MIYAKEJIMA CHURCH

7月24日の説教要旨

使徒言行禄9:1~9

「サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った」(9:8)

教会の迫害者サウロは、イエス・キリストから声を掛けられ、キリストの使徒として召され、後にパウロと呼ばれるようになりました。もし、使徒パウロがいなかったら、今の教会の姿は随分違ったものになっていたのではないでしょうか。少なくとも、新約聖書の中身は全く違ったものになっていたでしょう。

サウロは、ステファノに石を投げて殺した民衆の中にいました。ステファノを殺害することを正しいことだと信じていたのです。サウロはキリスト者たちをもっと迫害しようと、ダマスコに向かう途中で復活のキリストから呼びかけられました。このことが、サウロのその後の人生を大きく変えることになりました。

迫害者サウロが使徒パウロとなり、ユダヤ人の地域を超えて異邦人へと福音を伝え、アジアからヨーロッパへとキリスト者の群れが広まっていくことになります。そのことを考えると、今日読んだサウロとキリストの出会いというのは、キリスト教会にとって、つまり私達一人一人にとって、大きな意味を持つ出来事だと言っていいでしょう。

神が誰か一人を召し出される、ということが時代を超えてどれだけ大きな意味を持っているのか、ということに、私達は思いをはせたいと思います。そして、私達が信仰者として誰かに出会う、ということ、また、私達の今の信仰生活が、実は次の時代にどれほど大きな意味を含んでいるのか、ということも考えたいと思います。

神が誰かを預言者・使徒へと召し出される時、その選びには不思議があります。聖書を読んで面白いのは、神に選ばれた人は皆、なぜ自分が選ばれたのか分かっていない、ということです。むしろ、選ばれた方の人間は神に向かって「いや、私ではないでしょう。私はあなたの働きにはふさわしくありません」と言うのです。しかし、神は「いや、あなただ。私は弱いままのあなたを求めている。私はあなたを通して働くのだ」とおっしゃって、召し出されます。

旧約聖書に預言者エレミヤという人が出てきます。エレミヤは若くして神から声を掛けられ、預言者として召されました。19か20歳ぐらいの時だったと言われています。エレミヤは、自分が神の言葉をイスラエルに伝える預言者として働くなど、自分には無理だ、と言いました。「自分は若者に過ぎない」、と。

しかし、神はおっしゃいます。「自分は若者に過ぎない、と言ってはならない・・・私はあなたが母の胎にいるときから選んでいた。」

パウロも手紙の中で、「自分は母の胎にいる時から選ばれていた」と、エレミヤと同じことを書いています。パウロも、エレミヤと同じように、なぜ自分が選ばれたのかはわかりませんでした。

「私は教会を迫害したのですから、使徒の中で最も値打ちのない者です」と書いている。確かにそうでしょう。神はなぜ教会を迫害していたサウロを使徒として選ばれたのでしょうか。神の選びの不思議は、本人たちにも、そして聖書を読む私達にも、隠されています。間違いなく言えるのは、「神にはご計画をもってその人をお選びになった」ということです。

今ここにいる私たちも「なぜ、自分が今ここにキリスト者として召されているのか」は、自分ではわかっていないでしょう。ただ神が私をご覧になり、選び分け、時を備えて、ご自分の元へと招いてくださり、私を通して・用いて何かを行おうとなさっている・・・それだけしか言えないのではないでしょうか。

教会の迫害者サウロが、どのように変えられていくのか、しっかりと見て行きたいと思います。サウロに起こったことが、私たちに起こったことでもあるからです。

キリストを知ることによって、パウロはどう変わったでしょうか。一言でいうと、パウロの中で誇るものが変わりました。キリストに出会うまで、パウロが誇りにしていたのは、「自分」でした。

パウロはいろんな手紙の中で、キリストに出会うまでの自分は、自分自身を誇っていた、とガラテヤの諸教会に書いています。

「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年頃の多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」

聖書の教えを守るのに、同じ年頃の誰よりも徹底していた、と自負しているのだから、ものすごい自信です。

フィリピ教会にはこう書いています。

「私は・・・イスラエルの民に属し・・・ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした。」

自分こそイスラエルの中で最も聖書の教えを熱心に守っている者だったと言い切っています。実際、神の教えを守るために、キリスト者・教会を迫害するほどの熱心さをもっていました。彼は、自分ではそれが正しいことだと思っていたのです。

しかし、キリストに出会った後、パウロは変わった。

「しかし・・・私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています」

キリストに出会う前は自分自身を誇りにしていたことを、パウロは「肉の誇り」と表現しています。そして、キリストを知ってからは、律法の知識をたくさん持っていることや、自分が民族的に純粋なユダヤ人であるといった「肉の誇り」など、塵芥となった、と書いています。

パウロは、キリストを知ることによって、自分を誇る者からキリストを誇る者となりました。「自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」

これは、キリストに出会った人が皆体験することではないでしょうか。誰もが、「強くなりたい」と思い、自分を誇れるようにもがき、他者と自分を比較して思いあがったり落ち込んだりします。しかしキリストとの出会いがそれを変えます。

実際パウロは、強い人でした。「私には聖書の知識がある。ヘブライ人の中のヘブライ人だ。誰にも負けない」と言えるほどの人でした。しかし、キリストを知ってからは、自分を誇る人から、「誇る者は主を誇れ」と言う人へと変わりました。イエス・キリストを知っている・イエス・キリストに知られている、ということが、信仰者の誇りとなるのです。

サウロは後に、パウロと呼ばれるようになります。サウロはヘブライ語の名前で、イスラエルの最初の王様となったサウルと同じ名前です。

しかし、サウロは、「パウロと」いうギリシャ語で小さき者という意味の名前で呼ばれるようになります。

王様のように自信に満ちていたサウロは、キリストに出会い、「いと小さき者・パウロ」と名乗るようになったのです。パウロはキリストに出会って、小さきものへと変えられました。

私たちもそうです。キリストを知る、ということは、神の前に自分がいかに小さいか、ということを知る、ということでしょう。自分を誇ることの愚かさを恥じ、キリストを誇る喜びを知る、ということです。

今まで自分が誇りとしていたこと、価値を見出していたことが突然塵芥になってしまうと、普通は、空しさを覚えます。「今までの自分は何だったのか」、と悩むでしょう。しかし、イエス・キリストとの出会いによるその変化は、新しい誇りを見出す、ということなのです。

サウロはキリストとの出会いを通して、何を見せられたのでしょうか。キリスト者たちを迫害しようとして意気込んでいたサウロに天から光が照らされました。パウロは天からの光に向かって「あなたはどなたですか」と聞きます。

「あなたが迫害しているイエスである」

サウロは自分が正しいことをしていると思っていました。キリスト者たちの道が間違っていて、自分の道が正しいと思っていました。教会を迫害すれば神は喜んでくださると思っていました。

しかし、キリストはそのサウロの道を絶たれました。それがサウロの召命でした。神から「あなたの道は違う。あなたに私の道を歩ませる」と方向を変えられたのです。それが神の召しです。

そしてこれが、キリストとの出会いの中で私達に起こることなのです。

道を変えられる、ということ。

サウロは目が見えなくされてしまいました。人々に手を引いてもらわなければならなくなりました。

「自分が民衆の信仰を正す・導くのだ」、という自負を持っていたサウロが、逆に、誰かに導いてもらわなければならなくなりました。あの、自分を完全無欠だと自信をもっていたサウロが、自分では何もできなくなってしまったのです。

サウロは、その無力さの中で神から教えられました。「結局自分を導くのは神である」「神に導いていただかなければ、自分は正しい道を歩くことが出来ない」、ということを。サウロは、自分の誇りを無にされ、その上で、自分が神から導きが与えられなければ何もできないものである、ということを無力さの中で学ばされました。 Continue reading

7月17日の説教要旨

使徒言行禄8:26~40

「主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である。」(8:26)

使徒言行禄は「旅の記録」と呼んでいいものでしょう。キリストの福音を携えたある人が、旅の途中で誰かに出会い、そこで福音を伝える、ということが連続して起こっています。

福音が誰かから誰かに手渡される時には、必ずそこには聖霊の働きがあります。一人の信仰者が生まれることは偶然に起こることではなく、私達の知恵や思いを超えた聖霊の働きがそこある、ということを聖書は私達に伝えているのです。私達自身、自分の信仰生活を振り返ると、単なる偶然に思える出会いも、実は聖霊による必然であった、と思わされることはいくつもあるのではないでしょうか。

私たちが今日読んだ場面も、聖霊の導きの不思議さに満ちています。ステファノの殉教をきっかけに、エルサレムで教会に対する迫害が起こり、キリスト者たちはエルサレムから追い散らされました。迫害から逃げた人たちは、逃げながらイエス・キリストの福音を伝えていった、と記されています。

キリストの使徒の一人、フィリポはサマリアに行き、そこでしるしを行い、言葉を語ってイエス・キリストを証しました。フィリポはサマリアでとても重要な働きをした、サマリア伝道の中心人物と言っていいでしょう。

しかしフィリポは、後から来たペトロとヨハネにサマリアでの宣教を任せ、次の宣教の場所へと向かいました。正確に言うと、「主の天使」によっ、新しい場所が示されたのでそこへと向かっていきました。

