MIYAKEJIMA CHURCH

10月10日の説教要旨

マルコ福音書13:32~37

「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(13:37)

エルサレム神殿の崩壊を預言された主イエスは「どんな苦難や混乱があっても、惑わされずにしっかりと信仰に立ち続けるように」と、ここまで弟子達におっしゃってきました。

エルサレム神殿崩壊の預言を聞いて戸惑う弟子達は、「これらのことが皆起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」と聞かされます。エルサレム神殿以上に確かなものがあることを示されるのです。

たとえ神殿が崩れて、「この世界の終わりではないか」、と自分の足元が揺らいだとしても決して崩れない確かなもの、それはイエス・キリストの言葉なのです。

大切にしていたもの、変わることはないと信じていたものが自分の目の前から消えた時、人間は弱いのです。自分も一緒に消え去ってしまいます。自分も一緒に崩れてしまいます。

しかし、「何一つこの世には確かなものはないのではないか」と思うようなことがあっても、変わらず確かなものがある、とキリストはお示しになりました。それは「私だ」とおっしゃるのです。

この真理は、どの時代のキリスト者も慰めて来ました。いつの時代も、混乱の無い時などありませんでした。教会も、それぞれの時代の中でいつも揺り動かされて来ました。それでも、イエス・キリストの言葉は確かに揺らがずに立ち続けて来ました。たとえ天地が崩れ去ろうとも、キリストの言葉は私達の魂を支え続けてくださるのです。

今日私達が読んだところでは、主イエスは不思議なことをおっしゃっています。

「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」

天使たちも知らないし、神の子イエス・キリストもご存じでない時のことです。

「天地が滅ぶとしても私の言葉は滅びない」とまでおっしゃったイエス・キリストでも、ご存じない「その日・その時」があるのです。

キリストでもご存じないその日・その時とは、何の時なのでしょうか。神殿が壊れることに伴う苦難とは別の、何か定められた時のことをお話しなさっています。

主イエスは弟子達に、主人が旅に出て不在にしている家の僕たちの話をお聞かせになりました。家の主人が僕たちにそれぞれ仕事を割り当てて、「私が旅から帰って来る時に備えていなさい」と言った、という話です。その主人はいつ帰って来るか、僕たちに言っていません。その主人も、自分がいつ家に帰ってくることになるのか、まだ決まっていなかったのでしょう。自分がいつ帰って来るかわからないから、いつ帰ってきてもいいように、僕たちに備えていなさい、と言います。

これはイエス・キリストと弟子達のことです。

そして「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ」とおっしゃっているように、この主人と僕たちというのは、キリストと信仰者たちのことでもあります。

主イエスがここで「その日・その時」とおっしゃっているのは、ご自身が再びこの世に来られる「世の終わり」の時のことです。「世の終わり」には、私達が肉体の死という眠りから起こされて神の前に立たされることになります。我々は死の眠りから起こされ、裁きの場に立たされることになるのです。

「終わりの時とは、裁かれる時だ」と聞かされると恐ろしく思えますが、決してそうではありません。それはイエス・キリストが私達を迎えに来てくださり、それぞれの名前を呼び、復活させてくださる希望の時です。

信仰者は、その時がいつなのかはわかりません。だからただ、キリストが迎えに来てくださるその希望の時を目指して生きています。それが、信仰者の人生です。

我々信仰者の人生は、生まれて、生きて、死んで、それで終わり、というむなしいものではありません。私たちの生も死も、すべてキリストが受け止めてくださいます。信仰者は肉体の死を超えて、キリストをお迎えする希望の時を目指して生きているのです。そこには復活があり、永遠の命があります。

私達はイエス・キリストが実際に目に見えない中で今、信仰生活を送っている。信仰をもっていたって、希望を見失う時はあります。何を見据えて生きればいいのかわからなくなる時もあります。

しかし、私達は喜んでいいのです。私達が今、信仰をもって生きる、ということは、無駄ではありません。私達の信仰の試練・忍耐は、全てキリストが来てくださる時に報われるのです。私達は、そこに向かって生きているのです。

その日・その時を私達が知らない、ということは残念なことではありません。間違いなく、その日・その時へと時間は流れています。私達が生きている今は、そこに向かっている今なのです。だからこそ、我々の今には、苦難があろうが試練があろうが、意味があるのです。

主イエスの弟子のペトロは後に、教会に向けて手紙の中でこう書いています。

「主は、信仰の厚い人を試練から救いだす一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。」

我々信仰者が試練の中を生きているのを、神は今まさにご覧になっています。私たちの信仰を苦しめる人も、苦しめることも、神はご覧になって、神が報いてくださいます。そして我々の信仰も吟味していらっしゃるのです。

ペトロはこうも書いている。

「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやってきます。」

神が、忍耐してくださっている、とペトロは言います。我々が一人も滅びないように。

「主の日」は、世の終わりにイエス・キリストがもう一度世に戻って来られる時のことです。「主の日は盗人のようにやってくる」という表現が、新約聖書の中で何度も出てきます。

主イエスご自身、マタイ福音書ではこうおっしゃっている。

「家の主人は、泥棒が夜のいつ頃やって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」

私達は、もし今夜自分の家に泥棒が来るとわかっていれば当然警戒します。しかし、「いつの日か神が来られる、キリストが来られる」、と言われるとどうでしょうか。どれだけ現実味をもってそのことに備えようとするでしょうか。

いい例が、旧約聖書の創世記に記されているソドムとゴモラの滅びの出来事に出てくる人たちです。

悪がはびこっていたソドムとゴモラの町に、神のみ使いが実際に行きました。そこには、アブラハムの甥のロトの一家が住んでいました。神のみ使いはロトの家に行き「実は私達はこの街を滅ぼしに来たのです」と言って、身内の人をこの町から連れて逃げるようにロトに言います。

ロトは自分の娘たちが嫁いだ先に行き、「明日、この町は神によって滅ぼされる」、と言ったが、誰も信じませんでした。「神が来て、そうおっしゃっている」ということを、誰も信じなかったのです。

結局、ソドムから逃げ出したのは、ロトと妻、二人の娘たちだけでした。ソドムとゴモラの町は、天からの火によって滅ぼされました。ここに、信じた人と信じなかった人の分かれ道があります。

滅びの中を生き残ったロトの一家と、滅びの中で死んでしまった人たちを分けたのは何だったのか・・・単純なことです。神の言葉を信じたか、信じなかったか、ということでした。

このソドムとゴモラの出来事は、時代を超えて私達にとって大きな警告となります。私達はこの出来事から学びたいと思うのです。聖書の言葉・キリストの言葉に、我々はどれだけ現実味を感じているでしょうか。本当に切羽詰まった、救いと滅びの分かれ道に自分が立っている、とどれだけ思っているでしょうか。

イエス・キリストがおっしゃった世の終わりの裁きに対して、ロトのように、その言葉を聞いて備えるか、それとも、馬鹿にして信じず、何もしないか・・・その選択によって、命に至るか、死に至るかが決まるのです。 Continue reading

10月3日の説教要旨

マルコによる福音書13:24~31

「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、揺り動かされる。」(13:24)

謎めいたイエス・キリストの言葉です。

太陽や月や星の光がなくなり、天体が揺り動かされる、ということが起こり、その後、「人の子」という存在が来て、世界中から人々を集める、ということが言われています。この言葉だけを見ても、キリストが何を弟子達にお伝えになっているのか、よくわからないのではないでしょうか。

主イエスは一体何を弟子達にお伝えになっているのか、そして、謎めいたこの言葉は、今を生きる私達にとってどのような意味があるのか、考えて見ていきましょう。

「神殿が崩れる、というのはいつ起こるのですか」と尋ねて来た弟子達に、ここまで主イエスは、その時の様子を語って来られました。

「メシアや預言者を名乗る人たちが大勢現れ、人々を惑わすだろう・・・キリストを信じる弟子達・信仰者たちは、ユダヤでもユダヤの外でもイエス・キリストの福音を宣べ伝える中で試練が与えられるだろう・・・エルサレム神殿が破壊される時には、なんとしてでも生き延びなさい」ということをお伝えになりました。

