MIYAKEJIMA CHURCH

1月30日の説教要旨

マルコ福音書14:53~65

「イエスは言われた『そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に、囲まれて来るのを見る』」(14:62)

主イエスはこれまで、神を「父」と呼んで来られました。それはつまり、ご自分が神の子である、ということです。

一週間前にエルサレムに入られた主イエスは神殿の境内から商人を追い出し、そこで神の国の教えを群衆に語って来られました。エルサレム神殿の中でわがもの顔に振る舞うナザレのイエスに、祭司長、律法学者、長老は「何の権威でこんなことをしているのか」と問い詰めます。

その際、主イエスは彼らにぶどう畑のたとえをお話しなさいました。ブドウ園の主人の息子が、ブドウ園の農夫たちに殺されてしまう、というたとえ話です。それは祭司長たちが主イエスを殺す、ということを暗示したたとえ話でした。ブドウ園の主人というのは、神であり、殺される主人の息子は神の子である・・・つまり、主イエスご自身は「神の子・メシアである」ということを暗示した話でした。

また、神殿の崩壊の預言を聞いた弟子達に主イエスは「世の終わりがいつ来るかわからないのだから、備えて、目を覚ましていなさい」「その日、その時は、父だけがご存じである」とおっしゃいました。この世の終わりがいつなのか、自分の父である神のみがご存じである、という言い方です。

神を自分の父と呼び、自分が神の子であるかのように振る舞ってきた。ナザレのイエスに、ついに大祭司は裁判の中で、核心をついた質問をします。

「お前はほむべき方の子、メシアなのか」

神を直接言い表すことを裂けて、「ほむべき方」と言っています。つまりこれは「お前は、結局何者なのだ。神なのか」という質問です。

ここで主イエスははっきりと「そうです」とお答えになりました。

これまで主イエスは民衆に対して、御自分からメシアであることを秘密にしてこられました。ペトロが主イエスに「あなたはメシアです」と信仰を告白した時にも、「それを誰にも言ってはいけない」とお命じになりました。人々がそれぞれ好き勝手なメシア像を持っていたからです。

しかし、ついにここで隠してこられたご自分の本当の権威、神の子メシアであることをユダヤの指導者たちに明らかにされました。ご自分の口ではっきりと、ご自分が天から来た神であり、やがて栄光に包まれて世の終わりに再びやってくるだろう、とおっしゃったのです。

「人の子が全能の神の右の座に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」

旧約聖書の預言書、ダニエル書7章で預言されている、栄光の雲に囲まれてやってくる「人の子」と呼ばれている神の姿こそ、「私だ」とおっしゃったのです。

これを聞いて大祭司は衣を引き裂きながら、「この者は神を冒涜した」と言いました。そして最高法院の人たちは、主イエスを死刑にすることを決議しました。

メシアである主イエスがご自分をメシアとおっしゃった、ということで、なぜ死刑の判決になるのでしょうか。主イエスは、本当のことをおっしゃっただけなのです。主イエスがおっしゃったことが本当であるなら、何の問題もないはずです。これは真実を明らかにする「裁判」なのですから。

しかし、最高法院の人たちは、この主イエスの言葉を受け入れませんでした。それを信じることができなかったからです。

私たちは、考えたいと思います。人間の裁きとは何なのでしょうか。本当に人間は、正しく人間を裁くことができるのでしょうか。

聖書の中には、神の裁きを待ち望む弱い人たちの叫びがたくさん残されています。「主よ、私はあなたの裁きを待ち望みます」といろんな時代の信仰者が祈りが記録されています。

なぜでしょうか。人間の裁きが不完全だからです。罪の力に支配されている人間は、自分に引き寄せた裁きをしてしまうのです。良いものをよい、悪いものを悪いとする、ということは、人間には難しいのです。自分の都合の良いように裁きを行ってしまいます。人の裁きを左右する、他の力が働いてしまいます。

この夜の最高法院の人たちを見ればわかります。これはもともと主イエスを死刑へと陥れるための裁判でした。「ナザレのイエスは死刑だ」、ということがもともと決まっていたのです。主イエスは正しい裁きの中で有罪とされたのではありません。愚かな罪びとの裁きの中で、甘んじて有罪判決をお受けになったのです。

私たちは、この裁判を通して考えたいと思います。人は神を裁くことができるのでしょうか。神を裁く人間とは一体何なのでしょうか。

私たちは今、十字架へと追いやられるイエス・キリストのお姿を見ています。それは、罪の力がキリストを十字架へと運ぶ姿であり、キリストが罪を全て背負っていかれるお姿です。

主イエスはご自分に死刑の宣告をした、この最高法院の人たちの罪を今、背負われました。神に仕えるはずの祭司や律法学者たちが神に死刑判決を下した瞬間です。その罪を、神ご自身が背負われるのです。

私たちは、受難の道を行かれるイエス・キリストの周辺に自分の姿を見出します。私達はあの時キリストを十字架へと追いやる大勢の人たちの中にいたのです。キリストを引き渡すユダ、キリストを見捨てる弟子達、キリストを裁き有罪とした最高法院の人たち、そしてこの後、十字架刑を宣告するローマ総督ポンテオ・ピラト・・・。私たち一人一人が、キリストを見捨てた弟子達の中に、キリストを陥れる偽の証言をした人の中に、死刑を決議した人の中に、唾を吐き、殴った人の中に確かにいたのです。

最後の晩餐からイエス・キリストの十字架の死にいたるまで、私たちは、自分の姿をここで見せつけられることになります。自分の罪を見つめなければならないのです。そして、その罪をご自分の身に引き受けていかれるイエス・キリストの愛を見せつけられることになります。

主イエスは世の終わりにご自分が栄光に包まれて再び来る、とおっしゃいました。エルサレムへの旅の初めに、主イエスは3人の弟子達を山の上へといざなわれた。3人はそこで栄光の光に輝き、天の雲に包まれるイエス・キリストのお姿を見ました。最高法院の人たちに主イエスがおっしゃった栄光の天の雲を、弟子達は、既に見たのです。

キリストの復活を見た弟子達は、その栄光を伝えるようになりました。弟子達は十字架の死から復活なさったイエス・キリストを一生涯伝え続けたのです。

ペトロは後に、自分の手紙の中でこう書いている。

「私たちの主イエス・キリストの力に満ちた栄光を知らせるのに、私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これは私の愛する子。私の心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉と栄光をお受けになりました。私たちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聴いたのです」

一度は見捨てて逃げ去った主イエスを、なぜ弟子達は一転して、命をかけて伝え続けたのでしょうか。最後の晩餐から十字架に打ち付けられるまでの、あのキリストの最後の夜を一生涯忘れることが出来なかったからでしょう。あの夜の自分の罪を忘れることが出来なかったからです。

弟子達は主イエスを見捨てて逃げました。しかし、あの方は自分たちを許し、ガリラヤでの再会を約束してくださいました。あの夜、キリストはイザヤが預言した苦難の僕として甘んじて罪びとからの痛みをお受けになりました。そしてその先にある、ダニエルが預言した人の子・栄光の雲につつまれる神の再臨をお示しになりました。

使徒言行録を見ると、ペトロは多くの人たちに証言したことが記されている。

「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」

ゴルゴタの丘で主イエスを十字架へと追いやった人たちは、ペトロの言葉を聞いて恐れました。そして恐れを抱いた人たちは皆、悔い改めの洗礼を受け、キリストの許しへと立ち返った。

一度は逃げたペトロでした。しかし、キリストが復活なさったのち、自分の命をかけて、キリストの復活を証言し続けました。自分の罪を知った者、そしてその罪が許されたことを知った者は、その罪を担ってくださった方のことを証言する者へと変えられるのです。そしてその証言が、また新たな証言者を生みだしていきます。

結び

人となられた神が自分たちの目の前にいらっしゃり、「私はやがて神の座に着き、天の雲に囲まれて来るだろう」とおっしゃったのを聞いても、祭司長や律法学者たちは、信じなかった。罪によって信仰の目が曇っていたからだ。

キリストの十字架は、復活へとつながっていきます。私たちには、罪びとでありながら、神の元へと立ち返る道が拓かれた。主の復活で、雲が払われたのです。

私たちの一生は、イエス・キリストの後を追い、離れていた神の元へ立ち返る旅です。 Continue reading

1月23日の説教要旨

マルコ福音書14:53~65

「しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった」(14:61)

「2000年前に生きて、十字架で殺され、そして墓からよみがえったと言われているイエスという人は一体何者だったのか」・・・これは、どの時代にも人類に投げかけられてきた問いです。

ある人は、「イエスは人類に道徳と愛の模範を示した人だった」、と言います。ある人は、「イエスは、ローマへの反乱を主導したユダヤの民衆のリーダーだった」と言います。

当時のガリラヤの民衆は主イエスのことを「預言者」として見ていました。また、当時のエルサレムの最高法院の人たちは、神殿で我が物顔に振る舞い、勝手に神の国の教えを語る厄介者として見ていました。そして弟子達は主イエスのことをメシアだと見ていました。

