MIYAKEJIMA CHURCH

06月20日の説教要旨

マルコによる福音書10:46~52

「『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(10:52)

マルコ福音書は、イエス・キリストの公の生涯を大きく三つに分けて伝えています。ガリラヤ地方での宣教、エルサレムへの旅、エルサレムでの最後の7日間です。今日の場面は福音書の第二部、キリストと弟子達のエルサレムへの旅の最後の所になります。

主イエスのエルサレムへの旅は終わろうとしています。エルサレムの手前にある町エリコに到着しました。これからエルサレムに入り、キリストの受難への秒読みが始まろうとするまさにその時、一人の目の見えない人が主イエスのお名前を叫びました。

バルティマイという名前の人でした。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。」バルティマイは人々から「黙れ」と叱られても、主イエスを求めて叫び続け、その声は主イエスの耳にまで届き、バルティマイは目を開かれるのです。

イエス・キリストの旅は、ベトサイダという村で目の見えない人を癒されるところから始まっています。そしてこの旅は、エルサレムに到着する直前にバルティマイという人の目が癒されることで終わっています。

主イエスのエルサレムへの旅が、盲人の癒しで始まり、盲人の癒しで終わっている、ということには、象徴的な意味があります。イエス・キリストと共に歩む・生きるということは、「目が開かれる」、ということであり、霊の目が開かれた人はキリストと共に人生の旅を続けるということです。

皮肉なことですが、イエス・キリストの弟子達は、ガリラヤからエルサレムまで主イエスと旅を共にしながらキリストの教えの本当の意味、キリストの本当のお姿がまだ見えていませんでした。弟子達はまだ霊の目は開いておらず、信仰の道は見えていません。

エルサレムに入る直前になっても、弟子達が求めていたのは、主イエスが栄光の座にお着きになる時に自分もそのそばにおいてほしい、自分にも栄光の分け前が欲しいという、この世での偉さでした。

主イエスはこの旅の中で弟子達に繰り返し神の国の教えを語ってこられました。「神の国に入るには子供のようにキリスト・神を求め、受け入れなければならない」「この世で偉いとされている人は、神の国では偉いとはみなされない」「先にいる者が後になり、後にいる者が先になる」

しかし、そう言われても弟子達は理解できませんでした。弟子達がこの旅の間考えていたことは、「誰が一番偉いのか」ということでした。神の国に入るために小さい者になろう、皆に仕える者になろう、そして子供のようにイエス・キリストを求めよう、と考えるには至りませんでした。キリストのことを理解しないまま、エルサレムの手前まで来てしまったのです。

エリコは、エルサレムへと向かう巡礼者が止まる最後の町です。エリコに来るまでに、主イエスの一行にはたくさんの巡礼者たちが加わりました。もうすぐ過越祭があるのです。彼らは早く神の都エルサレムに入りたいと思っていました。それなのに、一人の目の見えない物乞いが大声を上げて主イエスを引き留めようとします。弟子達も巡礼者たちも、バルティマイを叱りました。このバルティマイという人が、これからエルサレムに巡礼に向かう人たちに、本当に求めるべき霊の宝を示すことになるのです。

この人は、イエスという方がガリラヤで語られた神の国の福音について、また行われた数々の不思議な業について、エリコの町で物乞いをしながら伝え聞いていたのでしょう。そして、「そのイエスという方こそイスラエルのメシア」に違いない、と主イエスに会える時を待っていたのです。

「その方は過越祭のためにガリラヤからエルサレムに登って来るに違いない。その時には、エリコの町を通るはず。自分の目の前を通るはず。その時、自分の思いをぶつけよう。主イエスの足音を聞き逃してはいけない」と、道端で耳をすましていたのでしょう。

バルティマイは、キリストが目の前を通り過ぎる瞬間を逃しませんでした。そしてただ主イエスのお名前を呼び続けました。人々から「黙れ」と言われても。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び続けました。

バルティマイは、「ダビデの子」と繰り返し叫びます。「ダビデの子」というのは、預言者エゼキエルを通して預言されていた、イスラエルを導いて神の元に連れ戻す羊飼い、救い主のことです(エゼ34章)。神は、預言者エゼキエルの口を通して、「ダビデの子孫からイスラエルの羊飼いを起こす」、とおっしゃいました。

バルティマイは、ナザレのイエスこそ、その「ダビデの子、イスラエルの羊飼い」である、見抜きました。彼は確かに目の見えない人でしたが、誰よりも、霊の目はキリストに対して開いていたのです。

バルティマイの信仰の叫びは、イエス・キリストの足を止めました。そしてキリストの元に招かれ、目を癒していただいきます。キリストの足を止め、バルティマイに救いをもたらしたものは何だったのでしょうか。イエス・キリストは、「あなたの信仰が、あなたを救った」とおっしゃいました。

バルティマイがキリストを求める姿というのは、無様だったと思います。なりふり構わず叫ぶのです。彼は目の見えない、一人の物乞いに過ぎませんでした。有名な律法学者だったのではありません。

自分で主イエスの下に行くことが出来ないのです。近づいて、普通に自分の信仰を伝えることが出来ないのです。彼は、自分が物乞いをしている場所から大声を上げて、キリストを求めるしかありませんでした。無様に自分をさらけ出し、人々から「黙れ」と言われても、嫌われても、キリストを求め続けるしかなかったのです。そしてそのことが、バルティマイ自身を救った、とキリストはおっしゃいます。彼の人生を変えたのは、彼自身のキリストを求める心、彼自身の信仰でした。

そしてバルティマイの信仰は、自分だけでなく、周りにいた人たちも変えています。人々は初めはバルティマイに「黙れ」と言いました。巡礼者たちにとって、主イエスの歩みを止めようとするこの物乞いは、邪魔でしかなかったのです。

しかし、キリストがバルティマイの叫びを聞き、「あの人をここに連れて来なさい」と招かれると、人々のバルティマイに対する言葉が変わります。人々の「黙れ」と言う言葉が、「安心しなさい」という言葉に変わるのです。「安心しなさい。立ちなさい。あの方がお呼びだ。」拒絶の言葉から、励ましの言葉に変わりました。

救いを求める一人の信仰者の姿が、キリストを足をそこに止め、周りの人たちの心をも変えたのです。キリストへの信仰は、自分を変えるだけでなく、人々をも変えるのです。

私達は自分の信仰を振り返って、自分の信仰が持つ力の小ささに嘆くことがあるのではないでしょうか。「もっと影響力を持てないか、もっと自分に力があったら、キリストをたくさんの人に知ってもらえるのではないか」、などと思うのです。

しかし信仰の業というのは、このバルティマイの叫びのようなものなのです。沈みそうで溺れそうになっているその中からキリストに助けを求める叫び、祈り。その不格好な信仰者の業が、実は用いられるのです。

バルティマイは、雄弁に聖書を解釈して語れるような律法学者ではありませんでした。彼は、ただ物乞いしながら、みじめさを抱えながら、キリストの足跡が聞こえた時に叫ぶべき祈りの言葉を温めていました。そして叫ぶべき時に、「私を憐れんでください」と叫んだのです。これが、信仰の業です。このことが周りの人を変えるのです。

無様でもいい、いや、無様だからこそ、私達は祈るのではないでしょうか。その必死になって神の救いを求める人の姿が、キリストの憐れみを求める祈りの姿が、周りの人たちをも変えていきます。

バルティマイは、癒されました。それだけでは終わりませんでした。「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」とあります。