今日私達が見たのは、その後の言葉です。「それらの日には、このような苦難の後・・・」という言葉が続きます。

「このような苦難」というのは、エルサレム神殿の崩壊と、それに伴う様々な苦難のことです。

つまり、主イエスはエルサレム神殿が崩れた後のことをここでお話しなさっているのです。

神殿崩壊という苦難の後には「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」だろう・・・。

文字通りに受け取ると、世界の秩序が全て崩れて、世界がなくなってしまうようなことをおっしゃっているように聞こえます。

一体これは何のことなのでしょうか。エルサレム神殿崩壊の後に、「天体が揺り動かされる」、とはどういうことなのでしょうか。

「天体が揺り動かされる」という不思議な表現は、イザヤ書13:10の預言からの引用です。

太陽や月や星が消えてなくなる、と聞くと何だかこの世界が全て壊れてしまうような恐ろしい響きを感じる言葉ですが、元のイザヤ書では、エルサレムを占領し支配していたバビロンという国の滅びを、「天体が揺り動かされる」という言葉で表現しているのです。

つまりこれは、敵の滅びと、抑圧からの解放のことなのです。

元のイザヤ預言の言葉を踏まえて、イエス・キリストがここでおっしゃっている言葉を読むと、「太陽や月や星がなくなって天体が揺り動かされる」、というのは、エルサレム神殿を破壊するローマも、その後にはやがて力を失うということが示されているのです。

主イエスは続けて「天体の光が消え」た更にその先を預言されます。

いろんな苦難の後に、「人の子」が来て天使を遣わし、世界中から全ての人を自分の下へと集めるだろうとおっしゃいます。

「人の子が大いなる力と栄光をおびて雲に乗って来るのを、人々は見る」

「人の子」というのはダニエル書に出てくる、神から全世界を治める権威を託された存在のことです。主イエスはこれまでずっとご自分のことを「人の子」と呼んでこられました。

つまり、イエス・キリストの下に全世界の全ての人々が招かれ、集められ、一つになるだろう、という希望の預言なのです。

このことは、旧約の預言者イザヤも既に預言していました。

「国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私達に道を示される。私達はその道を歩もうと』」

人種や民族を超えて、全ての人が、天地を創造された真の神を知り、同じ神を求めて一つになる時が来るだろう、とイザヤは預言しています。

世界中の人たちが、互いに誘い合って、イスラエルの神を求めるようになる、というのです。

イザヤはこうも言っている。

「その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人とアッシリア人は共に礼拝する」

イザヤの時代、このイザヤの言葉を聞いた人たちは馬鹿にして笑ったのではないでしょうか。いつ自分たちがエジプトに滅ぼされるか、アッシリアに占領されるかわからないのに、エジプトやアッシリアがイスラエルの神を一緒に信じ、自分たちと一緒に礼拝する日が来る、などと預言者は言うのです。

イスラエルはエジプトとアッシリアという大きな国に挟まれた小さな国でした。エジプトとアッシリアという強大に挟まれてどうやって生き残るか、ということをいつも考えていなければなりませんでした。

イスラエルとエジプトとアッシリアの全ての人が、一緒に礼拝する日が来る、などということは非現実的なのです。

しかし、この時のイザヤの預言は、イエス・キリストという人の子・メシアによって実現することになります。

私達が今日読んだイエス・キリストの言葉は、まるで世界が滅びるような恐ろしい響きをもった言葉に聞こえるかもしれません。

しかしそれは絶望的な言葉ではなく、堕落したエルサレム神殿が崩れた後に、全ての人がイエス・キリストの下に集められていく希望の預言であることがわかります。

この主イエスの言葉を聞いた弟子達は、どう思ったでしょうか。「それはいつ起こるのだろうか」と考えたでしょう。主イエスは、「イチジクの枝が柔らかくなり葉が伸びると、夏が近づいたことがわかるのと同じだ」とおっしゃいました。春の次に夏が来るように、イエス・キリストの下に世界の全ての人が一つになる時へと、時間は自然に流れている、ということです。

この主イエスと弟子達との会話から40年後にエルサレム神殿はローマ軍によって破壊されました。多くの人たちは、エルサレム陥落を、この世の終わりと捉えたでしょう。

しかし、主イエスの言葉を前もって聞かされ信じていたキリスト者たちは、神殿が破壊されても終わりではないことを知っていました。それは新しい時代の始まりであり、人の子・イエス・キリストの支配の始まりである、という希望を捨てずにキリストの福音を宣べ伝え続けたのです。

神のご計画は、私達人間にはかり知ることは出来ません。この地上で起こる様々な出来事・・・戦争や飢餓や地震といった苦難の時には、私達の目に希望は見えません。神の姿を見いだせず、神に見捨てられたのではないか、と絶望します。

しかし、そのような混沌の中にある人間の営みの中でも、神が全ての人をご自分の下へと招かれる救いのご計画は進んでいるのです。

イザヤは、主イエスの時代よりもはるか以前に、そのことを預言していました。 Continue reading

9月26日の説教要旨

マルコ福音書13:14~23

「主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主はご自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである」(13:20)

「神殿はやがて崩れることになる」という主イエスの言葉を聞いた弟子達は、「それはいつ起こるのですか。どんな徴があるのですか」と聞いてきました。この主イエスの神殿崩壊預言は、この時から40年後の紀元70年に、現実のものとなります。紀元66年、ユダヤ人はローマ帝国への反乱を起こし、73年までその戦いは続きました。それはユダヤ戦争と呼ばれています。

紀元70年、ローマ軍はエルサレムを占領し、神殿と都の大部分を破壊します。エルサレムの陥落は、ユダヤ人側の負けを決定づけるものでした。エルサレムを失った後、ユダヤ人たちは、最後にはマサダという要塞にこもり、ローマ軍に包囲され、悲惨な最期を遂げることになります。

「素晴らしい建物ですね」と弟子達は神殿を見て感動していましたが、既にこの時、主イエスは40年後の、ローマに包囲され、破壊されていくエルサレム神殿が見えていらっしゃいました。

「この神殿は完全に崩れるだろう」という主イエスの言葉に驚いた弟子達は「そのことはいつ起こるのですか」と聞いてきました。主イエスは、神殿崩壊という衝撃的な出来事が、いつ起こるのか、それにはどんな兆しが見えるのか、ということを弟子達にお話にはなっていません。

主イエスが弟子達におっしゃったのは、「その時がどれほど恐ろしく、混乱しようとも、その時に見聞きするものによって惑わされてはいけない。あなたがたの信仰が揺らがないようにしていなさい」ということでした。エルサレム神殿が崩壊する時、それがどれほど恐ろしく、切迫したものか、ということを主イエスは包み隠さず弟子達にお教えになっています。

「その時が来たら、躊躇せずに逃げなさい」

「屋上から下に降りたり、家の中にあるものを取り出す暇もない、畑にいても上着を取りに家に帰る時間すら惜しんで逃げなければならないようなことが起こる」

「身重であったり、乳飲み子を抱えていたりすることですら苦しみになるだろう、もしそれが冬であればさらに苦しみは増すだろう」

このようなことをおっしゃいました。

そして、「神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来る」とまでおっしゃっています。大事なことは、それがいつ起こるのか、ということではなく、それ以上に、そのような苦難を信仰を抱いて乗り越えなければならない、ということでした。

弟子達は、そして当時のユダヤ人にとって、エルサレム神殿が崩れるなどということは考えられないことでした。エルサレムは神の都であり、神に守られているから不滅だ、と信じていたのです。

BC167年に、アンティオコス・エピファネスというシリアの王が、エルサレム神殿の財宝を奪い取り、神殿の中に偶像の像を立てようとしたことがありました。ユダヤ人たちはこれに反発して、シリアを相手に戦いました。エルサレム神殿は神の家なのです。ユダヤ人は神のために戦い、勝利しました。

このことから、「エルサレムは神の都であるため、負けることはない。エルサレム神殿は神の家であるため、異邦人によって破壊されるなどということはない」という思いがユダヤ人の間で強くなりました。

弟子達は、主イエスの言葉を聞いた後でも、「神殿が崩れるなど、信じられない」と心の内では思っていたでしょう。だからこそ主イエスは「一切のことを前もって言っておく」と、包み隠さずお話しなさったのです。