今日は、サマリアを離れたフィリポの姿を追っていきたいと思います。

主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ降る道に行け」と命じました。聖書には「そこは寂しい道である」と記されています。フィリポにとってそれは唐突で、不可解な導きだったでしょう。聖書を読んでいる我々にとっても、「なぜ、フィリポはそんなところに行かなければならないのだろう」と思わせられます。

フィリポはサマリアでたくさんの人たちをキリストの元へと導きました。サマリアの人たちはフィリポを慕い、キリストを証してくれる使徒として頼りにしていたでしょう。普通に考えると、フィリポはサマリアに留まり福音宣教の業を続けた方がいいのではないだろうか。新しい誰かがサマリアでの宣教活動に入っていくよりは、フィリポがそこに居た方が、効率がいいのではないか。

「どうして自分がそんな寂しい場所に行かなければならないのか。サマリアに、こんなにたくさんのキリストを求める人たちがいるのに」という思いは、フィリポの中にだってあったと思います。

フィリポ自身も、「そこに行け」、と言われただけで、そこで何が自分を待っているのかは知りませんでした。行って見なければ、わかりませんでした。しかし彼は聖霊に従いました。

主の天使は、フィリポを「寂しい」場所へと導きました。たくさん人たちがキリストの福音を待っている場所ではなく、誰もいない、寂しい場所へと導きました。我々人間には予想もしない導きです。

その従いの先で、フィリポは、神がこんな「寂しい場所」で、大切な出会いを用意されていた、ということを知りました。

彼は、主の天使の言葉を信頼し、サマリアを離れ、ガザに向かう寂しい道へと向かい、エルサレムからペリシテのガザへと続く寂しい道で、フィリポは、アフリカのエチオピアからの巡礼者と出会ったのです。

当時の地中海沿岸に住む人たちにとって、エチオピアは「世界の果て」と言っていいような国でした。エチオピアの女王の高官だったその巡礼者は、ユダヤ人が信じるイスラエルの神への信仰を持っていました。その人は、エチオピアからエルサレムまで巡礼し、聖書を読みながら車の中で自分の国へ帰っていたのです。

このエチオピア人との出会いは、フィリポにとっても驚きでした。こんな寂しい場所に、聖書の真理を求める人がやって来たのです。しかも、エルサレムから遠く離れた、アフリカのエチオピアの人で、聖書に証しされているイスラエルの神を求めている人に出会ったのです。

この人は、車の中で聖書を読んでいました。普通は、聖書の言葉を一人で読んだって、よくわからないでしょう。このエチオピア人にとっては外国の神であり、読んでいたイザヤ書は、何百年も昔の言葉です。しかし、それでも彼は聖書の真理を求めていました。

フィリポは、エチオピアの宦官がヘブライ語でイザヤ書を読んでいるのを見て驚き、「読んでいることがお分かりになりますか」と言いました。この人は宦官として女王に仕える人だったので、当然博識な人でした。エチオピア人でありながら、ヘブライ語で書かれた聖書のイザヤ書を読んでいたのです。

当時のユダヤ人は、アラム語を話していました。ユダヤ人でさえ、ヘブライ語をアラム語に直さなければ読めなかったのに、その人はヘブライ語で聖書を読んでいたのです。ものすごい知識人です。

フィリポは、「ここで、読んでいることがお分かりになりますか」と言ったのは、「ヘブライ語がわかりますか」、と言うことではありません。聖書に記されているその預言が、一体何のことを言っているのか、誰のことを預言しているのかわかりますか、と尋ねたのです。。

エチオピア人の宦官は、イザヤ書に書いていることは読めました。ヘブライ語で書かれていても、それを文字としては読むことが出来ました。しかしそれは「ただ、読める」、というだけのことでした。

書かれているイザヤ書の言葉の内容が一体何を指しているのか、誰のことを預言しているのかは、どれだけ読んでも理解できませんでした。

イザヤ書53章は謎に満ちています。そこには、「神の苦難の僕」と呼ばれる人の受難が預言されています。「神はこの僕に全ての罪を背負わせられる」、ということが言われているのです。

誰かが子羊のように殺されてしまう、ということが言われていますが、子羊のように殺されるその人が、一体誰なのか、全く解説されていません。このイザヤの預言の言葉に隠された意味を知りたい、神のご計画を知りたい、と思っているところにフィリポという人が突然現れたのです。

フィリポは、ナザレのイエスという方の十字架と復活をこのエチオピアの宦官に語って聞かせました。何百年も前に語られたイザヤの預言は、自ら苦しみを背負い、自分の命を捨てて人々を罪から救う、受難のメシア、イエス・キリストのことであることを伝えました。宦官はそれを聞いて、イザヤ書の預言を理解しました。

フィリポとエチオピア人の出会いは、エチオピア人がイザヤ書の預言を理解した、というだけでは終わりませんでした。聖霊によって二人が出会わされ、それによって、受洗者が生まれたのです。

このエチオピア人は、イザヤ預言を理解し、信じ、フィリポに言った。

「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」

そして彼はフィリポから洗礼を受けます。

聖書の言葉を読んで、「これは自分に起こったことなのだ」と悟った時、人は洗礼へと導かれます。そして、新しい自分として生きることになるのです。

聖書の言葉、聖書の預言は、理解して終わり、ではありません。人は聖書の言葉が真実である、ということを知った時、「これは自分に起こったことなのだ」と知ります。「イエス・キリストが自分のために死んでくださったのだ」ということを知ることであり、「キリストは復活されて今自分を求めてくださっている」ということを知ることです。

そして、人は洗礼へと導かれるのです。キリストを知らなかった自分に別れを告げ、キリストと共に生きる新しい自分へと生まれ変わります。

使徒パウロは、ローマの信徒たちに、洗礼についてこう書いている。

「我々は洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。・・・私たちも新しい命に生きるためなのです」

さて、その後、フィリポとエチオピアの高官はどうなったでしょうか。二人は一緒にエチオピアに行ったのか、というそうではありません。またフィリポは別の場所へと連れ去られました。

そして一人残された宦官は、「喜びにあふれて旅を続けた」とあります。彼には、フィリピとの別れがあった。しかし、それでも、この宦官にとって、エチオピアへと帰っていく旅は、新しい「喜びに満ちた旅」となりました。それは故郷へと戻る旅だったが、同時に、キリスト者として踏み出す新しい出発の旅でもありました。この人にとって人生という旅が全く新しい喜びに満ちたものとなったのです。

キリストを信じて生きることは、私達を日々新しくします。

パウロは手紙の中でこう書いている。 Continue reading

7月10日の説教要旨

使徒言行禄8:1~25

「散っていった人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」(8:4)

ステファノの殉教をきっかけに、エルサレムのキリスト者たちに対して大迫害が起りました。エルサレムで大きく成長したキリスト教会でしたが、一日でバラバラにされてしまいました。そして迫害を受けたキリスト者たちはエルサレムの外へと追い散らされてしまったのです。

しかし、教会はここから不思議な成長を遂げていくことになります。エルサレムから逃げ去ったキリスト者たちは、ただ逃げたのではありませんでした。逃げながら、その先々でイエス・キリストの福音を告げ知らせ、そのことによってエルサレムの外へと福音が広まっていったのです。

私達は、今日読んだところで、ユダヤ人とは交流がなかったサマリア人たちへとキリストの福音が伝えられていった、ということをみました。教会への迫害を通して、福音はエルサレムの外へと、全世界へと広まっていったのです。人間の知恵や力を超えた神の摂理をここに見ることが出来ます。

エルサレムから追い散らされた人たちは、サマリアへと逃げました。エルサレムから逃げて来たユダヤ人たちによって、サマリア人に福音が語られ、多くの人がそれを受け入れ、洗礼を受けることになりました。

キリストの福音がユダヤからサマリアへともたらされた、ということ、そしてサマリアの人たちがユダヤ人たちがもたらした福音を受け入れた、ということ・・・そこにはとても大きな意味があります。

ユダヤとサマリアは、もともとは一つのイスラエルでした。それが、ソロモン王が死んだ後、北と南に分裂してしまいます。そしてBC722年に首都サマリアがアッシリア帝国によって滅ぼされ、北王国は滅亡しました。その後は南のユダ王国だけが細々と生き残って来ました。

昔は一つだったイスラエルだったが、歴史の歩みの中で、北と南に別れ、民族的に、信仰的に別々の歩みをするようになっていきました。教会が生まれた時代紀元1世紀には、サマリアとエルサレム、サマリア人とユダヤ人の間には大きな断絶があったのです。

それが今、イエス・キリストの十字架と復活を通して、ユダヤの人とサマリアの人がキリストへの信仰の中で一つになっていった、というのです。それは、二つに引き裂かれたイスラエルが、もう一度神の元に一つとされたという、神の平和を象徴するような出来事でした。

私たちはここに、福音が持つ力を見ます。人間の努力だけでは壊すことが出来ない壁・埋めることが出来ない溝を超えさせる福音の力です。仲間同士、似た者同士、内輪だけでまとまって強くなっていくようなものではありません。

イエス・キリストの福音は敵対する者同士を一つにします。神の元に全ての人を一つにしていく平和の力です。

エフェソの信徒への手紙の中で、パウロはこう書いています。

「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊します」

これが、聖書が伝えている「神の救い」です。救いとは、「和解」のことです。壊れていた関係が、イエス・キリストへの信仰によって回復させられることです。

神との関係が壊れていた罪びとは、キリストの許しを知り、悔い改めることで神の元へと立ち返ることが出来ました。そして今、壊れていたユダヤ人とサマリア人の関係も、キリストの福音によって回復しています。