主イエスは弟子達だけに「私はエルサレムで殺されることになっている。そして三日目に復活する」と前もっておっしゃっていました。聖書は、この方を、神の愛の律法を完成させた神の子、メシアだと言います。御自分の命を犠牲にして、天の国に用意されている永遠の命をお示しくださった方として私たちに伝えているのです。

私たちはついに、イエス・キリストが御自分がメシアであることを公に宣言なさった場面を読みました。大祭司の屋敷へと連行され、最高法院の人たちが全員集まっているところで「お前は一体何者か」と問われ、ついに、その場で公にご自分が何者であるのかを宣言されたのです。

「お前はほむべき方の子、メシアなのか」ときかれ、主イエスは「そうです」とお答えになりました。それだけでなく、「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」とまでおっしゃいました。

祭司長たちは、この一言で主イエスを有罪とします。神を自称して、神を冒涜した罪で死罪としました。いよいよ、イエス・キリストは十字架へと送られていくことになります。御自分が救おうとなさっている罪びとたちによって十字架へと上げられていく主イエスのお姿をしっかりと見つめていきましょう。

これは主イエスにとって不公平な裁判でした。夜中に逮捕され、そのまま大祭司の屋敷という個人の家に連れていかれ、そこに最高法院の全員がすでに集まって待ち受けていました。時間も場所も、手続きも、めちゃくちゃです。そこに集まった最高法院の人たちは、主イエスが有罪か無罪かを判断するためではなく、死刑にするために集まっていたのです。もう判決は決まっていました。そのために、偽の証言をする人たちまで前もって雇われていました。

裁判の中で何人もの人が、証人として発言します。「イエスは自分で神殿を壊し、新しい神殿を建てると言った」。

実際には主イエスはそんなことをおっしゃっていません。神殿の立派さに感動していた弟子達に「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とおっしゃっただけです。

おそらく、この時の言葉を聞いたユダが、「イエスは神殿についてこんなことを言っていた」と、祭司長たちに事前に伝えていたのでしょう。それが曲げられた形で証言されています。

主イエスは、本当であれば、「私はそんなことを言っていない」と言い返すこともお出来になったのに、黙っていらっしゃいました。大祭司自身が不審に思って主イエスに尋ねます。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」。しかしそれでも、イエスは黙り続けて何もお答えにならなかった、と記されています。

弟子のペトロは、この時のキリストの沈黙についてのちに手紙の中でこう書いています。キリストは「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。」

預言者イザヤは、イザヤ書53:7で神の救いの御業のために自分を犠牲にする苦難の僕について預言しています。

「彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように。毛を切るものの前にものを言わない羊のように、彼は口を開かなかった」

ペトロは預言者イザヤが預言していた苦難の僕の姿をイエス・キリストの沈黙に見出したのです。手紙の中で「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」、とそのイザヤの言葉を引用しています。

主イエスは偽の証言に対して、申し開きすることはいくらでもお出来になったはずです。しかし、ご自分を十字架へと追い立てるこの罪びとたちを救うために、黙ってすべてを甘んじてお受けになったのです。

このキリストの沈黙を通して、神の大きな救いの御業が実現しようとしています。証言した人たちは「この男が『私は人間の手で作ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で作らない別の神殿を建てて見せる』というのを、私たちは聞きました」と言いました。

これは偽の証言だったので、結局彼らの証言は食い違ったものになりましたが、皮肉にも、この人たちの言葉は現実のものとなっていくことになります。

「人間の手で作った神殿は壊れる」・・・確かにそうなりました。

「人間の手で作らない別の神殿が建てられていく」・・・これも後に実現しました。

私たちは、人の手によって作られたものが必ず壊れるということを知っています。どんなに人間の技術の粋を集めた建築物でも、どんなに立派な神殿であっても、それは結局は「人の手によるもの」なのです。

建築物だけではありません。国もそうです。人間が作り上げた国も、永遠には続きません。人間の支配の華々しさは一瞬です。空しいものです。

旧約の時代にイスラエルを苦しめたアッシリアも、バビロンも、ペルシャもローマも、すべて滅んでしまいました。あれだけ繁栄を誇り、強かった国々が、わずか100年、200年で消えていったのです。どんなに国境を広げようが、他国の人を奴隷にしようが、強い武器を持とうが、人間の支配は時間がたてば消えていきます。

残るのは何か・・・それは「人の手によらないもの」です。言葉を変えると、神の手・言葉によるものが残るのです。

ソロモンがエルサレム神殿を建てたとき、神はおっしゃいました。

「もしあなたたちとその子孫が私に背を向けて離れ去り、私が授けた戒めと掟を守らず、他の神々のもとに行って仕え、それにひれ伏すなら、私は与えた土地からイスラエルを断ち、私の名のために聖別した神殿も私の前から捨て去る。こうしてイスラエルは諸国民の中で物笑いと嘲りの的となる。」

この神の言葉は本当に実現してしまいました。不信仰に陥ったイスラエルは、バビロンに滅ぼされ、神殿も破壊されてしまうことになりました。

神の子イエス・キリストを裁いたイスラエルは、キリストの裁判から40年後にローマ軍によってエルサレム神殿を破壊されることになります。

人の手によるものは、壊れるのです。神を捨てると、神殿は壊れるのです。

イエス・キリストは、人の手によらないものをこの世にもたらしてくださいました。パウロはコリント教会に向けてこう書いている。

「我々は神のために力を合わせて働く者であり、あなた方は神の畑、神の建物なのです。・・・あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。・・・あなた方はその神殿なのです。」

キリストは、私たちを建ててくださいました。私たちキリスト教会が神の神殿なのです。ここは霊の神殿です。ここには聖霊による神の支配があります。そしてここには神が導き入れてくださる永遠の命があるのです。

ヘブライ人への手紙9:11にこう記されています。

「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で作られたのではなく、すなわち、この世のものではない、さらに大きく、さらに完全な幕屋を通り、雄ヤギと牡牛の血によらないで、ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

キリストは、我々罪びとが流すはずだった血を、ご自身が引き受け、十字架の上で全身の血を流してくださいました。キリストを十字架へと追いやった我々の代わりに、です。説明のつかない、許しの御業です。

キリストは、そのような仕方で人の手によらない、神の御手による霊の神殿をこの世にお建てになったのです。

今、我々は、聖書を通してイエス・キリストの十字架への歩みを見ています。 Continue reading

1月9日の説教要旨

マルコ福音書14:43~52

「ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、『先生』と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。」(14:45~46)

ゲツセマネの祈りを終えた後、イエス・キリストは弟子の一人ユダに率いられた群衆によって逮捕されました。私たちは、これからイエス・キリストがイザヤが預言した「苦難の僕」として、夜通し痛みを与えられ苦しんでいかれるお姿を見ていくことになります。

ユダが剣や棒をもった「群衆」を手引きして来ました。この「群衆」というのがユダヤ人兵士なのか、神殿の警備をしていた警察のような人たちなのか、細かいことは書かれていません。ただ、ここで分かっているのは、この「群衆」は、祭司長や律法学者、長老といった、ユダヤの最高法院によって遣わされた人たちだった、ということです。

過ぎ越しの食事を終えて弟子達がゲツセマネに向かい、主イエスが祈っていらっしゃる間に、ユダは他の弟子達から離れて、逮捕の一団を呼びにやったようです。そして自分でその一団を率いてきました。ユダはすでに、最高法院の人たちとの取引を終えていたので、この時、懐には祭司長たちから与えられた銀貨が入っていたでしょう。

主イエスは何日も神殿にいてたくさんの人に神の国の教えを話してこられたのですから、その顔を知っている人たちは大勢いたでしょう。それでもユダは、念には念を入れて、暗闇の中で逮捕する相手を間違えないように、「私が口づけして挨拶するのがイエスだ」と打ち合わせをしてやってきました。「接吻」とは頬と頬をあわせる、親愛を示す挨拶です。これが、ユダの裏切りの合図でした。皮肉にも、ユダは主イエスへの愛情を示し仕方で、裏切ったのです。

私たちはここに神に対する人間の罪を見ます。このキリストに対するユダの姿は、神に背き続ける歴史を作ってきたイスラエルそのものではないでしょうか。イスラエルの歴史は、神の恵みに喜び、すぐに誘惑に負けて神を離れ、その先で苦しみ、再び神に許していただく、ということの繰り返しでした。

神に対して面と向かっては、いい顔をするのです。しかし、神に向かって親愛の情を示しながら、わずかな地上の富、一時の地上の快楽・安心を求めて、心が離れてってしまう・・・それこそ、イスラエルの不信仰の歴史です。

主イエスはユダの口づけがどのような意味をもっているのか、全てご存じでした。それでも、ここでユダを叱ることもせず、拒絶することもせず、黙って彼がすることに身をゆだねていらっしゃいます。

神は、預言者イザヤの口をとおしておっしゃいました。

「地の果てのすべての人々よ、私をあおいで、救いを得よ。私は神、ほかにはいない。私は自分にかけて誓う。私の口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない」(45:22)