神の子イエス・キリストが神殿の崩壊を預言される、ということは、それは間違いなくそうなる、ということです。ではなぜ神殿は壊れるのでしょうか。私達がこれまで読んできたように、もう神殿は祈りの家ではなく、強盗の巣となっていたからです。神殿の境内で商人が商売をしたり、神殿に献金した弱いやもめが破産したりしてしまうようなことになっていました。弱い者たちが見向きもされていない、神の教えである律法が守られていない神殿は、神ご自身の手によって滅ぼされるのです。

神殿崩壊預言をしたのはイエス・キリストが最初ではありません。旧約の預言者たちの中にも、エルサレム神殿の崩壊を預言した人はいました。ミカや、エレミヤがそうです。

紀元前6世紀、エレミヤはエルサレムの滅びを預言しました。エルサレムが堕落していたからです。エレミヤはエルサレム神殿に入って来る人たちに言いました。

「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、空しい言葉により頼んではならない。・・・神の神殿に来て『救われた』というのか。お前たちは、あらゆる忌むべきことをしているではないか。この神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。その通り。私にもそう見える、と主は言われる」

エルサレム神殿に来て、形だけ礼拝するだけで、寄留していた外国人、孤児、寡婦を大切にせず、異教の神々を礼拝していた人たちに向かって、エレミヤはそのように言いました。「主の神殿」という言葉の響きだけで自分の信仰は満たされていると満足している人たちに、エレミヤは神の怒りを告げたのです。

エレミヤの時代、イスラエルはバビロンという大きな国に降伏して、その支配下にありました。紀元前598年にイスラエルはバビロンに降伏し、バビロンはエルサレムの王を始め、国の指導者たちを自分の国へと連行して行きました。

エルサレムに残された人たちは、有力な指導者たちを失って自分たちはこれからどうなるのか、と不安になっていました。そのような中でエレミヤは厳しい預言をします。

「エルサレムはバビロニアによって滅ぼされる。それはイスラエルの不信仰に対する神の裁きだ。私達は神の裁きを従順に受け入れ、悔い改めなければならない」

当然、エレミヤは他の人々からは嫌われました。             Continue reading

9月19日の説教要旨

マルコによる福音書13:3~13

「イエスは話し始められた。『人に惑わされないように気をつけなさい』」(13:5)

主イエスは神殿から出て行かれ、谷を挟んで向かい側にあるオリーブ山に登り、そこからエルサレム神殿の方を向いて座っていらっしゃいました。当時大改修が進められていた美しく荘厳なエルサレム神殿をご覧になりながら、何を考えていらっしゃったのでしょうか。

オリーブ山から神殿を眺めていらっしゃる主イエスに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの4人が「そのことはいつ起こるのですか」とおそるおそる尋ねて来ました。

エルサレム神殿の境内から出て行く際、「この神殿の一つの石も崩されずに他の石の上に残ることはない」という主イエスの言葉を聞いたのです。弟子達は言葉を失いました。「聞き間違いではないか」、と信じられなかったでしょうし、弟子達同士で「先生がおっしゃったことは本当に起こるのだろうか」と話し合いもしたでしょう。

弟子達は、オリーブ山まで来てようやく、「そのことはいつ起こるのですか。その時にはどんな徴があるのですか」と質問してきたのです。

マルコ福音書の13章全体が、この弟子達の二つの質問に対する、主イエスの言葉です。しかし、この13章全体の言葉を読むと、主イエスは弟子達の質問に直接はお答えになっていないことがわかります。「何年後に神殿は壊れるだろう、そしてその前にはこんな徴が見られるだろう」とはおっしゃっていないのです。

主イエスは、弟子達に謎めいた言い方で何かをお教えになっています。

13章全体を通して一貫して弟子達が言われているのは、「惑わされないように気を付けていなさい」ということでした。

主イエスは、弟子達には神殿の崩壊を始め「この世の終わり」とも思えるような苦難が起こるが、どんな時にも惑わされず、ただ神を信頼して、神が定めてくださった時を待ちなさい、ということを集中しておっしゃるのです。

弟子達は、本当はもっと具体的に神殿が壊れるのがいつなのか、その時にはどんな前兆があるのか、ということを知りたかったでしょう。

しかし主イエスがこの時見据えていらっしゃったのはむしろ、エルサレム神殿が崩れた後のことでした。「いつ神殿が壊れるのか」、ということ以上に、「神殿が壊れた後もあなたがたは混乱の中も惑わされずに福音を宣べ伝え続けるのだ」、ということをお伝えになっているのです。

主イエスはあと数日のうちに十字架で殺されることになります。そして三日目に復活なさって、天に昇られます。弟子達はこの地上に残されることになります。

主イエスはここではっきりと弟子達におっしゃいます。

「あなた方は地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれるだろう」

地方法院や会堂、というのは、ユダヤ人がいるところです。ユダヤ人にキリストを宣べ伝える際に直面するという試練があるだろう、ということです。

更に、「私のために総督や王の前にたたされて証しをすることになるだろう」とおっしゃいます。

総督や王というのは、異邦人支配者のことです。異邦人にキリストを宣べ伝える際にもキリスト者は試練が与えられるのです。

実際に、エルサレム神殿はこの40年後に崩れることになります。しかし、弟子達はこの時の主イエスの言葉を何度も思い出したのではないでしょうか。「エルサレム神殿が崩れても、まだ世界の終わりではない、とあの方はおっしゃった。惑わされず、イエス・キリストの福音を確かに宣べ伝えいこう」、と弟子達は、そして教会は働き続けました。

主イエスは信仰者たちが受ける苦しみを、「産みの苦しみ」とおっしゃいました。主イエスご自身、ご自分の十字架の痛みをもって、世の人々を神の元へと通じる道を切り開かれました。教会は、そのキリストの十字架の痛みに与ります。誰か一人を神の元へと導く、誰か一人をイエス・キリストの信仰へと導くことは、痛みを伴うことです。

自然に誰もが神を求め、キリストを信じるようになる、というのであれば、どれだけ楽でしょうか。しかし、キリストは「自分の十字架を背負って私に従いなさい」とおっしゃいました。それは、イエス・キリストの下へと誰かを導こうとする痛み・重荷を背負いなさい、ということです。

キリストの弟子達の時代から、今に至るまで、どれだけの痛みを教会は担って来たでしょうか。「信仰を捨てた方が楽だ」、という時代にあっても、多くのキリスト者は時代の波に惑わされず、戦争・地震・飢饉・偽メシアの出現の中で信仰を守ってきました。

その痛みを通して、新たな信仰者が教会へと導かれてきました。教会は、産みの苦しみに耐え続けて来たのです。1世紀の始めから教会は苦しい時を過ごしてきました。無数の、痛みを伴う信仰者たちの証しの姿がありました。信仰ゆえの苦しみの姿です。

主イエスはその苦しみを「産みの苦しみ」とおっしゃいます。単なる苦しみではありません。何かを生み出す苦しみです。

ヨハネ福音書で、主イエスは弟子達にこうおっしゃっている。

「あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産む時、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」

教会は世に生きる中で痛みを感じます。しかし、それはただ、痛みで終わるのではなく、その痛みを通して、不思議な仕方で福音が広められていく喜びを与えられるのです。

使徒言行録に、キリストの使徒たちの信仰の姿が描かれている。

ナザレのイエスなど知らないと三度否定したペトロは、主イエスの復活の姿を見ました。そして復活のキリストを伝え続けました。

「イエスが復活した」と宣べ伝えていたペトロは牢に入れられました。そして最高法院で大祭司から尋問されます。

「今後イエスの名によって誰にも話すな」と言われますが、ペトロとヨハネは「神に従わないであなた方に従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。私達は、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と答えました。弟子達は、苦難を超えて福音のために働き続けたのです。

また別の時、使徒のステファノが捕らえられ、殺されました。ステファノが殺された日、「エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散っていった」とあります。

キリストの福音はそこで終わったか、というとそうではありませんでした。「散って行った人々は福音を告げ知らせながら巡り歩いた」とあります。

迫害を受けてその地域から追い出された人たちは、追い出され逃げた先で、福音を伝えていきました。そうやってキリストの福音が広がったのです。そして、ステファノの殉教の中で、迫害者の一人として働いたサウロという人が、やがてパウロと呼ばれるキリストの使徒へと変えられます。