神との関係が、隣人との関係が、イエス・キリストを信じることによって回復されていきます。全ての人が神の元に集められ一つになる「救いの完成・和解の完成」に向けて、聖霊は今も教会に注がれ、私たちを通して働いています。

さて、サマリアでの様子を見ていきたいとおもいます。ここで大きな働きをしたのが、フィリポという使徒でした。「フィリポ」というのは、ギリシャ語の名前なので、教会の中でもギリシャ語を話すユダヤ人の一人でした。つまり、ステファノと一緒に、選ばれた7人の使徒の内の一人でした。

サマリアの人たちはエルサレムから逃げて来たフィリポが語るイエス・キリストの出来事を知りました。そしてフィリポの行う奇跡の業を見て、驚き、イエス・キリストを信じ、神の国の福音を信じ、洗礼を受けました。

その中にシモンという魔術を行う人もいました。このシモンという人は「魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた」とあります。

シモンとフィリポを比べてみると、面白いと思います。シモンもフィリポも、二人とも、「人々を驚かせた」、という点では同じでした。しかし、人々は魔術師シモンではなく使徒フィリポの業と言葉を求めました。そして魔術師シモン自身も、「信じて洗礼を受け、フィリポに付き従い、素晴らしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた」とあります。

この二人の違いは何だったのでしょうか。

魔術師シモンは自分のために力を使っていました。そして「自分が偉大である」、ということを自分で言っていました。彼は、自分が偉大な人物であることを示すために魔術を行い、人々を自分へと引き付けようとしていたのです。

フィリポは違っていました。全てがその反対でした。フィリポはイエス・キリストのために力を使い、言葉を語ったのです。自分ではなく、自分に言葉と力を与えてくださったイエス・キリストが偉大であるということを伝えるためです。フィリポが使う力、語る言葉は全て人々をキリストへと導くためでした。

もし、フィリポが自分の名声を高めるために語り、働いていたのであれば、人々はシモンとフィリポを同じように見たでしょう。ただ、驚いて見るだけで終わったでしょう。

しかし、サマリアの人々は、フィリポの業と言葉を求めました。人々は、フィリポが自分の名声のためではなく、自分たちサマリア人をキリストへと導くために誠心誠意キリストの福音を伝えている、ということを感じたのでしょう。フィリポが伝える福音を聞き、フィリポが行う奇跡を見て、サマリアの人たちは「喜んだ」とあります。

魔術師シモンと、フィリポの違いはここにあります。シモンの働きは自分への注目を集めるためのものでした。そこに人々の喜びはありません。あるのは、シモンの喜びだけです。

フィリポが伝える福音は、サマリアの人たちに喜びをもたらしました。そもそも「福音」というのは「喜びの知らせ」という意味の言葉です。サマリアの人たちは、フィリポの癒しや悪霊払いの業を通して、神の恵みの支配が自分たちのところにも及んだことを知って喜んだのです。

「ここに神の国がある。ここにまで神の恵みの支配が、神の招きが及んだ」と。

魔術師シモン自身も、フィリポを通してイエス・キリストの福音を知り、洗礼を受けました。しかし、シモンはこの後、過ちを犯します。彼は、フィリポの後からサマリアにやって来たペトロとヨハネが人々に手を置くと聖霊が降るのを見ました。そして「自分にもあの力が欲しい」、と思い、お金を差し出して、「私にも力を授けてください」と申し出ました。うらやましかったのでしょう。

ペトロはシモンにこう言いました。

「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を、金で手に入れられると思っているからだ」

シモンは恐れて、「おっしゃったことが何一つ私の身に起こらないように、主に祈ってください」と言いました。

このシモンの姿は滑稽で、何となく憎めません。とても人間臭いと思います。シモンはたくさん金を持っていたようです。お金には価値があり、お金で神の賜物も買うことが出来る、と当然のように思っていたようです。

人がやっていることをうらやましく思い、お金を出して欲しがる浅ましいシモンでした。しかし、当たり前のことですが、この世にはお金をいくら積んでも買えないものがあります。そしてお金・この世の財産が、福音が持つ価値を見る目を曇らせることがあります。

私たちは、一人の若者を思い出すことが出来ると思います。子供のころから律法を正しく守って来た若者が、「完全になるにはどうすればいいですか」とキリストに尋ねてきたことがあります。

キリストは「完全になりたいのであれば、財産を貧しい人たちに与え、それから私に従いなさい」とおっしゃいました。しかし、その若者はそれを聞いて悲しみながら去って行きました。その若者は「金持ちだったからである」と聖書には記されています。若者は、財産を手放すことが出来なかったのだ。自分が持っている財産以上に、イエス・キリストに価値を見出すことができなかったのです。

天に富を積もうとする私たちの目を、地上の富がどれほど曇らせるのかということを教えてくれる出来事だと思います。

魔術師シモンの姿を通して、私達は、福音が持っている価値の質について、考えさせられます。それは、地上の富で買うことのできない、天の宝でした。シモンは、自分が受けた洗礼は、地上の財産に勝る価値があることを思い知らされました。私達も、このシモンの姿を通して、自分が信じる福音・自分が受けた洗礼の価値を改めて捉え直すべきでしょう。

フィリポが語るイエス・キリストの福音を聞いた、サマリアの人たちは洗礼を受けました。フィリポの業と言葉に感動して賞賛した、感謝した、ということで終わったのではないのです。洗礼を受けたのです。 Continue reading

7月3日の礼拝説教

使徒言行禄7:54~8:3

「『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ」ステファノはこう言って、眠りについた。(7:54)

何千人もの規模になった教会は、12人の使徒たちだけでは秩序を保つことができなくなりました。そこで教会は新しく7人の世話係を選び出し、12人の使徒たちがみ言葉の奉仕に専念できるようにしました。

選ばれた7人は、ただの世話係ではなく、キリストの復活を伝える使徒としての働きも担いました。7人の内の一人、ステファノもまた、民衆の間でイエス・キリストの証言を続けていました。

民衆の一部の人たちは、ナザレのイエスという人が復活したということを疑い、死者の復活を聞くことを快く思わず、ステファノに議論を仕掛けてきました。しかし、ステファノが「知恵と霊とによって語るので、歯が立たなかった」と記されています。

そこでステファノに言い負かされた人たちは、民衆をそそのかして「私たちは、ステファノがモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせたのです。もちろん嘘の情報です。このことで、ステファノは逮捕され、最高法院へと連行されてしまいます。

ステファノは、大祭司から「訴えの通りか」と尋ねられました。彼は神がどのようにモーセを導かれたのか、そして、どの時代のイスラエルの指導者も、モーセのように神がお選びになった預言者たちの言葉を受け入れなかったことを語ります。そして、最後に、イエス・キリストの復活を受け入れない最高法院の人たちに向かって厳しくこう言いました。

「あなたがたはいつも聖霊に逆らっています」

「預言者を迫害した先祖と同じように、今や、あなたがたは律法に背く者となっています」

イエス・キリストの復活を信じようとしない最高法院の人たち・イスラエルの指導者たちは「預言者を迫害して来た先祖と同じだ」と言い切ったのです。

ステファノは人々の怒りを買い、石を投げられ、殺されてしまいます。ステファノの処刑をきっかけに、この日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、キリスト者たちは皆エルサレムの町からユダヤとサマリアの地方へと追い散らされてしまいました。ここまで成長を遂げてきたキリスト教会は、ついにここにきて、大迫害を受け、解体されてしまったのです。

教会はもうここで終わりなのでしょうか。

そうではありませんでした。

ステファノの殉教は、不思議な仕方で聖霊に用いられていくことになります。私たちは、不思議な福音の広がり、不思議な教会の成長を、この使徒言行禄の中に見ていくことになります。

ヨハネ福音書に、こういうキリストの言葉があります。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」

キリストを信じ、教会のために働いた結果、ステファノがこのような悲劇的な殺され方をした、ということは私たちに様々なことを考えさせるでしょう。信仰者が、その信仰ゆえに殺されてしまうとは、なんと報われないことか、と思います。

しかし、ステファノの殉教は、何かを新しく生み出しています。ステファノの死を通して、新しいキリストの証人が生みだされていきました。そしてこの日を境に、福音がエルサレムから外へと、世界へと広まっていったのです。

ステファノが殺されるのを、一人の若者が見ていました。サウロという人です。彼はステファノに石を投げる人たちの上着の番をしていました。サウロは、ステファノを殺すことに賛成していたのです。

この人は後にキリストに召され、キリストの使徒となって働き、殉教するその日まで、教会のために生涯をささげることになります。後のパウロです。ステファノという一人の殉教者が、パウロという新しい一人の殉教者を生みだすことになったのです。

神は、サウロを召される際、こうおっしゃいました。

「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう」

教会を迫害したサウロは、「キリストのために苦しむため」に召し出されることになる。サウロは、やがてパウロと呼ばれるようになり、その言葉通り、キリストのために苦しみながら身を捧げました。鞭で打たれたり、石を投げられたり、船で難破したり、盗まれたり、ということが数えきれないほどあったことを、自分の手紙の中で書いています。

しかし、パウロは後に、手紙の中でこうも書いています。「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」

パウロは教会を迫害する者から、教会のために苦しむ者へと変えられました。それを彼は「神に召された恵み」であると言います。そして「福音を告げ知らせないなら、私は不幸なのです」とも言っています。

