使徒言行禄15:12~21
「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません」(15:19)
先週に引き続き、エルサレムの使徒会議の場面を見ていきましょう。
エルサレムのユダヤ人キリスト者が、アンティオキアの異邦人キリスト者たちのところに来て、「あなたがたも割礼を受けなければ、救われない」と言いました。異邦人教会であったアンティオキア教会の人たちは、戸惑ったことでしょう。
「イエス・キリストを信じて洗礼を受けても、割礼を受けていなければ、神に受け入れられていない、ということなのか??」
このことが、エルサレム教会とアンティオキア教会という二つの教会の間に議論を起こしました。宣教旅行の中で、割礼を受けていない異邦人たちにも聖霊が降ったのを見たパウロとバルナバは、キリストを信じることが全てであるということをはっきりさせるためにエルサレム教会へと向かいました。
今の私たちには、なぜ当時のユダヤ人キリスト者たちが「割礼」というものにそこまでこだわったのか、よくわからないのではないでしょうか。
パウロは後に、フィリピの教会に「切り傷に過ぎない割礼をもつ者たちを警戒しなさい」と書き送っています。割礼のことを「切り傷に過ぎない」ものだ、と言っています。私たちにとっても、割礼は「切り傷に過ぎないものである」という感覚ではないでしょういか。
1世紀当時のユダヤ人にとっての割礼がどんな意味を持っていたのか、そしてどれほど大切にしていたのか、その背景をお話しておきたいと思います。
紀元前167年、シリアの王であったアンティオコス・エピファネスがエルサレム神殿から宝を奪っていきました。それだけでなく、ユダヤ人に対して神の教え・律法を捨てるよう命じました。
神の言葉、神の教えである律法・聖書を捨てる、ということはユダヤ人たちにはできませんでした。ユダヤ人は反乱を起こして、エピファネスに勝利します。
このことを通して、ユダヤ人たちの中で「自分たちは神の教えである律法を守った。無割礼の異邦人から守り抜いた」という意識が強く芽生えました。そして「自分たちが割礼を受けている」、ということが重要な意味をもつようになったのです。律法を捨てるよう迫って来た異邦人たちに勝利したことを通して、ユダヤ人にとって割礼が「自分たちと異邦人とを区別するしるし」となっていったのでした。
イエス・キリストやパウロが生きた時代は、そのような意識が強くなっていた時代でした。だから、ユダヤ人キリスト者たちは割礼の有無にこだわって、異邦人キリスト者たちに、「割礼を受けていないのであれば、まだあなたたちはだ偶像礼拝者と変わらない。異邦人のままだ」と言って来たのです。
私たちは、新約聖書を読む際、この時代の教会の中には、ユダヤ人と異邦人との間にいろんな意識の差があった、ということを忘れてはならないのです。
さて、エルサレム教会はパウロとバルナバを迎えて、「割礼を受けていない人は神に受け入れられていないのか」ということが改めて議論になりました。議論の中で、特にユダヤ教のファリサイ派からキリスト者になった人たちが割礼の必要性を主張したことが書かれています。
ファリサイ派の人たちは、神の律法をとにかく忠実に、また厳格に守ろうと生活の中で努力していた人たちでしたので、「割礼のない信仰」は考えられなかったのです。
しかし、議論の中でペトロが立ち上がって、自分が見たことを皆に話すと、全会衆は静かになりました。ペトロは、自分がローマの百人隊長に福音を告げた時に、割礼を受けていないその人の上に神が聖霊を注がれたことを証しました。
ペトロは、「彼らの心を信仰によって清め、私たちと彼らとの間に何の差別もなさいませんでした」「私たちは主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」と言って、神が割礼を受けていない人もご自分の救いへと招かれていることを説きました。
ペトロの言葉を聞いて、会堂は静かになりました。エルサレム教会にいた人たちは言葉を失ったのです。
静まり返ったエルサレム教会の中で、次にパウロとバルナバが、自分たちが見たことを証ししました。二人もペトロと同じように、神が自分たちを通して不思議な業を行われ、割礼を受けていない異邦人たちをそのままご自分の救いへと招かれたことを話しました。
「全会衆は静かになった」とあります。この静けさは、とても大切なものだと思います。この時エルサレム教会に生じた静けさは、神がお創りになった静けさではないでしょうか。自分たちの考えを声高に叫んでいた人たちが、神の御業の証を聞いて、黙らされたのです。そしてその沈黙の中で、神の御業の証が語られたのです。
人々の声が小さくされ、神の御声が大きくされていく・・・これが、教会の中で起こることです。
改めて思わされます。我々は、どれだけたくさんの雑音の中を生きているでしょうか。自分の心の中にはどれだけたくさんの雑音があるでしょうか。私たちは、互いがそれぞれの主張をして譲らないのです。そして自分が正しいと信じているのです。
しかし、神の言葉を聞き、それに従う時には、我々には本当は沈黙・静けさが必要なのです。そしてそのために、神は私たちから不必要な言葉を取り去ってくださり、必要な聖い静けさを与えてくださるのです。
エルサレム教会は、またユダヤ人キリスト者たちは、ペトロとパウロの証を聞いて、神のご計画を知り、新しい一歩へと踏み出すことになりました。
ペトロとパウロとバルナバの証を聞いて、イエス・キリストの弟、ヤコブが口を開きました。ヤコブは、預言者アモスの預言が実現したことを皆に伝えました。
「人々のうちの残った者や、私の名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになる」
イスラエルの神への信仰は、一つの民族の人たちだけのものではありませんでした。後にパウロも手紙の中で書いています。
「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです」
アモスは、割礼を受けていない異邦人も皆、神を求める日が来る、という預言を残しました。神は、はるかに時代を超えて、ユダヤ人でない人たち、割礼を受けていない人たちのための信仰への招きの時を備えて来られたのです。
そして今、ヤコブがアモス預言の実現を伝えました。今が、その時だ、と。
ヤコブは、神に立ち返る異邦人キリスト者を悩ませないために、エルサレム教会でいくつかのことを決めました。
割礼を強要しない、ということ。
偶像に備えた動物の肉・血を避けること。
みだらな行いを避けること。
「動物の血を避ける」、というのは、血が命の象徴だったからです。偶像に捧げられた動物の血に近づくということは偶像と命を共有する、ということでした。
エルサレムの使徒会議で決められたことは、どれも大した決定ではないように思えるのではないでしょうか。今の私たちからすると、こんな大きな会議を開いて決定するようなことではなく、少し考えればわかりそうなことばかりに思えるのではないか。
しかし、ユダヤ人と異邦人が共にお一人の神を信じるようになっていく過程で、教会はこのような誠実な議論が積み重ねていきました。そのような誠実な議論の上に、今の私たちの教会があるのです。
私たちは、このエルサレムの使徒会議に出て来た人たちを鏡として、自分の信仰の姿を省みたいと思います。自分こそ正しいと思っていた人たちが、静かに神の御業の証を聞いて、謙遜に新しい一歩を踏み出していきました。
教会生活は、本当は単純なものであるはずです。イエス・キリストの十字架と復活に心を向け、神を信頼して生きることです。神は、預言者アモスを通しておっしゃいました。 Continue reading