神は、地の果てのすべての人々に向かって、全世界のすべての人間に向かって、「私のところに戻ってきなさい」と招かれます。本当は、ユダだって、招かれているのです。

しかしユダは目の前に神の招きを見ながら、口づけをもって神に背を向けました。罪の力の働きが、ここにあります。そして、キリストは苦難の僕として全てをご存じの上でユダの罪の業を受け入れられました。神の愛の招きがここにあります。

主イエスはユダと、武装した群衆を相手に、最後まで無抵抗で通されました。近くにいた人が、主イエスを守ろうとして剣を手に取って逮捕の一団に襲い掛かります。ご自分の目の前で争う人たちに向かって主イエスはおっしゃいました。

「まるで強盗にでも向かうように、剣や棍棒を持ってとらえに来たのか。私は毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちは私を捕えなかった」

ここで争う必要はないのだ。

主イエスを捕えようとする人と、主イエスを守ろうとする人、どちらに正義があるのでしょうか。

真夜中に武装した群衆が一人の人を捕えに来る、ということ、それ自体が異常なことでした。正当な理由があれば、白昼であっても、そこに群衆がいても、逮捕の理由を堂々と告げてからとらえることができるはずでした。この行動の中にすでに、最高法院の人たちが抱えている疾しさが表れています。自らの罪に目を向けるよう主イエスは促されました。

主イエスは無抵抗でした。ただ一言、ご自分の無抵抗の理由をこうおっしゃいました。

「これは、聖書の言葉が実現するためである」

祭司長たちはなぜ主イエスを逮捕したのでしょうか。それは、ナザレのイエスが、自分たちの律法の理解と違うことを民衆に教えていたからです。祭司長たちは、神の言葉である律法を正しく守るためにナザレのイエスを排除しなければならないという自分たちの正義のために、このようなことをしました。

しかし、神はこの夜の主イエスの逮捕をどうご覧になっていたでしょうか。

イザヤ書にこう記されています。

「彼が担ったのは私たちの病。彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と」

主イエスを捕えに来た群衆、ユダ、祭司長や律法学者たちは、自分たちに正義があると信じていました。「自分たちは神のために自分たちは働いている、自分たちは正義だ」と思っていました。

しかし、イザヤの預言を通して、この主イエスが逮捕されるお姿を見ると、御自分を捕えに来たすべての人たちの罪の病を自ら背負っていらっしゃる苦難の僕であることが見えてきます。

ここで主イエスがおっしゃった、「聖書の言葉が実現するため」とは、聖書の中の、どの言葉のことなのでしょうか。主イエスがついさっき弟子達におっしゃったゼカリア預言の言葉です。

「私は羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」

そのゼカリアの預言通り、「弟子達は皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とあります。主イエスにとって、ご自分が捕らわれること、そして弟子達全員から見捨てられることは驚きではありませんでした。それが神の御心だったのです。それも苦難の僕として与えられることになっていた痛みでした。むしろ、主イエスはこの瞬間のために祈りながら備えて来られたのです。主イエスはゲツセマネで「御心が行われますように」と祈られました。それは、「必要な痛みを全て受け入れます」ということだったのです。

さて、ユダの口づけによって逮捕され、弟子達全員に見捨てられた後に、一人の若者が必死にその場から逃げ去ったことが記されています。

不思議な記述です。いったい誰なのか、なぜこの人がその場から逃げ出したのかも記されていません。12弟子の一人なのかどうかさえもわかりません。

ただ、聖書は「一人の若者が裸になってまで必死に、無様に逃げた」、ということを短く記しています。この人が一体何者なのか、ということは推測するしかありません。

イエス・キリストに従って来た人でしょう。若者は「素肌に亜麻布をまとっただけの格好をしていた」、とあります。以前、主イエスがガリラヤで弟子達を宣教に遣わされたとき時、こうおっしゃいました。

「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして下着は二枚着てはならない」

主イエスの、「身一つで神の国を宣べ伝えなさい、身一つで私に従いなさい」、という教えをこの若者は、忠実に守っていたようです。ただ、亜麻布を一枚体にまとって従っていた、ということがこの若者の信仰の姿勢をよく表しています。

しかし、このようなまっすぐな信仰を持った人であっても、主イエスが逮捕されるのを見て、たった一枚の持ち物である亜麻布を取られて、裸になってでも逃げだしたのです。

いったいこの人は誰なのでしょうか。この若者は、私たちです。聖書は、「裸でキリストを見捨てて逃げ出したこの若者こそ、あなたの罪の姿だ」と見せつけているのです。

強い決心をもってキリストに従おうとしても、何かがあるとキリストを置いて逃げてしまう・・・キリストを見捨ててその場から逃げ出そうとする弟子達であり、また私たち信仰者のありのままの姿だ。

私たちは主イエスが弟子達におっしゃった言葉を思い出すのではないでしょうか。

「心は燃えても、肉体は弱い」 Continue reading

1月2日の説教要旨

イザヤ書11:1~5

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主イエスの霊がとどまる」(11:1)

インマヌエルと呼ばれるメシアの誕生をイザヤは預言しました。イザヤ書の中にはメシア預言と呼ばれる、救い主の誕生を示す言葉がいくつも記録されています。

イザヤがインマヌエルのメシアの誕生を預言したのは、イスラエルが一番神を信頼していない時・イスラエルが一番神から離れた時でした。

これまでも見てきたように、BC8世紀、イザヤの時代のイスラエルはアッシリアという巨大な帝国の脅威の中で生き延びようともがいていました。王をはじめ、王宮にいる政治家たちは、「ただ神に頼れ」という、イザヤが伝える神の言葉を受け入れず、神ではなくアッシリアにひれ伏すことで生き延びようとしていました。

イスラエルが、どんどん神から離れ、神の支配ではなく、外国の支配、人間の支配を求めて、罪の闇へと深く落ちていった時代です。

神ではなくアッシリアを自分たちの救いとしたユダ王国の指導者たち、国民に向かってイザヤは滅びを預言しました。しかも、自分たちが頼ろうとしているアッシリアによってユダ王国は滅ぼされると言ったのです。

しかし、イザヤの預言は、滅びの預言だけでは終わりませんでした。不信仰による滅びの闇の中にメシアの光が与えられ、再びイスラエルは新しくなって立ち上がることを預言したのです。

ここまで、イザヤは、インマヌエルと呼ばれるメシアの誕生を預言してきましたが、今日読んだ11章で、そのメシアがどのようなメシアなのか、ということをかなり具体的に伝えています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」

エッサイというのは、ダビデの父親の名前です。つまり、ダビデの子孫からメシアが生まれる、ということです。

3節にはこうあります。

「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。」

やがて来るメシアは目と耳を頼りにして裁きを行う方ではない、と言うのです。普通は目と耳で人を裁きます。見えるものだけ、聞こえるものだけで判断するのが人間です。

神がダビデを召し出された時、こうおっしゃいました。

「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」

神は、目と耳ではなく、心によってご覧になるとおっしゃっています。やがてこの世に生まれるメシアも、「目に映ること」ではなく「心によって見る」方なのです。人の支配を超えた「神の支配」によって世を治められる方として言われています。

4節を見ると「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」とあります。普通、王というのは一番の特権階級です。王は、自分の強さの下に人々を置いて支配する、と考えられています。

しかし、やがて来られるメシアは、王であることを自分の特権としてとらえず、最も弱い人たちのために働く僕として人々に仕える方であるとイザヤは言います。そのようにして、正義によって支配してくださり、平和を実現させる方なのです。

上から押さえつけて支配するのではなく、御自分が人々の足元から支えるメシア・・・その方の支配は、人間の支配とは決定的に異なっています。

私たちは、2000年前にベツレヘムにお生まれになり、ゴルゴタの丘で十字架刑に処せられたイエスという方こそ、イザヤが預言したメシアだと信じています。イザヤの預言と、新約聖書に記されているキリスト証言を照らし合わせてみると、まさにこの方がインマヌエルの君、メシアであることがわかります。

主イエスはヨセフというダビデの系図に連なる人を父とし、この世にお生まれになりました。文字通り、人々から「ダビデの子」と呼ばれ、神の国の福音を伝え、神への立ち返りをお求めになりました。この方は「私が来たのは、罪びとを招くためである」とおっしゃった。

イエス・キリストがポンテオ・ピラトの前に引き出された時、こうおっしゃっています。

「私の国は、この世には属していない」(ヨハネ18:36)

ピラトは不審に思い、「やはり王なのか」と尋ねます。キリストは、「私は真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聴く」とおっしゃいました。

キリストはこの世の王、地上の王、人間の王となるために来られたのではありません。イザヤが預言したように、この世に神の国をもたらし、神の国の王となるためにお生まれになったのです。神の恵みの支配の中にすべての人を招き入れるために来られました。

主イエスは弟子達にこうおっしゃいました。

「私は羊のために命を捨てる。私には、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聴き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群になる。私は命を、再び受けるために、捨てる」

