MIYAKEJIMA CHURCH

12月10日の礼拝説教

創世記3:1~13

「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ』」

聖書の初めに記されているこの創造物語は、天地が創造され、人が楽園に住むようになって理想郷ができて終わり、という話ではありませんでした。神が言葉をもって天地の秩序を創造され、人が楽園に生きるようになってからすぐに、人が神から与えられた楽園から追放されてしまう、という悲劇が起こるのです。

天地創造も、楽園からの追放も、私たちにとっては昔話でもなくおとぎ話でもありません。聖書は、私たち一人一人が今置かれている現実を生々しく描き出し、警告を発しています。「ここに、あなたの姿がある。あなたはこの楽園の登場人物なのだ」と突きつけるのです。

聖書は、ここに書かれている出来事を他人事として私たちが読むことを許しません。私たちの目を何度も、この世界の根源にあるもの・我々人間の根源にあるものへと向けさせます。そのことを踏まえなければ、私達がイエス・キリストの言葉を聞いても、キリストの御業を見ても、本当にはわからないのです。

なぜキリストは「私は真のブドウの木、私につながっていなさい」とおっしゃったのでしょうか。

なぜキリストは「私は良い羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃったのでしょうか。

キリストは私達をどこへと連れ戻そうとしてくださったのか。

なぜキリストは十字架で殺されるために、この世に生まれてくださったのか。

全ては、人が神の言葉を捨てて罪の誘惑に身を委ねた、ここから始まっているのです。ここから人間をご自分の下に取り戻そうとなさる神の招きの御業が始まるのです。その神の招き・救いの御業の歴史を記したのが、聖書です。

私たちは創世記を読んで「太古の昔に、アダムとエバが罪を犯した」という風に、他人事のような言い方をしてしまいます。しかしそうではないのです。天地創造を読むたびに、楽園からの追放を読むたびに、私たちは今自分が置かれている現実を見せられることになるのです。

今日私たちは創世記3章の初めを読みました。天地と生き物の創造が1章2章と描かれてきて、3章に入って、聖書で初めての会話が記録されています。

聖書に出てくる初めての会話は、神と人間の会話ではありませんでした。神と人間が言葉を交わす前に、誘惑がやって来ました。

神と人間が初めて互いに言葉を交わすのは、蛇の言葉を聞いた男と女が善悪の知識の木の実を食べてしまった後です。神は楽園の中で、人に呼びかけられます。

「どこにいるのか。」

それに対して人の答えは「あなたを恐れて隠れております」というものでした。

「あなたはどこにいるのか」 「私はあなたから隠れている」

これが神と人間との間に交わされた最初の会話の内容です。いなくなった人間を追い求めていらっしゃる神と、神から隠れようとする人間の会話です。楽園で交わされた会話とは思えない内容です。

豊かに実を結ぶ木が茂り、その間を美しい川が流れる園で神と人が語りあう、という光景であれば、まさに楽園・パラダイスと呼べたでしょう。しかし、蛇の誘惑の声を聞き、自分が神のようになろうとした人間は、神との間に何か大切なものを失ってしまいました。蛇と女の間に交わされたのは、誘惑する者と、誘惑される者との会話でした。

人間に忍び寄ってくる誘惑の声がどれほど狡猾なのか、そして誘惑にさらされる人間がどれほど弱いのか・・・創世記が私たちに見せようとしているのは、まさにこのことなのです。

救いとは何でしょうか。神から離れていた者がもう一度神の恵みの支配に戻ることです。神の元へと連れ戻すために迎えに来てくださった方を、私たちは「救い主」と呼んでいます。「救い主・キリスト」という言葉の意味を知るためにも、私達は今日特に、蛇の誘惑の言葉をよく見つめたいと思います。

「主なる神が造られた野の生き物の内で、最も賢いのは蛇であった」とあります。蛇は、人を神から引き離そうとする力、罪の象徴としてここに登場します。その「賢さ」は人を誤った方向に導こうとする賢さであり、神がいらっしゃるのとは反対の方向に行きたくさせる「賢さ」でした。

蛇は女に言いました。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」

蛇が女に直接質問しているような言葉です。しかし、元のヘブライ語では蛇が独り言をつぶやいたような言い方をしています。

「そうか、神はどの木からも食べてはいけないなどとおっしゃったのか・・・」

わざと人に聞こえる所で独り言をぼそっとつぶやいたような言い方です。その言葉が聞こえた女は、蛇の誤解を訂正します。

「食べてはいけないと言われている木は一本だけです。食べると死んでしまうと言われています」

何も知らないかのようにふるまっていた蛇は、今度は何でも知っているかのように振舞います。「その木を食べても死にはません。食べると神のようになれるのです」

蛇がしたことは、それだけだった。誘惑の恐ろしいところは、それが誘惑だと分からないことです。蛇の賢さは、一度も「その実を食べてごらんなさい」と言っていないことです。

「そうですか、神はあの木の実を食べてはいけないなどとおっしゃったのですか。神はあなたが賢くなることを、強くなることを怖がっているのですね」・・・こうつぶやいただけなのです。

蛇の言葉を聞いた後、女がその木を見ると「いかにも美味しそうで、目を引き付け、賢くなれるようにそそのかしていた」と6節に書かれています。蛇の誘惑の言葉を聞くまでは、その木の実を「美味しそう」とは思わなかったはずです。「食べると死んでしまう」と神から言われている「おそろしいもの」だったはずです。しかし、蛇の言葉を聞くと、その木の実が、突然美味しそうに見え始めた、というのです。

蛇ではなく、今度はその木の実そのものが女をそそのかすようになりました。女は、蛇に無理矢理食べさせられたのではありません。蛇の言葉を聞いて、自分の意志で手を伸ばし、実を食べ、それを一緒にいた男に渡したのです。

どうでしょうか。私たちは、この蛇の言葉は自分には無縁だと言えるでしょうか。木の実を食べてしまう女と男は、自分よりも弱い、と言えるでしょうか。

使徒パウロが、手紙の中でこんなことを書いています。

「サタンでさえ光の天使を装うのです」

確かにそうでしょう。サタンがサタンの姿でやってきたら、誰だって警戒します。女にとって、この時の蛇は光の天使に見えていたかもしれません。「知らないのであれば、教えてあげましょう」という思いやりに満ちた親切な姿で近寄ってきています。 Continue reading

12月3日の礼拝説教

創世記2:15~25

「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(2:15)

創世記では、天地が造られた後、大地・土から人が造られる様子が2章で描かれています。5節を見ると、人が土から形作られる前には天地は雨もなく木も草もはえておらず、耕す人もいない「荒野」のような世界であったことがわかります。人が造られてから、その「荒野」に潤いが与えられていきました。神が人間のためにこの世界の秩序を整えていかれたということを聖書は私たちに教えてくれています。

15節「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」

「エデンの園」と聞くと、美しい木が生えており、清らかな川が流れ、人が何もしなくても悩んだり焦ったりすることなく生きていくことができる園を思い浮かべるのではないでしょうか。

しかし、神は何もしなくてもいい場所としてエデンの園を用意されたのではありませんでした。人は「土を耕し、守ること」を神はお定めになったのです。人は楽園で座っていればいい、ということではありませんでした。15節の「耕す」という単語は「仕える」という意味に近い言葉です。土から形作られた人は、土に仕え、土を守ることが使命とされたのです。「仕える」とは、自分を低くして相手に自分を差し出すということです。我々人間が仕える相手は土なのです。私たちが今、足をつけて生きている大地なのです。

神は人を土からお創りになりました。つまり人は「土なる存在」です。そして9節にあるように、人をお創りになったのと同じ土から木を生えいでさせられました。人は土から造られ、そして土からもたらされる実りによって生きるものとされました。

聖書は、この創世記の初めで世界の根源、人間の根源を教えてくれている、ということを以前お話ししました。私達はこの創世記の物語から、私達人間の根源的な使命を、「生きる」ということの大元を学ぶことができます。

聖書が私たちに伝えている内容は決してむつかしいことではありません。難しいことではありませんが、私たちがすぐに忘れてしまうことです。人はすぐに、自分が生きる上での根源を忘れてしまうのです。

人は土から造られました。土は、人間の命の根源です。そして、人は命を終えると土に返ります。私たちはそのことを知っているでしょう。しかし、私たちはそのことをすぐに忘れるのです。

命の根源を忘れ、人間こそが大地の支配者であり世界は自分のために存在していると思い上がった時に、人間は互いに血を流し、自然を簡単に破壊する道に踏み込んでしまいます。私たちは、土・大地を支配しているように思っていますが、逆なのです。土から自分が生きるためのものを勝ち取っているのではありません。大地・自然に仕えることで、神からの恵みをいただき、生かされているのです。人はこの世界・大地に生きるためには自然に対する畏怖の念、そしてこの世界をお創りになった神から生きる糧が来るということを忘れてはならないのです。

創世記は、人が土の上で生きるための姿勢を教えてくれています。鳥のさえずりを聞きながら、何にもしないで木の実を食べるような生活が求められているのではありません。人が土に仕え、土から生きる糧が与えられるという神の秩序を通して、私たちの心は創造主へと向かうのです。そこから、命の源である神への讃美が、祈りが、礼拝が生まれてくるのです。

