダヤを行き来する際、サマリアを通るか、迂回するかを決めなければなりませんでした。ユダヤからガリラヤまで、まっすぐ行けば三日ぐらいで行けますが、サマリアを通らず迂回していくとなれば、二倍か三倍、時間がかかるのです。

主イエスと弟子達は、サマリアを通ってガリラヤに向かうことにしました。そして一行がサマリアに来た時、主イエスは旅に疲れて、井戸のそばに座られました。て弟子達は食べ物を買うために町に行っていました。主イエスは井戸のそばにお一人でいらっしゃいました。そこに一人のサマリア人女性が井戸に水を汲みに来ます。主イエスはこの女性に「私に水を飲ませてください」と頼まれました。

女性は驚いています。

「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」

この女性の驚きは当時では普通のことでした。ユダヤ人がサマリア人に、しかも男性が女性に、こんなにも大っぴらに話しかけ、ものを頼むということは考えられないことだったのです。

少し、この時の女性の驚きについて、背景の解説を加えておきたいと思います。

BC870、ダビデの治世が終わり、ソロモンが死ぬと、イスラエル王国は北と南に分かれました。北王国はサマリアを首都に、南王国はエルサレムを首都にしました。

北王国はBC721にアッシリア帝国に占領されてしまいます。アッシリアは、そこにユダヤ人以外の民族を入れました。そのことで、サマリアを中心とする北王国は混血が進んでいきました。

一方、南王国もバビロニアによってBC586に滅ぼされましたが、人々はそのままバビロンへと連れて行かれ、捕囚生活を送りました。やがてその人たちの子孫は、エルサレムのあるユダヤ地方に戻って来ることになります。捕囚からの帰還民は自分たちのユダヤ人としての純血が保たれたことを大切にし、サマリアの人たちを異民族として見るようになります。こうして、歴史の中で北のサマリアと、南のエルサレムの間に深い溝が出来ていったのです。

元は同じ国民だったのに、国が分裂し、外国に滅ぼされることを通してこんなにも深い溝が出来ていたのです。そのような背景の中で、ユダヤ人の主イエスと、サマリア人女性が出会い、言葉を交わしたのです。

問題はそれだけではありません。主イエスが話しかけられた相手がサマリア人であったということに加え、それが女性だった、ということです。主イエスの時代、ユダヤ人とサマリア人という民族の違いに加え、性別の違いも大きなものでした。

当時、律法の教師は、道で女性に話しかけてはならないと教えていました。ファリサイ派の一部の人たちは、女性を見ないように、目を閉じて歩くほどでした。

そしてもう一つ、踏まえておかなければならないのは、この女性が、正午ごろ、水を汲みに来た、ということです。正午ごろというのは一日の中でも一番暑い時間帯です。

そんな時には普通水を汲みに来る人はいなません。

しかし、この女性はわざわざ正午ごろ水を汲みに来ました。つまり、人目を避けていたのです。この女性は、人目を避けなければならないような、後ろめたい生活・不道徳な生活をしていた人であった、周囲の人たちから「罪人」として蔑まれていたような人であった、ということがわかります。

主イエスが声をかけられたのは、普通、ユダヤ人の律法の教師が絶対に声をかけることのないような、人目をはばかるような生き方をしているサマリア人の女性だったのです。

ここで私達は主イエスと女性が出会った場所に注目したいと思います。それはシカルという町でした。そしてこの井戸は「ヤコブの井戸」とあります。

旧約聖書の創世記に出てくるアブラハムの孫にあたるヤコブにまで歴史をさかのぼる町であり、この井戸はヤコブに由来する井戸でした。福音書は、イエス・キリストとサマリア人女性が出会ったのはその街のその井戸だった、ということを強調しています。何かその場所に象徴的な意味があったのです。

ヤコブは、兄エサウを騙したことで恨まれ、家から逃げ出した人でした。荒野を逃げる途中、野宿した時、夢を見ます。

「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、そこを神のみ使いたちが上ったり下ったりしている」、という夢でした。

夢の中でヤコブは神から言葉をいただきます。

「見よ、私はあなたと共に居る。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」

主イエスが弟子の一人ナタナエルを召された時、こうおっしゃいました。

「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り下りするのを、あなた方は見ることになる。」1:51

ヤコブが見た天と地をみ使いたちが行き来するあの光景を、主イエスの弟子達は、主イエスを通して見ることになる、と約束されたのです。

キリストがこのシカルに来られた、そしてこの女性に話しかけられた、ということは、天の招きがここまで来た、神の招きがこのような女性にも届けられた、ということです。天に続くはしご、天に至る道、真理と永遠の命に至る道が、このシカルに、サマリアにも、そして周りから蔑まれていた女性にまでも示されたということなのです。

洗礼者ヨハネは、主イエスのことを「花婿」になぞらえ、自分はその「介添え人」であると言いました。誰かが主イエスと出会うということは、ある意味、その人がキリストの花嫁として迎え入れられる、ということです。