キリストに出会い、目を開かれたその人は、その後、自分が歩むべき道が目の前に現れるのです。それはキリストが進まれる道です。信仰者はキリストの後ろを歩くようになります。羊飼いが羊飼いを先頭に立って導くようにキリストが信仰者を神の国に通じる道を先に立って導いて下さいます。

バルティマイが主イエスの後に従った、というのは、ただエルサレムに付いて行った、ということではありません。それはキリストの道を歩き始めた、そして一生キリストの道を歩きとおした、ということです。

「道」というのは、イエス・キリストに従う道のことです。使徒言行録にも「道」と言う言葉が使われています。単なる「道路」ということではなく、イエス・キリストに従う信仰の道という意味で用いられています。主の道、神の道などとも言われています。

バルティマイに起こったことは、全ての信仰者に起こることです。キリストを求める人がキリストに出会って霊の目を開かれ、歩むべき道に従っていく・・・それこそが、私達が洗礼によってキリストと契約を結び、共に歩むと決めた道なのです。

生きる中でいろんな試練や苦難があり、右往左往する私達であっても、先を行かれるキリストに付いて道を歩む限り、それは、まっすぐ神の国へと近づいているということなのです。

06月13日の説教要旨

マルコ福音書10:35~45

「イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人達が権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない』」(10:42)

主イエスが「私はこれから殺されることになっている」とおっしゃったすぐ後に、弟子であったヤコブとヨハネの兄弟が、的外れな願い事をしました。「あなたが栄光の座にお着きになる時は、私達の一人を右に、もう一人を左においてください。」つまり、自分たち兄弟を他の弟子達よりも優遇してください、という申し出です。

このことは他の10人の弟子達にすぐにばれてしまいました。

他の10人の弟子達は怒りました。ヤコブとヨハネが、主イエスがお伝えになってきた神の国の教えが全く分かっていなかったからではありません。自分たちが求めていたものを、この二人の兄弟が誰よりも早く抜け駆けして求めたからです。ヤコブとヨハネが願い出なかったら、他の誰かが同じことを願ったのではないでしょうか。ヤコブとヨハネだけではなく、12人の弟子達全員が、イエス・キリストがおっしゃる神の国の教えを全く理解できていなかったのです。

ご自分の十字架が待つエルサレムを前にして、まだこんなことで言い争う弟子達をご覧になって、主イエスはどのような気持ちでいらっしゃったでしょうか。

あらためて、12人の弟子達全員におっしゃいました。

「あなたがたも知っているよう縫い、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたいものは、皆に仕える者になり、一番上になりたいものは、全ての人の僕になりなさい」

弟子達と一緒に過ごす時間がほとんど残されていない中、主イエスはとても厳しい口調でこのことをおっしゃったのではないでしょうか。

キリストの弟子として求めるべきものは、この時弟子達が求めているものと反対のものでした。誰かよりも上に立って、支配しようとすることではなく、誰かのために自分をひくくして仕える、ということ。権威をもって人を支配するのではなく、隣人の奴隷となってお互いに仕えあう、ということ。

主イエスは「異邦人はそうしているが、あなたがたはそうあってはいけない」という言い方をなさっている。異邦人と同じではダメだ、という言い方です。異邦人というのは、聖書の神を知らない人たち、ということです。特に、ここで主イエスがおっしゃる「異邦人」というのは、この時代ユダヤを占領し、ユダヤ人を支配していた、ローマ人のことです。

この時代、ユダヤ人たちは屈辱の中を生きていました。ローマの兵士たちが自分たちの国に駐屯し、自分たちを見張り、支配し、ローマに税を納めるよう求めていたのです。

キリストの弟子達もユダヤ人です。異邦人によって支配され、屈辱を感じていた者の一人だったはずです。ローマの軍隊に支配されて屈辱を感じているはずなのに、結局自分たちもそのローマ人と同じものを求めてしまっている・・・弟子達はまだそのことに気づいていません。

ローマ人であっても、ユダヤ人であっても、人は支配されるよりも支配する側にいたいと願います。その方が安心できるからです。しかし人間が同じ人間を自分の下に置くと、下に置かれた人間は、屈辱に耐えるしかなくなります。それが「人間の支配(人間の国)です。

しかし、イエス・キリストがお伝えになる神の支配(神の国)はそうではありません。皆、同じ神の支配のもとに生きるのです。皆同じ神の元に、上も下もなく生き、優越感も屈辱もありません。羊飼いに守られる羊のように、そこにはただ平等に安心と平和があります。

主イエスはおっしゃいます。「あなた方の中で偉くなりたいものは、皆に仕える者になりなり、一番上になりたいものは、全ての人の僕になりなさい」

そこから、神の国に生きる、ということが始まるのです。

全ての人が互いに、僕になって仕えあう・・・そう聞くと、確かに美しい世界のように思う。しかし、本当にそんな世界は実現可能なのか、と思ってしまうのではないでしょうか。言葉としては、理念としては美しいが、そんなことは理想論ではないか・・・。

だからこそ、イエス・キリストは、まずご自分が十字架を通して、誰よりも低くなって仕える、ということの模範を世に示されました。私達は今日読んだところのキリストの最後の言葉を特に心に留めたいと思います。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」

主イエス・キリストがこの世に来られた理由がはっきりと言われています。

主イエスはご自分のことを、「人の子」とおっしゃいます。ご自分が、旧約聖書のダニエル書に、この世界の全ての支配を神から任される「人の子」であることを示されています。

しかし、天と地を支配する王として世に来られた「人の子」であるイエス・キリストの支配は、ローマがユダヤを支配していたように、軍事力によるものではありませんでした。羊飼いが自分の羊を柵の中に入れ、守りの中に置く・・・愛の支配です。

このイエスという方がなぜ十字架にかけられて殺されなければならなかったのか、ということは、謎でした。何も悪いことをしていません。むしろ人々を癒し、悪霊から救い、神の国の教えを説いて来られた方です。だから弟子達も主イエスの受難予告を真剣に捉えることが出来ませんでした。

イエス・キリストの十字架の苦しみの意味を預言しているのが、イザヤ書です。イザヤ書には、「苦難の僕の歌」と呼ばれる、いくつかの歌があります。神が、一人の僕を世に遣わされ、その僕が、罪人の罪を全て身代わりとなって背負って死ぬ、ということが歌われています。

イザヤ書53章

「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪を全て主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみこみ、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」

「私の僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。」

「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」

人々は、やがてキリストの十字架に、イザヤが預言していた苦難の僕の姿を見るようになりました。

私達は、キリストの十字架を見つめなければならないと思います。「ほかの人よりも偉くなりたい」というこの時の弟子達こそ、生身の人間の姿です。教会の中でさえ、私達は、この時の弟子達のように、「誰が一番偉いのだろうか」などということを気にしてしまいます。

使徒パウロは、フィリピ教会にこう書き送っている。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」

主イエスはご自分の十字架を前にして、弟子達に最も大事なことを、お伝えになりました。

弟子達が互いにどうあるべきか、そしてご自分の十字架の死の意味は何か。ということを。

イエス・キリストの救いの御業を歌い上げる「キリスト讃歌」と呼ばれる歌があらいます。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものが全て、イエスの御名に跪き、全ての舌が『イエス・キリストは主である』と公にのべて父である神をたたえるのです」(フィリピ2章)