「私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのないものです。神の恵みによって今日の私があるのです」

ステファノは一粒の種となり、地に落ち、一人の使徒を実らせました。ステファノの死は、パウロという新しい使徒を生みだしたのです。教会を迫害していた人を、教会のために働き苦しむことを喜ぶキリストの使徒へと変えていきました。

それだけではありません。ステファノを殺した人たちは、キリスト者たちをエルサレムから追い散らしました。しかし散らされたキリスト者たちは、迫害から逃れた先で、キリストの十字架と復活を伝えていったのです。その福音は、サマリア地方にまで伝えられました。

当時、ユダヤとサマリアの人たちは、お互いに交流がありませんでした。しかし、サマリアの人たちは、ユダヤから来たキリスト者たちが行う業を見、キリスト者たちの証を聞いて、喜んで福音を受け入れたのです。

教会に対して迫害が起こり、キリストの使徒が殺され、せっかく何千人にまで大きくなった群れが散り散りにされてしまったのを見ると、大きな損失のように見えます。しかし、それで終わりではありませんでした。聖霊の働きは、そこから、新しい芽吹きを生み出していったのです。

さて、私たちは、今日読んだステファノの姿を通して、信仰を抱いてこの地上の命を終える「殉教」ということについて考えたいと思います。ステファノは、キリスト教会で最初の殉教者でした。

殉教というのは、信仰のために命を落とすことです。今の世界では、狂信的な思想に囚われて、他の人たちを巻き添えにして自分が死ぬことまでが殉教と考えられがちですが、それは聖書が記している殉教の姿ではありません。

そもそも、聖書で言われている「殉教者」という言葉は、「目撃者」という意味を持っています。自分自身を超えた真理を目撃した人、キリストを見た人、神を見た人、という意味が含まれているのです。神から見せられた真理に自分の命・生涯をかけた人、という意味で、ステファノは、「殉教者」でした。

ステファノは何を目撃したのでしょうか。人々から石を投げられる際、ステファノは天上のイエス・キリストを見ました。最高法院の中でイエス・キリストを証したステファノの顔は、「天使のようだった」、と記されています。そして最高法院の人たちに言葉を語り終えると、「聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見た」と記されています。

ステファノは確かに殉教者でした。しかしそれは単に、「信仰のために殺された人」、ということではなく、「自分の命に勝る永遠の命を目撃した人」という意味で殉教者だったのだ。

私たちは信仰を通してしか見えない何かがあります。キリストを信じた先でしか見えてこない世界があります。

ヘブ11:1「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」「(信仰者たちは)自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです・・・すなわち天の故郷を熱望していたのです」

信仰者たち・殉教者たちは、天の故郷を見ていた人たちでした。私達にも、キリストを信じなければ、決して歩むことがなかった道・選択することがなかった決断があったでしょう。そのように、キリストを信じなければ、見えてこない天の故郷があるのです。

聖霊は、私たちをキリストへと導き、そして私たちがやがて帰る天の故郷へと導きます。聖霊は、私たちを目撃者としてくださいます。私たちの信仰の目を通して見せてくださるのです。信仰を通してしか見えない、天上へと続く道を見せてくださいます。

聖霊を通して天の故郷を見た人は、その生涯を通じて神に用いられます。その命が尽きたとしても、私たちの信仰の足跡は、後に続く人たちのために道しるべとなります。イエス・キリストがそうだったように、ステファノがそうだったように。 Continue reading

6月26日の説教要旨

使徒言行禄6:1~7

「私たちは、祈りとみ言葉の奉仕に専念することにします」(6:4)

キリストの使徒たちは、「ナザレのイエスのことを話してはいけない」と言ってくる最高法院の権力に屈しませんでした。イエス・キリストの十字架と復活を人々に伝え続けます。キリストの使徒たちの証を聞いたたくさんの人は洗礼を受け、教会に入って来ました。

2:47を見ると、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」とあります。その他にも、「その日に三千人ほどが仲間に加わった」とか、「男の数が五千人ほどになった」などと記されています。

教会は120人が祈るところに聖霊が注がれるところから始まりました。それが、短期間のうちに何千人もの信仰者の群れとなったのです。

エルサレム周辺だけでなく、ローマ帝国全域のユダヤ人が、ナザレのイエスの十字架と復活を聖書の預言の実現として信じるようになり、何千人もの人たちが使徒たちのところに来て、自分たちの財産を神への捧げものとして持ってくるようになりました。

このように見て行くと、教会の成長の勢いはものすごいものだったことがわかります。

しかし、教会にとって人が集まって大きな群れになる・豊かな財産を持つ、ということは、手放しで喜べることではありませんでした。

教会が大きくなるにつれ、当然様々な問題が起きてきます。人の数が増えれば増えるほど、今までなかった問題が生じてくるようになります。

今日読んだところを見ると、分配のことで問題が起きた、ということが書かれています。

教会の中には、ヘブライ語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人がいました。

「ヘブライ語を話すユダヤ人」は、エルサレムを中心とした、ユダヤ地方に住んでいたユダヤ人たちのことです。

「ギリシャ語を話すユダヤ人」というのは、地中海全域に離散して住んでいて、当時のローマ帝国で使われていたギリシャ語を話していたユダヤ人、ということです。

エルサレムに形成されたキリスト教会には、今や、ローマ帝国全域・地中海全域に散らばって住むギリシャ語をユダヤ人たちも含む大きな信仰共同体となっていたのです。

ヘブライ語を話すユダヤ人に対して、ギリシャ語を話すユダヤ人たちから分配のことで苦情が出ました。ギリシャ語を話すユダヤ人たちのやもめたちが軽んじられ、その女性たちが受け取る分配が少なくされていた、というのです。

このように、教会の人数が増えると、当然、12人の使徒たちだけでは全体をまとめきれなくなってきます。一人一人に目が届かなくなってきました。そこで教会は新しく7人を選び出し、その人たちが教会の食事の世話などが任されることになりました。

私たちが今日読んだのは、教会の中で新しく世話係が選び出された、というところだ。読んでみると、小さな出来事のように思えます。

しかし、これは、教会が、一つの組織として形を整え始めるきっかけとなった、とても重要な出来事です。教会の成長は新しい段階を迎えたのです。

私たちは、今日読んだ出来事を通して、「教会が成長する」とはどういうことか、様々なことを考えていくことが出来ると思います。そもそも「教会の成長とは何か」、そして「教会を成長させるものは何か」、このことを改めて考えていきましょう。

ペンテコステの後、教会には多くの人がキリストへの信仰を告白し、洗礼を受け、キリストへの捧げものをもって入って来ました。短期間で教会は人数が増え、財産も増えました。

しかし、改めて「人数と財産が増える」、ということだけが教会の成長なのか、ということが問われるのではないでしょうか。確かに、洗礼者が多くいることはキリスト者としてうれしいことですし、教会の財産が潤沢にあれば、安定した運営ができます。

しかし、「教会の成長」というのは、それだけのことではないでしょう。今日の場面で私たちが見たように、人が増え、財産が増えることによる問題が出てくるのです。

「教会の成長の本質とは何か」、「信仰共同体としての成長の本質とは何か」、考えなければなりません。

教会の人数の多さや少なさ、また、教会がもつ財産の大きさや小ささ以上に、神の御心を本当に行えているかどうか、そのことの方が、私たちにとっては大切なことなのです。

イエス・キリストを信じる人たちがその教会の群の中で、正しく神を愛し、正しく隣人を愛することが出来ているかどうか、ということが何より大切なことになってきます。

ギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちにとって、「自分たちに正しく食べ物が分配されなかった」は問題でした。それは、彼女たちだけの問題ではありませんでした。それは、教会全体の問題だった。キリスト教会の中で重んじられる人たちと軽んじられる人たちの線引きができてしまっていた、ということです。

どんなに教会が豊かで、人数が多くても、立場の弱い人が軽んじられている、というのであれば、その教会は成熟していません。「未熟」なのです。そのような教会をご覧になってもキリストはお喜びになりません。

エルサレムの人が、エルサレム以外の人たちを、社会的に弱い人たちを軽んじる、ということが教会の中で起こりました。キリスト教会の中で、神を愛し、隣人を愛する、ということが実践できていないのであれば、教会にどれだけ人が集まり、財産を積み上げても、意味はないのだ。

イエス・キリスト以は前おっしゃいました。最も大切な律法は、「心を尽くして神を愛すること、そしてもう一つは隣人を自分のように愛することである」。全ての律法の掟は、この二つの言葉に集約される、とおっしゃいました。

旧約聖書の律法を見ると、神は「やもめ、寄留者、みなしごを守れ」、と最初に言われています。

聖霊を注がれて出来た教会なのに、早くも神の掟、律法が壊れ始めていました。先に教会の一員となっていた人たちが、後から来た人たちを軽んじる、ということが起こっていたのです。

キリストの使徒たちは、驚いたのではないでしょうか。イエス・キリストの福音を語り、それを聞いて洗礼を受けた人たちの間で、早くもそんな俗っぽい問題が起こったのです。

私たちも、ここを読んで、「キリストの十字架の救いを知った人たちの間で、どうしてこんなことが起こるのか」と不思議に思うのではないでしょうか。

しかし、これが人間なのです。この事件を通して私たちは、自分たちの教会のことを振り返る必要があるでしょう。

旧約聖書を通してイスラエルを見ても、新約聖書を通して教会を見ても、その信仰共同体の中に起こるのは全て、とても人間的で、俗っぽい問題でした。派閥争いや、嫉みあいとか、不平等といったことです。

