MIYAKEJIMA CHURCH

3月6日の説教要旨

マルコ福音書15:21~32

「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」(15:30)

二千年前に、エルサレムのゴルゴタの丘でナザレのイエスというユダヤ人青年が十字架刑で処刑されたこ出来事の中に、私たちはどれだけのことを見ているでしょうか。

1世紀のユダヤ人の歴史家、ヨセフスという人は、「紀元30年ごろ、エルサレムでイエスという人が十字架で殺された」と記録しています。ただ、それだけを書いています。歴史家ヨセフスにとっては、「そういうことがあった」という、一言で片付く出来事だったのでしょう。

しかし、一世紀のキリスト者たちは、この方の十字架を単なる「罪人(ざいにん)の処刑」では終わらせませんでした。彼らはナザレのイエスという方に関して膨大な証言を集め、福音書を紡ぎあげ、この方の十字架が神の許しと招きの御業であったことを後の世に残したのです。

我々は、このイエスという方の十字架を私たちはどう見るでしょうか。改めて考えたいと思います。

極限の痛みの中、キリストは最後まで、誰からも憐みを受けることなく黙ってすべてを甘んじてお受けになりました。私たちはゴルゴタの丘の光景を通して、神の子が罪人のためにどれだけの痛みを引き受けてくださったのか、そして罪びとの目にどれだけ神の子の本当のお姿が見えていなかったのか、ということを知ります。

人々はここまで、主イエスのことを「ダビデの子」と呼んできました。強いイスラエルを築き上げたダビデ王の再来として期待したのです。しかし主イエスは人々が期待した強いユダヤの王ではなく、羊飼いとしてのダビデの再来でした。ユダヤ人を指導してローマに反乱を起こすメシアではなく、イスラエルのために自分を犠牲にして、神の元へとすべての人を招くメシアでした。

主イエスの十字架の罪状が「ユダヤ人の王」と掲げられたことは、これ以上ない皮肉です。主イエスはローマへの反乱者と一緒に十字架に上げられました。「二人の強盗」というのは、主イエスの代わりに釈放された反乱の指導者バラバの配下の者たちでしょう。まるで、ローマに反乱を起こしたユダヤ人の王であるかのように扱われています。主イエスの本当のお姿とはまるでかけ離れています。人々がどれだけこの方のことを理解できていなかったか、ということがわかります。

しかし、この人間の無理解さえも神の救いのご計画の中に入っていました。主イエスご自身は、御自分がお受けになる痛みについて、「すでに聖書に書かれている」と何度もおっしゃってきました。

ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて山に登り、モーセとエリヤと共に話された後、山を下りるときに、主イエスは三人におっしゃいます。「人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてある」

ユダがご自分を裏切ろうとしていた過ぎ越しの食卓では、「人の子は、聖書に書いてある通りに、去って行く」とおっしゃいました。

ゲツセマネの園にご自分を逮捕しに来た人たちには、「これは聖書の言葉が実現するためである」とおっしゃいました。

主イエスは何度も何度も、ご自分に与えられる痛み、侮辱、すべての人から与えられる死について、「すでに聖書に書かれている・預言されている」とおっしゃって来ました。ゴルゴタの丘でこの方がお受けになった痛みは全て神のご計画の内にあったのです。

主イエスは弟子達に受難を予告されました。

「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人のことを侮辱し、唾をかけ、鞭うったうえで殺す」

全て、その通りになっています。

ユダヤの指導者たちから有罪とされ、ローマ兵からは鞭で打たれ、いばらの冠をかぶせられ、頭をたたかれ、唾を吐かれました。そして今、十字架の上でユダヤ人からの痛みをお受けになっています。

それだけではありません。

「そこを通りがかった人」から、「祭司長たちと律法学者」たちから、そして「一緒に十字架につけられた人たち」からののしられました。

主イエスの十字架の周りには誰一人味方はいなかったのです。「たとえ死ぬことになってもあなたを見捨てることはありません」、と言った弟子達でさえ一人もいません。近くにいて主イエスの受難の予告を聞いていた弟子達でさえそうでした。

聖書の言葉をよく知っていた祭司長、律法学者たちですら、主イエスの十字架に神の御心を見出すことはありませんでした。十字架に上げられたナザレのイエスを初めて見るユダヤ人たちならなおさら、この方のことを理解することはなかったでしょう。

さて、もし私たちが、この時ゴルゴタの丘のキリストの十字架を見たら、なんと声をかけたでしょうか。「この方は神の子で、今私たちの罪を背負って死のうとしてくださっているのだ」と言えたでしょうか。頭を振りながら、周りにいた人たちと一緒に、この方に向かって侮辱の言葉を吐いたのではないでしょうか。

キリストは十字架で血を流すご自分のお姿を通して、私たちの罪を教えてくださっている。

十字架に上げられた主イエスに向かってユダヤ人たちは様々な侮辱の言葉を吐きました。

「神殿を打ち倒しし、三日で建てる者」

「メシア、イスラエルの王」

彼らが侮辱するために吐いた言葉は皮肉にも、真実でした。

この方はエルサレム神殿を打ち倒し、霊の神殿を三日でお建てになる方でした。この方は本当にメシアであり、イスラエルの王でした。

イエス・キリストの十字架の死は、確かにエルサレム神殿の終わりでした。古い神殿はここで滅びるのです。この後、キリストが息を引き取られた瞬間に、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けます。キリストはご自分の命と引き換えに、神へと通じる道を拓かれるのです。

十字架の死から三日後、キリストは復活され、「人の手によらない」神殿、霊の神殿、神の畑を新しく打ち立てられます。キリスト教会です。

人々は少しずつ、自分たちが十字架で殺したナザレのイエスが実はメシアであり、イスラエルの王、この天地の王・神であることに気づいていくことになります。

「他人は救ったのに、自分は救えない」と人々は十字架のキリストに向かって叫びました。確かに、主イエスはこれまで多くの人を奇跡の業で癒し、悪霊を追い出してこられました。「あれだけの力があったのだから、十字架から降りることだってできるはずだ」、そう考えたのでしょう。

主イエスは以前、ご自分に与えられる痛みの意味について弟子達にこうおっしゃいました。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」

「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」

この方は、自分を救えないのではないのではありません。救わないのです。自分を救うことが許されていないのです。十字架から降りることは許されないのです。神が、御自分に十字架で死ぬことをお求めになっているからです。今、身代金としてご自分の命を自ら差し出すことが神から与えられた使命であるということをご存じだったのです。契約の血をご自分の体から流すことが求められているのです。

イエス・キリストは十字架の周りで御自分を侮辱する一人一人を、その罪から救いだすために、今痛みを引き受けていらっしゃいます。主の十字架の周りで叫ぶ人たちは、自分たちの罪をこの方にどんどん負わせています。

この十字架の三日後に、人々は墓の中からよみがえられた主イエスを見ることになります。一人や二人ではありません。キリストの弟子達だけではありません。多くの人が殺されたはずのイエスを見ました。

復活なさったキリストにペトロはもう一度招かれ、宣教へと押し出されました。そしてエルサレムの人たちに告げました。 Continue reading

2月27日の説教要旨

マルコ福音書15:21~32

「兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。そして、イエスをゴルゴタという所に連れて行った。」(15:21-22)

イエス・キリストは鞭で打たれ、その後600人ものローマ兵たちから暴力をお受けになりました。いよいよ、ここからキリストの十字架刑が始まります。

十字架刑とはどのような刑だったのでしょうか。十字架に上げられる囚人は、十字架に釘で打ち付けられる前にまず鞭で打たれます。十字架刑を宣告されたイエス・キリストも、鞭で打たれました。

当時ローマ兵がつかっていた鞭の中には、痛みが増すように鞭の先にガラスや陶器の破片などがつけられたりしていて、肉をえぐるように作られているものもありました。むち打ちの段階で死んでしまう囚人も多くいました。

十字架刑は奴隷やローマに反乱を企てた暴徒のための処刑法でした。みせしめのための処刑法なので、すぐには囚人を殺しません。十字架に上げられた人は、十字架の上で何時間も、人によっては何日も苦しむことになります。

紀元前1世紀を生きたローマの文筆家のキケロは十字架について、「最も残酷で不快な処刑法」と記しています。

紀元1世紀のユダヤ人の歴史家ヨセフスは十字架による死のことを「最も哀れな死」と記しています。

囚人は自分が打ち付けられることになる十字架の横木を処刑場まで運ばされます。主イエスは、鞭打ちの刑と兵士たちからのリンチによって、もうご自分で横木を運ぶ力が残っていませんでした。

弱り切った主イエスの代わりに横木を運んだのは、キレネ人シモンという人でした。総督の官邸から外へと主イエスが引き出された時、偶然そこを通りかかり、無理やり主イエスの十字架の横木を運ぶようローマ兵から命じられたのです。

シモンが「イエスの十字架を運べ」と言われてどう思ったか、どんな気持ちで十字架を運んだのか、聖書には何も記されていない。しかし、書かれていなくても私たちはすぐに想像できるだろう。「無理矢理運ばされた」とあるので、当然シモンは喜んで運んだわけではありませんでした。

シモンにとっては、見ず知らずのナザレのイエスという犯罪人の十字架を無理やり背負わされた不運でした。犯罪人の十字架を運ばされるということはシモンとって不名誉極まりないことでした。「なぜ自分が」、と運の悪さを呪ったことでしょう。