こうして見て行くと、教会の成長、福音の広がりというのは不思議ではないでしょうか。世の中で迫害を受け、逆風の中にあっても、不思議な仕方でキリストの復活を信じる人たちが教会へと導かれていくのです。そこには、確かに、聖霊の働きがあります。だから、主イエスは弟子達に「惑わされるな」とおっしゃったのです。

主イエスは「地方法院に引き渡されて、会堂で打ちたたかれても、総督や王の前にたたされることになっても、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。実は、話すのはあなた方ではなく、聖霊なのだ」と断言されました。

実際に、使徒言行録やパウロの手紙を読むと、イエス・キリストを信じたキリスト者の群れ、教会は外から迫害を受け、内からは信仰を惑わす人が現れたりしていたことがわかります。捕らえられたり、差別されたり、多くの人が殺されたりしました。

教会の中にも、「キリストの復活など信じない」と言い出す人や、「もう世界の終わりは来ている」と言って極端な信仰に走る人も出たりしました。

主イエスは、「その時には私を名乗るものが大勢現れて、多くの人を惑わす」とおっしゃっています。自分こそこの世界の救い主であると自分で信じる人が現れるのです。「自分に正義がある、この世界は自分の正義に従わなければならない」という人間が出て、影響力をもった時に、多くの人の血が流されることになります。そのような人は、自分を礼拝するように求めはじめる。 Continue reading

9月12日の説教要旨

マルコによる福音書13:1~2

「イエスは言われた『これらの大きな建物を見ているのか』」(13:2)

主イエスと弟子達が神殿の境内を出て行きながら交わした短い会話です。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんと素晴らしい建物でしょう」と一人の弟子が言ってきました。主イエスは「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とお答えになります。

とても短い、一言ずつのやりとりですが、このやりとりを通して、一つのことがはっきりします。イエス・キリストがご覧になっていたものと、弟子達が見ていたものが全く違っていた、ということです。

主イエスと弟子達はガリラヤ地方からエルサレムを目指して過越祭への巡礼の旅をしてきました。日曜日にエルサレムに入ってから、主イエスの目に、そして弟子達の目には何が映って来たのでしょうか。それぞれ考えてみたいと思います。

主イエスがエルサレムに入られた日曜日、まず行かれたのは、エルサレム神殿でした。その日は神殿の様子を見て回られただけで宿へと戻られました。神殿の様子をご覧になって主イエスが何を思われたのか、何もおっしゃっていません。

しかし、主イエスの神殿に対する思いが、翌日の月曜日に明らかになります。

月曜日に神殿の境内に入られた主イエスは、そこで巡礼者を相手に両替をしたり生贄を売ったりしていた商人たちを追い出され、「あなたがたは祈りの家を強盗の巣にしている」とお怒りになりました。

そしてさらにその翌日の火曜日には、神殿の賽銭箱に銅貨二枚を献金して、全財産を失ったやもめをご覧になります。

私達はこの方が神の子であり、キリストであることを知っています。神の子が、神の家である神殿に入られたのだから、喜ばれるのが本当です。主イエスは、エルサレムに入られてから、一度でも笑われたでしょうか。主イエスが神殿でご覧になって喜べるようなものは見出すことがお出来にならなかったのです。

神殿が神殿でなくなっていた、ということ、単なる立派な建物に成り下がっていることに心を痛めていらっしゃいました。建物が素晴らしい分、祈りがないということ、律法が行われていないということが浮き彫りになっていたのです。

神殿に失望された主イエスに向かって、弟子の一人が言います。「先生、ご覧ください。なんと素晴らしい石、なんと素晴らしい建物でしょう。」

主イエスがおっしゃったのは「これらの大きな建物を見ているのか」という言葉でした。「私とあなたとは見ているものが違う。あなたはただ、建物の立派さに目を奪われているだけだ」というこということです。

弟子達が立派な神殿に目を奪われるのは当然のことだったでしょう。弟子達はガリラヤ出身の、農村地域の人たちです。ガリラヤの町々にはこのような建築物はありません。壮麗な神殿の姿に素朴に感動していたのです。

元々、神殿はソロモンによって造られました。紀元前586年にエルサレム神殿はバビロニア帝国によって破壊されてしまいますが、バビロンでの捕囚生活を生き延びてエルサレムに戻ってきた人たちによって、紀元前515年に神殿は再建されます。エルサレム神殿はイスラエルの信仰の中心であり、イスラエルの象徴そのものでした。

主イエスの時代にはヘロデ大王が始めた更なる神殿の大改修・再建を進められていました。何十年にもわたる大工事で、主イエスの時代になってもまだ終わっていなかったほどです。改修工事の途中であっても、主イエスの時代の人たち、そして弟子達はこの神殿の大きさ、美しさに目を奪われたでしょう。

この時、主イエスと弟子達の間には距離がありました。それぞれ、見ているものが違うのです。今、主イエスは神殿から出て行かれます。そしてもうこの後は、神殿には二度とお入りになることはありません。

この時、主イエスは弟子達に衝撃的な言葉をお聞かせになりました。

「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

この神殿は、跡形もなく徹底的に崩れることになるだろう、という神殿崩壊の預言をされました。主イエスの目に映っていたのは、目の前に立っている立派な神殿の姿ではなく、破壊され、廃墟になってしまった神殿の運命だったのです。

神の家・祈りの家であるはずの神殿は、徹底的に破壊されることになる、という主イエスの神殿崩壊預言は、実際、この40年後の紀元70年に実現することになります。ユダヤ人は、ローマに対して反乱を起こし、結局ローマ軍によって神殿ごと滅ぼされることになります。主イエスの預言は実現するのです。

神殿崩壊の預言は、主イエスの前の預言者たちによってもなされて来ました。例えば、紀元前8世紀に預言者ミカは堕落したエルサレムの指導者たちに向かってこう言っています。「お前たちのゆえに、シオンは耕されて畑になり、エルサレムは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる。」

紀元前6世紀にも預言者エレミヤが神の言葉をエルサレムの人たちに伝えています。 Continue reading

9月5日の説教要旨

マルコ福音書12:38~44

「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(12:40)

主イエスが神殿の境内で群衆に向かって二つのことをおっしゃいました。一つは「なぜ律法学者たちは、メシアのことをダビデの子と呼んでいるのか」という質問です。もう一つは、「律法学者たちの偽善に気をつけなさい」という警告です。

今日私達は、主イエスの律法学者たちの偽善に対する警告の言葉と、実際にそのことによって苦しむ一人のやもめの姿を見ました。律法学者たちは、自分たちでは「自分は正しく律法を実践している」と考えていました。しかしイエス・キリストの目には、そうは映っていませんでした。

信仰者が、信仰の実践の中で陥る落とし穴がここに潜んでいます。律法学者たちの偽善の姿、また神殿でのやもめの姿から学んでいきたいと思います。

律法学者たちの誤った信仰の実践について主イエスは具体的にこうおっしゃっています。

「彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場であいさつされること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。」

もちろん、当時の律法学者が全員そうだった、というわけではないでしょう。律法学者の中にも主イエスの教えを聞いて、「先生、その通りです」と教えを受け入れた人もいました。

しかし、当時は主イエスがおっしゃったような律法学者が多くいたのでしょう。「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と主はおっしゃいます。

私達は福音書を読んでいると、律法学者というのは、悪い人たち・悪意をもった人たちだ、という印象をもってしまいがちです。

しかし、実際はそうではありません。誰かを苦しめようと意図的に悪い行いをしていたわけではありません。誠実に聖書を研究し、神の御心に沿う生き方を真剣に実践しようとしていた人たちです。

しかし、この主イエスの言葉を見ると、多くの律法学者は、自分が神の目にどう映っているか、ということよりも、自分が人の目にどう映っているか、ということに心が向いてしまっていたようです。

自分を大きく見せることに心を奪われてしまい、無意識のうちに偽善がはびこって来て、弱い人たちの姿が目に入らなくなってしまう・・・これが、信仰者が陥る落とし穴ではないでしょうか。

