MIYAKEJIMA CHURCH

5月15日の説教要旨

 

使徒言行禄1:6~12

「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」(1:7)

使徒言行録には、復活のキリストと共に過ごし、聖霊を注がれ、自分たちが思ってもいなかったところへと向かっていく弟子達の姿が描かれています。私達はその弟子達の姿を通して、自分自身に働く聖霊の力というものについて思いを巡らせていきます。

聖書に記録されている出来事は、決して過去のことではありません。キリストを見捨てた人、キリストを知らなかった人、キリストに背を向けていた人にキリストが出会ってくださり、その人たちがキリストを証しするようになる姿が記されています。これはキリストの時代から今に至るまで、実は私たちが生きる日常の中で起こっていることです。

私達は、使徒言行録を通して、聖霊に導かれながらキリストの復活を証しする弟子達の姿に信仰者としての自分を重ねながら、彼らと共に旅をすることになります。

さて、今日は福音宣教がキリストから弟子達へと引き継がれた、という場面を読みました。ルカ福音書の初めを読むと、この時代、人々は神の救いを待っていた、ということがわかります。

洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ「差し迫った神の怒り」を伝え、「悔い改めよ」と民衆に向かって叫びました。人々はそれを聞いて恐れ、徴税人も兵士もヨハネの下にやって来て、「私はどうすればよいのですか」と尋ねてきたことが記されています。

「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないか、と皆心の中で考えていた」、と福音書に書かれています。

この時代、誰もが、救い主を待っていたのです。どういう救い主か、というと、自分たちをローマ帝国の支配から解放してくれる救い主です。

主イエスの弟子達もそうでした。弟子達は復活なさった主イエスから神の国の教えを聞いて、こう質問しています。

「イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」

弟子達が期待していた「神の国」というのは、ローマから独立して国家となった、強いイスラエルのことだったようです。彼らは、復活なさった主イエスに、自分たちをローマ帝国の支配から救い出して、ユダヤ人の国、イスラエルという国が立て直してくださることを期待しました。

十字架の死から蘇られた復活の主が自分たちの目の前にいて、「神の国」の教えを語ってくださっています。肉体の死をも克服された方が、「君たちに聖霊が下る」とおっしゃっているのです。自分たちが武器をもってローマに向かって立ち上がる日は近い、と思ったでしょう。

しかし、主イエスは「イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」という弟子達の質問に対して、「そうだ」とも「違う」ともおっしゃっていません。ただ、「その時は、君たちにはわからないのだ」とおっしゃいました。主イエスがおっしゃったのは、ただ、「神の救いの時が迫っている」ということだけでした。それがいつなのか、そしてどういう救いなのかについては具体的に何も明らかにされないのです。

弟子達は、心の中で困惑したのではないでしょうか。「もうすぐ自分たちはローマを相手に戦うのか」と考えていた弟子達は、主イエスから「聖霊の力が与えられる時を待て」と言われ、「君たちは私の証人となるのだ」と言われたのです。

嚙み合っていない主イエスの御心と弟子達の期待・・・私たちは、この時の弟子達の期待感と困惑を理解できるのではないでしょうか。

私たち自身、キリスト者として「今自分が何をすればいいのか」、ということを具体的に知りたいと願います。キリスト者として、「あれをすべきではないか、これをすべきではないか」、と考えます。しかし、考えれば考えるほど、「自分は何もできていないのではないか」、と思ってしまうのではないでしょうか。

しかし、冷静に考えると、自分が良いと思うこととキリストがお求めになっていることが必ず同じとは限りません。イスラエルという国の立て直しを期待していた弟子達に聞かされたのは、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」いう気の言葉だった。

弟子達にとって、それは意外な使命だったでしょう。イエス・キリストの証言者となること、それがこれから弟子達に求められた戦いだったのです。自分が聞いたイエス・キリストの教えを、そしてイエス・キリストという方を地の果てまで伝えていく、その先に神の国がある、ということでした。

私達は、弟子達がどれだけ信仰者として弱い人たちだったのかを知っています。一度は主イエスを見捨てた人たちです。その人たちが今、キリストを伝える使徒として新たに召されているのです。この人たちは、特別に強い人たち、偉い人たちではありませんでした。むしろ、普通の弱い人たちでした。

弟子達は恐れたのではないでしょうか。「地の果てまでイエス・キリストを伝えるなどという大それたことが自分にできるのか」、と心の中で思ったでしょう。

弟子達はこの後聖霊を注がれ、福音宣教へと向かっていくことになります。彼らが伝えたのは、彼らがもっていた立派な考えや哲学ではありませんでした。彼らが実際にキリストから聞いたこと、実際にキリストの周りにいて見たことでした。それが、弟子達がイエス・キリストを地の果てまで伝えるために持っていた唯一の武器でした。

そして弟子達に託されたその福音宣教の業は今、キリスト教会に受け継がれています。

このように見て行くと、私達は思うのではないでしょうか。

「自分には弟子達のように、直接イエス・キリストの教えを聞いたわけではない、直接キリストの業を見たわけではない。自分には弟子達のように直接キリストから言葉をいただいたり、食卓を囲んだりしたことはないから、何をすればいいのかわからない。」

確かに、私たちはイエス・キリストが地上にいらっしゃった時代を生きたわけではありません。しかし、「キリストを体験した・キリストを感じた」という体験はあるのではないでしょうか。「信じがたい聖書の言葉は、それでも真理だ」、と思える経験があったから、今この礼拝に身を置いているのではないでしょうか。「あの時、確かにキリストが私と共にいてくださった・確かにキリストを近くに感じた」と思えることがあって、キリストに信頼して、今こうして礼拝の中にいるのではないでしょうか。そこには、確かに聖霊の働きがあります。

主イエスはこうおっしゃったことがあります。

「誰でも、人々の前で自分を私の仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。」

「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれた時は、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」

使徒言行録を見ると、弟子達がイエス・キリストの証言をするときには、「聖霊に満たされて」語った、と記されています。

私達も同じです。

私達も、語るべきこと、なすべきことは、聖霊が導いてくれるのです。私達にとって、ただなすべきことは、「私はイエス・キリストの仲間だ、キリスト者だ」と言い表すことです。

主イエスは、ガリラヤからエルサレムへと旅をする途中で、3人の弟子達を連れて山へ登られたことがあります。3人の弟子達は山の上でモーセとエリヤと語り合われる主イエスを見ました。

聖書には、「弟子達は沈黙を守り、見たことを当時誰にも話さなかった」とあります。ペトロたちは山の上で見た光景を、自分たちの中だけに留めておこうとしました。「私はモーセとエリヤと、先生が語り合うのを見た」と言っても信じてもらえない、と思ったのでしょう。「誰かに話して馬鹿にされるよりも、黙っている方がいい」と思ったのでしょう。

しかし、十字架の死から復活なさった主イエスはペトロをはじめ弟子達に「地の果てに至るまで、私のことを伝えなさい」と言って派遣されました。黙っていることは許されなかったのです。

私達も同じなのです。自分がイエス・キリストの仲間であることを言い表すことには、痛みが伴います。しかし、キリストがまず私達罪人の仲間となってくださって、十字架で痛みを担ってくださったことを覚えたいと思います。

弟子達はこの後聖霊を受け、キリストの使徒と呼ばれるようになり、キリストのために様々な痛みを自分の身に負うことになりました。キリストを伝えるということは、「キリストと痛みを共にする」、ということでもあります。

使徒たちは、キリストのために苦しむことを彼らは自分たちの信仰の喜びとしました。「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどのものにされたことを喜んだ」と使徒言行禄の5章に記されています。私達は聖霊によって変えられていくのです。

主イエスがガリラヤで弟子達を宣教の旅へと派遣された時、弟子達に「何も持っていくな」とお命じになりました。「身一つで行け」、とおっしゃったのです。

弟子達はその言葉に従い、ガリラヤを回りながら神の国の到来を伝え、その先々で信仰者たちによって生活を守られました。不思議です。キリストは、信仰者が行く先で、先回りして受け入れてくださるのです。

私達はイエス・キリストを証しするために何か特別に持っていなければならないようなものはありません。イエス・キリストの証言の他何も持っていない弟子達は、行く先々で聖霊によって、不思議な仕方で宣教の道が開かれていきました。聖霊は今もキリスト教会のために、私達の見えないところで天の国へと導き続け、私達の知らないところに道を準備してくださっています。

キリストが弟子達に託された福音宣教の業は、今のキリスト教会、私たちにまで受け継がれてきました。私たちはキリスト者として、キリストの証人として今を生きています。

身一つでいいのです。あとは全て、聖霊が備えてくださり、私達を用いてくださる。聖霊に身をゆだねて、「私はキリストの仲間です」を言い表していきましょう。

5月8日の説教要旨

使徒言行禄1:1~5

「『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる』」(1:5)

イエス・キリストが復活なさった後の弟子達の姿を見ています。これからしばらく、使徒言行禄を読みながら、キリストの復活によって宣教へと押し出された使徒たち、そして教会の成長を見ていきたいと思います。

使徒言行禄は、ルカ福音書と同じ著者によって記されました。ルカ福音書は前編としてイエス・キリストを、使徒言行禄は後編として使徒たち・教会の働きを描いています。

今日私たちは、使徒言行禄の一番初めのところを読みました。十字架に上げられ、無残に殺されたイエス・キリストは、弟子達に復活されたお姿を見せ、40日間、彼らと共に過ごされました。