出エジプトの際、荒れ野の旅の中、モーセだけが神と話をすることを妬んだ人たちがいました。しかも、それはモーセの兄弟たちでした。イスラエルの指導者・預言者・祭司でありながら、兄弟同士で妬みあっていたのです。

パウロの手紙を見ても、パウロの使徒としての権威を妬む人たちが教会の中にいたことがわかります。

教会の人数が増えると、「私たち」と「あの人たち」という風に、小さなきっかけで派閥が生まれ始めます。コリント教会がそうでした。同じ教会の中で、「私はペトロにつく」「私はパウロにつく」などという争いが起こっていたのです。パウロは、「イエス・キリストはいくつにも分かれてしまったのですか」と厳しく戒めています。

私たちは聖書を通して、信仰共同体の中に、どれだけ簡単に人間の思いが入り込んでくるかを見ることが出来ます。信仰共同体は本当にささいなことで、単なる人間の集まりに堕落してしまう危険性をはらんでいるのです。

さて、ここで大切なのは、キリストの使徒たちがどのようにこの問題に取り組み、乗り越えたのか、ということです。 Continue reading

6月19日の説教要旨

使徒言行禄5:17~32

「ペトロとほかの使徒たちは答えた。『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。』」(5:29)

アナニアとサフィラの夫婦が、人を騙して作ったお金の一部を捧げたことで教会の聖さを汚し、キリストの霊に打たれて死んでしまいました。その一部始終を見ていた人々は、本当に恐れるべき方を知りました。

キリストの使徒たちは、「あなたがたはメシアを十字架で殺してしまった」「しかし、十字架で殺されたナザレのイエスは復活なさって、あなたがたが悔い改めて立ち返ることを求めていらっしゃる」ということを伝え続けます。

使徒たちが告げる福音を聞き、使徒たちが行う様々な病や悪霊からの癒しを見て、民衆の多くがイエス・キリストに心を寄せ、教会の一員となっていきました。

しかし、キリストの福音を告げる使徒たちに対して反感を覚えた人たちがいました。主イエスを裁判にかけて有罪とし、十字架へと追いやった最高法院の人たち、ユダヤの指導者たちです。

今日読んだところには、大祭司とその仲間のサドカイ派の人たちが「ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた」、とあります。指導者たちが、使徒たちを「ねたんだ」、というのは、民衆が使徒たちの方に行ってしまったことを単に「うらやましいと思った」、ということではありません。この「ねたみ」というのは、元の言葉では「熱心さ」という意味もあります。

神の御心を正しく行うための「熱心さ」でした。ユダヤの指導者として、神の御心を正しく知り、神の前に正しく生きる、ということ、そして、ユダヤの民衆を神の御心に従った生き方へと正しく導くこと、指導することに熱心だったのです。指導者たちは、キリストの使徒たちが伝えていることは、神の御心に反していると思い、やめさせなければならない、という「熱心さ」を抱きました。

ここで難しいのは、指導者たちも、使徒たちも、両方が「神の御心に従おう」という「熱心さ」を持っていた、ということです。「どちらが本当に神の御心をおこなっているのか」、ということが問題となります。ナザレのイエスの復活を伝えているキリスト使徒たちが正しいのか、それとも、イエスを犯罪人としてローマの十字架へと差し出した指導者たちが正しかったのか、はっきりさせなければなりません。

今日私たちが読んだ場面には、指導者たちが使徒たちの活動をやめさせることができなかった、ということが記されています。

指導者たちは自分たちの権力を用いてイエスの復活を語ることをやめさせようとしました。使徒たちを捕らえて牢に入れてしまいます。

しかし、夜中に天使が牢を開け、使徒たちに「神殿の境内で命の言葉を民衆に告げなさい」と言います。最高法院の人たちは使徒たちを尋問しようとしたのにいなくなってしまったことに驚きました。しかも、牢から出た使徒たちは、そのままどこかに逃げて身を隠すようなことをせず、また神殿の境内に戻って、また同じ場所に戻って、同じ言葉を語り続けていたのです。

指導者たちはもう一度使徒たちを最高法院へと連行して、使徒たちに尋ねました。

「お前たちはイエスを殺した責任を私たちに負わせようとしているのか」

これに対してペトロたちは、「人間よりも神に従わなくてはなりません。あなたがたが木に付けて殺したイエスは復活させられました。私たちは事実の証人なのです」と答えました。

キリストの使徒たちは、自分たちの先生に有罪判決を下して殺した最高法院の人たちに恨みを晴らすために福音宣教をしたのではありません。ただ、天使に命じられたから、ただ聖霊にそのように導かれたから、見たことを告げていただけでした。

聖書は、神の御心を行っていたのは、指導者たちではなくキリストの使徒たちであったことを伝えています。

最高法院の人たちが権力をもって福音宣教をやめさせようとしても、使徒たちを止めることは出来ませんでした。なぜ、何の権力ももたないキリストの使徒たちを止めることが出来なかったのでしょうか。

キリストの証し人は、地上の権力を何も持っていません。今もそれは同じです。持っているのは、天からの権威です。天使が、神の霊が、使徒たちを語らせたのです。神は、使徒たちが黙ることをお許しになりませんでした。

彼らは、好き好んで、イエス・キリストを伝えるという危険を担っていたのではありません。彼らは、天からの命令によってキリストを証しし、その証しのための道筋が天から敷かれていったのです。

牢に入れられようが、大祭司にやめろと言われようが、使徒たちは、聖霊によって語り続けることを求められたから、福音を告げることをやることは許されませんでした。神の御心を行ったのは、使徒たちであり、もっと正確に言えば、神が使徒たちを用いて、ご自分の言葉を語って行かれたのです。

私たちは、当時の指導者たちからの圧力に負けずに福音を伝えていく使徒たちの姿を「強い、とても真似できない」と思うのではないでしょうか。しかし、そこにあるのは、福音が持っている強さであって、人間としての使徒たちの強さではないのです。

キリストの使徒たちだって、私たちと何ら変わらない、普通の弱い人間でした。この人たちは、一度はイエス・キリストを見捨てた人たちです。

主イエスは、「あなたがたは、私が種々の試練に遭ったとき、絶えず私と一緒に踏みとどまってくれた」と弟子達におっしゃったことがあります。主イエスの福音宣教の旅の中で、様々な試練があったのでしょう。イエス・キリストと一緒にいても、神の国を宣教するということには、色んな苦難があったのです。それでも、弟子達はその苦難をイエス・キリストと一緒に忍耐して何度も乗り越えました。

しかし主イエス逮捕される夜、弟子達は最後にこう言われてしまいます。

「今夜、あなたがたは私を見捨てて逃げるだろう」

弟子達は、言い返しました

「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しています」

立派な覚悟です。しかし、それほどの覚悟をもっていたのに、弟子達は主イエスが逮捕されるに及んで、皆逃げ去りました。ペトロなどは三度「イエスを知らない」と言ってしまいました。どんなに強い気持ちを持っていても、どんなに心が燃えていても「肉体は弱い」、ということが明らかになります。キリストの直弟子とはいえ、弱い人間なのです。

ではなぜ、その弟子達が、最高法院を前にしても逃げず、福音を語ることをやめなかったのでしょうか。

弟子達がご自分を見捨てて逃げてしまう弱さを持っていることをご存じだったイエス・キリストは、「私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った」とおっしゃいました。

弟子達は、自分の人生の中で何度、キリストを見捨てた夜のことを思い出したでしょうか。そして、何度、イエス・キリストの「あなたのために、信仰がなくならないように祈った」という言葉を思い出したでしょうか。

弟子達は、イエス・キリストが自分の弱さを全てご存じであったこと、そして、その弱さを全てご存じの上で、信仰がなくならないように祈ってくださっていた、ということを何度も振り返ったでしょう。

主イエスを見捨てるという信仰の失敗を犯した、あの弱かった弟子達が今、神殿で主イエスの復活を語り、逮捕されても、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と明言します。彼らはキリストを見捨てる、という痛みを知っていたのです。それに勝る痛みはない、ということも。

今、弱い使徒たちが強められています。何によってでしょうか。キリストの祈りによってです。「あなたの信仰がなくならないように祈った」というそのキリストの祈りによって彼らは再び立ち上がることが出来のです。

教会には、イエス・キリストを証しする使命が託されています。私達は何によってキリストの復活を証しする教会として立つことが出来ているのでしょうか。教会の強さとは何でしょうか。

教会に集っている私たちには、何の強さもありません。知識や財産や、権力が強い人たちが集まっているから教会は2千年もたち続けてきたのでしょうか。「私は神など必要ない、キリストの救いなんていらない」と言えるほど強い人が集まっているのでしょうか。

そうではありません。逆です。教会には、「キリストなしには生きていけない」、ということを思い知らされた、弱い人たちが集まっているのです。

教会は、キリストを求めるからこそ強いのです。キリストを求めなければ何にもできないような弱い群れのために、イエス・キリストが「あなたがたの信仰が無くならないように私は祈っている」と言ってくださっている、そのことが、教会の強さなのです。

私達自身には、福音宣教のための強さなどありません。あるのは、私たちを支えているキリストの祈りです。 Continue reading

6月12日の説教要旨

使徒言行禄5:1~11

「アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持ってきて使徒たちの足元に置いた。」(5:1~2)