この主イエスの言葉は、信仰者に向けられた、信仰の在り方に対する問いでもあるのです。「あなたの信仰は、どうなのか、人に見せるための信仰になっていないか、弱い者に心は向いているか、見せかけの祈りになっていないか。」

主イエスは、エルサレムに入られる前、誰が神の国に入るのか、ということを弟子達にお教えになった際に、こうおっしゃっています。「先の者が後になり、後の者が先になる」。

エルサレムへの旅の中で弟子達の関心は「誰が一番偉いのだろうか」ということでした。エルサレムに入る直前には、ヤコブとヨハネが抜け駆けして主イエスに「私達二人だけを優遇してください」と願い出たりしました。

そのような弟子達に、主イエスは「あなた方の間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたいものは、全ての人の僕になりなさい」とおっしゃいました。

なぜ主イエスはご自分の弟子達に「全ての人の僕になりなさい」とおっしゃったのでしょうか。イエス・キリストご自身が、「全ての人の僕」として来られたからからです。

キリストの弟子として生きる、ということは、キリストのように生きる、ということです。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」

主イエスの命は、身代金だとご自身でおっしゃいました。そのキリストの弟子達である、ということは、神の御心に従い、神に仕え、人のために命をつかう生き方をしていく、ということなのです。

主イエスは、「神を愛し、隣人を愛する」ということが律法だ、とお教えになりました。神が律法を通してお求めになっているのは、そのことなのです。

律法学者たちの姿は、主イエスの目には律法からかけ離れたものとして映りました。律法学者たちは、主イエスの言葉で言うなら、「先の者」だったはずです。ユダヤ人社会の中で、人々の先頭に立って、律法について聖書についての教えを説き、実践していた人たちでした。しかし、彼らはいつの間にか神の国から遠い生き方をする「後の人」になってしまっていたのです。

長い衣をまとうこと、人から挨拶されること、上席・上座に座ること、長い祈りをすること・・・神に喜んでいただくためではなく、人々から注目と尊敬を集めるための律法になってしまっていたようです。

律法を求めながらも律法から外れてしまったことで、どんな問題が起こっていたのでしょうか。この後、神殿で献金をする一人のやもめが出てきます。

主イエスは、群衆にお語りになった後、賽銭箱に群衆がお金を入れる様子を見ていらっしゃいました。そこは、神殿の中でも「女性の庭」と呼ばれる、たくさんの人が行きかう場所で、13個の賽銭箱が並べられていたそうです。

そこでは「大勢の金持ちがたくさんお金を入れていた」とあります。この賽銭箱にお金を投げ入れる姿は、他の人からも見られることになります。たくさんの献金をする人ほど、注目を浴びるのです。

そのような中で、誰にも注目されない一人の貧しいやもめが献金しようとやって来ました。この人は、レプトン銅貨二枚、本当にわずかな捧げものをしました。ただ彼女は神を愛し、自分が持っているものを心を込めて捧げたのです。この人は、全財産を神殿に献金しました。

主イエスはその姿をご覧になって、弟子達を呼んで「あの女性の姿を見なさい」とおっしゃいました。主イエスがご自分の弟子達に見てほしいと願われたのは、多額の献金をする大勢の金持ちではなく、乏しい中から自分の持っている物・生活費を全部入れたこの女性でした。神のため、隣人のために、ささやかに生きる小さな人でした。

主イエスは「あの女性は誰よりも多く捧げた」とおっしゃいました。「先の者か後の者か」ということでは、この女性は、この世では「一番後の者」でした。しかし、このわずかな捧げものをした女性こそ神の国に最も近い人、「一番先の者」だと主イエスはおっしゃいます。この人こそ、天に宝を摘む人だったのです。主イエスが弟子達に見てほしいと願われたのは、この女性でした。

私達は、間違えてはならないと思います。イエス・キリストは、この女性をご覧になって、「立派な信仰だ」と喜んでいらっしゃるのではないのです。むしろ、お怒りになっていらっしゃいます。

この女性は、全財産を献金しました。つまり、破産した、ということです。わずか銅貨二枚の献金によって。

律法にはこう記されています。

「寡婦や孤児は全て苦しめてならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く」

弱い者を守れ、と律法は言っています。しかし、この弱く貧しい女性は、律法学者たちから見向きもされていのです。神の家・神殿で、破産しました。しかし、誰もそれに気づいていません。

わずか銅貨二枚を神殿に捧げたことで、この女性はもう食べるものも買うことが出来なくなりました。本当は律法学者が、このような弱く貧しいやもめを守らなければならないということを一番知っているはずの人たちです。その女性の周りには、誰もその苦しみに手を差し伸べる人はいませんでした。

40節で主イエスは律法学者たちは「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」とおっしゃっています。この女性の献金の姿に、そのことが現れています。

主イエスが弟子達に「あの女性を見なさい」とおっしゃったのは、「美しい信仰の姿ではないか。あの人を見習いなさい」と言いたかったのではありません。「神殿で、守られなければならない人が守られていない。律法学者たちが律法が求めていることから目を背けている。これで神殿と言えるだろうか」と、弟子達にお見せになるためです。神殿が、祈りの家としての姿を失ってしまっているその有様を弟子達に「見ておきなさい」とおっしゃったのです。

主イエスがエルサレムに入り、神殿に入られてからここまでご覧になったのは、神殿が神殿でなくなっている、という事実でした。弱い女性が神殿で破産するということが起こっている、それこそ、神殿が強盗の巣になっている、ということではないでしょうか。 Continue reading

8月29日の説教要旨

マルコ福音書12:35~37

「ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」(12:37)

主イエスがエルサレムに入られてから、祭司長、律法学者、長老といったユダヤの指導者たちが、律法に関する難しい議論を仕掛けて来ました。ガリラヤからやってきたイエスという律法の教師がエルサレムの人たちの注目を集めていたこと、そして神殿がまるで自分の家であるかのようにふるまっていたことに危機感を覚えたのです。

しかし、この人たちは聖書に関する議論を通してナザレのイエスを言い負かすことは出来ませんでした。それどころか、主イエスがファリサイ派やサドカイ派の人たちの議論に立派にお答えになり、「心を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛する、ということが律法である」とおっしゃったのを聞いて、「先生、あなたがおっしゃっている通りです」と主イエスに聞き従う律法学者まで出て来てしまいました。

もう質問して来る人がいなくなったので、主イエスはそのまま神殿の境内で教えを語られました。群集は喜んで主イエスの言葉に耳を傾けました。

主イエスは、その群衆に向かって、質問をなさいました

「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」

「聖書を見ると、ダビデ本人がメシアに向かって『主よ』と呼びかけている。『私の子よ』、ではなく、『私の主よ』と呼びかけている。それなら、なぜメシアは『ダビデの子』」なのか、という質問です。

律法学者だけでなく、この時代の人々は皆、「あのダビデ王のようなメシアが来る、メシアはダビデの再来である」と信じていました。聖書にそう預言されていたからです。

例えば、エゼキエル書にこういう預言があります。

「私は彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。・・・私は彼らと平和の契約を結ぶ」。

このように、いろんな預言書の中に、「メシアが来る、再びダビデが来る」、という預言が残されていたのです。

そのことから、人々はやがて来るとされているメシアのことを、「ダビデの子」という称号で呼ぶようになり、メシアはダビデの再来として、自分たちを救いだしてくれる、と期待していました。

「なぜ律法学者たちは、メシアをダビデの子と呼んでいるのか」

この質問は、群衆にとって面食らうものだったと思います。

「律法学者がそう呼んでいるのだから、メシアはダビデの子なのだろう、ダビデの再来なのだろう」、人々はそう理解していたのではないでしょうか。しかし、主イエスはあえてそのことを人々に考えさせようとなさいました。当時の人たちにとって当然だったことを、根本から問い直されたのです。

主イエスは、エルサレムへの旅を始める際に、弟子達にも質問されています。

「人々は私のことを何者だと言っているか」

弟子達は、「皆、あなたのことを預言者だと言っています」と答えました。主イエスはさらに弟子達に問われます。「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」

