MIYAKEJIMA CHURCH

12月19日の説教要旨

ルカ福音書2:8~21

「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」

私たちは普段、この世界がどうしてできたのか、この世界にどんな意味があるのか、ということを考えず、自分が置かれている日常を過ごしていると思います。これは、何も、聖書を知らない人たちだけのことではありません。聖書を読み、キリストを信じるクリスチャンでも、普段は考えることをせず、そのようなことは忘れて過ごしているではないでしょうか。

もちろんそれは、自分たちの日常が平穏である、ということであって、何も悪いことではありません。しかし、この世界がどこに向かっているのか、また、この世界に自分という命が生きていることの不思議を嫌でも考えさせられる時が与えられることがあります。もっと、単純な言葉で言うと、「立ち止まる時」を与えられることがあります。クリスマスは、まさにそのような時でしょう。

なぜ世界中で「救い主がお生まれになった」ということを祝い、インマヌエル・「神我らと共にあり」というということを喜ぶのか・・・人間はなぜ、イエス・キリストという方の誕生を2千年も記憶してきたのか・・・なぜこの方が世にお生まれになったことを忘れてはいけないのか・・・。私たちには、忘れてはならないことがあるのです。

イエス・キリストを通して知らなければならないこと、忘れてはならないものがあります。それは、神を知り、神を思い、神を求めて生きる道です。今こうして私たちがクリスマス礼拝を捧げることができているということがどれほど大きな恵みであるのか、かみしめつつ聖書の言葉を見ていきましょう。

聖書は、この世界が神によって造られ、私たち人間の命も神によって造られたことを記しています。そして、人間がそのことをすぐに忘れてしまう、ということも書いています

ご自分がなさろうとすること、ご自分のご計画を人間が気付かなかったり、誤解したりすることのないように、神はいつでもご自分がなさろうとすることを前もって知らせてくださいます。

キリストがお生まれになる前の、旧約の時代には預言者が送られました。預言者たちは、救い主・メシアの誕生を預言してきました。すべての人を神の元へと連れ戻す、イスラエルの羊飼いが生まれる、という預言です。

そして今から2000年前、ベツレヘムという小さな町のはずれで、夜、羊の番をしていた羊飼いたちに、天使が神の言葉が告げられました。預言者たちがその誕生を預言していたメシアが、ベツレヘムの家畜小屋の中でお生まれになった、という言葉が与えられたのです。

その時のことを記しているのが、今日私たちが読んだところです。羊飼いたちの周りを、神の栄光の光が照らしました。それは、大きな光ではありませんでした。全世界を照らしたとか、その地域全体を照らしたとかいうものではなく、それは数人の羊飼いたちの周りだけを照らし、数人の羊飼いたちだけに示された小さな光でした。

私たちはまずこのことを不思議に思うのではないでしょうか。神のご計画というのは、いつもこのようにわずかな人にだけ知らされるのです。預言者が一人選ばれ神の言葉を伝えたように、キリストの誕生はこの夜、数人の羊飼いたちだけに知らされました。

神がこの世界にお与えになったこの小さな光は、やがて羊飼いを通して、キリストの弟子達を通して、教会を通して、全世界へと広がっていくことになります。

天使は言いました。

「恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」

羊飼いたちは、ほんの一分前まで、自分たちに天使から言葉が告げられるなどとは考えてもいませんでした。メシアの誕生を知ることになるなどとは思ってもいなかったのです。

神の言葉を聞いた人は、その人生が変えられます。一瞬にして変えられます。聖書には、神の言葉を聞かされた人がたくさん出てきますが、どの人も、神の言葉を聞くことでその後の人生が変えられています。誰一人として、神の言葉を聞いて、何も人生が変わらなかった、という人はいません。神の言葉を聞く前には考えもしなかった人生を生き始めます。

この羊飼いたちもそうでした。彼らはメシアの誕生を確かめるべく、羊をおいてイエス・キリストがお生まれになった場所を探しに出かけました。そして、自分たちに告げられた言葉が本当であることを知ります。彼らは主イエスの母マリアと父ヨセフに、自分たちがどのようにしてメシアの誕生を知り、探し当てたのか、ということを全て話しました。

そして羊飼いたちは羊たちの元へと帰っていきました。羊飼いたちは、「讃美して帰っていった」、とあります。天使たちが羊飼いたちにメシアの誕生を告げたとき、天の軍勢の讃美の声を聴きましたが、その天の軍勢の讃美が、そのまま羊飼いたちの讃美となりました。

羊飼いたちはまた羊のところへと戻りました。恐らく、その後も同じように羊の群れの番をする生活を続けたのでしょう。しかし、その生活は、キリストの誕生を知る前と後では全く違ったものになったでしょう。

キリストを知らなかった生活からキリストを知った生活へと変わったのです。彼らは、この日を境にキリストの証人としての歩みを始めることになりました。毎日生活の中でやることは何一つ変わらなかったかもしれません。しかしキリストを知る者としての人生を、この日を境に生きることになったのです。それは、讃美の生活であり、祈りの生活です。神が自分たちにメシアの誕生を教えてくださった、神は自分たちと共にいてくださる、ということを知った人生になりました。

ここに、クリスマスの喜びがあります。キリストが世に来られた、という喜びに加えて、キリストが世に来られたことを神が私たちに教えてくださった、告げてくださった、ということです。

私たちの知らないところで御子はお生まれになったのではありません。神は確かに、ご自分の救いのご計画を進めていらっしゃることを世にお示しになりました。私たちにとって、神は、どこかで何かをなさっている神ではないのです。神の方から私たちに近づき、私たちにご自分の御心を示してくださる、そのような神です。

神の御声を聞いた時、私たちの人生の意味は大きく変わります。昨日までの自分とは違う自分になっています。イエス・キリストの証人とされるのです。

主イエスの母マリアは、羊飼いたちが、自分たちを探してやってきたことに驚いきました。これまで、マリアには不思議なことが立て続けに起こっていたのです。「あなたは赤ちゃんを産む」と天使から告げられ、聖霊によって身ごもりました。そしてベツレヘムの家畜小屋の中で赤ちゃんを産むと、羊飼いたちがやってきて、「天使からここにメシアが生まれた、と聞きました」と言われます。自分の身に起こる不思議な出来事をマリアは理解できずにいました。

しかし、聖書は、マリアがその不思議な出来事を「心にとめて思いをめぐらした」、と書いている。自分に次々と起こる不思議について考えても、マリア一人では意味が分かるものではありませんでした。それでもマリアは「自分に起こっていることは何なのだろう、神がご計画なさっているのは何だろう」と、思いを秘め、その思いを巡らしていた、というのです。

今日、私たちは、讃美の声を上げながら、キリストの証人としての新しい道を歩み始めた羊飼いたちの姿と、自分に起こることの不思議を自分の中で静かに思いめぐらせるマリアの姿を心に留めたいと思います。

クリスマスは皆でお祝いする喜びがあります。教会で皆で讃美歌を歌い、聖書の言葉を分かちあうような喜びです。

そして、もう一つ、キリストがお生まれになったことで自分一人だけに静かに与えられた喜びもあるのです。クリスマスの、自分だけにわかる喜びが、それぞれにあるはずです。

羊飼いたちのように、皆と一緒に、そしてマリアのように、自分の心の内でキリストのご降誕の喜びをかみしめたいと思います。昔、羊飼いを照らした小さな光は今、全世界へと広がりました。マリアが思い巡らした不思議は、聖書に明らかに記され、私たちに与えられました。

神は、私たちを迎えに、ここまで来てくださいました。今、神と共に生きる命へと招かれています。

12月12日の説教要旨

イザヤ書8:9~15

「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主」(8:13)

アドベントに入ってから、イザヤ書を通して、「インマヌエル」と呼ばれる方の誕生の預言を見ています。その名前の通り、「神我らと共にあり」ということを、ご自身の存在を通して教えてくださるメシアのことです。インマヌエルと呼ばれるメシアがお生まれになったことを、我々はクリスマスと呼び、お祝いをしています。

今日も、イザヤ書の言葉を通してインマヌエルの恵みを感じていきたいと思います。

紀元前8世紀、アハズ王をはじめとするユダ王国の政治をつかさどる人たちは、周辺諸国の軍隊が攻めてくると聞いてアッシリア帝国に助けてもらおうとしました。神から遣わされた預言者イザヤは、その人たちに「静かにしていなさい。ただ神に頼りなさい」と告げます。しかし、その言葉は王宮の人たちには受け入れられませんでした。