人に仕える、という神の御心に命をかけて、最後まで従順になる、ということをキリストは見せてくださいました。そして、そのお姿が人々を神の元へと招いたのです。

この後、この世の偉さをも求めたヤコブとヨハネ、そしてほかの10人の弟子達も、キリストの十字架と復活を見ることになります。彼らは変わります。この世の偉さ以上に、「あの方こそ主である」と世に伝えることに価値を見出し、そのことに一生をささげました。

神の御心に従い人に仕えるキリストの「苦難の僕」としてのお姿が私達の信仰の模範です。私達は弟子達のように、十字架に至るまで従順であられたキリストのお姿を見据える中で、この世の偉さよりも尊いものを見出していきます。

この世の宝に勝る天の宝を求めて私達がイエス・キリストの前に低くなる時、それを見た世の人々は、イエス・キリストがもたらしてくださった、神の愛による支配を見るのです。

06月06日の説教要旨

マルコ福音書10:35~40

「イエスは言われた『あなたがたは、自分が何を願っているのか、わかっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることが出来るか』」(マルコ福音書10:38)

主イエスはエルサレムへの旅の最初に、「私は殺されることになっている」と弟子達におっしゃいました。そのことで、弟子達の間の雰囲気が変わります。弟子達は主イエスがいなくなった後のことを現実的に考え始めたのです。

「主イエスがいなくなったら自分たちはどうなるのだろう」、それは、この時の弟子達にとっては、「自分たちの序列はどうなるのだろう」ということでもありました。12人はやがて、「弟子達の中で誰が一番偉いのだろう」ということを歩きながら議論するようになります。

そのような弟子達に、主イエス何度も「神の国では先の者が後になる」「子供のように神の国を求めなさい。神の前に子供のようになりなさい」とおっしゃってきました。しかし弟子達は神の国以上に、この世での偉さというものに心を支配され、主イエスの神の国の教えが入らなくなっていました。

いよいよ主イエスと弟子達の旅は、目的地であるエルサレムが近づいた時、ヤコブとヨハネの兄弟が行動を起こします。ヤコブとヨハネは「あなたが栄光の座におつきになる時には、私達をあなたの右と左においてください」いう厚かましいお願いをしたのです

ヤコブとヨハネの兄弟が主イエスにこう願い出たのは、主イエスによる最後の受難予告の直後でした。二人は何を聞いていたのでしょうか。主イエスがもうすぐお受けになるであろう痛みや苦しみに関して、まったく心に留めていません。主イエスのことを全く考えていません。他の弟子達のことも考えていません。主イエスがこれまでお伝えになって来た神の国の教えも、心に残っていません。二人は、ただ、自分たちだけの栄達だけを考えています。

主イエスはあらためて二人に質問されました。「この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることが出来るか」。二人は簡単に「できます」と答えました。ヤコブもヨハネも、主イエスがおっしゃる「杯・洗礼」についてよく考えて返事をしたのではありません。上辺だけの答えです。

主イエスがおっしゃる杯とは何か・・・この後福音書を読んでいくとわかります。それは十字架の苦しみのことでした。

ヤコブとヨハネは、祝福の杯、祝杯のようなものを考えていたのでしょう。主イエスが栄光の座に着いて、その栄光を自分たちも分けていただける、そして勝利の杯もって一緒に乾杯する・・・そのような情景を思い描いていたのでしょう。

エルサレムで逮捕される直前、ゲツセマネで面にひれ伏し、震えながら祈られました。「御心ならばこの杯を過ぎ去らせてください」。本当は、主イエスがヤコブとヨハネにお尋ねになった「杯」というのは、そういうものなのです。

ヤコブとヨハネの目を曇らせてしまったものはなんだったのでしょうか。自分だけを見つめるエゴイズムです。人は結局、自分、自分、自分なのです。主イエスが「私は十字架で殺されることになっている」とおっしゃっても、弟子達が最終的に気にしたのは、「それでは、自分はどうなるのか」ということでした。

この世には真理を見えなくさせるものが多いのです。この世の栄達、富の誘惑、地位、名誉、財産、名声・・・弟子達の目を曇らせていたのは、「自分だけを見ていればいい、自分のことだけを考えていればいい」という誘惑の声です。

福音書を読んでいると、「ヤコブとヨハネは愚かだ」と私達は思うでしょう。しかし、この二人こそ、私の本当の姿ではないでしょうか。ヤコブとヨハネの願いから2千年たった今、私達は神の国の価値観を自分のものにどれだけできているでしょうか。価値観から抜け出せないでもがいているはずです。

学ばない罪人の姿、それが人間です。そういう私達だからこそ、救いが必要なのです。立派で、救いなど必要としない人たちではなく、このどうしようもない、自分のことしか考えられない、神に向かって目を上げることを知らない人間だからこそ、キリストは命を投げうってくださったのです。

私達を変えるのは、イエス・キリストの十字架です。自分の罪を背負って十字架の上に死んでくださったそのキリストのお姿を見る時、私達の目から曇りが取り去られ、視界が開け、神の救いの御業が見えてきます。

ヤコブもヨハネも、まだ主イエスの十字架を見ていません。まだ自分のことしか考えていません。しかし、もうすぐ二人は、主イエスの十字架と復活を見て、この時言われた「杯」とは何だったのかを悟ることになります。

ヤコブとヨハネは、それが「苦しみの杯」であるとわかっても、その杯を捨てませんでした。イエス・キリストが飲まれた杯を自ら飲むことを選んびます。使徒言行録12:2で、ヤコブの殉教が記録されています。ヨハネも、言い伝えによれば、パトモス島の牢獄で死んだ、と言われています。

キリストへの信仰を貫いて、二人は最後には殺されてしまったのです。それでは信仰というのは、結局は空しいだけのものなのでしょうか。そうではないでしょう。この世の栄達・繁栄以上に価値のあるものを、彼らはイエス・キリストに見出したのです。そして二人は自分の一生・自分の命をキリストのために使うことを、自分で決めたのです。

彼らの人生は空しいものではありませんでした。命をかけるだけの価値があるものを見出した人生でした。弟子達はイエス・キリストを通して、死に勝るものを見たのです。

私達が何よりも見なければならないのは、キリストの十字架と復活です。

ヤコブとヨハネを変えたものが、私達をも変えました。

「子供のようにならなければ神の国には入れない」

「小さい者が大きい者になる」

「先の者が後になり、最後の者が先になる」

キリストの言葉が響きます。

05月30日の説教要旨

マルコによる福音書10:32~34

「一行がエルサレムへ上っていく途中、イエスは先頭に立って進んでいかれた。それを見て、弟子達は驚き、従う者たちは恐れた。」(10:32)

なぜ先頭に立ってエルサレムへと向かわれる主イエスのお姿を見て、弟子達は驚き、恐れたのでしょうか。弟子達は、主イエスがなさった二度の受難予告を思い出したからです。

これまで弟子達は、主イエスの受難予告を聞いても信じられませんでした。なぜこれほど力があり、人のために尽くし、人々から信頼を得ている方が、「私はエルサレムで殺されることになっている」などとおっしゃるのか・・・弟子達はあえてその話題には触れず、思い出さないようにしていたようです。

しかし、エルサレムに近づき、一行の先頭に立たれた主イエスのお姿を見ると、嫌でもこれまでの受難予告を思い出さざるを得ませんでした。

今日私達が読んだのは主イエスの最後の受難予告です。主イエスは、驚き恐れる弟子達を集めて最後に念を押されました。

「今、私達はエルサレムへ上っていく。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭うった上で殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」