イエス・キリストは羊のために命を捨てる羊飼い、罪びとのために命を差し出す王でした。イザヤの預言通り、恵みがまず弱い者へと、貧しい者へと向かうのです。そのような支配をもたらすために、キリストは世に来られたのです。

私たちは、この方が、神の恵みの支配をこの世にもたらすために、よい羊飼いとして羊を守るためにどれほど戦われた、ということを覚えたいと思います。

イザヤは2節でこう言っています。

「そのうえに主の霊が留まる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、種を知り、恐れ敬う霊。彼は主を恐れ敬う霊に満たされる」

この言葉通り、イエス・キリストは神を恐れる方でした。イエス・キリストのゲツセマネの祈りにそのことが一番明らかに表れているでしょう。キリストは血のような汗を流しながら「私から苦難の杯を取り除けてください」と祈られました。そして、「しかし私の願いではなく、あなたの御心のままに」とおっしゃいました。

罪人の犠牲となるために自分の命を捧げることができるよう、キリストは祈りの戦いをされたのです。神の救いのご計画・神の御心に対する恐れがあったからこそ、キリストはゲツセマネから逃げ出さずに、祈りをもって留まってくださいました。

イエス・キリストは救い主と呼ばれています。「救い」とは何でしょうか。罪の支配から導き出され、神の支配へと入れられることです。もっと簡単に言えば、「迷い出た羊が、羊飼いの元に連れ戻されること」です。そこに安心があります。

イザヤは、神から離れた闇にいる人たちを連れ戻すために、メシアが言葉を用いられる、ということを預言しています。

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「その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる」 Continue reading

12月26日の説教要旨

イザヤ書8:16~9:6

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」(9:5)

クリスマスを迎え、私たちは救い主・イエス・キリストがこの世界にお生まれになったことを共に礼拝の中で祝いました。「救い主がお生まれになった」、ということを祝い喜んでいますが、それではあらためて、「救い」とは何なのでしょうか。私たちがこの方によって「救われた」、というのはどういうことなのでしょうか。

イエス・キリストという救い主は、私たちを何から救い出してくださったのか、そしてどのように救い出してくださったのか、それを知らなければクリスマスの本当の喜びは分からないでしょう。

多くの人は、「自分は誰かに救われなければならないような危機的な状況にはない」、と言います。聖書が言っている「罪からの救い」について聞いても、「自分は罪人呼ばわりされるようなことはしていない」と言います。

しかし、聖書が私たちに伝えている「罪」とは、「神から離れて生きていること」であることを知ると、誰も罪とは無関係だとは言えなくなるでしょう。「神など必要ない、救いなど必要ない、キリストなど知らなくてもいい」と言っている人こそ、実は聖書が伝えている罪の闇は深いのです。

この世にお生まれになった救い主、メシアはどのように「神から離れた暗闇」から私たちを解放してくださったのか、今日もイザヤ書の言葉を見ていきたいと思います。

BC8世紀のイザヤの時代のユダ王国は揺れていました。アッシリアや、周辺諸国の圧力の中でどう生き延びるか、ということに汲々としていました。ユダ王国の王、アハズは結局アッシリアの支配に入ることにします。イザヤはそれに対して「人ではなく神に頼れ。静かにしていなさい」と伝えました。しかし、外国の圧力の前に静かにしていることなんてできないアハズ王は、イザヤが伝える言葉を聞きませんでした。

神は、ご自分の言葉をイスラエルに伝えようと預言者を送って来られました。

18節でイザヤはこう言います。

「見よ、わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である」

実は、イザヤとイザヤの二人の息子たちがユダ王国に送られた、ということ自体が、神がユダ王国に示された救いのしるしだった、というのです。

「イザヤ」は、「神は救い」、という意味の名前です。

イザヤの長男の「シュアル・ヤシュブ」は、「残りの者は帰ってくる」という意味の名前です。

次男の「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」は「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」という意味の名前です。

この親子の名前そのものが、イスラエルに示された神のメッセージでした。「神を自分の救い」とする限り、「生き残ることができる」が、そうしないのであれば「侵略されてしまう」、ということが、イザヤ親子の名前を通してユダ王国に象徴的に示されていたのです。

しかし、ユダ王国の人たちは、イザヤと二人の息子たちの姿や名前には目を向けず、イザヤが語る言葉に従うこともありませんでした。

ただ、周辺諸国の軍隊とアッシリアの強さにだけ心が向き、神以外のところに救いを求めていたのです。

8:16でイザヤは「私は弟子達と共に証の書を守り、教えを封じておこう」と言います。聞く耳を持たないのであれば、語る言葉を聞かせない、ということです。神の言葉を語ることをやめ、教えを記録の中だけに封じ込めたのです。

そして、これからユダの人たちがどうなるか・何に苦しむか、ということを預言した。

「この地で、彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。」

かなり厳しい口調です。神の言葉を聞かなかった人たちは、神の言葉が聞こえなくなる、そして今度は、神の言葉を聞こうとしても与えられなくなる、と言うのです。

イザヤと同じ時期に北王国で預言活動していたアモスも同じようなことを言っています。

「見よ、その日が来れば、と主なる神は言われる。私は大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へとめぐり、北から東へとよろめき歩いて主の言葉を探し求めるが見出すことはできない」

神の言葉を聞こうとしない人には、神の言葉が与えられなくなるという苦しみが待っている、と預言者たちは言います。イザヤは「今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」とまで言っています。

さて、8:23まで読むと、神の招きに背を向けたイスラエルはもう終わりだ、神に見捨てられた、と思うのではないでしょうか。もう神を見出すことはない、神の言葉が与えられることのない闇の世界になるのか、と思えます。

しかし、イザヤがこれらの滅びの言葉の後に、神はそれでも裏切りのイスラエルを追いかけてくださる、ということを預言しています。

「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、のちには海沿いの町、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」

イザヤは暗闇の中に光が差し込む救いの預言を語り始めるのです。

確かに、イザヤが言ったように、神の言葉に耳を貸さなかったユダ王国は、皮肉にも自分たちが助けを求めたアッシリアの軍隊に国を蹂躙されることになります。アッシリアの軍隊は北からやってきて、海沿いの町々を薙ぎ払っていきます。ここに出てくる「ゼブルン」や「ナフタリ」というのは、北の国境の土地です。つまり、北からからやってくる軍隊に一番先に侵略される場所です。それらの土地は、アッシリアの軍隊による破壊によって暗闇となりました。

しかし、イザヤはそれらの場所こそのちに「栄光を受ける」と預言する。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住む者の上に、光が輝いた」

イザヤは、罪による滅びが与えられた一番闇の深い場所に神の栄光の光がもう一度差し込まれることを預言するのだ。そして9章に入り、それらの場所を踏みにじった軍隊が、今度は滅ぼされることをほのめかします。

神に背を向けたイスラエルは、神に見捨てられて終わり、というのではありませんでした。罪の闇に栄光の光が与えられる、とイザヤは預言するのです。その光とは、一人の男の子の誕生でした。。

「ひとりの嬰児が私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。権威が彼の方にある。その名は、『驚くべき指導者、地からある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」

罪の中に差し込む救いの光、それは、メシアの誕生でした。神の言葉を聞こうとしても聞くことができない飢え渇き、主の言葉を聞くことができない苦しみから救い出してくださるメシアがお生まれになる、という救いの預言です。

聖書は、2,000年前にガリラヤで神の国の福音の宣教を始めたイエスという方にこのイザヤのメシア預言の実現を見ています。ヨハネ福音書は、このイエスという方こそ、神の言葉であった、ということを証します。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった・・・光は暗闇の中で輝いている。・・・言は肉となって、私たちの間に宿られた。「

イエス・キリストは神の言葉に飢え乾く暗闇の中に与えられた神の言葉そのもの・命の光だったのです。 Continue reading

12月19日の説教要旨

ルカ福音書2:8~21

「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」

私たちは普段、この世界がどうしてできたのか、この世界にどんな意味があるのか、ということを考えず、自分が置かれている日常を過ごしていると思います。これは、何も、聖書を知らない人たちだけのことではありません。聖書を読み、キリストを信じるクリスチャンでも、普段は考えることをせず、そのようなことは忘れて過ごしているではないでしょうか。

もちろんそれは、自分たちの日常が平穏である、ということであって、何も悪いことではありません。しかし、この世界がどこに向かっているのか、また、この世界に自分という命が生きていることの不思議を嫌でも考えさせられる時が与えられることがあります。もっと、単純な言葉で言うと、「立ち止まる時」を与えられることがあります。クリスマスは、まさにそのような時でしょう。

なぜ世界中で「救い主がお生まれになった」ということを祝い、インマヌエル・「神我らと共にあり」というということを喜ぶのか・・・人間はなぜ、イエス・キリストという方の誕生を2千年も記憶してきたのか・・・なぜこの方が世にお生まれになったことを忘れてはいけないのか・・・。私たちには、忘れてはならないことがあるのです。