主イエスは今、一人の異邦人女性が井戸のそば出会われました。当時のユダヤ人の感覚では一番接点のない相手でしょう。対照的な二人の出会いです。男性と女性、教師と罪人、天から来られた方と、この世で最も低い者、ユダヤ人とサマリア人の出会いです。民族、信仰、階級、性別、職業、地位・・・そういった人を隔てるものすべてがここに含まれている。しかしそれを超えて、主イエスは全ての人を探し求めていらっしゃいます。ヤコブが見た天と地を結ぶ階段として、神と世をつなげようとなさっているのです。人間が愚かにも造り上げて来てしまった、その互いの溝を埋めようと、キリストは世に来られました。

私達は、神が選んでくださらなければ、神のものとなることは出来ません。キリストに選んでいただかなければ、キリストのものとなることは出来ません。 Continue reading

3月31日の礼拝説教

創世記4:13~26

「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」

最初の人間アダムとエバがそうであったように、その息子であるカインも神の前に罪を犯しました。アダムは土から造られ、土を耕し、土に仕える生き方が神から与えられが、大地を治める神のようになろうとして、自ら神の祝福から離れる一歩を踏み出してしまいました。

神は人間に「土を耕す」ことをお求めになりました。「土を耕す」というのは、「大地に仕える」ということでした。人は神がお創りになった祝福の大地仕え、祝福の実りを得て生きる楽園にいました。しかし楽園から追放されてしまった人間は、大地を祝福から呪いへと変えてしまうことになります。

アダムの長男カインは、アダムが犯した人間としての罪を、繰り返してしまいました。弟アベルを殺してしまったのです。祝福の実りをもたらすはずの大地に、カインは自分の弟の地を吸わせてしまいました。

カインが自分の弟アベルを殺したことで、カイン自身だけでなく「大地も呪われることになった」、と書かれています。カインが大地に仕えても、大地はカインのために産物をうみださない、と神から宣言されてしまいました。そして、カインは、「地上をさすらう者」とされてしまいます。

聖書の中でも有名な、創世記の兄弟殺しの事件です。カインは、計画的に自分の弟を殺しました。神から「あなたの弟はどこにいるのか」と聞かれても、「私は弟の番人でしょうか」などと、小馬鹿にした答え方をしています。

カインは、アベルを殺しても、神にはばれないと思っていたのでしょうか。神がアベルの捧げものに目を向け、自分の捧げものには目を向けてくださらなかった、という恨みもあったでしょう。神に対して不貞腐れた子供のように振る舞っています。

土の中に染み込んだアベルの血は叫び声となり、神にまで届いていました。カインの罪を糾弾する声は、消えることはなかったのです。神の前に自分の罪を隠し切れない人間の姿がここにあります。

神の前に虚勢を張っていたカインでしたが、「あなたは呪われる」という神の言葉を聞いて、崩れ落ちました。それまで、自分が神から離れ、土から離れ、地上をさすらう者となるなどということを考えたこともなかったのです。神がいらっしゃって、土が自分に実りをもたらす、という大前提が崩れるなど、考えもしなかったことでした。皮肉なことにカインは土を耕すものであったにもかかわらず土から呪われ土から見捨てられるものとなってしまいました。

カインは神ご自身から直接「あなたは呪われる」という言葉を言われ、初めて自分がしたことの罪の重さを知りました。カインはここに至って自分を生かすものなんであるかを知ったのです。

結局、人は罪の歩みの中で、神の声を聞かされるのです。人は欺くことは出来ます。しかし、血の叫びを聞かれた神から、自分の罪をごまかすことは出来なくなり、神からの罪の宣言を聞いて、崩れるのです。

最終的に罪が結ぶ実とは何でしょうか。カインが犯した罪は、カイン自身を失わせるものでした。これまで彼は神と共に生き、大地に仕え、家族の調和の中で生きて来ました。しかしここに来て、それまでの自分と決別しなくてはならなくなりました。彼は自分自身を失うことになったのです。

カインは自分の罪を嘆きます。

「私の罪は重すぎて負いきれません」

自分が犯した罪の重さを知って、もう自分が自分の足で立って生きることが出来なくなりました。大きな石を乗せられているように、罪の重さにつぶされ、生きていくことはできない、と嘆きます。

この時ほどカインは孤独を感じたことはなかったでしょう。自分の手で大地を耕し、弟を簡単に殺せるほどの力をもっていた人です。自信にあふれ、神からとがめられても臆することなく言い返していたカインです。それが、自分の罪を神から指摘されたとたんに、崩れ落ちたのです。そして疎外感の中で神に向かって嘆きました。

しかし神は、蛇の誘惑に負けたアダムをエバをお見捨てにならなかったように、弟を殺したカインをお見捨てにはなりませんでした。アダムとエバをエデンの園から追放された際に守りをお与えになったように、これから「地上をさすらう者」となるカインに守りのしるしをお与えになったのです。どんなしるしであったのかは書かれていませんが、カインが他の人から暴力を振るわれないよう、何かしらの目印をお与えになりました。