使徒パウロはこう書いています。る。

ロマ11:36「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」

全ては神から出て、神に帰る・・・創世記の初め、つまり聖書が最初に私たちに教えているのは、この循環なのです。

さて、このエデンの園の物語の中で、神は一つ不思議なことをなさっています。園の中央に命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられ、「善悪の知識の木からは食べてはいけない。食べると必ず死んでしまう」とおっしゃいました。

神は、人間のためにご用意なさった園の中に、一つの制限をお与えになったのです。なぜ神は、食べると死んでしまうような危険な木を園の中央に置かれたのでしょうか。また、どうして、「善悪の知識」が、人間の死に結びついてしまうのでしょうか。

私達には不思議に思えることです。今まで、このことについていろんな議論がされ、理由が考えられてきました。恐らく、神が善悪の知識の木を園の中に置かれたのは、人間の有限性が示された、ということではないか、と言われています。

人は神の似姿として造られたと書かれています。「似ている」ということは、「神ではない」、ということでもあります。人には超えてはならない一線があるのです。そういうことではないでしょうか。

「善悪の知識」と聞くと、普通はいいことだと思うのではないでしょうか。善悪の分別がつくこと、道徳心を持っている、ということであれば、いいことではないか、と思うのです。しかし、聖書が伝えている「善悪の知識」は、人を死に追いやる知識として言われています。人が知るべきでない知識、人を死に誘う知識のようです。

使徒パウロが、こんなことを書いています。

「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。・・・あなたがたは、罪の奴隷であった時・・・どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行きつくところは、死にほかならない」ロマ6章15節以下

パウロは、二本の道の岐路があることを伝えています。神の支配の内に生きて永遠の命に至るか、罪の支配に生きて死に至るか、という岐路です。それを踏まえると「善悪の知識」とは、罪の知識・神から離れる道を教える知識のことである、ということがわかります。

創世記は、私達が今立たされている岐路を、この物語を通して教えているのです。命に至る道と、死に至る道の分かれ目・・・神に向かう道と、神から離れる道の分かれ目です。

聖書が言っている「死」とは何でしょうか。創世記やパウロが伝えている「死」というのは、単なる「肉体の死」ではありません。実際、人が善悪の知識の実を食べても死にませんでした。神がここで「必ず死んでしまう」とおっしゃっているのには、何か別の意味があるのです。

律法や預言書を見ると、「こういうことをした者は死なねばならない」という表現が出てきます。これは、死刑の宣告の言葉ではありません。祭司が、礼拝に相応しくない人に対して言っていた表現です。例えば、偶像礼拝をする人や、隣人の妻を犯したり、弱い者を苦しめている人は、礼拝に相応しくないとされ、命の領域である礼拝に加わることが許されませんでした。

「あなたは命の領域である礼拝に参加することが許されない」ということを、祭司は「あなたは死なねばならばない」という表現で伝えていたのです。

そのことを踏まえると、神が「善悪の木の実を食べると死ぬ」と人におっしゃったのは、「その木の実を食べると礼拝に相応しくない悪を知ってしまう」という意味だったのでしょう。

人は、信仰の道と不信仰の道、神と共に生きる道と神から離れる道、という二本の道の岐路に立たされています。そしてそれが、私たちが今置かれている現実であるということを創世記は警告しているのです。私達を礼拝から遠ざけようとする知識は、今も私達の周りに溢れているのではないでしょうか。

私達は考えたいと思います。楽園とは何でしょうか。神との交わりがあるところが、楽園です。インマヌエル、ということです。創造主を知り、自分たちを生かしている大地に海に、創造主から与えられている恵みとして、信仰をもって仕える生活・・・そこに楽園はあります。

預言者たちは、礼拝こそ命の領域であることを伝えて、真の神への立ち返りと訴え続けました。私たちは今、この礼拝の中へと自らの足で向かって来ました。礼拝こそ命の領域だからです。

神を求める人が集まっているここに、楽園があります。命があります。ただ気が合うから、仲良しだから集まっているのではありません。本当に恐れるべき方を知り、命を与え生かしてくださる方に讃美と祈りを捧げ、自分が行く道を示していただくために、ここにいるのです。そしてそこで信仰の友に出会うのです。

それが、救い主イエス・キリストがおっしゃった、「神の国は近づいた・神の支配が来た」という福音です。私たちは神の恵みの支配へとキリストに導き入れられたのです。

大切なことは、聖書を通して私たちの本当の支配者を知ることです。自分こそが自分の、そして大地の支配者であると信じ込む知識の実ほど恐ろしいものはありません。私たちはそのような知識・思いによって、神から離れ、自ら滅びへと向かっていくことになるのです。

さて神は、園の中に生きる人をご覧になって、「人が独りでいるのはよくない」、と思われました。十分な食べ物、美しい環境があってもそれだけでは人にとって十分であると思われませんでした。人は独りで生きるべき存在ではない、ということが描かれています。

人は土から造られ、1人で生きてやがて土に返るだけの空しい存在ではいのです。言葉を交わし、互いに生きる意味を与えあい、教えあう存在「助け手」を、神は必要と思われました。

神は獣や鳥を人のところへ持ってこられ、人はそれに名前を付け、同じ世界に住むものとしましたが、獣も鳥も本当の「助け手」とはなりませんでした。動物と仲良くなっても、神がお考えになるような、存在を共有するような本当の助け手とはなりませんでした。

神は人の「外」ではなく人の「内」に助け手をお求めになりました。人のあばら骨の一部を抜き取り、女を作り上げられます。人はそれを見て、「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉」と言いました。

これも不思議な物語です。一体何を伝えようとしている物語なのでしょうか。男と女という二つの性別が出来た、ということでは終わっていません。男と女という性の区別がありながら、同時に、男と女が一体となる、という夫婦の形が語られているのです。 Continue reading

11月19日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:35~43

「『来なさい、そうすればわかる』」(1:39)

洗礼者ヨハネは、「荒野で叫ぶ声」として、人々に歩むべき道を示し続けて来ました。彼が指し示していたのは、世にいらっしゃる神の言・救い主イエス・キリストと共に歩む「道」でした。ヨハネの使命は、キリストという「道を」を指し示すことでした。彼は主イエスのお姿を見るたびに、「見よ、神の子羊だ」と人々に行っています。

洗礼者ヨハネには弟子達がいました。エルサレムの都でから離れた荒野で、洗礼者ヨハネの下で厳しい信仰生活を送っていた人たちがいました。ヨハネは、その人たちを自分の弟子として受け入れてはいましたが、その人たちに「ずっと私の下に留まって、私の教えに従って過ごしなさい」とは言っていませんでした。

ヨハネは、「荒野で叫ぶ声」として、自分の弟子達にも、「私ではなく、私の後から来られる偉大な方に従いなさい。私が指さす方を見なさい。その先に、あなた方が本当に求め従うべき方がいらっしゃる」と、言い続けて来たのでしょう。

ヨハネの弟子達は、自分たちの先生が常々「私は荒野で叫ぶ声である」と言うのを聞きながら、「いつ、先生が言っているメシアは来るのだろうか、いつ、自分が本当に従うべき方が現れるのだろうか」と、荒野でメシアの到来を待っていたのです。

荒野にいるヨハネこそメシアではないか、という期待を持ってエルサレムから送られて来た人たちに、「私はメシアではない」とヨハネははっきり答えました。皮肉にも、その人たちがエルサレムに帰って行った翌日、ヨハネは自分のもとに歩いて来たイエスという人を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と言いました。

弟子達はついにヨハネが「見よ、あの方だ」と言うのを聞きました。ヨハネはその翌日にも、自分から洗礼を受け歩いているイエスという人を見つめて、「見よ、神の子羊だ」と言いました。

その際、二人の弟子達がヨハネと一緒にいました。ヨハネが「見よ、神の子羊だ」と言ったということは、その二人にとっては「私から離れて、あの方に従いなさい」と言われたのと同じことでした。

「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」とあります。

私達はここに、ここに信仰の共同体である教会の芽生えを見ることができます。普通、教会はペンテコステの日に聖霊が上から注がれて出来た、と言われることが多いでしょう。ペンテコステの聖霊はキリストを信じて祈り従う小さな信仰の群れの上に注がれました。ではその小さな群れは、どこから始まったか。イエス・キリストに従い始めたこの二人の小さな従いから始まっていったのです。

二人はイエスに近づきました。初めはただ、おそるおそる、イエスという方がどこに泊まっているのか、ということを知ろうとしただけです。そこから「従う」という信仰の生き方に変わっていくことになります。

37~38節には、二度、「従う」という言葉がつかわれています。二人の弟子は主イエスに「従い」、そして主イエスは二人が「従ってくるのを見て」声をかけられました。「従い」ということは、福音書において、いや、聖書全体において、一番大きなテーマです。

私達はそれぞれ、どのように主イエスに従うようになったでしょうか。初めはこの二人のように、恐る恐る近づいて行ったのではないでしょうか。「自分が本当に従うべきものは何か、自分を委ねることのできる真理は何か」、ということを考えているところに、この二人にとってのヨハネのように、キリストを指さす誰かがいたり、何かのきっかけがあって、少しずつ近づいて行ったのではないでしょうか。