しかし、このことは、のちにシモンの栄誉となりました。

聖書はシモンのことを随分詳しく記録しています。アレクサンドロとルフォスという二人の息子たちの名前まで書かれています。

マルコ福音書が記された1世紀の教会では、「あのアレクサンドロとルフォス」の父親という知られ方をしていたのでしょう。アレクサンドロとルフォスは、福音書が記された時代には教会の指導者として皆に名が知られていたのでしょう。だからこそ、マルコ福音書はシモンのことを「あの二人の父親であるシモンが」という書き方をしているのです。

シモンは、後に主イエスの復活を知り、自分があの時背負った十字架はキリストの十字架だった、ということを知ったのでしょう。自分の肩に重く食い込んだあの十字架の痛みは、キリストのための痛みだった・・・そのことがシモンの恥を信仰の誇りへと変えたのです。

シモンは自分の二人の息子たちに、あのイエス・キリストのゴルゴタの道行きの時の話を何度も話して聞かせたのでしょう。ゴルゴタまで、見ず知らずの囚人の十字架を運んだ、ということがシモンの信仰の誇りとなり、そしてそのことが、彼をキリストの証人へと変えたのです。

私たちにとっての信仰の誇りは何でしょうか。それは、私たちがどのようにキリストの十字架を担ったか、そして、今、私たちがどのようにキリストのために自分の十字架を担っているか・・・そういうことではないでしょうか。

私たちの信仰の誇りというのは、人から拍手をもらうような、人間としての誇りではありません。シモンはゴルゴタまで、人間として立派なことをしたのではありません。誰もが嫌がることを、偶然そこを通ったというだけで嫌々やらされただけです。

シモンは主イエスを見ても、メシアだとはわかりませんでした。言われたので、仕方なく運びました。信仰者としては褒められることではありません。ここにシモンの立派さなんてものはありません。むしろシモンの信仰の弱さ・霊的な弱さが現れています。

しかし、この不名誉が、キリストの十字架の意味を知った時に、名誉に変わるのです。キリストを恥としていた人が、キリストを誇りにするようになるのです。自分の霊の弱さが神の御業の中で用いられた、ということがシモンの誇りとなり、彼はキリストの証人となりました。

使徒パウロはコリント教会にこう書いている。

「私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです」

なぜパウロはこんなことを言ったのでしょうか。自分の弱さが神に用いられている、ということ、そして自分が自分の力で福音を伝えているのではないということを知ったからでしょう。

パウロは「私をもっと強くしてください、私の中から弱さをなくしてください」と祈りました。しかし、祈りの中で神から言われます。

「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ発揮されるのだ」

これを聞いてパウロは、強さを求めることをやめました。

「キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と言っています。

パウロは自分の弱さを聖霊がキリストのために用いてくださっていることを知ったのです。私たちの信仰の誇りは、私たちの人間的な弱さを通して生み出されていくものなのです。

イエス・キリストを見捨てた弟子達は、のちにキリストの証人として用いられることになった。弱い罪びとに過ぎなかった弟子達でした。その罪の弱さまでも用いられることになりました。

キリストの十字架を運ぶつもりなど全くなかった、田舎から出てきたキレネ人シモンがしたことが、のちに教会の中で記憶され、聖書の中に記録されることになりました。シモンはゴルゴタの道行きの中で、キリストをキリストとして見ることはできなかった、信仰的には弱い人でした。しかし、シモンのその弱さを通して神の御業は進んだのです。

さて、私たちが今日読んだキリストの十字架への歩み、そして十字架の上での死は、聖書が私たちに描き出す救いの歴史の頂点です。聖書は十字架の残酷さを詳細に描くよりもむしろ、キリストの十字架の意味を伝えることの方に重点を置いています。

キリストが没薬を混ぜた葡萄酒を差し出されてもお飲みにならなかった、ということ、そして兵士たちがキリストの服を分け合った、ということを記しています。それほど重要に思えないようなことを、聖書はわざわざ記録しています。これは何なのでしょうか。

没薬を混ぜた葡萄酒は、痛みを緩和させるためのものでした。しかしキリストはそれをあえて拒絶され痛みを全てお受けになる道を選ばれました。

そしてキリストは服を奪われ、裸で十字架へと上げられ、十字架の下ではその服を兵士たちがくじを引いて分け合った、ということが記されています。

なぜ聖書はそのようなことをわざわざ記録しているのでしょうか。十字架に向かわれる主イエスがお受けになった痛みはすべて聖書の言葉の実現であることを示そうとしているのです。

詩編69:21「嘲りに心を打ち砕かれ、私は無力になりました。望んでいた同情は得られず、慰めてくれる人も見出せません。人は私に苦いものを食べさせようとし、渇く私に酢を飲ませようとします」

詩編22:18「骨が数えられるほどになった私の体を、彼らはさらし者にして眺め、私の着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」

メシアに与えられることになっている苦しみ、孤独、嘲りは全て預言されていました。福音書は、私たちに、旧約聖書を通して預言されていたことは全て、この方の十字架だった、と伝えているのです。 Continue reading

2月20日の説教要旨

マルコによる福音書15:16~20

「兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを弾いていき、部隊の全員を呼び集めた」(15:16)

ローマ兵からキリストが暴力を振るわれた、という場面です。イエス・キリストは夜中に逮捕されてから十字架に上げられるまで、あらゆる仕方で暴力を振るわれてきました。

ユダヤの最高法院の人たちによって有罪とされた際には「ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、『言い当ててみろ』と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った」とあります。

ローマ総督ポンテオ・ピラトに引き渡されて十字架刑の宣告を受ると、鞭で打たれました。そしてその後、主イエスはローマ兵たちへと引き渡され、さらに、たたかれたり侮辱されたりしたのです。

これから主イエスは十字架にくぎで打ち付けられて殺されることになります。兵士たちの役目は、このイエスという人を十字架に上げて処刑することでした。しかし、兵士たちは、連れてこられたイエスという人をすぐに十字架へと送りませんでした。王の格好をさせ、侮辱し、暴力を加えてから十字架へと送ったのです。

この兵士たちは、ユダヤの大きな祭りである過越祭の警備にあたっていた人たちでした。過越祭から暴動が起きたりしないようにらみを利かすのが仕事でした。緊張する役目であると同時に、何もなければ暇を持て余す役目でもありました。退屈して時間を持て余していたところに、「ユダヤ人の王」を自称したイエスという男が連れてこられます。

兵士たちにとって、このナザレのイエスは、愚かにもローマへの反逆を企て事前にそれが発覚し、捕らえられて自分たちのところへと連れてこられた人物にしか過ぎませんでした。ユダヤ人の反乱を主導しようとして失敗した、ただの愚か者です。兵士たちにはこのイエスという人物を大事に扱う理由、愛する理由などありません。どうせこれから死刑になる人間です。

兵士たちがどんな思いで、そしてどのように、また、どれほど主イエスのことを痛めつけたのか、すぐに想像できるのではないでしょうか。

彼らは自分たちの楽しみのために主イエスに侮辱と暴力を加えました。ただ自分たちの楽しみのためだけに、主イエスを使って自分たちを満足させたのです。

ここでは「部隊の全員」が呼び集められた、と書かれています。この「部隊」というのは600人の部隊でした。全員が集められた、ということは、イエス・キリストは600人の兵士たちから侮辱され、たたかれ、唾を吐かれた、ということです。どれほどすさまじい暴力だったか、ということがわかります。

さて私たちは主イエスを侮辱して痛めつける兵士たち、そしてそれを黙って甘んじてお受けになる主イエスご自身の姿に、何を見るでしょうか。

異邦人兵士たちがここで侮辱し、頭をたたき、唾を吐きかけた方は、「ユダヤ人の王」でも、「神への冒涜者」でもありません。聖書はこの方をキリスト・メシアとして証しています。神の右に座し、全世界を統治する権威を神から託される「人の子」と呼ばれるメシアとして伝えています。ユダヤの支配者であっても、ローマの支配者であっても、この方が本当は誰なのかを知ったら青ざめるほどの権威を持った方でした。

その方を兵士たちは今楽しんで侮辱しています。自分の罪を背負い、死んでくださるメシア・この世界の王を、彼らは何も知らず殴り、唾を吐きかけています。

しかし、誰も自分が何をしているのか分かりませんでした。このことは旧約の預言者イザヤはすでに預言していました。

イザヤ書53:1~4

「私たちの聞いたことを、誰が信じ得ようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。」

「私たちの聞いたことを、誰が信じ得ようか」

まさにイザヤが預言した通りです。誰も、自分が痛めつけ、侮辱している相手が神のメシアだと、誰も気づきませんでした。ローマの兵士たちはもちろん、聖書の言葉をよく知っているユダヤの大祭司や律法学者ですら気づきませんでした。何も知らずに自分たちの王を侮辱し、痛みを与える罪びとの姿がここにあります。

まさか自分の目の前に全世界の支配者、神がいるとは誰も思いませんでした。私たちも同じでしょう。何も知らず、神のメシアを侮辱する兵士たちを通して、私たちは神の御心に自分がどれだけ鈍感であるか、ということを見せつけられるのではないでしょうか。