復活なさった主イエスと共に食事をしたりして過ごした人たちは、主イエスが天に昇って行かれた後、エルサレムの家の一室で祈り続けることになります。そしてその祈りの上に聖霊が注がれ、「キリストが復活された」、という喜ばしい知らせ・福音がエルサレムに、アンティオキアに、アジアに、ヨーロッパに広がっていくのです。

使徒言行禄は「旅の記録」と言っていいものです。教会がどのように誕生したのか、そして、聖霊に満たされた信仰者の群がどのようにイエス・キリストの復活を伝えるためにエルサレムから世界中へと旅へと出て行ったのかが描かれています。

そして使徒言行禄を読む際に大切なことは、その旅は今の私たちにまで続いている、ということです。キリストが復活なさったという福音は、私たちキリスト教会を通して今でも世界中をかけめぐっているのです。

福音を知らされた人たちは、次の人にキリストの復活を伝えるために、今いる場所から次の場所へと旅立って行きました。

ペトロやパウロ、そしてキリストの使徒たちが迫害されながら、場所を変えてキリストを伝えるために旅を続ける姿を見ます。

使徒言行禄は、キリストによって押し出される信仰者たちの旅を描きながら、私たちにはいつも信仰によって新しい道が与えられる、ということを伝えているのです。

ルカ福音書と使徒言行禄と記したルカは、キリストの福音を知った信仰者たちの旅を描く中で「道」という言葉をよく使っています。聖書の中で「道」という言葉がつかわれる時、それは、単なる道路のことではありません。一人の人間がキリストを知ってから歩み始める信仰の道・信仰の生き方そのものを意味しています。

キリストを知る、ということでどれだけ自分の生きる道を変わったか、それを思い返すと、誰もが気づくでしょう。自分の小さなキリストへの信仰が自分の人生をどれだけ変えたのか、振り返ると驚くのではないでしょうか。

キリストを知って生きるのと、知らずに生きるのでは、歩む道が、生き方が全く違ってきます。私たちは信仰を通して何を恐れ、何を一番大事にするべきかを知ります。信仰を通して積み重ねていく選択・決断によって、信仰者の人生は自分では考えもしなかった方へと導かれていくのです。

使徒言行禄で描かれているキリストの使徒たちを見ていくと、わかるでしょう。彼らは、誰もが普通の人でした。ペトロやヨハネは、使徒言行禄の中では「無学な普通の人」と書かれています。

キリストの使徒とされた人たちにはどんな特徴・共通点があったのでしょうか。

それは、「もう自分にはキリストの許しにすがるしかない」というところまで自分の罪に打ちひしがれた人たちだった、ということです。

復活のキリストに許され再び招かれた彼らは「自分を喜ばせる生き方」をやめました。そして「神が喜んでくださる生き方」を歩むようになりました。彼らは復活のキリストに招かれ、新しい道を与えられた人たちだったのです。

信仰の道はいつでも、神から何かを見せられる、というところから始まります。自分の力で何かを手にする、というところから始まるのではありません。「もう祈るしかない、もうキリストに許していただくしかない」、というところから祈りを通して何かが示されるのです。

復活されたキリストが天に昇って行かれるのを見送った弟子達は、ずっと天を見上げていました。キリストが復活して目の前に現れてくださったのに、またいなくなってしまわれた・・・どうしていいかわからなかったのです。その彼らに新しい道を示したのは、白い服を来た二人の人でした。この二人は、キリストの墓にいた天使でした。

天使は弟子達に告げます。

「イエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる」

普通だったら信じないでしょう。しかし、彼らは、キリストの復活を自分の目で見ました。キリストの昇天を自分の目で見ました。

弟子達はなすべきことが天から示されたのです。キリストは天に昇って行かれ、その姿を見ることがなくなっても、彼らは孤独ではありませんでした。祈り、神が備えてくだる時を祈って待ったのです。やがて、エルサレムの町の中にあった家の一室で祈り続ける彼らの上に天から聖霊が注がれることになります。

改めて、確認しておきたいと思います。キリスト教会は、信仰深い人たちが集まって、「教会を作ろう」と言って作ったものではありません。祈りの群れに天から聖霊が注がれ、教会はできました。

福音書を振り返ると、神のご計画が実現する時には、いつも聖霊の導きが与えられています。

キリストがお生まれになるときは、天使がマリアにそのことを告げました。「聖霊があなたに下り、いと高き方の力があなたを包む」。聖霊が降ってマリアは主を身ごもりました。

主イエスが洗礼をお受けになった時、「天が開け、聖霊が鳩のように見える姿でイエスの上に」降ったとあります。主イエスに聖霊が降り、メシアによるガリラヤ宣教が始まりました。

いつでも、聖霊を通して神の救いの御業は進んできたのです。そして今、復活なさったイエス・キリストは弟子達におっしゃいます。「私は、父が約束されたものをあなた方に送る」。それこそ聖霊だった。

人は自分の力で自分を信仰者とすることはできません。むしろ、自分の力を捨てて、聖霊に身をゆだねた時に、自分が変えられていくのです。

教会を迫害していたサウロは復活なさったイエス・キリストの声を聞きました。「なぜ私を迫害するのか」。そこから彼はパウロという名前でキリスト者としての道を歩み始めました。パウロは、まさか自分が教会のために働くようになるなどとは思ってもみなかったでしょう。

ペトロは屋上で昼寝をしていた時、神から様々な動物の幻を見せられ、そこから異邦人へとキリストの復活を伝えに行く道が示されました。ペトロも、まさか自分が異邦人にまでキリストの復活を伝えることになるなどとは思ってもいなかったでしょう。

聖霊は、人間の思いを超えて働くのです。

主イエスの一番弟子のペトロは最高法院の人たちに捕まり「イエスのことを人々に話すな」と言われた際、堂々と弁明しました。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。我々は見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」

聖霊は人を変えます。全く新しく造り変えます。新しい存在として、新しい道を歩ませます。私たちは、これから使徒言行禄を通して、そのことを学んでいきたいと思います。

最後に、詩編126編の言葉を見ます。

BC6世紀に、バビロンに囚われていたイスラエルの人たちが詠んだ歌です。

4~6節「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出ていった人は束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」

イスラエルの人たちがバビロンで捕囚とされていた時に、神の言葉が与えられました。捕らわれの身から解放される、と告げられたのです。エルサレムを破壊されバビロンへと連れ去られた人たちは、それでも神への信仰を捨てませんでした。それどころか、自分たちの神への不信仰の反省を踏まえて、旧約聖書の言葉を書き残しました。

神を信じて、苦しくても福音の種を蒔く人たちは、必ず喜びの歌を歌うことが出来るのです。信仰者が、信仰の道を歩んだ先で見せられる祝福の喜びが歌われています。

当時のイスラエルの人たちにとって、エルサレムに帰る、ということは、神の元に立ち返る・神に許される、という救いの喜びでした。神は、御自分を信じ、求める人をお見捨てになることはなかったのです。

神は、インマヌエルと呼ばれるメシアを世にお送りになり、そのメシアに罪びとの罪を十字架の上で負わせられました。そして天から聖霊を送り、今も教会を通して、まだ神から離れている人たちをご自分のもとへと取り戻そうと働いていらっしゃいます。

今日、私たちは、復活のイエス・キリストから与えられる聖霊が、今も教会に働いていることを強く覚えたいと思います。私たちは、今でも、キリストにつながっている限り、新しい道が天から与えられ、日々新しく創造されていくのです。

5月1日の説教要旨

ルカ福音書24:36~49

「『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する』」

イースターの朝、女性たちが、主イエスの墓が空になったことを弟子達に伝えました。このことは弟子達を混乱させました。

「主イエスのご遺体を誰かが盗んだのか?」

女性たちは墓の中で天使から「あの方は蘇られた」と告げられたことも言いました。しかし弟子達はそんな話を信じませんでした。

その後、エマオへと向かう二人の弟子達が復活なさった主イエス・キリストに出会います。主イエスは二人とエマオまで共に歩み、聖書を解き明かし、御自分の復活が聖書の預言の実現であることをお教えになりました。

そして今、イエス・キリストはエルサレムで、弟子達の真ん中に立って、復活なさったご自身の姿を現わされました。

弟子達は主イエスを見て、「亡霊を見ているのだと思った」、と記されています。この時代、死者の霊が地上をさまよう、ということは一般的に信じられていましたが、死者が実際に肉体を伴って蘇る、ということは考えられないことでした。

主イエスは弟子達に「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」とおっしゃいました。そしてご自分の手と足をお見せになってご自分が亡霊ではないことを示されました。

弟子達は、「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていた」とあります。喜びと、信じられない、という思いが心の中で同時に湧き上がって来て、弟子達の混乱は続きました。

このように、実際に主イエスの復活を見ても揺れている弟子達を見ると、信仰者として頼りなく見えます。しかし、これが信仰者の偽りない姿ではないでしょうか。

主イエスが以前「私は十字架で殺されるが三日目に復活する」とおっしゃっていたとはいえ、実際にそれを見ると、簡単に受け入れられるようなものではないでしょう。むしろ、自分が見ているものの不思議さに圧倒され、どうしていいのか分からなくなるのではないでしょうか。

実は、私たちの信仰はそのようなところから始まるのです。私たちの信仰は、いつも新鮮な驚きで満ちているはずなのです。信じられないことを目の当たりにして、不思議さに打たれ、理解しようにも理解しきれない弟子達の姿は、まさに信仰者の姿そのものです。

「信仰」というのは、驚きだと思います。聖書に記録されている、信じがたい復活のイエス・キリストとの出会いに驚き、不思議さに打たれながらキリストの言葉に聞き従わざるを得ない・・・それが信仰生活でしょう。