ここを読むと、神の許し深さを感じさせられます。しかし、カインがアベルと神に対して犯した罪がなかったことされた、ということではありません。カインは今自分が生きている場所から追放されることになりました。それは神の前から追放され、「さまよう者」とされた、ということです。

土を耕すものであったカインは、神と大地から追放され、地上をさまようものとなりました。4:17を見ると彼は結婚して、一つの街を築いたことが書かれています。一度は「地上をさすらう者」とされたカインですが、街を築き、そこに定住したようです。町をつくり、そこに人々を迎え入れるようになった、ということですので、カインはその街の支配者になった、ということでしょう。

カインはどのような街を築いていったのでしょうか。カインが住んだのは「ノド」という土地でした。ノドは「さすらい」という意味です。カインが造った街は、ノド、つまり「さすらい」の町でした。「地上をさすらう者たち」が集まり、カインがその中心にいて築かれていった町であった、ということでしょう。

神から離れたカインは、自分と同じような人たちを集めて街を作ったのです。「善悪を知る木の実を食べた」ような人たち「土の上で誰かの血を流した」ような人たちが集まって来て、カインはその中心にいたのです。カインは再び土を耕す生活に戻ることなく、自分と同じように神様の元からから追放されてしまったような人たちを集めて自分をその中心に置いていたのです。

聖書は、守りのしるしを与えられたカインのその後を描くことによって私たちに何を伝えているのでしょうか。カインのような人でも、神に許されるのだ、という愛の物語なのでしょうか。

そうではないでしょう。カインが築いた町は、神から追放された人たち、「地上をさまよう者たち」が集まってくるような町でした。とても平和な町であったとは考えられません。

その町は、そしてカインの子孫はどうなったのでしょうか。聖書にはそのことも書かれています。カインからエノクが生まれ、その後も、イラド、メフヤエル、メトシャエル、レメクと代が替わっていきます。

カインから5代目のレメクのことが19節以下に書かれています。レメクは、ある時自分の二人の妻を呼んで、誇らしげに語っています。

「私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐7倍ならレメクのためには77倍」

細かいことはわかりませんが、レメクは暴力を持って誰かに復讐をしたようです。そして自分の妻たちにその自分の暴力を誇らしげに語るのです。「自分は自分の先祖カインに与えられたしるしよりももっと強い守りのしるしを持っているのだ、自分は無敵だ」と言って、暴力を誇るレメクの姿が描かれています。

カイン同様、レメクは自分の持つ力、暴力の強さをもって、神を軽んじていることが分かります。神に背を向け、神のもと離れたカインの罪は、世代を超えて実りを結んでしまっているのです。

カインの物語は、私たちに大きな警告として与えられています。これは、カインが罪赦されて町を築くほどの者とされた、という美談ではありません。神から追放され「地上をさすらう者」となったカインが、同じように神に背を向けた者たちと一緒に町を築き、暴力と不信仰を育ててしまったという物語なのです。

カインとアベルの物語全体の結末が最後に記されています。「カインとは別の系譜が生まれた」、ということです。アダムとエバの夫婦に、セトという名前の新しい子が授かりました。「カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授けられたからである」とあります。

カインが弟アベル殺し、土を耕す生活から追放されてしまったために、地を受け継ぐ者がいなくなってしまい、祝福の系譜が途切れてしまいました。だから神は再び創造の御業をもって、夫婦にセトの命を授けられ、新しい祝福の系譜を造られたのです。

セトにはエノシュという子が授かりました。「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」とあります。「主の御名を呼び始めた」というのは、「神を礼拝し始めた」ということです。ここから礼拝の歴史が始まるのです。罪に苦しむ人間は、礼拝無しに自分を保つことは出来ません。

カインとセトが、神から離れてさすらう命と神を礼拝する命の分かれ目になりました。このセトの子孫にノアという人が生まれやがてイエス・キリストへとつながっていくことになります。

イエス・キリストは、山上の説教の中で「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」とおっしゃいました。キリストはご自分を求める人たちには「受け継ぐべき大地」があることをしめされたのです。

人間は神から離れるという罪を犯し、楽園を失いました。それで受け継ぐ地がなくなってしまった、ということではありませんでした。立ち返るべき場所があるのです。キリストは「あなたがたが立ち返る場所は私だ」、と世に向かって呼びかけられたのです。

神はカインとは別の系図をお創りになり、エデンの園から追放されもう楽園とは切り離された人間が、再び神と共に生きる命へと戻れる道筋を残されました。何によってか。キリストの復活によって、です。

今日はイースターです。キリストが墓の中から復活なさったことを記念し、与えられた祝福を祝う日です。もう、私たちはこの地上をさすらう必要はありません。キリストが蘇られたあの朝に、天の故郷へと戻る道筋が示されました。

私達は誰もがいずれ肉体の死を迎え、墓に入ることになります。しかし、私達の墓は世の終わりに空っぽになります。「起きなさい」というキリストの一言によって、私達は永遠の命へと招き入れられることになるのです。礼拝を続け、そこに至る道をしっかりと踏みしめて行きましょう。