友人だったかもしれない、家族だったかもしれない、本やテレビやラジオだったかもしれない・・・キリストを指し示す誰か・何かがあったでしょう。そして示された方を見て、本当にその方が自分の道となる方であるかどうかを知ろうとしたでしょう。

キリストはご自分のもとに近づいて来た二人に、逆に問いかけていらっしゃいます。。

「何を求めているのか」

これが、この福音書で発せられた最初のキリストの言葉です。

「何を求めているのか」

私達は福音書全体を通してこのことを問われることになります。

ヨハネ福音書の最後で、一度はキリストを知らないと言ったペトロが、復活のキリストから問われます。

「あなたは私を愛しているか」

これこそ信仰者が一生涯を通してキリストから、神から問われ続けることではないでしょうか。

「あなたは私を求めるか。あなたは私を愛しているか」

「何を求めているのか」というキリストの一言は、改めて私達が心の奥底で求めている救いを思い起こさせます。私達はキリストに何を求めているのでしょうか。実は、私達は「何か」を求めている。そして「誰か」を探し求めているのです。

私たちがキリストに求めているのは、キリスト教の知識ではありません。知識としてのキリストではなく、キリストご本人です。幼子がただ親を求めるように、私達はキリストを求めるのです。キリストに求められることを求め、そしてキリストと共に生きることを求めています。一言で言うと、「インマヌエルのぬくもり」ではないでしょうか。

キリストは、「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねる二人に、「来なさい、そうすればわかる」とおっしゃいました。「私は誰それの家に滞在している」という答え方ではありません。二人の本当の興味は、キリストの宿泊場所ではありませんでした。本当にこの方が、自分の一生をかけて従うだけの方なのかどうかを見極めてたかったのでしょう。

2人は主イエスと一日共に時間を過ごし、この方こそキリストであると知りました。全ては、イエス・キリストの後に付いて行く、従うところから始まるのです。そしてその従いの中で、全てが示されていくのです。

キリストの後ろを歩む中で、私達は「何を求め、どこに向かえばいいのか」が示されていくことになります。キリストはご自身に従うところから始まる道へと招かれるのです。

ヨハネ福音書を読んでいると、私達は何度も同じ問いを投げられることになります。

「何を求めているのか」

そして私達は同じ招きを与えらます。

「来なさい。そうすればわかる」

ヨハネの二人の弟子たちは、世に来られたイエス・キリストに出会いました。それは、二人にとって、「荒野に道が通された」、ということでした。この世の中に示された、天のみ国・永遠の命へと至る道です。

創世記で、神が人間を探される場面があります。アダムとエバが蛇の誘惑によって食べてはならない実を食べ、楽園の木の間に隠れ、神から身を隠してしまいました。神は、人をお求めになります。

「どこにいるのか」

これこそ私たちが置かれている現実です。

神は今でも「あなたはどこにいるのか」と探し求めてくださっています。神が私達を求めて「どこにいるのか」とおっしゃるその声こそ、イエス・キリストなのです。神の招きの言葉は、私達と同じ人となって世に来てくださいました。 Continue reading

11月12日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:24~34

「この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水でバプテスマを授けに来た」(1:31)

福音書は、イエス・キリストを証言した言葉です。このヨハネ福音書は、主イエスが公に活動を始められたところからでもなく、この世にお生まれになったところからでもなく、世界の初めにまで遡ってこの方が何者でいらっしゃるのか、というところから書き始めています。

イエス・キリストが、この世界をお創りになった神であり、この世に人間として来てくださった光であり、そしてヨハネという人が、この光を指し示すために神から遣わされた人であるということを冒頭で書いています。

先週私達は、荒野で人々に悔い改めの洗礼を授けていたヨハネの下に、「あなたは一体誰なのですか」と尋ねに来た人たちがやって来たところを読みました。エルサレムのユダヤ人指導者たちから遣わされた祭司やレビ人たちでした。

洗礼者ヨハネは自分に何者かを尋ねて来た人たちに、「私はメシアではない。終わりの日に遣わされると伝えられているエリヤでもない。モーセのような預言者でもない」と言いました。「自分が何者でないか」、ということを告げたのです。

そして自分は「荒れ野で叫ぶ声である。私の自分の後からいらっしゃる方の前触れに過ぎない」、と言いました。ヨハネは、人々の目を自分ではなくこれからいらっしゃる方、これから現れる光に向けさせようとしたのです。「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」と、福音書の冒頭で言われている通りです。

ヨハネに質問した人たちがエルサレムに戻った次の日、ついにイエスという方が公の場に姿を現されました。私たちは、このイエスという方が万物をお創りになった神であり、人となってこの世に生まれヨハネの下にいらっしゃった方である、ということを踏まえなければ、これから描かれていくイエス・キリストの公生涯の意味を知ることはできません。

イエス・キリストが洗礼者ヨハネの下に来て、洗礼をお受けになりました。なぜ、キリストは公の活動の初めにご自身が洗礼をお受けにならなければならなかったのでしょうか。考えて行きましょう。

よく見ると、ヨハネ福音書では他の福音書とは違って、「主イエスがヨハネから洗礼をお受けになった」、という直接の記述はありません。洗礼者ヨハネが、「霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」と言っているだけです。

「主イエスに洗礼を授けたヨハネ」ではなく、あくまでも「主イエスの証人・証言者ヨハネ」としての姿の方に焦点を置いた描き方をしています。

ヨハネは、「私の後から来られる方は、私より優れている。私よりも先におられたからである」と荒れ野で叫び続けて来ました。「その人は私の後から来られる方で、私はその履物のひもを解く資格もない」。主人の履物のひもを解く、というのは、当時の奴隷の仕事でした。自分などキリストの前では奴隷以下の小さなものでしかない、という表現です。

エルサレムから来た祭司やレビ人たちは、荒れ野で人々に洗礼を授けるヨハネを、何か偉大な力を持つ人だと考えていたようです。しかし、ヨハネは自分の偉大さを否定しました。「自分はその方の到来を前もって告げているだけだ。自分には偉大さなどなく、自分の後から来られる方が偉大なのだ」、と。「私ではなく、私の後から来る方を見なさい」、と叫び続けたのです。

その洗礼者ヨハネよりも偉大な方であるはずの主イエスが、洗礼者ヨハネの下に来て、ヨハネから洗礼をお受けになりました。洗礼を授ける者よりも偉大な方が、あえて低くなり、洗礼をお受けになったのです。

マタイ福音書では、その時のヨハネとキリストのやりとりが記されています。

「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところへ来られたのですか。」恐縮するヨハネに主イエスはおっしゃいました。「今は止めないでほしい。正しいことを全て行うのは、我々に相応しいことです」マタイ3:14

なぜ神の子が、罪びとと同じように洗礼をお受けになったのでしょうか。

ヘブライ人への手紙の中にこのような言葉がある。

「イエスは、神のみ前において憐み深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、全ての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがお出来になるのです」ヘブ2:17

キリストが私達と同じように洗礼をお受けになったということは、神が私たちと全ての点で同じようになってくださった、ということなのです。神が、人と同じ場所に同じ痛みをもって生きてくださった、ということなのです。

「神に人間の痛みがわかるのか。今自分がこんなに苦しんでいるのに神は高みにいて、傍観しているだけではないか」・・・我々は、何かあるとすぐに神の憐みを疑います。しかしキリストはご自身が洗礼を受ける所から、私たちの痛みを共にしてくださっているのです。

洗礼者ヨハネは、自分の方に来られる主イエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と言いました。この「子羊」というのは「生贄」のことです。自分に与えられる裁きを自分の代わりに子羊に受けてもらうために差し出される命、それがキリストでした。

昔、イスラエルが奴隷とされていたエジプトから出て行く時、神はイスラエルを苦しめたエジプトに裁きをくだされました。その裁きの中で巻き添えにならないように、イスラエルは子羊の血を自分の家の鴨居に塗りました。神の裁きはその子羊の血を目印にして、イスラエルの家を過ぎ越していきました。これが、今でも語り継がれている「過ぎ越し」の起源です。 出エジ12章

そして今、ヨハネは主イエスを見て「世の罪を取り除く神の子羊だ」と断言しました。「新しい過ぎ越し・救いが起ころうとしている。あの方はそのための生贄だ」と言っているのです。この世の罪を全て背負って、自らが生贄として捧げられる方をヨハネは人々に示したのです。

預言者イザヤが言葉を残しています。

「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された」イザ53章

屠り場に引かれる子羊ように口を閉ざし、自分を人々の罪を担う生贄として差し出す神の僕の到来をイザヤは預言しています。そして今、ヨハネはイザヤの預言で言われていた方の姿を示しました。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」

ヨハネはこの一言で、イエスという方が何者であるか、ということだけでなく、どのような最期を遂げられるのか、ということまで言い表しています。

「この方は、他の大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日生贄をささげる必要はありません。というのは、この生贄はただ一度、ご自身をささげることによって、成し遂げられたからです。」ヘブ7:27

祭司は、神と人間の間に立って仲介する役割を担っています。祭司は生贄をささげて、神と人を執成すのです。イエス・キリストは大祭司でありながら、同時に、ご自身を生贄として捧げるために世に来られたことを聖書は言います。自分をいけにえとして捧げる大祭司、それがイエス・キリストなのです。