本当は、死人のよみがえりを信じない方が、楽なのです。聖書を読んで、「そんなバカなことがあるはずがない」、と信仰の戦いを放棄することの方が楽でしょう。しかし、信仰というのは、その葛藤、その戦いから降りないことです。その驚きは、私たちが死ぬまで続きます。

主イエスを十字架で失った弟子達が、最初に与えられた復活のキリストの言葉は「あなたがたに平和があるように」でした。

弟子達は恐怖の中にありました。自分たちの先生が殺された、次に、自分たちはどうなるのだろう、という恐怖がありました。

そこで「あなたがたに平和があるように」というキリストの声を聞かされます。恐れの中にあるキリスト者に与えられるキリストの慰めの言葉です。自分ではどうしようもない時、道を失ったときに信仰者だけが聞くことが出来る、キリストの言葉です。私たちは祈りの中でこのキリストの声を聞くから、主の復活を信じ続けることが出来るのではないでしょうか。

恐怖の中にある者、道を見失った者が一番聞きたい言葉が、信仰の証言を分かち合う群に与えられるのです。

さて、復活なさったイエス・キリストは、十字架につけられる前と同じように、弟子達と共に食卓を囲み、依然と同じように神の国の教えを説かれました。その教えの内容は以前と同じでした。神の国の教えです。

神はあなたを愛していらっしゃる、あなたが神の元に立ち返り神と共に生きることを求めていらっしゃる、ということを変わらずお伝えになりました。

主イエスはご自分の身に起こった十字架と復活を「聖書に書かれている通り」とおっしゃっています。この方の死と復活は、全て神のご計画として旧約聖書の中に預言されていたのです。

この時の弟子達の驚きに見るように、聖書に記されている奇跡の中で、キリストの復活ということが一番信じられないことではないでしょうか。

神の子が罪びとの罪を背負って十字架で死んでくださり、復活し、天の上り、聖霊によって私たちを今も導かれている・・・そう聞くと、あまりに話が大きくて、簡単に受け入れることはできないでしょう。

しかし、それこそが、聖書が全体を通して私たちに伝えようとしている救いなのです。

後に、キリスト教会の中からキリストの復活を信じない人たちが出てきた時、パウロは手紙の中でこう書いています。

「キリストは聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死に、葬られました」

「キリストは聖書に書いてある通り、三日目に復活しました」

イエス・キリストに起こったことは、全て旧約聖書に記録されている預言の言葉の実現だった、と力を込めて伝えるのです。

イエス・キリストが、以前、弟子達にたとえ話をお聞かせになりました。こういう内容だ。

贅沢に遊び暮らしていた金持ちと、貧しいラザロという人がいました。金持ちは死んだ後、陰府に落ちます。そして貧しかったラザロはアブラハムと一緒に宴の席に座っていました。

金持ちは、生前の自分の生活を悔い改めて、アブラハムに向かって願いました。「自分がいるところに自分の兄弟たちが来ることのないように、ラザロを遣わしてください」。しかし、アブラハムは、「今聖書を読んで信じないのであれば、死者が復活して神の言葉を伝えたとしても信じないだろう」、と言いました。

考えさせられるたとえ話です。もし今、私たちが聖書を読んでイエス・キリストの復活を信じないのであれば、実際に誰かが生き返って「復活はあるのだ、永遠の命はあるのだ」と言っても信じないだろう、ということです。

私たちには、聖書に記録されたキリストの復活証言があります。聖書の証言を通して、私たちは今も生きて働かれるイエス・キリストとの交わりを知ります。もし聖書を読んで、それを受け入れないというのであれば、実際に復活なさったイエス・キリストのお姿をこの目で見たとしても、信仰に導かれることはないでしょう。

逆に言えば、私たちには、聖書があれば十分なのです。私たちは、驚きに打たれながら、復活のイエス・キリストの慰めの言葉を聞きながら生きていきます。

さて、復活なさったキリストは弟子達に使命を託されました。それはキリストの復活を証言する、ということでした。

何か人の目を集めたり噂になったりするような特別なことをしろとおっしゃるのではありません。ただ、キリストについて見聞きしたこと、つまり、私たちが経験したイエス・キリストとの交わりを隣の人に伝えなさい、ということです。

この使命は、今の教会まで受け継がれています。それぞれの、イエス・キリストとの出会いを、キリストと共にする歩みを、キリストから聞かせていただくみ言葉を隣の人に証言するのです。

主イエスは48節でこうおっしゃっている。

「あなたがたはこれらのことの証人となる。私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高いところからの力に覆われるまでは、都に留まっていなさい」 Continue reading

4月24日の説教要旨

ルカ福音書24:13~35

「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(24:27)

失意の中、エルサレムを離れていく二人の弟子達に、主イエスが一緒に寄り添って歩き始め、主イエスの復活を知った弟子達がエマオからエルサレムに戻った、という出来事です。

エマオは、エルサレムから60スタディオン離れたところにある村だ、と書かれています。60スタディオンは、10kmの距離です。

イエス・キリストの二人の弟子が、エルサレムで主イエスが殺されたことを嘆きながら、失望の内にエルサレムから離れ、エマオへと歩いていました。彼らは、婦人たちから主イエスの墓が空っぽになった、という知らせを聞いていた。しかし、「この話がたわごとのように思われたので、婦人たちを信じなかった」と記されています。死んだ人が生き返るなどという馬鹿なことがあるはずがない、と受け入れなかったのです。

私たちが今日読んだ、エマオへの道行きは、「認識の出来事」としてよく知られています。二人は、復活なさったキリストと話しながら歩いたのに、この方がキリストだとは認識しませんでした。しかし、キリストと食卓を囲み、パンを受け取ると霊の目が開いて、キリストだと認識します。

私たちはここに、人がどのように復活のキリストを信じるようになるのか、という、「信仰の目の開き」を見ます。この二人の弟子達に起こったことは、キリストを信じる人であるなら、「これはまさに自分に起こったことだ」と、自分の歩んできた信仰の道を振り返ることが出来る場面でしょう。

後に、二人は聖書の言葉を聞いたとき、自分たちの心が燃えていた、と思い出すことになります。弟子達は、復活のキリストに出会って、初めて聖書に記されていることが夢物語ではなく、真実のことであり、自分も聖書の登場人物の一人であることを知りました。

キリストが不思議な仕方で出会ってくださり、聖書の真理を伝えてくださる時、それは私たちにとっても、心燃える時となります。絶望の中、昨日まで生きてきた場所から逃げようとする自分にキリストが寄り添い、共に歩き、み言葉を聞かせてくださり、聖書の真理を知って、行くべき道を歩み始めるのです。誰もが、イエス・キリストとの出会いを思い返す出来事ではないでしょうか。

私たちは、この「エマオへの道行き」の出来事を通して、自分自身のイエス・キリストとの出会いを思い返した時、「またわからないのか、私は復活してあなたと共に歩んでいるではないか」という声を思い返します。

二人の弟子の内の一人は、名前がクレオパといいました。もう一人の名前は記されていません。この「もう一人」が一体誰なのか、ということについてはいろんな説があります。

ヨハネ福音書にクレオパの妻であるマリアの名前があるので、この「二人の弟子達」というのは、クレオパとマリアの夫婦だったとも推測できます。

しかし、福音書はここであえてクレオパの同行者の名前を記していません。「クレオパとマリアの夫婦が歩いていた」、とは書いていないのです。

このことは重要なことだと思います。聖書がクレオパの同行者の名前をあえて記していない、ということに、何か特別な意味があるのではないでしょうか。

聖書は、この無名の弟子の姿に、私たち読者の姿を見せようとしているのではないでしょうか。聖書は、「今、あなたはエマオへと歩いている。クレオパと一緒に歩いているこの弟子はあなただ」と、私たちの姿をこのエマオへの道行き登場人物として見せ、信仰者としての在り方を問いかけているのではないか。

私たちはこのエマオ途上の弟子達とキリストとの出会いを通して、聖書から「これはあなたに起こったことであり、今もあなたに起こっていることだ」と見せられているのです。

二人の弟子達は、エルサレムから遠ざかりながら、道の上でエルサレムでの出来事を語り合っていました。この二人に、三人目が加わります。この三人目の人物は、復活なさったイエス・キリストでしたが、不思議なことに、この時の二人の弟子達にはそのことがわかりませんでした。

その三人目の人から「話しているのは何のことですか」と尋ねられて、クレオパは「あなたはエルサレムにいたのに、ナザレのイエスの十字架のことを知らないのですか」と驚きました。あれだけ話題になって、あれだけたくさんの人がゴルゴタの丘にその十字架を見に行ったのに、どうしてこの人はそのことを知らないのだろう、と不思議に思ったのです。

二人の弟子は、イエスという人がどのように活動を続け、そしてどのように最後に十字架に上げられて殺されたのかを語りました。恐らく、「イエスの活動はもうそこで終わってしまった。イエスが伝えた神の国をもう私たちは見ることができなくなった」と、悲観的なことを伝えたのだろう。

弟子達は、ナザレの預言者がイスラエルを率いて、もう一度強いイスラエルを取り戻してくれると信じていました。しかし、殺されてしまいました。しかも十字架で殺されてしまいました。彼らは確かに主イエスの死を見たのです。

「エルサレムでこんなことがあって、自分たちは失望しているのだ」ということを伝えると、この二人は、三人目の人から「まだわからないのか」と言われてしまいます。「物分かりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と叱られます。