イザヤは、「神を頼らずアッシリアに頼る道を選んだユダ王国が、これからアッシリアによって蹂躙されることになる」、という裁きの預言を残しました。

それが、これまで我々が読んできた内容です。

今日我々が読んだ9節から、イザヤの口調ががらりと変わります。ここまでは神に背を向けたユダ王国に対する滅びの預言でしたが、ここから、イスラエルを攻めようとする敵に向かって語り始めるのです。

「諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ」

イザヤはユダを攻めようとする諸国に向かって、「おののけ」と挑戦的な言葉を叫びます。

皆、アラムと北イスラエル王国が攻めてきたことでパニックになり、アッシリアの強さに恐れている中で、イザヤだけが自信をもっていました。ユダのような小さな国の民の一人にしか過ぎないイザヤなのに、「来るなら来い。武装して、戦略を練って攻めて来るがいい」と言うのです。

ユダ王国に軍事的な秘策があるから自信をもっているのではありません。「神が私たちと共にいらっしゃるからだ」と言います。それが理由です。それだけが理由です。ほかに理由はありません。

どんなに相手が強く、武装して戦略を練ってかかってきても、神が共にいてくださるのだから勝つ、と言うのです。実際の歴史ではその後どうなったでしょうか。ユダ王国を武力で脅してきたラムと北イスラエルは、アッシリアに滅ぼされてしまいます。その後、ユダ王国はアッシリアに国を蹂躙されます。アッシリアは、ユダの町々を滅ぼし、エルサレムまで来て都を包囲したが、エルサレムを攻め落とすことはなく、引き揚げていくことになります。そして、その10年後に、バビロンという国に滅ぼされてしまうのです。

全てイザヤが言ったとおりになりました。

なぜこの時、イザヤはここまで神が共にいてくださることを確信していたのでしょうか。イザヤ自身が、インマヌエルという事実を体験して知っていたからです。若い日に預言者として召された時、彼は神殿の中で実際に神の声を聴きました。て神ご自身が、イザヤに「行け、預言せよ」とおっしゃったのです。

イザヤが伝えた言葉は、イザヤ自身の言葉ではなく、神の言葉でした。イザヤははただ、「神はこうおっしゃっている」と伝えました。

イザヤは自分自身に自信があったのではありません。自分の時代を見抜く、物事を分析する力をイザヤが持っていた、ということではありません。神の「私はあなたがたと共に居る」というインマヌエルの御心を知っていたからです。

我々はどのように神を知るのでしょうか。旧約時代のイスラエルは預言者の言葉を通して神の御心を知らされました。

預言者の言葉に耳を傾けなかったイスラエルは何度、「預言者の言葉は本当だった」「神は私達と共にいらっしゃる、インマヌエルという言葉は真理だ」と、思い知らされたでしょうか。

イスラエルはその歴史の中で、時代に翻弄され沈みそうになる中で、神からの救いの御業を与えられてきました。そのたびに、インマヌエルの恵みを目撃し、体験してきました。そしてその体験を聖書の中に記録して、後世にまで伝えて来ました。

私たちは頑張って、神にたどり着き、神を知るのではありません。すでに私たちが聞くべき言葉は前もって与えられています。聖書が与えられ、生きた神の言葉であるイエス・キリストが世に来てくださいました。

しかし私たちは見ようとしないのです。聞こうとしないのです。自分に見えているもの、自分が聞きたいと思うものだけに向かってしまいます。イスラエルの過ちを私たちは何度も繰り返してしまいます。

人は、神から離れて生きる、ということに耐えられるほど強くはありません。聖なる存在を知らずに生きていけるほど強くはないのです。人はインマヌエルを心の底ではいつも求めています。

自分が神から離れた闇の中にいることに気づいたとき、それまで聞こえなかった神の招きの声が聞こえてきます。神はいつでも、聖書を通してご自分の元へと続く道を私たちに示してくださっているのです。

攻めて来る諸外国の同盟を「恐れるな」、とユダの国民にイザヤは伝えています。

「あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。」

ユダの王、アハズや、王宮の政治家たちは、ユダ王国はアッシリアに頼ることが救いだ、と思っていました。しかし、イザヤは「違う」と言います。

「万軍の主のみ、聖なる方とせよ。あなたたちが恐るべき方は主。御前におののくべき方は主」

神のみを恐れなさい、と言います。ユダを攻める諸外国や、アッシリアを恐れるのではありません。ただ恐れるべきは、神お一人だ、と伝えます。

イスラエルがなすべきことは一つなのです。「神を聖なる方」とすることです。この「聖なる」というのは、「区別された」という意味の言葉です。神を、他の何からも特別に区別して、何よりも誰よりも大切にする、ということです。

私たちは、イエス・キリストから「主の祈り」と呼ばれる祈りの言葉をいただいています。はじめの言葉が、「願わくは、御名を崇めさせ給え」という祈りです。それは、「あなたのお名前が聖なるものとされますように。聖いものとして区別されますように」という意味の祈りの言葉なのです。

これこそが、聖書が全体を通して我々に伝えていることであり、私たちが信仰生活の中で一生かけて求めていくことであり、そしてそれが、インマヌエルということの意味です。

神を聖とするかしないか、ということが、私たちにとっての信仰の分かれ道となります。神を聖とする者に、神は平和と逃げ道を下さいます。しかし、自分の生活の中に神を迎え入れる余地のない者は、イザヤが言うように、魔術や偶像に走り、さらなる暗闇と絶望へと向かってしまいます。

誤った道に行こうとするイスラエルに、神はいつでも、前もって預言者を送り、道を正そうとされました。それでも誤った道を進み続けるイスラエルに、今度は神ご自身が「つまずきの石」「罠」となって、ユダの道の軌道を修正される、とおっしゃいます。

歴史の中で苦しいことがあると、人は目に見えるわかりやすい救いに向かってしますが、神とイスラエルは共に痛みを担いながら、正しい道へと修正していくのです。

信仰者と神が共に歩むことを妨げる力がこの世にあります。聖書はそれを「罪」と呼んでいます。「神よりも、こちらの方が頼りになるではないか」、という誘惑の声は、我々の信仰の日常の中でも聞こえてくる声ではないでしょうか。

ヨハネ福音書で、キリストはこうおっしゃっている。

「私は羊の門である。・・・私は門である。私を通って入るものは救われる。・・・私は羊のために命を捨てる。・・・こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。私は命を、再び受けるために、捨てる。」

キリストは私たちの歩みをインマヌエルの信仰の道へと導くために痛みを担ってくださいました。私たちのためにある時は「つまずきの石」となってくださり、ある時は「罠」となってまで神と共に生きる道へと連れ戻してくださいました。

このインマヌエルの君こそ、救いに通じる門なのです。

私たちはこの方を、聖なる方として、他の誰とも他の何とも特別に区別して礼拝したいと思います。そこに、何も恐れる必要のないインマヌエルの歩みが実現するのだ。

「よい羊は私の声を聴き分ける」とキリストはおっしゃいます。私たちはこの命の羊飼いのお名前を教えていただき、礼拝することによって、インマヌエルの喜びを知ることができたのです。

12月6日の説教要旨

イザヤ書8:1~8

「主は私に言われた。『大きな羊皮紙を取り、その上にわかりやすい書き方で、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)と書きなさい』と」(8:1)

アドベントに入り、イザヤ書を読んでいます。

紀元前734年、アラムと北イスラエル王国が、南王国ユダに攻撃を仕掛けてきました。アラムと北イスラエル王国は、南ユダ王国を無理やり反アッシリア同盟に加えようとしたのです。

南ユダ王国の王アハズは、結局アッシリアに助けを求めて生き延びようとしました。大国アッシリアの傘下に入るしか弱小国ユダが生きる道はない、と思ったのです。

ユダ王国全体が上から下への騒ぎとなってオロオロしていた王のところに預言者イザヤが来て、神の言葉を告げました。

「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。外国が攻めてきても、心を弱くしてはならない。神を頼りなさい」