弟子達は一言も言葉を発していません。何も言えなかったのでしょう。

弟子達は少なくとも、これから入って行くエルサレムには主イエスに対する敵意が待ち受けている、ということはわかっていたでしょう。これまで、エルサレムからやって来た律法学者たちと主イエスは激しく議論を交わして来たからです。

しかし、それでも、主イエスはエルサレムに向かわれるのです。なぜ「私は殺されるだろう」などと敗北宣言のようなことを前もっておっしゃるのか・・・しかも、エルサレムには危険があるとわかっているのに、なぜエルサレムにまっすぐ向かって行かれるのか・・・弟子達は驚き・恐れ、一言も言葉を発することが出来ませんでした。

弟子達は、主イエスと一緒に旅をして、長い時間を共にしてきたのに、主イエスがおっしゃること、なさろうとしていることがまだわっていません。無理解な弟子達の姿が福音書に記録されています。

しかしこの無理解な弟子達こそが、我々人間の等身大の姿なのです。聖書は、人間がどれだけ神のご計画に対してどれだけ鈍感で無知のか、どれだけ神のことを理解せず、信頼せず、神に背を向けて生きて来たのかという、罪の歴史の記録です。

そしてそれは同時に、愚かな人間を神がどれだけ愛し、ご自分から離れて破滅に向かおうとする人間を呼び戻そうとしてくださったのか、という神の人間に対する愛の歴史の記録でもあります。

驚き、恐れる弟子達への最後の受難予告の中で、主イエスはご自分のことを「人の子」という謎めいた呼び方をされました。「私」ではなく、「人の子」です。

これは、旧約聖書のダニエル書に出てくる呼び方です(ダニエル書7:13-14)。預言者ダニエルが、ある晩、夢の中で幻を見ました。

「人の子のようなものが天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた」

「日の老いたる者」・・・これは神のことです。その神から「人の子」と呼ばれる存在が全世界を支配する権能を受ける、という幻です。

ダニエル書には、地上の王が次々と起こって来るが、最後には、「人の子」と呼ばれる方に世界の全ての支配が与えられる、ということが預言されています。

そして今主イエスは弟子達の前でご自分のことを「人の子」と呼ばれました。「私こそ、神の権威をもつ『人の子』、全世界の支配者として世に到来したメシアなのだ」と、弟子達に示されているのです。

これから弟子達は、主イエスがエルサレムで逮捕され、有罪判決を受け、ユダヤ人から排斥され、ローマ人に十字架刑を宣告され、無残に死んでいくのを見ることになります。

主イエスは、ご自分の十字架が偶然に起る悲劇ではなく、神が歴史の中で準備をしてこられた救いの業である、ということをお伝えになっているのです。これから弟子達が見ることになる主イエスの十字架は、神から全ての権威を託された「人の子」による救いでした。

なぜ、キリストは「私はエルサレムで殺されることになっている」と言いながら、なおエルサレムへと進んでいかれたのか・・・それは、この世の罪人の罪を全てご自分が十字架で背負われるためでした。

神は、独り子に、十字架で死ぬことをお求めになりました。私達の罪を十字架の上で全て背負うことをお求めになったのです。そうやって神は私達をご自分の下に取り戻そうとされたのです。キリストが十字架で苦しまれる姿は、本来は、私がそうなるべきものでした。しかしイエス・キリストは、我々の罪を十字架で背負うために自らご自分を生贄として捧げてくださいました。

主イエスのご自分の十字架のことを「身代金」とおっしゃいます。神は独り子の血を身代金として払って我々を罪の支配から取り戻されました。大きな犠牲、大きな神の愛です。

パウロは、「イエス・キリストによって今日の私がある」と言っています。これこそ、全てのキリスト者が思うことでしょう。皆、キリストに出会う前は、「イエス・キリストの十字架など知らない、自分には必要ない、罪の許しなど信じなくても生きていける」と思っていたはずです。

しかし、私達が自分の罪を知った時、自分の罪と本当に正面から向き合わされた時、私達はあのイエス・キリストの無残な十字架のお姿に向き合わされます。

あのエルサレムのゴルゴタの丘での十字架は私の罪の身代わりだったのだ、と知った時、自分が今生きることが許されているのは、あの主イエスの痛みによるのだ、と思い知るのです。

パウロは「誰が神の御心を理解しつくすことが出来ようか」と言います。そして「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私達救われる者には神の力です」と言います。

イエス・キリストを信じる私達は、愚かでしょうか。信じない人たちから見れば、愚かでしょう。しかし、愚かでいいのです。自分の罪を知り、キリストの十字架の許しを知っている、それで愚かと呼ばれるのであれば、それでいい。イエス・キリストが十字架に上げられる前に馬鹿にされたように、私達も、馬鹿にされればいいのです。

さて、最後に見ておきたいのは、主イエスが弟子達になさった受難予告の最後で、「ご自分が殺された後、三日後にご自分が復活する」、ということをおっしゃっていることです。これは、受難予告であり、復活予告でもあったのです。

皆の先頭に立って歩まれる主イエスの先にあるのは、死は罪に対する勝利である十字架と、それは永遠の命につながる勝利としての復活でした。

今、私達はここで礼拝しています。ここにキリストの十字架によって生かされていることを賛美する群れがあります。これはキリストの勝利だ。

キリストは人々から馬鹿にされ、殺されました。同じように、キリストを信じる私達は、馬鹿にされ、自分の十字架を背負います。そして、キリストが復活なさったように、痛みの向こうにある希望へと信仰をもって進みます。私達の信仰の痛みは、勝利への行進そのものなのです。

05月23日の説教要旨

使徒言行録2:14~21

「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る』」(2:16~17)

ペンテコステは、「五旬祭」と呼ばれるお祭りでした。収穫のお祝いであると同時に、エジプトから脱出したイスラエルが、シナイ山で律法を与えられたことを祝う祭りでした。過越祭の安息日の翌日から数えて50日目に当たる日、つまり、イエス・キリストの十字架と復活の出来事から50日を数えた時に起こった出来事が記されています。聖霊が降り、教会が造られた瞬間です。

イエス・キリストが十字架で殺されてから三日目の朝、その墓が空になり、そのことがキリストの弟子達に伝えられました。しかし「あの方は墓の中から、死人の中から蘇られました」と伝えられても弟子達は、はじめは信じられませんでした。

復活なさったキリストは弟子達と、ご自分を信じて従っていた人たちにご自分を現わされました。

主イエスは弟子達におっしゃいました。「あなた方は間もなく聖霊による洗礼を授けられる」

これを聞いた弟子達は期待しました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」

弟子達にとって、主イエスが、当時ローマに占領されていたイスラエルをローマから解放して、自分たちに支配を取り戻してくださることが「救い」だったようです。

しかし、主イエスはこうおっしゃいました。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなた方の知るところではない。あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、地の果てに至るまで、私の証人となる。」

神が歴史の中で用意してくださっていた「救い」と、弟子達が期待していた「救い」は、どうやら違っていたようです。

天に昇って行かれる主イエスを見送った弟子達、また主の復活を見た人たちは、その後一か所に集まって祈り始めました。その祈りはペンテコステの日まで続きます。その祈りの群れの上に、聖霊が注がれたのです。

こうして見ると、教会というのは、人間が作ったものではない、ということがわかります。主イエスを慕っていた人たちが、「一緒に教会というものを作ろう」と相談して、計画してできたものではありません。教会は、我々人間の力で建ち上げたものではなく、神の創造の御業によって創造されたものなのです。そして神に造られた教会が今日までイエス・キリストへの祈りを捧げ続けて来た、ということも、時代を超えた聖霊の働きによるものなのです。