その三人目の人は、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言って、聖書全体を説明して、ナザレのイエスの十字架の意味を語って聞かせた。

二人は、この人の話に驚き、もっと聞きたい、と思ったのでしょう。エマオに到着しても、この三人目の人物を引きとどめ、なおも話を聞こうとしました。

夕方になり、夕食の食卓を三人で囲みました。ここをよく読んでみると、面白いことがわかります。二人がこの人を引き留めたのに、三人目の人物が、この食卓の主人として取り仕切っています。この人が讃美の祈りを唱え、パンを裂いて、二人に渡しています。

そして不思議なことに、その人からパンを受け取った瞬間に、二人は、その人が復活なさったイエス・キリストだと分かりました。そして、わかると同時に、その人が見えなくなったのです。

このエマオでの食卓は、キリストからパンを渡され者の信仰の目が開かれた、という出来事なのです。

エルサレムから絶望感をもって出てきた二人の弟子達は、ここから希望に満ちてエルサレムへと引き返しました。

この時まで二人の弟子達の頭の中にあったのは、「自分はこれからどうすればいいのか、何を信じていけばいいのか」ということでした。三日前までは、ナザレのイエスを救い主だと信じ、この方が自分の生き方を示してくださると信じて従って来ました。

しかし、ナザレのイエスは十字架で殺されてしまい、いきなり、自分たちが歩むべき道が奪い去られました。

彼らにできたことは、エルサレムから離れることでした。留まりたくない場所、もうそこに居たくないと思う場所から逃げることでした。「昨日までの自分たちが信じてきたものは何だったのか」「これからどうすればいいのか」・・・彼らはエマオへと向かってはいたが、迷子になっていました。次にどっちに向かって一歩を踏み出せばいいのか分からなくなっていました。

しかし、復活の主との出会いは、次の一歩をどちらに踏み出せばいいのかを確かに教えてくれました。弟子達がエルサレムに戻るということは、復活のキリストとの出会いがなければ絶対になかったことです。

エルサレムに戻ると、復活なさった主イエスが弟子のシモンにも出会われた、ということが話されていた。女性たちが告げた、空の墓の問題は解決されました。あの方は、本当に復活なさったのです。

主イエスが復活なさったということ、このことが、弟子達が新たに生きる希望となりました。キリストとの出会いは私たちが歩む道を変えるのです。キリストに出会う、ということは、生きる道が、方向が、目的が変わる、ということなのです。

「主イエスは確かに自分に出会い、言葉をかけてくださった」と振り返って思う瞬間があるのではないでしょうか。その時には主イエスだとはわからないかもしれない。しかし、後から思い返すと、「確かにあの時キリストは自分と一緒に歩いて、行くべき道を教えてくださったと分かる」ことがあります。

私たちは自分たちの肉の目でキリストの姿を捉えることはできません。しかし、肉の目に捉えることのできないキリストとの出会いは、私たちを確かに変えるのです。

信仰者にとって、キリストが復活なさったということは決して消えない希望です。もしも「主イエスが十字架で殺された」、ということで全てが終わっていたのであれば、聖書に記されていることは全て過去のこととして読まれることになったでしょう。

しかし、聖書は、今のことが記されているのです。聖書は、「この方は今、復活なさり、生きてあなたと共に歩んでくださっている」と伝えています。

弟子達は、聖書の解き明かしをキリストご自身から聞かされました。「聖書に記されていることは全て、あなたに起こったことなのだ」、と教えられえたのです。

復活なさったイエス・キリストは今も私たちの目には見えない形で、共に歩いてくださっています。私たちが「ここから逃げ出したい」と思う時も、私たちにはわからない仕方で寄り添い、必要な言葉を聞かせ、「まだわからないのか」と叱ってくださいます。

キリストの十字架の後、秩序を失い、生きる道・目的を失った弟子達に寄り添い、希望をお与えになったキリストは、あのエマオへの道でそうなさったように、今も私たちを神の国へと寄り添って、共に歩いてくださっているのです。

4月17日イースター礼拝の説教要旨

マルコ福音書16:1~8

「彼女たちは、『だれが仮名の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。」(16:3)

イエス・キリストが十字架で殺されたのは金曜日でした。それから三日目の朝、つまり、日曜日の朝、数人の女性が主イエスが葬られた墓に向かって歩いていました。主イエスの遺体に香油を塗ろうとしていたのです。彼女たちは、そこで、空になった主イエスの墓を見ることになりました。

イエス・キリストの証言をまとめて編纂された4つの福音書にはすべて、この朝のことが記録されています。この朝、確かに十字架で殺されたはずのイエス・キリストの墓が空になった、ということ、それが決定的な事実として報告されているのです。

この朝、ナザレのイエスの墓が空になっていた、ということが、後のキリスト教会の信仰の基盤となりました。死者が復活した、という信じがたいことが・・・いや、信じる方がおかしいようなことが、教会の信仰の基盤となったのです。

後に、使徒パウロがコリント教会にこう書いています。

「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたのある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」

確かに、死人が蘇ったということは、誰にとっても信じがたいことです。後のキリスト教会の中にも、キリストの復活を疑う人が出始めていました。

しかし、パウロは言うのです。

「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」

この日の朝起こったことを忘れないために、キリスト教会は毎週日曜日の朝に礼拝を捧げています。私たちはイースターの今日、改めて私たちの信仰の根拠は何か、そして信仰の希望は一体どこにあるのか、ということを確かめたいと思います。

キリストの復活という奇跡を目撃したのは、数人の女性たちでした。この朝、女性たちは驚きました。こんなことになるとは思ってもいなかったからです。

「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合いながら墓へと向かった、と書かれている。

彼女たちは、墓が石で墓が塞がれている、ということを知っていました。つまり、墓に行っても仕方がない、ということを知っていながら、墓に向かっていました。香油を買って、主イエスの遺体を清めようとしてもその墓には入れない、ということは分かった上で、それでも行ったのだ。

この時の女性たちにとって大事なことは、石をどけることができるかどうか、ではなく、主イエスに近づく、ということでした。無駄だと分かっていても、主イエスの墓に向かわざるを得なかった、主イエスを求めざるを得なかったのです。

私たちはこの朝の女性たちに、信仰の姿勢を見ます。女性たちは「解決策」をもってキリストの墓に向かったのではありませんでした。「どうしようか」と言いながらも、ただキリストを求め、近づき、その先で彼女たちは思いもよらなかった道を示されたのです。

「墓」は、私たち肉なる存在にとっては終着点です。いずれ行きつく「絶望」のように、その先には何もない「行き止まり」のように考えられています。しかし、キリストの墓は終着点ではなく、新しい出発点でした。この方の空の墓は、新しい希望の始まりとして私たちに示されています。

私たちは、確証をもってキリストを求めるのではありません。私たちには、どかすことのできない石があります。どうにも背負えない重荷があります。それでもキリストに近づく、いや、それだからキリストに近づくのです。そして、キリストを求め、近づいた先で、私たちには考えが及びもしなかった神の御業が用意されているのを見見せられます。そうやって、私たちも、この女性たちのように信仰の証人にされていくのです。そのようにして「主は生きておられる、アーメン」という祈りへの導き入れられるのです。

この女性たちは、三日前の金曜日の午後、ゴルゴタの丘にいました。そこで確かに主イエスが十字架で息を引き取られたのを見ました。その夕方、アリマタヤのヨセフによって新しい墓に埋葬されたのを見ました。そしてこの日曜日の朝、女性たちは墓が空になっているのを見ました。

この人たちは、キリストを助けるために何かをした人たちではありません。この女性たちは、ただ、イエス・キリストを見続けた人たちでした。ただ、殺されるキリストを遠くから眺める以外、何もできなかった、無力な人たちでした。

しかし、この人たちが、キリストの死と復活の証人として神に選ばれたのです。

墓の中にいた天使の伝言を受け取り、キリストの弟子達に伝えたのはこの女性たちでした。キリストの十字架の死と復活の証人として、そして天使の言葉を受け取り、運ぶ預言者として彼女たちは、確かに神によって用いられました。

空っぽになった墓の中で、女性たちは、天使から主イエスが蘇られたこと、ガリラヤで弟子達を待っていらっしゃる、ということを告げられます。聖書には、女性たちがそこから逃げ去り、「震えあがって正気を失い、誰にも何も言わなかった」、とある。あまりの恐ろしさに、何も言わなかった、というのです。

マルコ福音書の本編は、そこで終わっています。

しかし実際には、彼女たちは、黙ったままではなかったのでしょう。黙ったままではいられなかったのです。女性たちはこの朝見たことを弟子達に、人々に伝えていきました。彼女たちの証言によって、弟子達は再び集まって祈るようになり、その祈りに聖霊が与えられることになります。

私たちは、この女性たちの姿を通して、「恐れを伴う信仰」ということを考えさせられます。福音を信じるというのは、実は「恐れるべき方を知る」ということではないでしょうか。畏れを伴わない信仰に、死を超えた喜びはありません。女性たちは、この墓の中で、死に勝るものを見たのです。墓を出て逃げ去るほどの恐れを感じました。震えあがって正気を失うほどの恐れです。

空っぽの墓に立って、天使から声をかけられて逃げ出した、この女性たちの恐れから私達の信仰は始まっています。そうであれば、私たちの信仰には恐れが伴うは当然でしょう。なんとなく信じていれば自分にいいことが起こるのではないかと期待して祈ったりするようなものではありません。信仰を通して、私たちは死を超えたものが見せられます。それは、私達の体が打ち震えるほどの希望なのです。