アハズ王は預言者が伝える神の言葉を聞き入れませんでした。エルサレムの王宮にいた政治指導者たちは、「敵の軍隊が攻めてきているのに、静かに神に任せていよう、などと悠長なことは言っていられない」と思ったでしょう。

神に頼らず、神に背を向けたユダ王国がこれからどのような道を進むことになるのかをイザヤは預言しました。

「すぐに、アッシリアが攻めてきて滅びを体験することになるだろう」

今日私たちは、イザヤ書の8章を読みました。神への信頼を拒絶したユダへの滅びの預言の続きです。

先週読んだ7章は、アハズ王をはじめ、エルサレムの王宮にいる政治的指導者たちへのイザヤの言葉でしたが、ここは、ユダ王国の民全体に向かって明らかにされた神の言葉となります。

イザヤは神から「大きな羊皮紙にマヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と書くよう命じられました。「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」という意味の言葉です。ユダ王国がこれからたどる運命を暗示しています。そしてその言葉が真実であることをユダ王国全体に示すために、イザヤはウリヤと、ゼカルヤという二人を証人として立てました。

イザヤは、この二人が見ている前で、「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」という言葉を書き、念を入れて「ユダはこれから分捕られ、略奪されることになる」ということを公に示しました。

なぜウリヤとゼカルヤという二人が特別にユダ王国の滅びの証人として選ばれたのでしょうか。

ウリヤはユダ王国の祭司でした。この人は、アッシリア帝国の傘下に入ると決めたアハズ王からの指示を受けて、祭司でありながらエルサレム神殿の中にアッシリアの神の祭壇を作った人です。

そしてゼカルヤは、神ではなくアッシリアを頼ろうと決めたアハズ王の義理の父にあたる人でした。

つまり、この二人は、率先してイスラエルの神に背を向けた人たちだったのです。神はその二人に、自分たちの決断によってユダ王国がどうなってしまうのか、ということを見届けさせようとなさいました。自分たちの罪の結果を見届ける責任を負わされた、ということです。

イザヤは、マヘル・ハラル・ハシュ・バズという滅びの言葉を書くよう神から命じられ、ウリヤとゼカルヤの目の前でそれを書きました。神は更にイザヤにお命じになります。その時期に生まれたイザヤの息子に「マヘル・ハラル・ハシュ・バズ」と名付けるようおっしゃるのです。イザヤは、「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」という意味の名前を自分の息子につけなければなりませんでした。

イザヤは、羊皮紙に書き付ける文字を通して、自分の息子の名前を通してユダの滅びを皆に示さなければならなかったのです。

神は、イザヤに生まれたその子が「お父さん、お母さん」と言えるようになる前に、まずユダ王国を攻めてきたアラムと北イスラエルがアッシリア帝国によって滅ぼされることを示されます。そしてアッシリアの攻撃はそれだけに留まらず、次にユダにまで攻め入ってくることをおっしゃるのだ。

実際の歴史は、その後、どうなったでしょうか。神がイザヤを通して示された通りになりました。確かに、アッシリアはユダを助けてくれました。ユダに向かって軍隊を向けていたアラムと北イスラエルを滅ぼします。しかし、アッシリアはその勢いでユダまで攻め入ってくることになるのです。

結局、ユダは、敵を自分の国へと導き入れたことになります。全て、神がイザヤを通しておっしゃった通りになりました。

私たちは今日、預言者の言うことを無視して神を信頼せず、アッシリアに頼り、アッシリアの神の祭壇を王国内に築いたユダに対して神が何をなさったのかを見ました。

神は、ご自分の民に、はっきりと滅びをお見せになりました。罪の先で待つものをお示しになったのです。預言者が神への裏切りによる滅びを預言し、その滅びは間違いなく起こることを、祭司と、王の義理の父をその証人に立てることまでして、示されました。

私たちは、人間の国・人間の支配がどれほどもろいのか、ということをここに見ます。イスラエルという小さな国がアッシリアとエジプトの間にあり、さらに周辺諸国との小競り合いを繰り返す中でどうやって生き延びてきたのか・・・それは、神への信仰でした。

神に頼ることでイスラエルは生き延びてきたのです。いや、神に生かされてきたのです。イスラエルが神の民である、ということはそういうことです。

イスラエルは、神の支配を求める民として世から召し出されました。そのイスラエルが、神を捨てて、人間の支配を求めたらどうなるか・・・。

神は、前もってそのことを、預言者と通してはっきりとお示しになりました。滅びをお見せになる神は残酷でしょうか。そうではないでしょう。少なくとも、神は預言者を通してイスラエルを滅びから救おうとなさいました。しかし、イスラエルは神の言葉に耳を貸そうとしなかったのです。

イスラエルは、神の前に、「知らなかった」とは言えないのです。必ず神は前もって預言者をお遣わしになり、ご自分の御心を示されるからです。イスラエルが滅びに向かおうとする時、神の支配から迷い出ていこうとする時、必ず前もって預言者をおつかわしになり、「その道に行けばあなたは滅びる。その先にあるのは死である。道を正しなさい。私の元へと戻ってきなさい」と警告なさいます。

人は神の言葉に耳を向けるのが下手です。イスラエルは目に見えるわかりやすい形での助けを求めました。それがアッシリアでした。

やがてユダ王国は、自分たちを助けてくれたアッシリアの軍隊によって国中を侵略され、エルサレムを包囲されてしまうことになります。皮肉なことではないでしょうか。

イスラエルの歴史は、神への裏切りの歴史と言ってもいいでしょう。出エジプトを終えて約束の地に入ったところから、イスラエルは神以外の支配者を求めてきました。外国を見て、「自分たちも、人間の王が欲しい」、と願いました。

神は預言者を通して、「あなたたちは人間の王の奴隷となる。あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。」と前もって警告なさいます。それでも、民は「人間の王を持ち、他のすべての国民と同じようになりたい」と言い張ったのです。

人間の支配はもろいのです。やがてイスラエルは南北に分裂し、北王国は金の子牛の像を作り、それを自分たちの神として民に拝ませるようになります。南王国もやがて堕落し、異教の神々に従いながら、エルサレム神殿でイスラエルの神を礼拝するようになっていきます。

神は、やがて預言者エレミヤを遣わされ、こうおっしゃいます。

「お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで、私の僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。それでも、私に聞き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを固くし、先祖よりも悪い者となった。」

イスラエルは、北王国はアッシリアによって、南王国はバビロニア帝国によって滅ぼされてしまうことになります。

イスラエルの歴史から学びたいと思います。イスラエルは、神以外のものを求め頼ることで、何度も滅びを体験してきました。

パウロは、そのことを、手紙になかでこう書いている。 Continue reading

11月28日の説教要旨

イザヤ書7:1~17

「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。・・・心を弱くしてはならない」(7:4)

アドベントに入りました。今日からクリスマスまで、イエス・キリストがこの世にお生まれになったことに思いをはせる時を過ごすことになります。

クリスマスは、この世に、福音が与えられた・喜びの知らせ届けられた、という出来事です。毎年祝われているクリスマスですが、私達は、クリスマスの本当の喜びとは何なのか、聖書から正しく聴いていきたいと思います。

マタイ福音書を見ると、イエス・キリストがお生まれなる際、父親になるヨセフに天使がこう告げています。

「この子は、自分の民を罪から救う」

この言葉を見ると、「私達を罪から救い出してくださる方がお生まれになった」、というのがクリスマスの喜びだ、とわかります。

それでは、聖書が言っている罪とは何でしょうか。聖書がいう「罪」とは「神から離れた暗闇」のことです。

天使は、主イエスの父ヨセフにさらにこう告げます。

「見よ、おとめが身ごもって音の子の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」

「罪の闇からの救い」、それは「インマヌエル・神が私達と一緒にいてくださる」、という知らせでした。人が神から離れても、神は人を追いかけてくださるのです。

イエス・キリストの誕生はこの世界に与えられたインマヌエルのしるしでした。。

今日は、旧約聖書のイザヤ書を読みました。イザヤ書の中に、インマヌエルと呼ばれる方の誕生が預言されています。イザヤ書の言葉を通して、インマヌエルの喜びを感じていきたいと思います。

イザヤの時代、紀元前8世紀には罪の闇がイスラエルを覆っていました。イスラエル王国は、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、人々の心は神から離れていました。