三宅島伝道所は、昨年度から毎週の主日礼拝を再開しています。38年間、三宅島伝道所には定住の牧師がいませんでした。それでも三宅島のクリスチャンは信仰をすてず、祈り続けました。その間、噴火があり、避難生活がありました。伝道所の礼拝堂は溶岩で燃えてしまい、礼拝の場所を失った三宅島のキリスト者は一人、二人と減っていきました。

しかし、今、こうして、新しい礼拝堂が備えられ、牧師が招聘され、新しい信仰者も導かれ、こうして三宅島伝道所の礼拝が新たに創造されたのです。

信じられないような奇跡だと思います。もちろん、三宅島伝道所を支えるためにたくさんの人たちの働きがありました。東京の諸教会が三宅島伝道所のために祈り、支え、牧師たちが御言葉を伝えるために島に通い続けてくれました。

しかし、三宅島伝道所を支えてくださったそのたくさんの信仰者を起こしたのは、聖霊の働きなのです。もし、教会が人の手によって、人間の力、人間力によって造られていくものだったとしたら、世代が変わるとすぐにダメになってしまうでしょう。教会は上から造られたものであり、上から造られ続けるものである、ということを覚えたいと思います。

さて、ペンテコステに聖霊が注がれ、炎のような舌が与えられたキリストの弟子達、信仰者たちは、突然それぞれがいろんな国の言葉で話し始めました。それを周りで見た人たちは驚きました。

この時、周りにいたのは、過越祭や五旬祭を祝うために世界中からエルサレムへと巡礼に来ていたユダヤ人たちでした。

当時、ローマ帝国のいろんな場所にユダヤ人たちは散らばって住んでいましたが、彼らはこの時、過越祭やペンテコステの祭りを祝うために、それぞれ住んでいた場所から巡礼に来ていたのです。

その人たちは、キリストの弟子達がいろんな言葉で話しているのを見て、「あの人たちは酒に酔っているのだ」と言いました。そのように考えて納得するしかなかったのでしょう。

しかし、それを聞いた主イエスの一番弟子であったペトロは、立ち上がって言いました。「我々は酒に酔っているのではありません。我々がいろんな言葉で神の御業について語っているのは、預言者が残していた預言の実現なのです。」

ペトロは、旧約聖書の預言書の一つ、ヨエルの預言を周りの人に言って聞かせます。「神は言われる。終わりの時に、私の霊を全ての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る・・・。」

彼らがいろんな言葉で神の偉大な御業について語り始めた、ということ、それはまさに「終わりの時に神が全ての人に霊を注がれ、神の言葉を語り始める」というヨエル預言の実現だったのです。

ヨエルが預言した「終わりの時」とは裁きの時のことです。神の前に全ての人が立たされ、裁かれる時・・・ペトロは「それが今なのだ」と言います。

私達が今日読んだこのペンテコステの出来事は、今でもキリスト教会に起こっていることです。私達が今ここに集まり、祈りを一つにする、そして聖書の言葉を聞き、賛美を神に捧げる・・・これは周りの人達から見たら、「あの人たちは一体何をしているのか」と笑われるようなことかもしれません。

しかし、私達は、あの時のペトロのように、自分たちの礼拝。祈りを通して、この裁きの時にどう生きるべきか、人々に示すのです。そして、今こそ神を知り、神に立ち返って、神と共に生きることが求められているのだ、ということを伝えるのです。

今、私達は岐路に立たされています。神の前に立たされた今、イエス・キリストの許しの御業を見上げ、招きの言葉に耳を傾けるか、それとも、キリストに背を向け、神を捨てて生きるか、問われているのです。神の裁きの時を迎えている、ということを我々はどれだけ真剣に捉えているでしょうか。

復活なさった主イエスは弟子達にご自分のことを「地の果てまで」伝えなさい、とおっしゃいました。そしてペンテコステの日に聖霊が注がれ、キリストの弟子達はいろんな言葉で福音を語り始めました。いや、「語らされた」と言った方がいいでしょう。

神が、地の果てまで語り伝えるべき言葉を教会に注ぎ込んでくださったのです。福音はそこから世界中に、地の果てまで広まっていくことになります。

そして、あの時、ペンテコステの際に人々が聞いた福音は、ここにまで届いています。「地の果てまで告げなさい」とキリストがおっしゃった福音は、時代を超えて、三宅島にまで届けられました。

教会の外にいる人たちから見れば、「礼拝堂に集まって毎週礼拝など捧げて何の得になるのだろうか」、と思われるかもしれません。しかし、私達は何か得になるようなことがあって、教会に集まっているのではないのです。神が独り子の命を犠牲にして私達の罪を救いだしてくださった、その神の愛にすがっている、ただそれだけです。

神と共に生きるのか、神に背を向けて生きるのか、私達は選択の時を過ごしています。今こそ、神の裁きの時であり、神の許しの言葉に耳を傾ける時だ、とペトロは伝えました。私達はこの島で、あの時のペトロのように、イエス・キリストの復活の証し人として聖霊に用いられて、「主の名を呼び求める者は皆、救われる」というヨエルの預言を伝えるために用いられます。

05月16日の説教要旨

マルコ福音書10:23~31

「イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ』」(10:27)

イエス・キリストの弟子達は、「金持ちは神の国に入ることが出来ない」という言葉に驚きました。当時の人たちにとって、財産というのは神からの祝福だったのです。

「永遠の命を得るには自分は何をすればいいのですか」と主イエスに尋ねた人は、「あなたに欠けているものが一つある。財産を貧しい人たちにあげて、私に従いなさい」と言われ、結局従うことが出来ませんでした。これまで自分が積み上げて来た財産を手放すことができず、イエス・キリストの内に天の宝を見出せなかったのです。彼は肩を落として去っていきました。

弟子達は言いました。「あの人が神の国に入ることができないのであれば、誰が救われるのだろうか」。弟子達にすれば、主イエスの元を去っていった金持ちは理想的な信仰者でした。律法を守り、財産を持っていて人々から尊敬される典型のような人です。

私達は、キリストがここでおっしゃった言葉を丁寧に考えなければならないと思います。

これは、信仰者は財産をもってはいけない、お金を持っている人ほどダメな人で、お金を持っていない人ほどいい人、ということなのでしょうか。キリストに従うためにはお金を全否定して、世捨て人にならなければならいけないのでしょうか。

主イエスはそんな乱暴なことをおっしゃっているのではないでしょう。

ここでおっしゃっているのは、自分の財産のせいで天の宝を見る目が曇り、キリストの招きを受け入れず、キリストに背を向けてしまう金持ちのことです。主イエスは「先のものが後になる」とおっしゃいます。去っていった金持ちは、「先の人」でしたが、結局主イエスに従うことが出来ず、「最後の人」になってしまったのです。

この人はキリストを見ずに自分だけを見ていました。目の前にいらっしゃるイエスという方が一体誰なのか、ということよりも、「神の国に入るには何が必要か教えてほしい、教えてくれれば、あとは自分でやる」、という姿勢です。

しかし、神の国というのは、文字通り「神の」国なのです。神に導き入れていただかなければならない国であり、人を神の国へと招き入れてくださるのはあくまでも神なのです。だから主イエスは、「私にあなた自身を委ねなさい」、とおっしゃいました。「あなたにあと一つ必要なことは、自分の力を手放して、私の導きに委ねることだ」、と。