さて、女性たちが墓の中で天使から聞かされたのは、主イエスが以前弟子達におっしゃったことでした。

「私は復活したのち、あなたがたより先にガリラヤへ行く」

弟子達は初めにこう言われた時、この言葉が耳に入りませんでした。「君たちは私を見捨てて逃げるだろう」と言われたので、「そんなことはありません」と言うのに必死だったのです。

この日曜日の朝、弟子達はどこにいたのでしょうか。主イエスから離れ、イエスの弟子である自分はこれからどうなるのかという不安と、本当に自分は主イエスを見捨てて逃げてしまった、という苦しみの中にいました。

弟子達は、天使から言葉を受けた女性たちを通して、もう一度キリストの許しと招きの言葉を聞くことになります。

主イエスと一緒に旅をしていた時、弟子達の心を占めてたのは、「自分たちの中で誰が一番偉いのだろう」ということでした。弟子達は自分のことばかり考えていたのです。

だから、主イエスの言葉を聞けていませんでした。自分に都合のいい言葉ばかりを選別して聞こうとしていました。

自分に都合のいい言葉ばかりを求めて神の言葉を締め出してしまう人には神の言葉は聞こえてきません。自分の中から雑音が消えた時に福音は聞こえるのです。

「あの方はあなたが戻って来ることを待っていらっしゃる。あの方は罪びともう一度迎え入れてくださる」・・・世界の初め、闇の中に「光あれ」と神の声が響いたように、「あなたの命は闇の中では終わらない、光の元へと立ち返れ」という福音が与えられることになります。

天使は、「弟子達とペトロに伝えなさい」と特にペトロ名前を出しました。なぜ特別にペトロなのでしょうか。主イエスを見捨てて逃げただけでなく、三度否定してしまった、弟子達の中でも一番信仰の痛みを感じた人だったからでしょう。

ペトロは一番強い気持ちを持って、誰よりも最後まで近くに従っていきました。そしてそこで誰よりも強く主イエスのことを否定してしまいます。

信仰をもってキリストを求めれば求めるほど、自分の弱さがどんどん見えてきます。それでも主イエスは、「自分の十字架を背負って私に従いなさい」と厳しくおっしゃいます。「私の弟子というだけで君たちは迫害される」とおっしゃり、「あなたがたには世で苦難がある」ともおっしゃいました。

その通りでしょう。ペトロはその言葉通り、信仰の痛みを知りました。だからこそ、キリストは特にペトロの名前を呼んでお招きになったのです。信仰ゆえの痛みを感じる人こそ、キリストの慰めの言葉が向かいます。

「重荷を負うて苦労している者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう」

「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」

神の国の宣教を、今度は許しの言葉を与えられた彼らが、原点であるガリラヤから始めていきます。弟子達は試練を潜り抜けたのです。弟子達がはじめになすべきことは復活の主に会いに行くことでした。

信仰者がまずなすべきことは、いつでも、復活の主のもとに立ち返ることです。あの朝の女性たちや弟子達のように。そこから、新しい道が始まります。

4月10日の説教要旨

創世記15章

「日が沈みかけた頃、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ」(15:12)

イエス・キリストの十字架の痛み・苦しみを思う時を過ごしています。キリストの十字架は神がキリスト教会と新しく結ばれた愛の契約の儀式でした。キリストの十字架の意味をより深く知るために、先週に引き続き、創世記に遡って聖書を見ていきます。

アブラムは75歳の時に神に召され、自分の一族と故郷から離れ、はるばるカナンの地まで旅をしてきました。神を信頼し従ったアブラムには多くの祝福が与えられ、家が栄え、たくさんの家畜、財産に恵まれます。

しかしアブラムには、自分の祝福を受け継ぐ子供がいない、という空しさがありました。そのことを神に訴えた時、神はアブラムに子供と土地をお与えになることを約束されます。そしてそのしるしとして、契約を結ぶことを神は提案されました。

今日読んだところには、正に、神とアブラムが契約を交わす場面です。

12節を見ると、「日が沈みかけた頃」とあります。アブラムが契約の儀式の準備をしていると夕方になった、ということです。神がアブラムに満天の星をお見せになってから、日が昇り、また日が沈みそうになる時間まで、神とアブラムの語りはずっと続いていた、ということです。

私たちはここに、夜も朝も昼も夕方も、信仰者に祝福を与えようとなさる神のお姿を見ることが出来るのではないでしょうか。

その後すぐに神とアブラムの間に契約が結ばれて、アブラムに子供と土地が与えられる、ということが確かなものになりますが、その契約の儀式が最中、不思議なことが起こります。

契約の儀式をまさに始めようとする時に、アブラムが深い眠りに襲われたのです。アブラムは「恐ろしい大いなる暗黒」を見せられた、と記されています。ただ、眠くなって目を閉じた、というのではありません。祝福の契約の中で、なぜか「恐ろしい大いなる暗黒」が神から見せられた、というのです。

祝福の契約の儀式の中で光が見せられた、というのであればわかります。しかし、神は、アブラムに闇をお見せになったのです。

ここには、どのような御心があったのでしょうか。

神はアブラムに満天の星を見せ、「この星のように、あなたから信仰の民が生まれてくる」とおっしゃって祝福されました。そして、神は同時に、そのアブラムから生まれてくる信仰の民が通ることになる「恐ろしい闇」も、前もってアブラムにお見せになったのです。

アブラムから生まれる信仰の民イスラエルはやがて、400年にも渡って異邦の国で寄留者となり、そこで奴隷生活を・抑圧を体験することになる、と言われます。

神はこの契約の儀式の中で、これから起こることを全て示されたのです。

アブラムから信仰の民が生まれる、ということ。

その信仰の民は苦しい試練を通る、ということ。

そして最後に、その民は信仰の試練という闇の先で解放され、ここへと戻ってくる、ということ。

この夜アブラムに示された祝福は、複雑なものでした。子孫が与えられる、という単純な喜びだけではなかったのです。

アブラムからイスラエルという民が生まれ、イスラエルが苦難を通って祝福へと導かれる、という、アブラム自身が自分の生涯の中で見届けることが出来ないほど壮大な神の祝福のご計画がこの闇の中で示されたのです。

私たちは、「神から祝福をいただける」、と聞くと、すぐに自分の周りから問題がなくなって、すべての悩みと苦難が消えることのように考えてしまうのではないでしょうか。

しかし、神が下さる祝福の中には、私たちにとって必要な試練も含まれているのです。

私たちは、出エジプト記を読んで、イスラエルがエジプトで奴隷にされた時の嘆きを知っています。神はそのイスラエルの嘆きを聞いて、エジプトからイスラエルを解放されました。しかし解放されたイスラエルはその後40年間荒野の旅を続けなければなりませんでした。その試練の先に、約束の地が用意されていたのです。

神の祝福は、人間の側の思いとは全く違った仕方で実現していきます。神の民イスラエルだから、教会だから、神に守られて何の苦も無く豊かになり、何の問題も心配もなく過ごせるようになる、というようなことが祝福ではないのです。

アブラムに示された祝福は信仰の試練・苦難を通った先にある祝福でした。

出エジプトの最後でモーセがイスラエルに荒野の旅の意味を告げます。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

イスラエルは荒れ野の40年という信仰の試練を通して、自分たちが神によって生かされている民であるということを学ばされたのです。約束の地はその学びの先にありました。

なぜ、神はこんなにも遠くにある祝福をお見せになったのでしょうか。16節の最後で、「アモリ人の罪が極みに達していないからだ」とおっしゃっています。

この時アブラムがいたカナンの地にはアモリ人が住んでいました。つまり、カナン人のことです。神は「アモリ人の罪はまだまだ大きくなる」とおっしゃいます。

アモリ人は偶像礼拝の罪を重ねていました。そして神は、アモリ人の罪が極みに達した時に、アブラムから生まれるイスラエルがこのカナンの地に戻って来て、真の神への信仰をもたらすことになるだろう、とおっしゃるのです。

神の壮大な祝福がここに示されています。

アモリ人の罪が、試練を経たイスラエルによって清められることになる・・・そのようにして真の神の民が増し加えられることになる、という、アブラムには想像もつかないような大きな計画でした。

さて、この、神とアブラムのやりとりを通してわかるのは、神は、信仰者に試練をお与えになる、ということです。そしてその信仰の試練は、祝福に至るための通り道なのです。神は、試練の中で、私たちを祝福を受けるにふさわしい者へと作り変えてくださいます。

私たちにとって、本当にしんどいのは、苦しみの意味が分からない時でしょう。なぜ自分が、なぜ自分の家族が、なぜ自分の愛する者が、なぜ家族の中で自分だけが・・・そのような心の叫びを誰もがもっています。神は、その私たちの心の叫びを聞きながら、荒れ野を共に歩いてくださるのです。

神の試練が無意味だ、ということはありません。荒野の中でこそ、神が共にいてくださることを私たちは見せられるのです。

アブラムに暗闇が臨み、これらの神の言葉が語られた後、二つに裂かれた動物の間を燃え盛る火が通り過ぎました。神とアブラムの間に契約が結ばれた、ということです。

その後、神はもう一度はっきりとおっしゃいました。

「あなたの子孫にこの土地を与える」(18節) Continue reading

4月3日の説教要旨

創世記15:1~11

「アブラムは主を信じた。主イエスはそれを彼の義と認められた」(15:6)

このアブラムという人は、後にアブラハムという名前になり、イスラエルの「信仰の父」と呼ばれるようになった人です。後のイスラエルの人たちは、自分たちのことを「アブラハムの子」と呼ぶようになります。