洗礼をお受けになった主イエスに聖霊が降り留まるのをヨハネは見ました。そして「水で洗礼を授ける自分とは違い、この方は聖霊で洗礼を授ける方だ」、と言いました。

私たちは、自分が受けた洗礼を思い返したいと思います。肉の目には見えなくても、私たちには聖霊が与えられました。それは、この時キリストに降り、キリストに留まった聖霊です。

霊というのは、「息・息吹・風」という意味の言葉です。私たちには神の息が吹き入れられた。聖い風が私たちを導いています。私たちの目には、それは見えません。しかし、見ていなくても私たちは聖霊を信頼します。それが、キリストの下から吹いてくる風だからです。

キリストはユダヤ人のファリサイ派の議員ニコデモにこうおっしゃっています。

「『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに驚いてはいけない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである」

風が目に見えないように、霊もまた目には見えません。しかし、その霊が、私たちをキリストにとって、また私たちにとって必要なところへと導くのです。

神は息を吹き込んで土を生きる人間とされました。私たちに吹き込まれている命の息はイエス・キリストの息です。私たちは今、自分の命でありながら、同時にイエス・キリストの命を生きています。

使徒パウロは手紙の中でこう書いています。 Continue reading

11月5日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:19~28

「ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて行った。『わたしは荒野で叫ぶ声である。「」主の道をまっすぐにせよ』と」(1:23)

ヨハネ福音書の冒頭が終わり、ここから、ヨハネ福音書の本編が始まります。

ヨハネ福音書は「神の言が、天からこの世に来た」という、当時の人たちにとっては衝撃的な記述から始まっています。世界を物質世界と霊的世界の二つに分けて考えていた二元論を信じていた人たちは、神と人間の間には接点はない、と考えていました。ところが、聖書は、「万物を造り、万物を生かす神の言葉が、天から人間となってこの地上に生まれた」、と語り始めるのです。

その神の言が私たちと同じ人間となって来てくださったこの世で何が起こったのか、これから本編でここから描かれ始めることになります。

今日読んだ箇所では、この福音書の主人公であるイエス・キリストはまだ出てきていません。キリストの前に、まず、洗礼者ヨハネが登場します。福音書の冒頭では、「ヨハネは光ではなく、光について証しをするために来た」と言われています。

ヨハネはエルサレムから離れた荒れ野で、叫んでいました。

「『私の後から来られる方は、私より優れている。私よりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである」

彼はヨルダン川沿いの荒れ野で、「悔い改めに相応しい実を結べ」と叫び続けました。

たくさんの人々がエルサレムから、またエルサレム以外の地域から荒れ野にいるヨハネの下に来て、悔い改めの洗礼を受けました。そのヨハネの下に、エルサレムのユダヤ人たちから遣わされた祭司やレビ人たちがやって来て、「あなたは、どなたですか」と尋ねました。

この「エルサレムのユダヤ人たち」とは、エルサレムのユダヤ人宗教指導者たちのことです。荒野で悔い改めを人々に求めながら洗礼を授けていたヨハネは、エルサレムにいたユダヤの宗教指導者たちにとっては無視できない存在となっていたのでしょう。

一世紀のユダヤ人歴史家のヨセフスという人は、洗礼者ヨハネが「預言者」として人々に知られていたことを書き残しています。しかしユダヤの指導者たちにとって、ヨハネは預言者以上の存在かもしれないという期待があったでしょう。

「荒れ野で叫ぶヨハネは一体何者なのか。」

その問いはつまり、「ヨハネはメシアではないのか」という期待でもありました。ダヤ人は何百年も自分たちを救い主・メシアを待っていたのです。何百年も外国の支配の下で生きて来たユダヤ人たちは、イスラエル王国を築き上げたあのダビデ王の再来を待っていました。聖書で「いつかイスラエルを救うメシアが来る」という預言が残されていたからです。

そして今、荒れ野で洗礼を授けるヨハネという人が現れ、人を惹きつけているのです。エルサレムのユダヤ人指導者たちは使者を送ってヨハネに尋ねさせます。

「あなたは、どなたですか」

ヨハネの答えははっきりしていました。

「私はメシアではない」

「私はメシアではない」と言われて、使者は「では、エリヤですか」と尋ねます。旧約の預言者マラキが、エリヤの到来を預言していたからです。

「見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」マラキ書3:18

神は世の終わりに預言者エリヤを前触れとしてお送りになる、と言われているのです。

この預言を知っていたエルサレムからの使者たちは、ヨハネに「あなたはあのエリヤですか」と尋ねますがヨハネはこれも否定します。

これを聞いて使者たちは「では、あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねました。「あの預言者」というのは、モーセのような預言者のことです。申命記の中で、モーセがイスラエルにこう言っているところがあります。

「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、私のような預言者を立てられる」18:15

しかしヨハネは「私はあの預言者でもない」と言いました。

洗礼者ヨハネは、「私はメシアではない」「私はエリヤではない」「私はモーセのような預言者ではない」と答えます。面白いのは、ヨハネが「自分が何者か」ではなく、「自分は何者ではないのか」ということから答えていることです。ヨハネは、自分は聖書で到来を預言されているような、何か偉大な者、特別な者ではない、と否定するのです。

エルサレムから遣わされた人たちは困りました。

「それでは一体、誰なのです。私たちを遣わして人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか」

そう聞かれて初めてヨハネは自分のことを言います。

「私は荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」

「荒れ野で叫ぶ声」・・・なんだかよくわからない答えですが、ヨハネは自分のことをキリストの到来を告げる前触れの声に過ぎない、と言っているのです。

ヨハネのことを、「メシアかもしれない」「終わりの日の到来を告げる預言者エリヤかもしれない」「いつか来る、と預言されているモーセのような預言者かもしれない」、という期待を抱いていた人たちはこれを聞いてどう思ったでしょうか。

エルサレムからの使者たちがヨハネの答えを聞いてどうしたのか、ということは何も書かれていなません。恐らく、そのまま荒れ野からエルサレムへと戻って行ったのでしょう。おそらく、失望を感じてエルサレムへと戻って行ったのではないでしょうか。「ヨハネはメシアでも預言者でもありませんでした」と報告したのでしょう。

私たちは洗礼者ヨハネの言葉・姿に何を見出すでしょうか。私たちは、このヨハネの言葉の中に、福音の響きを聞くのです。

ヨハネは荒れ野で叫ぶ声でした。「主の道をまっすぐにせよ」という叫び声です。ヨハネは、もうすぐ「主の道」が敷かれる、と世に向かって伝えました。

「主の道をまっすぐにせよ」・・・これは、イザヤ書40章の最初の言葉です。

「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、私たちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」

イザヤ書で言われている「主の道を荒れ野に通す」とは何のことでしょうか。これはBC6Cにバビロンで捕囚とされていたイスラエルの民に解放がもたらされる直前に、預言者イザヤが聞いた天の声です。バビロンで半世紀もの間囚われていた人たちに、エルサレムに帰る時が近い、ということが天から告げられた言葉です。

バビロンからエルサレムまでは荒れ野が広がっています。その荒れ野に神は道を通して、イスラエルの民を約束の地エルサレムへと連れて帰られる、と宣言されたのです。イスラエルの人たちにとって、その荒れ野に通される道は故郷への帰還の道でした。囚われの生活からの解放の喜びの道でした。

出エジプトの際、イスラエルは奴隷とされていたエジプトから荒れ野を通って約束の地に向かいました。神が、約束の地へと続く道を荒れ野に通されたのです。バビロン捕囚からの解放は第二の出エジプトでした。 Continue reading

10月29日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:1~18

「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(1:17)

ヨハネ福音書では「知る」とか「知識」という言葉が140回以上つかわれています。「真理とは何か・真理はどこにあるのか」、ということがこの福音書の大きなテーマとなっているのです。

真理とは何でしょうか。私たちには自分が正しいと思っていたものが実はそうではなかった、ということあります。その逆もあります。馬鹿にしていたこと・信じられないと思っていたことが実は真実であった・正しかった、ということもあるのです。価値がある、と思っていたものが、突然価値を失うこともあり、価値がないと思っていたものが、実は価値あるものだと知らされることもあります。

私たちはそのたびに考えさせられるのです。

「自分が追い求めるべきものは何か。一生かけて追い求めるものとは何なのか」

ヨハネ福音書が書かれた時代の哲学や諸宗教は、「真理はこの世界の外側にある」と考えていました。真理は神の領域であり、肉なる存在である人間がこの物質世界に見出すことはできない、という捉え方です。肉体をもつ私たちには到達できない霊的な世界に真理は存在していて、人々は目に見える世界とは別の、霊の世界にあこがれを持っていたのです。

十字架に引き渡される夜、イエス・キリストは弟子達の前でこのように神に祈りを捧げられました。

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのおつかわしになったイエス・キリストを知ることです。」

これが、キリストの示された「真理」でした。真理とは、イエス・キリストご自身であると断言なさっています。キリストは祈りの中で、御自分こそが一生かけて追い求めるべき真理であり、御自分の下にこそ真理があることを示されたのでした。