イエス・キリストを通して知らなければならないこと、忘れてはならないものがあります。それは、神を知り、神を思い、神を求めて生きる道です。今こうして私たちがクリスマス礼拝を捧げることができているということがどれほど大きな恵みであるのか、かみしめつつ聖書の言葉を見ていきましょう。

聖書は、この世界が神によって造られ、私たち人間の命も神によって造られたことを記しています。そして、人間がそのことをすぐに忘れてしまう、ということも書いています

ご自分がなさろうとすること、ご自分のご計画を人間が気付かなかったり、誤解したりすることのないように、神はいつでもご自分がなさろうとすることを前もって知らせてくださいます。

キリストがお生まれになる前の、旧約の時代には預言者が送られました。預言者たちは、救い主・メシアの誕生を預言してきました。すべての人を神の元へと連れ戻す、イスラエルの羊飼いが生まれる、という預言です。

そして今から2000年前、ベツレヘムという小さな町のはずれで、夜、羊の番をしていた羊飼いたちに、天使が神の言葉が告げられました。預言者たちがその誕生を預言していたメシアが、ベツレヘムの家畜小屋の中でお生まれになった、という言葉が与えられたのです。

その時のことを記しているのが、今日私たちが読んだところです。羊飼いたちの周りを、神の栄光の光が照らしました。それは、大きな光ではありませんでした。全世界を照らしたとか、その地域全体を照らしたとかいうものではなく、それは数人の羊飼いたちの周りだけを照らし、数人の羊飼いたちだけに示された小さな光でした。

私たちはまずこのことを不思議に思うのではないでしょうか。神のご計画というのは、いつもこのようにわずかな人にだけ知らされるのです。預言者が一人選ばれ神の言葉を伝えたように、キリストの誕生はこの夜、数人の羊飼いたちだけに知らされました。

神がこの世界にお与えになったこの小さな光は、やがて羊飼いを通して、キリストの弟子達を通して、教会を通して、全世界へと広がっていくことになります。

天使は言いました。

「恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」

羊飼いたちは、ほんの一分前まで、自分たちに天使から言葉が告げられるなどとは考えてもいませんでした。メシアの誕生を知ることになるなどとは思ってもいなかったのです。

神の言葉を聞いた人は、その人生が変えられます。一瞬にして変えられます。聖書には、神の言葉を聞かされた人がたくさん出てきますが、どの人も、神の言葉を聞くことでその後の人生が変えられています。誰一人として、神の言葉を聞いて、何も人生が変わらなかった、という人はいません。神の言葉を聞く前には考えもしなかった人生を生き始めます。

この羊飼いたちもそうでした。彼らはメシアの誕生を確かめるべく、羊をおいてイエス・キリストがお生まれになった場所を探しに出かけました。そして、自分たちに告げられた言葉が本当であることを知ります。彼らは主イエスの母マリアと父ヨセフに、自分たちがどのようにしてメシアの誕生を知り、探し当てたのか、ということを全て話しました。

そして羊飼いたちは羊たちの元へと帰っていきました。羊飼いたちは、「讃美して帰っていった」、とあります。天使たちが羊飼いたちにメシアの誕生を告げたとき、天の軍勢の讃美の声を聴きましたが、その天の軍勢の讃美が、そのまま羊飼いたちの讃美となりました。

羊飼いたちはまた羊のところへと戻りました。恐らく、その後も同じように羊の群れの番をする生活を続けたのでしょう。しかし、その生活は、キリストの誕生を知る前と後では全く違ったものになったでしょう。

キリストを知らなかった生活からキリストを知った生活へと変わったのです。彼らは、この日を境にキリストの証人としての歩みを始めることになりました。毎日生活の中でやることは何一つ変わらなかったかもしれません。しかしキリストを知る者としての人生を、この日を境に生きることになったのです。それは、讃美の生活であり、祈りの生活です。神が自分たちにメシアの誕生を教えてくださった、神は自分たちと共にいてくださる、ということを知った人生になりました。

ここに、クリスマスの喜びがあります。キリストが世に来られた、という喜びに加えて、キリストが世に来られたことを神が私たちに教えてくださった、告げてくださった、ということです。

私たちの知らないところで御子はお生まれになったのではありません。神は確かに、ご自分の救いのご計画を進めていらっしゃることを世にお示しになりました。私たちにとって、神は、どこかで何かをなさっている神ではないのです。神の方から私たちに近づき、私たちにご自分の御心を示してくださる、そのような神です。

神の御声を聞いた時、私たちの人生の意味は大きく変わります。昨日までの自分とは違う自分になっています。イエス・キリストの証人とされるのです。

主イエスの母マリアは、羊飼いたちが、自分たちを探してやってきたことに驚いきました。これまで、マリアには不思議なことが立て続けに起こっていたのです。「あなたは赤ちゃんを産む」と天使から告げられ、聖霊によって身ごもりました。そしてベツレヘムの家畜小屋の中で赤ちゃんを産むと、羊飼いたちがやってきて、「天使からここにメシアが生まれた、と聞きました」と言われます。自分の身に起こる不思議な出来事をマリアは理解できずにいました。

しかし、聖書は、マリアがその不思議な出来事を「心にとめて思いをめぐらした」、と書いている。自分に次々と起こる不思議について考えても、マリア一人では意味が分かるものではありませんでした。それでもマリアは「自分に起こっていることは何なのだろう、神がご計画なさっているのは何だろう」と、思いを秘め、その思いを巡らしていた、というのです。

今日、私たちは、讃美の声を上げながら、キリストの証人としての新しい道を歩み始めた羊飼いたちの姿と、自分に起こることの不思議を自分の中で静かに思いめぐらせるマリアの姿を心に留めたいと思います。

クリスマスは皆でお祝いする喜びがあります。教会で皆で讃美歌を歌い、聖書の言葉を分かちあうような喜びです。

そして、もう一つ、キリストがお生まれになったことで自分一人だけに静かに与えられた喜びもあるのです。クリスマスの、自分だけにわかる喜びが、それぞれにあるはずです。

羊飼いたちのように、皆と一緒に、そしてマリアのように、自分の心の内でキリストのご降誕の喜びをかみしめたいと思います。昔、羊飼いを照らした小さな光は今、全世界へと広がりました。マリアが思い巡らした不思議は、聖書に明らかに記され、私たちに与えられました。

神は、私たちを迎えに、ここまで来てくださいました。今、神と共に生きる命へと招かれています。

12月12日の説教要旨

イザヤ書8:9~15

「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主」(8:13)

アドベントに入ってから、イザヤ書を通して、「インマヌエル」と呼ばれる方の誕生の預言を見ています。その名前の通り、「神我らと共にあり」ということを、ご自身の存在を通して教えてくださるメシアのことです。インマヌエルと呼ばれるメシアがお生まれになったことを、我々はクリスマスと呼び、お祝いをしています。

今日も、イザヤ書の言葉を通してインマヌエルの恵みを感じていきたいと思います。

紀元前8世紀、アハズ王をはじめとするユダ王国の政治をつかさどる人たちは、周辺諸国の軍隊が攻めてくると聞いてアッシリア帝国に助けてもらおうとしました。神から遣わされた預言者イザヤは、その人たちに「静かにしていなさい。ただ神に頼りなさい」と告げます。しかし、その言葉は王宮の人たちには受け入れられませんでした。

イザヤは、「神を頼らずアッシリアに頼る道を選んだユダ王国が、これからアッシリアによって蹂躙されることになる」、という裁きの預言を残しました。

それが、これまで我々が読んできた内容です。

今日我々が読んだ9節から、イザヤの口調ががらりと変わります。ここまでは神に背を向けたユダ王国に対する滅びの預言でしたが、ここから、イスラエルを攻めようとする敵に向かって語り始めるのです。

「諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ」

イザヤはユダを攻めようとする諸国に向かって、「おののけ」と挑戦的な言葉を叫びます。

皆、アラムと北イスラエル王国が攻めてきたことでパニックになり、アッシリアの強さに恐れている中で、イザヤだけが自信をもっていました。ユダのような小さな国の民の一人にしか過ぎないイザヤなのに、「来るなら来い。武装して、戦略を練って攻めて来るがいい」と言うのです。

ユダ王国に軍事的な秘策があるから自信をもっているのではありません。「神が私たちと共にいらっしゃるからだ」と言います。それが理由です。それだけが理由です。ほかに理由はありません。

どんなに相手が強く、武装して戦略を練ってかかってきても、神が共にいてくださるのだから勝つ、と言うのです。実際の歴史ではその後どうなったでしょうか。ユダ王国を武力で脅してきたラムと北イスラエルは、アッシリアに滅ぼされてしまいます。その後、ユダ王国はアッシリアに国を蹂躙されます。アッシリアは、ユダの町々を滅ぼし、エルサレムまで来て都を包囲したが、エルサレムを攻め落とすことはなく、引き揚げていくことになります。そして、その10年後に、バビロンという国に滅ぼされてしまうのです。