イザヤは、南ユダ王国の首都エルサレムで預言した人です。この人はもともとはウジヤという王様に仕える祭司でした。ウジヤ王が死んだ時に、イザヤは王に仕える祭司から、神に仕える預言者とされました。紀元前740年のことです。

イザヤの時代、イスラエルは苦境に置かれていました。当時アッシリアという強大な国があり、周辺諸国はその脅威に怯えていたのです。

強大なアッシリアに対抗するために、周辺諸国は反アッシリア同盟を作ろうとしました。その同盟にユダ王国も加わるようにと、隣国の北イスラエル王国とアラムの二つの国が武力をもって脅してきます。

ユダ王国は岐路に立たされました。反アッシリア同盟に加わるか、中立を保つか・・・。

反アッシリア同盟に入る、ということは、アッシリアを敵に回す、ということでした。それは危険なことでした。いくら周辺の小さな国が集まっても、強大なアッシリアにはかなわないのです。しかし、反アッシリア同盟に入らない、ということは、周辺諸国から孤立してしまい、諸国から攻められてしまいます。

結局、ユダ王国のアハズ王が下した決断はアッシリアに助けを求めることでした。強い国に守ってもらうのが一番の安定だと思ったのです。

しかし、アッシリアに守ってもらう、ということは、アッシリアの神に守ってもらう、ということを意味していました。アハズ王が下した決断は、つまり、イスラエルの神からアッシリアの神へと乗り換える、ということだったのです。

そのようなアハズ王のもとに、預言者イザヤがやってきて、神の言葉を伝えました。

「アッシリアではなく、ただ神に頼りなさい」

それが、今日私たちが読んだ場面です。

イザヤは、神の言葉を伝えます。

「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。心を弱くしてはならない。ただ、神に頼りなさい。」

イザヤが伝えたことは単純だった。アッシリアに頼ることでもなく、反アッシリア同盟に加わることでもなく、ただ、静かに神に頼りなさい、そうすればユダ王国は生き残ることができる、というのです。

預言者イザヤは、BC740年に預言者として召しだされ、40年間神の言葉を語り続けた人です。イザヤが40年間語り続けたのは、たった一つのことでした。「人間ではなく神に頼れ」、ということです。それこそ、時代の中でイスラエルが学ばなければならなかったことでした。そしてこれこそ、聖書が一貫して、いつの時代も私たちに伝えていることです。

「神に頼りなさい、神に立ち返りなさい」、ただそれだけです。

聖書という本は、読んでみると、なかなか一人では理解できないでしょう。しかし、聖書が全体を通して訴えていることは、この上なく単純なことです。「人間ではなく神に頼れ」ということなのです。

アッシリアに助けてもらおうと、イスラエルの神を捨ててアッシリアの神に乗り換えようとしていたアハズ王は、イザヤの言葉を聞いてどうしたでしょうか。「私はイスラエルの神に頼らない」と答えたのです。

国々が争っているこの状況で、「静かに神に任せる」などという選択はできない、弱いユダ王国が生き残るためにはアッシリアの傘下に入ることが一番安全で確実だ、という思いを変えませんでした。

神に頼ろうとしないアハズや、ユダ王国の指導者たちにイザヤは言います。

「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、私の神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、私の主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ」

神を頼ろうとしない人たち、もう神から心が離れてしまった人たちに、イザヤは、インマヌエルと呼ばれる男の子の誕生を預言しました。「神が私たちと共にいらっしゃる」というしるしとなる男の子が生まれる、と言うのです。

「インマヌエル・神が我々と共にいらっしゃる」、と聞くと、単純に喜ばしい知らせだと思えます。確かに、神に信頼し、神を頼って生きている人にとってはインマヌエルという知らせは、素直に喜べることでしょう。

しかし、アハズ王のように、神を信頼しない人にとってはどうでしょうか。不信仰な人にインマヌエルのしるしが与えられる、ということは、「神は本当に私たちと共にいらっしゃる」ということを思い知らされるための裁きが与えられる、ということです。

イザヤは、インマヌエルと呼ばれる男の子が生まれるとすぐに、ユダ王国を攻めているアラムと北イスラエルの二つの国の王は滅びるだろう、と預言しました。そして、神を求めなかったユダ王国の上に、アッシリア王による破壊がもたらされるだろう、と言います。

恐ろしい預言です。その男の子の誕生は、神を信じない人たち、神に頼らない人たちにとって、滅びのしるしとなるのです。ハズ王は、やがて、自分が頼りにしたアッシリアによって滅ぼされ、そしてその滅びの中で「本当は神に頼るべきだったのだ」ということを思い知らされることになるのです。

「神に頼れ」という預言を聞き入れなかった南ユダ王国は、40年後、自分たちが頼りにしたアッシリアによって国を侵略されることになります。イザヤの預言は実現したのです。 Continue reading

11月21日の説教要旨

マルコ福音書14:32~42

「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(14:36)

有名な、イエス・キリストのゲツセマネの祈りの場面です。

「月の光のもと祈りをささげるキリストと弟子達」、と聞くと、夜の静寂に包まれた、静かで穏やかな祈りの光景を思い浮かべるでしょう。しかし、ゲツセマネで祈りを捧げられるイエス・キリストのお姿は、決して穏やかでも静かでもありませんでした。

神の子イエスご自身が、のたうちまわるほど苦しみながら、ご自分に課せられた十字架の死という使命をめぐって神と対話をなさった壮絶な祈りの姿でした。そしてそばにいた弟子達は一緒に祈りを合わせるどころか、眠りこけてしまっていました。

福音書には、主イエスが父なる神への祈りのお姿が何度も記録されています。しかし、ここまで福音書は、主イエスが何を祈っていらっしゃったのか、ということは記してきませんでした。ここで初めて、主イエスの祈りの言葉が明らかにされます。

ご自分に飲み干すよう神から与えられた苦難の杯を取り除けていただきたいと願い、それがかなわないのであれば、神の御心が行われるようそれを飲み干すことができるように、と祈られてきたのです。キリストはこの祈りを、生涯にわたって祈って来られたのです。

イエス・キリストのご生涯は、祈りの生活そのものでした。ある時は夜通し祈られ、弟子達が翌朝呼びに来なければならなかった、ということもありました。それほど祈らなければならなかったのです。

その祈りがなければ、十字架というご自分の使命に歩みを続けていくことはできなかったからです。祈りを通して神との対話を続け、一歩一歩、ご自分の十字架へと歩みを進めなければなりませんでした。それを考えると、キリストの地上の一生は、祈りの戦いそのものだった、と言っていいのではないでしょうか。

これまで主イエスは静かに、何度もご自分がエルサレムでどんな運命をたどるのか、ということを弟子達にお話しなさって来ました。何の恐れもなく全てを受け入れていらっしゃるかのような静かな主イエスのお姿を見ると、淡々と十字架に向かっていらっしゃるように見えます。

しかし、決してそんなことはありませんでした。キリストは「ひどく恐れてもだえ」「地面にひれ伏して」「苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られたのです。

ヘブライ人への手紙の2章に、こう書かれている。

「イエスは、神の御前において憐み深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちをと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがお出来になるのです。」

イエス・キリストは、私たちが感じる痛み・恐れを同じように感じるところまで来てくださいました。「神の子だから痛みや苦しみや恐れなどとは無縁の方なのではないか」、というのは違います。

主イエスが十字架の上で背負われることになっている世の罪の重さを考えると、とてもそんなことは言えないでしょう。

旧約聖書の初めからここまで読むと主イエスが背負われることになっている罪の重さがどれほどのものか、ということがわかります。この方は天地創造以来神に背を向けてきた人間の罪を全て、お一人で背負われるのです。

人間は、天地創造以来の罪から、まさに今、解放されようとしています。罪人が見失っていた、神のもとへ続く道が、再びこの方の十字架によって照らされようとしているのです。イエス・キリストのゲツセマネでの祈りのひと時は、歴史の中で神が人間を取り戻されるための計画が実現しようとしている瞬間なのです。天地創造以来最も緊迫した、そして厳粛な、聖なる瞬間だと言っていいのではないでしょうか。

イエス・キリストがゲツセマネで祈られたことは、最終的には「あなたの御心が行われますように」ということでした。はじめは、「この杯を私から取り除けてください」と祈られます。この「杯」は、旧約聖書の中では、苦しみと裁きの表す言葉として用いられています。主イエスは愛する父に苦しみからの救いを求めて祈っていらっしゃるのです。