足を洗ってくださるキリストから弟子達は言われます。

「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父の下に行くことが出来ない。あなたがたが私を知っているなら、私の父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」

先生はいなくなるんじゃないか、と不安になった弟子達に、キリストはたとえご自分が十字架で殺されたとしても真理は決してなくならない、ということを前もってお教えになったのです。

ヨハネ福音書は、真理がどこか手の届かないところにあるものではないことを証ししています。肉体を脱ぎ捨てて別の世界に行かなければ真理を知ることはできない、などということはないのです。むしろ真理の光の方からこの世界の中に来てくださったことを伝えています。イエス・キリストご自身が真理そのものであり、生きるにしても死ぬにしても、変わらず求める真理である、ということを私たちに教えているのです。

私たちの真理に関する知識は、どこかこの世界の外側に求めるものではなく、イエス・キリストを信じることから始まっていきます。信仰の先に、「知る」ということがあります。知って、信じるのではありません。信じた先で知っていくのです。

さて、1:9では「その光は、まことの光で、世に来て全ての人を照らすのである」と書かれています。ここでは、「その光は」と訳されていますが、元の聖書の言葉を直訳すれば、「彼は」という言葉になります。

「彼は、まことの光で、世に来て全ての人を照らす」

聖書が伝える「光」は、私たちが考えるような、暗いところを見えるようにする単なる光ではなく、私たちと同じ人格をもった人として世に来た、というのです。

ヨハネ福音書が冒頭で書いていることは、二元論者たちが考えもしなかったことでした。この世は邪悪な世界なのだから神聖なものが来るはずがない、と思っていた人たちの下に、神の領域から真理の光がこの世界に来た、と言っているのです。

その「命を照らす光」は、イスラエルの預言者たちがその到来を告げて来たものでした。例えば、預言者イザヤは、こう預言しています。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。・・・ひとりのみどりごが私たちのために生まれた。ひとりの男の子が私たちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」

真理の光は既に、この世に来て、私達の命を照らしています。真理はどこか私たちのはるか上に存在するのではありません。この世界から離れたところに探しに行かなくてもいいのです。私たちの目の前まで、神は迎えに来てくださいました。

しかし私たちは、今この世界を見て、「本当に光に満ちた平和な世界か」、と問われると、どうでしょうか。聖書は天地創造の最後で、この世界が神の目には「極めてよい」ものとしてうつったことが記されています。

私達は今世界を見て「極めてよい世界だ」、と手放しで納得できるでしょうか。むしろ「神がいるなら、どうして世の中はこんなに混乱しているのか。辛いことがあるのか。目をそむけたくなるようなことばかりなのか」という人の方が多いでしょう。

この世の不条理や混乱を見ると、人はそんなことをすぐに言ってしまいます。そうやって、この世の混乱を全て神の責任にしようとしてしまうのです。そのように言いながら、この世界で神から自分に与えられた責任は顧みていないのではないでしょうか。

人はすぐに「どうして神はこの世界の苦しみや混乱を黙って見過ごしているのか」と言います。しかし、聖書は、逆に私たちに問いかけます。

どうして人間は神の秩序を壊すのか。

どうして人間は神の創造の御業に反抗するのか。

どうして人間は神の平和への招きの言葉を聞こうとしないのか。

聖書は、その一番初めに、神の秩序を台無しにする力がこの世にあることを伝えています。「罪」です。創造主である神から引き離そうとする力、神が造られた美しい平和の秩序を破壊する力です。

美しい自然・人間同士の交流を破壊しているのは、人間自身を支配する罪なのです。人は自分が取り込まれている誘惑には目を向けず、「どうして神は何もしないのか」、などと言ってしまいます。しかし聖書が伝えようとしている一番根本的なことから目を背けては、キリストの十字架への歩みの意味を知ることはできません。

ヨハネ福音書は、世に来た神の言・光を、世は理解しなかった、ということから始まっています。つまり、この世が神の平和を拒絶した罪の様子を描くのです。

11節「言はご自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とあります。これは、ヨハネ福音書の前半のまとめと言っていい言葉です。主イエスはユダヤ人の下に来られました。しかし、ユダヤの指導者たちは拒絶することになります。

12節「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」

これは、ヨハネ福音書の後半部分のまとめといっていいでしょう。多くの人は神の言を受け入れない中で、受け入れる人たちも起こされていきます。主イエスはそのような人たちのことを、「羊飼いの声を聞き分ける羊」と呼んでいらっしゃいます。「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている」

そしてキリストはご自分の声を神の声として聴き分けるこの人たちを愛し抜かれるのです。

「私は羊のために命を捨てる。私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

この福音書を読んでいくと、主イエスをキリストとして受け入れる人とそうでない人に分かれていく様子が描かれていきます。主イエスのことをキリストとして受け入れた人たちであっても、自分の都合のいいように信じる人たちがいました。主イエスのことをキリストと信じても、自分の都合のいいキリストとして期待し、まつりあげようとする人たちからは、主イエスはむしろ離れて行かれます。 Continue reading

10月22日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:1~18

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(1:4)

旧約聖書の知恵文学・箴言の中に、こういう言葉があります。

「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め。私によって、あなたの命の日々もその年月も増す。あなたに知恵があるなら、それはあなたのもの。不遜であるなら、その咎は独りで負うのだ」9:10

我々人間にとって、神を知る・神に立ち返るということは、知恵の初めである、と聖書は言います。同時に、その神を知り、神の元へと立ち返る知恵を我々に教えてくれています。

聖書を通してまず私たちが学ぶべきことは、自分が神に背を向け、神を忘れて「知恵」をなくしてしまった闇に生きている、ということです。聖書はその闇のことを「罪」と呼んでいます。私たちはその自分の「罪・闇」を知るところから、光を求め始めるのです。そして聖書は「神から離れた罪の闇」から救い出してくださる存在を指し示します。イエス・キリストです。

創世記を見ると、土なる存在アダム、命なる存在のエバが「あなたも神のようになれるのだ」という蛇の誘惑の言葉で、食べてはならない実を食べ、超えてはならない一線を越えてしまった出来事が記されています。これは、人間を支配する「罪」の力の本質を教える出来事です。

人間にとって真の神に背を向けることほど悲惨なことはありません。自分の手で神を作り出すか、自分が神のようになろうとするしかなくなるのです。自分の手が神を作ったり、自分が神になろうとする・・・それが、真の神を忘れた人間が陥る道です。それは空しく、破綻にいたる道なのです。

しかし、ヨハネ福音書はその冒頭で、そのような私たちに神の方からこの世に迎えに来てくださった救いを高らかに宣言するのです。

今日も私たちは、先週と同じ、ヨハネ福音書の冒頭部分を読みました。この福音書は、他の三つの福音書とは違った角度からキリストを証ししています。言葉が抽象的で分かりにくいところもあります。この冒頭部分も、一度読んだだけではよくわからない内容ではないでしょうか。

しかし、「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め」という箴言の言葉を思い出したいと思います。私たちが読んだこの冒頭の言葉の中に、我々が知らなければならない「知恵・分別」があるのです。

古代、ギリシャ哲学や、東方オリエンタル宗教は、基本的に二元論を持っていました。世界を真っ二つに分ける考え方です。多くの人々は、物質世界と精神世界をはっきりと分けて考えていました。

神はこの世を超えた光の中にいらっしゃり、私たち肉の存在である人間は、造られたこの物質世界の闇の中に押し込められている・・・天と地には明確な区別がある。霊の世界と肉の世界が交わることはない、という考え方です。

多くの人は、この世界を邪悪なものとして見ていました。肉体も、罪の肉であり、意味を持たないものでした。自分たちの魂が、この肉体の牢獄から解放されて神の元に戻って行く、という願いを持って生きていたのです。そのような時代に、この福音書は記されました。

この福音書の初めの部分を読むと、やはり、光と闇、霊と肉、などと二つの世界を想定した言葉がつかわれています。ただ、この福音書が当時の哲学やオリエンタル宗教の二元論と違っているのは、この世界は愛を持つ神によって造られたこと、この世界は「良いもの」として造られたこと、そして神は今でも人間を愛し取り戻そうとなさっていることを示していることです。

3節「万物は言によって成った。成ったもので言によって成らないものは何一つなかった」

「言」とはイエス・キリストのことです。天地創造の際、神がご自分の言葉で世界の秩序を整えていかれたあの「光あれ」という言こそ、イエス・キリストである、というのです。

4節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」

イエス・キリストは創造主であり、命であり、光である、と伝えます。キリストが来てくださったこの世は、光に照らされた命に満ちた、祝福の世界なのです。

旧約聖書が伝えて来たことは、人間は創造主を見失い、そのことによって命を見失い、創造の光を見失った、ということでした。イスラエルの悲惨な歴史を通して、人間の罪がもたらす苦しみを私たちに伝えています。

この世を空しいものにしているのは何でしょうか。罪です。では、罪とは何でしょうか。神を見失い、神の御心を見失い、神の創造の秩序を忘れた混沌に生きるところへと導く力です。

その混沌・闇の中に、救い主イエス・キリストが我々を迎えに来てくださった事実を福音書は証ししています。福音書に書かれていることは、神話のようなおとぎ話ではありません。真の神が、真の人間となって世に生まれ、最後には十字架でころされた、という歴史的な事実です。