ペトロは弟子達を代表して答えた。「あなたは、メシアです」。

主イエスは、ここで同じことを人々に問いかけていらっしゃいます。

「律法学者を始めとして、あなたがたはメシアのことをダビデの子と呼んでいる。

あなたがたが期待しているダビデの子とは何者なのか。」

人々はダビデが成し遂げたことを自分たちの時代に成し遂げてくれるだろう、と期待していました。

ダビデはサウル王の後イスラエルの指導者になり、先頭に立って戦い、エルサレムをイスラエルの首都に定め、イスラエルを国として築き上げ人です。剣をもち、敵と戦い、イスラエルを導いた英雄でした。イスラエルの人たちにとってダビデという名前は、戦争に勝つ王様のイメージでした。

主イエスの時代の人たちは、「ダビデの子」、と聞くと、ローマ帝国を打ち破る英雄を思い浮かべたでしょう。主イエスの時代、人々はそのように、自分たちの先頭に立って軍を率い、外国の支配からイスラエルを救ってくれる指導者であるメシアを待っていたのです。

その人々の期待に対して、主イエスは、「あなたたちが考えているダビデの子は、本当にそのような、戦争を指導する救い主なのだろうか」と問われるのです。

人々は、「このイエスという人こそ、ダビデの子ではないか」という期待を抱いていました。エリコの町で、バルティマイという目の見えない人が、主イエスに向かって「ダビデの子」と叫び、その信仰に応えて主イエスがその人の目を癒されたのを見ました。

エルサレムに入る際には、ガリラヤからの群衆が主イエスを前後から「我らの父ダビデの鍛えるべき国に、祝福があるように。いと高き所にホサナ」と叫びました。

「この方こそダビデの子なのではないか」という強い期待をもって、群衆はこの方のおっしゃることに耳を傾けていたのだ。

確かに、主イエスはダビデの子、メシアでした。聖書はそのことを証ししているし、私達もこの方のことを、メシア、つまりキリストであると信じています。

しかし、大切なことは、「それでは主イエスはどのようなダビデの子・キリストなのか」、ということなのです。人々が期待していたように、軍馬に乗って軍隊を指揮し、敵を倒すメシア・ダビデなのでしょうか。

主イエスのお姿は、むしろ、逆でした。馬ではなく、子ロバにのってエルサレムに入られました。強く、威厳のある王としてではなく、柔和で謙遜で平和な王としてエルサレムに入って来られました。そもそも、主イエスは弟子達に、「私はエルサレムで殺されることになっている」とおっしゃっています。主イエスの使命は、人々を戦争へと駆り立て、その先頭に立つ、ということではなかったのです。

主イエスの弟子達への問い、また群衆への問いは、今、聖書を読んでいる私達への問いかけです。私達は、自分勝手な期待を、自分に都合のいい期待を主イエスに対して持っていないでしょうか。

「あなたがたは私にどのような救いを期待しているのか」と問われています。

もしイエス・キリストが、自分が欲しいもの・自分に都合のいいものをくださる救い主であれば、信じることは簡単でしょう。信じたらすぐにいいことがたくさん起こって、自分の人生に問題が何もなくなる、というのであれば、誰でもキリストをすぐに信じるでしょう。

しかし、イエス・キリストを信じて従う・信じて従い続ける、ということは、そんなに簡単なことではありません。キリストに従う、ということは、ご利益がたくさんもらえる、ということではないのです。「私に従う者は自分の十字架を背負って私に従いなさい」と主はおっしゃいました。キリストに従うということは、キリストの十字架の御業に加わる、ということなのです。

私達は本当に主イエスがもたらしてくださった救いを正しく見据えることが出来ているでしょうか。そもそも聖書には、ダビデの子について、どのように預言されているでしょうか。

エゼキエル書34章で、神はこうおっしゃっている。

「見よ、私は自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊が散り散りになっている時に、その群れを探すように。私は自分の羊を探す。」 Continue reading

8月22日の説教要旨

マルコ福音書12:28~34

「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた」(12:34)

神殿の境内で、主イエスはファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派の人たちから議論を仕掛けられました。

「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているかどうか」

「世の終わりの復活は本当にあるのか。もし復活があると言うのなら、世の終わりにこんな困ったことになるのではないか」

主イエスは皇帝への税金に関しても、復活の信仰に関しても、明確に聖書に基づいてお答えになりました。「立派にお答えになった」のを見て、一人の律法学者が質問をして来ます。

この人は、ファリサイ派やサドカイ派の人たちのように、主イエスを陥れようとしたのではありません。これまでのファリサイ派、サドカイ派の人たちとの議論を聞いて、「この方こそ神の言葉・律法を最もよく知る方ではないか」、と思い、期待して質問をしたのです。

「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」

これだけたくさんある聖書の言葉の内、一番大事な言葉はどれか、一言でまとめると聖書は我々に何を求めているのか、という質問です。これだけたくさんある神の教えの中から、一番大切なものを一つ抜き出すということは困難なことのように思えます。しかし、これは難しい質問のように見えて、実は一番初歩的なものではないでしょうか。

私達もこのような質問を受けることがあると思います。イエス・キリストことを全く知らない人であれば、「聖書はどんなことが書かれているのですか」とか「イエス・キリストは、一言で言うと、どのような人物のですか」と尋ねるでしょう。それを考えると、この人の質問は、律法に関する最も初歩的なものだと言っていいと思います。

しかし、ここで面白いのは、そのような初歩的な質問を律法の専門家である律法学者が主イエスに尋ねた、ということです。一体なぜ、この人は、主イエスにこのようなことを聞いたのでしょうか。

考えられるのは、この律法学者は、日々聖書を研究する中で、聖書の本質がだんだん見えなくなっていたのではないか、ということです。一所懸命に律法に向き合い、律法の奥深さを知れば知るほど、逆に真理が見えづらくなってしまった。それで改めて、ファリサイ派やサドカイ派の人たちからの律法に関する難題に立派にお答えになった主イエスに聞いてみよう、と思ったのではないでしょうか。

恐らく、この人は、恥を忍んでこの質問をしたのではないでしょうか。自分の渇きを抱えて、律法の原点についてイエスというガリラヤの教師に尋ねたのでしょう。

主イエスのお答えは、こうでした。

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、私達の神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」

これは申命記6:4~5の言葉で、当時のユダヤ人たちは、毎日この言葉を暗唱して祈っていました。「どれが第一の掟ですか」という質問をされると、おそらく多くの人がこの申命記の言葉を答えたのではないでしょうか。これを聞いて、律法学者は、「やはり、この人もそう思うのだな」、と納得したと思います。

しかし、主イエスは「第二の掟はこれである」と続けられました。「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つに勝る掟は他にない」

主イエスは一つのことを聞かれて、二つのことを答えとされました。律法学者の、「どれが第一でしょうか」という質問に対して、主イエスは「第一の掟は、これで、第二の掟はこれである」、こういう答え方をなさったのです。

「心を尽くして神を愛しなさい」という第一の掟と、「隣人を自分のように愛しなさい」という第二の掟と切り離せない、ということです。この二つの掟は、二つで一つなのです。

「神を愛する」ということと「隣人を愛する」ということは、一体なのです。主イエスが律法学者にお示しになった大きな真理はこれでした。心を尽くして神を愛しても、隣人を自分のように愛することがなければ聖書が求めていることを実践しているとは言えません。逆に、隣人を自分のように愛しても、心を尽くして神を愛することが無ければ、律法を満たしているとは言えません。

律法学者は、主イエスの答えを聞いて、感動しました。そしてすぐに主イエスがおっしゃったことを受け入れました。

「先生は、おっしゃる通りです。『神は唯一である。他に神はない』とおっしゃったのは本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす捧げものやいけにえよりも優れています。」

この人は、神への捧げものとは何か、神への生贄とは何か、ということを日々考え、行き詰って悩んでいたのかもしれません。主イエスの答えは、律法学者の心に光を差し込んだようです。神を愛することと隣人を愛することは一つである、ということが聖書の第一の掟である、と知って、彼の心は晴れました。

律法学者が尋ねた質問は、難しいようでいて、実は難しくない質問だったと思います。聖書の教えというのは、十戒に集約されているのです。十戒は文字通り、十の戒めです。初めの4つは、神を愛するための戒めであり、残りの6つは、隣人を愛するための戒めです。

主イエスの答えは、十戒を単純にまとめたものでした。その当時誰も知らなかった、真新しい教えではありません。むしろ、人々の方が、聖書の一番核になる教えを見失いかけていた、ということでしょう。