「神の御心」とか「神のご計画」と聞いても、自分の日常からかけ離れた、どこか自分から遠いところにあるように思ってしまうのではないでしょうか。私たちはどこかで、キリストは遠いところにいらっしゃる方だ、遠い時代の方だ、と決め込んでいるのではないでしょうか。

今も目の前にキリストが共にいてくださるということ、キリストが私と一緒の歩幅で歩いてくださっている、ということをどれだけ現実味をもってとらえているだろうか。目に見えない聖霊の力を、導きを、守りを、どれだけ見ようとしているでしょうか。私たちの霊は乏しいのです。だからこそ、聖書を通して、キリストに痛みを与えた人たちの姿を通して反省しなければならないのではないでしょうか。

弱々しく、無抵抗に痛めつけられるイエス・キリストのお姿を見て、「これが本当に全世界の統治者・メシアなのだろうか」、と思わせられます。

エルサレムにお入りになる前に、キリストは弟子達にすでにご自分の受難を予告されていました。

「今、私たちはエルサレムへ上っていく。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭うったうえで殺す」

キリストはエルサレムでご自分を待ち受けている痛みを、侮辱を全てご存じでした。そしてエルサレムに入る前に弟子達を呼び寄せて、ご自分がなぜ殺されるのか、という神の救いのご計画の本質をお話になりました。

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたいものは、皆に仕える者になり、一番上になりたいものは、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」

ローマの兵士たちから侮辱され、たたかれ、唾を吐かれ、鞭うたれるお姿は、実は、ご自分の命を罪人のために身代金として捧げていらっしゃる、キリストの勝利のお姿なのです。

しかし、この時、異邦人の兵士たちから無抵抗に侮辱され、痛めつけられている主イエスの姿の中に、誰が神の勝利を見出すことができたでしょうか。イザヤが「誰が信じ得ようか」と預言した通りなのです。

キリストは弟子達に「人のために仕える」ということをお教えになりました。「私がそうしたように、君たちも、そうしなさい。私が生きたように、君たちも生きなさい」とお教えになりました。つまり、「神と隣人の僕として生きなさい」ということです。

全ての人がイエス・キリストのように生きる・・・すべての人が神の僕として神に仕え、隣人の僕として互いに仕えあう・・・それが、キリストが世に示された神の国なのです。神の支配、神の国とはそういう世界です。全ての人がイエス・キリストの支配の下に生きる、ということで全ての人が神と隣人に仕えて生きる平和の国が実現していきます。

さて、キリストはご自分の受難を予告された際、最後にこうおっしゃいました。

「そして人の子は三日の後に復活する。」

メシアは死に勝る支配をもたらしてくださいます。ご自分を殺す罪びとたちに永遠の命という恵みを下さるのです。

イザヤ書56章のイザヤの預言を最後に引用します。

「主のもとに集って来た異邦人は言うな、主はご自分の民と私を区別される、と。・・・主のもとに集って来た異邦人が主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく私の契約を固く守るなら、私は彼らを聖なる私の山に導き、私の祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。・・・私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。追い散らされたイスラエルを集める方、主なる神は言われる。すでに集められたものに、さらに加えて集めよう、と。」

イザヤは、異邦人への神の招きを預言しました。異邦人の兵士たちはイエス・キリストに唾を吐き、侮辱し、痛めつけた。しかしこの兵士たちでさえ神は招かれているのです。

「自分はあの時キリストに唾を吐いた、私はキリストを侮辱した、だから、自分は神に愛される資格などない」・・・そんなことはありません。もしそこで終わりなら、誰一人神に許されることはないでしょう。私たちは生きてきた中で何度キリストに唾を吐き、キリストを知らないと言い、キリストを鞭打ってきたでしょうか。

神はご自分の独り子を鞭で打ち、唾を吐き、侮辱した異邦人たちの罪を許すために、そんな私達のために、独り子の命をお与えになったのです。

パウロはコリント教会にこう記しています。

「罪と何のかかわりもない方を、神は私たちのために罪となさいました。私たちはその方によって神の義を得ることができたのです。」2コリ5:21

私たちが自分自身の罪の深さを知れば知るほど、それを赦してくださる神の愛の深さを知ることになります。自分の罪を嘆く罪びとの声の大きさよりも、神の招きの声の方が大きいのです。

招きのみ言葉へと霊の耳を開いていたいと思います。イエス・キリストをただ、キリストと信じ、許しの招きに身を委ねた先で、祈りの家に生きることができるのです。

2月13日の説教要旨

マルコ福音書15:1~15

「群衆はまた叫んだ。『十字架につけろ』」(15:13)

ユダヤの最高法院の人たちは、神であると自称したナザレのイエスを死刑にしてもらおうと、ローマ総督、ポンテオ・ピラトのところへと連れて行きました。ローマの支配下において、ユダヤ人たちは誰かを死刑にすることを許されていなかったのです。誰かに死刑の判決を下し、刑を執行するのは、ローマの権威よらなければならなりませんでした。

彼らはローマの総督であったピラトに、「この者はユダヤ人の王と自称しています」と言って引き渡したようです。それはつまり、「この者はローマへの反乱を企てています。十字架刑に処してください」ということです。

ピラトは、自分のところに連れてこられたナザレのイエスを見て、「これは、祭司長たちがナザレのイエスの人気を妬んでやっていることだ。イエスは何も罪を犯していない、ローマにとっても何の危険もない」とすぐに見抜きました。

ピラトは、ユダヤ人たちの問題に振り回されたくはありませんでした。ユダヤ人たちの思惑のために、ローマ総督の権威を利用されたくありません。無実の人間を死刑にすることは、ピラトにだって後味のいいものではなかったでしょう。

しかし、この日はユダヤの祭り、過越祭の当日でした。ユダヤ人たちの民族意識・愛国心が燃え上がる時です。ナザレのイエスをめぐって、ユダヤ人たちの感情が高ぶり、エルサレムで暴動が起こるようなことだけは避けたい、という思いも持っていました。

ピラトは本当はローマ総督の権威をもって「この者は無罪だ。死刑にはしない」と言うこともできました。しかし、それではユダヤ人たちの感情を損ねる、ということを恐れてもいました。

ピラトは現実主義者でした。ユダヤ人たちの感情を損ねずに、ナザレのイエスを解放する方法を考えます。祭りのたびごとに囚人を一人解放する、という習慣を用いることにしました。ピラトは「ユダヤ人の王を自称した」という、ナザレのイエスを助けるよう人々が願い出るだろうと踏んでいました。

しかし、その狙いは外れることになります。群衆が押しかけてきて、いつものように囚人を一人解放してほしいと要求し始めました。

ピラトは言いました。「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」

ピラトは、群衆が「そうです」と言うかと思っていました。しかし、「イエスではなくバラバを釈放してほしい」と群衆は答えたのです。ピラトが主イエスを取り調べている間に、祭司長たちが、群衆をそう言うように扇動していたのです。

聖書には、「暴動の時人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた」とあります。これだけ読むと、極悪非道な犯罪者という印象を受ける。

しかし、バラバは、普通の犯罪者とは違いました。「暴動に加わっていた」ということは、ユダヤのためにローマ帝国と戦った、ということです。「人殺しをして」というのは、ローマ兵を殺した、ということです。

ローマ帝国の支配・抑圧に不満をもっていたユダヤ人たちにとってバラバは、犯罪者ではなく、自分たちの自由のために戦ってくれた英雄だったのです。

それに対して、ナザレのイエスはどうだったでしょうか。この人は、自分で自分のことをユダヤ人の王だと言っているが武器をとってローマと戦うことをしていないじゃないか・・・そのような思いもあったでしょう。

ナザレのイエスは、エルサレムの民衆にとってガリラヤ地方から来た、田舎教師に過ぎませんでした。ユダヤ人のために武器を戦ってもいないのに、そしてエルサレムの人間でもないのに、ユダヤ人の王だと自称しているなんてお笑い草です。

愛国の英雄バラバが釈放されるのであれば、ナザレのイエスを死刑にすればいい。エルサレムの群衆は皆そう思いました。

エルサレムに入って来られた主イエスに対して、人々は様々な反応を示しました。ガリラヤから来た巡礼者たちは、主イエスに向かって「ホサナ」と叫び、歓声をもって一緒にエルサレムに入場してきました。

しかし、エルサレムの人たちは、神殿の境内から商人を追い出したり、律法学者たちと論争したり、神殿の境内で巡礼者たちに神の国の教えを説いたりする「この人は何者だろう」と見ていました。

ここで「イエスを十字架につけろ」と叫んだのは、エルサレムの人たちです。この人たちは、ピラトが主イエスを取り調べている間に、ナザレのイエスは死刑にすべき人間だ、ということを祭司長たちから説得されてしまっていました。

私たちは、これまで、主イエスの受難予告を見てきました。「私はエルサレムで殺されることになっている」と聞かされても弟子達は信じられませんでした。なぜこの方が十字架刑で殺されることになるのか、その理由が見当たらなかったからです。

私たちもそうではないでしょうか。ここまで、この方は何も悪いことをしていません。十字架刑というのは、ローマへの反逆者への見せしめの刑です。主イエスが武器を取って民衆を煽り立て、反乱軍のリーダーとして戦った、というのであれば、十字架刑に処せられる理由になりますが、実際にはそんなことはなさっていません。