聖書に関して、よく言われる誤解があります。それは、「旧約聖書は厳しくて、新約聖書には優しいことが書かれている」とか、「ユダヤ教は神の裁きを恐れ、キリスト教は神の愛を喜んで生きていきている」、というようなものです。

キリスト教は愛の宗教で、キリストは何をしても許してくださる愛情の深い方で、それが旧約の時代と新約の時代の違いだ、というようなことが言われたりしますが、それは全くの間違いです。

確かにキリスト教は愛の宗教だと言っていいでしょう。しかしそれは、一つの側面でしかありません。キリストは、「私は律法を完成させるために来た」とおっしゃいました。旧約聖書を通して伝えられてきた、人間の罪に対する神の裁き、神の怒り、神の忍耐、そして神の愛を完成さるために来られたのです。人間の罪に対する厳しさということでは、旧約聖書も、新約聖書も伝えていることも何ら変わりはありません。

私達はキリストの聖さ、神の聖さというものの峻厳さを聖書を通して知らなければならないのです。そして、その聖さを恐れることを学ばなければなりません。

今日私たちは、教会に献金したアナニアとサフィラという夫婦が、神に打たれて死んでしまった、という場面を読みました。教会を迫害した人たちではなく、教会に献金した人が、神によって打たれた、というのです。

ここを読んだ人は、誰もが衝撃を受けると思います。

「神の聖さに相応しくない献金をすることは、命に関わるほどのことなのだろうか」

そう思って、神への恐れが深まる事件だと思います。

我々は、生まれたばかりの教会に起こったこの衝撃的な事件を通して、教会の聖さについて、そしてその聖い教会に相応しい捧げものとはどういうものか、ということを考えさせられることになります。

旧約聖書のヨシュア記に、アカンという人のことが書かれています。アカンは、神にささげるべきものを、隠れて自分のものとしていました。そのことによって、イスラエルは戦いに負けるようになってしまいます。結局、アカンは神にその罪を暴かれ、最後には死んでしまうことになるのです。

人間にとって、自分の目の前にある地上の富・宝は、魅力的なものです。あまりに魅力的で、この宝が自分の身を亡ぼすかもしれない、ということすら見えなくなってしまいかねません。

私たちは、イエス・キリストがおっしゃった、「天に富を積みなさい」という言葉を思い出すことが出来るでしょう。

「あなたがたは地上に富を積んではならない。・・・富は、天に積みなさい・・・あなたの富のある所に、あなたの心もあるのだ」

教会に集う一人の信仰者として、キリスト者として、そして献金者として、私たちはこの夫婦が神に打たれてしまった、ということと、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とおっしゃったキリストの言葉に対して、向き合わなければならないと思います。

今、私たちの目には何が映っているでしょうか。私たちの心は、地上の富、天の富、どちらに向いているのか、目を背けず、今日の聖書の言葉に向き合いたいと思います。

アナニアとサフィラの夫婦が献金する前に、バルナバと呼ばれていたヨセフという人が、自分の畑を売って、その代金を持ってきて使徒たちの足元に置いた、ということが書かれています。

そのすぐ後で、アナニアと、妻のサフィラが同じように土地を売って教会に献金しました。

私たちは、バルナバの献金と、アナニア・サフィラ夫婦の献金を比べることが出来ます。それぞれ、全く質の違うものでした。

正直なお金を正直に教会に献金したバルナバと、姑息なやりかたで人を騙して作ったお金で教会に献金しつつ自分の懐も肥やしたこの夫婦は対照的です。

バルナバは自分の畑を売ってできたお金をそのまま教会に捧げました。「自分の持っているものを施し、キリストに従う」、という、あのイエス・キリストの教えに忠実な、まさに献身のしるしでした。

しかしアナニアとサフィラの夫婦は、二人で相談して土地の代金をごまかしてお金を作り、しかも、全額ではなくその一部を教会への献金として持ってきた、とあります。夫婦は、事前によく相談したのでしょう。「教会に献金もできて、自分たちの懐にもお金が入ってくるやり方はないだろうか」

「土地の代金をごまかした」、ということは、誰かをだまして土地を高く売りつけた、ということです。つまりその献金は誰かの不幸の上に作られたものでした。

この二人は頭のいい夫婦だったのでしょう。ガリラヤの田舎出身のキリストの使徒たちの馬鹿正直なやり方をもどかしく思ったかもしれません。もっと頭を使って、手っ取り早く儲けて、それを教会に入れて、とにかく教会を豊かにすればいい、そして自分の利益も出そう、と考えたようです。

結局、このことが、二人を破滅へと導きました。

人間に破滅をもたらすもの、教会を破壊するもの、汚すものはなにか、ということを私たちはここで考える必要があります。

使徒ペトロはアナニアとサフィラそれぞれにこう言いました。

「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」

「主の霊を試すとは、何としたことか」

二人は、人を騙して作ったお金でも、結果として教会が豊かになることのであればそれでいいではないか、と考えたのでしょう。しかし、その捧げものを神がお喜びになるかどうか、ということは少し考えればすぐにわかったことではないでしょうか。

ペトロが二人に告げた罪は、人をだまして得たお金を、聖なる神にささげて神の聖さを、キリストの聖さを、教会の聖さを汚そうとしてしまったことでした。夫婦は、二人とも、神に打たれて死んでしまいました。

我々はアナニアとサフィラが神に打たれて死んでしまったことに驚きます。神に打たれた、ということはイエス・キリストに打たれた、ということです。

私たちは「聖くない献金をしてしまったとしても、命をとられるほどのことなのだろうか」、と思ってしまうかもしれません。

しかし、我々はこの事件が持っている深刻さをよく考えなければならないでしょう。アナニアとサフィラがしたことは、実は教会の命に関わることでした。

教会は、単なる人間の集まりではありません。キリスト者の交わりは聖い信仰による交わりです。手段を選ばずとにかく大きくなればいい、とにかく豊かになればいい、というようなものではありません。イエス・キリストがおっしゃたように、教会は「祈りの家」でなければならないのです。

もしも、アナニアとサフィラがもってきたお金を使徒たち・教会が喜んで受け入れていたとしたらどうだったでしょうか。教会にある交わりは汚れ、キリストからは「これは強盗の巣だ」と言われて、旧約聖書に出てくるあのバベルの塔のように上から崩れてしまうでしょう。

何が教会を壊すのでしょうか。教会の中にいる人々の意見の相違が教会の交わりを壊すこともあるでしょう。

しかし、それ以上に怖いことは、教会の中でキリスト者同士が、お互いをごまかすこと、騙すことです。それは神を、キリストをごまかそうとすることだからです。キリスト者がキリストを騙すようになると、教会は壊れます。神ご自身の手によって、その教会は滅ぼされることになります。

アナニアとサフィラの中には、それが悪いことだ、という罪悪感はなかったようだ。 Continue reading

6月5日ペンテコステ礼拝の説教要旨

使徒言行禄4:1~14

「ほかのだれによっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(1:12)

ルカ福音書の13章に、エルサレムをご覧になったイエス・キリストが嘆かれたことが記されています

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鶏が雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」

イスラエルの歩みが神の前にどのようなものであったかということが、このキリストの嘆きの中に全て込められています。神は、ご自分から離れていこうとするイスラエルを何度も何度もあきらめずに集めようとして来られました。

旧約聖書には、預言者たちが神から言葉を預かってイスラエルに伝え続けたことが記されています。預言者たちは、「あなたがたは、神から離れてしまっている。神に立ち返れ」、と言い続けました。

しかし、そのことが、逆に預言者に対する迫害につながって来ました。神の言葉を伝えるということは、「あなたは神の御心から離れてしまっている」ということを警告することであり、批判することだからです。神の言葉は、誰にとっても耳に痛い言葉であり、自分こそ正しいと信じている人ほど不愉快になります。

今日私たちが読んだ場面でも、同じようなことが起こっています。旧約時代の預言者たちが支配者たちからされたのと同じように、キリストの使徒たちも迫害されます。

この時のユダヤの指導者たちはペトロとヨハネを危険視しました。二人は、神殿の門で物乞いをしていた足の悪い人をキリストの名前によって癒しました。民衆はそれを見て驚き、使徒たちの言葉に聞き入りました。

ペトロとヨハネは、旧約の預言者のように、人々にイエス・キリストへの立ち返りを求めました。

「神は全ての預言者の口を通して予告して来られたメシアの苦しみを、このようにして実現なさった、だから悔い改めて立ち返りなさい・・・あなたがたは預言者の子孫であり、神があなた方の先祖と結ばれた契約の子です」

4節には「二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が5千人ほどになった」とあります。二人は、たった一日で、これだけの人々に大きな影響を与えたのです。指導者たちは、神殿で死者の復活を語るペトロとヨハネの言葉に、民衆が熱心に耳を傾けていたことを危惧しました。

神殿守衛長とサドカイ派の人々は、神殿の境内で民衆に話すペトロとヨハネ捕らえて牢に入れた。そして牢に入れられた使徒たちは、最高法院の人たちと直接向き合うことになったのです。

議員、長老、律法学者、そして大祭司とその一族がペトロとヨハネの二人を取り囲み、「お前たちは何の権威によって、誰の名によってああいうことをしたのか」と尋問しました。