「アブラハムの子」・イスラエルの一員である、ということは、神とアブラハムの間に交わされたこの契約に加えられている一人・神と共に生きる信仰の民の一員である、ということです。

今日読んだところは、新しいイスラエルである私たちキリスト教会にとって、自分たちの根っこがどこにあるのかが見える大切な場面です。

神はどのような時にアブラムに語り掛け、祝福の契約を結ばれたのか、見ていきましょう。

15:1「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」

「これらのこと」というのは、14章に記されている、アブラムが住んでいた地方の王たちの戦いのことです。何人もの王たちが争いに巻き込まれてアブラムの甥のロトが連れ去られてしまいました。アブラムは僕たちを率いて戦い、ロトを、そして財産や女性たちなど、連れ去られた人たち・ものを取り戻しました。

神がアブラムに声をかけられたのは、アブラムが人間たちの争いに巻き込まれて疲れ切っていた時でした。

「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」

「あなたには私の守りがある。この世の愚かな人間同士の争い、戦い・混乱の中にあっても、私はあなたを守る」と神はアブラムに約束してくださったのです。

戦い巻き込まれて疲れていたアブラムが一番聞きたいと思っていた言葉だったのではないか、と誰もが思うのではないでしょうか。

しかし、アブラムは神による守りの約束を聞いても、喜ぶどころか、不満を口にします。

「わが神、主よ。私に何をくださるというのですか。私には子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。ご覧の通り、あなたは私に子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が後を継ぐことになっています」

戦争に巻き込まれること以上に、アブラムの心を占めていたのは、自分に後継ぎとなる子供がいない、ということでした。

神に召されてからここまで、アブラムは神からたくさんの祝福を受けてきました。自分の財産が増え、僕たちを率いて戦えるほどの力をもつことが出来ました。しかし、アブラムには、空しさもあったのです。自分が死んだあと、それを受け継ぐ自分の子がいない、ということでした。

たとえ甥のロトを救い出したとしても、ロトが自分の家を継ぐわけではないのです。アブラムは、神に愚痴をこぼしました。

アブラムの嘆きを聞かれた神はさらに、言葉をお与えになります。

4節 「見よ、主の言葉があった」とあります。聖書は、私達読者に向かって「見よ」と言います。神がこの次におっしゃった言葉には決定的な意味があるのです。

「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」

アブラムの僕の一人、エリエゼルではなく、これからアブラムに生まれる子供が跡を継ぐ、と神はおっしゃいました。つまりそれは、これからアブラムに子供が与えられる、ということです。

そして神はアブラムにその証拠として、アブラムを外に連れ出して、天の星をお見せになりました。

「あなたから生まれる子孫はこのようになる」

神の招きにこたえて自分の故郷を捨て、ここまで旅をしてきたアブラムは、神の言葉は必ず実現する、ということを知っていました。自分が死んだあとのことを考えて空しさを覚えていたアブラムは、満天の星を見て圧倒されたのではないでしょうか。

それは、アブラムという一人の信仰者から、天を覆うほどの信仰の民・契約の民が生まれるだろうという予告でした。

アブラムにとっては、思いもかけなかった祝福でした。昨日まで、こんな祝福が自分に突然与えられるなどということは予想もしていませんでした。満天の星を通して神の恵みを見せられたアブラムは「主を信じた」とあります。既にアブラムは75歳を超えていました。しかし、「あなたから生まれる者が後を継ぐ」という神の言葉を疑いませんでした。

なぜアブラムはそんな、信じがたい言葉・約束を受け入れることができたのでしょうか。

神が、そうおっしゃったからです。それをおっしゃったのが、神だったからです。それが神の言葉だったからです。だから彼は受け入れたのです。これまでの神の言葉は全て実現したからです。

旧約聖書の元のヘブライ語では、「言葉」という単語には「言葉」という意味ともう一つ、「出来事」という意味もある。神がそうおっしゃったのなら、もうすでにそれは間違いなく実現する出来事なのです。

旧約聖書では預言者たちの言葉が記録されています。預言者たちが伝えた神の言葉は、歴史の中で必ず実現していきました。言いっぱなしではなく、神の言葉・神が預言者を通しておっしゃったことは全て出来事となっていきました。

神はご自分の言葉を受け入れたアブラムを「義と認められた」とあります。「義」というのは、正しい関係性のことを言う言葉です。神は、アブラムを、御自分が契約を結ぶのにふさわしい、誠実な人としてご覧になった、ということです。私たちはこの神とアブラムとの短いやりとりの中に、神と信仰者の間に結ばれた深い信頼を見るのです。

さて、私たちはこのアブラムという人を見てどう思うでしょうか。信じられないようなことを神から告げられ、アブラムは黙って信じました。

私たちは、ここでのアブラムの姿を見て、「自分には真似できない。『信仰の父』と呼ばれるようなアブラムの真似はできない。自分は疑い深い人間だからアブラムのような上等な信仰を持つことはなかなかできない」、などと思ってしまうのではないでしょうか。

しかし、アブラムも、私たちと同じ、一人の信仰者に過ぎませんでした。私たちと同じなのです。神から祝福をいただきながらも、失望したり、愚痴ったりする私たちと同じなのです。

本当に誠実さを示されたのは神でした。神は、愚痴をこぼすアブラムに忍耐強く寄り添われたように、私たちのような足元の定まらない信仰者を祝福をもって追いかけてくださるのです。

神とアブラムのように、私たちは神と一緒に時間を重ねて、少しずつ信頼を積み重ねていく、その信頼関係が私たちの信仰生活ではないでしょうか。 Continue reading

3月27日の説教要旨

マルコ福音書15:42~47

「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである」(15:43)

「小さな信仰の業が」

イエス・キリストは金曜日の朝から十字架につけられ、午後三時に大声で叫んで息を引き取られました。十字架刑は見せしめのための処刑法ですので、十字架につけられた人が息を引き取るまで何日も苦しむような刑罰でした。

主イエスは、十字架に上げられる前に夜通し暴力を振るわれ、体を痛めつけられていたので、弱っていらっしゃったのでしょう。朝に十字架につけられ、午後の3時に息を引き取られました。ピラトは、「もう死んだのか」と驚いています。

十字架上で死んだ人の遺体は、その家族が引き取りに来ないのであれば地面にそのまま投げ捨てられることになります。息を引き取られた主イエスの遺体はすぐに十字架から降ろされず、見せしめのために人々の目にさらされたままにされました。

今日読んだ最初の、42節には、「すでに夕方になった」とあります。午後三時から、夕方まで、もうすぐ日が沈もうとする時間までそのままにされていた、ということです。

ユダヤの一日は、日没が区切りとなります。日が沈んだところから一日が始まる、という数え方ですので、日が沈めばユダヤ人にとっての安息日となります。

もうすぐ日没になる、という時間に、アリマタヤという町の出身で、身分の高い議員であったヨセフという人が、勇気を出してポンテオ・ピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるように願い出た、ということが記されています。

ヨセフは、日付が変わって安息日になる前に、主イエスを十字架から降ろし、埋葬しようとした。ユダヤ人にとって、十字架の上に死体をそのままにしてさらしておくことは聖い安息日に相応しいことではなかったからです。

旧約聖書の申命記に、このように記されています。

「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない」

死体を夜通し木の上にさらすことを神はお喜びになることではない、神がイスラエルにくださった土地を汚すことになる、と律法で言われています。安息日には仕事をすることは禁じられているので、日が沈んでしまうと、主イエスの遺体を十字架から降ろしたり、埋葬したりすることができなくなってしまいます。

ローマ兵にとってそんなことはどうでもいいことでしたので、十字架の罪人を見せしめのためにそのままにしておくつもりでした。しかし、ユダヤ人の議員であったヨセフにとっては我慢できないことでした。彼はイエスの家族が遺体を引き取りに来るのを待っていましたが、主イエスの家族も、弟子達も遺体をとりに来ません。このままだと安息日の間、十字架の上にそのままにされてしまいます。

3時に主イエスが息を引き取られてから、この夕方まで、ヨセフはどうすべきか考え続けていたのでしょう。日没が迫る中、ヨセフは決断しました。覚悟を決めてピラトのところに行き、主イエスの遺体を引き渡していただきたい、と願い出たのです。

「勇気を出して」願い出た、と聖書には記されています。確かに勇気が必要だったでしょう。身分の高いユダヤの議員でありながら、ヨセフはローマ総督ポンテオ・ピラトに、ローマへの反逆者の遺体を引き渡していただきたい、と願い出るのですから、そのことによってローマからも、同胞のユダヤ人からも不審に思われることは間違いありません。「お前もイエスの仲間か」と十字架に上げられるかもしれません。

なぜヨセフは、命の危険を承知でナザレのイエスの遺体を引き取ろうとしたのでしょうか。聖書はその理由について一言、「この人も神の国を待ち望んでいたのである」と記しています。この人も、このイエスという方に神のお姿・メシアのお姿を見出していたのです。

12章28節以下を見ると、ひとりの律法学者と主イエスのやりとりが記されています。エルサレム神殿の境内で、ひとりの律法学者が主イエスに「あらゆる掟の内で、どれが第一でしょうか」と質問しました。

その人自身、悩んでいたのかもしれません。聖書に数多く記されている掟をどう守ればいいのか、何を第一とすればいいのか、迷いがあったのかもしれません。

主イエスは、「あなたの神である主を愛しなさい」という掟と「隣人を自分のように愛しなさい」という掟をおっしゃり、その二つの掟を切り離せない一つのものとしてお示しになりました。

