使徒言行禄26:19~32
「預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。」(26:22)
キリストの使徒パウロは、ユダヤの王アグリッパから「お前は自分のことを話してよい」と弁明の機会を与えられました。その際パウロが語った「自分のこと」とは、「キリストが出会ってくださった自分・キリストに救われた自分」のことでした。単なる自己弁護ではなく、自分の信仰を語り、自分が今誰に仕えているのか、誰のために自分を捧げているのか、ということをアグリッパ王に伝えたのです。イエス・キリストとの出会いを語ることなく、パウロは「自分のこと」を語ることはできませんでした。
今、私たちは、使徒言行禄で最後のパウロの弁明の言葉を見ています。ここでのパウロの言葉の中に彼の信仰・宣教が凝縮されている、と言っていいでしょう。
パウロはキリストによって召された次第を語りました。キリストに召された時、「人々の目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせるため、異邦人のもとに遣わす」と言われました。復活のイエス・キリストから使命を与えられたのです。
彼はアグリッパにはっきりと言い切ります。
「私は預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです」
ここまでパウロは、自分が聖書に残されてきた言葉以外は語っていないこと、イエス・キリストこそ聖書に約束されていたメシアである、ということだけを語って来ました。それがパウロにとっての「自分のこと」だったのです。
アグリッパ王は、驚いたのではないでしょうか。パウロが「私は無実なので解放してください」と自分自身の無実を弁明するだろうと思っていたのではないでしょうか。
「お前は私をキリスト信者にしてしまうつもりか」と言いました。アグリッパはユダヤ人の王だったので、聖書の言葉は知っています。預言者の言葉も知っていました。
アグリッパは、パウロという一人のキリスト者を前にして、預言者が伝えて来た神の救いの約束をイエスという方の十字架と復活に見出すかどうか、その岐路に立たされることになりました。この後アグリッパ王が主イエスへの信仰をもったのかどうか、ということは聖書には書かれていません。おそらくは信じなかったでしょう。
私たちこの場面を通して一つはっきりとわかります。パウロに出会う人、パウロの言葉を聞く人たちは、誰もがイエス・キリストへの信仰の岐路に立たされることになった、ということです。
私たちはここで、自分たちに与えられているキリスト者としての証しの力ということを考えたいと思います。自分自身の信仰生活を振り返ると、一体どれだけキリストを証しすることができているでしょうか。「そう言われると、自分はキリストに対して胸を張ることは出来ない」と下を向いてしまうのではないでしょうか。
私たちは会う人会う人に聖書を説明するわけではありません。自分のキリスト証言の小ささ・無力さを誰もが思うのではないでしょうか。
しかし、私たちキリスト者は、キリストが出会ったくださった者・一人の小さなクリスチャンとして生きる中で、多くの人を、キリストの前に立たせることになっているのです。
誰かが私たちに出会うということは、「キリスト者に出会う」ということです。そしてそれは、「キリスト者を生かすキリストに出会う」ということでもあります。
実は私たちは、キリスト者として日々を生き、誰かに出会い、誰かと時間を共に過ごすことで証の業を行っているのです。私たちは聖霊に用いられている、ということを覚えたいと思います。
パウロはアグリッパに問いかけました。
「アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います」
これは、今使徒言行禄を読んでいる私たちに向けられた言葉でもあります。「あなたは、預言者の言葉を信じているか。預言者たちが残した預言の言葉の通り、ナザレのイエスは復活なさった。それを信じているか」
キリストの復活を信じて日々祈り、礼拝に向かう私たちの姿は確かに神によって用いられています。私たち自身が、神のご栄光を映し出す鏡として用いられているのです。私たち自身に栄光の光はありません。だから私たちは神の栄光を映し出すのです。
改めて考えると、私達はなぜ神によってキリスト者とされたのでしょうか。自分の何がキリストに相応しかったのでしょうか。なぜ私たちは今、この礼拝の群の中へと召されたのでしょうか。何か、神の目を引くようなことをしたのでしょうか。パウロのように福音宣教のために世界中を旅したような人がここに集まっているのではありません。