ただ、神の国の福音を人々にお教えになっただけです。それなのに、なぜこの方は十字架に上げられることになったのでしょうか。

イエス・キリストは、ピラトによって有罪とされたわけではありません。この方はローマの裁判の中で有罪とされたわけではないのだから、別に「釈放」などされなくてもいいはずなのです。

それがなぜ、最後に十字架へと上げられることになったのでしょうか。「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した」とあります。主イエスに罪を見出したからではありません。ローマの総督が、ユダヤの群衆を満足させるために、この方は十字架へと上げられることになったのだ。

聖書を読んでいて、なぜイエス・キリストが十字架へと上げられたのか、明な理由を私たちは見出すことはできません。主イエスは洪水に押し流されるように、十字架へと上げられていきます。弟子達に見捨てられ、最高法院で有罪判決を下され、群衆に突き上げられたピラトによって十字架刑の宣告をお受けになりました。

どの段階を見ても、正当な手続きは踏まれていません。そして誰一人として、この不当な十字架刑に対して否を唱えていないのです。

我無実の主イエスが次々にいろんなところで有罪とされ、十字架へと追いやられている姿が描かれています。あれだけ力強く奇跡をおこない、人を癒し、悪霊を追い払い、律法学者たち相手に一歩も引かなかった方が、無抵抗に負けていかれるのです。

イザヤ書53章には、神の子が人間の手によって殺されることになる、という預言があります。その預言は、「誰が信じることができただろうか」という言葉で始まっています。

確かにそうでしょう。なぜ、神の子・メシアが、罪人の手によって殺されるのか、そしてなぜそれが罪人にとっての救いなのか、私たち人間の理屈で考えてもわかりません。主イエスが弟子達に見捨てられ、ユダヤ人たちから排斥され、ローマ軍の手によって殺された、ということは、人間が神に勝利したように見えます。

もしも、イザヤ書の預言がなければ、イエス・キリストの十字架刑は、誰もこの方のことを理解せず、歴史の中で記憶されることもなかったのではないでしょうか。一人の犯罪者の処刑として終わっていたのではないでしょうか。

しかし、旧約の預言は、神の救いは、神の子が罪人の罪を担い、身代わりとなって殺されることによって成し遂げられることをあらかじめ伝えていました。

キリストは初めからご自分が十字架にかかることをご存じでした。弟子達に何度もそのことを予告されていました。この十字架の死こそがキリストの勝利だったのです。

キリストが予告した通り、まっすぐに十字架へと歩んでいかれます。弟子達に見捨てられ、ペトロに「そんな人は知らない」と否定され、ユダヤ人たちに逮捕されて有罪とされ、群衆によって「十字架につけろ」と言われ、ピラトに十字架刑を宣告される・・・全て、キリストの計画通り、すべて、神の御心の通りにことが進んでいます。

私たちは、この方が飲み干していらっしゃる苦難の杯に、どれだけ自分の罪を見出しているでしょうか。

イザヤ書53:4

「彼が担ったのは私達の病、彼が負ったのは私達の痛みであったのに、私達は思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだと」

キリストは一人一人の罪を背負っていかれます。

弟子達から見捨てられることで、弟子達の罪を背負われました。ペトロに知らないと言われることでペトロの罪を背負われました。 Continue reading

2月6日の説教要旨

マルコ福音書14:66~72

「ペトロは、『鶏が二度なく前に、あなたは三度、わたしを知らないと言うだろう』とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した」

聖書は、大祭司の屋敷の中と外で同時に起こったことを私たちに描いて見せています。大祭司の屋敷の中では、主イエスが「私こそがメシアだ」と言い現わされ、やがて栄光の雲にのってやってくる神であることを示されました。その時、屋敷の外では「あなたはナザレのイエスの仲間だ」と言われたペトロが自分の身を守るために、「私はそんな人は知らない」と嘘をついていました。

罪人のために命をお捨てになったイエス・キリストと、自分の命を救うためにキリストとは無関係であると偽ったペトロの姿が対照的です。

今日私たちが読んだところは、ペトロに焦点が当てられています。ペトロの姿を通して、我々は、自分のイエス・キリストに対する信仰の姿勢を顧みたいと思います。そして、このペトロのために、この私たちのために命をなげうってくださったキリストの恵みをかみしめていきましょう。

主イエスから離れながらも、遠くからここまでついてきていました。

主イエスは、オリーブ山で弟子達におっしゃいました。

「あなたがたは皆私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ」

弟子達が散り散りに逃げていく羊のようにご自分を見捨てることを予告されていました。

弟子達は「そんなことはしない」と言い、ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません」と言いました。それに対して主イエスは「あなたは、今日、今夜、鶏が二度なく前に、三度私のこと知らないというだろう」とおっしゃいました。

ペトロは心外だと言わんばかりに食い下がって、力を込めて言います。「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは申しません」しかし、オリーブ山に主イエスを逮捕する群衆がやってきた時に、皆主イエスを見捨てて逃げてしまいます。

我々は、ナザレのイエスの弟子であることを否定し、「イエスなんて人は知らない」と言ってしまったペトロのことを弱い信仰者の姿として見がちです。しかし、12人の弟子達の中で、唯一ペトロだけが、この大祭司の屋敷の中庭まで従って来ていたのだ。ペトロは、まだ主イエスを見捨てていません。

しかし、ここでペトロは、「あなたはイエスの弟子ではないのか・あなたはイエスと一緒にいたのではないか」と三度聞かれ、三度否定してしまうことになります。

よく見てみると、ペトロの否定は一度目よりも二度目、二度目よりも三度目の方が強くなっています。

はじめに、一人の女中がペトロを見て何気なく「あなたもナザレのイエスと一緒にいた」と言いました。この「女中」というのは、まだ少女だったでしょう。一人の少女が相手だから、「なんのことだ」と言って、ペトロは相手にせず簡単に逃げることが出来ました。

しかし、その女中は今度はペトロではなく周りの人たちに言います。「この人は、イエスの仲間です」

今度はペトロは聞こえないふり、知らないふりができなくなりました。ペトロがイエスの弟子かどうか、ということが公の問題となってしまったのです。はっきりと言わなければならなくなりました。ペトロはもう一度打ち消します。これで、公に自分がイエスの仲間・弟子ではない、ということを宣言しまうことになります。

周囲にいた人たちは、ペトロのガリラヤのなまりを聞いたのでしょう、「確かにお前はガリラヤ人だ」と言って、ガリラヤのナザレのイエスの仲間かどうかを追求しました。

ここまで言われるとペトロは更にはっきりと、そこにいる全員に対して強く主イエスとの関係を否定しなければならなくなります。

「呪いの言葉さえ口にしながら」とありますが、これは、「誰かを呪う」、という言葉です。ペトロは、誰かを呪いました。もちろん、主イエスのことです。ペトロは確かに主イエスのことを呪いながら、「私はイエスの弟子ではない。私はイエスなど知らない」と言い切ってしまいました。

ペトロは自分がこの場から逃れるのに必死で、オリーブ山でのイエス・キリストから「あなたは今日、今夜、鶏が二度なく前に三度私を知らないと言うだろう」と言われたことを忘れていたようです。呪いとともに主イエスとの関係を否定したその時、鶏の声が聞こえ、オリーブ山での記憶を呼び戻しました。

ペトロは死ぬまで、何度この夜の自分を思い出したでしょうか。そしてそのたびにどれだけ自己嫌悪に陥ったでしょうか。ガリラヤ湖で漁師をしていたペトロは、自分の家を、舟を、家族をあとに残してまで主イエスに従って来ました。ペトロにとって主イエスは自分の家族以上の方でした。この方こそ神の子・メシアだと信じて、そう告白しました。

しかし家族以上に大切に思い、神の子・メシアだと信じた方を、自分の口で呪い、「自分とあの人は関係ない」、と言い切ってしまいました。

ペトロがご自分のことをメシアであると言い現わした時、主イエスは弟子達におっしゃいました。

「神に背いたこの罪深い時代に、私と私の言葉を恥じるものは、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」

ペトロは鶏の声を聴いて、泣き崩れてしまいました。

さて、もうペトロは終わりでしょうか。「イエスなど知らない」と言ってしまったペトロのことを、イエス・キリストは「お前のことなど知らない」とおっしゃるでしょうか。

そうではありません。キリストはペトロに、弟子達に、「あなたがたは皆私につまずく」と前もっておっしゃっていました。キリストはペトロが、弟子達がご自分をお見捨てになることをご存じでした。ご自分を離れ、さまよう羊のように道を失ってしまうことを前もってご存じでした。

だからこそ、前もって、私は復活したのち、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と、再会を約束されたのだ。信仰のつまずきによって、キリストから離れることによって道を見失うことになる弟子達に、行くべき道を、彼らを待っている希望をお示しになっていました。

その言葉通り、十字架で殺され、三日目に復活なさったイエス・キリストは弟子達のために、ご自分の墓の中に言葉を残されていました。空になったキリストの墓で、光り輝くみ使いが告げます。

「さあ、行って、弟子達とペトロに告げなさい。『あの方はあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われた通り、そこでお目にかかれる』と」