律法学者はそれを聞いて納得しました。霧が晴れて真理が見えました。そして「その二つの掟は、どんな捧げものや生贄よりも優れています」と主イエスに答えます。

「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた」と聖書に記されています。

主イエスから「あなたは神の国から遠くない」と言われた律法学者がアリマタヤのヨセフだったかどうかは分かりません。大切なことは、イエス・キリストには、12弟子以外にも、心から従おうとする人たちがいた、ということです。ガリラヤの漁師たちだけでなく、エルサレムの律法学者や議員の中にも主イエスに神の姿を見出した人たちはいたのです。

私達は「イエス・キリストの弟子」と聞くと、12人だけを思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、キリストの直弟子「だけ」がキリストを世界に伝えて行ったのではありません。

主イエスに神の国の到来を期待して、従っていた人たちはたくさんいたのです。聖書の中では描かれていない、もしくは、ほんの少ししか描かれていない無名のキリスト者たちがたくさんいました。アリマタヤのヨセフも、聖書の中では目立たない、小さな存在です。

しかし、このような、誰からも注目されないような小さな信仰者一人一人の、小さな信仰の業を通して、神の御業は進んでいったのです。

小さな信仰者が、小さな信仰の業を行う際には、大きな勇気がいります。主イエスを三度否定したペトロを見ればわかるでしょう。「あなたはナザレのイエスを知っているか。あなたはイエスの仲間か」、そう尋ねられて「そうです」と答えるだけのことにも大きな勇気がいります。

ましてや、アリマタヤのヨセフは、ユダヤ人の中でも、身分の高い議員でした。「ナザレのイエスは死刑にすべきだと言っている」人々の中で、一人だけ皆と違うこと・反対のことをするのに、どれほど勇気が要ったでしょうか。

ヨセフがイエスの遺体を引き取るということは、仲間からの決別であり、ローマへのささやかな抵抗であり、イエス・キリストへの献身でした。どれほどの勇気がいったか、と思います。

彼は、一人の議員として、ではなく、一人の信仰者として決断しました。「死んでもなお、この方は神の子だ」、という信仰があったからこそ、勇気を振り絞ってピラトに「遺体を引き取らせてください」と願い出たのでしょう。

ヨセフは自分の私財を投げうって、主イエスのために墓を買い、そこに遺体を収めました。

そして数人の女性たちが、その埋葬を見ていたことが記されています。この女性たちは、主イエスが十字架に上げられる時から、ずっと見ていました。この人たちは主イエスの死を見届け、埋葬まで見届けました。

そしてこの女性たちは三日後の朝、その墓が空っぽになるのを見ことになります。確かに死んで、確かに埋葬された方が蘇られた、ということの証人となります。そしてこの女性たちの証言が、後のキリスト教会の信仰の礎となっていきます。

この女性たちもまた、小さな信仰者でした。女性たちがしたことは、ただ、キリストを見続けた、ということです。何か人の目をひくような、尊敬されるような社会事業をしたわけではありません。主イエスを遠くから見続けていたこの人たちの小さな目撃証言が、やがて教会の核となっていきます。

私たちは信仰者として日々、何をしているでしょうか。どんな信仰の業をなしているでしょうか。そのように訊かれると誰もが「自分は信仰者として十分なことは出来ていない」と下を向くでしょう。

しかし、取るに足らない、私たちの日々の小さな祈り、小さな信仰の業は、確かに用いられていきます。どんなに小さくても、神がそれを用いてくださるのです。誰か一人の、皆の注目を集めるような立派な信仰の働きによって神の御業が進むのではありません。

使徒パウロは、コリント教会への手紙の中でこう記しています。

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」

「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」

私たちは、自分の信仰の小ささを恥じる必要はありません。神は、そのような見劣りするような部分を、大いに用いてくださるのです。私たちの小さな信仰の決断が、小さな信仰の勇気が、神の救いの御業のために確かに用いられます。

日が沈む前のヨセフと女性たちの姿・業を見つめたいと思います。

3月20日の説教要旨

マルコ福音書15:33~41

「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(15:38)

「道が拓かれる」

詩編の22編で、このような嘆きが歌われています。

「私は虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。私を見る人は皆、私をあざ笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」

「犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のように私の手足を砕く。骨が数えられるほどになった私のからだを、彼らはさらしものにして眺め、私の着物を分け、衣をとろうとしてくじを引く」

イエス・キリストの十字架はまさに、この詩編の嘆きの言葉が現実になったものでした。そこには、これ以上ない孤独と絶望がありました。ゴルゴタの丘の上、大地は暗くなり、御自分の弟子や仲間もなく、目の前には敵だけがいたのです。

極限の孤独の中、これ以上ない絶望の中で、主イエスは「わが神、なぜ私を見捨てたのですか」と叫ばれました。ゴルゴタの十字架を包んだ暗闇は、神に見捨てられた絶望、そしてキリストが担ってくださった私達の罪そのものでした。

十字架刑を受けた人は何時間も苦しむことになります。十字架の横木に釘で手を打ち付けられ、自分の体重を足で支えないといけないのです。肉体の痛みに加えて、呼吸をすることが出来なくて苦しみます。長い時間痛みに苦しみ、ゆっくりと意識を失っていき、最後には窒息死することになります。

しかし、主イエスの死の瞬間はゆっくりと意識を失っていくようなものではなく、突然でした。「大声を出して息を引き取られた」とあります。

ヨハネ福音書には、主イエスの最後の言葉として「成し遂げられた」という一言が記録されています。「成し遂げられた」・・・それはご自分が神の救いの御業を成し遂げた・自分の使命を果たした、という勝利の言葉とも読めます。

しかし、このマルコ福音書では、ただ、主イエスが大声で叫ばれた、という事実だけが記録されていて、何をおっしゃったのかはわかりません。勝利の叫びだったのか、絶望と苦痛の叫びだったのかわかりません。私たちはマルコ福音書に記録された、キリストの死をどのように受け止め、理解すればいいのでしょうか。

主イエスの死は、一人のユダヤ人が息を引き取った、というだけの出来事ではありませんでした。この方の死は、この世界の歴史の大きな転換点でした。

主イエスの死によって、神殿の奥深くで、異変が起こりました。息を引き取られた瞬間に、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」のです。

エルサレム神殿には垂れ幕が二つありました。一つは、至聖所の入り口にありました。祭司が一人だけで、その垂れ幕を通って中に入り、香をたく場所・至聖所の入り口を垂れ幕が仕切っていたのです。

そして、至聖所の中に、さらにもう一枚、至聖所の中でも最も神聖な空間を区別する垂れ幕がありました。年に一度、祭司がその中に入り、贖罪の捧げものを捧げるのです。

この二枚の垂れ幕の内、どちらが裂けたのかはわからりません。福音書にはそのことは書かれていません。しかし、どちらの垂れ幕が裂けたのか、ということが大事なのではありません。至聖所に至る垂れ幕が裂けた、ということが持つ、その意味が大事なのです。

20メートル近い高さの垂れ幕がただやぶれたというのではありません。「上から」「真っ二つにされた(受身形)」と記されています。聖書は、神が、上から垂れ幕を裂かれた、ということをつたえているのです。

このことを、ヘブ10:19―20ではこう説明しています。

「兄弟たち、私たちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道を私たちのために開いてくださったのです」

十字架の上でイエス・キリストの肉体が裂かれた、ということはすなわち神殿の垂れ幕が裂かれた、ということであり、それは神への道が開かれた、ということだったのです。

祭司だけが入れることになっていた、神との出会いの場所が、祭司以外の人たちにも開かれたのです。神との出会いの場所を遮っていた垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、誰もが神の元へと行けるように、道が拓かれました。

イエス・キリストの死が神殿の中にあった垂れ幕を真っ二つに裂いた、ということ、それは、祈りを失い、「強盗の巣」となっていたエルサレム神殿の中心を破壊した、ということでもあります。ここから、神の目に「強盗の巣」とみなされたエルサレム神殿は、ここから崩壊への道をたどることになります。40年後のローマ軍による破壊への秒読みがここから始まったのです。

そしてキリストの死は、人の手によらない霊の神殿を打ち立てました。キリスト教会です。

イエス・キリストの死と共に、もう一つ、不思議なことが起こっています。ローマの百人隊長が、十字架で死なれたイエス・キリストを見上げて「この人は本当に神の子だった」と信仰を告白したのです。この人は十字架刑の責任者でした。この人の指示で主イエスは十字架へと上げられたのです。

百人隊長にとって、ナザレのイエスは、ユダヤ人の王を自称して逮捕され、ローマへの反逆の罪で十字架に上げられた犯罪人でしかなかったはずです。同じユダヤ人たちからさえも最後まで馬鹿にされ、侮辱され、弱々しく死んでいった、一人の犯罪人でした。

十字架の上で侮辱され、絶望の叫びを上げ、弱々しく死んでいくナザレのイエスを見た百人隊長が、なぜか「本当に神の子だった」と信仰を告白した、というのです。

なぜなのでしょうか。主イエスの十字架での最期を見ると、どこにも神の子だと思えるような要素はありません。イエス・キリストの死の何が、この百人隊長を信仰に導いたのか、百人隊長は何をキリストの死に見出したのか、聖書は何も書いていません。

「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という絶望の叫びがあり、最後に大声を出して死んだ・・・それだけです。主イエスが十字架の上で華々しい奇跡を行われた、とか、主イエスの祈りにこたえて神の声が聞こえてきた、というのならわかります。しかし、ナザレのイエスはこのゴルゴタの丘で、暗くなったゴルゴタの丘で、無残に、誰の助けもなく無残に死んだのです。