ユダヤの指導者たち・最高法院の人たちにとって神殿は自分たちの神殿だった。自分たちの支配の中で、ペトロとヨハネは勝手なことを人々に教えていたのです。指導者たちは、祭司だけが神殿の中心の至聖所に入ることが許される特別の権威をもっていると思っていました。それなのに、ペトロとヨハネは旧約時代の預言者たちのように、またイエス・キリストにように、神の権威をもって神殿で言葉を語りました。

ペトロとヨハネを逮捕したのは、サドカイ派の人たちでした。ユダヤ教の数ある派閥の中でも、サドカイ派の人たちは、死人の復活を信じていませんでした。ペトロとヨハネはエルサレム神殿で、十字架で殺され、「復活なさったナザレのイエスこそメシアである」と説いていたのを聞いて、見過ごすことが出来ませんでした。

逮捕され、最高法院の中で、「何の権威で・名でこんなことをしているのか」と尋問されたペトロは何のためらいもなく、「自分たちはイエス・キリストの名によって神殿で癒しを行い、キリストの名によって語っているのです」と告げました。

私たちはこのペトロの姿に驚くのではないでしょうか。ペトロとヨハネを取り囲んでいた最高法院の人たちは、主イエスに死刑を宣告した人たちです。

ペトロはこの人たちを恐れ、逃げました。最高法院の人たちが主イエスを裁判にかけている時、大祭司の屋敷の庭で「私はイエスなどという人は知らない」と三度否定しました。

キリストが逮捕されたあの夜逃げ出したあのペトロが、今最高法院の人たちの真ん中に立って、堂々とイエス・キリストを証しています。主イエスを見捨て、主イエスを知らないと言ったあのペトロとはまるで別人のようではないでしょうか。

何がペトロを変えたのでしょうか。

8節には「ペトロは聖霊に満たされて言った」とあります。

ペトロは聖霊によって変えられたのです。これは主イエスが以前弟子達におっしゃった通りです。

「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張っていく。それはあなたがたにとって証をする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」

キリストがおっしゃった通り、ペトロは最高法院の権威者たちに囲まれ、普通なら震えあがり、縮こまってしまうところを、堂々とキリストを証します。ペトロには、そして教会には、聖霊と共にキリストの証の言葉が与えられたのです。

キリストはこうもおっしゃいました。

「わたしの名のために、あなたがたは全ての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい」

旧約時代、預言者がそうだったように、私たち教会は神の言葉を伝えることで全ての人に憎まれます。キリストご自身がおっしゃったように、私たちはキリストの名のために全ての人に憎まれるのです。

しかし、キリストは、それでも「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。命を勝ち取りなさい」とおっしゃっています。私たちは自分を憎む人たちのためにとりなし、神の元へと招きます。そのための言葉は、聖霊が備えてくださるのです。

私たちは、今、キリストをこの世に証する群れとして生きています。キリスト教会は、自分たちの思いや熱心さによってできているのではありません。天から注がれた聖霊によって祈りが集められ、語るべき言葉をいただいて、今この瞬間を生きているのです。

さて、ペトロは最高法院の人たちに向かってはっきり言いました。イエス・キリストのことを「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です」

必要ないと思って捨てたものが、実は一番大切なものであり、そしてその捨てられたものから新しいものが生まれてくるという旧約聖書の言葉を引用して、痛烈に最高法院の人たちの信仰的な無知を指摘しています。「あなたがたが殺したイエスこそメシアだったのだ」ということを暗に告げているのです。

これに対して、13節には「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった」と記されています。

最高法院の人たちは驚いたでしょう。ペトロとヨハネが立派で有名な律法学者だった、というのであればわかります。しかし、この人たちはガリラヤの漁師で、聖書の専門家でもなく、むしろ、「無学な普通の人」だったのです。そんな二人が、最高法院の人たち、聖書の専門家たちに対して堂々とイエス・キリストを証しをしました。

パウロはコリント教会に、こう記している。

「兄弟たち、あなたがたが召された時のことを思い起こして見なさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や家柄の良いものが大変わったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学なもの・・・選ばれました。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです」

14節には「しかし、足を癒していただいた人がそばに立っているのを見ては、一言も言い返せなかった」とあります。聖霊は、証の言葉と一緒に、しるしも用意してくださいます。ペトロとヨハネの二人のキリストの使徒を前にして、最高法院という身分の一番高い人たちは黙るしかなかありませんでした。

教会には、言葉だけでなく、しるしも天から与えられています。そのことこそが、教会の強さなのです。

イエス・キリストが神殿で神の国の教えを説かれた時に、律法学者たちから質問をされました。「あなたは何の権威でこんなことをしているのか」

キリストの使徒たちも、神殿で神の言葉を語り、同じ質問をされました。「一体何の権威であんなことをしたのか」

「何の権威であなたはこんなことをしているのか」というのは、キリスト者である以上、いつの時代でも問われることなのです。私たちはその時に、言うべき言葉が天から添えられます。私たちの答えは決まっているのです。

「十字架にかけられて殺され、神が復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの権威によって今ここでそのキリストを証しています」

一回、一回の礼拝を通して、私たちは世に向かって証の姿を見せています。大いに聖霊に用いていただきましょう。私たちはキリストの名によって立たせていただき、歩ませていただき、生きることが許されているのです。キリストの名のために用いていただけるよう、聖霊に委ねて行きましょう。

5月29日の説教要旨

使徒言行禄3:1~10

「ペトロは言った。『私には金や銀はないが、もっているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』」(3:6)

聖霊が注がれたキリストの使徒たちは、人々の前で不思議な業としるしを行い、「あなた方が十字架で殺したイエスこそ、メシア、救い主だったのだ」と伝えました。使徒たちの業を見、言葉を聞いた「全ての人に恐れが生じた」と聖書に記されています。人々は、聖霊によって新しくイエス・キリストという名前の元に集められた教会の中に、人間を超えた力の働きを見たのです。

今日私達は、ペンテコステに聖霊を注がれたキリストの弟子、ペトロとヨハネが神殿で施しを乞うていた足の悪い人に声をかけ、イエス・キリストのお名前によって癒した場面を読みました。

ペトロとヨハネがここで足の悪い人をキリストのお名前によって癒し、立てるようにしたことで、人々の間にまた「恐れ」が生じました。私たちは、信仰の業は、人々に本当に恐れるべきお方を示していくことである、ということを見せられているのではないでしょうか。

この日、ペトロとヨハネが、午後三時の祈りのために神殿に上って行きました。私たちはまず、このことに驚かされるのではないでしょうか。ペトロもヨハネも、イエス・キリストが逮捕される時にすぐにキリストを見捨てて逃げた人たちです。ペトロは、「ナザレのイエスなんて人は知らない」と否定までして、自分の身を守りました。主イエスが十字架で殺されたことで落胆し、自分たちにも害が及ぶのではないかと恐れ、一か所に集まって、誰にも見つからないように肩を寄せ合っていた弟子達です。

そんなペトロとヨハネが、聖霊を受けると部屋から出て、使徒としてイエス・キリストの復活を伝えるために堂々と外に出て、「あなたがたが殺したイエスこそ、メシアだったのだ」と伝え続けたのです。そして午後三時に、堂々とエルサレム神殿に通って祈りを捧げていたのです。あの弱かった弟子達が、です。

あの夜主イエスを見捨てたのとは別人のようになったペトロとヨハネの姿がここにあります。この人たちをここまで変えた力があった、ということ、そして彼らを変えたのと同じ力が私たちにも働いている、ということに私たち自身も、恐れを感じるのではないでしょうか。

さて、二人は、神殿の門のそばに座って、そこで神殿の境内に入っていく人たちに施しを乞うている人を見ました。その人は生まれながらに足の不自由な人でした。この人は、毎日、誰かにここまで運んできてもらって、自分が生きていくためのお金を人々に求めていました。

この人にとって、そのことが、「生きる」ということでした。神殿の門に座って施しを乞うこと、それがこの人にとって「生きる」ということであり、「生活する」ということだったのです。

この人が神殿に通っていたのは、祈るため・礼拝するためではありません。この人にとって神殿は、祈る場所ではなく、そこに入って行く人たちから施しを受けるための場所でした。

この人にとって、礼拝する、とか、祈る、という気持ちは他の人たちよりも希薄だったのではないでしょうか。それよりも、礼拝に行こうとする人たちから得る自分の生活費の方を考えていたでしょう。

その人の前にペトロとヨハネが立ちました。

「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『私たちを見なさい』と言った」とあります。二人はこの足の悪い人を「じっと見」ました。

そして、「私たちを見なさい」と言われたこの足の悪い人も、ペトロとヨハネを見つめ返しました。「何かもらえる」と期待したのでしょう。

しかし、ペトロは言いました。

「私たちには金や銀はない」

この一言は、足が悪い人を落胆させたのではないでしょうか。

「それでは一体なぜ『私達を見なさい』などと言うのか、何を期待すればいいのか・・・」

ペトロは続けてこう言いました。

「しかし、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」

ペトロは右手をとってこの人を立ち上がらせると、この人は踊りあがって立ち、歩き出した。この人は、金や銀よりも価値のあるものをキリストの使徒たちから与えられました。

ここに、私達は、この癒しの業の象徴的な意味を見ます。ペトロとヨハネは、この人に手を差し出して、「立ち上がらせた」とあるが、これは元の聖書では「起こした」という言葉がつかわれています。

これはイエス・キリストの復活に使われている言葉です。私たちは、立たされた人に、キリストの名前を知った者として新しい命に生き始める信仰者の姿を、ある意味では信仰者としての「復活」の姿を見るのです。