み使いは、「弟子達とペトロに」と言います。特別にペトロの名前を言うのです。誰よりも最後までイエス・キリストに従おうと近くについて行ったのに、最後に呪いの言葉を口にしなければならないところまで追い込まれてしまいまい、鶏の鳴き声を聞いて崩れたペトロの苦しみを知っていたからでしょう。

ペトロは泣き崩れました。しかし、その涙は復活のキリストへと立ち返ったところで、喜びと感謝の涙へと変えられます。後悔の涙が喜びと感謝の涙へと変えられる、それが信仰がもつ意味ではないでしょうか。

私たちも何度、これまでの歩みの中でペトロが聞いた鶏の声を聴いてきただろうか。何度、キリストから離れ、キリストを否定する自分を見せつられてきただろうか。そして、これから何度、鶏の声を聞くことになるでしょうか。

私たちの躓きの先には、復活のキリストの招きがあります。つまずきで終わりではありません。私たちの自己嫌悪と涙は何度でも、喜びと感謝の涙へと変えていただけるのです。キリストに従うということは、そういうことなのです。

さて、最後に考えたいと思います。ペトロをはじめ、弟子達はこのつまずきの先で、キリストの招きと召しを受けて、使徒として働き始めることになります。しかし、12弟子の中で一人だけ、使徒になれなかった人がいます。イスカリオテのユダです。

ユダと、他の11人の道を分けたのは一体何だったのでしょうか。マルコ福音書には、もうユダは出てこない。彼がどうなったのかはわかりません。他の福音書を見ると、ユダは自殺した、ということが記されています。

キリストの使徒として生きる道と、自らの命を閉ざす道・・・ユダと他の11人の違いはなんだったのでしょうか。一つだけはっきりしているのは、ユダはキリストに立ち返らなかった、ということです。彼は立ち返る場所にイエス・キリストを見出だしませんでした。キリストを見ようとしなかったユダは、キリストから離れた後、生きる道を失いました。キリストの許しの言葉を、回復の希望を、ユダは自ら断ってしまったのです。

ここに、信仰の分かれ道があります。

キリストの復活の予告に希望を見出し、復活のキリストの許しを得た11人の弟子達は、そしてペトロは、新たに使徒としての道を歩み始めます。命を捨ててくださった方のことを、今度は自分が命を懸けて伝え始めることになったのです。キリストに立ち返ったからです。 Continue reading

1月30日の説教要旨

マルコ福音書14:53~65

「イエスは言われた『そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に、囲まれて来るのを見る』」(14:62)

主イエスはこれまで、神を「父」と呼んで来られました。それはつまり、ご自分が神の子である、ということです。

一週間前にエルサレムに入られた主イエスは神殿の境内から商人を追い出し、そこで神の国の教えを群衆に語って来られました。エルサレム神殿の中でわがもの顔に振る舞うナザレのイエスに、祭司長、律法学者、長老は「何の権威でこんなことをしているのか」と問い詰めます。

その際、主イエスは彼らにぶどう畑のたとえをお話しなさいました。ブドウ園の主人の息子が、ブドウ園の農夫たちに殺されてしまう、というたとえ話です。それは祭司長たちが主イエスを殺す、ということを暗示したたとえ話でした。ブドウ園の主人というのは、神であり、殺される主人の息子は神の子である・・・つまり、主イエスご自身は「神の子・メシアである」ということを暗示した話でした。

また、神殿の崩壊の預言を聞いた弟子達に主イエスは「世の終わりがいつ来るかわからないのだから、備えて、目を覚ましていなさい」「その日、その時は、父だけがご存じである」とおっしゃいました。この世の終わりがいつなのか、自分の父である神のみがご存じである、という言い方です。

神を自分の父と呼び、自分が神の子であるかのように振る舞ってきた。ナザレのイエスに、ついに大祭司は裁判の中で、核心をついた質問をします。

「お前はほむべき方の子、メシアなのか」

神を直接言い表すことを裂けて、「ほむべき方」と言っています。つまりこれは「お前は、結局何者なのだ。神なのか」という質問です。

ここで主イエスははっきりと「そうです」とお答えになりました。

これまで主イエスは民衆に対して、御自分からメシアであることを秘密にしてこられました。ペトロが主イエスに「あなたはメシアです」と信仰を告白した時にも、「それを誰にも言ってはいけない」とお命じになりました。人々がそれぞれ好き勝手なメシア像を持っていたからです。

しかし、ついにここで隠してこられたご自分の本当の権威、神の子メシアであることをユダヤの指導者たちに明らかにされました。ご自分の口ではっきりと、ご自分が天から来た神であり、やがて栄光に包まれて世の終わりに再びやってくるだろう、とおっしゃったのです。

「人の子が全能の神の右の座に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」

旧約聖書の預言書、ダニエル書7章で預言されている、栄光の雲に囲まれてやってくる「人の子」と呼ばれている神の姿こそ、「私だ」とおっしゃったのです。

これを聞いて大祭司は衣を引き裂きながら、「この者は神を冒涜した」と言いました。そして最高法院の人たちは、主イエスを死刑にすることを決議しました。

メシアである主イエスがご自分をメシアとおっしゃった、ということで、なぜ死刑の判決になるのでしょうか。主イエスは、本当のことをおっしゃっただけなのです。主イエスがおっしゃったことが本当であるなら、何の問題もないはずです。これは真実を明らかにする「裁判」なのですから。

しかし、最高法院の人たちは、この主イエスの言葉を受け入れませんでした。それを信じることができなかったからです。

私たちは、考えたいと思います。人間の裁きとは何なのでしょうか。本当に人間は、正しく人間を裁くことができるのでしょうか。

聖書の中には、神の裁きを待ち望む弱い人たちの叫びがたくさん残されています。「主よ、私はあなたの裁きを待ち望みます」といろんな時代の信仰者が祈りが記録されています。

なぜでしょうか。人間の裁きが不完全だからです。罪の力に支配されている人間は、自分に引き寄せた裁きをしてしまうのです。良いものをよい、悪いものを悪いとする、ということは、人間には難しいのです。自分の都合の良いように裁きを行ってしまいます。人の裁きを左右する、他の力が働いてしまいます。

この夜の最高法院の人たちを見ればわかります。これはもともと主イエスを死刑へと陥れるための裁判でした。「ナザレのイエスは死刑だ」、ということがもともと決まっていたのです。主イエスは正しい裁きの中で有罪とされたのではありません。愚かな罪びとの裁きの中で、甘んじて有罪判決をお受けになったのです。

私たちは、この裁判を通して考えたいと思います。人は神を裁くことができるのでしょうか。神を裁く人間とは一体何なのでしょうか。

私たちは今、十字架へと追いやられるイエス・キリストのお姿を見ています。それは、罪の力がキリストを十字架へと運ぶ姿であり、キリストが罪を全て背負っていかれるお姿です。

主イエスはご自分に死刑の宣告をした、この最高法院の人たちの罪を今、背負われました。神に仕えるはずの祭司や律法学者たちが神に死刑判決を下した瞬間です。その罪を、神ご自身が背負われるのです。

私たちは、受難の道を行かれるイエス・キリストの周辺に自分の姿を見出します。私達はあの時キリストを十字架へと追いやる大勢の人たちの中にいたのです。キリストを引き渡すユダ、キリストを見捨てる弟子達、キリストを裁き有罪とした最高法院の人たち、そしてこの後、十字架刑を宣告するローマ総督ポンテオ・ピラト・・・。私たち一人一人が、キリストを見捨てた弟子達の中に、キリストを陥れる偽の証言をした人の中に、死刑を決議した人の中に、唾を吐き、殴った人の中に確かにいたのです。

最後の晩餐からイエス・キリストの十字架の死にいたるまで、私たちは、自分の姿をここで見せつけられることになります。自分の罪を見つめなければならないのです。そして、その罪をご自分の身に引き受けていかれるイエス・キリストの愛を見せつけられることになります。

主イエスは世の終わりにご自分が栄光に包まれて再び来る、とおっしゃいました。エルサレムへの旅の初めに、主イエスは3人の弟子達を山の上へといざなわれた。3人はそこで栄光の光に輝き、天の雲に包まれるイエス・キリストのお姿を見ました。最高法院の人たちに主イエスがおっしゃった栄光の天の雲を、弟子達は、既に見たのです。

キリストの復活を見た弟子達は、その栄光を伝えるようになりました。弟子達は十字架の死から復活なさったイエス・キリストを一生涯伝え続けたのです。

ペトロは後に、自分の手紙の中でこう書いている。

「私たちの主イエス・キリストの力に満ちた栄光を知らせるのに、私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これは私の愛する子。私の心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉と栄光をお受けになりました。私たちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聴いたのです」

一度は見捨てて逃げ去った主イエスを、なぜ弟子達は一転して、命をかけて伝え続けたのでしょうか。最後の晩餐から十字架に打ち付けられるまでの、あのキリストの最後の夜を一生涯忘れることが出来なかったからでしょう。あの夜の自分の罪を忘れることが出来なかったからです。

弟子達は主イエスを見捨てて逃げました。しかし、あの方は自分たちを許し、ガリラヤでの再会を約束してくださいました。あの夜、キリストはイザヤが預言した苦難の僕として甘んじて罪びとからの痛みをお受けになりました。そしてその先にある、ダニエルが預言した人の子・栄光の雲につつまれる神の再臨をお示しになりました。