全てイザヤが言ったとおりになりました。

なぜこの時、イザヤはここまで神が共にいてくださることを確信していたのでしょうか。イザヤ自身が、インマヌエルという事実を体験して知っていたからです。若い日に預言者として召された時、彼は神殿の中で実際に神の声を聴きました。て神ご自身が、イザヤに「行け、預言せよ」とおっしゃったのです。

イザヤが伝えた言葉は、イザヤ自身の言葉ではなく、神の言葉でした。イザヤははただ、「神はこうおっしゃっている」と伝えました。

イザヤは自分自身に自信があったのではありません。自分の時代を見抜く、物事を分析する力をイザヤが持っていた、ということではありません。神の「私はあなたがたと共に居る」というインマヌエルの御心を知っていたからです。

我々はどのように神を知るのでしょうか。旧約時代のイスラエルは預言者の言葉を通して神の御心を知らされました。

預言者の言葉に耳を傾けなかったイスラエルは何度、「預言者の言葉は本当だった」「神は私達と共にいらっしゃる、インマヌエルという言葉は真理だ」と、思い知らされたでしょうか。

イスラエルはその歴史の中で、時代に翻弄され沈みそうになる中で、神からの救いの御業を与えられてきました。そのたびに、インマヌエルの恵みを目撃し、体験してきました。そしてその体験を聖書の中に記録して、後世にまで伝えて来ました。

私たちは頑張って、神にたどり着き、神を知るのではありません。すでに私たちが聞くべき言葉は前もって与えられています。聖書が与えられ、生きた神の言葉であるイエス・キリストが世に来てくださいました。

しかし私たちは見ようとしないのです。聞こうとしないのです。自分に見えているもの、自分が聞きたいと思うものだけに向かってしまいます。イスラエルの過ちを私たちは何度も繰り返してしまいます。

人は、神から離れて生きる、ということに耐えられるほど強くはありません。聖なる存在を知らずに生きていけるほど強くはないのです。人はインマヌエルを心の底ではいつも求めています。

自分が神から離れた闇の中にいることに気づいたとき、それまで聞こえなかった神の招きの声が聞こえてきます。神はいつでも、聖書を通してご自分の元へと続く道を私たちに示してくださっているのです。

攻めて来る諸外国の同盟を「恐れるな」、とユダの国民にイザヤは伝えています。

「あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。」

ユダの王、アハズや、王宮の政治家たちは、ユダ王国はアッシリアに頼ることが救いだ、と思っていました。しかし、イザヤは「違う」と言います。

「万軍の主のみ、聖なる方とせよ。あなたたちが恐るべき方は主。御前におののくべき方は主」

神のみを恐れなさい、と言います。ユダを攻める諸外国や、アッシリアを恐れるのではありません。ただ恐れるべきは、神お一人だ、と伝えます。

イスラエルがなすべきことは一つなのです。「神を聖なる方」とすることです。この「聖なる」というのは、「区別された」という意味の言葉です。神を、他の何からも特別に区別して、何よりも誰よりも大切にする、ということです。

私たちは、イエス・キリストから「主の祈り」と呼ばれる祈りの言葉をいただいています。はじめの言葉が、「願わくは、御名を崇めさせ給え」という祈りです。それは、「あなたのお名前が聖なるものとされますように。聖いものとして区別されますように」という意味の祈りの言葉なのです。

これこそが、聖書が全体を通して我々に伝えていることであり、私たちが信仰生活の中で一生かけて求めていくことであり、そしてそれが、インマヌエルということの意味です。

神を聖とするかしないか、ということが、私たちにとっての信仰の分かれ道となります。神を聖とする者に、神は平和と逃げ道を下さいます。しかし、自分の生活の中に神を迎え入れる余地のない者は、イザヤが言うように、魔術や偶像に走り、さらなる暗闇と絶望へと向かってしまいます。

誤った道に行こうとするイスラエルに、神はいつでも、前もって預言者を送り、道を正そうとされました。それでも誤った道を進み続けるイスラエルに、今度は神ご自身が「つまずきの石」「罠」となって、ユダの道の軌道を修正される、とおっしゃいます。

歴史の中で苦しいことがあると、人は目に見えるわかりやすい救いに向かってしますが、神とイスラエルは共に痛みを担いながら、正しい道へと修正していくのです。

信仰者と神が共に歩むことを妨げる力がこの世にあります。聖書はそれを「罪」と呼んでいます。「神よりも、こちらの方が頼りになるではないか」、という誘惑の声は、我々の信仰の日常の中でも聞こえてくる声ではないでしょうか。

ヨハネ福音書で、キリストはこうおっしゃっている。

「私は羊の門である。・・・私は門である。私を通って入るものは救われる。・・・私は羊のために命を捨てる。・・・こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。私は命を、再び受けるために、捨てる。」

キリストは私たちの歩みをインマヌエルの信仰の道へと導くために痛みを担ってくださいました。私たちのためにある時は「つまずきの石」となってくださり、ある時は「罠」となってまで神と共に生きる道へと連れ戻してくださいました。

このインマヌエルの君こそ、救いに通じる門なのです。

私たちはこの方を、聖なる方として、他の誰とも他の何とも特別に区別して礼拝したいと思います。そこに、何も恐れる必要のないインマヌエルの歩みが実現するのだ。

「よい羊は私の声を聴き分ける」とキリストはおっしゃいます。私たちはこの命の羊飼いのお名前を教えていただき、礼拝することによって、インマヌエルの喜びを知ることができたのです。

12月6日の説教要旨

イザヤ書8:1~8

「主は私に言われた。『大きな羊皮紙を取り、その上にわかりやすい書き方で、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)と書きなさい』と」(8:1)

アドベントに入り、イザヤ書を読んでいます。

紀元前734年、アラムと北イスラエル王国が、南王国ユダに攻撃を仕掛けてきました。アラムと北イスラエル王国は、南ユダ王国を無理やり反アッシリア同盟に加えようとしたのです。

南ユダ王国の王アハズは、結局アッシリアに助けを求めて生き延びようとしました。大国アッシリアの傘下に入るしか弱小国ユダが生きる道はない、と思ったのです。

ユダ王国全体が上から下への騒ぎとなってオロオロしていた王のところに預言者イザヤが来て、神の言葉を告げました。

「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。外国が攻めてきても、心を弱くしてはならない。神を頼りなさい」

アハズ王は預言者が伝える神の言葉を聞き入れませんでした。エルサレムの王宮にいた政治指導者たちは、「敵の軍隊が攻めてきているのに、静かに神に任せていよう、などと悠長なことは言っていられない」と思ったでしょう。

神に頼らず、神に背を向けたユダ王国がこれからどのような道を進むことになるのかをイザヤは預言しました。

「すぐに、アッシリアが攻めてきて滅びを体験することになるだろう」

今日私たちは、イザヤ書の8章を読みました。神への信頼を拒絶したユダへの滅びの預言の続きです。

先週読んだ7章は、アハズ王をはじめ、エルサレムの王宮にいる政治的指導者たちへのイザヤの言葉でしたが、ここは、ユダ王国の民全体に向かって明らかにされた神の言葉となります。

イザヤは神から「大きな羊皮紙にマヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と書くよう命じられました。「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」という意味の言葉です。ユダ王国がこれからたどる運命を暗示しています。そしてその言葉が真実であることをユダ王国全体に示すために、イザヤはウリヤと、ゼカルヤという二人を証人として立てました。

イザヤは、この二人が見ている前で、「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」という言葉を書き、念を入れて「ユダはこれから分捕られ、略奪されることになる」ということを公に示しました。

なぜウリヤとゼカルヤという二人が特別にユダ王国の滅びの証人として選ばれたのでしょうか。

ウリヤはユダ王国の祭司でした。この人は、アッシリア帝国の傘下に入ると決めたアハズ王からの指示を受けて、祭司でありながらエルサレム神殿の中にアッシリアの神の祭壇を作った人です。

そしてゼカルヤは、神ではなくアッシリアを頼ろうと決めたアハズ王の義理の父にあたる人でした。

つまり、この二人は、率先してイスラエルの神に背を向けた人たちだったのです。神はその二人に、自分たちの決断によってユダ王国がどうなってしまうのか、ということを見届けさせようとなさいました。自分たちの罪の結果を見届ける責任を負わされた、ということです。

イザヤは、マヘル・ハラル・ハシュ・バズという滅びの言葉を書くよう神から命じられ、ウリヤとゼカルヤの目の前でそれを書きました。神は更にイザヤにお命じになります。その時期に生まれたイザヤの息子に「マヘル・ハラル・ハシュ・バズ」と名付けるようおっしゃるのです。イザヤは、「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」という意味の名前を自分の息子につけなければなりませんでした。

イザヤは、羊皮紙に書き付ける文字を通して、自分の息子の名前を通してユダの滅びを皆に示さなければならなかったのです。

神は、イザヤに生まれたその子が「お父さん、お母さん」と言えるようになる前に、まずユダ王国を攻めてきたアラムと北イスラエルがアッシリア帝国によって滅ぼされることを示されます。そしてアッシリアの攻撃はそれだけに留まらず、次にユダにまで攻め入ってくることをおっしゃるのだ。