この福音書の4章で、主イエスの「種まく人のたとえ」が語られています。

こういう内容です。種を蒔く人が家から出て行って種を蒔きました。ある種は道端に、ある種は石だらけで土の浅いところに、ある種はいばらの中に落ちました。それらの悪い土地に落ちた種は当然実を結びませんでした。

これは、どれだけ神の招きの言葉がこの世で聞かれずに無駄になっているか、という話です。神の国の福音がこの世界で語られても、艱難やこの世の思い煩いや富の誘惑によってほとんどがダメにされてしまっているのです。

主イエスの下から去っていったあの金持ちの心には、神の言葉の種を受け入れる場所がありませんでした。「捨てられない自分」で満たされていたのです。キリストが蒔かれた「私に従いなさい」という招きも、石だらけの土地に落ちた種のように、根っこが張ることはありませんでした。

ペトロは、「私達は何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」と言いだしました。「自分たちは大丈夫ですよね」ということです。安心したかったのでしょう。

キリストはこれまで繰り返し、「神の前に子供のようになり、神の招きに応じなさい」、と弟子達におっしゃってきました。しかし、この時の弟子達の心を占めていたのは、「偉くなって神の国に入ろう・12人の中で誰が一番偉いのだろうか」、という思いでした。

主イエスはそのような弟子達に「全てを捨てて私に従う者は、この世で苦しみがある」とはっきりとおっしゃいました。信仰者には、キリストへの信仰ゆえの苦しみというものがあるのです。

それでも、「子供のような思いをもって私に従いなさい」、とキリストは招かれます。弟子達がキリストのおっしゃる神の国・永遠の命というものを理解するにはもう少し時間がかかります。

教会の宣教はいつでも失敗の連続です。キリストを証ししたら皆すぐに信じてくれるようになる、なんてことはありません。ほとんどの御言葉の種は、根を張らず、実を結びません。しかし、私達は、希望を捨てません。

なぜでしょうか?

キリストが諦めていらっしゃらないからです。

あの金持ちが落ち込んで家に帰って行く姿に、私達はキリストの種まきの失敗を見ます。それでもキリストは、理解をしない弟子達にも、ご自分に誤った期待を寄せる人にも、忍耐強く神の言葉の種を蒔き続けていかれます。私達もそれに習うのです。私達自身が、キリストのその御業によって救われたから。

種まきのたとえ話では、種を蒔く人は、まず悪い土地に種を蒔いています。普通は、良い土地から種を蒔きます。いや、普通は、良い土地「だけ」に種を蒔きます。

しかし、たとえ話の中で、種まく人は貴重な種を悪い土地から蒔き始めています。

なぜでしょうか。

神の御言葉は、神の招きに相応しくない人にこそ蒔かれるのです。罪人こそ、神の許しの言葉が必要だからです。神の愛に値しないような罪人ほど、神の許しの言葉に飢え渇いていることを神がご存じだからです。

人は自分の内側にある何かが崩れた時、初めてキリストの声を受け入れる余地が出来ます。心の中に神の言葉を受け入れる場所を作り、キリストの言葉を待ち望む人がいる限り、教会は、種まきの労苦を担い続けていきます。

主イエスの下から去っていったあの金持ちが、その後どうなったのかは書かれていません。あの金持ちは確かにあの時、キリストの元から去っていきました。しかし、それで終わりではなかったはずです。

この後、主イエスの十字架と復活の出来事が起こります。復活の主イエスは、一度ご自分の下から去っていった人を、命をかけて招かれる方です。全ての人に立ち返りの道は開かれています。

この後、あの人はどうしたでしょうか・・・。

パウロがフィリピ教会にこう書き送っています。

「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられているのです。」

キリストは我々に神の言葉の種を、命をかけて蒔いてくださいました。私達はそのキリストの種まきの担う光栄を頂いているのです。

05月09日の説教要旨

マルコによる福音書10:17~22

「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい』。」(10:21)

ある人が主イエスの下に走って来て、跪いて「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか」聞いてきました。いきなりこんなことを聞くということはよほど切羽詰まっていたようです。「自分は永遠の命を受け継ぐことができるのか?最大限の努力をしているが、何か足りないのではないか」という不安を感じていたのでしょう。

この人の気持ちは私達にもよくわかるのではないでしょうか。神の国に入るため・永遠の命を受け継ぐための基準を自分の中で作り、不安になるのです。「自分は基準を十分に満たしている」と安心できる人は少ないでしょう。

しかし、主イエスがおっしゃったのは、難しいことではありませんでした。

「子供のように神の国を受け入れなさい。」

ただ、それだけでした。子供のように、素直に、神が差し出してくださった招きの御手に自分を委ねる、ということだけでした。

しかし、このことが難しいのです。私達にとって、神の招きに子供のように素直に応じる、ということは実は簡単なことではないのです。主イエスに質問しにやってきたこの人のように、私達は神の国に入るのを自分で難しくしてしまっているのです。

主イエスは、この人に何をすればいいのかをお教えになりました。

「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」

これらは、ユダヤ人であれば誰でも知っている十戒の教えでした十戒の中には神に対する掟と、隣人に対する掟がありますが、主イエスは十戒の中でも、隣人に対する教えをこの人に示されました。

主イエスの答えは、この人にとっては拍子抜け・期待外れでした。「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言います。

そう言い切れることはすごいことです。この人は、そう言い切れるほど十戒の教えに対して潔癖で忠実に生きて来たのでしょう。周りの人たちのために尽くし、人々からも感謝され、尊敬され、「あの人は神の国に相応しい、永遠の命を継ぐのに相応しい」と思われるような人だったのでしょう。

しかし、それでもこの人は不安だったのです。「もっと、他の人が誰もやっていないような特別なことをしなければならないのではないか。永遠の命を受け継ぐためには、もっと何か特別なことをしなければならないのではないか」、という思いをもって主イエスを見つめ続けます。

主イエスは、この人を「慈しまれた」とあります。永遠の命を受け継ぎたいと願う純粋で熱心な姿勢を好ましく思われたのでしょう。そして、こうおっしゃいました。

「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい」

この人にあと一つ欠けていること・・・それは、地上の宝以上に、目の前にいるイエス・キリストに従う、ということでした。地上の富に勝る天の富を得るための道が示されました。

この人は永遠の命へと通じる道の岐路に立つことができました。しかし、「この道を行けば永遠の命に至るのだ」と主イエスから示された道を歩むことが出来ませんでした。

「その言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った」、とあります。「たくさんの財産をもっていたからである」と最後に書かれています。最後の最後で、地上の富と天の富を天秤にかけて、どうしても地上の富を手放すことが出来なかったのです。財産を手元に残し、キリストに従わず地上に富を積む方の道を選びました。

この人は、隣人に対しての律法は完璧でした。隣人を愛するということに関しては非の打ちどころがない人でした。隣人に対してもっと何かすべきことはないか、自分の徳を積むようなことはできないか、という熱心さもありました。

しかし、一つのことが出来なかったのです。目の前のイエスという方に従う、とういことです。子供が無心に親を慕い求めるようにキリストを求め、キリストに身を委ねる、ということが出来なかったのです。

イエス・キリストから「私に従いなさい」というこの一言こそ、私達が与えられる一番重要な人生の分岐点ではないでしょうか。

私達はここを読むと、「主イエスを信じて従うためには自分の全財産を捨てなければいけないのだろうか」と不安になります。しかし、文脈を捉えましょう。主イエスに従うということは、「財産を捨てる・貧しくなる」という単純なことではありません。