使徒言行録を見ると、ペトロは多くの人たちに証言したことが記されている。

「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」

ゴルゴタの丘で主イエスを十字架へと追いやった人たちは、ペトロの言葉を聞いて恐れました。そして恐れを抱いた人たちは皆、悔い改めの洗礼を受け、キリストの許しへと立ち返った。

一度は逃げたペトロでした。しかし、キリストが復活なさったのち、自分の命をかけて、キリストの復活を証言し続けました。自分の罪を知った者、そしてその罪が許されたことを知った者は、その罪を担ってくださった方のことを証言する者へと変えられるのです。そしてその証言が、また新たな証言者を生みだしていきます。

結び

人となられた神が自分たちの目の前にいらっしゃり、「私はやがて神の座に着き、天の雲に囲まれて来るだろう」とおっしゃったのを聞いても、祭司長や律法学者たちは、信じなかった。罪によって信仰の目が曇っていたからだ。

キリストの十字架は、復活へとつながっていきます。私たちには、罪びとでありながら、神の元へと立ち返る道が拓かれた。主の復活で、雲が払われたのです。

私たちの一生は、イエス・キリストの後を追い、離れていた神の元へ立ち返る旅です。 Continue reading

1月23日の説教要旨

マルコ福音書14:53~65

「しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった」(14:61)

「2000年前に生きて、十字架で殺され、そして墓からよみがえったと言われているイエスという人は一体何者だったのか」・・・これは、どの時代にも人類に投げかけられてきた問いです。

ある人は、「イエスは人類に道徳と愛の模範を示した人だった」、と言います。ある人は、「イエスは、ローマへの反乱を主導したユダヤの民衆のリーダーだった」と言います。

当時のガリラヤの民衆は主イエスのことを「預言者」として見ていました。また、当時のエルサレムの最高法院の人たちは、神殿で我が物顔に振る舞い、勝手に神の国の教えを語る厄介者として見ていました。そして弟子達は主イエスのことをメシアだと見ていました。

主イエスは弟子達だけに「私はエルサレムで殺されることになっている。そして三日目に復活する」と前もっておっしゃっていました。聖書は、この方を、神の愛の律法を完成させた神の子、メシアだと言います。御自分の命を犠牲にして、天の国に用意されている永遠の命をお示しくださった方として私たちに伝えているのです。

私たちはついに、イエス・キリストが御自分がメシアであることを公に宣言なさった場面を読みました。大祭司の屋敷へと連行され、最高法院の人たちが全員集まっているところで「お前は一体何者か」と問われ、ついに、その場で公にご自分が何者であるのかを宣言されたのです。

「お前はほむべき方の子、メシアなのか」ときかれ、主イエスは「そうです」とお答えになりました。それだけでなく、「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」とまでおっしゃいました。

祭司長たちは、この一言で主イエスを有罪とします。神を自称して、神を冒涜した罪で死罪としました。いよいよ、イエス・キリストは十字架へと送られていくことになります。御自分が救おうとなさっている罪びとたちによって十字架へと上げられていく主イエスのお姿をしっかりと見つめていきましょう。

これは主イエスにとって不公平な裁判でした。夜中に逮捕され、そのまま大祭司の屋敷という個人の家に連れていかれ、そこに最高法院の全員がすでに集まって待ち受けていました。時間も場所も、手続きも、めちゃくちゃです。そこに集まった最高法院の人たちは、主イエスが有罪か無罪かを判断するためではなく、死刑にするために集まっていたのです。もう判決は決まっていました。そのために、偽の証言をする人たちまで前もって雇われていました。

裁判の中で何人もの人が、証人として発言します。「イエスは自分で神殿を壊し、新しい神殿を建てると言った」。

実際には主イエスはそんなことをおっしゃっていません。神殿の立派さに感動していた弟子達に「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とおっしゃっただけです。

おそらく、この時の言葉を聞いたユダが、「イエスは神殿についてこんなことを言っていた」と、祭司長たちに事前に伝えていたのでしょう。それが曲げられた形で証言されています。

主イエスは、本当であれば、「私はそんなことを言っていない」と言い返すこともお出来になったのに、黙っていらっしゃいました。大祭司自身が不審に思って主イエスに尋ねます。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」。しかしそれでも、イエスは黙り続けて何もお答えにならなかった、と記されています。

弟子のペトロは、この時のキリストの沈黙についてのちに手紙の中でこう書いています。キリストは「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。」

預言者イザヤは、イザヤ書53:7で神の救いの御業のために自分を犠牲にする苦難の僕について預言しています。

「彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように。毛を切るものの前にものを言わない羊のように、彼は口を開かなかった」

ペトロは預言者イザヤが預言していた苦難の僕の姿をイエス・キリストの沈黙に見出したのです。手紙の中で「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」、とそのイザヤの言葉を引用しています。

主イエスは偽の証言に対して、申し開きすることはいくらでもお出来になったはずです。しかし、ご自分を十字架へと追い立てるこの罪びとたちを救うために、黙ってすべてを甘んじてお受けになったのです。

このキリストの沈黙を通して、神の大きな救いの御業が実現しようとしています。証言した人たちは「この男が『私は人間の手で作ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で作らない別の神殿を建てて見せる』というのを、私たちは聞きました」と言いました。

これは偽の証言だったので、結局彼らの証言は食い違ったものになりましたが、皮肉にも、この人たちの言葉は現実のものとなっていくことになります。

「人間の手で作った神殿は壊れる」・・・確かにそうなりました。

「人間の手で作らない別の神殿が建てられていく」・・・これも後に実現しました。

私たちは、人の手によって作られたものが必ず壊れるということを知っています。どんなに人間の技術の粋を集めた建築物でも、どんなに立派な神殿であっても、それは結局は「人の手によるもの」なのです。

建築物だけではありません。国もそうです。人間が作り上げた国も、永遠には続きません。人間の支配の華々しさは一瞬です。空しいものです。

旧約の時代にイスラエルを苦しめたアッシリアも、バビロンも、ペルシャもローマも、すべて滅んでしまいました。あれだけ繁栄を誇り、強かった国々が、わずか100年、200年で消えていったのです。どんなに国境を広げようが、他国の人を奴隷にしようが、強い武器を持とうが、人間の支配は時間がたてば消えていきます。

残るのは何か・・・それは「人の手によらないもの」です。言葉を変えると、神の手・言葉によるものが残るのです。

ソロモンがエルサレム神殿を建てたとき、神はおっしゃいました。

「もしあなたたちとその子孫が私に背を向けて離れ去り、私が授けた戒めと掟を守らず、他の神々のもとに行って仕え、それにひれ伏すなら、私は与えた土地からイスラエルを断ち、私の名のために聖別した神殿も私の前から捨て去る。こうしてイスラエルは諸国民の中で物笑いと嘲りの的となる。」

この神の言葉は本当に実現してしまいました。不信仰に陥ったイスラエルは、バビロンに滅ぼされ、神殿も破壊されてしまうことになりました。

神の子イエス・キリストを裁いたイスラエルは、キリストの裁判から40年後にローマ軍によってエルサレム神殿を破壊されることになります。

人の手によるものは、壊れるのです。神を捨てると、神殿は壊れるのです。

イエス・キリストは、人の手によらないものをこの世にもたらしてくださいました。パウロはコリント教会に向けてこう書いている。

「我々は神のために力を合わせて働く者であり、あなた方は神の畑、神の建物なのです。・・・あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。・・・あなた方はその神殿なのです。」

キリストは、私たちを建ててくださいました。私たちキリスト教会が神の神殿なのです。ここは霊の神殿です。ここには聖霊による神の支配があります。そしてここには神が導き入れてくださる永遠の命があるのです。

ヘブライ人への手紙9:11にこう記されています。

「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で作られたのではなく、すなわち、この世のものではない、さらに大きく、さらに完全な幕屋を通り、雄ヤギと牡牛の血によらないで、ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

キリストは、我々罪びとが流すはずだった血を、ご自身が引き受け、十字架の上で全身の血を流してくださいました。キリストを十字架へと追いやった我々の代わりに、です。説明のつかない、許しの御業です。

キリストは、そのような仕方で人の手によらない、神の御手による霊の神殿をこの世にお建てになったのです。

今、我々は、聖書を通してイエス・キリストの十字架への歩みを見ています。 Continue reading

1月9日の説教要旨

マルコ福音書14:43~52

「ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、『先生』と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。」(14:45~46)

ゲツセマネの祈りを終えた後、イエス・キリストは弟子の一人ユダに率いられた群衆によって逮捕されました。私たちは、これからイエス・キリストがイザヤが預言した「苦難の僕」として、夜通し痛みを与えられ苦しんでいかれるお姿を見ていくことになります。

ユダが剣や棒をもった「群衆」を手引きして来ました。この「群衆」というのがユダヤ人兵士なのか、神殿の警備をしていた警察のような人たちなのか、細かいことは書かれていません。ただ、ここで分かっているのは、この「群衆」は、祭司長や律法学者、長老といった、ユダヤの最高法院によって遣わされた人たちだった、ということです。