しかし、「父なる神」が、ご自分の独り子に望まれたのは、ご自分の独り子が苦しんで死ぬことでした。そして神の子の死によって、すべての人の罪を許し、すべての人をご自分のもとに取り戻す、ということでした。

これまで主イエスはご自分の死の意味を弟子達に示してこられました。ご自分の死のことを「多くの人のための身代金」とか、「多くの人のために流される私の血」という言葉でおっしゃってきました。

多くの人を救い出す犠牲としての死、それこそ、イザヤが預言していた「苦難の僕」の姿です。

苦難の杯を飲む以外の道を神に求められる主イエスは、最後には神の御心をお求めになります。

「しかし、私が願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」

「あなたがお望みになる限り、私は死にます」、とおっしゃるのです。主イエスはこの祈りの後に逮捕されることになります。今、祈ることをやめて、立ち上がり、この場から離れたら、十字架にかからずに済みます。しかし、主イエスはゲツセマネに留まるために祈りの戦いを続けられます。

この時、12弟子の中でもペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけが主イエスと一緒にゲツセマネに行くことが許されました。宣教の旅の初めから召された、弟子達の中でも一番主イエスと一緒にいる時間の長い三人です。主イエスから「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われました。

しかし、三人の弟子達はすぐに眠ってしまいます。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と起こされても、主イエスが自分たちから離れていかれると、すぐに眠ってしまいます。「眠っているのか、起きて祈っていなさい」と言われてしまいます。

主イエスはなぜ弟子達をゲツセマネへと伴い、一緒に祈ってほしい、とおっしゃったのでしょうか。この三人に、祈りで支えてほしいと願っておられたからです。しかし、弟子達は眠気に負けて、主イエスと一緒にひと時も祈ることすらできなませんでした。

ここを読むと、イエス・キリストは弟子達と一緒にゲツセマネにいらっしゃるにも関わらず、孤独でいらっしゃった、ということがわかります。主は実際にはお一人で祈っていらっしゃったのです。

イエス・キリストに起こされないとすぐに眠ってしまう信仰をもつ弟子達は、私たちの信仰の弱さそのものです。考えてみたいと思います。私たちはどれだけキリストのために祈っているでしょうか。私たちの罪のために取りなして祈ってくださるキリストのために、私たちはどれだけ自分の祈りをもって支えているでしょうか。

私たちは、自分のこと、また、自分の周りのことに関しては祈るのだ。

自分を助けてほしいと祈る時には私たちはたくさんの言葉を用います。

私たちは、キリストに向かっては祈りますが、キリストのために祈っているでしょうか。

キリストは最後まで孤独でした。そこに弟子達がいるのに。一緒に祈ってくれる信仰の友がそこにいなかったのです。

ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、この夜のキリストの祈りのお姿を、そして眠りこけてしまった自分たちのふがいなさを、後々何度も思い出したでしょう。生涯忘れることができなかったでしょう。

イエス・キリストがゲツセマネでここまで必死に祈ってくださったのは、弟子達が弱かったからです。神を忘れ、神から離れていることにすら気づかず生きている罪びとには、キリストの祈りが必要なのです。誘惑の中、わずか一時も目を覚ましていることのできない弱い罪びとだからこそ、キリストが目を覚まし、地面にひれ伏して祈り続けてくださったのです。弟子達が弱いからこそ、私たち罪びとが弱いからこそ、キリストはこの世界を救おうと孤独の中で祈り続けてくださったのです。

主イエスは神に向かって、「アッバ、父よ」と呼びかけられました。親しみを込めた、父親への呼びかけの言葉です。弟子達がゲツセマネへと伴われたのは、キリストと共に神に向かって「アッバ、父よ」と呼ぶ祈りに加えられるためです。

使徒パウロが、ガラテヤの諸教会に向けて、こう書いています。

「あなたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、私たちの心に送ってくださった事実からわかります」

私たちキリスト者は、イエス・キリストによって神の子とされています。神に向かって「アッバ、父よ」と叫ぶ神の子であるイエス・キリストの霊が私たちの心の中に送られているのです。 Continue reading

11月14日の説教要旨

マルコ福音書14:27~31

「イエスは弟子達に言われた。『あなたがたは皆、私につまずく。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と書いてあるからだ。しかし、私は復活したのち、あなたがたより先にガリラヤへ行く。』」

弟子達にとって、イエス・キリストと囲んだ「過ぎ越しの食卓」は大きな衝撃でした。主イエスから「あなたがたの中の一人が私を裏切ろうとしている」と聞かされた。

過越しの食卓に座を連ね、出エジプトの恵みに思い浸っていた弟子達は衝撃を受けました。考えられないことでした。過越の食卓が一気に緊迫したものになります。

弟子達は「誰だろうか」と皆考えました。その弟子達に追い打ちをかけるように、主イエスは葡萄酒を配り、「これは私の体、私の血だ」と、ご自分に死が差し迫っていることを示されました。

主イエスと弟子達は、この過越しの食卓から、オリーブ山へと出ていきました。

オリーブ山まで歩く間、弟子達は、主イエスが食卓でおっしゃったことを頭の中で反芻していたでしょう。

「12人の中で裏切るのは一体誰なのか」

「食卓で手渡されたパンと葡萄酒が主イエスの体であり血であるとはどういうことか」

オリーブ山に着いた時、弟子達は主イエスからさらに衝撃的なことを聞かされます。弟子の一人が裏切ろうとしているだけではなく、「あなたがたはこれから私を見捨てて逃げる」とおっしゃったのです。

あまりのことに、もう黙ってはいられなくなりました。ペトロは皆を代表して答えます。

「たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません」

弟子達はペトロと同じ気持ちでした。当然自分は先生と一緒に最後までいるつもりだ自分が途中で先生を見捨てて離れてしまうなどということはない、と全員が意思表示しました。

しかし、そのペトロの言葉に対して主イエスは「よく言ってくれた、私は嬉しい」とはおっしゃいませんでした。Continue reading

11月7日の説教要旨

マルコ福音書14:22~26

「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(14:25)

「最後の晩餐」とか、「主の食卓」と呼ばれている、キリストが弟子達にご自分の肉と血を象徴するパンと葡萄酒をお与えになった食卓です。私たちが礼拝の中で行う聖餐式の原型となる過越の食卓です。

「過越の食卓」は、定められた手順を踏んでもたれます。その家族の長が取り仕切り、長い時間をかけて、食事や盃が出されるごとに祝福の言葉とその意味が語られます。そうやって、イスラエルの先祖の出エジプトの恵みを追体験するのです。

主イエスと弟子達がもったこの食卓は、普通の過ぎ越しの食卓とは少し違っていました。

過去に与えられた救いについてだけではなく、これから与えられることになる新しい救いについて語られているのです。

「主イエスは、私の体と血をあなたたちに与えよう、取りなさい」とおっしゃっています。主イエスは、ご自分の死を弟子達にお与えになりました。

この晩、主イエスが弟子達と囲まれた過ぎ越しの食卓は、「新しい過ぎ越し・救い」の始まりだったのです。

我々は、まず、この食卓の根っこにあるものをしっかりとらえていきたいと思います。過ぎ越しの食卓は、イスラエルはエジプトでの奴隷生活からの解放を思い起こし、自分たちの今が神の救いの恵みによるものであることを記念する食卓です。

聖書に記されている出エジプトの出来事を読むと、神の救いの不思議を思わされるのではないでしょうか。神によってエジプトの奴隷生活から救われた、と聞くと、イスラエルは神によってすぐに豊かで幸せな生活を始めたと思うのではないでしょうか。「神の救いと聞くと誰だって楽に楽しく生きられるようになることだと考えます。

しかし神がイスラエルをエジプトから解放し、導き入れられたのは荒れ野でした。そこから40年間、イスラエルは荒れ野の旅を続けなければならなくなります。実際にエジプトから脱出した人たちは皆荒れ野で死に、約束の地にたどり着いたのは荒れ野で生まれた世代の人たちでした。それほどに苦しい旅でした。イスラエルの人たちは荒れ野で何度も、自分たちを導くモーセやアロンに向かって「こんなにしんどいのならエジプトに帰りたい」と泣き言を言いました。 