私達は、主イエスがお答えになった大切な掟の内容そのものよりも、律法学者がなぜこれほどまでに驚き、感動したのか、ということに注意を向けたいと思います。

律法学者が主イエスの答えを聞いて、これだけ驚いた、ということは、日々聖書を研究していた律法学者でさえ、聖書の本質を見失うことがある、ということです。神が私達にお求めになっていることは、本当は複雑なことではありません。律法学者のように、聖書の専門家でなければ理解できないようなことではないのです。

神が私達にお求めになっているのは、神を愛し、隣人を愛するということです。これだけです。単純なことです。しかし、こんな簡単なことを我々はすぐに忘れてしまうのです。

教会の中でもすぐにそういうことは起こります。ヤコブの手紙にこういう言葉があります。

「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなた方は罪を犯すことになり、律法によって、違反者と断定されます。」

このようなことを書いている手紙が残っている、ということは、教会の中で、神への信仰はもっているが、隣人への愛は実践できていなかった、という状況があった、ということでしょう。

主イエスがおっしゃっているのと同じことをパウロも書いています。

「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すね、盗むな、むさぼるな』そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするのです。」(ロマ13:8~10)

私達はなぜ、「神を愛し、隣人を愛する」という単純なことをすぐ忘れてしまうでしょうか。「愛する」ということが難しいからです。いつも、自分だけを愛そうとするからです。神に・隣人に心を向けさせないようにする力が私達に働いています。聖書はその悪しき力を「罪」と呼んで、その働きについて教えてくれています。

「罪」という力がなぜ恐ろしいのかというと、自分だけを愛するように人を仕向けて、神への愛を、隣人への愛を破壊するからです。自分だけを愛させる力、それが罪の力だ。

福音書を読んでいると、主イエスは、律法学者やファリサイ派やサドカイ派の人たちとは仲が悪かったような印象を持ちがちです。しかし、実際は理由もなく敵対していたわけではありません。。それぞれが、律法のことを、聖書のことを真剣に捉えていたからこそ、真剣な議論になっていたのです。

ここを読んでわかるのは、イエス・キリストなしでは、人は迷う、ということです。律法学者も、とてもまっすぐに神の国を求め、神の言葉に従おうとしていたのです。しかし、熱心に研究していた学者であっても、律法の中心が何かわからなくなってしまっていました。

キリストに出会って、この律法学者は変えられたでしょう。この人がこの後イエス・キリストの弟子となったかどうかはわかりません。しかし、自分が向き合う律法とは何なのか、何のための言葉なのかを知って、新しい信仰の姿勢で聖書に向き合い始めたことは間違いありません。

主イエスは律法学者の喜びの言葉を聞いて、「あなたは、神の国から遠くない」とおっしゃっいました。そして、そのやり取りを周りで聞いていた人たちの中に、「もはや、あえて質問する者はなかった」とあります。この律法学者だけでなく、周りで見ていた人たち、主イエスを危険視した人さえも、イエス・キリストを通して、神が何を自分たちにお求めであるか、ということをはっきりと知りました。

質問する人がいなくなった、ということは、皆、はっきりと道が見えた、ということでしょう。はっきりと、自分のあり方、生き方を知った、ということです。イエス・キリストとの出会いは、このように人を変えていくのです。

キリストに出会う、ということは、道を見出す、ということです。ヨハネ福音書で主イエスはおっしゃっています。

「私は、道であり、真理であり、命である」

神を愛し、隣人を愛するというこの単純な真理に生きる、ということが私達に課された信仰の戦いでしょう。聖書の言葉を武器にして罪の誘惑と戦っています。

主イエスがここで律法学者におっしゃっているように、人は、神への愛・隣人への愛に生きることから、神の国に生きることが始まるのです。

8月15日の説教要旨

マルコ福音書12:18~27

「神は死んだ者の神で反買う、生きている者の神なのだ」(12:27)

神殿の境内での出来事の記述が続きます。

ファリサイ派とヘロデ派の人たちは、主イエスを罠にかけることに失敗しました。「皇帝に税金を納めることは、律法に適っているかどうか」という難しい質問で言葉尻を捕えようとしました、主イエスから「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われ、彼らは何も言い返せませんでした。

次に出てきたのは、サドカイ派でした。福音書を読んでいると、ファリサイ派とか、サドカイ派とかヘロデ派など、何々派という言葉がよく出てきます。当時は、同じユダヤ教でも聖書の理解が違ったり、政治姿勢が違ったりしてたくさんの派閥があったのです。

今日私達が読んだところには、「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスの所へきて尋ねた」と記されています。

サドカイ派の人たちは、は世の終わりに起こるとされている「復活」を信じない人たちでした。

サドカイ派は、「モーセ五書」と呼ばれる、旧約聖書の最初の五つの書物、つまり、創世記から申命記までの五つの書だけを信仰の基準としていました。モーセ5書の中には「復活」に関する信仰は書かれていません。書かれているのは、「預言書」です。そのため、、サドカイ派の人たちは、世の終わりに人間が神によって復活させられる、ということは信じていなかったのです。

ファリサイ派の人たちは、「預言書」も信仰の基準としていたので、復活を信じていました。ファリサイ派とヘロデ派の人たちが、イエスを言い負かすことが出来なかったと聞いて、サドカイ派の人たちは、「よし、それでは自分たちがイエスを言い負かしてやろう」と意気込んだのでしょう。主イエスの下にやって来て「復活」に関する議論を持ち出しました。

主イエスに質問して言い負かし、同時に、ファリサイ派の人たちが信じていた「復活」の信仰も否定しようとしたのでしょう。

さて、その質問の内容です。サドカイ派の人たちは「もし終わりの日に復活が本当に起こるのであれば、こんな困ったことになるのではないですか」、と言ってきました。

申命記25章に記されている規定を持ち出してきました。そこには、男性が子供を残さずに死んだなら、その妻は、夫の兄弟の妻となり、家の名前を残していかなければならない、ということが記されています。

「もし、男性とその兄弟が次々に死んでしまう、ということになると、一人の女性が複数の夫に次々に嫁ぐ、と言うことになる。それでは、世の終わりに復活した時に、その女性にとって一体だれが自分の夫になるのか」という質問です。

これは素朴な疑問だと思います。サドカイ派の人たちの言うことは筋が通っています。確かに、そのようにして一人の女性が夫の死と共に夫の兄弟に嫁ぐということになれば、復活の時には、自分は誰の妻になるのか、自分の夫は誰なのか、ということになるでしょう。「だから、世の終わりに復活などということが起こることはおかしいですよね」、と言うのです。

このサドカイ派の質問は、私達にとっても興味深いものではないでしょうか。私達キリスト教会は、イエス・キリストの復活を信じています。パウロは、「イエス・キリストは復活の初穂です」と言っています。つまり、私達自身にも、キリストに起こった復活が与えられる、と聖書は伝えているのです。実際私達は、礼拝ごとに使徒信条の中で「我は死人の蘇りを信ず」と告白しています。

復活は、キリスト教信仰の中心です。信仰者にとって、復活の信仰は、肉体の死を超えたところにある究極の希望です。

しかし、私達は、実際に自分の目でキリストの復活を目撃したわけではありません。誰かが墓の中から出てくるのを見たこともありません。

だから思うのです。「キリストは世の終わりに復活を約束してくださっているが、それは一体どのようなものなのだろうか。」復活というのは、我々にとって信仰の中心であり、希望であると同時に、一番の謎でもあります。

世の終わりに自分が墓の中で名前を呼ばれた時、一体、何が起こるのか。

自分はどのように復活するのか。

復活した後に与えられる永遠の命とはどのようなものなのか。

私達にとって、このサドカイ派の質問で示された復活に関する疑問は、誰もが、素朴に感じていることでもあるのです。

主イエスがサドカイ派に対してまずおっしゃったのは、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」という言葉でした。サドカイ派の人たちが「世の終わりの復活の際にはこんな問題が起こるのではないか」と考えるのは、聖書も神の力もわかっていないからだ、とおっしゃるのです。