過ぎ越しの食事を終えて弟子達がゲツセマネに向かい、主イエスが祈っていらっしゃる間に、ユダは他の弟子達から離れて、逮捕の一団を呼びにやったようです。そして自分でその一団を率いてきました。ユダはすでに、最高法院の人たちとの取引を終えていたので、この時、懐には祭司長たちから与えられた銀貨が入っていたでしょう。

主イエスは何日も神殿にいてたくさんの人に神の国の教えを話してこられたのですから、その顔を知っている人たちは大勢いたでしょう。それでもユダは、念には念を入れて、暗闇の中で逮捕する相手を間違えないように、「私が口づけして挨拶するのがイエスだ」と打ち合わせをしてやってきました。「接吻」とは頬と頬をあわせる、親愛を示す挨拶です。これが、ユダの裏切りの合図でした。皮肉にも、ユダは主イエスへの愛情を示し仕方で、裏切ったのです。

私たちはここに神に対する人間の罪を見ます。このキリストに対するユダの姿は、神に背き続ける歴史を作ってきたイスラエルそのものではないでしょうか。イスラエルの歴史は、神の恵みに喜び、すぐに誘惑に負けて神を離れ、その先で苦しみ、再び神に許していただく、ということの繰り返しでした。

神に対して面と向かっては、いい顔をするのです。しかし、神に向かって親愛の情を示しながら、わずかな地上の富、一時の地上の快楽・安心を求めて、心が離れてってしまう・・・それこそ、イスラエルの不信仰の歴史です。

主イエスはユダの口づけがどのような意味をもっているのか、全てご存じでした。それでも、ここでユダを叱ることもせず、拒絶することもせず、黙って彼がすることに身をゆだねていらっしゃいます。

神は、預言者イザヤの口をとおしておっしゃいました。

「地の果てのすべての人々よ、私をあおいで、救いを得よ。私は神、ほかにはいない。私は自分にかけて誓う。私の口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない」(45:22)

神は、地の果てのすべての人々に向かって、全世界のすべての人間に向かって、「私のところに戻ってきなさい」と招かれます。本当は、ユダだって、招かれているのです。

しかしユダは目の前に神の招きを見ながら、口づけをもって神に背を向けました。罪の力の働きが、ここにあります。そして、キリストは苦難の僕として全てをご存じの上でユダの罪の業を受け入れられました。神の愛の招きがここにあります。

主イエスはユダと、武装した群衆を相手に、最後まで無抵抗で通されました。近くにいた人が、主イエスを守ろうとして剣を手に取って逮捕の一団に襲い掛かります。ご自分の目の前で争う人たちに向かって主イエスはおっしゃいました。

「まるで強盗にでも向かうように、剣や棍棒を持ってとらえに来たのか。私は毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちは私を捕えなかった」

ここで争う必要はないのだ。

主イエスを捕えようとする人と、主イエスを守ろうとする人、どちらに正義があるのでしょうか。

真夜中に武装した群衆が一人の人を捕えに来る、ということ、それ自体が異常なことでした。正当な理由があれば、白昼であっても、そこに群衆がいても、逮捕の理由を堂々と告げてからとらえることができるはずでした。この行動の中にすでに、最高法院の人たちが抱えている疾しさが表れています。自らの罪に目を向けるよう主イエスは促されました。

主イエスは無抵抗でした。ただ一言、ご自分の無抵抗の理由をこうおっしゃいました。

「これは、聖書の言葉が実現するためである」

祭司長たちはなぜ主イエスを逮捕したのでしょうか。それは、ナザレのイエスが、自分たちの律法の理解と違うことを民衆に教えていたからです。祭司長たちは、神の言葉である律法を正しく守るためにナザレのイエスを排除しなければならないという自分たちの正義のために、このようなことをしました。

しかし、神はこの夜の主イエスの逮捕をどうご覧になっていたでしょうか。

イザヤ書にこう記されています。

「彼が担ったのは私たちの病。彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と」

主イエスを捕えに来た群衆、ユダ、祭司長や律法学者たちは、自分たちに正義があると信じていました。「自分たちは神のために自分たちは働いている、自分たちは正義だ」と思っていました。

しかし、イザヤの預言を通して、この主イエスが逮捕されるお姿を見ると、御自分を捕えに来たすべての人たちの罪の病を自ら背負っていらっしゃる苦難の僕であることが見えてきます。

ここで主イエスがおっしゃった、「聖書の言葉が実現するため」とは、聖書の中の、どの言葉のことなのでしょうか。主イエスがついさっき弟子達におっしゃったゼカリア預言の言葉です。

「私は羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」

そのゼカリアの預言通り、「弟子達は皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とあります。主イエスにとって、ご自分が捕らわれること、そして弟子達全員から見捨てられることは驚きではありませんでした。それが神の御心だったのです。それも苦難の僕として与えられることになっていた痛みでした。むしろ、主イエスはこの瞬間のために祈りながら備えて来られたのです。主イエスはゲツセマネで「御心が行われますように」と祈られました。それは、「必要な痛みを全て受け入れます」ということだったのです。

さて、ユダの口づけによって逮捕され、弟子達全員に見捨てられた後に、一人の若者が必死にその場から逃げ去ったことが記されています。

不思議な記述です。いったい誰なのか、なぜこの人がその場から逃げ出したのかも記されていません。12弟子の一人なのかどうかさえもわかりません。

ただ、聖書は「一人の若者が裸になってまで必死に、無様に逃げた」、ということを短く記しています。この人が一体何者なのか、ということは推測するしかありません。

イエス・キリストに従って来た人でしょう。若者は「素肌に亜麻布をまとっただけの格好をしていた」、とあります。以前、主イエスがガリラヤで弟子達を宣教に遣わされたとき時、こうおっしゃいました。

「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして下着は二枚着てはならない」

主イエスの、「身一つで神の国を宣べ伝えなさい、身一つで私に従いなさい」、という教えをこの若者は、忠実に守っていたようです。ただ、亜麻布を一枚体にまとって従っていた、ということがこの若者の信仰の姿勢をよく表しています。

しかし、このようなまっすぐな信仰を持った人であっても、主イエスが逮捕されるのを見て、たった一枚の持ち物である亜麻布を取られて、裸になってでも逃げだしたのです。

いったいこの人は誰なのでしょうか。この若者は、私たちです。聖書は、「裸でキリストを見捨てて逃げ出したこの若者こそ、あなたの罪の姿だ」と見せつけているのです。

強い決心をもってキリストに従おうとしても、何かがあるとキリストを置いて逃げてしまう・・・キリストを見捨ててその場から逃げ出そうとする弟子達であり、また私たち信仰者のありのままの姿だ。

私たちは主イエスが弟子達におっしゃった言葉を思い出すのではないでしょうか。

「心は燃えても、肉体は弱い」 Continue reading

1月2日の説教要旨

イザヤ書11:1~5

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主イエスの霊がとどまる」(11:1)

インマヌエルと呼ばれるメシアの誕生をイザヤは預言しました。イザヤ書の中にはメシア預言と呼ばれる、救い主の誕生を示す言葉がいくつも記録されています。

イザヤがインマヌエルのメシアの誕生を預言したのは、イスラエルが一番神を信頼していない時・イスラエルが一番神から離れた時でした。

これまでも見てきたように、BC8世紀、イザヤの時代のイスラエルはアッシリアという巨大な帝国の脅威の中で生き延びようともがいていました。王をはじめ、王宮にいる政治家たちは、「ただ神に頼れ」という、イザヤが伝える神の言葉を受け入れず、神ではなくアッシリアにひれ伏すことで生き延びようとしていました。

イスラエルが、どんどん神から離れ、神の支配ではなく、外国の支配、人間の支配を求めて、罪の闇へと深く落ちていった時代です。

神ではなくアッシリアを自分たちの救いとしたユダ王国の指導者たち、国民に向かってイザヤは滅びを預言しました。しかも、自分たちが頼ろうとしているアッシリアによってユダ王国は滅ぼされると言ったのです。

しかし、イザヤの預言は、滅びの預言だけでは終わりませんでした。不信仰による滅びの闇の中にメシアの光が与えられ、再びイスラエルは新しくなって立ち上がることを預言したのです。

ここまで、イザヤは、インマヌエルと呼ばれるメシアの誕生を預言してきましたが、今日読んだ11章で、そのメシアがどのようなメシアなのか、ということをかなり具体的に伝えています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」

エッサイというのは、ダビデの父親の名前です。つまり、ダビデの子孫からメシアが生まれる、ということです。

3節にはこうあります。

「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。」

やがて来るメシアは目と耳を頼りにして裁きを行う方ではない、と言うのです。普通は目と耳で人を裁きます。見えるものだけ、聞こえるものだけで判断するのが人間です。

神がダビデを召し出された時、こうおっしゃいました。

「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」

神は、目と耳ではなく、心によってご覧になるとおっしゃっています。やがてこの世に生まれるメシアも、「目に映ること」ではなく「心によって見る」方なのです。人の支配を超えた「神の支配」によって世を治められる方として言われています。

4節を見ると「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」とあります。普通、王というのは一番の特権階級です。王は、自分の強さの下に人々を置いて支配する、と考えられています。

しかし、やがて来られるメシアは、王であることを自分の特権としてとらえず、最も弱い人たちのために働く僕として人々に仕える方であるとイザヤは言います。そのようにして、正義によって支配してくださり、平和を実現させる方なのです。