実際の歴史は、その後、どうなったでしょうか。神がイザヤを通して示された通りになりました。確かに、アッシリアはユダを助けてくれました。ユダに向かって軍隊を向けていたアラムと北イスラエルを滅ぼします。しかし、アッシリアはその勢いでユダまで攻め入ってくることになるのです。

結局、ユダは、敵を自分の国へと導き入れたことになります。全て、神がイザヤを通しておっしゃった通りになりました。

私たちは今日、預言者の言うことを無視して神を信頼せず、アッシリアに頼り、アッシリアの神の祭壇を王国内に築いたユダに対して神が何をなさったのかを見ました。

神は、ご自分の民に、はっきりと滅びをお見せになりました。罪の先で待つものをお示しになったのです。預言者が神への裏切りによる滅びを預言し、その滅びは間違いなく起こることを、祭司と、王の義理の父をその証人に立てることまでして、示されました。

私たちは、人間の国・人間の支配がどれほどもろいのか、ということをここに見ます。イスラエルという小さな国がアッシリアとエジプトの間にあり、さらに周辺諸国との小競り合いを繰り返す中でどうやって生き延びてきたのか・・・それは、神への信仰でした。

神に頼ることでイスラエルは生き延びてきたのです。いや、神に生かされてきたのです。イスラエルが神の民である、ということはそういうことです。

イスラエルは、神の支配を求める民として世から召し出されました。そのイスラエルが、神を捨てて、人間の支配を求めたらどうなるか・・・。

神は、前もってそのことを、預言者と通してはっきりとお示しになりました。滅びをお見せになる神は残酷でしょうか。そうではないでしょう。少なくとも、神は預言者を通してイスラエルを滅びから救おうとなさいました。しかし、イスラエルは神の言葉に耳を貸そうとしなかったのです。

イスラエルは、神の前に、「知らなかった」とは言えないのです。必ず神は前もって預言者をお遣わしになり、ご自分の御心を示されるからです。イスラエルが滅びに向かおうとする時、神の支配から迷い出ていこうとする時、必ず前もって預言者をおつかわしになり、「その道に行けばあなたは滅びる。その先にあるのは死である。道を正しなさい。私の元へと戻ってきなさい」と警告なさいます。

人は神の言葉に耳を向けるのが下手です。イスラエルは目に見えるわかりやすい形での助けを求めました。それがアッシリアでした。

やがてユダ王国は、自分たちを助けてくれたアッシリアの軍隊によって国中を侵略され、エルサレムを包囲されてしまうことになります。皮肉なことではないでしょうか。

イスラエルの歴史は、神への裏切りの歴史と言ってもいいでしょう。出エジプトを終えて約束の地に入ったところから、イスラエルは神以外の支配者を求めてきました。外国を見て、「自分たちも、人間の王が欲しい」、と願いました。

神は預言者を通して、「あなたたちは人間の王の奴隷となる。あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。」と前もって警告なさいます。それでも、民は「人間の王を持ち、他のすべての国民と同じようになりたい」と言い張ったのです。

人間の支配はもろいのです。やがてイスラエルは南北に分裂し、北王国は金の子牛の像を作り、それを自分たちの神として民に拝ませるようになります。南王国もやがて堕落し、異教の神々に従いながら、エルサレム神殿でイスラエルの神を礼拝するようになっていきます。

神は、やがて預言者エレミヤを遣わされ、こうおっしゃいます。

「お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで、私の僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。それでも、私に聞き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを固くし、先祖よりも悪い者となった。」

イスラエルは、北王国はアッシリアによって、南王国はバビロニア帝国によって滅ぼされてしまうことになります。

イスラエルの歴史から学びたいと思います。イスラエルは、神以外のものを求め頼ることで、何度も滅びを体験してきました。

パウロは、そのことを、手紙になかでこう書いている。 Continue reading

11月28日の説教要旨

イザヤ書7:1~17

「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。・・・心を弱くしてはならない」(7:4)

アドベントに入りました。今日からクリスマスまで、イエス・キリストがこの世にお生まれになったことに思いをはせる時を過ごすことになります。

クリスマスは、この世に、福音が与えられた・喜びの知らせ届けられた、という出来事です。毎年祝われているクリスマスですが、私達は、クリスマスの本当の喜びとは何なのか、聖書から正しく聴いていきたいと思います。

マタイ福音書を見ると、イエス・キリストがお生まれなる際、父親になるヨセフに天使がこう告げています。

「この子は、自分の民を罪から救う」

この言葉を見ると、「私達を罪から救い出してくださる方がお生まれになった」、というのがクリスマスの喜びだ、とわかります。

それでは、聖書が言っている罪とは何でしょうか。聖書がいう「罪」とは「神から離れた暗闇」のことです。

天使は、主イエスの父ヨセフにさらにこう告げます。

「見よ、おとめが身ごもって音の子の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」

「罪の闇からの救い」、それは「インマヌエル・神が私達と一緒にいてくださる」、という知らせでした。人が神から離れても、神は人を追いかけてくださるのです。

イエス・キリストの誕生はこの世界に与えられたインマヌエルのしるしでした。。

今日は、旧約聖書のイザヤ書を読みました。イザヤ書の中に、インマヌエルと呼ばれる方の誕生が預言されています。イザヤ書の言葉を通して、インマヌエルの喜びを感じていきたいと思います。

イザヤの時代、紀元前8世紀には罪の闇がイスラエルを覆っていました。イスラエル王国は、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、人々の心は神から離れていました。

イザヤは、南ユダ王国の首都エルサレムで預言した人です。この人はもともとはウジヤという王様に仕える祭司でした。ウジヤ王が死んだ時に、イザヤは王に仕える祭司から、神に仕える預言者とされました。紀元前740年のことです。

イザヤの時代、イスラエルは苦境に置かれていました。当時アッシリアという強大な国があり、周辺諸国はその脅威に怯えていたのです。

強大なアッシリアに対抗するために、周辺諸国は反アッシリア同盟を作ろうとしました。その同盟にユダ王国も加わるようにと、隣国の北イスラエル王国とアラムの二つの国が武力をもって脅してきます。

ユダ王国は岐路に立たされました。反アッシリア同盟に加わるか、中立を保つか・・・。

反アッシリア同盟に入る、ということは、アッシリアを敵に回す、ということでした。それは危険なことでした。いくら周辺の小さな国が集まっても、強大なアッシリアにはかなわないのです。しかし、反アッシリア同盟に入らない、ということは、周辺諸国から孤立してしまい、諸国から攻められてしまいます。

結局、ユダ王国のアハズ王が下した決断はアッシリアに助けを求めることでした。強い国に守ってもらうのが一番の安定だと思ったのです。

しかし、アッシリアに守ってもらう、ということは、アッシリアの神に守ってもらう、ということを意味していました。アハズ王が下した決断は、つまり、イスラエルの神からアッシリアの神へと乗り換える、ということだったのです。

そのようなアハズ王のもとに、預言者イザヤがやってきて、神の言葉を伝えました。

「アッシリアではなく、ただ神に頼りなさい」

それが、今日私たちが読んだ場面です。

イザヤは、神の言葉を伝えます。

「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。心を弱くしてはならない。ただ、神に頼りなさい。」

イザヤが伝えたことは単純だった。アッシリアに頼ることでもなく、反アッシリア同盟に加わることでもなく、ただ、静かに神に頼りなさい、そうすればユダ王国は生き残ることができる、というのです。

預言者イザヤは、BC740年に預言者として召しだされ、40年間神の言葉を語り続けた人です。イザヤが40年間語り続けたのは、たった一つのことでした。「人間ではなく神に頼れ」、ということです。それこそ、時代の中でイスラエルが学ばなければならなかったことでした。そしてこれこそ、聖書が一貫して、いつの時代も私たちに伝えていることです。

「神に頼りなさい、神に立ち返りなさい」、ただそれだけです。

聖書という本は、読んでみると、なかなか一人では理解できないでしょう。しかし、聖書が全体を通して訴えていることは、この上なく単純なことです。「人間ではなく神に頼れ」ということなのです。

アッシリアに助けてもらおうと、イスラエルの神を捨ててアッシリアの神に乗り換えようとしていたアハズ王は、イザヤの言葉を聞いてどうしたでしょうか。「私はイスラエルの神に頼らない」と答えたのです。

国々が争っているこの状況で、「静かに神に任せる」などという選択はできない、弱いユダ王国が生き残るためにはアッシリアの傘下に入ることが一番安全で確実だ、という思いを変えませんでした。

神に頼ろうとしないアハズや、ユダ王国の指導者たちにイザヤは言います。

「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、私の神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、私の主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ」

神を頼ろうとしない人たち、もう神から心が離れてしまった人たちに、イザヤは、インマヌエルと呼ばれる男の子の誕生を預言しました。「神が私たちと共にいらっしゃる」というしるしとなる男の子が生まれる、と言うのです。