「聖書も神の力も知らない」とはどういうことなのでしょうか。それはつまり、人間の知恵で、知識で全て考えようとしている、ということでしょう。聖書の言葉は、神の言葉です。私達人間が、自分の力では知ることが出来ないことを、神がお教えくださった、その神の教えが記されています。聖書には、我々が知りえないことが書かれているのです。これは聖書の言葉について考える際に、とても大切な前提だ。

サドカイ派の人たちのは、この世の終わりの復活を、今の自分たちの生活の延長として捉えています。復活の神秘を、自分たちの常識で捉え、復活の命を、今の生活の延長だと決めつけて考えています。

主イエスは彼らにおっしゃいました。「死者の中から復活する時には、めとることもなく嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」私達の今の生活とは全く違う世界、違う命になる、ということです。 Continue reading

8月1日の説教要旨

マルコ福音書12:13~18

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(12:17)

ユダヤの指導者たちは、ナザレからやって来たイエスという人をなんとか捕えようと、考えました。人々から褒め称えられながらエルサレムに入場してきたり、神殿の境内から商人を追い出して人々に教えを説いたりして、過越祭のエルサレムでやってほしくないことをしていたからです。

過越祭に巡礼に来ている人たちを刺激してほしくないし、ローマから目を付けられるようなこともしてほしくない。一番いいのは、このイエスという人を自分たちで捕らえてしまう、ということでした。

彼らは、なんとかしてナザレのイエスの捕えるための罠を考え出しました。それは、一つの質問でした。「皇帝に税を納めるのは、律法にかなっているかどうか」

少し、この質問の背景を踏まえておきます。彼らが聞いてきた「皇帝への税金」とは何か、ということです。

主イエスの時代、ユダヤ地方はヘロデ・アルケラオという領主によって治められていました。ヘロデ・アルケラオの父親は、主イエスがお生まれになった際、メシアの誕生を恐れ、ベツレヘムの地方の2歳以下の男の子を殺させた、あのヘロデ王です。

ヘロデ大王の死後、ヘロデ大王が支配していた地域は、三人の息子たちに分割されて統治されました。その一人が、ヘロデ・アルケラオで、彼はユダヤ地方の領主となったのです。

ローマ皇帝はヘロデ・アルケラオが領主として治めるユダヤ地方の人たちに税を課しました。それは人頭税だった。

人頭税というのは、文字通り「一人頭いくら」、という風に、無条件に課される直接税です。この人頭税は、ユダヤ地方に住むユダヤ人たちにとっては屈辱的なものでした。自分たちの国を占領している外国の王に、ただそこに住んでいるだけで税金を払わなければなりません。ローマ皇帝はユダヤ地方の人たちにとって異邦人・異教徒の王なのです。

実際、歴史を見ると、紀元6年にローマに対する暴動が起こっている。その暴動からまだ二十年ちょっとしか時間が経っていません。このユダヤ人に課せられていたローマへの人頭税が、ローマ帝国に対する火種となっていました。

このような中で、「皇帝に納める税金は律法に適っているか、適っていないか」と尋ねる、ということは、「ローマ皇帝と神と、どちらがあなたにとって大事か」、と公に尋ねるようなものです。

この質問をするために、ファリサイ派とヘロデ派の数人が主イエスの元に遣わされた、とある。

ファリサイ派は、神の律法を厳しく守り、実践していた人たちです。彼らはローマ皇帝への税金に対しては否定的だったでしょう。

ヘロデ派というのは、ユダヤ地方を支配していた、ヘロデ王家の政治の支持者たちです。彼らは、ヘロデ王家の政治を維持するためには、皇帝への税金はやむを得ないと考えていたでしょう。

そのような、それぞれの考えを持つファリサイ派とヘロデ派の人たちが一緒にやって来て主イエスに向かって質問したのです。

「先生、我々はあなた真実な方で、誰をもはばからない方であることを知っています」

主イエスが言い逃れ出来ないように、彼らはへつらいながら、ローマ皇帝への税金は神の律法に照らし合わせて、納めるべきか、納めてはならないのかをはっきり教えてほしい、と言ってきました。

これは聖書に書かれているように、主イエスの「言葉尻を捕えて陥れるため」に、律法の専門家が考えた質問です。主イエスがどう答えても、不利な立場になってしまうよう、よく練られています。

もし主イエスが「皇帝に納める税金は律法に適っている」と言えば、それを聞いていた人たちは、「イエスは神よりもローマ皇帝を選ぶのか」、と思い、主イエスはユダヤの人々からの支持を失ってしまいます。

もし「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っていない、納めるべきではない」、と言えば、ローマの兵士たちから反乱分子として危険視されることになります。

これに対して、主イエスはどう対応されたでしょうか。主イエスは、「皇帝に納税すべきだ」とも「皇帝に納税すべきではない」ともおっしゃいませんでした。

主イエスがまずおっしゃったのは、「デナリオン銀貨を見せなさい」ということでした。デナリオン銀貨は、ローマへの人頭税を支払うために用いられた硬貨です。

その銀貨には、皇帝の肖像が刻まれており、そして皇帝の像と一緒に「神の子」という称号も銘打たれていました。

当時のユダヤ人の人たちにとって、ローマ皇帝・異教徒の王様を「神の子」と讃えているデナリオン銀貨を用いることは屈辱でしたので、ささやかな抵抗として、日常ではデナリオン銀貨ではなく、皇帝の像が刻まれていない銅貨を用いていました。

主イエスはガリラヤ地方の人でしたから、ユダヤ地方の人のように人頭税を払う必要はありません。デナリオン銀貨を持ち歩く必要はなく、この時もお持ちではありませんでした。だから、「デナリオン銀貨を見せなさい」とおっしゃったのです。

しかし、「皇帝への税金は神の律法に適っているか」と聞いてきたファリサイ派とヘロデ派の人たちは、皇帝を「神の子」と讃えている銀貨を持っていたのです。

何気ないやりとりだが、これはとても大事な意味を持っています。このことで、ファリサイ派・ヘロデ派の人たちの下心は丸裸にされてしまいました。周りで見ていた人たちから、「なんだ、あの人たちは皇帝の像が刻まれた銀貨を持ち歩いているのか」と見られたでしょう。

彼らは主イエスから「(君たちが常日頃から持ち歩いている)これは誰の肖像と銘か」と聞かれました。彼らは「肖像と銘」を聞かれましたが、「皇帝のものです」と肖像についてだけ答えています。皇帝のことを「神の子」と讃えている銘については答えていません。恥ずかしかったのでしょう。せめて、皇帝を「神の子」と呼ぶことは控えました

主イエスは、ここまでおっしゃると、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と一言おっしゃって、このやり取りを終えられました。

さて、我々は、この主イエスの言葉を聞いてどう思うでしょうか。ファリサイ派とヘロデ派の人たちに、皇帝への納税が律法に適っているか、適っていないか、はっきり白黒つける答え方はされませんでした。ローマ皇帝のみか、神のみか、というような答えをされなかったのです。

神の子イエス・キリストであれば、「この世の王ではなく、ただ神のみに従いなさい。ローマ皇帝に税金など納めなくてもいい」とおっしゃってもおかしくなかったと思います。しかし、主イエスは、信仰生活とこの世での日常生活を全く分けて考えてはいらっしゃらないのです。

この主イエスの言葉は、この世で信仰生活をしている私達にとって、とても大切な指針を示していると思います。私達は、「信仰生活の中で、どうすれば神に従うことができるのか」、ということを考えます。信仰における義務と、この世で生きていくための義務を、相容れないもの・相反するものとして考えてしまうことはないでしょうか。

そのように突き詰めていくと、「神に従う、ということは、この世の誰にも従わない、ということではないか。自分が生きている社会の中で神だけを見て、社会の秩序には従わない、ということではないか」という極端な考えに流れてしまいます。こうなると、「神に従う、キリストに従う」、ということが「人とは関わらない」ということになりかねなません。

新約聖書のヤコブの手紙の中に、こういう言葉があります。

「私の兄弟たち、自分は信仰を持っているという者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。」

神への義務を果たしても、隣人に対しては何もしない、となるとその信仰は本末転倒でしょう。神はお喜びになりません。

主イエスの言葉は、信仰者としての在り方と、この世の社会に生きる、一人の社会人としての在り方を矛盾するものとして捉えられていません。 Continue reading