足が悪かった人がキリストの名前を知り、最初にしたことは何だったでしょうか。神殿に入る、ということでした。

今まで、この人にとって、神殿は他の人たちが入っていく場所でした。しかし、キリストを知った今、この人にとって神殿は、自分が行く場所、自分が礼拝する場所へと変わったのです。

キリストを知った人・キリストに出会った人がまず何をするか、それは礼拝です。真の神の元へと導かれたことを知り、祈るのです。そのことが、「新しい命を生きる」、ということでした。

足を癒された人はこれまで毎日神殿の門に来て、神殿に入ろうとする人たちから「施しを」もらおうとしていた、ということが3節に記されています。今までこの人が求めていたのは「施し」でした。

この「施し」というのは、聖書の元の言葉を見ると「憐み」という言葉です。この人が求めていたのは「憐み」だした。毎日、人からの「憐み」を求めて生きてきた人でした。そして人からの「憐み」というのは、「金や銀」でした。

そこに、キリストの使徒が来て、「金や銀に勝るもの、イエス・キリストのお名前をあげよう」と言います。この人はここで、神・キリストからの「憐み」をいただきました。

それは、この人が期待していたもの、人間からの「憐み」とは全く違うものでした。「人からの金や銀をもらって生きる者」から、「自分の足で礼拝へと向かう者」とされたのです。この人は、キリストの証人とされました。

ペトロは、金や銀に勝る価値のあるものをこの人に施しました。それは、イエス・キリストのお名前、「キリストの憐み」でした。キリストの名を知った人は、変えられます。「自分に目を向けてほしい」、と思っていた人が、「自分を通してキリストに目を向けてほしい」、という思いで生き始めるのです。

この出来事は、一人の人がキリストの名によって癒された、というだけで終わりませんでした。起こされたこの人自身が、神を讃美しながら、ペトロたちと一緒に境内に入って行きました。そして先に神殿の境内に入っていた人たちは、後から、この人が踊りながら入って来たのを見て、我を忘れるほど驚いたのです。

キリストの名前によって起こされたその人は、ただそこにいるだけで、キリストを証しする者となりました。

私達は、福音書に出てくるレギオンを思い出すことができると思います。

ある人が、悪霊の大群レギオンに取りつかれていました。イエス・キリストがその人の下にやって来て、その人をレギオンの支配から救いだされます。悪霊レギオンの支配から解放されたその人は、その地方一体を巡って、自分に起こったことを人々に伝えていきました。

自分がキリストに救われた者として生きる、そのことで、人々がイエス・キリストを知るようになったのです。これは、私達も同じことです。

私たちは自分の力でイエス・キリストに出会ったのではありません。キリストの方から来てくださいました。そしてキリストを受け入れた・・・それだけです。

聖霊の働きの中で、自分の力に勝るキリストの名前を知り、キリストの恵みの支配の中で生きる者とされたのであれば、後は、キリストを信じ、キリストを求めて生きればいいのです。それが、そのまま証の生活となります。

ペトロは神殿の境内で驚いている人たちに向かって、「なぜ驚くのですか」と言っています。「私達がやったのではない。神がなさったことだ」と言います。 Continue reading

5月22日の説教要旨

使徒言行禄1:12~26

「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」(1:14)

イエス・キリストが天に昇って行かれるのを見送った信仰者たちが、その後神が聖霊を注いでくださる時までどのように過ごしたか、ということが記されている場面です。

「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、地の果てに至るまで、私の証人となる」

主イエスはそうおっしゃって、天に昇って行かれました。

キリストを天に見送った後、地上に残された信仰者たちにとっての課題は、キリストがおっしゃった「聖霊が降る時」まで、何をして待てばいいのか・どのように待てばいいのか、ということでした。主イエスはただ、「時を待て」とおっしゃっただけで、「その時のために今からこういう準備をしておきなさい」と具体的な指示は出していらっしゃいません。

主イエスを天に見送った後、信仰者たちがしたことは、「祈る」、ということでした。

祈り、そして、イスカリオテのユダが抜けた後の12弟子の穴を埋め、神が備えてくださっている時を待ち続けたのです。キリストが十字架で殺されたあの過越の祭りから数えて50日目、ペンテコステの日に祈る弟子達の上に聖霊が注がれることになります。

私たちは、なぜこの人たちの上に聖霊が与えられたのか、ということを考えたいと思います。

主イエスがおっしゃった「時」を待ち続けたのは、主イエスの弟子達、ガリラヤから従って来た女性たち、そして主イエスの家族、合わせて約120人の群でした。この120人が特別に選ばれて天から聖霊が注がれることになります。

この120人には何か特別なものがあった、ということでしょう。この人たちには、他の人たちとは決定的に違う何かがあった、ということになります。それではこの120人は、何が特別だったのだろうか。何が違っていたのでしょうか。ユダヤの律法学者やローマ帝国にイエス・キリストを力強く証言する才能や力があった、ということでしょうか。

そうではありません。

この人たちだけが、イエス・キリストに従い、祈り続けていたのです。他の誰もがイエスという方を捨てた中で、主イエスを十字架にかけた人たちの真っただ中で、この人たちだけが、イエス・キリストへの信仰を持ち、祈り続けていたのです。

そのことにおいて、彼らは特別だったのです。それ以外に、この人たちに何か特別なものなどありません。キリストへの祈りがなければ、この人たちは普通の人たちでした。

言い方を変えると、祈り、というものが、普通の人たちを、特別な群れへと変えていく、ということです。

キリストの12弟子はイスカリオテのユダを失いました。このため、誰か一人を選び出さなければならなくなりました。彼らがどのようにユダの代わりを選び出したか、というと、くじ引きだった。

「くじ引き」と聞くと安易な決め方のように思えます。しかし、そのくじ引きも、よく読んでみると、彼らの祈りによる信仰の業だったことがわかります。彼らは神の御心を求めて祈り、結果を神に委ねた結果、マティアが選び出されたのです。

こうしてみると、この人たちは「祈りの群だ」だった、と言っていいでしょう。聖霊は、その「祈りの群」に注がれ、それが「教会」となって福音を世に運んでいくことになっていきます。

我々は、ここに大切なことを見ます。イエス・キリストを求める群、というのは、「キリストに祈る群れ」だ、ということです。キリスト教会は、「キリストに祈り続ける群だ」なのです。

「そんなことは当たり前じゃないか」と思えるかもしれません。しかしこのことは、決して当たり前ではないのです。「当たり前」に思ってしまう時こそ、教会の危機となります。

教会は、「祈りの群れ」であり、もっと言えば、「祈るしかない群れ」です。キリストから託された福音宣教という使命の重さに耐えかねて、神に祈ってすがるしかない群れなのです。

信仰者たちは、たった120人でこれから全世界にイエス・キリストの復活を伝え広めなければならなくなりました。彼らは途方もない使命をキリストから与えられました。

今ここで、キリストに従う120人は他になすすべもなく祈っています。聖霊は、その「祈り」上に注がれることになります。

私たちは教会の強さと弱さを見ることが出来ます。「人間の集まりである教会の弱さ」と、「神によって集められた教会としての強さ」です。

後に、使徒パウロはコリント教会にこう手紙を書いています。

「兄弟たち、あなたがたが召された時のことを思い起こして見なさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。・・・それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです」

教会は、自分たちの強さを捨て、神の前に弱い自分たちを差し出すことで強くされます。逆説的ですが、それがキリスト教会の強さです。

教会は、私達信仰者は、何を持っているのでしょうか。聖霊を注がれた後、弟子のペトロとヨハネは、神殿にいた足の不自由な人に言いました。

「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」

教会が持っているもの、キリスト者が持っているものとは何でしょうか。金や銀ではありません。イエス・キリストの名前だというのです。

私たちは、金や銀を持っているから教会として強く歩めるのではありません。金や銀がなくても、キリストが生きて私たちと一緒に歩み、立たせてくださるから、教会は倒れないのです。金や銀よりも尊いものを、金や銀よりも価値があるものを大切に抱いているから、教会は倒れないのです。

弟子達は、福音宣教の中で、昔イエス・キリストから言われた言葉を何度も思い出したでしょう。

「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持って行ってはならない」

主イエスが12弟子をガリラヤ宣教に送り出した際におっしゃった言葉です。主イエスが彼らにお与えになったのは、「悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能」でした。それだけ、でした。

弟子達は託されたキリストの権能だけをもってガリラヤ中を周り、神の国の教えを説き、何も不足することがありませんでした。全てが備えられていたのです。イエス・キリストのお名前が、キリストの権能があれば、そして祈りがあれば、教会は倒れません。

主イエスはこうもおっしゃっていました。

「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の名のために王や総督の前に引っ張っていく。それはあなた方にとって証をする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなた方に授けるからである」

教会の強さはここにあります。神の備えを信じて祈る、ということです。祈りによってしか自分たちは立ちえない、ということを知っていることこそ、実は教会の強さなのです。祈りを通して、人間をはるかに超えた神の導きによって教会の道は切り拓かれていきます。

この時、祈っていたのは、たった120人でした。世界中でこの120人だけが、キリストの復活を知り、自分たちに聖霊が注がれる時を祈りつつ待っていました。

「こんな少人数で世界中にキリストの復活を伝えることができるのか」、と誰もが不安を持っていたと思います。 Continue reading