百人隊長は、誰よりも、一番近くでナザレのイエスの死を見ました。しかしこの人はナザレのイエスへの信仰告白から一番縁遠い人だったはずです。異邦人の軍人・ローマの百人隊長で、十字架刑の責任者です。その人が、神の子らしくない死に方をしたイエスを見て、「この人はキリストだ」と信仰を告白したのです。

私たちはこのことに、「神殿の垂れ幕が上から真っ二つに裂けた」ということの意味を見ます。ローマの百人隊長は、ユダヤ人でもなく聖書を良く知っている祭司や律法学者でもありませんでした。異邦人の死刑執行人でした。その人が、暗闇のゴルゴタの丘に神の姿を見出したのです。いや、上から見せられた、と言った方がいいかもしれません。信仰の道が「向こう側から」拓かれたのです。神の御手が働いたとしか言いようのないことです。

キリストの十字架の前で、私達は信仰の分かれ道に立たされます。主イエスを侮辱していたユダヤ人たちに神の子の本当のお姿は見えませんでした。そして死刑執行の責任者であった異邦人が「本当にこの人は神の子だった」と信仰を告白しました。

このゴルゴタの十字架をどう見るか、ということが、私たちの信仰の分かれ道となります。この方の十字架を、神に見捨てられて十字架で死んだ罪人と見るか、世の全てを背負い私の身代わりとなって死んでくださったメシアと見るか・・・罪人の死と見るか、神の子による犠牲の死と見るか。

この時、十字架の周りにいた人たちは主イエスの叫びをどのように聞いたでしょうか。この時、主イエスの周りには弟子達はいませんでした。皆、主イエスを見捨てて、どこかに逃げ去っていました。百人隊長のように、強い思いをもって十字架の主イエスを見ていた人はいなかったのでしょうか。

聖書には、主イエスに従って来た女性たちが、遠く離れてこの十字架を見守っていたことが記されています。その中には、「小ヤコブとヨセの母マリア」という人がいました。この人は、主イエスの実の母マリアです。自分の息子の十字架を、マリアはどのような思いで見たでしょうか。

この女性たちが、後に、キリストの復活の目撃者となり、弟子達にキリストの復活を伝える証言者となります。彼女たちはこの時、自分たちの目で、確かに主イエスの十字架の死を見届けました。三日後に、この方の空っぽの墓も、自分たちの目で実際に見ることになります。そしてこの数人の女性たちの証言が、後のキリスト教会の信仰の拠り所となるのです。

ローマの百人隊長と、女性たち・・・この人たちは、主イエスの十字架の死に何かを見ました。それを見せたのは、聖霊ではないでしょうか。神殿の垂れ幕を真っ二つに裂いた力が、彼らの心の中にあった垂れ幕を裂いて、信仰の目を開かせたのです。このちいさな信仰の証言者たちから、イエス・キリストへの信仰は世界へと広まっていくことになります。

ヘブ6:19―20「私たちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入っていくようなものなのです。」

私たち教会は荒波の中でも錨をおろしてじっと耐える船のようなものです。イエス・キリストという方に魂の錨を下ろし、日々天の故郷へと向かうのです。天の故郷への道は、上から拓かれました。今、私たちも、聖書を通してゴルゴタの丘に立ち、百人隊長や女性たちと一緒に、キリストの十字架に神の子の尊い犠牲を見ています。

イエス・キリストの十字架の死からの復活という、誰にも信じられないようなことを証言した人たちがいて、今の私達の信仰生活があります。誰も信じてくれないことを、声高に「あの方は本当に十字架の死から蘇られた」と伝え続けた人たちがいて、今の私達の礼拝があります。

我々は、日々の信仰の試練の中で、キリスト者たちが伝え続けたキリストの十字架と復活の証言へと立ち返ります。そして、キリストの証言者として用いてくださる聖霊に身を委ねるのです。

3月13日の説教要旨

マルコ福音書15:33~41

「昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続いた」(15:33)

「十字架の闇」

ゴルゴタの丘の十字架上でイエス・キリストがイエス・キリストが息を引き取られた瞬間です。神の救いの御業が現れた、この歴史の中で最も神聖な場所・瞬間です。

ゲツセマネでイエス・キリストは「できることなら、苦しみの杯を私から取り除けてください。しかし、私が望むことではなく、あなたの御心のままに」と何度も祈られました。それは、イエス・キリストが地上の生涯で神と向き合って祈られた最後の時間でした。しかしその祈りの中で示されたのは、神は自分に十字架の死を望んでおられる、ということでした。

主イエスは救い主キリストとして、神の御業のために自分を差し出すために、祈りの戦いを続け、御自分が与えられた苦しみの杯を飲み干すために十字架の死へと進んで行かれたのです。

私達はこの十字架の主イエスの死を見て不思議に思うのではないでしょうか。

「なぜ神の子が十字架で死ななければならなかったのか。なぜ神の子が神に向かって絶望的な叫びを上げなければならなかったのか。なぜこの方の十字架は暗闇に包まれたか」

これらのことについて、考えていきたいと思います。

死の直前、主イエスは十字架の上で叫ばれました。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」

これは主イエスが実際に話されていたアラム語で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味の叫びです。神に向かって放たれた、祈りとも、恨み言ともとれる叫びです。これが主イエスの地上での最後の言葉でした。

ここまで主イエスは沈黙を貫いてこられました。最高法院のユダヤ人たちの裁判の中でも、ピラトの尋問に対しても、黙って有罪の判決を受け、言い返すことなく、抵抗することなく十字架へとご自分の身をゆだねてこられた方です。群衆が「イエスを十字架につけろ」と叫んだ時も、ローマ兵から鞭で打たれた時も、兵士たちから嘲りと侮辱を受けた時も、十字架に打ち付けられた時も、主イエスは徹底して沈黙を貫いてこられました。

しかし、息を引き取られる瞬間、沈黙を破り、叫ばれます。

「わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。その一言は絶望の叫びでした。信仰者の最後の希望である神を見失った叫びです。

この時主イエスが確かに十字架の上で叫ばれた言葉を、周りで聞いていた人たちは正確に記憶して、聖書にそのまま「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と記録されました。

なぜ神の子が、神に向かって絶望の叫びを上げて死んでいかなければならなかったのでしょうか。私たちにとって、そのことは大きな謎です。

ここまで、ガリラヤからエルサレムに至るまで、この方は神のために働いてこられました。神の国の教えを説き、神の業を行ってこられた方です。

私たちは、ここに神に見捨てられた神の子、という究極の矛盾を見ます。「神の子ですら神から見捨てられる」ということを見ると恐怖を感じます。

主イエスはこの福音書の中で神に向かって「父」と呼びかけてこられました。しかしここで初めて、神を「父」と呼ばず、「神」と呼びかけていらっしゃいます。神と主イエスとの間に、距離があるのです。

主イエスが最後に叫ばれたこの一言は、詩編22編の最初の言葉です。それは自分をむち打ち、嘲る人たちの中で神を求める祈りの言葉です。

神に背を向けたイスラエルは何度も、罪がもたらす苦しみの中で神に向かって祈り叫んできました。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」

これは罪の中から救いを求める叫びだ。

私たちはこのキリストの叫びをどう捉えればいいのでしょうか。

聖書は、キリストの十字架の死は、私達罪人の身代わりの死であった、ということを証ししています。そうであるなら、十字架の上のキリストの死は、本当は私たち罪びとがそうなるはずのものであったことであり、「わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という叫びは、本当は罪びとが十字架の上で叫ぶはずの叫びだった、と言っていいのではないでしょうか。

この方は、この罪の絶望・罪の孤独・罪の悲惨を、十字架の上で身に引き受けてくださり、本当は、私たちが死ぬ際、最後の一息で叫ぶ絶望の言葉を代わりに叫んでくださったのではないでしょうか。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉は本当は神の子キリストが叫ぶようなことではありません。あの方は、私達の罪の叫びを十字架の上まで持って上がっくださったのです。私達が「わが神、なぜ私を見捨てたのですか」と叫ばなくてもいいように。

キリストの十字架の死に関して、もう一つ不思議なのは、全地が暗くなった、ということです。

「12時頃、全地が暗くなり、3時まで、主イエスが息を引き取られるまで闇が続いた」、とあります。

日食が起こったのでしょうか。それは考えられません。日蝕は3時間も続かないし、過越祭はそもそも満月の時期なので、日食が起こらない季節です。

偶然3時間もの間太陽が厚い雲に覆われたか、偶然嵐が3時間続いたのか、それは分かりません。

しかし私たちにとって、どんな自然現象によって暗くなったのか、ということが重要なのではないのです。キリストが十字架に上げられた際に起こった「闇」にはどんな意味があったのか、ということが重要なのです。

旧約の預言者アモスがこんな預言を残しています。

アモス8:9

「その日が来ると、と主なる神は言われる。私は真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。私はお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子をなくしたような悲しみを与え、その最後を苦悩に満ちた日とする。」

ゴルゴタの神の子の十字架を包む暗闇、それはまさに、アモスが預言した「独り子をなくしたような悲しみの闇、喜びの祭りを悲しみに変える闇」でした。

アモスが預言した「その日」、つまり「裁きの日」が、来たということです。。

真昼に太陽が沈み、白昼に大地が闇となる時。

祭りの喜びが悲しみに、喜びが嘆きになる時。 Continue reading