これからエルサレムに入ろうとなさる主イエスから「私に従いなさい」と声をかけられるということは、「十字架に上げられる私の姿を見なさい」「罪を背負って死ぬ私の目撃者となり、証言者となりなさい」ということでした。

主イエスの下に質問に来たこの人にとって、これが十字架に向かわれる主イエスに従う最後の機会でした。本当はこの人にとって、全財産を投げうっても惜しくない、歴史の頂点であり、歴史の中にある一番重大な分岐点に立って、神の御業の目撃者として召される最後の機会だったのです。この人はそれを逃してしまいました。

なぜこれほど立派な生き方をしてきた人が主イエスに従う道を選び取ることが出来なかったのでしょうか。それがわかるのが、この人の主イエスに対する呼び方です。「善い先生」と呼んでいます。この人にとって、このイエスという方は、「主・メシア・救い主」ではなく、律法の教師以上ではなかったのです。

なんと多くの人が、イエス・キリストからの「私に従いなさい」という言葉を逃しているでしょうか。「地上の富の方が大事」「天の富と言われても実感がわかない」・・・それはそうでしょう。

しかし、私達が求める究極のものは、天にあるのです。イエス・キリストの内に永遠の命があり、私達にとってキリストこそ、一生かけて求めるべき宝なのです。

この金持ちは、神の前に、イエス・キリストの前に、子供になることが出来ませんでした。イエス・キリストに出会う、ということは、「地上の富と天の富、どちらを求めるか」という岐路に立たされる、ということです。キリストに出会い、共に生きる者として、キリストの証しという天の富を蓄えていきましょう。

05月02日の説教要旨

マルコによる福音書10:13~16

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ決してそこに入ることはできない」(10:14~15)

人々が、主イエスに触れていただろうと子供たちを連れて来ました。しかし、それを見た弟子達は叱って追い払おうとしました。

「先生のところに子供たちを連れてくるな、軽々しく話ができる方ではないのだ、この方には大切な使命がある。邪魔をするな」、おそらくそのような言い方をしたのでしょう。

しかしその弟子達をご覧になって、今度は主イエスが激しく憤られます。「子供たちを私の下に来させなさい。神の国は、このような者たちのものである」

主イエスは宣教の初めから、「神の国」ということをおっしゃってきました。「神の国は近づいた。福音を信じて悔い改めなさい」「神があなたを求めていらっしゃる、その招きに応じなさい」、それが主イエスが伝え続けてこられた福音(喜びの知らせ)です。

イエス・キリストがこの世にもたらしてくださった信仰の喜びは、「神が私達を愛し、招いて下さっている」、ということ、そして「神は私達を愛し、決してお見捨てにならない」、ということでした。それが主イエスが私達にもたらしてくださった「救い」でした。

弟子達は、イエス・キリストのそばにいて一緒に旅を続けていたのに、主イエスがおっしゃる「神の国」というものがまだよくわかっていませんでした。

主イエスは子供たちをご覧になって弟子達に「神の国はこのような人たちのものである」とおっしゃいます。神の前に子供のような人、ということでしょう。子供は弱く、大人の力無しには生きられません。親に抱かれ、叱られ、支えられ、生かされ、成長していきます。

マタイ福音書の山上の説教の中にこういう言葉があります。

「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものある。」

「心が貧しい」、というのは「霊が乏しい」、という意味の言葉です。人は自分の力で神を見出すことができない、神に救われなければどうしようもない、小さな存在ことです。

子供たちのように素直に神の祝福を頂き喜ぶ人、それが主イエスがここでおっしゃっている「神の国に相応しい人たち」です。子供のように神の招きを素直に受け入れて、素直に神の導きを求める人のことです。

どうして、これほど弟子達はキリストがおっしゃる「神の国」に対して無理解だったのでしょうか。この時の弟子達は、「偉くなりたい」と思っていました。「12人の中で一番偉いのは誰か」という思いに心が支配されていたからです。小さい者として神の支配に生かされることよりも、大きな者になって人を支配したい、という思いの方が強かったからです。

自分がどれだけ神の前に小さい者であるか、ということをわきまえることが信仰です。

私達はどのようにして「子供のように」なれるのでしょうか。

パウロがガラテヤの信徒への手紙の中にこう書いています。

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(326) 

「あなたがたが子であることは、神が『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、私達の心に送ってくださった事実からわかります。」(4:6)

私達は、自分の意思や力で神を見出すことは出来ません。ただ、イエス・キリストが私達に、神を父と呼ぶ霊を送ってくださることによって、神の前に「子供のように」なるのです。

「神があなたを求めていらっしゃる」ということを、主イエスは「福音」と呼んでいらっしゃいます。「喜びの知らせ」という意味の言葉です。

しかし、私達は、どれだけ普段の生活の中で、聖書が伝えているその信仰の本当の喜びを、心から喜ぶことが出来ているでしょうか。

「神の国」は、「神の支配」という意味の言葉です。人間は、「自分は神のようになれる」、という誘惑に負け、神から離れました。楽園を捨てて、自分から神の国・神の支配から出てしまいました。そして、自分の国・自分の支配を求め、さ迷う者となりました。

自分たちをお創りになった創造主を捨てた人間を待っていたのは、暗闇でした。神の国を捨てた人間は、道を失ったのです。

しかし今、救い主が人間を迎えに来てくださいました。キリストが神の招きの声としてこの世に来てくださいました。

私達は「救い」と聞くと、もっとわかりやすい救いをすぐに求めてしまいます。何か問題が解決するとか、何か自分に利益になることが舞い込んでくるとか、そんなことを信仰の先に求めてしまいます。

しかし、究極の救いというのは、神の国へと帰る道を見出すことなのです。

「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」

これは、子供のようにイエス・キリストを受け入れる人のことでしょう。今一度、子供の様に、神の前に自分をさらけ出していきましょう。

マルコ福音書10:1~12

「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」(マルコ福音書10:5)

主イエスがエルサレムへと近づいて行かれると人々が集まって来ました。人々は主イエスのガリラヤ宣教の噂を聞いていたのでしょう。いつものように神の国の福音を人々にお教えになっていらっしゃったところに、ファリサイ派の人たちもやって来ました。彼らはこれまでにそうしてきたように、主イエスを試して陥れようと聖書の解釈に関する議論を仕掛けて来ました。

ここでファリサイ派の人たちが持ち出したのは、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているかどうか」という繊細な問題でした。

ここを読む上で踏まえておかなければならないのは、これは「夫婦の離婚がいいことか悪いことか」などという単純なことが話し合われているのではない、ということです。

ここで主イエスとファリサイ派の間に交わされた議論は、夫が妻に離縁状を渡すことについて、「それを聖書の律法がどういっているか」「ファリサイ派の人たちがそれをどう解釈し実践していたか」「イエス・キリストがそのファリサイ派の信仰の姿勢についてなんとおっしゃっているか」ということを踏まえて、慎重に、そして丁寧に読んでいかなければなりません。

この時主イエスの下にやって来たファリサイ派の人たちは、「夫が妻を離縁することは当然許されることであり、それは夫の側に強い決定権がある。夫は自分の都合で、妻を自由に離縁することができる」と考えていました。

主イエスの時代のファリサイ派の中には、妻が作る料理がおいしくないとか、妻の見た目が自分の好みと違うとか、今の私達からすれば信じられないほど些細で身勝手な理由で妻を離縁する人たちがいたのです。

さて、ファリサイ派の人たちの質問に対して、主イエスのお答えはこうでした。

「天地創造の始めから、神は人を男と女とにおつくりになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。したがって、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」