なぜ、イスラエルは40年も荒れ野を旅しなければならなかったのでしょうか。神は、旅の最後で、モーセを通して全イスラエルに向けてその理由をお教えになりました。

申命記に記されている言葉を引用します。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことの無いマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足が腫れることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」 Continue reading

10月31日の説教要旨

マルコ福音書14:12~21

「はっきり言っておくが、あなたがたの内の一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」(14:18)

ガリラヤから過越祭への巡礼のためにやってきた主イエスの一行は、エルサレムで「除酵祭の第一日を迎えた」、とあります。この日は木曜日でした。除酵祭の第一日、この木曜日の日が暮れて夜を迎え、そしてその夜が明ければ、イエス・キリストは十字架に上げられ、殺されることになります。

今日私たちが読んだのは、イエス・キリストが弟子達と過ごす最後の時間を、どのように過ごされたか、という場面です。

この日主イエスがなさったことは、食事の席を弟子達に探させ、そして共に食事をする、ということでした。その食卓は「最後の晩餐」と後に呼ばれることになります。

この日、主イエスが弟子達と囲まれたのは、「過ぎ越しの食事」と呼ばれる、イスラエルにとって、自分たちのルーツを思い出すための特別な祭りの食卓でした。過越祭は、イスラエルの人たちが自分たちの先祖がエジプトの奴隷生活から神によって救い出されたことを記念する祭りです。

出エジプト記にその「過越し」の出来事が記されています。神は、イスラエルをエジプトでの奴隷生活から解放するために、エジプトを打たれました。その際、イスラエルの人たちは、神の裁きが自分たちのもとに来ないように、目印として、家の鴨居に子羊の血を塗りました。神は、子羊の血が塗られたイスラエルの家をは過ぎ越して、エジプトを打っていかれたのです。

そしてその夜、イスラエルの人たちは旅の準備を整えることもなく、急いで食事をし、エジプトを出発しました。過越祭の中でもたれる「過越しの食卓」は、その夜の食事を再現して、思い起こすためのものでした。イスラエル解放の夜を記念するために、一家の長が食事を取り仕切って自分たちの先祖が神に救い出された夜のことを、順を追って追体験するのです。

イスラエルの人たちは、そのようにして過越祭を通して、自分たちが神によって救われて今も生かされている、ということを代々子供たちに伝え、神への信仰を確かなものとしてきたのです。

イエス・キリストが、十字架に上げられる前に最後に弟子達と囲まれたのが「過ぎ越しの食卓」であった、ということは偶然ではありません。私たちはここを読んで、あまりにもキリストがおっしゃる通りに物事が運んでいることに驚くのではないでしょうか。

事細かに弟子達に指示を出されています。「エルサレムの都に行くと、水瓶を運んでいる男に出会うからその人について行きなさい。そしてその人が入って行く家の主人に、食事の席を準備させなさい」

どこで誰に会い、そしてどのように言えばよいのかまで弟子達に指示をお与えになっています。まるですべてそうなると決められていたかのようです。

実は、そうなのです。そう決まっていたのです。この日、イエス・キリストと弟子達が最後の晩餐として過ぎ越しの食事を囲むということは、神のご計画の内にあったことでした。

イザヤ書53章に、すべての罪びとを背負って死ぬ、という使命が与えられた「神の僕」が世に与えられるだろう、という預言があります。

「私たちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かっていった。その我々の罪をすべて主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみこみ、彼は口を開かなかった。屠り場に惹かれる子羊のように、毛を切る者の前にものを言わない羊のように、彼は口を開かなかった」

「苦難の僕」の歌と呼ばれるイザヤ預言です。神に背を向けて離れてしまった罪びとたちのすべての罪を担う「苦難の僕」と呼ばれる人が来る、という預言です。

イエス・キリストこそ、その苦難の僕でした。この方はこれから罪びとの罪を背負って十字架の上で死んでくださいます。この方は生贄なのです。犠牲なのです。そして罪びとにとっては罪の重荷から解放してくださる方でした。

主イエスがこの日弟子達と過越しの食卓を囲まれたということは、長い歴史の中で神が実現なさる救いのご計画の一部でした。十字架の前夜、それはまさに新しい過越しの夜であり、罪からの解放の前夜だったのです。使命を背負って、この世に来てくださった苦難の僕を通して、神がすべての罪びとを身元へとお集めになるご計画は、間違いなく実現しています。

苦難の僕は今、罪びとを救い出すために、一つ一つ苦しみへの階段を上ってくださっています。後のキリスト教会にとって、この夜主イエスと弟子達が囲んだ最後の晩餐は、新しい救いの始まりとして記念すべきものとなりました。

イスラエルの人々が過ぎ越しの食事を通して自分たちが何者であるのか、ということを思い出し、代々それを伝えてきたように、キリスト教会もこの晩キリストと弟子達が囲んだ食卓を通して、自分たちの信仰の原点と、自分たちが生きている世界にキリストが今も共に生きて歩んでくださっていることを深く覚えるようになるのです。

この時の弟子達にはまだわからりませんでしたが、これは新しい過ぎ越しであり、新しい救いの始まりの食卓でした。この夜の食卓が、新しい救いの記憶となり、弟子達は人々に伝えて行くことになります。

さて、主イエスは、この食卓で、一つの衝撃的な事実を弟子達に打ち明けられました。

「この中の一人が私を裏切ろうとしている」

弟子達は皆驚きました。イスカリオテのユダも、驚いたでしょう。自分が主イエスを引き渡すために祭司長たちと取引をしたのがばれていたのです。見抜かれていたのです。

しかし、主イエスはこの席「それはイスカリオテのユダだ」とはおっしゃいません。ユダがご自分を裏切ることまでも神のご計画の内にあることを受け入れていらっしゃるからです。

主イエスは、全てご存じだった。

この後、ユダの裏切りによってユダヤ人指導者たちに逮捕され、裁判にかけられ、ローマ総督に引き渡され、十字架刑を宣告され、鞭うたれ、十字架に張り付けられることも・・・ユダに裏切られるだけでなく、ほかの弟子達もご自分から離れ去ってしまうことも・・・ペトロが三度「イエスなど知らない」と言ってしまうことも、全てご存じでした。

そもそもイエス・キリストは、そのご生涯のはじめから、エルサレムでご自分の十字架の死が待っているということをご存じでした。すべてお分かりになっていた上で、エルサレムに旅をし、一日一日エルサレムに滞在して十字架の時が来るのを待っていらっしゃったのです。

今この時、目に見えないところで祭司長たちや律法学者たちがご自分への殺意をもって動いていること、そしてイスカリオテのユダが主イエスを引き渡すために接触したことだった、全てご存じでした。

「まさか私のことでは」と一人一人が言い始めた。

ユダも他の弟子達に調子を合わせて、同じようにまさか私ですか?」と白々しく尋ねていた Continue reading

10月24日の説教要旨

マルコ福音書14:1~11

「12人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った」(14:10)

聖書は、シモンの家での香油の注ぎの出来事の前後に、主イエスのいらっしゃらないところで何が起こっていたか・どんな計画が進んでいたか、ということを書いています。

祭司長たちや律法学者たちがなんとかしてナザレのイエスを捕えて殺そうと狙っていた、とあります。そしてベタニアで主イエスが香油を注がれた後、弟子の一人、イスカリオテのユダが主イエスを彼らに引き渡そうとして取引しに行った、ということが書かれています。

祭司長や律法学者たちは、主イエスがガリラヤにいらっしゃった時からずっと彼らは主イエスを殺そうと考えていました。「危険人物であるあのナザレのイエスが今、エルサレムに来ている、自分たちの手の届くところにいる」、そう思っても、簡単には手が出せないでいました。

過越祭には多くの巡礼者が神殿に詣でていて、その巡礼者の群衆は主イエスのことを熱心に支持していたのです。皆、喜んで、神殿の境内で神の国の教えを語る主イエスの言葉に耳を傾けていました。もし、そのような人たちの目の前で無理やりナザレのイエスを捕えたりすると暴動になる危険性があります。日中、ナザレのイエスはずっと神殿で過ごしていて、群集が一緒にいるのです。祭司長や律法学者たちがナザレのイエスを捕まえて殺るのであれば、夜を選ぶしかありませんでした。しかし、それは簡単ではなかった。