さて、福音書はこの世の混沌の闇の中に、「洗礼者ヨハネが遣わされた」ことをいいます。先ほども少し触れましたが、当時の哲学やオリエントの宗教、いわゆる「二元論」では、神はこの世とは関りを持つとは考えていませんでした。神は神の世界に、人間は人間の世界に生きて、接点はない、と考えていました。神は神の世界で完結していて、この世で生きる我々人間とは無限の距離がある、と考えられ、信じられていました。だからこそ私たち人間は、自分の肉体が生きているこの世界から脱出しなければならない、という思考になっていました。

しかし、ヨハネ福音書は万物をお創りになった神が今も人間を愛し求めていらっしゃる、ということを証しします。

人は神から離れてしまいました。「神のようになれるのだ」という蛇の声に従って、神に背を向け、自分が神になろうとする道を歩み始めました。それでも神は、人間を諦めることはなさいませんでした。何度も預言者に招きの言葉を託し、世に遣わしてこられた。そして時が満ちて、洗礼者ヨハネが遣わされ、キリストがいらっしゃるための道を備え、神の独り子イエス・キリストが来てくださったのです。

神は、世界を創造するだけで、あとは関りを持たないような神ではありません。道を失った人間を取り戻すために招きの御手を伸ばしてくださる神なのです。

洗礼者ヨハネは光を証しするために来た、と書かれています。彼は「光ではなく、光の証しするために来た」と繰り返されています。

ギリシャ語の「証をする・証言する」、という言葉は、後に英語の「殉教する」という言葉の元になります。そのことは、ヨハネから始まり、イエス・キリストを証しするキリスト者たちの信仰の歩みがどのようなものであったかを示しているではないでしょうか。キリスト者たちは、自分たちの生涯をかけて、命を懸けて、イエス・キリストを証言していきました。

そもそも、そのようなキリスト者の証しの業によって、このヨハネ福音書は書かれたのです。聖書が書かれた。

21:24「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」

一体これまで、私たちを含めて、何人の証し人が起こされてきたでしょうか。一体これまで何人の人がキリストの光を知り、その光の中に生きながら光を指さしてきたでしょうか。何人のキリスト者が、自分の命を懸けて来たでしょうか。

キリストは十字架に上げられ、三日目に復活なさいました。そして弟子達に現れてこうおっしゃいました。

「父が私をおつかわしになったように、私もあなたがたを遣わす」20:21

神がキリストを遣わされたように、私たちもキリストから遣わされているのです。私たちには使命が確かに与えられているのです。キリスト教の知識を増やして、それで終わり、ではないのです。そんな自己完結を求められているのではありません。目の前にいる人・隣にいる人への、「一緒に、光に向かって生きよう。一緒にキリストの下に行こう」という一言を私たちは託されているのです。

5節で、「光は闇の中で輝いている。闇は光を理解しなかった」とあります。「理解しなかった」という言葉は、「克服しなかった、消すことができなかった」という意味もあります。確かに、この世はキリストを理解せず、十字架に上げました。しかし、罪の力は十字架でもキリストに勝つことはできませんでした。

この世に光が来た、ということは、この世の闇が浮き彫りにされた、ということですこの世の闇があぶり出された、ということです。光が来たからこそ、私たちにはこの世の「闇」というものが示されました。本当に戦うべき相手を知りました。それはあの蛇の誘惑の声との戦いです。「あなたは神のようになれる、見えもしないどこか空の上にいるような神など信頼できないじゃないか」という声が、様々な形で私たちに聞こえてくる。いくらでも思いつくのではないでしょうか。 Continue reading

10月15日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:1~18

「初めに言があった」(1:1)

ヨハネ福音書の始まりの部分を読みました。1:1の、「初めに言があった」という言葉はとても有名で、読む人を引き込む力があります。しかし、有名な言葉であると言っても、この一文がどういう意味なのか、ということになると、私達は考えさせられるのではないでしょうか。何か深い真理が隠されていそうな言葉ですが、そこに隠されている真理とは何でしょうか。

最初の一文だけでなく、今日読んだヨハネ福音書の冒頭部分は謎めいた表現が続いています。この1:1~18の言葉については、学者の間でいろんな議論がされています。これは福音書の序文なのか。これはもともと讃美歌だったのではないか、これは詩文だったのか。14節までがひと固まりなのか、それとも18節までを一つの塊として読んだ方がいいのか。これはイエス・キリストの紹介文なのか、それとも洗礼者ヨハネのことを説明している文なのか。

聖書学者の間で交わされている専門的な議論はさておき、少なくとも言えることは、私達が今日読んだ冒頭部分がこの後続くヨハネ福音書のキリストの証言を理解するための手引きとなる、ということです。

この冒頭で、ヨハネ福音書のキーワードとなる言葉が中でたくさん出てきます。「初め、命、光、暗闇、証、この世、血、肉、独り子、栄光、恵み、真理」・・・これらの言葉は、福音書の本編の中で繰り返し出てくることになります。私達が正しくこの福音書のイエス・キリスト証言を受け取るために、この冒頭部分を丁寧に見ておきたいと思います。

そもそも、この福音書は何のために書かれたのでしょうか。新約聖書には、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が入れられています。このヨハネ福音書は、他の三つの福音書が書かれてから少し時間が経って書かれた、と考えられています。三つの福音書が既にあったにも関わらず書かれた、ということは、他の三つの福音書とは異なった視点・異なった文体を用いて、改めて何かを伝えようとした、ということでしょう。

このヨハネ福音書は何のために書かれたのか、福音書の中にはっきり記されています。

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」20:31

イエスこそキリストである、と信じて、命を受けるためである、と言っています。それでは、ヨハネ福音書が私達に伝えようとしている、「イエス・キリストの名によって与えられる命」とは何なのでしょうか。

私達は既に命があります。今、生きています。しかし、聖書が示そうとしている「命」は、私達が普段考えているのとは何か違う・何か特別な意味をもった「命」のようです。

主イエスはご自分が逮捕される夜に弟子達の前で最後の祈りを捧げられました。その祈りの中でこうおっしゃっています。

「永遠の命とは、唯一真の神であられるあなたと、あなたのおつかわしになったイエス・キリストを知ることです」

神を知り、キリストを知ることがそのまま永遠の命なのだ、と主イエスは祈っていらっしゃいます。聖書が私達に伝えようとしている「命」はこれなのです。

「永遠の命」は、私たちが思い浮かべるような不老不死のようなことではありません。神と共にあることです。私たちが生きるにしても死ぬにしても、神が共にいてくださる、キリストと共にいる、ということなのです。「永遠のインマヌエル」、それが永遠の命です。

イエス・キリストは、ご自分の使命について、ヨハネ福音書の中でこうおっしゃっています。

「私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をおつかわしになった方の御心を行うためである。私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」6:38

肉体の死では終わらない、終わりの日の「復活」という希望をキリストはおっしゃいました。

福音書は2000年前、ゴルゴタの丘で十字架の上に上げられて処刑されたイエスという方を私たちに伝えています。この方を通して私たちは「永遠の命」を知り、「復活」を知り、肉体の死に勝る希望が見せられるのです。神の独り子イエスを知ること以外に神を本当に知ることはできません。

十字架で殺されたナザレのイエスとは、一体何者だったのか・・・これが、1世紀の人たちに残された謎でした。キリストの使徒たち、教会のキリスト者たちは、「十字架で殺されたイエスという方こそキリストであった」、と証言しました。

十字架刑の三日目の朝、復活なさったイエスに会った人たちがいました。その人たちが、誰にも信じてもらえないような死者の復活という神秘の出来事を証言し続け、そしてその数々のキリスト復活証言が集められて福音書が編み上げられていったのです。

もし、ナザレのイエスがただの政治犯であったというのであれば、誰も福音書など書いて後世に残そうとは思わなかったでしょう。「あの方の十字架は、旧約の預言者たちが、預言してきたメシアの到来と救いの実現だった」と、1世紀のキリスト者たちはイエス・キリストを指さしながら世に向かって証言し続けたのです。

しかし、世の人々は、キリスト者たちの証言をなかなか受け入れませんでした。今日読んだ冒頭の部分、1:5に「暗闇は光を理解しなかった」という言葉があります。その通りでしょう。これから私たちはヨハネ福音書を通してイエスという方のお姿を見ていくことになります。そして、福音書全体を通して描かれているのは、イエスがキリストである、ということを理解できない世の人々の姿なのです。

世の人々は、この方を神だと分かりませんでした。創造主だと分かりませんでした。救い主だとわかりませんでした。そして、この方が自分たちの罪を背負ってくださっていることにすら気づかず、十字架で殺したのです。

私たちはキリストのお姿を通して、光を理解しなかった暗闇、世の罪を見ていくことになります。それは私たち自身の罪に向き合うことでもあります。福音書の証言を通して、私達は自分自身に問うていきたいと思います。自分が信じたいようにキリストを信じていないだろうか。自分は、キリストに関して、信じたいところだけを選んで信じていないだろうか。誰にとっても、自分が信じやすいようにキリストを信じたほうが、都合がいいのです。