しかし、私たちにとって、自分の信仰に対する自己評価などは関係ないのです。神が私を選んでくださった、その選びが全てだからです。
パウロはどうだったでしょうか。パウロは教会の迫害者でした。パウロは自分のことを「神の教会を迫害した私はキリストの使徒と呼ばれるのに一番ふさわしくない」と手紙の中で書いています。
私たちが今ここに召されているのも、教会の迫害者パウロが召されたのも、理由は一つです。神の恵みによって、です。
預言者たちが召されたのと同じ理由です。預言者イザヤは、神の言葉を伝えている。
「主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生ずるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる。主である私は、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光としてあなたを形作り、あなたを立てた。見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために」
イザヤは、「恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った」という神の言葉を伝えています。私たちが今ここにキリスト者として召されたのは、ただ神の恵みなのです。私たちの側には何の理由もないのです。ただ、神が私たちに恵みを示し、召してくださったのです。
「目の見えない人を導いて知らない道を行かせ、通ったことのない道を歩かせる」と神はイザヤを通しておっしゃっています。私たちこそ、「目の見えない人」ではなかったでしょうか。キリストが出会ってくださり、私たちの目を開き、それまで知らなかった道を与えられ、今「通ったことのない道」を歩かせていただいている・・・それが私たちの信仰生活です。それが、今の私達なのです。
私達は確かに神によって見せられ、歩ませていただいているということを忘れてはならないのです。
パウロの弁明を脇で聞いていた総督フェストゥスはパウロに向かって、「お前は頭がおかしい。学問のし過ぎで、おかしくなったのだ」と言いました。総督にはパウロがそう見えたのでしょう。
恐らく、キリストを信じて生きる私たちも、そのように思われたり、言われたりすることがあるでしょう。愚か者呼ばわりされるかもしれません。しかし私たちは、キリストとの出会いを否定することはできません。目の見えていなかった私に、それまで知らなかった道を示してくださった神を否定することはできないのです。
私たちはそれぞれ、どのようにキリストを知ったでしょうか。どのように神を信じるようになったのでしょうか。偶然としかいいようのないことの連続の中で、私たちは信仰を抱くようになったのではないでしょうか。どんなに否定しようが、「キリストは生きていらっしゃる」としか思えないような何かが、それぞれにあったからでしょう。
旧約聖書の創世記で、アブラハムが神のみ使いに会う場面があります。暑い真昼に、アブラハムが天幕の入り口に座っていました。彼がふと目を上げて見ると、三人の神のみ使いがアブラハムに向かって立っていた、と書かれています。
アブラハムにとっては、驚きでした。アブラハムは、いついつ、どこで神に会おう、と思っていたのではないのです。無防備に休んでいた、ふと目を上げると、そこに神がいらっしゃったのです。
人は、自分で神との出会いを作り出すことはできません。神が恵みをもって場所と時を選び、最も良い時に、自分の前に現れてくださるのです。我々人間が期待もしていない時、想像もしていないような仕方で出会ってくださいます。私たちのキリストとの出会いもそうだったのではないでしょうか。
人から「お前は頭がおかしい」と言われても、あの時、神が、キリストが私に出会ってくださったことを無しにすることはできないのです。
アグリッパ王は立ち上がりました。もうパウロの弁明の時間は終わった、ということです。その場でパウロの言葉を聞いた人たちは皆、パウロが無実であることを確信しました。そして「皇帝に上訴していなければ、釈放してもらえたのに」と言いあいました。
パウロは自分の無実が証明されて釈放されること以上に、ローマ皇帝に上訴するためにローマに行き、自分の信仰を言い表すことを選びました。パウロはキリストとの出会いを無しにすることはできなかったのです。
パウロは手紙の中でこう書いています。 Continue reading