上から押さえつけて支配するのではなく、御自分が人々の足元から支えるメシア・・・その方の支配は、人間の支配とは決定的に異なっています。

私たちは、2000年前にベツレヘムにお生まれになり、ゴルゴタの丘で十字架刑に処せられたイエスという方こそ、イザヤが預言したメシアだと信じています。イザヤの預言と、新約聖書に記されているキリスト証言を照らし合わせてみると、まさにこの方がインマヌエルの君、メシアであることがわかります。

主イエスはヨセフというダビデの系図に連なる人を父とし、この世にお生まれになりました。文字通り、人々から「ダビデの子」と呼ばれ、神の国の福音を伝え、神への立ち返りをお求めになりました。この方は「私が来たのは、罪びとを招くためである」とおっしゃった。

イエス・キリストがポンテオ・ピラトの前に引き出された時、こうおっしゃっています。

「私の国は、この世には属していない」(ヨハネ18:36)

ピラトは不審に思い、「やはり王なのか」と尋ねます。キリストは、「私は真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聴く」とおっしゃいました。

キリストはこの世の王、地上の王、人間の王となるために来られたのではありません。イザヤが預言したように、この世に神の国をもたらし、神の国の王となるためにお生まれになったのです。神の恵みの支配の中にすべての人を招き入れるために来られました。

主イエスは弟子達にこうおっしゃいました。

「私は羊のために命を捨てる。私には、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聴き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群になる。私は命を、再び受けるために、捨てる」

イエス・キリストは羊のために命を捨てる羊飼い、罪びとのために命を差し出す王でした。イザヤの預言通り、恵みがまず弱い者へと、貧しい者へと向かうのです。そのような支配をもたらすために、キリストは世に来られたのです。

私たちは、この方が、神の恵みの支配をこの世にもたらすために、よい羊飼いとして羊を守るためにどれほど戦われた、ということを覚えたいと思います。

イザヤは2節でこう言っています。

「そのうえに主の霊が留まる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、種を知り、恐れ敬う霊。彼は主を恐れ敬う霊に満たされる」

この言葉通り、イエス・キリストは神を恐れる方でした。イエス・キリストのゲツセマネの祈りにそのことが一番明らかに表れているでしょう。キリストは血のような汗を流しながら「私から苦難の杯を取り除けてください」と祈られました。そして、「しかし私の願いではなく、あなたの御心のままに」とおっしゃいました。

罪人の犠牲となるために自分の命を捧げることができるよう、キリストは祈りの戦いをされたのです。神の救いのご計画・神の御心に対する恐れがあったからこそ、キリストはゲツセマネから逃げ出さずに、祈りをもって留まってくださいました。

イエス・キリストは救い主と呼ばれています。「救い」とは何でしょうか。罪の支配から導き出され、神の支配へと入れられることです。もっと簡単に言えば、「迷い出た羊が、羊飼いの元に連れ戻されること」です。そこに安心があります。

イザヤは、神から離れた闇にいる人たちを連れ戻すために、メシアが言葉を用いられる、ということを預言しています。

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「その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる」 Continue reading

12月26日の説教要旨

イザヤ書8:16~9:6

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」(9:5)

クリスマスを迎え、私たちは救い主・イエス・キリストがこの世界にお生まれになったことを共に礼拝の中で祝いました。「救い主がお生まれになった」、ということを祝い喜んでいますが、それではあらためて、「救い」とは何なのでしょうか。私たちがこの方によって「救われた」、というのはどういうことなのでしょうか。

イエス・キリストという救い主は、私たちを何から救い出してくださったのか、そしてどのように救い出してくださったのか、それを知らなければクリスマスの本当の喜びは分からないでしょう。

多くの人は、「自分は誰かに救われなければならないような危機的な状況にはない」、と言います。聖書が言っている「罪からの救い」について聞いても、「自分は罪人呼ばわりされるようなことはしていない」と言います。

しかし、聖書が私たちに伝えている「罪」とは、「神から離れて生きていること」であることを知ると、誰も罪とは無関係だとは言えなくなるでしょう。「神など必要ない、救いなど必要ない、キリストなど知らなくてもいい」と言っている人こそ、実は聖書が伝えている罪の闇は深いのです。

この世にお生まれになった救い主、メシアはどのように「神から離れた暗闇」から私たちを解放してくださったのか、今日もイザヤ書の言葉を見ていきたいと思います。

BC8世紀のイザヤの時代のユダ王国は揺れていました。アッシリアや、周辺諸国の圧力の中でどう生き延びるか、ということに汲々としていました。ユダ王国の王、アハズは結局アッシリアの支配に入ることにします。イザヤはそれに対して「人ではなく神に頼れ。静かにしていなさい」と伝えました。しかし、外国の圧力の前に静かにしていることなんてできないアハズ王は、イザヤが伝える言葉を聞きませんでした。

神は、ご自分の言葉をイスラエルに伝えようと預言者を送って来られました。

18節でイザヤはこう言います。

「見よ、わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である」

実は、イザヤとイザヤの二人の息子たちがユダ王国に送られた、ということ自体が、神がユダ王国に示された救いのしるしだった、というのです。

「イザヤ」は、「神は救い」、という意味の名前です。

イザヤの長男の「シュアル・ヤシュブ」は、「残りの者は帰ってくる」という意味の名前です。

次男の「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」は「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」という意味の名前です。

この親子の名前そのものが、イスラエルに示された神のメッセージでした。「神を自分の救い」とする限り、「生き残ることができる」が、そうしないのであれば「侵略されてしまう」、ということが、イザヤ親子の名前を通してユダ王国に象徴的に示されていたのです。

しかし、ユダ王国の人たちは、イザヤと二人の息子たちの姿や名前には目を向けず、イザヤが語る言葉に従うこともありませんでした。

ただ、周辺諸国の軍隊とアッシリアの強さにだけ心が向き、神以外のところに救いを求めていたのです。

8:16でイザヤは「私は弟子達と共に証の書を守り、教えを封じておこう」と言います。聞く耳を持たないのであれば、語る言葉を聞かせない、ということです。神の言葉を語ることをやめ、教えを記録の中だけに封じ込めたのです。

そして、これからユダの人たちがどうなるか・何に苦しむか、ということを預言した。

「この地で、彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。」

かなり厳しい口調です。神の言葉を聞かなかった人たちは、神の言葉が聞こえなくなる、そして今度は、神の言葉を聞こうとしても与えられなくなる、と言うのです。

イザヤと同じ時期に北王国で預言活動していたアモスも同じようなことを言っています。

「見よ、その日が来れば、と主なる神は言われる。私は大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へとめぐり、北から東へとよろめき歩いて主の言葉を探し求めるが見出すことはできない」

神の言葉を聞こうとしない人には、神の言葉が与えられなくなるという苦しみが待っている、と預言者たちは言います。イザヤは「今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」とまで言っています。

さて、8:23まで読むと、神の招きに背を向けたイスラエルはもう終わりだ、神に見捨てられた、と思うのではないでしょうか。もう神を見出すことはない、神の言葉が与えられることのない闇の世界になるのか、と思えます。

しかし、イザヤがこれらの滅びの言葉の後に、神はそれでも裏切りのイスラエルを追いかけてくださる、ということを預言しています。

「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、のちには海沿いの町、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」

イザヤは暗闇の中に光が差し込む救いの預言を語り始めるのです。

確かに、イザヤが言ったように、神の言葉に耳を貸さなかったユダ王国は、皮肉にも自分たちが助けを求めたアッシリアの軍隊に国を蹂躙されることになります。アッシリアの軍隊は北からやってきて、海沿いの町々を薙ぎ払っていきます。ここに出てくる「ゼブルン」や「ナフタリ」というのは、北の国境の土地です。つまり、北からからやってくる軍隊に一番先に侵略される場所です。それらの土地は、アッシリアの軍隊による破壊によって暗闇となりました。

しかし、イザヤはそれらの場所こそのちに「栄光を受ける」と預言する。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住む者の上に、光が輝いた」

イザヤは、罪による滅びが与えられた一番闇の深い場所に神の栄光の光がもう一度差し込まれることを預言するのだ。そして9章に入り、それらの場所を踏みにじった軍隊が、今度は滅ぼされることをほのめかします。

神に背を向けたイスラエルは、神に見捨てられて終わり、というのではありませんでした。罪の闇に栄光の光が与えられる、とイザヤは預言するのです。その光とは、一人の男の子の誕生でした。。

「ひとりの嬰児が私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。権威が彼の方にある。その名は、『驚くべき指導者、地からある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」

罪の中に差し込む救いの光、それは、メシアの誕生でした。神の言葉を聞こうとしても聞くことができない飢え渇き、主の言葉を聞くことができない苦しみから救い出してくださるメシアがお生まれになる、という救いの預言です。

聖書は、2,000年前にガリラヤで神の国の福音の宣教を始めたイエスという方にこのイザヤのメシア預言の実現を見ています。ヨハネ福音書は、このイエスという方こそ、神の言葉であった、ということを証します。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった・・・光は暗闇の中で輝いている。・・・言は肉となって、私たちの間に宿られた。「

イエス・キリストは神の言葉に飢え乾く暗闇の中に与えられた神の言葉そのもの・命の光だったのです。 Continue reading