「インマヌエル・神が我々と共にいらっしゃる」、と聞くと、単純に喜ばしい知らせだと思えます。確かに、神に信頼し、神を頼って生きている人にとってはインマヌエルという知らせは、素直に喜べることでしょう。

しかし、アハズ王のように、神を信頼しない人にとってはどうでしょうか。不信仰な人にインマヌエルのしるしが与えられる、ということは、「神は本当に私たちと共にいらっしゃる」ということを思い知らされるための裁きが与えられる、ということです。

イザヤは、インマヌエルと呼ばれる男の子が生まれるとすぐに、ユダ王国を攻めているアラムと北イスラエルの二つの国の王は滅びるだろう、と預言しました。そして、神を求めなかったユダ王国の上に、アッシリア王による破壊がもたらされるだろう、と言います。

恐ろしい預言です。その男の子の誕生は、神を信じない人たち、神に頼らない人たちにとって、滅びのしるしとなるのです。ハズ王は、やがて、自分が頼りにしたアッシリアによって滅ぼされ、そしてその滅びの中で「本当は神に頼るべきだったのだ」ということを思い知らされることになるのです。

「神に頼れ」という預言を聞き入れなかった南ユダ王国は、40年後、自分たちが頼りにしたアッシリアによって国を侵略されることになります。イザヤの預言は実現したのです。 Continue reading

11月21日の説教要旨

マルコ福音書14:32~42

「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(14:36)

有名な、イエス・キリストのゲツセマネの祈りの場面です。

「月の光のもと祈りをささげるキリストと弟子達」、と聞くと、夜の静寂に包まれた、静かで穏やかな祈りの光景を思い浮かべるでしょう。しかし、ゲツセマネで祈りを捧げられるイエス・キリストのお姿は、決して穏やかでも静かでもありませんでした。

神の子イエスご自身が、のたうちまわるほど苦しみながら、ご自分に課せられた十字架の死という使命をめぐって神と対話をなさった壮絶な祈りの姿でした。そしてそばにいた弟子達は一緒に祈りを合わせるどころか、眠りこけてしまっていました。

福音書には、主イエスが父なる神への祈りのお姿が何度も記録されています。しかし、ここまで福音書は、主イエスが何を祈っていらっしゃったのか、ということは記してきませんでした。ここで初めて、主イエスの祈りの言葉が明らかにされます。

ご自分に飲み干すよう神から与えられた苦難の杯を取り除けていただきたいと願い、それがかなわないのであれば、神の御心が行われるようそれを飲み干すことができるように、と祈られてきたのです。キリストはこの祈りを、生涯にわたって祈って来られたのです。

イエス・キリストのご生涯は、祈りの生活そのものでした。ある時は夜通し祈られ、弟子達が翌朝呼びに来なければならなかった、ということもありました。それほど祈らなければならなかったのです。

その祈りがなければ、十字架というご自分の使命に歩みを続けていくことはできなかったからです。祈りを通して神との対話を続け、一歩一歩、ご自分の十字架へと歩みを進めなければなりませんでした。それを考えると、キリストの地上の一生は、祈りの戦いそのものだった、と言っていいのではないでしょうか。

これまで主イエスは静かに、何度もご自分がエルサレムでどんな運命をたどるのか、ということを弟子達にお話しなさって来ました。何の恐れもなく全てを受け入れていらっしゃるかのような静かな主イエスのお姿を見ると、淡々と十字架に向かっていらっしゃるように見えます。

しかし、決してそんなことはありませんでした。キリストは「ひどく恐れてもだえ」「地面にひれ伏して」「苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られたのです。

ヘブライ人への手紙の2章に、こう書かれている。

「イエスは、神の御前において憐み深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちをと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがお出来になるのです。」

イエス・キリストは、私たちが感じる痛み・恐れを同じように感じるところまで来てくださいました。「神の子だから痛みや苦しみや恐れなどとは無縁の方なのではないか」、というのは違います。

主イエスが十字架の上で背負われることになっている世の罪の重さを考えると、とてもそんなことは言えないでしょう。

旧約聖書の初めからここまで読むと主イエスが背負われることになっている罪の重さがどれほどのものか、ということがわかります。この方は天地創造以来神に背を向けてきた人間の罪を全て、お一人で背負われるのです。

人間は、天地創造以来の罪から、まさに今、解放されようとしています。罪人が見失っていた、神のもとへ続く道が、再びこの方の十字架によって照らされようとしているのです。イエス・キリストのゲツセマネでの祈りのひと時は、歴史の中で神が人間を取り戻されるための計画が実現しようとしている瞬間なのです。天地創造以来最も緊迫した、そして厳粛な、聖なる瞬間だと言っていいのではないでしょうか。

イエス・キリストがゲツセマネで祈られたことは、最終的には「あなたの御心が行われますように」ということでした。はじめは、「この杯を私から取り除けてください」と祈られます。この「杯」は、旧約聖書の中では、苦しみと裁きの表す言葉として用いられています。主イエスは愛する父に苦しみからの救いを求めて祈っていらっしゃるのです。

しかし、「父なる神」が、ご自分の独り子に望まれたのは、ご自分の独り子が苦しんで死ぬことでした。そして神の子の死によって、すべての人の罪を許し、すべての人をご自分のもとに取り戻す、ということでした。

これまで主イエスはご自分の死の意味を弟子達に示してこられました。ご自分の死のことを「多くの人のための身代金」とか、「多くの人のために流される私の血」という言葉でおっしゃってきました。

多くの人を救い出す犠牲としての死、それこそ、イザヤが預言していた「苦難の僕」の姿です。

苦難の杯を飲む以外の道を神に求められる主イエスは、最後には神の御心をお求めになります。

「しかし、私が願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」

「あなたがお望みになる限り、私は死にます」、とおっしゃるのです。主イエスはこの祈りの後に逮捕されることになります。今、祈ることをやめて、立ち上がり、この場から離れたら、十字架にかからずに済みます。しかし、主イエスはゲツセマネに留まるために祈りの戦いを続けられます。

この時、12弟子の中でもペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけが主イエスと一緒にゲツセマネに行くことが許されました。宣教の旅の初めから召された、弟子達の中でも一番主イエスと一緒にいる時間の長い三人です。主イエスから「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われました。

しかし、三人の弟子達はすぐに眠ってしまいます。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と起こされても、主イエスが自分たちから離れていかれると、すぐに眠ってしまいます。「眠っているのか、起きて祈っていなさい」と言われてしまいます。

主イエスはなぜ弟子達をゲツセマネへと伴い、一緒に祈ってほしい、とおっしゃったのでしょうか。この三人に、祈りで支えてほしいと願っておられたからです。しかし、弟子達は眠気に負けて、主イエスと一緒にひと時も祈ることすらできなませんでした。

ここを読むと、イエス・キリストは弟子達と一緒にゲツセマネにいらっしゃるにも関わらず、孤独でいらっしゃった、ということがわかります。主は実際にはお一人で祈っていらっしゃったのです。

イエス・キリストに起こされないとすぐに眠ってしまう信仰をもつ弟子達は、私たちの信仰の弱さそのものです。考えてみたいと思います。私たちはどれだけキリストのために祈っているでしょうか。私たちの罪のために取りなして祈ってくださるキリストのために、私たちはどれだけ自分の祈りをもって支えているでしょうか。

私たちは、自分のこと、また、自分の周りのことに関しては祈るのだ。

自分を助けてほしいと祈る時には私たちはたくさんの言葉を用います。

私たちは、キリストに向かっては祈りますが、キリストのために祈っているでしょうか。

キリストは最後まで孤独でした。そこに弟子達がいるのに。一緒に祈ってくれる信仰の友がそこにいなかったのです。

ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、この夜のキリストの祈りのお姿を、そして眠りこけてしまった自分たちのふがいなさを、後々何度も思い出したでしょう。生涯忘れることができなかったでしょう。

イエス・キリストがゲツセマネでここまで必死に祈ってくださったのは、弟子達が弱かったからです。神を忘れ、神から離れていることにすら気づかず生きている罪びとには、キリストの祈りが必要なのです。誘惑の中、わずか一時も目を覚ましていることのできない弱い罪びとだからこそ、キリストが目を覚まし、地面にひれ伏して祈り続けてくださったのです。弟子達が弱いからこそ、私たち罪びとが弱いからこそ、キリストはこの世界を救おうと孤独の中で祈り続けてくださったのです。

主イエスは神に向かって、「アッバ、父よ」と呼びかけられました。親しみを込めた、父親への呼びかけの言葉です。弟子達がゲツセマネへと伴われたのは、キリストと共に神に向かって「アッバ、父よ」と呼ぶ祈りに加えられるためです。

使徒パウロが、ガラテヤの諸教会に向けて、こう書いています。

「あなたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、私たちの心に送ってくださった事実からわかります」

私たちキリスト者は、イエス・キリストによって神の子とされています。神に向かって「アッバ、父よ」と叫ぶ神の子であるイエス・キリストの霊が私たちの心の中に送られているのです。 Continue reading