10万人以上が過越祭の巡礼でエルサレムに来ていたと言われています。エルサレムの町の中にそれだけの人数を収容することはできないので、巡礼者たちは、夕方になるとエルサレムの外に出て、周辺の村々に宿泊していました。10万人の中からナザレのイエス一人だけを見つけ出すことは困難でした。

ユダヤの指導者たちは、イエスとその弟子達が夜どこに泊まっているのか、どこに行けば誰の目にも触れずにイエスを逮捕できるのか、詳しい情報を求めていました。そこにイエスの弟子のユダがやって来て、「イエスと他の弟子達が夜の間どこにいるのか教えましょう」と言ったのです。これこそ指導者たちが求めていた情報でした。彼らは喜んで、ユダにお金を与える約束をしました。

我々は今日特に、このユダという人に注目したいと思います。イスカリオテのユダは、イエス・キリストの弟子でありながら、キリストを最後に裏切った人物として、とても有名な人です。聖書を読んだことがない人でも、キリスト者でなくても、このユダという人のことを知っている人は多いでしょう。

ユダは、脅されて主イエスを引き渡そうとしたのではありません。自分の意思によってそうしたのです。

ユダの裏切は突然で、驚かされます。寝食を苦楽を共にしてきた主イエスと他の弟子達を、彼はなぜ裏切ったのでしょうか。主イエスを裏切って、金をもらう約束を取り付けた、ということを見ると、ユダは狡猾で悪い心をもっていた人物だった、という印象を受けます。

ユダはお金に目がくらんだのだのでしょうか。他の福音書を見ると、ユダが主イエスを裏切って受け取ったのは、銀貨30枚だった、と記録されています。銀貨30枚というのは、30日分の同労賃金、一か月分の収入ぐらいの額です。一生遊んで暮らせるだけのお金をもらえるというのなら、わかりますが、その程度の金額のために、一年以上従い続けて来た主イエスと他の弟子達を売り渡す、ということは考えにくいでしょう。

ユダの裏切の理由について、与えられている情報から、多少推測することは出来ます。

12弟子の中でもユダだけ、特別に、「イスカリオテのユダ」という呼び方がされています。「イスカリオテ」というのは、ユダの苗字ではありません。これは「ケリヨトの人」という意味の言葉だ。「ケリヨトの人、ユダ」と彼は呼ばれていたのです。ケリヨトはユダヤ地方のずっと南にある町で、ユダはここの出身だったようです。ユダだけが「イスカリオテのユダ」と呼ばれていた、ということはつまり、ユダは弟子達の中で一人だけ、ガリラヤ人ではなかった、ということです。

主イエスは「ガリラヤの預言者」として人々から称賛を受けていました。他の弟子達も主イエスのことを「自分と同じガリラヤ人の預言者・メシア」という同郷意識をもって見ていました。

しかし、ケリヨトの人であったユダには「我々ガリラヤ人」というような同胞意識はありませんでした。ユダは冷静に客観的に主イエスを見極めて、自分の意思で、「このガリラヤの先生に従おう」と思って従っていたのです。

ユダも他の弟子達同様、このイエスという方がいずれイスラエルをローマの支配から救い出してくださる指導者だと信じて従っていたでしょう。主イエスが「エルサレムに行く」とおっしゃった時には、皆「先生はこれからエルサレムに行って、いよいよ王座に着かれるのだろう」という期待を持ったでしょう。

ところが、エルサレムに出発する際に、主イエスは「私はエルサレムで殺されることになっている」と、ご自分の運命を弟子達に明らかにされました。弟子達は皆驚きました。主イエスがローマからイスラエルを解放し、栄光の座に座るだろうという期待を持っていたからこそ、ここまで従ってきたのです。ユダも、自分の従いの先には栄光があると期待したから、ケリヨト人でありながら、ガリラヤの教師である主イエスに従っていたのです。

それなのに、エルサレムに旅を続ける中で「私は殺されるのだ」と主イエスは何度も繰り返されました。そしてエルサレムに入ってからは、神殿から商人を追い出したり、神殿の崩壊を預言したりなさっています。ベタニア村のシモンの家で香油を注がれた際、主イエスは「この人は私の葬りの準備をしてくれた」とおっしゃいました。「やはり先生はここで死ぬ覚悟でいらっしゃるのだ」と、彼は失望したでしょう。

ユダにしてみれば、「先生が殺されるのを見るためにここまで従ってきたのではない」という思いが強かったでしょう。このままだと本当に主イエスも弟子達も自分も、殺されてしまう。先生は彼らと戦う意思をもっていらっしゃらない。むしろ死ぬ覚悟を決めていらっしゃる。これ以上、指導者たちを刺激しないためには何をすべきか、自分や他の弟子達まで巻き添えにならない方法はないか、ユダは考えたのではないでしょうか。

このように、与えられた情報を集めて、ユダの裏切の理由を推理していくことは、ある程度は可能だ。しかし、結局のところユダの本当の思いというのは、ユダ本人に聞いてみないとわかりません。聖書が、あえて、ユダの裏切の理由を書いていない、ということにも、大きな意味があるのでしょう。

ただ言えることは、ケリヨトの人でありながら、ガリラヤの教師に従って長い期間苦楽を共にしてきたユダが、主イエスと弟子達を裏切ろうと決意するまでには多くの葛藤があっただろう、ということです。ユダという人は、極悪人でも、詐欺師でもなく、心の中にいろんな葛藤をもった、普通の人だったのです。裏切り者として有名なイスカリオテのユダは、実は、我々と何ら変わりない、人間的な弱さを抱えた人だったのです。

ユダは、イエス・キリストに自分の未来を見出すことが出来なくなってしまいました。主イエスは、ご自分の受難と一緒に「三日の後、復活する」と、復活の希望を予告してこられました。しかし弟子達は主イエスの受難予告だけを聞いて、復活予告を聞き逃してきています。

もしも、ユダが、主イエスのことを本当にキリストであると最後まで信じぬくことができたのであれば、主イエスの死の向こうには復活の希望があると考えることが出来たのではないでしょうか。

しかし、ユダにとって主イエスの死は全ての終わりでした。

我々は、ユダの姿を通して、イエス・キリストに希望を見出すことができない人間の人のもろさを見ることができるでしょう。誰でも、自分の全てをかけていた希望を失った時に、どれだけ簡単に崩れてしまうのか、ということを、このユダの姿は我々に教えてくれます。

使徒パウロはコリント教会にこう書き送っています。

「立っていると思うものは、倒れないように気を付けるがよい。」

我々はキリストを信じ、真っすぐな思いを持っている時には「自分は今しっかりと立っていて、どんなことがあっても揺らがない」、と思い込んでいます。しかし、本当は、我々の信仰の足元はいつもぐらついているのです。次の一歩で躓いて倒れるかもしれない、ということをすぐに忘れてしまいます。12弟子の一人でさえそうでした。

しかし、キリストを信じる人は、躓いてもそれで終わりではありません。

パウロはこのようにも書いています。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなた方を耐えられない様な試練に合わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」

どんな試練があっても、苦難があっても、我々にはイエス・キリストという最後の希望があることを忘れなければ、我々はふらつきながらでも立ち続けることが出来るのです。

生きる中で、自分が行き止まり・行き詰りにいる見える時もあるでしょう。しかしそれでも、今の私達には見えないところで、神が新しい道を用意してくださっている、ということを聖書は我々に訴えています。

このユダという人さえいなければ、主イエスは十字架で殺されることはなかったのではないか、と誰もが考えます。しかし、このユダの裏切という、想定外のことのように思える人間の罪も、神の救いご計画の中でもちいられた、という神秘に思いを馳せたいと思います。

我々信仰者がこの人生の中で与えられる葛藤も、苦難も、神はご自分の救いのために用いてくださいます。

パウロはローマの信仰者たちに、こう書いている。

「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、我々は知っています」

我々は、ユダの裏切を他人事のように見ることは許されません。ユダの中に自分と同じ弱さがあることを見つめ、今自分に与えられている許しの大きさをかみしめ、今我々が抱いている弱さや葛藤さえも、神は恵みをもって用いてくださることに感謝したいと思います。