福音書には、分かりやすいことが書かれているのではありません。楽しいことだけが書かれているのでもありません。都合よく、わかりやすく解釈したくなってしまいます。

踏まえておきたいのは、この福音書は何よりもまず、神の招きに対する私たちの無理解を描いている、ということです。そして我々世の人間が、神の招きの言葉そのものであられたイエス・キリストを十字架へと追いやって行く様が証言されているということです。目を背けず、ヨハネ福音書を通して自分の罪に向き合っていきたいと思います。

さて、ヨハネ福音書は、他の三つの福音書と比べると独特の視点でイエス・キリストを描いている、ということをお話ししました。マタイ、マルコ、ルカ、それぞれの福音書は、主イエスがこの世にいらっしゃった時点から書いています。

しかし、このヨハネ福音書は、「初めに言があった」と、この世界の初めに遡って、そこからキリスト証言を始めています。天地創造以前に、「言」というものが神と共にあり、そしてその「言」は神であった、という、謎めいたことが言われるのです。

古代のギリシャ世界では、宇宙の理、世界の秩序の背景にあるものを「言」と呼んでいました。古代のユダヤ教では「知恵」という言葉で神の創造の秩序を呼んでいましたが、それとよく似ています。

1:18まで読むと、「言」とはイエス・キリストのことであることがわかります。1:1の「初め」は、創世記1:1と同じ言葉です。ヨハネ福音書はまず私たちを世界の初め、いや、天地創造の前にまで連れて行き、そこからキリストの証しを始めます。

そして天地創造の前にイエス・キリストがいらっしゃったこと、そして万物は全てキリストによって造られ、この方が人間を照らす光であられた、という根源に遡ってキリストを証しするのです。

ヨハネ福音書は、イエス・キリストのことを、単なる人間としてではなく、この世界の秩序の根源そのもの、「言」であると最初に私たちに示します。このことが、ヨハネ福音書を読む大前提となるのです。

創世記の初めで、神が言葉によってこの世界の秩序をお創りになったことが書かれています。「光あれ」、という言葉でこの世界に光が与えられ、そこから創造の秩序が整えられていきました。

万物はキリストによって創造され、キリストの内に命があり、その命が人間を照らす光であった、と冒頭で言われています。ヨハネ福音書は、イエス・キリストが世に来られたことを新しい天地創造の始まりであると告げるのです。

預言者イザヤは、神の言葉を伝えている。

「天が地を高く超えているように、私の道は、あなたたちの道を、私の思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、空しくは、私の下に戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」55:9以下

神はおっしゃいます。神の言葉は、空しいものではない。必ず、神がお望みになる実りを結ぶ。神は、ご自分の「言」に使命をお与えになりました。「言」であるイエス・キリストにお与えになった使命とは何だったでしょうか。

十字架でした。ヨハネ福音書が描いているのは、「光あれ」という神の創造の言葉によって、世の中が全て明るくなって皆が幸せになった、という幻想ではありません。この世に来てくださった光が、この世を照らして闇を浮き彫りにし、その闇を背負って十字架で死なれた姿です。 Continue reading

10月8日の礼拝説教

使徒言行禄27:17~30

「この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです」(28:28)

キリストの使徒パウロは、ついに福音の使者としてローマに着きました。福音の使者でありながら、ローマ皇帝の前での裁判に出頭する囚人としてローマに来ています。16節を見ると、「パウロには番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを赦された」とあります。見張られながらも、かなりの自由が許されていたようです。

使徒言行禄は、パウロが自分の裁判が開かれるのを待ちながら、自分の家を訪ねてくる人にイエス・キリストを証ししつづけた、というところで終わっています。不思議に思わされるのは、パウロがローマに来たところまで描かれてきたのに、その裁判がどうなったのか書かれていないことです。

使徒言行禄は中途半端なところで終わっています。私たちが興味があるのは、パウロの裁判はどうなったのか、パウロの使徒としての人生はどのように終わったのか、ローマで福音はどのように広がり新たにキリスト者が起こされて行ったのか、ということではないでしょうか。

それなのに聖書にはその後のことが何も書かれず、パウロがローマで異邦人に向けて福音を語り続けた、というところで突然終わっています。なぜこのような終わり方なのでしょうか。使徒言行禄は、この場面で私たちに何を見せようとしているのでしょうか。考えたいと思います。

パウロがローマに着き、まずしたことは、ローマの主だったユダヤ人たちを招き、イエス・キリストを伝える、ということでした。

23節には「パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとした」とあります。

ローマに来たパウロが一番一番会いたいと願っていたのは、実はローマ皇帝ではありませんでした。ローマにいたユダヤ人たちでした。律法と預言書を知り、イスラエルのメシアの到来を待っていた、パウロと同じ信仰をもっていた人たちです。

紀元49年にはクラウディウス帝によってローマからユダヤ人追放令が出され、その後、戻って来たユダヤ人たちは、それぞれが信仰の苦しみを経ていました。彼らはそのような苦難にあっても聖書の信仰を捨てることなく、メシア到来の預言に希望を持っていました。パウロは、その人たちとメシアの到来を共に喜びたいと願っていたのです。

パウロは、イスラエルの希望のために自分はこのように鎖でつながれているのだ、と言いました。たとえ自分が鎖につながれても、イスラエルに与えられた希望までも鎖につながれることはないことを言いました。

しかしローマにいたユダヤ人たちは、パウロが伝える福音を受け入れず、皆パウロの下から去って行きました。ある人は福音を受け入れたようですが、その人もパウロのもとには残りませんでした。

パウロは自分の下から去って行くユダヤ人たちに、預言者イザヤの言葉を引用し、自分は神を求める人たちにこれから福音を語る、と告げました。

パウロは新たに福音を伝えるべき相手を搾りました。ローマにいたユダヤ人以外の人たち、異邦人です。

使徒言行禄の最後の場面は、キリストの宣教の初めとよく似ています。ルカ福音書の初めを読むと、キリストははじめイザヤ書を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」とおっしゃいました。つまり、御自分が神のメシアであることをおっしゃいました。

しかし人々は信じられませんでした。

「あれは私たちがよく知っているイエスではないか。ヨセフの子ではないか」

キリストは、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」とおっしゃり、福音を受け入れるのはむしろ異邦人であることを預言して、そこを立ち去られました。キリストの福音宣教の旅はそこから始まります。

キリストも、パウロも、福音を受け入れない人たちに向かって、イザヤ預言の言葉を告げています。福音に背を向けて去って行くユダヤ人たちにパウロが26節以下で引用して語ったイザヤ預言は、イザヤが神に召された時に、神から言われた言葉です。

神に背を向けるイスラエルの民に「立ち返るな」と伝える内容です。「イスラエルの人々を私の下に連れ戻しなさい」ではなく、「イスラエルの人たちが私の下に帰ってこないようにしなさい」と神はお告げになりました。イスラエルが、偶像礼拝の裁きを受けるためです。

神はイザヤを始め、預言者たちを遣わして何度もご自分から離れたイスラエルに、戻ってくるようにと繰り返し御告げになりました。しかし、人々は聞かなかったのです。迫って来る巨大な帝国の支配の中でどう生き延びるべきか、いつもイスラエルは悩んでいました。そしてアッシリア帝国の支配に入り、アッシリアの神を取り入れることを決めてしまいます。

真の神から離れたらどうなってしまうのか、神の言葉を聞かず偶像礼拝に生きるとどうなってしまうのか、イスラエルは身をもって体験しなくてはならなくなったのです。それが、イザヤに託された神の言葉でした。

しかし神は、神の元に戻ってこようとしない人たちの中にあって、それでも神を求める少数の人たちがいることをイザヤにおっしゃいました。「残りの者」と呼ばれる人たちです。やがて滅びるイスラエルの中から、その人たちが、切り株から芽生えるひこばえのように、新しく神の民として成長していくだろう、という預言です。

パウロは、そのイザヤの言葉を、自分から去っていくユダヤ人たちに、つまり、イエス・キリストの下から去っていく人たちに伝えたのです。「あなたたちは今キリストの福音から去って行くが、やがて、あなたがたとは別のところから信仰者の群れが起こされて来るだろう」

パウロが告げた福音を受け入れず立ち去ったユダヤ人たちはこのあとどうなるのでしょうか。もうユダヤ人はイエス・キリストを知ることができなくなってしまった・・・神・キリストから見捨てられた、ということなのでしょうか。

そうではありません。

パウロはロマ書の9章で書いている。

「私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。」

パウロの同胞のユダヤ人たちがイエス・キリストを信じようとせず、むしろ、異邦人の方がキリストを受け入れていました。これがパウロの痛みでした。

しかしパウロはローマの信徒への手紙の中でこのように書いています。神はユダヤ人をお見捨てになったのではない、いずれユダヤ人と異邦人、全ての人がキリストの下に一つとされる、と。今は不従順なユダヤ人も、キリストに立ち返る異邦人の姿を見て、やがて立ち返るべきキリストの姿を見出すことになる、と言います。ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、全ての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求める全ての人を豊かにお恵みになる。「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」 今はそこに至る途中なのだ、と。