ファリサイ派の人たちが主イエスに聞いたのは、夫婦の離縁についての律法の解釈でした。しかし主イエスは天地創造まで遡って、そもそも神が人間をどのように造られたのか、ということを答えとされたのです。

主イエスは、男女の結婚が神の創造の御業であり創造の秩序であることをおっしゃいます。「夫の身勝手な都合で妻を自由に離縁できるようなものではない。身勝手な軽々しい都合で結婚を解消することは、神聖な神の創造の御業を人間が弄ぶことになる」ということを示されたのです。

マタイ福音書の山上の説教の中で、主イエスはもっと直接的にこうおっしゃっています。「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、私は言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者は誰でも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」(マタイ5:31)

申命記の24章の初めには、このような一文があります。

「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見出し、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」(申命記24:1)

この一文だけを切り取って読むと、確かにこの時のファリサイ派の人たちが考えていたように、夫は妻に気に入らない理由があれば自由に離縁することが許されているように聞こえます。

しかしこの申命記の言葉は「離婚したければこうしなさい」という規定ではなく、「どうにもならない事情で離婚せざるをえなくなったとしても、その後、このような再婚はしてはいけない」という規定の中の一文なのです。

改めて、私達は主イエスがファリサイ派に最初におっしゃった言葉に注目しましょう。

「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」

ここで一番恐ろしいのは、このキリストの言葉ではないでしょうか。

神がお創りになった秩序・調和を壊す力・・・夫婦関係を、親子関係を、友人関を破壊する人間の心の頑なさ、弱さ・・・聖書はそれを「罪」と呼んでいます。

「あなたも神のようになれるのだ」という誘惑の言葉に負け、人は世界の初めに神から離れ、自分が神になろうとして罪に堕ち、罪に支配されるようになりました。

主イエスは、ある時、「律法で一番大切な教えは何か」と聞かれた際、「神を愛し、人を愛することだ」とお答えになりました。神から離れる、ということは、神を愛し人を愛する、という創造の秩序の崩壊を意味します。

私達の内にある頑なさ・弱さを認め、神の創造の御業にまで遡って、この世界を見つめ直しましょう。そして神がお創りになった調和の中へと再び導いて下さるキリストに身を委ねて生きましょう。

マルコ福音書9:42~50

「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」(マルコ福音書9;49~50)

エルサレムへの旅の途中、「自分たちの中で誰が一番偉いのか」という議論をしていた弟子達に、主イエスは「一番先になりたい者は、全ての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい」とおっしゃいました。

神の前に子供のような人、神に対して水一杯を差し出すような人・・・そのような小さな信仰者の信仰を傷つけてはいけないことを教えるために、主イエスはとても厳しい言葉をつかわれています。「誰かの信仰を躓かせる者は大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかに良い。片方の手があなたを躓かせるなら、切り捨ててしまいなさい。足も、目も同じだ」。

主イエスがこれほど激しい言葉を使っていらっしゃるということは、この時弟子達の心を支配していた「自分は他の人よりも偉い」という思いはそれだけ危険なものであったということでしょう。

誰かを「躓かせる」とは、「誰かの信仰を傷つける・誰かのキリストへの思いをなくさせる」ということです。主イエスがここでおっしゃっているのは、この世の誘惑や迫害という外からもたらされる躓きではありません。教会が内側に抱えている躓き、信仰者同士の間にある躓きです。

12弟子が「12人の中で誰が一番偉いのか」とか、「自分たちはイエス様に近い弟子だから他の人たちよりも偉いだろう」と考えていたことは、私達にとって決して他人事ではありません。

パウロの手紙を見ると、実際に1世紀のコリント教会の中で「私はパウロにつく、私はアポロに付く、私はペトロにつく」などという派閥争いがあったことが書かれています(1コリ1章)。パウロは、「教会はキリストの体だ」と書いてコリント教会の人たちを戒めました。

「体は一つでも、多くの部分から成り、体の全ての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(1コリ12章)

キリスト信仰者同士が、争いあい、互いの信仰を傷つけあうことほど愚かなことはありません。それは自分の体の右手と左手が喧嘩をするようなものです。右手と左手が喧嘩をして傷つけあっても、同じ体なのだから、相手に与えた傷は自分の痛みとなります。そしてそれは、体全体の痛みとなるのです。

私達の一体何が、誰かの信仰を傷つけてしまうのでしょうか。主イエスはここで「あなたの、手、足、目が人を躓かせるなら」とおっしゃっています。それはつまり、私達が持っている全てのもの、ということでしょう。私達は自分が持っている全てのものを用いて、誰かの信仰を傷つけてしまう弱さ抱えているのです。

ヤコブの手紙にはこう書かれています。

「ごらんなさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「『不義の世界』です。私達の体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。・・・私達は舌で、父である主イエスを賛美し、また、舌で神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出てくるのです。私の兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(ヤコブの手紙3章)。私達は自分の言葉一つで、誰かをキリストから引き離してしまう刃を秘めているのです。

パウロやヤコブの手紙にこれらのような言葉が残っているということは、1世紀の教会の中にはいつもこういう問題が起こっていた、ということでしょう。1世紀の教会には、特別に悪い人たちが集まっていたのでしょうか。そんなことはありません。そこに集まっていた人たちは皆普通の人たちであり、純粋にイエス・キリストを求めていた人たちです。今の教会の中にも「躓き」の刃は日常的に潜んでいます。だからこそ、キリストはここまで厳しい言葉で私達に警告の言葉を残していらっしゃるのです。

さて、主イエスは、49~50節で意味深なことをおっしゃっています。

「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は、良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなた方は何によって塩に味をつけるのか」

「火」は、聖書の中で、金属の中から不純物を取り除くものとして書かれています(マラキ3章)。「塩」は、旧約聖書のレビ記では、神への捧げものを清めるものとして言われています(レビ記2章)。

主イエスは弟子達のことを「精錬され不純物が取り除かれた神への聖い捧げもの」としてお考えになっているのでしょう。パウロも、ロマ12章で書いています。「兄弟たち、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

「人は皆、火で塩味を付けられる」・・・私達信仰者は、信仰の試練を通して強められていく、ということです。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない・・・霊の父は私達の益となるように、ご自分の神聖にあずからせる目的で私達を鍛えられるのです」(ヘブ12章)

「塩」にはもう一つの意味があります。ユダヤ教の教師たちは、塩を、知恵の比喩として用いました。パウロはコロサイの信徒への手紙の中で、「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」と書いています(コロ4:5~6)。キリストに従う人は、塩味の聞いた言葉(神の国の知恵)を語り、塩味のきいた生活(神の国を求める信仰生活)を送ることが求められているのです。

そう言われると「自分には難しい」と身構えてしまうかもしれませんが、そんなに難しいことではないはずです。神学をたくさん勉強して難しいことを言わなければならない、ということではありません。ただ、キリストに救われて自分の今があること、キリストによって今生かされていることをわきまえて日々を過ごす、ということです。

主イエスは最後に、「互いに平和に過ごしなさい」と弟子達にお命じになりました。「誰が一番偉いのか」という弟子達の議論に対する結論はこれです。誰が一番偉いのかを決めるのが私達の信仰ではありません。「互いに平和に過ごしなさい」というキリストのご命令は、言葉にすれば簡単なことですが、実はこれこそ人間的な弱さを持つ私達にとって一番忍耐のいる信仰の業であり、祈りながら乗り越えて行かなければならない試練ではないでしょうか。