キリストを信じることは、苦難や葛藤を伴うことです。しかし、その苦難や葛藤を乗り越えさせてくださるのも、キリストなのだ、ということを覚えたいと思います。

10月17日の説教要旨

マルコ福音書14:1~9

「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(14:9)

「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」と、主イエスは弟子達・信仰者に向かってご自分の再臨の時があることをお示しになりました。そしてその日に弟子達に伝えるべきことをすべてお伝えになったので、宿をとっていたベタニア村へと戻られました。

今日私たちが読んだところには、「過越祭と除酵祭の二日前になった」、とあります。主イエスは金曜日に十字架に上げられることになるので、「二日前になった」ということは、十字架はあと二日というところまで迫っている、ということです。

主イエスが十字架を前にした差し迫った時をどのように過ごされたのか、しっかりと見ていきましょう。

「祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕えて殺そうと考えていた」、とあります。しかし、この人たちは、主イエスの言葉に喜んで耳を傾けていた民衆が騒ぎ出すことを恐れてもいました。

ある人達の殺意が主イエスに向けられていて、何かの小さなきっかけ・小さな口実さえあれば、その人たちは主イエスを殺すための手順をすぐに踏めるように備えていました。

キリストはもちろん、ご自分を殺そうとしている人たちが近くにいることをご存じでした。エルサレムへの旅の初めから、「私はエルサレムで殺されることになっている」と弟子達におっしゃって来たのです。主イエスにとって旅の目的地はエルサレムであり、もっと言えば、エルサレムのゴルゴタの丘の十字架でした。

主イエスはそれでも、エルサレムから逃げることなく、静かに、ご自分の十字架の死の時を迎えようとなさっています。イザヤが預言した「苦難の僕」として、「屠られる生贄の子羊」として、ご自分を殺そうとする人たちの前でじっと屠られる時を待っていらっしゃいます。

その日、主イエスはベタニアという村のシモンという人の家にいらっしゃいました。このシモンという人は、「重い皮膚病」だった、と記されています。律法の規定では、「重い皮膚病」には接触してはいけないとされていました。「重い皮膚病」の人の家に、このように人々が集まる、ということは聖書に照らし合わせると考えられないことでした。

恐らく、主イエスがシモンという人の皮膚病を癒されたのでしょう。そしてその癒しの業をシモン自身とその家族が喜んで、このもてなしの食事の席を設けていた、と考えるのが自然です。ここには書かれていませんが、皆、主イエスを囲んで、喜びに満ちた雰囲気の食卓だったと思います。

そのような和やかな食卓で、人々が驚くようなことが起こりました。突然一人の女性がナルドの香油を主イエスの頭に注ぎかけたのです。この人がなぜ突然そんなことをしたのか、聖書には何も書かれていません。

この女性はシモンの家族で、シモンの皮膚病を癒してくださったこのイエスという方に感謝の意を表そうとしてこのようなことをしたのかもしれません。しかし、それだけでは説明がつかないでしょう。主イエスに感謝を表すだけなら、頭に香油を数滴たらせば十分だったはずです。しかしこの女性は、壺を割って、高価なナルドの香油を全て注ぎかけました。

人々は、女性がしたことの意味が分からず、彼女を非難しました。「なぜこんなに香油を無駄遣いしたのか。300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことが出来たのに。」

デナリオンというのは、日給の単位です。300デナリオンというのは、300日分の日給ということなので、当時の人々の年収に値するほど高価なものでした。

香油のツボを壊して、誰か一人にそれを全て注ぐ、ということはとんでもない無駄に思った人たちはすぐに女性に抗議しました。高価な香油は、もっとほかに有効な使い道があったはずだ、と。一気に全部使わなくても、たくさんの貧しい人たちのために使うことだってできたのに、そっちの方がいい使い方ではないか、と言いました。

これは正論だと思います。この時人々がいたのは、重い皮膚病の人シモンの家でした。女性に抗議した人たちは、病の人、貧しい人たちの苦しみをよく知っていた人たちだったでしょう。主イエスご自身、金持ちの若者がご自分に従おうとしてやってきたとき、「持ち物を売り払って貧しい人たちに施しなさい」とおっしゃったこともあります。

しかし、この時主イエスは「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか」とおっしゃいました。主イエスがもう貧しい人々のことをなんとも思わなくなってしまわれた、ということなのでしょうか。

主は続けてこうおっしゃいます「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるから、したい時に良いことをしてやれる。しかし、私はいつも一緒にいるわけではない」「この人は私の葬りの準備をしてくれた」。そして、イエス・キリストの福音が語られるところでは、このナルドの香油の注ぎも語られることになる、ともおっしゃいました。

この女性がしたことは、明らかに非常識な行為です。しかし主イエスは、その女性がしたことは、神の救いの大きなご計画の中の一部であり、この女性がしたことは、神の時と業に適っていることを示されました。この女性は、高価なナルドの香油を、使うべき時に、最も適切な使い方をしたのです。

この女性がナルドの香油をすべて注いだ、ということは、彼女のイエス・キリストの思い・信仰をすべて注いだ、ということです。周りの人たちにとって、300デナリオン以上の価値のある香油を一度に使ってしまう、ということは無駄遣いでした。しかし、この時は、そうすべき時だったのです。

それはメシアがご自分の命を差し出して、世の全ての罪の暗闇から救いだされる時でした。メシアが全ての人から見捨てられ、一人で十字架に向き合われようとする時でした。

この時に最もふさわしい香油の使い道とは何だったのか・・・それは、メシアの葬りを準備をする、ということでした。

旧約聖書のコヘレトの言葉の中に、こういう言葉があります。

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。・・・求める時、失う時、保つ時、放つ時」

シモンの家で、この女性は、高価なナルドの香油を手放しました。この人は「キリストを求める時・香油を捧げ手放す時」を逃さなかったのです。

聖書は、この女性について詳しいことを書いていません。私達がこの女性に関してここで見ておきたいのは、この女性は時に適うことをした、ということです。信仰の時を逃さなかった、ということです。

主イエスが弟子達に「目を覚ましていなさい」とおっしゃったそのすぐあとで、この女性が香油を主イエスに注ぎました。私たちは、この女性の信仰の姿に、「目を覚ましている、ということがどういうことなのか」ということを見ることができるのではないでしょうか。

この香油の注ぎはイエス・キリストの死についても私達に教えてくれます。キリストの死は、ただ恐怖と絶望で終わる暗いものではなかったのです。良い香りのする、贅沢に油を注がれた祝福された死でした。

「祝福された死」というのは、奇妙な響きです。主イエスが殺され、埋葬される、ということが私達にとって喜ばしい知らせ・福音である、ということは奇妙なことです。しかし、それが、イエス・キリストの死の意味なのです。

それはイザヤ書の預言そのものです。「彼の受けた懲らしめによって私達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私達は癒された。」

なぜこの方が懲らしめられ、傷つけられることによって、私達に平和が与えられ、癒されるのでしょうか。そこには、逆説に満ちた、説明のつかない恵みがあります。この何の罪もない方が、世界の全ての罪を背負って死んでくださったのです。だから、この方の死は、私達にとって祝福であり、喜びなのです。

この方が殺されたことを、後に世界は自分に与えられた喜びとして延べ伝えていくことになります。この女性がしたことも。

この時キリストに注がれたナルドの香油の香りは、今でも消えていません。私達自身が今世に向かって放つキリストの香りです。

パウロがコリント教会にこう書いています。

「神は、私達をいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私達を通じていたるところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどるものにとっても、滅びの道をたどるものにとっても、私達はキリストによって神に捧げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。」

私達は、キリストの香りを放つ者として生きているのです。イエス・キリストがこの私のために死んでくださったということを知って生きる、それが、キリストの香りを世に向かって放つ、ということです。その香りは、やがてこの世を包むことになります。

信仰者は、いつでもこの世の価値観と、キリストがお示しくださった天の価値観の間に挟まれています。そして、この世の価値の方にばかり目が行ってしまいます。

シモンの家での出来事を見ても、ナルドの香油は一年分の労働に等しい価値がある、ということに目が行くのは当然でしょう。しかし、忘れてはならないのは、地上の価値に勝る天の宝を私達はキリストの命を通していただいている、ということです。

キリストの死という何物にも代えられない宝を、大切に抱いて、神の国を目指してキリストに救われた命を歩んでいきましょう。