私たちは覚えたいと思います。神は全ての人が、自分の意思でご自分の下に戻ってくることを忍耐して待っていらっしゃるのです。今、私たちはそこへの途上を歩んでいます。

キリストの一番弟子のペトロは「神は忍耐していらっしゃるのだ」と言っています。

「ある人たちは遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます」

私達は、すぐに自分の目に見えることで全てを判断してしまいます。自分の教会生活、礼拝生活がどれほど実を結んでいるか、自分の信仰生活がどれほど他の人たちへの証しになっているか、自分の周りを見てもよくわからないでしょう。

預言者が伝えて来た主の日、キリストがおっしゃった神の裁きの日は、来ないではないか、自分の信仰生活は無駄ではないか、と思ってしまうようなこともあるでしょう。自分の目の前や周囲を見回して、自分の信仰生活が成功しているのか失敗しているのか不安になることもあるでしょう。

しかし、自分が今どのように神によって用いられているのかは、自分の知識や見えるものだけではとらえきることは出来ません。神は間違いなく、今の私たちをご覧になっています。そして私たちと一緒に、一人も滅びないで皆が神の元へと立ち返る時が来るのを忍耐して待っていらっしゃるのです。

パウロはコリント教会にこう書いています。 Continue reading

10月1日の礼拝説教

使徒言行禄28:7~16

「こうして私たちはローマに着いた」(27:14)

復活なさったキリストは弟子達に「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして・・・地の果てに至るまで、私の証人となる」とおっしゃいました。その言葉通り、聖霊を受けたパウロはキリストの力を授けられ、エルサレムからはるか離れた場所で神の御業を行い、神の言葉を告げています。

裁判を受ける囚人としてローマへと運ばれていたパウロを乗せた船は嵐の中漂流し、マルタ島にたどり着きました。この小さな島にまで、神はパウロを通してキリストの福音を運ばれたのです。

島にはプブリウスという長官がいました。この「長官」というのは、元の言葉では「第一の人」という意味の言葉ですので、その土地を支配していた人だったのでしょう。プブリウスはパウロたちが流れ着いた浜の近くに自分の土地を持っていて、三日間、彼らを手厚くもてなしました。

聖書には「私たちを」もてなした、とあります。船には276人が乗っていましたが、この「私たち」というのは、パウロとその友人たち、パウロを護送していた百人隊長たちローマ兵のことでしょう。

ここでパウロはプブリウスの父親の熱病と下痢を、祈り、手を置いて癒しました。信仰者に授けられたキリストの力が働いています。キリストが多くの人を癒されたり悪霊を追い出されたりして神の支配がそこに及んでいるということをお示しになったように、パウロも、癒しの業を通してプブリウスの一家に神の力が及んだことを示しました。

島の人たちは、パウロに対して深く敬意を表した、と書かれています。

私たちは、島で尊敬を集めたパウロがその後どうしたのか、ということを見たいと思います。彼は三か月後、当然のようにローマへと向かいました。

漂流した先で長官や島民から尊敬を集めた、というのであれば、パウロがマルタ島を安住の地としてもおかしくありません。これからわざわざ自分の裁判を受けるためにローマに行かなくても、パウロはこれからの自分の生涯をマルタ島で過せば、迫害や争いとは無縁の生活を続けることが出来たのではないでしょうか。

しかし、使徒言行禄はパウロの旅がマルタ島に着いたというところで終わっていません。福音を携えたパウロの旅は続くのです。彼はまた船に乗り、キリストの証人としてローマへと向かうことになります。パウロは、アフリカの町・アレクサンドリアから島に来ていた船に乗りこみました。

パウロは既に神の声を聞いていました。

「勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」

パウロには、迷いはありませんでした。自分が人々の尊敬を集めたマルタ島に留まることなく、ローマに向かう船に乗ったのです。

神がそうおっしゃるから、です。パウロにとってそれが全てでした。

さて、船はマルタ島からシチリア島のシラクサ、イタリアのレギオン、プテオリといくつかの港に寄りながらローマに近づいて行きました。

プテオリに着いた時には、「兄弟たち」がそこにいて、パウロたちを待っていた、と書かれています。「兄弟たち」というのは信仰の兄弟たち・キリスト者たち、ということです。パウロはイタリアのキリスト者たちに請われるまま7日間そこに滞在しました。

かなり自由にふるまうことが許されていたことが分かります。百人隊長がパウロにこれだけ自由を赦したのは、パウロの無実を知っていて、船の中でパウロの信仰が皆を勇気づけ、島で神から授けられた力をつかって癒しを行ったのを見ていたからでしょう。このエルサレムからローマまでの航海の中で、百人隊長だけなく、船に乗っていた人たちは皆、パウロを通してイエス・キリストの力の目撃者とされていたことがわかります。

私たちはここで特に、行く先々でパウロを待っている人たちがいた、ということに注目したいと思います。ついに14節で「私たちはローマに着いた」とあります。文字通り、パウロの旅は終わったのです。

三度に渡るパウロの福音宣教の旅、そして、ローマに護送されていく船旅をパウロは体験しました。長年にわたって町々を移動しながらのパウロの福音宣教の旅の最終地ローマについにたどり着きました。

パウロのこれまでの福音宣教の道を振り返ってみると、決して平たんでまっすぐな道ではありませんでした。妨害、迫害、回り道ばかりでした。しかし、パウロの通った後には、福音の芽が出て、根が張って行き、成長して実を結んできました。不思議です。

パウロはコリント教会にこう書き送っている。

「(私は)しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難にあい、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々私に迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事がある。誰かが弱っているのなら、私は弱らないでいられるでしょうか。誰かがつまずくなら、私が心を燃やさないでいられるでしょうか」Ⅱコリ11:26

ローマに着き、福音宣教の旅が終わっても、パウロのキリスト証言に終わりはありませんでした。ローマは当時のローマ帝国の中心です。しかしエルサレムからやって来たパウロと、付き添って来たキリスト者たちにとっては、イエス・キリストが弟子達におっしゃったようにローマは「地の果て」でした。

「あなたがたは地の果てに至るまで私の証人となる」とおっしゃったキリストの言葉は、まさに神のご計画として、今、パウロを通して、キリストの使徒たちを通して実現しています。

パウロにとって、ローマは初めての土地であり、「地の果て」でした。それにも関わらず、なぜキリスト者たちが迎えに来たのでしょうか。

パウロは3度目の福音宣教の途中滞在していたコリントの町から、既にローマの信徒たちに手紙を書き送っていました。今、新約聖書の中に入っているローマの信徒への手紙です。紀元55年から56年の間に書かれたとされます。

その手紙の中でパウロはこう書いています。

「何とかして、いつかは神の御心によってあなた方のところへ行ける機会があるように願っています・・・ローマにいるあなた方にも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」と書いている。

この手紙を受け取ったローマのキリスト者たちは、パウロが来ることを待っていたのです。パウロにとっては見知らぬ土地、「地の果て」であっても、神は既にパウロを受け入れる信仰者たちを備えてくださっていたのです。

振り返ると、パウロのこれまでの福音宣教の旅もそうでした。パウロは知り合いがいたからその町に入って行ったのではありません。明確な計画をもってその町に入って行ったのでもありません。ただ福音を携えて町の中に入って行ったのです。

パウロたちが新しい町に入ると、そこに、福音を求める人、キリストを求める人が既にいました。パウロは行く先々で、ユダヤ人や、土地の人たちからの反対にもあいますが、そのような中でもわずかに、福音を受け入れキリストを信じる人たちが起こされていきました。

パウロは何千人もの人たちをいきなりキリスト者に変えていったのではないのです。福音の種をわずかずついろんな町々に蒔いて行ったような旅を彼は続けました。わずか数人の人がキリストを信じるようになると、そのままパウロは次の町へと向かった・・・そんな旅だったのです。

しかし、わずかに蒔かれたその福音の種が、キリストが弟子達におっしゃたように、

「30倍、60倍、100倍」と成長していきました。そして今、ローマでパウロを迎え入れるキリスト者たちが港に迎えに来てくれるまでになっていたのです。

パウロは手紙の中で書いています。

「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも、水を注ぐものでもなく、成長させてくださる神です」

パウロはローマに着き、自分を迎えに来てくれたキリスト者たちを見て、「勇気づけられた」とあります。これは、正確には「勇み立った」という能動態の言葉です。神のご計画を信じてローマまで来たパウロが、自分を迎えに来たキリスト者たちを見て、「やはり自分は間違っていなかった、今確かに神のご計画が進んでいる」と知り、「更に勇気が出た」という表現です。

パウロはここまで地中海を渡って来ました。逆風、暴風雨、漂流という厳しい船旅でした。それでも、キリストは前もってパウロのために備えてくださっていたのです。マルタ島でも、ローマに向かう途中に立ち寄った港でも、キリストはパウロをお用いになって御自分の救いを、招きをお見せになっています。

私たちは、パウロの姿を通して考えさせられます。私たちはキリスト者として次に何をすればいいのか、どこに行けばいいのか、ということを考えます。どうすればキリストにお応えすることが出来るのか、と考えます。そして自分の無力さに不甲斐なさを覚えるのではないでしょうか。「あの方は私のために死んでくださったのに、私はあの方にどのように報いればよいのか」 Continue reading